秦野・松田・足柄旅行記(ブログ) 一覧に戻る
國府津-静岡間は、明治22年(1889年)2月1日に開通したが、該区間に於いて最も建設困難とされたのは山北-小山(現 駿河小山)間だった。<br /><br /><br />現在の東海道本線に相当する横濱-京阪神間連絡鉄道建設測量は、既に、箱根地区を除き、明治19年(1886年)12月までに完了したが、然し、山北-御殿場間路線選定のみ10数回に渡り測量を実施したが、具体的結論を得る事が適わず、工部省鐵道建設担当技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)5月25日~昭和2年(1927年)1月23日)は、測量を反復進行させつつ、結果すら見い出せぬ現状に、日々悶々焦慮の色を隠せなかった。<br /><br />例えば、小田原、及び、三島は、鉄道敷設に対し、地元の鉄道建設反対運動の為に、内閣鐵道局が現行経路を設定したかの如く伝えられ、所謂、鉄道忌避伝説を挙げる見解が有力視されているが、当時の資料を精査する限り、小田原、三島共に鉄道通過停車場設置に対し好意的であり、此れを受け、原口が実地測量を実施したが、該経路設定では、箱根外輪山に長大隧道建設工事を絶対必要とし、当時の我が国の土木技術では工事困難と判定され、該案は不採用と決定されたのが、けだし真相である。<br /><br />原口は、建設可能地の是非を巡り、周囲には内秘に休暇を取り箱根方面を探索中、箱根塔ノ沢温泉福住楼旅館に投宿した際に、主人の酒話から酒匂川上流域沿に御殿場に到る通過可能な軽道が存在する事を知り、直ちに測量の結果、該地に鉄道建設が可能と判定され、井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)内閣鐵道長官(明治18年(1885年)12月28日~明治23年(1890年)9月6日在任)に対し、該地が建設可能たる事を復命後、明治20年(1887年)9月に山北-御殿場間建設経路が確定した。<br /><br />起点たる山北は江戸中期まで、酒匂川中下流域河川敷に存在する水田が拡がる農村だった。<br />然るに、宝永元年(1704年)、及び、宝永2年(1705年)に、該河川川身に変化を生じさせた程の大水害が発生し、更に、追討ちを掛けるが如く、宝永4年(1707年)12月16日に富士山が大爆発を起こし、火山灰が約3.6mも堆積した事から、山北村全域が埋没し、その後は泥土に覆れた湿地帯と化していた。<br /><br />該区間19.6km建設工事区間中、隧道8箇所、橋梁22箇所の構築を要し、殊に、酒匂川(さかわがわ)橋梁群設置工事は、段丘中腹部に架橋を要した事から、高位置に対する橋台、橋脚設置工事は難工事だった。<br /><br />因みに、横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月11日に開通したが、該区間建設時、程ヶ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間に所在する清水谷戸(しみずやと)隧道、横須賀線内隧道群は、坑門、及び、隧道内部に至るまで煉瓦積構築様式で建設されたのに対し、山北-沼津間建設では、隧道坑門、隧道内部構築は勿論、橋梁橋台、橋脚に至るまで、何故か煉瓦使用は極めて僅少であり、殆どの構築物に於いて石積構築様式である。<br />此れは飽くまで推定だが、山北-沼津間沿線付近には、根府川、真鶴、伊豆等々の良質建築用石材産出地が存在する事から、敢えて高価な煉瓦使用をせず、安価な石材使用に踏み切ったのでは無いかと思われる。<br /><br />橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計の英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製錬鐡製ダブルワーレントラス構桁61.0m(200ft)が大量生産され、該区間外使用例では、富士川、大井川、天竜川、木曾川、長良川、及び、揖斐川に於いて架橋されたが、該橋桁の特長は門背が低位地に存在する事から、此の為に、建築限界狭隘が原因で、後年、機関車の大型化に非対応と判定され、明治後期には架替対象とせざるを得なくなり、東海道本線に於ける橋桁使用期は短期間だった。<br />現在では、初代揖斐川橋梁が内務省管理を経て現在は現地に於いて自動車道路橋に転用され、更に、大正7年(1918年)に初代天竜川橋梁構桁1連が小田原電気鐵道に払下げられ、箱根登山鉄道早川出山橋梁として架橋され現役使用されている。<br /><br />然も、山北-御殿場間は、途中、R400の連続急曲線が存在し、谷峨-足柄間は25‰、及び、登り急勾配が点在する事から、旅客や乗務員にとって該区間下り列車乗車は登攀の為に焦熱猛煙地獄を覚悟しなければならなかった。<br /><br /><br />國府津-静岡間は、明治22年(1889年)2月1日に開通した。<br /><br />然し、開業当日夜半3時頃、御殿場村住人某宅の残火不始末が原因で出火し、折からの冬季強風に煽られ、該村内約120戸が全焼する火災が発生した。<br /><br />該火災で新築した該駅本屋、及び、該構内施設は無事だったが、当日午前中に開催予定だった開業式典は急遽中止となり、該開業式典出席者用に用意されていた折詰弁当、紅白饅頭、日本酒、及び、一般者への餅撒用祝餅は該火災被災者達に供与された。<br /><br />因みに、該開通区間終点駅たる静岡町も当日同時刻に一番町焼芋販売業宅から出火し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生している。<br />要するに、國府津-静岡間開通当日は、御殿場、静岡に於いて大火が発生したと言ふ、関係者にとって意気上がらぬ幸先不幸な門出だった。<br /><br /><br />國府津-静岡間開通時に、山北-御殿場間に於ける途中停車場は小山(現 駿河小山)1箇所が設置されたに過ぎなかった。<br /><br />該区間に投入された蒸気機関車は、工部省鐵道局が明治14年(1881年)に発注した英キットソン(KITSON&Co)社製1800型、及び、英デュープス(DUPS)社製1850型C型タンク式蒸気機関車で、該機関車は小型で、且つ、小出力だった事から牽引力登攀力共に劣り、山北から御殿場に至る25‰登り勾配が連続し、御殿場-佐野(現 裾野)間と共に、慢性的列車遅延区間の最たる箇所と化した。<br /><br /><br />大正中期までに客車に対して真空制動が整備されたが、必ずしも制動効果が良い存在では無く、貨車に至っては真空制動使用末期まで全車輌に貫通型が設置される事は無く、常に暴走の危険と隣り合わせだった。<br />大正末期に現在の空気制動が開発され昭和5年(1930年)に全車輌に設置完了まで、御殿場駅では貨物列車では機関車の後部に真空制動のシリンダー設置の車輌を連結し未設置の車輌は車掌が全車輌のハンドブレーキ締めて回っていた。<br /><br /><br />開通2年後の、明治24年(1891年)1月某日、現在の足柄駅付近に於いて機関車煙突から排出された火粉が原因と推定される火災が発生し、宝鏡寺本堂をはじめ、付近一帯が全焼する被害が発生した。<br /><br /><br />鐵道唱歌は、明治33年(1900年)5月1日に初版本が東京では無く大阪で出版発売されたが、<br /><br />第13番<br />いでてはくぐるトンネルの<br />(いでては くぐる トンネルの)<br />前後は山北小山驛<br />(ぜんごは やまきた おやまえき)<br />今も忘れぬ鐡橋の<br />(いまも わすれぬ てっきょうの)<br />下ゆく水のおもしろさ♪<br />(したゆく みずの おもしろさ)<br /><br />第14番<br />はるかにみえし富士の嶺は<br />(はるかに みえし ふじのねは)<br />はや我そばに来りけり<br />(はやわがそばに きたりけり)<br />雪の冠 雲の帯<br />(ゆきのかんむり くものおび)<br />いつもけだかき姿にて♪<br />(いつも けだかき すがたにて)<br /><br />と唄われ、歌詞内容から、第13番が谷峨付近、第14番は足柄付近の情景を描写したものと推定される。<br /><br /><br />山北-小山(現 駿河小山)間は、明治34年(1901年)6月11日に複線化されたが、該区間は、酒匂川上流域、及び、該河川支流鮎澤川(あゆざわがわ)流域に面した段丘中腹部に路線を設置した事は前述したが、その為に、増線用余地など殆ど存在し無に均しく、複線化工事は困難を極めた。<br /><br />該区間開通時は隧道建設を可能な限り忌避した事から、第1相澤川橋梁から鮎澤川左岸を通過し、第2相澤川橋梁を経た鮎澤川横断を2度架橋通過したが、約10年間に於ける鉄道建設技術は進歩を遂げ、増線部分では、該河川右岸に第6甲号箱根、及び、第6乙号箱根と称する隧道2箇所を設置する形態に改められ、此の時点で従来線は上り専用になった。<br /><br /><br />明治期は、我が国の近現代に於ける記録的大型台風襲来が少なくなかった。<br />即ち、当時の天気予報に拠る事前通報業務は存在せず、且つ、河川護岸工事未着工だった所が殆どだった事から、被害が殊更大きくなった。<br />その為に、暴風雨襲来の都度、山北-小山(現 駿河小山)間への被害が発生した、<br /><br />明治29年(1896年) 9月11日<br />該大型台風は中部地方上陸後、関東東北を通過した事から被害地域が拡大し、該台風被害は弘化3年(1846年)年6月連続集中豪雨以来、51年振りの大被害をもたらした。<br />全国での死者344名。<br />富士川が増水し、最大水位が3.3m上昇したが、東海道本線鈴川(現 吉原)-岩淵(現 富士川)間の富士川橋梁が損傷もせず無事だったのは意外の感あり。<br />山北-小山(現 駿河小山)間数日間不通。<br /><br />明治30年(1897年)10月 3日<br />大暴風の為に、山北-小山(現 駿河小山)間に於いて数箇所の築堤崩壊が発生し、該復旧工事の為に、組成された臨時工事列車運転中に、築堤崩壊箇所を通過した事から、該列車機関車1両、土運車6両が築堤下に脱線転覆し、該列車便乗中の作業員8名死亡、17名重軽傷。<br />該区間仮復旧は、同月6日。<br /><br />明治31年(1898年) 9月 6日<br />台風襲来に依り、山北-御殿場間数日間不通。<br /><br />明治40年(1907年) 8月24日<br />大型台風が中部地方に上陸後、関東を経て北海道に亙り被害を発生させ、該台風を含め、明治29年(1896年)9月台風、及び、明治43年(1910年)8月台風をして、明治3大台風と称する。<br />俗に、箱根大水害とも称され、神奈川県西部地域に存在する酒匂川、及び、早川が増水氾濫し、特に、箱根塔ノ沢温泉福住楼では建物全体が山津波の為に早川に押流され、宿泊客全員が行方不明となる。<br />全国での死者768名、行方不明者78名。<br />山北-谷峨間に於いて、築堤崩壊、及び、第1酒匂川橋梁橋脚が流失した事から該橋梁構桁が落橋した事から、同月27日より9月8日迄、山北-小山(現 駿河小山)間は徒歩連絡を余儀無くされた。<br />同月8日に第1酒匂川橋梁をプレートガーダー橋桁を使用し単線仮復旧が完了した事から、該区間が単線運転が可能になり、同月19日に谷峨に上下線渡り線用分岐器が設置され、該日以降は、単線運転が山北-谷峨間に短縮された。<br />上り線開通は、同年10月2日になったが、該水害に鑑み、帝國鐵道庁は、水害の都度、不通になる事態を憂慮し、別線設置計画、即ち、丹那隧道建設を検討決意させた。<br /><br />明治43年(1910年) 8月11日、及び、13日<br />関東地方に記録的超大型台風2個が間を空けず連続して上陸通過襲来した。<br />第1の台風は、同月11日22時頃に、東京府三宅島付近に上陸後、関東地方を通過した。<br />第2の台風は、翌々日13日22時頃に、静岡県御前崎付近を経て、同県沼津付近に上陸後、関東地方を直撃した。<br />両台風影響に依る降雨量は、観測史上最大値を記録し、此の為に、関東各府県に於いて、大中小河川が軒並み堤防決壊が発生した事から、各地に於いて大洪水状態となり、更に、大規模土石流が発生した事から、埼玉県323名を筆頭に、関東各府県に於いて921名、全国各府県に於いて計1557名の死者、行方不明者を発生させた。<br />此の当時は、河川に護岸工事が施工された箇所は殆ど存在せず、且つ、ラジオ放送も無く、殆どの住民達は記録的超大型台風が連続接近している事実すら知る由も無く、此の為に、風水害被害としては、天明3年(1783年)4月の浅間山大噴火に依る大洪水被害以来とされ、近現代最大被害発生を齎した存在として記録されている。<br />山北-御殿場間が数日間不通。<br /><br /><br />日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月10日~明治38年(1905年)9月5日)は、我が国 対 ロシア帝國間に於いて、朝鮮半島に於ける権益を巡る対立から戦争に発展したものである。<br /><br />該戦争開戦以前に於ける我が国対欧州各国間移動手段は、船舶航路利用以外、往還は無に等しい状態だった。<br /><br />該戦争は我が国側が辛勝状態に在った時点で、中立国アメリカの仲介に依り、明治38年(1905年)9月5日に米ボーツマスに於いて、日露講和条約が締結されたが、該条約付帯条項に、我が国からロシア帝國領内シベリア鉄道経由で、欧州各国間連絡が可能になるべく、ロシア帝國が欧州関係各国に対し斡旋する旨が盛込まれていた。<br />該条項を根拠に、明治43年(1910年)にベルギーの首都ブリュッセルに於いて国際鉄道会議が開催され、我が国の鐵道院は、欧州関係各国間と欧亜鐵道連絡協定を調印成立させ、該協定に基き、翌明治44年(1911年)3月1日より、新橋、平沼(横濱)、名古屋、京都、大阪、神戸、下関、門司、及び、長崎各駅発着 対 欧州指定各駅相互発着間国際連絡乗車券が発行された。<br /><br />その為に、鐵道院は、新橋-下関間に欧亜連絡を主眼とする12等特別急行列車を運転する事になった。<br />即ち、該列車客車は荷物車を含め全車輌3軸式ボギー車専用車で構成され、既存車輌と異なり編成全体の総重量が増加する為に、旅客用2B型蒸気機関車では出力不足が懸念された事から、鐵道院は新規に旅客用大型2C型蒸気機関車導入を決定し、英独米機関車製造企業に見積書を提示の上で発注した。<br /><br />該特別急行列車は、明治45年(1912年)6月15日時刻改正から運転開始され、当日新橋発列車には、1等客20名、2等客60名、計80名が利用し、1等客には下関要塞司令官として赴任の為に乗車した 内藤新一郎(ないとう しんいちろう)(安政4年(1857年)4月~昭和10年(1935年)10月6日)陸軍中将の姿も見られた。<br /><br />また、鐵道院は、訪日外国人の国内旅行便宜の為に、明治45年(1912年)に傘下外輪団体として JAPAN TOURIST BUREAU を設立し、同年3月12日に東京帝國ホテルに於いて会社創立総会が開催された。<br /><br /><br />山北機関庫は、主に、山北-御殿場間に於ける後部補助を担当する所だったが、列車定数増加、及び、大型蒸気機関車導入に対応させるべく、明治43年(1910年)に第1次庫内拡張工事を実施した。<br />該次改良工事では、転車台を大型蒸気機関車転車可能とすべく、22m型収納形に交換を中心としたものだった。<br />然るに、第1次世界大戦後に於ける列車本数増加に対し対処困難と判定され、能力不足が顕著になってきた事から、大正11年(1922年)に第2次庫内拡張工事が実施され、該工事に依り転車台が2台並列する巨大扇形機関庫が成立した。<br /><br /><br />鐵道院は幹線急勾配登攀強化対策として、当時米国内に於いて流行していたCCマレー式炭水車附大型蒸気機関車導入を検討した。<br />即ち、該機種は動力部分がBB、若しくは、CC構造で構成されている為に、連続急曲急勾配線区に於ける登攀能力が秀逸との前評判だった。<br />然るに、鐵道院工作課長 島 安次郎(しま やすじろう)(明治3年(1870年)8月7日~昭和21年(1946年)2月17日)は、我が国の如き狭軌線に於いて該機種総出力は発揮し難いとして導入反対を呈したが、時の第2代鐵道院総裁 原 敬(はら たかし)(安政3年(1856年)3月15日~大正10年(1921年)11月4日)は立憲政友会を基軸として三井物産と終始昵懇な関係に在った事から島の意見は無視され、総裁権限で導入決定が強行され、該社を仲介し米独機関車製造会社に発注された。<br />即ち、<br />米アメリカン・ロコモティヴ(AMERCAN LOCOMOTIVE)社製 9750型<br />米ボールドウィン(BOURDWIN)社製 9800型<br />独ヘンシェル(HENSCHEL UND SOHN)社製 9850型<br />該発注機は全車過熱式だったが、構造が複雑な割に、肝心たるべき火室が狭火室構造だった事から、総出力は事前に鐵道院が数値予想をした範囲内であり、機関車重量大の為に保線職からは軌道を荒らす元凶として忌避される始末だった。<br /><br />大正12年(1923年)に、次世代大型貨物用蒸気機関車9900型(D50型)が登場したが、該機種登場当時、鐵道省は熱海線熱海-沼津間に於いて丹那隧道を掘削中であり、完成と同時に國府津-御殿場-沼津間は支線化予定だった事から、該区間の軌道強化は未施行であり、その為に、該機種9900型は軸重が14.7tと該区間には軸重過大で入線不可だった事から引続きマレー機を使用した。<br />然し、該隧道工事は貫通予定時期に至っても難航継続状態であり、竣工が何時になるかすら覚束無ぬ状況だった事から、鐵道省は該区間軌道強化に着手せざるを得ず、該線にD50型が入線可能になった時点で、実働期間が短いにも拘らず、マレー式蒸気機関車群は逐次廃車された。<br />現在、大宮鉄道博物館に当時使用されていた9850型9856号機が保存展示されている。<br /><br /><br />駿河(現 駿河小山)-足柄間は開通当初、鮎澤川左岸を経て高高度を下路トラス橋構桁で通過する形態だったが、該河川の度重なる氾濫が原因に依る築堤崩壊流失が度々発生し、風雨の都度、保守に明け暮れさせられる厄介な所だった。<br />然るに、大正3年(1914年)8月12日未明、関東中部地方を襲来した大型台風は、該河川流域に異常増水を発生させた事が原因で、翌13日7時30分頃に、第5相澤川橋梁橋台下が洗盤され、該橋梁橋台が傾斜崩壊した事から該上下線橋梁構桁共に該河川中に落橋した。<br />鐵道院は、直ちに復旧工事に着手し仮開通させたが、本復旧工事中たる、同年9月13日に、今度は異常低気圧が発生し、各地に於いて該低気圧に依る記録的雨量が観測され、雨量に関しては明治43年(1910年)8月11日~14日襲来の大豪雨より多量とされた。<br />此の為に、仮復旧中の該橋梁は再度落橋被害が発生した事から、鐵道院は、該橋梁復旧を諦め既成路線を放棄し、改めて別線建設に着手し完成したのが現行線である。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日に、近現代に於ける記録的大地震 関東大震災が発生した。<br />該区間内は震源地から至近距離だった事から、被害に関しては熱海線に次いで壊滅的被害が発生した。<br />前述の様に、該区間では、隧道下り線7本、上り線7本、橋梁下り線20橋、上り線22橋が存在したが、殆どの構築物に被害が及んだ。<br />特に、箱根第3号隧道、及び、同第7号隧道内部は崩壊、同上り線第3号隧道出口から同隧道4号入口側壁面が大崩落し付近一帯が埋没した。<br />該震災発生時に於ける該区間走行中の列車は2本存在した。<br />即ち、東京発米原経由富山行旅客普通第77列車は駿河駅到着と同時に激震が襲ったが、幸いにして旅客職員共に死者は発生せず、該列車車輌も無事だった。<br />然るに、貨物第423列車は、山北-谷峨間走行中、第1酒匂川橋梁を通過中に激震に遭遇し、異常を感知した機関手は直ちに真空制動機を動作させ、第2酒匂川橋梁通過後に該列車は停車したが、牽引機関車9750型9762号機蒸気機関車は脱線、続く1~12両目貨車脱線、13~31両目貨車脱線転覆、32~43両目貨車無事の被害が発生した。<br />因みに、該列車貨物搭載物の一部は、震災に依る土砂崩壊で交通路途絶に依る飢餓状態に在った事故現地の神奈川県足柄上郡共和村に分与させた。<br /><br />以後、該震災被害に関する該区間事項は、<br /> 9月 6日<br />鐵道省本省連絡途絶の為に、門司鐵道局長命令で震災救援航海が決定した関釜鐵道連絡船高麗丸(3054t)を東京芝浦沖に廻航させる為に、下関港出航後、途中、神戸港に寄港させ、神戸鐵道局工務課長以下震災復旧救援要員を乗船させ、同日清水港入港後下船し沼津に到着し、該救援要員は、御殿場以東不通区間復旧工事担当に決定し、駿河(現 駿河小山)-御殿場間復旧工事に従事。<br /> 9月 6日<br />足柄-御殿場間応急復旧工事開始。<br /> 9月 9日<br />足柄信号場に神戸鐵道局医務担当医師4名に依り救護所開設。<br />同月3日より御殿場以西開通の報を知った罹災者が、東京横浜より箱根峠経由で約15700名、足柄街道経由で約10000名が該地に到達し該救護所に於いて恩顧を得る。<br /> 9月15日<br />同日17時40分頃、山北-谷峨間 箱根第3、4号箱根隧道内部、箱根第6号隧道入口、及び、箱根第7号隧道西口土砂崩壊発生。<br /> 9月18日<br />駿河(現 駿河小山)-御殿場間単線開通。<br /> 9月21日<br />谷峨-駿河(現 駿河小山)間単線開通。<br />山北-第3酒匂川橋梁東岸間開通。<br />第3酒匂川橋梁-谷峨間山道1850mを徒歩連絡開始。<br />此の為に、荷役人足を募集した処、多数の者が参集したが、中にはいかがわしい、所謂雲助人足も存在し旅客を威嚇する等々の行為が散見された事から、同月24日より、該人足は足柄上郡谷峨村在住者に限定された。<br />10月 7日<br />山北-谷峨間単線開通。<br />10月 9日<br />駿河(現 駿河小山)-御殿場間複線復旧。<br />10月10日<br />山北-谷峨間再度土砂崩壊発生不通。<br />10月15日<br />山北-谷峨間徒歩連絡再開。<br />10月21日<br />東京-第3酒匂川橋梁間直通運転再開。<br />10月28日<br />山北-谷峨間応急復旧単線開通。<br /><br />復旧工事中はトロッコで移動したが、第5相澤川橋梁の如き橋桁が落下した所は、職員が川中に入り手渡しで資材を移動させた。<br /><br />因みに、関東大震災発生時に、乗車列車、若しくは、駅等々施設に於いて乗客の死傷に対し、当時の鐵道省は、該被災者に震災での被災は不可抗力と解釈し損害賠償は一切実施しなかった。<br />また、貨物に対しても同様で、一例として神奈川県内に於いて震災直後に貨車内から一般住民が略奪した搭載品に就いて、高島駅2412個を筆頭に、小田原駅1820個、東神奈川駅1764個が記録されているが、該略奪後に於ける搭載品発送受取者に対し損害賠償は行っていない。<br />且つ、震災時に、関東地区に在留していた被災社線所属貨車は、東武鐵道、南海電気鐵道、常総鐵道(現 関東鉄道常総線)簸上鐵道(現 JR木次線)等々15社に及び、該社は共同で鐵道省に対し賠償請求を行ったが、此れに対し、鐵道省官房は、大正15年(1926年)1月26日附回答書で、震災は不可抗力事態であり、賠償は不要として該請求を全部却下させた。<br /><br /><br />該区間は、御殿場から山北にかけて下り25/1000‰連続急勾配が存在する為に、制動効果が未発達時代は、殊に、制動関係での重大事故が数件発生している。<br /><br />大正10年(1921年)9月23日21時頃、駿河(現 駿河小山)-谷峨間走行中の 上り貨物第908列車52両編成は、谷峨信号所遠方信号機付近に於いて、真空制動動作直後に該列車牽引蒸気機関車機関手は、第1回目の異常動揺を探知し、更に、第7号箱根隧道内に於いて、第2回目の異常動揺を探知した殊から、該隧道東京方坑口付近に於いて停止処置を講じた処、21両目貨車脱線、22両目貨車脱線傾斜、23~39両目貨車は脱線転覆状態たるを確認した。<br />該事故に依り、制動手1名死亡。<br />事故原因は、該牽引蒸気機関車機関手の制動動作不良に依る螺旋連結器切断と分離貨車追突が原因と断定された。<br /><br />昭和2年(1927年)3月27日15時11分頃、駿河(現 駿河小山)駅構内に於いて、後発上り貨物第72列車は、速度超過に依り該駅到着が13分早着となり、先発上り貨物第656列車後部に追突した。<br />該事故に依り、先発貨物第656列車後部緩急車が脱線転覆し、後発貨物第72列車牽引蒸気機関車本務機関車、及び、補助機関車、及び、貨車18両が脱線転覆大破し、職員2名が重軽傷を負った。<br /><br />昭和4年(1929年)4月11日4時47分頃、谷峨信号所構内に於いて、先発上り貨物第76列車は定刻通り該信号所に到着したが、該信号所に於いて、該列車を後発列車通過の為に退避線に入線させるべき処、該信号掛が迂闊にも上り本線に入線させた事から、急遽入換作業を実施中に、後発旅客第242列車D50198牽引13両編成が追突し、客車11両が破損、貨車15両が大破、旅客39名、職員1名が重軽傷を負った。<br />事故原因は、該信号所信号掛の転換単純ミスと、後続列車に対する停止防護不処置。<br /><br /><br />國府津-御殿場-沼津間沿線に所在し、神奈川県及び、静岡県に属する下曾我、松田、山北、小山、御殿場、泉、及び、小泉各町村長は、建設中の熱海線丹那隧道貫通に依る該線全線開通後に於ける該区間取扱に就いて、合同協議会を開催し、該町村長名を以って、鐵道省に対し昭和8年(1933年)9月11日附で陳情を行った。<br />即ち、<br />1)旅客列車本数現状維持<br />2)該区間全線電化<br />3)足柄信号場駅昇格<br />の3点である。<br /><br />然るに、鐵道省の試案回答は、<br />1)夜行列車全廃 線内発着普通旅客列車10往復のみ<br />2)電化は論外<br />3)該駅昇格は時期未至<br />と言ふ、予想を遥かに超えた過酷な内容だった。<br /><br />かくて、東海道本線國府津-御殿場-沼津間は紆余曲折を経て、昭和9年(1934年)6月28日附を以って新路驛線名称は御殿場線に正式決定を見た。<br /><br />同年12月1日0時を以って、該区間は予定通り御殿場線になったが、東京発神戸行1.2等普通急行第17列車が、線内最後の優等列車通過後は沿線全体に寂寞感が漂い、同年12月3日附 静岡民友新聞(現 静岡新聞)記事に、「駿河駅は午後9時ともなると駅舎電燈は全消され、云々」なる記述は、以前の繁栄が嘘の如き状態になってしまった。<br />また、同月2日附 東京朝日新聞記事に、「國鐵史上に輝く箱根越東海道本線四拾四年の歴史から一朝にして一支線となつた新生御殿場線の下曾我、松田、山北、駿河、裾野、下土狩の各驛は、痛ましいまでポカンとした感じだ。最大打撃を蒙た大山北驛も此の朝、居残る驛員と華かな熱海線へ転勤する驛員の別れの挨拶の、悲しみと喜びがもつれる。列車が着いても鮎寿司の声は聴けず、三島驛祝賀会に招れた山北選出の鈴木県議の姿も何とはなしに淋しかつた。約半数の第一回縮小を見た山北機関庫も、早朝から新任部署へ赴く従業員が愛用の機関車に乗つて、最後の別れを惜しんでいた」と記述されていた。<br /><br /><br />列車本数激減に依り、該線は全般的に見て明らかに遊休施設化が顕著と化した事から、複線施設は残存させた状態で、特に列車本数が少数たる駿河(現 駿河小山)-御殿場-裾野間は過剰設備と判断され、昭和10年(1935年)8月1日附で御殿場-裾野間、続き、同年11月1日附で駿河-御殿場間が複線施設留保状態で単線運転化された。<br /><br /><br />昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が勃発したが、その後の戦局の推移に拠り社会全般的に物資不足時代へと変化を見せたが、鐵道省は全国に所在する遊休施設を再検討し、輸送量僅少複線区間は単線化させ軌条等々を他重要線区に転配させるべく、計画を立案させ、該線全線を含め、関西本線奈良-王寺間、参宮線阿漕-高茶屋間、松阪-徳和間、相河口(現 多気)-宮川間、山田上口-山田(現 伊勢市)間が該当線と認定され、昭和19年(1944年)4月11日より単線化工事に着手し、同年7月11日に完了した。<br />該工事に依り、谷峨、及び、足柄両信号場は、複線時代の双信閉塞取扱信号場から列車交換の為の信号場に変化を遂る。<br /><br /><br />該線電化に関し、大東亜戦争後、該線沿線市町村から国鉄本社に対し、再三に渡り電化請願がなされたが、昭和39年(1964年)12月に国鉄本社より単線電化であれば可能との回答が寄せられ、電化が俄かに現実味を帯びてきた。<br />沿線市町村の内には、国府津-山北間、及び、裾野-沼津間複線復帰をも希望する所も存在したが、取敢えず電化工事が優先される事になった。<br />国鉄側提示条件では、電化に関する地元利用債引受に対し沿線市町村は了承し、昭和40年(1965年)5月7日に御殿場線電化促進協議会が結成され、同年12月21日に山北町に於いて電化工事起工式が挙行された。<br />該線電化工事に際し、明治期に建築された隧道内に架線を吊張する為に、建築限界が狭隘で路盤掘下を要する箇所は戦時中に廃止になった隧道を改築して再用させ、國府津-御殿場駅間は昭和43年(1968年)4月27日、残り、御殿場-沼津駅間が同年7月1日に電化され該線から蒸気機関車が消えた。<br /><br /><br />昭和47年(1972年)7月12日未明に、神奈川県西部地域を襲った記録的集中豪雨の為に、山北町他では無数の土砂崩壊が発生し、死傷者も発生する事態となったが、該豪雨の為に、酒匂川は異常出水状態になり、第3酒匂川橋梁は橋脚橋台が破壊流失し橋桁2連は川中に落橋した。<br /><br />該線橋梁応急復旧工事として、現地に上路プレートガーダー橋桁×7連を仮設架橋し、同年8月9日に開通させた。<br /><br />その後、本復旧工事は、河川管理担当の建設省とも協議し、国府津方橋台を30m後退させ、径間拡張工事を施行すると共に、昭和42年(1967年)に架替を実施した下路平行ワーレントラス橋桁(62.4m)を修理再用し、架橋位置を従来の沼津方から国府津方に変更した。<br />沼津方橋桁に就いては、当時の国鉄の厳しい財政状態から新規製作はせず、東海道本線天竜川旧下り線架橋の下路曲弦プラットトラス橋梁19連中1連を撤去再用し該地に架橋した。<br />因みに、転用された該構桁は、同時期に架橋された、富士川(下)、大井川(上下)、天竜川(下)以外に、全国に亘り現存し、殊に、大正3年(1914年)に、当時の台湾総督府交通部により開通した、屏東線九曲-六塊?螺間に存在する高屏渓に架橋された、当時東洋一の径間の下淡水渓橋梁に使用された構桁は同一設計に拠る物である。<br /><br /><br />尚、全国で列車走行中に無停車で後部補機を解放運転していたのは、東海道本線時代の御殿場駅構内以外に、<br />東海道本線<br />大垣-柏原駅間柏原駅構内(下り列車のみ、昭和19年(1944年)10月10日まで)<br />膳所-京都駅間膳所駅構内(上り特定列車のみ、昭和19年(1944年)10月まで)<br />山陽本線<br />八本松-瀬野駅間八本松駅構内(上り列車のみ)<br />日豊本線<br />宇佐-立石間(上下列車、昭和42年(1967年)9月14日まで)<br />殊に、八本松-瀬野駅間では電化後も電気機関車で実施し、廃止されたのは平成に入ってからであった。<br />因みに、現在、我が国で列車走行中に後部補助機関車を解放する列車運転は全部廃止され、その姿を見る事は出来ない。<br /><br /><br />箱根第5号隧道入口付近に神奈川県(旧相模國)と静岡県(駿河國)県境が存在する。<br /><br /><br />昨今では、小田急連絡特急あさぎり号も、該線に並行し頻発運転の東名高速道路高速バス路線に利用客が転移し、衰退の一途を辿る現状である。<br /><br /><br /><br /><br />表紙は、谷峨駅付近 酒匂川と特急あさぎり号<br /><br />http://www.gotembasen.net/<br /><br /><br /><br />御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~国府津-山北間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10373761<br />御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~山北-御殿場間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10854953<br />御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~御殿場-裾野間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10619463<br />御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~裾野-沼津間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10590273

御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~山北-御殿場間編 明治頌歌~

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

國府津-静岡間は、明治22年(1889年)2月1日に開通したが、該区間に於いて最も建設困難とされたのは山北-小山(現 駿河小山)間だった。


現在の東海道本線に相当する横濱-京阪神間連絡鉄道建設測量は、既に、箱根地区を除き、明治19年(1886年)12月までに完了したが、然し、山北-御殿場間路線選定のみ10数回に渡り測量を実施したが、具体的結論を得る事が適わず、工部省鐵道建設担当技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)5月25日~昭和2年(1927年)1月23日)は、測量を反復進行させつつ、結果すら見い出せぬ現状に、日々悶々焦慮の色を隠せなかった。

例えば、小田原、及び、三島は、鉄道敷設に対し、地元の鉄道建設反対運動の為に、内閣鐵道局が現行経路を設定したかの如く伝えられ、所謂、鉄道忌避伝説を挙げる見解が有力視されているが、当時の資料を精査する限り、小田原、三島共に鉄道通過停車場設置に対し好意的であり、此れを受け、原口が実地測量を実施したが、該経路設定では、箱根外輪山に長大隧道建設工事を絶対必要とし、当時の我が国の土木技術では工事困難と判定され、該案は不採用と決定されたのが、けだし真相である。

原口は、建設可能地の是非を巡り、周囲には内秘に休暇を取り箱根方面を探索中、箱根塔ノ沢温泉福住楼旅館に投宿した際に、主人の酒話から酒匂川上流域沿に御殿場に到る通過可能な軽道が存在する事を知り、直ちに測量の結果、該地に鉄道建設が可能と判定され、井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)内閣鐵道長官(明治18年(1885年)12月28日~明治23年(1890年)9月6日在任)に対し、該地が建設可能たる事を復命後、明治20年(1887年)9月に山北-御殿場間建設経路が確定した。

起点たる山北は江戸中期まで、酒匂川中下流域河川敷に存在する水田が拡がる農村だった。
然るに、宝永元年(1704年)、及び、宝永2年(1705年)に、該河川川身に変化を生じさせた程の大水害が発生し、更に、追討ちを掛けるが如く、宝永4年(1707年)12月16日に富士山が大爆発を起こし、火山灰が約3.6mも堆積した事から、山北村全域が埋没し、その後は泥土に覆れた湿地帯と化していた。

該区間19.6km建設工事区間中、隧道8箇所、橋梁22箇所の構築を要し、殊に、酒匂川(さかわがわ)橋梁群設置工事は、段丘中腹部に架橋を要した事から、高位置に対する橋台、橋脚設置工事は難工事だった。

因みに、横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月11日に開通したが、該区間建設時、程ヶ谷(現 保土ヶ谷)-戸塚間に所在する清水谷戸(しみずやと)隧道、横須賀線内隧道群は、坑門、及び、隧道内部に至るまで煉瓦積構築様式で建設されたのに対し、山北-沼津間建設では、隧道坑門、隧道内部構築は勿論、橋梁橋台、橋脚に至るまで、何故か煉瓦使用は極めて僅少であり、殆どの構築物に於いて石積構築様式である。
此れは飽くまで推定だが、山北-沼津間沿線付近には、根府川、真鶴、伊豆等々の良質建築用石材産出地が存在する事から、敢えて高価な煉瓦使用をせず、安価な石材使用に踏み切ったのでは無いかと思われる。

橋梁は、チャールズ.A.ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計の英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製錬鐡製ダブルワーレントラス構桁61.0m(200ft)が大量生産され、該区間外使用例では、富士川、大井川、天竜川、木曾川、長良川、及び、揖斐川に於いて架橋されたが、該橋桁の特長は門背が低位地に存在する事から、此の為に、建築限界狭隘が原因で、後年、機関車の大型化に非対応と判定され、明治後期には架替対象とせざるを得なくなり、東海道本線に於ける橋桁使用期は短期間だった。
現在では、初代揖斐川橋梁が内務省管理を経て現在は現地に於いて自動車道路橋に転用され、更に、大正7年(1918年)に初代天竜川橋梁構桁1連が小田原電気鐵道に払下げられ、箱根登山鉄道早川出山橋梁として架橋され現役使用されている。

然も、山北-御殿場間は、途中、R400の連続急曲線が存在し、谷峨-足柄間は25‰、及び、登り急勾配が点在する事から、旅客や乗務員にとって該区間下り列車乗車は登攀の為に焦熱猛煙地獄を覚悟しなければならなかった。


國府津-静岡間は、明治22年(1889年)2月1日に開通した。

然し、開業当日夜半3時頃、御殿場村住人某宅の残火不始末が原因で出火し、折からの冬季強風に煽られ、該村内約120戸が全焼する火災が発生した。

該火災で新築した該駅本屋、及び、該構内施設は無事だったが、当日午前中に開催予定だった開業式典は急遽中止となり、該開業式典出席者用に用意されていた折詰弁当、紅白饅頭、日本酒、及び、一般者への餅撒用祝餅は該火災被災者達に供与された。

因みに、該開通区間終点駅たる静岡町も当日同時刻に一番町焼芋販売業宅から出火し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生している。
要するに、國府津-静岡間開通当日は、御殿場、静岡に於いて大火が発生したと言ふ、関係者にとって意気上がらぬ幸先不幸な門出だった。


國府津-静岡間開通時に、山北-御殿場間に於ける途中停車場は小山(現 駿河小山)1箇所が設置されたに過ぎなかった。

該区間に投入された蒸気機関車は、工部省鐵道局が明治14年(1881年)に発注した英キットソン(KITSON&Co)社製1800型、及び、英デュープス(DUPS)社製1850型C型タンク式蒸気機関車で、該機関車は小型で、且つ、小出力だった事から牽引力登攀力共に劣り、山北から御殿場に至る25‰登り勾配が連続し、御殿場-佐野(現 裾野)間と共に、慢性的列車遅延区間の最たる箇所と化した。


大正中期までに客車に対して真空制動が整備されたが、必ずしも制動効果が良い存在では無く、貨車に至っては真空制動使用末期まで全車輌に貫通型が設置される事は無く、常に暴走の危険と隣り合わせだった。
大正末期に現在の空気制動が開発され昭和5年(1930年)に全車輌に設置完了まで、御殿場駅では貨物列車では機関車の後部に真空制動のシリンダー設置の車輌を連結し未設置の車輌は車掌が全車輌のハンドブレーキ締めて回っていた。


開通2年後の、明治24年(1891年)1月某日、現在の足柄駅付近に於いて機関車煙突から排出された火粉が原因と推定される火災が発生し、宝鏡寺本堂をはじめ、付近一帯が全焼する被害が発生した。


鐵道唱歌は、明治33年(1900年)5月1日に初版本が東京では無く大阪で出版発売されたが、

第13番
いでてはくぐるトンネルの
(いでては くぐる トンネルの)
前後は山北小山驛
(ぜんごは やまきた おやまえき)
今も忘れぬ鐡橋の
(いまも わすれぬ てっきょうの)
下ゆく水のおもしろさ♪
(したゆく みずの おもしろさ)

第14番
はるかにみえし富士の嶺は
(はるかに みえし ふじのねは)
はや我そばに来りけり
(はやわがそばに きたりけり)
雪の冠 雲の帯
(ゆきのかんむり くものおび)
いつもけだかき姿にて♪
(いつも けだかき すがたにて)

と唄われ、歌詞内容から、第13番が谷峨付近、第14番は足柄付近の情景を描写したものと推定される。


山北-小山(現 駿河小山)間は、明治34年(1901年)6月11日に複線化されたが、該区間は、酒匂川上流域、及び、該河川支流鮎澤川(あゆざわがわ)流域に面した段丘中腹部に路線を設置した事は前述したが、その為に、増線用余地など殆ど存在し無に均しく、複線化工事は困難を極めた。

該区間開通時は隧道建設を可能な限り忌避した事から、第1相澤川橋梁から鮎澤川左岸を通過し、第2相澤川橋梁を経た鮎澤川横断を2度架橋通過したが、約10年間に於ける鉄道建設技術は進歩を遂げ、増線部分では、該河川右岸に第6甲号箱根、及び、第6乙号箱根と称する隧道2箇所を設置する形態に改められ、此の時点で従来線は上り専用になった。


明治期は、我が国の近現代に於ける記録的大型台風襲来が少なくなかった。
即ち、当時の天気予報に拠る事前通報業務は存在せず、且つ、河川護岸工事未着工だった所が殆どだった事から、被害が殊更大きくなった。
その為に、暴風雨襲来の都度、山北-小山(現 駿河小山)間への被害が発生した、

明治29年(1896年) 9月11日
該大型台風は中部地方上陸後、関東東北を通過した事から被害地域が拡大し、該台風被害は弘化3年(1846年)年6月連続集中豪雨以来、51年振りの大被害をもたらした。
全国での死者344名。
富士川が増水し、最大水位が3.3m上昇したが、東海道本線鈴川(現 吉原)-岩淵(現 富士川)間の富士川橋梁が損傷もせず無事だったのは意外の感あり。
山北-小山(現 駿河小山)間数日間不通。

明治30年(1897年)10月 3日
大暴風の為に、山北-小山(現 駿河小山)間に於いて数箇所の築堤崩壊が発生し、該復旧工事の為に、組成された臨時工事列車運転中に、築堤崩壊箇所を通過した事から、該列車機関車1両、土運車6両が築堤下に脱線転覆し、該列車便乗中の作業員8名死亡、17名重軽傷。
該区間仮復旧は、同月6日。

明治31年(1898年) 9月 6日
台風襲来に依り、山北-御殿場間数日間不通。

明治40年(1907年) 8月24日
大型台風が中部地方に上陸後、関東を経て北海道に亙り被害を発生させ、該台風を含め、明治29年(1896年)9月台風、及び、明治43年(1910年)8月台風をして、明治3大台風と称する。
俗に、箱根大水害とも称され、神奈川県西部地域に存在する酒匂川、及び、早川が増水氾濫し、特に、箱根塔ノ沢温泉福住楼では建物全体が山津波の為に早川に押流され、宿泊客全員が行方不明となる。
全国での死者768名、行方不明者78名。
山北-谷峨間に於いて、築堤崩壊、及び、第1酒匂川橋梁橋脚が流失した事から該橋梁構桁が落橋した事から、同月27日より9月8日迄、山北-小山(現 駿河小山)間は徒歩連絡を余儀無くされた。
同月8日に第1酒匂川橋梁をプレートガーダー橋桁を使用し単線仮復旧が完了した事から、該区間が単線運転が可能になり、同月19日に谷峨に上下線渡り線用分岐器が設置され、該日以降は、単線運転が山北-谷峨間に短縮された。
上り線開通は、同年10月2日になったが、該水害に鑑み、帝國鐵道庁は、水害の都度、不通になる事態を憂慮し、別線設置計画、即ち、丹那隧道建設を検討決意させた。

明治43年(1910年) 8月11日、及び、13日
関東地方に記録的超大型台風2個が間を空けず連続して上陸通過襲来した。
第1の台風は、同月11日22時頃に、東京府三宅島付近に上陸後、関東地方を通過した。
第2の台風は、翌々日13日22時頃に、静岡県御前崎付近を経て、同県沼津付近に上陸後、関東地方を直撃した。
両台風影響に依る降雨量は、観測史上最大値を記録し、此の為に、関東各府県に於いて、大中小河川が軒並み堤防決壊が発生した事から、各地に於いて大洪水状態となり、更に、大規模土石流が発生した事から、埼玉県323名を筆頭に、関東各府県に於いて921名、全国各府県に於いて計1557名の死者、行方不明者を発生させた。
此の当時は、河川に護岸工事が施工された箇所は殆ど存在せず、且つ、ラジオ放送も無く、殆どの住民達は記録的超大型台風が連続接近している事実すら知る由も無く、此の為に、風水害被害としては、天明3年(1783年)4月の浅間山大噴火に依る大洪水被害以来とされ、近現代最大被害発生を齎した存在として記録されている。
山北-御殿場間が数日間不通。


日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月10日~明治38年(1905年)9月5日)は、我が国 対 ロシア帝國間に於いて、朝鮮半島に於ける権益を巡る対立から戦争に発展したものである。

該戦争開戦以前に於ける我が国対欧州各国間移動手段は、船舶航路利用以外、往還は無に等しい状態だった。

該戦争は我が国側が辛勝状態に在った時点で、中立国アメリカの仲介に依り、明治38年(1905年)9月5日に米ボーツマスに於いて、日露講和条約が締結されたが、該条約付帯条項に、我が国からロシア帝國領内シベリア鉄道経由で、欧州各国間連絡が可能になるべく、ロシア帝國が欧州関係各国に対し斡旋する旨が盛込まれていた。
該条項を根拠に、明治43年(1910年)にベルギーの首都ブリュッセルに於いて国際鉄道会議が開催され、我が国の鐵道院は、欧州関係各国間と欧亜鐵道連絡協定を調印成立させ、該協定に基き、翌明治44年(1911年)3月1日より、新橋、平沼(横濱)、名古屋、京都、大阪、神戸、下関、門司、及び、長崎各駅発着 対 欧州指定各駅相互発着間国際連絡乗車券が発行された。

その為に、鐵道院は、新橋-下関間に欧亜連絡を主眼とする12等特別急行列車を運転する事になった。
即ち、該列車客車は荷物車を含め全車輌3軸式ボギー車専用車で構成され、既存車輌と異なり編成全体の総重量が増加する為に、旅客用2B型蒸気機関車では出力不足が懸念された事から、鐵道院は新規に旅客用大型2C型蒸気機関車導入を決定し、英独米機関車製造企業に見積書を提示の上で発注した。

該特別急行列車は、明治45年(1912年)6月15日時刻改正から運転開始され、当日新橋発列車には、1等客20名、2等客60名、計80名が利用し、1等客には下関要塞司令官として赴任の為に乗車した 内藤新一郎(ないとう しんいちろう)(安政4年(1857年)4月~昭和10年(1935年)10月6日)陸軍中将の姿も見られた。

また、鐵道院は、訪日外国人の国内旅行便宜の為に、明治45年(1912年)に傘下外輪団体として JAPAN TOURIST BUREAU を設立し、同年3月12日に東京帝國ホテルに於いて会社創立総会が開催された。


山北機関庫は、主に、山北-御殿場間に於ける後部補助を担当する所だったが、列車定数増加、及び、大型蒸気機関車導入に対応させるべく、明治43年(1910年)に第1次庫内拡張工事を実施した。
該次改良工事では、転車台を大型蒸気機関車転車可能とすべく、22m型収納形に交換を中心としたものだった。
然るに、第1次世界大戦後に於ける列車本数増加に対し対処困難と判定され、能力不足が顕著になってきた事から、大正11年(1922年)に第2次庫内拡張工事が実施され、該工事に依り転車台が2台並列する巨大扇形機関庫が成立した。


鐵道院は幹線急勾配登攀強化対策として、当時米国内に於いて流行していたCCマレー式炭水車附大型蒸気機関車導入を検討した。
即ち、該機種は動力部分がBB、若しくは、CC構造で構成されている為に、連続急曲急勾配線区に於ける登攀能力が秀逸との前評判だった。
然るに、鐵道院工作課長 島 安次郎(しま やすじろう)(明治3年(1870年)8月7日~昭和21年(1946年)2月17日)は、我が国の如き狭軌線に於いて該機種総出力は発揮し難いとして導入反対を呈したが、時の第2代鐵道院総裁 原 敬(はら たかし)(安政3年(1856年)3月15日~大正10年(1921年)11月4日)は立憲政友会を基軸として三井物産と終始昵懇な関係に在った事から島の意見は無視され、総裁権限で導入決定が強行され、該社を仲介し米独機関車製造会社に発注された。
即ち、
米アメリカン・ロコモティヴ(AMERCAN LOCOMOTIVE)社製 9750型
米ボールドウィン(BOURDWIN)社製 9800型
独ヘンシェル(HENSCHEL UND SOHN)社製 9850型
該発注機は全車過熱式だったが、構造が複雑な割に、肝心たるべき火室が狭火室構造だった事から、総出力は事前に鐵道院が数値予想をした範囲内であり、機関車重量大の為に保線職からは軌道を荒らす元凶として忌避される始末だった。

大正12年(1923年)に、次世代大型貨物用蒸気機関車9900型(D50型)が登場したが、該機種登場当時、鐵道省は熱海線熱海-沼津間に於いて丹那隧道を掘削中であり、完成と同時に國府津-御殿場-沼津間は支線化予定だった事から、該区間の軌道強化は未施行であり、その為に、該機種9900型は軸重が14.7tと該区間には軸重過大で入線不可だった事から引続きマレー機を使用した。
然し、該隧道工事は貫通予定時期に至っても難航継続状態であり、竣工が何時になるかすら覚束無ぬ状況だった事から、鐵道省は該区間軌道強化に着手せざるを得ず、該線にD50型が入線可能になった時点で、実働期間が短いにも拘らず、マレー式蒸気機関車群は逐次廃車された。
現在、大宮鉄道博物館に当時使用されていた9850型9856号機が保存展示されている。


駿河(現 駿河小山)-足柄間は開通当初、鮎澤川左岸を経て高高度を下路トラス橋構桁で通過する形態だったが、該河川の度重なる氾濫が原因に依る築堤崩壊流失が度々発生し、風雨の都度、保守に明け暮れさせられる厄介な所だった。
然るに、大正3年(1914年)8月12日未明、関東中部地方を襲来した大型台風は、該河川流域に異常増水を発生させた事が原因で、翌13日7時30分頃に、第5相澤川橋梁橋台下が洗盤され、該橋梁橋台が傾斜崩壊した事から該上下線橋梁構桁共に該河川中に落橋した。
鐵道院は、直ちに復旧工事に着手し仮開通させたが、本復旧工事中たる、同年9月13日に、今度は異常低気圧が発生し、各地に於いて該低気圧に依る記録的雨量が観測され、雨量に関しては明治43年(1910年)8月11日~14日襲来の大豪雨より多量とされた。
此の為に、仮復旧中の該橋梁は再度落橋被害が発生した事から、鐵道院は、該橋梁復旧を諦め既成路線を放棄し、改めて別線建設に着手し完成したのが現行線である。


大正12年(1923年)9月1日に、近現代に於ける記録的大地震 関東大震災が発生した。
該区間内は震源地から至近距離だった事から、被害に関しては熱海線に次いで壊滅的被害が発生した。
前述の様に、該区間では、隧道下り線7本、上り線7本、橋梁下り線20橋、上り線22橋が存在したが、殆どの構築物に被害が及んだ。
特に、箱根第3号隧道、及び、同第7号隧道内部は崩壊、同上り線第3号隧道出口から同隧道4号入口側壁面が大崩落し付近一帯が埋没した。
該震災発生時に於ける該区間走行中の列車は2本存在した。
即ち、東京発米原経由富山行旅客普通第77列車は駿河駅到着と同時に激震が襲ったが、幸いにして旅客職員共に死者は発生せず、該列車車輌も無事だった。
然るに、貨物第423列車は、山北-谷峨間走行中、第1酒匂川橋梁を通過中に激震に遭遇し、異常を感知した機関手は直ちに真空制動機を動作させ、第2酒匂川橋梁通過後に該列車は停車したが、牽引機関車9750型9762号機蒸気機関車は脱線、続く1~12両目貨車脱線、13~31両目貨車脱線転覆、32~43両目貨車無事の被害が発生した。
因みに、該列車貨物搭載物の一部は、震災に依る土砂崩壊で交通路途絶に依る飢餓状態に在った事故現地の神奈川県足柄上郡共和村に分与させた。

以後、該震災被害に関する該区間事項は、
 9月 6日
鐵道省本省連絡途絶の為に、門司鐵道局長命令で震災救援航海が決定した関釜鐵道連絡船高麗丸(3054t)を東京芝浦沖に廻航させる為に、下関港出航後、途中、神戸港に寄港させ、神戸鐵道局工務課長以下震災復旧救援要員を乗船させ、同日清水港入港後下船し沼津に到着し、該救援要員は、御殿場以東不通区間復旧工事担当に決定し、駿河(現 駿河小山)-御殿場間復旧工事に従事。
 9月 6日
足柄-御殿場間応急復旧工事開始。
 9月 9日
足柄信号場に神戸鐵道局医務担当医師4名に依り救護所開設。
同月3日より御殿場以西開通の報を知った罹災者が、東京横浜より箱根峠経由で約15700名、足柄街道経由で約10000名が該地に到達し該救護所に於いて恩顧を得る。
 9月15日
同日17時40分頃、山北-谷峨間 箱根第3、4号箱根隧道内部、箱根第6号隧道入口、及び、箱根第7号隧道西口土砂崩壊発生。
 9月18日
駿河(現 駿河小山)-御殿場間単線開通。
 9月21日
谷峨-駿河(現 駿河小山)間単線開通。
山北-第3酒匂川橋梁東岸間開通。
第3酒匂川橋梁-谷峨間山道1850mを徒歩連絡開始。
此の為に、荷役人足を募集した処、多数の者が参集したが、中にはいかがわしい、所謂雲助人足も存在し旅客を威嚇する等々の行為が散見された事から、同月24日より、該人足は足柄上郡谷峨村在住者に限定された。
10月 7日
山北-谷峨間単線開通。
10月 9日
駿河(現 駿河小山)-御殿場間複線復旧。
10月10日
山北-谷峨間再度土砂崩壊発生不通。
10月15日
山北-谷峨間徒歩連絡再開。
10月21日
東京-第3酒匂川橋梁間直通運転再開。
10月28日
山北-谷峨間応急復旧単線開通。

復旧工事中はトロッコで移動したが、第5相澤川橋梁の如き橋桁が落下した所は、職員が川中に入り手渡しで資材を移動させた。

因みに、関東大震災発生時に、乗車列車、若しくは、駅等々施設に於いて乗客の死傷に対し、当時の鐵道省は、該被災者に震災での被災は不可抗力と解釈し損害賠償は一切実施しなかった。
また、貨物に対しても同様で、一例として神奈川県内に於いて震災直後に貨車内から一般住民が略奪した搭載品に就いて、高島駅2412個を筆頭に、小田原駅1820個、東神奈川駅1764個が記録されているが、該略奪後に於ける搭載品発送受取者に対し損害賠償は行っていない。
且つ、震災時に、関東地区に在留していた被災社線所属貨車は、東武鐵道、南海電気鐵道、常総鐵道(現 関東鉄道常総線)簸上鐵道(現 JR木次線)等々15社に及び、該社は共同で鐵道省に対し賠償請求を行ったが、此れに対し、鐵道省官房は、大正15年(1926年)1月26日附回答書で、震災は不可抗力事態であり、賠償は不要として該請求を全部却下させた。


該区間は、御殿場から山北にかけて下り25/1000‰連続急勾配が存在する為に、制動効果が未発達時代は、殊に、制動関係での重大事故が数件発生している。

大正10年(1921年)9月23日21時頃、駿河(現 駿河小山)-谷峨間走行中の 上り貨物第908列車52両編成は、谷峨信号所遠方信号機付近に於いて、真空制動動作直後に該列車牽引蒸気機関車機関手は、第1回目の異常動揺を探知し、更に、第7号箱根隧道内に於いて、第2回目の異常動揺を探知した殊から、該隧道東京方坑口付近に於いて停止処置を講じた処、21両目貨車脱線、22両目貨車脱線傾斜、23~39両目貨車は脱線転覆状態たるを確認した。
該事故に依り、制動手1名死亡。
事故原因は、該牽引蒸気機関車機関手の制動動作不良に依る螺旋連結器切断と分離貨車追突が原因と断定された。

昭和2年(1927年)3月27日15時11分頃、駿河(現 駿河小山)駅構内に於いて、後発上り貨物第72列車は、速度超過に依り該駅到着が13分早着となり、先発上り貨物第656列車後部に追突した。
該事故に依り、先発貨物第656列車後部緩急車が脱線転覆し、後発貨物第72列車牽引蒸気機関車本務機関車、及び、補助機関車、及び、貨車18両が脱線転覆大破し、職員2名が重軽傷を負った。

昭和4年(1929年)4月11日4時47分頃、谷峨信号所構内に於いて、先発上り貨物第76列車は定刻通り該信号所に到着したが、該信号所に於いて、該列車を後発列車通過の為に退避線に入線させるべき処、該信号掛が迂闊にも上り本線に入線させた事から、急遽入換作業を実施中に、後発旅客第242列車D50198牽引13両編成が追突し、客車11両が破損、貨車15両が大破、旅客39名、職員1名が重軽傷を負った。
事故原因は、該信号所信号掛の転換単純ミスと、後続列車に対する停止防護不処置。


國府津-御殿場-沼津間沿線に所在し、神奈川県及び、静岡県に属する下曾我、松田、山北、小山、御殿場、泉、及び、小泉各町村長は、建設中の熱海線丹那隧道貫通に依る該線全線開通後に於ける該区間取扱に就いて、合同協議会を開催し、該町村長名を以って、鐵道省に対し昭和8年(1933年)9月11日附で陳情を行った。
即ち、
1)旅客列車本数現状維持
2)該区間全線電化
3)足柄信号場駅昇格
の3点である。

然るに、鐵道省の試案回答は、
1)夜行列車全廃 線内発着普通旅客列車10往復のみ
2)電化は論外
3)該駅昇格は時期未至
と言ふ、予想を遥かに超えた過酷な内容だった。

かくて、東海道本線國府津-御殿場-沼津間は紆余曲折を経て、昭和9年(1934年)6月28日附を以って新路驛線名称は御殿場線に正式決定を見た。

同年12月1日0時を以って、該区間は予定通り御殿場線になったが、東京発神戸行1.2等普通急行第17列車が、線内最後の優等列車通過後は沿線全体に寂寞感が漂い、同年12月3日附 静岡民友新聞(現 静岡新聞)記事に、「駿河駅は午後9時ともなると駅舎電燈は全消され、云々」なる記述は、以前の繁栄が嘘の如き状態になってしまった。
また、同月2日附 東京朝日新聞記事に、「國鐵史上に輝く箱根越東海道本線四拾四年の歴史から一朝にして一支線となつた新生御殿場線の下曾我、松田、山北、駿河、裾野、下土狩の各驛は、痛ましいまでポカンとした感じだ。最大打撃を蒙た大山北驛も此の朝、居残る驛員と華かな熱海線へ転勤する驛員の別れの挨拶の、悲しみと喜びがもつれる。列車が着いても鮎寿司の声は聴けず、三島驛祝賀会に招れた山北選出の鈴木県議の姿も何とはなしに淋しかつた。約半数の第一回縮小を見た山北機関庫も、早朝から新任部署へ赴く従業員が愛用の機関車に乗つて、最後の別れを惜しんでいた」と記述されていた。


列車本数激減に依り、該線は全般的に見て明らかに遊休施設化が顕著と化した事から、複線施設は残存させた状態で、特に列車本数が少数たる駿河(現 駿河小山)-御殿場-裾野間は過剰設備と判断され、昭和10年(1935年)8月1日附で御殿場-裾野間、続き、同年11月1日附で駿河-御殿場間が複線施設留保状態で単線運転化された。


昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が勃発したが、その後の戦局の推移に拠り社会全般的に物資不足時代へと変化を見せたが、鐵道省は全国に所在する遊休施設を再検討し、輸送量僅少複線区間は単線化させ軌条等々を他重要線区に転配させるべく、計画を立案させ、該線全線を含め、関西本線奈良-王寺間、参宮線阿漕-高茶屋間、松阪-徳和間、相河口(現 多気)-宮川間、山田上口-山田(現 伊勢市)間が該当線と認定され、昭和19年(1944年)4月11日より単線化工事に着手し、同年7月11日に完了した。
該工事に依り、谷峨、及び、足柄両信号場は、複線時代の双信閉塞取扱信号場から列車交換の為の信号場に変化を遂る。


該線電化に関し、大東亜戦争後、該線沿線市町村から国鉄本社に対し、再三に渡り電化請願がなされたが、昭和39年(1964年)12月に国鉄本社より単線電化であれば可能との回答が寄せられ、電化が俄かに現実味を帯びてきた。
沿線市町村の内には、国府津-山北間、及び、裾野-沼津間複線復帰をも希望する所も存在したが、取敢えず電化工事が優先される事になった。
国鉄側提示条件では、電化に関する地元利用債引受に対し沿線市町村は了承し、昭和40年(1965年)5月7日に御殿場線電化促進協議会が結成され、同年12月21日に山北町に於いて電化工事起工式が挙行された。
該線電化工事に際し、明治期に建築された隧道内に架線を吊張する為に、建築限界が狭隘で路盤掘下を要する箇所は戦時中に廃止になった隧道を改築して再用させ、國府津-御殿場駅間は昭和43年(1968年)4月27日、残り、御殿場-沼津駅間が同年7月1日に電化され該線から蒸気機関車が消えた。


昭和47年(1972年)7月12日未明に、神奈川県西部地域を襲った記録的集中豪雨の為に、山北町他では無数の土砂崩壊が発生し、死傷者も発生する事態となったが、該豪雨の為に、酒匂川は異常出水状態になり、第3酒匂川橋梁は橋脚橋台が破壊流失し橋桁2連は川中に落橋した。

該線橋梁応急復旧工事として、現地に上路プレートガーダー橋桁×7連を仮設架橋し、同年8月9日に開通させた。

その後、本復旧工事は、河川管理担当の建設省とも協議し、国府津方橋台を30m後退させ、径間拡張工事を施行すると共に、昭和42年(1967年)に架替を実施した下路平行ワーレントラス橋桁(62.4m)を修理再用し、架橋位置を従来の沼津方から国府津方に変更した。
沼津方橋桁に就いては、当時の国鉄の厳しい財政状態から新規製作はせず、東海道本線天竜川旧下り線架橋の下路曲弦プラットトラス橋梁19連中1連を撤去再用し該地に架橋した。
因みに、転用された該構桁は、同時期に架橋された、富士川(下)、大井川(上下)、天竜川(下)以外に、全国に亘り現存し、殊に、大正3年(1914年)に、当時の台湾総督府交通部により開通した、屏東線九曲-六塊?螺間に存在する高屏渓に架橋された、当時東洋一の径間の下淡水渓橋梁に使用された構桁は同一設計に拠る物である。


尚、全国で列車走行中に無停車で後部補機を解放運転していたのは、東海道本線時代の御殿場駅構内以外に、
東海道本線
大垣-柏原駅間柏原駅構内(下り列車のみ、昭和19年(1944年)10月10日まで)
膳所-京都駅間膳所駅構内(上り特定列車のみ、昭和19年(1944年)10月まで)
山陽本線
八本松-瀬野駅間八本松駅構内(上り列車のみ)
日豊本線
宇佐-立石間(上下列車、昭和42年(1967年)9月14日まで)
殊に、八本松-瀬野駅間では電化後も電気機関車で実施し、廃止されたのは平成に入ってからであった。
因みに、現在、我が国で列車走行中に後部補助機関車を解放する列車運転は全部廃止され、その姿を見る事は出来ない。


箱根第5号隧道入口付近に神奈川県(旧相模國)と静岡県(駿河國)県境が存在する。


昨今では、小田急連絡特急あさぎり号も、該線に並行し頻発運転の東名高速道路高速バス路線に利用客が転移し、衰退の一途を辿る現状である。




表紙は、谷峨駅付近 酒匂川と特急あさぎり号

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御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~国府津-山北間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10373761
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~山北-御殿場間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10854953
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~御殿場-裾野間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10619463
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~裾野-沼津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10590273

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 山北(やまきた)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治22年(1897年)2月1日開業である。<br />関東大震災発生時、該駅本屋を初めとする構内諸施設が大破する被害が発生したが、此れは、該駅設置以前に於ける付近一帯は、谷戸の湿地帯で構成されていたが、該停車場設置が決定した埋立地だった。<br />山北町史に拠れば、震災発生直後に駅構内が水浸しになったとの記述が見られる事から、該原因は、町史記述の水道管破裂に依るものなどでは無く、明らかに液状化現象に依るものであると推定される。<br />一般に、液状化現象が認識されるのは、昭和39年(1964年)6月16日発生の新潟地震の時からであり、大正期当時の認識では、液状化現象認識無き時代故に致し方無き事である。<br />該駅では、駅本屋が大破し倒壊の危険性が生じた事から駅本屋立入を禁止し、第2番ホームにテントを張り仮説駅事務室として業務を遂行した。<br />震災発生時、該駅構内に留置中の貨車29両が脱線転覆した。<br />更に、同時刻、普通貨物第412列車が荷役停車中で、東京方4両目から最後尾全車輌が脱線した。<br />因みに、該貨物列車貨車には、米、味噌、等々の食料品が搭載されていたが、此れを知った山北町長は、山北駅長に緊急配分要請を行い、該駅長判断で当該貨車から搭載品を降し競売に附し事から、神奈川県内に於いて、東神奈川、高島、及び、小田原各駅に於いて発生した、地元住民達に依る貨車搭載品強奪略奪騒動の如き事態は当地に於いて発生しなかった。<br />該列車脱線貨車は同月15日迄に復線作業が完了し、同日10時に復旧した。<br />現駅本屋は、初代駅本屋が関東大震災で大破した為に、翌大正13年(1924年)に新築した第2代目である。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北(やまきた)駅



    駅本屋
    該駅は、明治22年(1897年)2月1日開業である。
    関東大震災発生時、該駅本屋を初めとする構内諸施設が大破する被害が発生したが、此れは、該駅設置以前に於ける付近一帯は、谷戸の湿地帯で構成されていたが、該停車場設置が決定した埋立地だった。
    山北町史に拠れば、震災発生直後に駅構内が水浸しになったとの記述が見られる事から、該原因は、町史記述の水道管破裂に依るものなどでは無く、明らかに液状化現象に依るものであると推定される。
    一般に、液状化現象が認識されるのは、昭和39年(1964年)6月16日発生の新潟地震の時からであり、大正期当時の認識では、液状化現象認識無き時代故に致し方無き事である。
    該駅では、駅本屋が大破し倒壊の危険性が生じた事から駅本屋立入を禁止し、第2番ホームにテントを張り仮説駅事務室として業務を遂行した。
    震災発生時、該駅構内に留置中の貨車29両が脱線転覆した。
    更に、同時刻、普通貨物第412列車が荷役停車中で、東京方4両目から最後尾全車輌が脱線した。
    因みに、該貨物列車貨車には、米、味噌、等々の食料品が搭載されていたが、此れを知った山北町長は、山北駅長に緊急配分要請を行い、該駅長判断で当該貨車から搭載品を降し競売に附し事から、神奈川県内に於いて、東神奈川、高島、及び、小田原各駅に於いて発生した、地元住民達に依る貨車搭載品強奪略奪騒動の如き事態は当地に於いて発生しなかった。
    該列車脱線貨車は同月15日迄に復線作業が完了し、同日10時に復旧した。
    現駅本屋は、初代駅本屋が関東大震災で大破した為に、翌大正13年(1924年)に新築した第2代目である。
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    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />接写<br />現在の該駅から受ける印象は、東海道本線時代に下り特別急行列車 燕 を除く全列車が停車していた鉄道隆盛時代の面影は皆無。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    駅本屋
    接写
    現在の該駅から受ける印象は、東海道本線時代に下り特別急行列車 燕 を除く全列車が停車していた鉄道隆盛時代の面影は皆無。
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
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    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />出改札口<br />該駅無人化計画が発表され、一旦は無人化されたが、山北町は簡易委託扱として有人継続させる事に決定しNPO団体に取扱を委託させた。<br />然し、指定券発行用マルス端末機は撤去された。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

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    駅本屋
    出改札口
    該駅無人化計画が発表され、一旦は無人化されたが、山北町は簡易委託扱として有人継続させる事に決定しNPO団体に取扱を委託させた。
    然し、指定券発行用マルス端末機は撤去された。
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  • 山北駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />裏側<br />旧第1番線ホーム跡<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html

    山北駅



    駅本屋
    裏側
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  • 山北駅<br /><br /><br /><br />跨線橋連絡旅客通路<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html

    山北駅



    跨線橋連絡旅客通路
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />旧山北機関区跡地<br />該区は、明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間開通時に山北機関庫として開設。<br />最盛期には機関車転車台が2台設置されていた。<br />東海道本線当時は、該駅に於いて、登り勾配登攀の為に後部補助機関車を連結する必要から、鐵道院、及び、鐵道省では最新型蒸気機関車を東京鐵道局配置したが、該機関庫に対し、9600型は9611〜9617号機、9900型は9900〜9906号機が新製配置された。<br />関東大震災発生と同時に、該機関庫扇形機関庫内に入庫収容されていた蒸気機関車を中心に被害が発生した。<br />即ち、扇形機関庫内収容中車両は全車被災した。<br />第 2番線 59628号機 動輪脱線、煙突剥離脱落 側傾<br />   5番線 59626号機 機関車車輪全軸脱線 側傾<br />   7番線 59649号機 機関車車輪全軸脱線 脱線<br />  11番線 29680号機             側傾<br />  12番線  9900号機 全軸脱線 炭水車台枠座屈 脱線<br />  13番線 29605号機 全軸脱線        側傾<br />  14番線 29684号機 全軸脱線 真空制動器破損 側傾<br />  15番線  9902号機 機関車車輪全軸脱線   脱線<br />  16番線  9906号機 全軸脱線 炭水車台枠屈曲 脱線<br />更に、北側給水線に於いて、<br />      59648号機 全軸脱線 炭水車損傷   脱線<br />入換専用機  2633号機             脱線<br />沼津機関庫所属 9752号機、及び、9771号機  脱線<br />の被害が発生した。<br /><br />昭和9年(1934年)12月1日0時を期し、御殿場線に格下後は、後部補助を必要とする列車が激減した為に配置機関車が大量に転出し、更に、昭和18年(1943年)5月11日附を以って該機関区は廃止された。<br />転車台1台は高崎第2機関区創設時に転用。

    山北駅



    旧山北機関区跡地
    該区は、明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間開通時に山北機関庫として開設。
    最盛期には機関車転車台が2台設置されていた。
    東海道本線当時は、該駅に於いて、登り勾配登攀の為に後部補助機関車を連結する必要から、鐵道院、及び、鐵道省では最新型蒸気機関車を東京鐵道局配置したが、該機関庫に対し、9600型は9611〜9617号機、9900型は9900〜9906号機が新製配置された。
    関東大震災発生と同時に、該機関庫扇形機関庫内に入庫収容されていた蒸気機関車を中心に被害が発生した。
    即ち、扇形機関庫内収容中車両は全車被災した。
    第 2番線 59628号機 動輪脱線、煙突剥離脱落 側傾
       5番線 59626号機 機関車車輪全軸脱線 側傾
       7番線 59649号機 機関車車輪全軸脱線 脱線
      11番線 29680号機             側傾
      12番線  9900号機 全軸脱線 炭水車台枠座屈 脱線
      13番線 29605号機 全軸脱線        側傾
      14番線 29684号機 全軸脱線 真空制動器破損 側傾
      15番線  9902号機 機関車車輪全軸脱線   脱線
      16番線  9906号機 全軸脱線 炭水車台枠屈曲 脱線
    更に、北側給水線に於いて、
          59648号機 全軸脱線 炭水車損傷   脱線
    入換専用機  2633号機             脱線
    沼津機関庫所属 9752号機、及び、9771号機  脱線
    の被害が発生した。

    昭和9年(1934年)12月1日0時を期し、御殿場線に格下後は、後部補助を必要とする列車が激減した為に配置機関車が大量に転出し、更に、昭和18年(1943年)5月11日附を以って該機関区は廃止された。
    転車台1台は高崎第2機関区創設時に転用。

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html

    山北駅



    駅構内
    全景
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    第1番ホーム
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />上屋古軌条支柱<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97<br /><br /><br />

    山北駅



    第1番ホーム
    上屋古軌条支柱
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97


    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />国府津方俯瞰<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    第1番ホーム
    国府津方俯瞰
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />該列車の乗降客は少数若干。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    第1番ホーム
    該列車の乗降客は少数若干。
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />旧第3番ホーム跡<br />全景<br />旧下り線用島式ホーム痕跡<br />東海道本線時代は該ホームに燕号を除く特別急行も停車し補助機関車を連結した。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    旧第3番ホーム跡
    全景
    旧下り線用島式ホーム痕跡
    東海道本線時代は該ホームに燕号を除く特別急行も停車し補助機関車を連結した。
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />旧第3番ホーム跡<br />昭和9年(1934年)12月1日以降、使用されず保守されぬまま自然崩壊が進む。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    旧第3番ホーム跡
    昭和9年(1934年)12月1日以降、使用されず保守されぬまま自然崩壊が進む。
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />南口駅舎<br />駅舎とは名ばかりの掘立小屋。<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    南口駅舎
    駅舎とは名ばかりの掘立小屋。
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />沼津方俯瞰<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html<br />http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅



    駅構内
    沼津方俯瞰
    http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
    http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97

    山北駅

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br /><br />構内堀割<br />上下線合流分岐点

    山北-谷峨間




    構内堀割
    上下線合流分岐点

    山北駅

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第1山北人道(だいいち やまきた じんどう)跨線橋<br />三良(みよし)人道跨線橋とも称する。<br />設置は昭和初期<br />支柱に古軌条使用。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北2256<br />御殿場線山北駅北口 徒歩5分

    山北-谷峨間



    第1山北人道(だいいち やまきた じんどう)跨線橋
    三良(みよし)人道跨線橋とも称する。
    設置は昭和初期
    支柱に古軌条使用。

    神奈川県足柄上郡山北町山北2256
    御殿場線山北駅北口 徒歩5分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第1山北人道跨線橋<br />全景<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北2256<br />御殿場線山北駅北口 徒歩5分

    山北-谷峨間



    第1山北人道跨線橋
    全景

    神奈川県足柄上郡山北町山北2256
    御殿場線山北駅北口 徒歩5分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />構内掘割<br />春ともなると桜花が満ち満ちる。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北2583<br />御殿場線山北駅北口 徒歩8分

    山北-谷峨間



    構内掘割
    春ともなると桜花が満ち満ちる。

    神奈川県足柄上郡山北町山北2583
    御殿場線山北駅北口 徒歩8分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />皆瀬川(みなせがわ)橋梁<br />国産鋼鉄製<br />プレートガーダー橋桁<br />支間15.24m(50ft)×1連<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北2975<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス山北橋停留所降車 徒歩4分

    山北-谷峨間



    皆瀬川(みなせがわ)橋梁
    国産鋼鉄製
    プレートガーダー橋桁
    支間15.24m(50ft)×1連

    神奈川県足柄上郡山北町山北2975
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス山北橋停留所降車 徒歩4分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />皆瀬川橋梁<br />プレートガーダー橋桁<br />左手に旧上り線用橋台が残存。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北2975<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス山北橋停留所降車 徒歩4分

    山北-谷峨間



    皆瀬川橋梁
    プレートガーダー橋桁
    左手に旧上り線用橋台が残存。

    神奈川県足柄上郡山北町山北2975
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス山北橋停留所降車 徒歩4分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第1号(はこね だいいちごう)隧道<br />国府津方坑門<br />右坑門 旧上り線用隧道(現用)234.63m<br />左坑門 旧下り線用隧道(廃止)234.63m<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3255<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス樋口橋停留所降車 徒歩6分

    山北-谷峨間



    箱根第1号(はこね だいいちごう)隧道
    国府津方坑門
    右坑門 旧上り線用隧道(現用)234.63m
    左坑門 旧下り線用隧道(廃止)234.63m

    神奈川県足柄上郡山北町山北3255
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス樋口橋停留所降車 徒歩6分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第1号隧道<br />国府津方坑門<br />該隧道は、明治22年(1889年)2月1日開通時の隧道である。<br />開通時は、234.63mだった。<br />その後、明治34年(1901年)6月11日に山北-駿河(現 駿河小山)間複線化の際に、新隧道は235.23mの別線で建設され、下り線専用となった事から既成隧道は上り線専用になった。<br />関東大震災発生時、上下線隧道共に、東京方坑門は無事だったが、上り線神戸方坑門は縦長の亀裂が発生し、下り線坑道内部に変状が発生した。<br />該隧道は、神戸鐵道局救援隊の手に依り、同月8日に仮復旧工事が完成し列車運行が可能になった。<br />その後、大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完成し、該隧道は下り線用が継続使用され、上り線用は廃止された。<br />然るに、御殿場線が全線電化が決定した事から、架線吊架の為に使用隧道では建築限界が不足する為に、廃止された上り線用隧道を改築して再使用させる事に決定し、坑内口径拡大工事が施工され、電化工事竣工後は旧上り線用隧道が使用され下り線用隧道は廃止された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3255<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス樋口橋停留所降車 徒歩6分

    山北-谷峨間



    箱根第1号隧道
    国府津方坑門
    該隧道は、明治22年(1889年)2月1日開通時の隧道である。
    開通時は、234.63mだった。
    その後、明治34年(1901年)6月11日に山北-駿河(現 駿河小山)間複線化の際に、新隧道は235.23mの別線で建設され、下り線専用となった事から既成隧道は上り線専用になった。
    関東大震災発生時、上下線隧道共に、東京方坑門は無事だったが、上り線神戸方坑門は縦長の亀裂が発生し、下り線坑道内部に変状が発生した。
    該隧道は、神戸鐵道局救援隊の手に依り、同月8日に仮復旧工事が完成し列車運行が可能になった。
    その後、大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完成し、該隧道は下り線用が継続使用され、上り線用は廃止された。
    然るに、御殿場線が全線電化が決定した事から、架線吊架の為に使用隧道では建築限界が不足する為に、廃止された上り線用隧道を改築して再使用させる事に決定し、坑内口径拡大工事が施工され、電化工事竣工後は旧上り線用隧道が使用され下り線用隧道は廃止された。

    神奈川県足柄上郡山北町山北3255
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス樋口橋停留所降車 徒歩6分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第1号隧道<br />沼津方坑門<br />左坑門 旧上り線用隧道(現用)<br />右坑門 旧下り線用隧道(廃止)<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3521<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所 徒歩1分

    山北-谷峨間



    箱根第1号隧道
    沼津方坑門
    左坑門 旧上り線用隧道(現用)
    右坑門 旧下り線用隧道(廃止)

    神奈川県足柄上郡山北町山北3521
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />落合川(おちあいがわ)橋梁<br />国産鋼鉄製<br />プレートガーダー橋桁<br />支間12.19m(40ft)×1連<br />橋台が煉瓦積構造。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3521<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

    山北-谷峨間



    落合川(おちあいがわ)橋梁
    国産鋼鉄製
    プレートガーダー橋桁
    支間12.19m(40ft)×1連
    橋台が煉瓦積構造。

    神奈川県足柄上郡山北町山北3521
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />落合川橋梁<br />手前橋桁が旧下り線用橋梁跡<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3521<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

    山北-谷峨間



    落合川橋梁
    手前橋桁が旧下り線用橋梁跡

    神奈川県足柄上郡山北町山北3521
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />落合川橋梁<br />全景<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3521<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

    山北-谷峨間



    落合川橋梁
    全景

    神奈川県足柄上郡山北町山北3521
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第2号(はこね だいにごう)隧道<br />国府津方坑門<br />右坑門 旧上り線用隧道(現用) 516.37m<br />左坑門 旧下り線用隧道(廃止) 532.09m<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3521<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

    山北-谷峨間



    箱根第2号(はこね だいにごう)隧道
    国府津方坑門
    右坑門 旧上り線用隧道(現用) 516.37m
    左坑門 旧下り線用隧道(廃止) 532.09m

    神奈川県足柄上郡山北町山北3521
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第2号隧道<br />旧下り線用<br />国府津方坑門<br />接写<br />アーチ部分が石積構造に対し、内部構築は煉瓦積。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町山北3521<br />御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

    山北-谷峨間



    箱根第2号隧道
    旧下り線用
    国府津方坑門
    接写
    アーチ部分が石積構造に対し、内部構築は煉瓦積。

    神奈川県足柄上郡山北町山北3521
    御殿場線山北駅北口 富士急湘南バス大野山入口停留所降車 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第1酒匂川(だいいち さかわがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />①英國製<br />錬鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×1連<br />②英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製 下路ダブルワーレントラス構桁 径間61.0m(200ft)×1連<br />が架橋された。<br />山北-小山(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工し、該工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭、増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、既成線改良工事が実施された。<br />即ち、強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、米國人技師 テオドール・クーパー(Theodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・C・シュナイダー(Carl.C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に依る、<br />①米國製<br />鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間23.8m(71ft)×1連<br />②米國ペンコイド(PENCOYDE)社製<br />鋼鐡製 下路曲弦プラットトラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連<br />が架橋され、該改良工事として、既成線橋梁も新線同様の橋梁に架替が施工され、同年6月10日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。<br />大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が竣工し、旧上り線橋梁は廃橋になり、旧下り線橋梁が本線として残存し継続使用された。<br />旧上り線用橋梁は大東亜戦争後も残存したが、戦争激化に依り不要不急工事決定で建設工事が中断させられた樽見線(現 樽見鉄道)建設工事が昭和28年(1953年)に再開が決定し、旧上り線②が該線揖斐川橋梁として転用する為に撤去再用された。<br />然し、②の老朽化が深刻な状態と判定された事から、昭和58年(1983年)に、廃橋で橋梁が撤去された旧上り線跡を活用し、<br />①国産<br />鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.0m(70ft)×1連<br />②国産<br />鋼鐡製 下路プラットトラス構桁 径間60.0m(200ft)×1連<br />に架替られ、橋台、及び、橋脚も新製された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野754<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩5分

    山北-谷峨間



    第1酒匂川(だいいち さかわがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    ①英國製
    錬鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.3m(70ft)×1連
    ②英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製 下路ダブルワーレントラス構桁 径間61.0m(200ft)×1連
    が架橋された。
    山北-小山(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工し、該工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭、増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、既成線改良工事が実施された。
    即ち、強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、米國人技師 テオドール・クーパー(Theodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・C・シュナイダー(Carl.C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に依る、
    ①米國製
    鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間23.8m(71ft)×1連
    ②米國ペンコイド(PENCOYDE)社製
    鋼鐡製 下路曲弦プラットトラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連
    が架橋され、該改良工事として、既成線橋梁も新線同様の橋梁に架替が施工され、同年6月10日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。
    大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が竣工し、旧上り線橋梁は廃橋になり、旧下り線橋梁が本線として残存し継続使用された。
    旧上り線用橋梁は大東亜戦争後も残存したが、戦争激化に依り不要不急工事決定で建設工事が中断させられた樽見線(現 樽見鉄道)建設工事が昭和28年(1953年)に再開が決定し、旧上り線②が該線揖斐川橋梁として転用する為に撤去再用された。
    然し、②の老朽化が深刻な状態と判定された事から、昭和58年(1983年)に、廃橋で橋梁が撤去された旧上り線跡を活用し、
    ①国産
    鋼鐡製 上路プレートガーダー橋桁 径間21.0m(70ft)×1連
    ②国産
    鋼鐡製 下路プラットトラス構桁 径間60.0m(200ft)×1連
    に架替られ、橋台、及び、橋脚も新製された。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野754
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩5分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第1酒匂川橋梁<br />旧下り線橋台跡<br />現用橋梁<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野754<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩5分

    山北-谷峨間



    第1酒匂川橋梁
    旧下り線橋台跡
    現用橋梁

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野754
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩5分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第1酒匂川橋梁<br />上流側<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野147<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩2分

    山北-谷峨間



    第1酒匂川橋梁
    上流側

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野147
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩2分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />酒匂(さかわ)仮信号所跡<br />該信号所は、大正4年(1915年)2月15日開設である。<br />第1酒匂川橋梁修復工事の為に、山北-酒匂間を単線運転して工事を施工。<br />同年6月20日附で工事完了した事から廃止された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野758<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩7分

    山北-谷峨間



    酒匂(さかわ)仮信号所跡
    該信号所は、大正4年(1915年)2月15日開設である。
    第1酒匂川橋梁修復工事の為に、山北-酒匂間を単線運転して工事を施工。
    同年6月20日附で工事完了した事から廃止された。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野758
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南四軒屋停留所降車 徒歩7分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />全景<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野225<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩1分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    全景

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野225
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩1分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川(だいに さかわがわ)橋梁<br />該橋梁は、現在に至るまで2回掛架替が実施されている。<br />即ち、<br />1)明治19年(1886年)6月に工部省が発注し翌明治20年(1887年)英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製造の初代橋梁で、英国人鉄道技師 POWNALL(生没不明)が設計した錬鉄製ポニー・ワーレントラス橋28.6m×3連で上下弦材は鋼鉄を使用。<br />大正4年(1915年)架替。<br />2)明治8年(1875年)製造の錬鉄製複線型ポニー・ワーレントラス橋28.6m×3連で、元来は第2代六郷川橋梁に使用された転用品で、複線仕様だった該橋を単線仕様に改造して架橋した。<br />昭和18年(1943年)に単線化時に上り線が使用中止のまま終戦となり、内2連はタイ国クワイ川橋梁が昭和19年(1944年)に英空軍に依り爆撃落橋した2連の本格復旧に転用すべく、昭和21年(1946年)に現地に送られ架橋した。<br />該橋梁は、昭和40年(1965年)まで使用され、撤去後、鉄道記念物にしてされ、1連は東海旅客鉄道三島社員研修センターで保管。<br />1連は複線仕様に復元され明治村で展示使用。<br />3)昭和40年(1965年)架橋。<br />箱型断面 プレートガーター橋3連。<br />橋台、及び、橋脚は設置当時の原型。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川(だいに さかわがわ)橋梁
    該橋梁は、現在に至るまで2回掛架替が実施されている。
    即ち、
    1)明治19年(1886年)6月に工部省が発注し翌明治20年(1887年)英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製造の初代橋梁で、英国人鉄道技師 POWNALL(生没不明)が設計した錬鉄製ポニー・ワーレントラス橋28.6m×3連で上下弦材は鋼鉄を使用。
    大正4年(1915年)架替。
    2)明治8年(1875年)製造の錬鉄製複線型ポニー・ワーレントラス橋28.6m×3連で、元来は第2代六郷川橋梁に使用された転用品で、複線仕様だった該橋を単線仕様に改造して架橋した。
    昭和18年(1943年)に単線化時に上り線が使用中止のまま終戦となり、内2連はタイ国クワイ川橋梁が昭和19年(1944年)に英空軍に依り爆撃落橋した2連の本格復旧に転用すべく、昭和21年(1946年)に現地に送られ架橋した。
    該橋梁は、昭和40年(1965年)まで使用され、撤去後、鉄道記念物にしてされ、1連は東海旅客鉄道三島社員研修センターで保管。
    1連は複線仕様に復元され明治村で展示使用。
    3)昭和40年(1965年)架橋。
    箱型断面 プレートガーター橋3連。
    橋台、及び、橋脚は設置当時の原型。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />現用橋梁<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    現用橋梁

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />JR東海313系普通電車<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    JR東海313系普通電車

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />原形は下路ワーレントラス構桁用橋脚に、昭和40年(1965年)架替の際に、旧上り線廃線側に上路プレートガーダー橋桁を設置する為に、橋台、及び、橋脚を除削痕が残る。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    原形は下路ワーレントラス構桁用橋脚に、昭和40年(1965年)架替の際に、旧上り線廃線側に上路プレートガーダー橋桁を設置する為に、橋台、及び、橋脚を除削痕が残る。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野741
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩6分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />沼津方から俯瞰<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野280<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩5分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    沼津方から俯瞰

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野280
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩5分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />関東大震災発生時、第1酒匂川橋梁下り線を貨物第423列車が進行中だったが、激震動発生と同時に、該貨物列車牽引機関車 炭水車付マレー式蒸気機関車9762号機は、直ちに真空制動機を動作させ停止手配を講じ、約6m進行後、第2酒匂川橋梁上に於いて停止した。<br />然るに、該激震の為に下り線左手丘陵が崩壊し、土砂が該列車12〜13両目を直撃した事から、該車輌間螺旋連結器部が切断され、13〜31両目貨車は脱線転覆し、該牽引機関車も機関車と炭水車の連結部を破壊切断した。<br />該列車は他復旧工事が優先された為に、現場に放置状態が続いたが、同月21日より名古屋鐵道局救援隊作業に依り復線作業が開始され、同月27日に復線作業が完了し山北駅構内に回送収納された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野225<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩2分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    関東大震災発生時、第1酒匂川橋梁下り線を貨物第423列車が進行中だったが、激震動発生と同時に、該貨物列車牽引機関車 炭水車付マレー式蒸気機関車9762号機は、直ちに真空制動機を動作させ停止手配を講じ、約6m進行後、第2酒匂川橋梁上に於いて停止した。
    然るに、該激震の為に下り線左手丘陵が崩壊し、土砂が該列車12〜13両目を直撃した事から、該車輌間螺旋連結器部が切断され、13〜31両目貨車は脱線転覆し、該牽引機関車も機関車と炭水車の連結部を破壊切断した。
    該列車は他復旧工事が優先された為に、現場に放置状態が続いたが、同月21日より名古屋鐵道局救援隊作業に依り復線作業が開始され、同月27日に復線作業が完了し山北駅構内に回送収納された。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野225
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩2分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第2酒匂川橋梁<br />JR東海313系電車<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野225<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩2分

    山北-谷峨間



    第2酒匂川橋梁
    JR東海313系電車

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野225
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩2分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />旧第3酒匂川橋梁橋脚<br />昭和47年(1972年)7月12日未明の神奈川県西部地域襲来の局地的集中豪雨に依り、該橋梁は濁流の為に橋脚ごと破壊され、該地点まで流された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所 徒歩8分

    山北-谷峨間



    旧第3酒匂川橋梁橋脚
    昭和47年(1972年)7月12日未明の神奈川県西部地域襲来の局地的集中豪雨に依り、該橋梁は濁流の為に橋脚ごと破壊され、該地点まで流された。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所 徒歩8分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />旧第3酒匂川橋梁橋脚<br />拡大<br />煉瓦構築物残骸。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩8分

    山北-谷峨間



    旧第3酒匂川橋梁橋脚
    拡大
    煉瓦構築物残骸。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩8分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第3酒匂川(だいさん さかわがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、<br />①英國製<br />錬鐡製 下路ポニーワーレン構桁 径間28.6m(94ft)×1連<br />②英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鐡製 下路ダブルワーレントラス構桁 径間61.0m(200ft)×1連<br />が架橋された。<br />山北-小山(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工し、該工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭、増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、既成線改良工事が実施された。<br />即ち、強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、米國人技師 テオドール・クーパー(Theodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・C・シュナイダー(Carl.C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に依る、<br />①米國製<br />鋼鐡製 下路ポニーワーレントラス構桁 径間28.6m(94ft)×1連<br />②米國ペンコイド(PENCOYDE)社製<br />鋼鐡製 下路曲弦プラットトラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連<br />が架橋され、該改良工事として、既成線橋梁も新橋同様の構桁に架替が施工され、同年6月10日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。<br />その後、次世代大型蒸気機関車導入計画が具体化した事から、大正5年(1916年)に、上下線共に、<br />①国産 川崎造船所製<br />鋼鐡製 下路プラットトラス構桁 径間29.9m(98ft)×1連<br />に架替が実施された。<br />大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が竣工し、旧上り線橋梁は廃橋になり、旧下り線橋梁が本線として残存し継続使用された。<br />旧上り線用橋梁は大東亜戦争後も残存したが、戦争激化に依り不要不急工事決定で建設工事が中断させられた樽見線(現 樽見鉄道)建設工事が昭和28年(1953年)に再開が決定された事で、旧上り線用①②が現地から撤去され、該線揖斐川橋梁用に転用され、橋台、及び、橋脚跡が残存した。<br />然し、②の老朽化が深刻な状態と判定された事から、昭和42年(1967年)に、廃橋で橋梁が撤去された旧上り線跡を活用し、<br />②国産<br />鋼鐡製 下路ワーレントラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連<br />に架替られた。<br />然るに、昭和47年(1972年)7月12日未明に、神奈川県西部地域を襲来した局地的集中豪雨に依り、酒匂川上流域に発生した異常出水状態の為に、該橋は、橋台、及び、橋脚が破壊流出させ、該橋は、橋桁2連共に該河川に落下し、橋脚に至っては、第2酒匂川橋梁下流部付近まで押出された。<br />日本国有鉄道は、取敢えず応急復旧の為に、現地に仮橋梁を設置し、上路プレートガーダー橋桁 径間13.0m(40ft)×7連を構築して仮開通させた。<br />該橋梁の本復旧は、河川管理監督官庁たる建設省、及び、国土庁とも協議し、該河川支間拡大を実施すべく、国府津方橋台を約30m後退させ、<br />②構桁を修復させ架橋位置を沼津方から国府津方に変更し、元②位置に、当時の国鉄の財政状態に鑑み、東海道本線磐田-天竜川間に架橋されていた天竜川橋梁旧下り線用 国産鋼鐡製 下路曲弦ワーレントラス構桁 径間62.4m(202ft)×19連中1連を再用架橋させた。<br />写真奥から①②<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

    山北-谷峨間



    第3酒匂川(だいさん さかわがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles.A.POWNALL)(生没年不詳)設計に依る、
    ①英國製
    錬鐡製 下路ポニーワーレン構桁 径間28.6m(94ft)×1連
    ②英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鐡製 下路ダブルワーレントラス構桁 径間61.0m(200ft)×1連
    が架橋された。
    山北-小山(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工し、該工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭、増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、既成線改良工事が実施された。
    即ち、強度強化、及び、建築限界拡大を目的として、米國人技師 テオドール・クーパー(Theodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・C・シュナイダー(Carl.C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に依る、
    ①米國製
    鋼鐡製 下路ポニーワーレントラス構桁 径間28.6m(94ft)×1連
    ②米國ペンコイド(PENCOYDE)社製
    鋼鐡製 下路曲弦プラットトラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連
    が架橋され、該改良工事として、既成線橋梁も新橋同様の構桁に架替が施工され、同年6月10日以降は、既成線が上り線専用、新線が下り線専用になった。
    その後、次世代大型蒸気機関車導入計画が具体化した事から、大正5年(1916年)に、上下線共に、
    ①国産 川崎造船所製
    鋼鐡製 下路プラットトラス構桁 径間29.9m(98ft)×1連
    に架替が実施された。
    大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が竣工し、旧上り線橋梁は廃橋になり、旧下り線橋梁が本線として残存し継続使用された。
    旧上り線用橋梁は大東亜戦争後も残存したが、戦争激化に依り不要不急工事決定で建設工事が中断させられた樽見線(現 樽見鉄道)建設工事が昭和28年(1953年)に再開が決定された事で、旧上り線用①②が現地から撤去され、該線揖斐川橋梁用に転用され、橋台、及び、橋脚跡が残存した。
    然し、②の老朽化が深刻な状態と判定された事から、昭和42年(1967年)に、廃橋で橋梁が撤去された旧上り線跡を活用し、
    ②国産
    鋼鐡製 下路ワーレントラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連
    に架替られた。
    然るに、昭和47年(1972年)7月12日未明に、神奈川県西部地域を襲来した局地的集中豪雨に依り、酒匂川上流域に発生した異常出水状態の為に、該橋は、橋台、及び、橋脚が破壊流出させ、該橋は、橋桁2連共に該河川に落下し、橋脚に至っては、第2酒匂川橋梁下流部付近まで押出された。
    日本国有鉄道は、取敢えず応急復旧の為に、現地に仮橋梁を設置し、上路プレートガーダー橋桁 径間13.0m(40ft)×7連を構築して仮開通させた。
    該橋梁の本復旧は、河川管理監督官庁たる建設省、及び、国土庁とも協議し、該河川支間拡大を実施すべく、国府津方橋台を約30m後退させ、
    ②構桁を修復させ架橋位置を沼津方から国府津方に変更し、元②位置に、当時の国鉄の財政状態に鑑み、東海道本線磐田-天竜川間に架橋されていた天竜川橋梁旧下り線用 国産鋼鐡製 下路曲弦ワーレントラス構桁 径間62.4m(202ft)×19連中1連を再用架橋させた。
    写真奥から①②

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第3酒匂川橋梁<br />旧東海道本線天竜川橋梁<br />下路曲弦ワーレントラス構桁<br />転用橋梁。<br />該橋梁構桁は、東海道本線富士川下り線、大井川下り線、天竜川上下線、各橋梁、及び、台湾台中線橋梁で現役使用中。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

    山北-谷峨間



    第3酒匂川橋梁
    旧東海道本線天竜川橋梁
    下路曲弦ワーレントラス構桁
    転用橋梁。
    該橋梁構桁は、東海道本線富士川下り線、大井川下り線、天竜川上下線、各橋梁、及び、台湾台中線橋梁で現役使用中。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />第3酒匂川橋梁<br />旧橋脚跡<br />昭和47年(1972年)7月12日未明に神奈川県西部地域に襲来した集中豪雨に依り、酒匂川が上流域に於いて異常増水し、橋脚を破壊流失時の痕跡。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

    山北-谷峨間



    第3酒匂川橋梁
    旧橋脚跡
    昭和47年(1972年)7月12日未明に神奈川県西部地域に襲来した集中豪雨に依り、酒匂川が上流域に於いて異常増水し、橋脚を破壊流失時の痕跡。

    神奈川県足柄上郡山北町都夫良野無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第34号(はこね だいさん よんごう)隧道<br />国府津方坑門<br />左坑門 旧下り線用隧道(廃止)629.0m<br />右坑門 旧上り線用隧道(現用)629.0m<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町平山無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

    山北-谷峨間



    箱根第34号(はこね だいさん よんごう)隧道
    国府津方坑門
    左坑門 旧下り線用隧道(廃止)629.0m
    右坑門 旧上り線用隧道(現用)629.0m

    神奈川県足柄上郡山北町平山無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南瀬戸六軒屋停留所降車 徒歩12分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第3号、及び、第4号隧道間山崩壊現場<br />写真山並中央凹部が関東大震災山腹崩壊現場。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町平山無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南嵐入口停留所降車 徒歩3分

    山北-谷峨間



    箱根第3号、及び、第4号隧道間山崩壊現場
    写真山並中央凹部が関東大震災山腹崩壊現場。

    神奈川県足柄上郡山北町平山無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南嵐入口停留所降車 徒歩3分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第3号、及び、第4号隧道間山崩壊現場<br />写真中央の凹部は山並みを形成していたが、関東大震災の激震で該部分で山津波が発生し該隧道を含め現地を埋没させた。<br />仮復旧後、再被害防止の為に、第3号、及び、第4号隧道間を防護壁で連結させ1本隧道化させた。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町平山無番地<br />御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南嵐入口停留所降車 徒歩3分

    山北-谷峨間



    箱根第3号、及び、第4号隧道間山崩壊現場
    写真中央の凹部は山並みを形成していたが、関東大震災の激震で該部分で山津波が発生し該隧道を含め現地を埋没させた。
    仮復旧後、再被害防止の為に、第3号、及び、第4号隧道間を防護壁で連結させ1本隧道化させた。

    神奈川県足柄上郡山北町平山無番地
    御殿場線山北駅北口 富士急バス湘南嵐入口停留所降車 徒歩3分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />箱根第34号(はこね だいさん よんごう)隧道<br />沼津方坑門<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1021<br />御殿場線谷峨駅 徒歩8分

    山北-谷峨間



    箱根第34号(はこね だいさん よんごう)隧道
    沼津方坑門

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1021
    御殿場線谷峨駅 徒歩8分

  • 山北-谷峨間<br /><br /><br /><br />畑川(はたけがわ)橋梁<br />国産鋼鉄製<br />プレートガーダー橋桁<br />支間12.19m(40ft)×1連<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1021<br />御殿場線谷峨駅 徒歩8分

    山北-谷峨間



    畑川(はたけがわ)橋梁
    国産鋼鉄製
    プレートガーダー橋桁
    支間12.19m(40ft)×1連

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1021
    御殿場線谷峨駅 徒歩8分

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />遠景<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1020<br />御殿場線谷峨駅 徒歩6分

    谷峨駅



    駅構内
    遠景

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1020
    御殿場線谷峨駅 徒歩6分

    谷峨駅

  • 谷峨(やが)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、昭和22年(1947年)7月15日開業である。<br />然し、該駅開業前に、明治40年(1907年)3月15日設置の谷峨信号所が嚆矢である。<br />同年同月16日に帝國鐵道庁は、急行列車増発、及び、旅客列車速度向上を目的として、東海道本線、及び、山陽本線に於いて、時刻改正実施の為に、該実施前日に該信号所が設置された。<br />即ち、山北-小山(現 駿河小山)間に該信号所が設置され、下り線側に対し転向線が設置された事で、運転速度が遅い貨物列車を退避させ、旅客列車を先行させる事が可能になった。<br />該駅付近は山峡地帯に存在する為に、自然災害を受け易く、度々不通になる事も珍しくなく、殊に、該信号所開設年たる8月24日に、大型台風が中部地方に上陸し関東東北を通過したが、該風水害に依り、第1酒匂川橋梁は橋脚流失に依り落橋被害が発生した事から、帝國鐵道庁では、同年27日に該信号所付近に臨時乗降場を設置し、同年9月8日まで、山北-谷峨間4.1kmは徒歩連絡とした。<br />同日に、第1酒匂川橋梁がプレートガーダー橋桁を使用して単線で仮復旧した事から、山北-小山間での単線運転が可能になったが、該区間は当時としても列車本数が数多く運転され、8.7kmの単線運転は非能率を免れず、此の為に、同月19日に該信号所に上下線間渡線を挿入し、単線運転区間は山北-谷峨間に短縮され同年10月2日に完全複線運転復旧まで使用された。<br />関東大震災発生と同時に、該信号所本屋は倒壊したが、職員に死傷者は発生しなかった。<br />然るに、該信号所付近一帯に於ける被害が著しく、谷峨-駿河(現 駿河小山)間は同年10月21日、山北-谷峨間単線開通は同月22日、複線復旧は同月28日に竣工するまで、山北-谷峨間は、9月21日から10月21日まで徒歩連絡を余儀無くされた。<br />此の間、徒歩連絡旅客の荷物運搬の為に多数の荷役人足が参集したが、中には、いかがわしい雲助人足も出没し旅客間に苦情が絶えなかった事から、鐵道省は9月26日を期し荷役人足は谷峨村民に限定された。<br />該駅開業当時、該線内の駅で不正乗車が一番多いとされた。<br />即ち、当時の該駅付近は神奈川県内に於ける数少ない高原野菜生産地であり、当時の食糧事情を反映し、列車区間への乗車券発売制限の為に、定期券等々で乗越する為で、それ故、開業早々、旅客収入は該線他駅を圧倒していた。<br />駅昇格から終始貨物扱は無く、平成元年(1989年)12月16日附で該線に列車集中指令装置(CTC)が設置され、交換可能駅に於けるポイント切換の為の要員が不要となり、且つ、乗降客減少を理由に、平成9年(1997年)3月22日時刻改正を以って、該駅は無人化された。<br />暫くは、初代駅本屋が残存したが、自動券売機跡をベニア板で塞いだ痕が残るなど、無残な姿を残存させていたが、平成12年(2000年)3月6日に現第2代目駅本屋が建築され面目を一新した。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨(やが)駅



    駅本屋
    該駅は、昭和22年(1947年)7月15日開業である。
    然し、該駅開業前に、明治40年(1907年)3月15日設置の谷峨信号所が嚆矢である。
    同年同月16日に帝國鐵道庁は、急行列車増発、及び、旅客列車速度向上を目的として、東海道本線、及び、山陽本線に於いて、時刻改正実施の為に、該実施前日に該信号所が設置された。
    即ち、山北-小山(現 駿河小山)間に該信号所が設置され、下り線側に対し転向線が設置された事で、運転速度が遅い貨物列車を退避させ、旅客列車を先行させる事が可能になった。
    該駅付近は山峡地帯に存在する為に、自然災害を受け易く、度々不通になる事も珍しくなく、殊に、該信号所開設年たる8月24日に、大型台風が中部地方に上陸し関東東北を通過したが、該風水害に依り、第1酒匂川橋梁は橋脚流失に依り落橋被害が発生した事から、帝國鐵道庁では、同年27日に該信号所付近に臨時乗降場を設置し、同年9月8日まで、山北-谷峨間4.1kmは徒歩連絡とした。
    同日に、第1酒匂川橋梁がプレートガーダー橋桁を使用して単線で仮復旧した事から、山北-小山間での単線運転が可能になったが、該区間は当時としても列車本数が数多く運転され、8.7kmの単線運転は非能率を免れず、此の為に、同月19日に該信号所に上下線間渡線を挿入し、単線運転区間は山北-谷峨間に短縮され同年10月2日に完全複線運転復旧まで使用された。
    関東大震災発生と同時に、該信号所本屋は倒壊したが、職員に死傷者は発生しなかった。
    然るに、該信号所付近一帯に於ける被害が著しく、谷峨-駿河(現 駿河小山)間は同年10月21日、山北-谷峨間単線開通は同月22日、複線復旧は同月28日に竣工するまで、山北-谷峨間は、9月21日から10月21日まで徒歩連絡を余儀無くされた。
    此の間、徒歩連絡旅客の荷物運搬の為に多数の荷役人足が参集したが、中には、いかがわしい雲助人足も出没し旅客間に苦情が絶えなかった事から、鐵道省は9月26日を期し荷役人足は谷峨村民に限定された。
    該駅開業当時、該線内の駅で不正乗車が一番多いとされた。
    即ち、当時の該駅付近は神奈川県内に於ける数少ない高原野菜生産地であり、当時の食糧事情を反映し、列車区間への乗車券発売制限の為に、定期券等々で乗越する為で、それ故、開業早々、旅客収入は該線他駅を圧倒していた。
    駅昇格から終始貨物扱は無く、平成元年(1989年)12月16日附で該線に列車集中指令装置(CTC)が設置され、交換可能駅に於けるポイント切換の為の要員が不要となり、且つ、乗降客減少を理由に、平成9年(1997年)3月22日時刻改正を以って、該駅は無人化された。
    暫くは、初代駅本屋が残存したが、自動券売機跡をベニア板で塞いだ痕が残るなど、無残な姿を残存させていたが、平成12年(2000年)3月6日に現第2代目駅本屋が建築され面目を一新した。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />実際には本屋とは名ばかり、無人駅の為に待合室のみ。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅



    駅本屋
    実際には本屋とは名ばかり、無人駅の為に待合室のみ。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅



    駅構内
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景<br />嘗ては東京発着11両編成電車が存在した為に、ホーム有効長が有ったが、該列車廃止後はホームが半分以下になった。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8<br />

    谷峨駅



    駅構内
    全景
    嘗ては東京発着11両編成電車が存在した為に、ホーム有効長が有ったが、該列車廃止後はホームが半分以下になった。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />旧谷峨信号場転向線<br />スイッチバックで手前まで列車が入線した跡。<br />盛土が痕跡<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅



    旧谷峨信号場転向線
    スイッチバックで手前まで列車が入線した跡。
    盛土が痕跡
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />開駅50周年記念碑<br />該駅が昭和22年(1947年)7月15日に開駅し、平成9年(1997年)に50周年を迎えた事を記念して山北町が建立。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅



    開駅50周年記念碑
    該駅が昭和22年(1947年)7月15日に開駅し、平成9年(1997年)に50周年を迎えた事を記念して山北町が建立。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅

  • 谷峨駅<br /><br /><br /><br />開駅50周年記念碑<br />該碑に、<br />鐵道唱歌 第13番<br />いでてはくぐるトンネルの<br />(いでては くぐる とんねんるの)<br />前後は山北小山驛<br />(ぜんごは やまきた おやまえき)<br />今もわすれぬ鐡橋の<br />(いまも わすれぬ てっきょうの)<br />下ゆく水のおもしろさ♪<br />(したゆく みずの おおしろさ)<br />と刻印されている。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅



    開駅50周年記念碑
    該碑に、
    鐵道唱歌 第13番
    いでてはくぐるトンネルの
    (いでては くぐる とんねんるの)
    前後は山北小山驛
    (ぜんごは やまきた おやまえき)
    今もわすれぬ鐡橋の
    (いまも わすれぬ てっきょうの)
    下ゆく水のおもしろさ♪
    (したゆく みずの おおしろさ)
    と刻印されている。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨駅

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />旧信号場<br />旧転向線分岐地点跡<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨-駿河小山間



    旧信号場
    旧転向線分岐地点跡
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />旧信号場<br />旧転向線分岐地点跡<br />写真右手空間が転向線跡<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

    谷峨-駿河小山間



    旧信号場
    旧転向線分岐地点跡
    写真右手空間が転向線跡
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B0%B7%E5%B3%A8

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号隧道<br />国府津方<br />俯瞰<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨303<br />御殿場線谷峨駅 徒歩7分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号隧道
    国府津方
    俯瞰

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨303
    御殿場線谷峨駅 徒歩7分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号(はこね だいごごう)隧道<br />国府津方坑門<br />右坑門 旧上り線用隧道(廃止)275.53m<br />左坑門 旧下り線用隧道(現用)287.27m<br />該コンクリート壁は短波送信所空襲防御の為に設置された。<br /><br />神奈川県足柄下郡山北町谷峨303<br />御殿場線谷峨駅 徒歩7分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号(はこね だいごごう)隧道
    国府津方坑門
    右坑門 旧上り線用隧道(廃止)275.53m
    左坑門 旧下り線用隧道(現用)287.27m
    該コンクリート壁は短波送信所空襲防御の為に設置された。

    神奈川県足柄下郡山北町谷峨303
    御殿場線谷峨駅 徒歩7分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5隧道<br />旧下り線用<br />現用<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨305<br />御殿場線谷峨駅 徒歩8分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5隧道
    旧下り線用
    現用

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨305
    御殿場線谷峨駅 徒歩8分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号隧道<br />旧上り線用(廃止)<br />隧道内部壁面<br />結露が著しい。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨183<br />御殿場線谷峨駅 徒歩15分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号隧道
    旧上り線用(廃止)
    隧道内部壁面
    結露が著しい。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨183
    御殿場線谷峨駅 徒歩15分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号隧道<br />旧上り線(廃止)<br />隧道内部壁面<br />典型的な英國煉瓦積様式<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩21分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号隧道
    旧上り線(廃止)
    隧道内部壁面
    典型的な英國煉瓦積様式

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩21分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号隧道<br />旧下り線用(現用)<br />沼津方抗門<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩15分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号隧道
    旧下り線用(現用)
    沼津方抗門

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩15分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号隧道<br />旧下り線用(現用)<br />沼津方抗門<br />遠景<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩15分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号隧道
    旧下り線用(現用)
    沼津方抗門
    遠景

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩15分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第5号隧道<br />旧上り線用(廃止)<br />沼津方<br />坑門<br />明治21年(1888年)建築<br />当時の建築限界は狭小。<br />該隧道は、大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日〜昭和20年(1945年)8月15日)末期、サイパン島陸海軍守備隊全滅に伴ふ失陥に依る日本本土への直接空襲が現実味を帯びて来た事から、運輸通信省逓信院は空襲被災に依る海外向短波放送送信途絶を懸念し、該省傘下国策企業たる國際電気通信会社に対し、短波送信機器の疎開設置を命令し、該線単線化に依り遊休施設と化していた該隧道内部に移転を決定し、昭和19年(1944年)6月に該工事に着工した。<br />短波送信機器は、茨城県八俣、栃木県小山、及び、愛知県依佐美設置機器を谷峨信号所宛に送達し移設させた。<br />同年12月に該工事が竣工し、該社足柄送信所として稼動開始し、新京、上海、昭南(シンガポール)、ボンベイ(ムンバイ)、アメリカ大陸向放送を開始し、我が国将兵向慰問番組でハイケンスのセレナードが前奏で使われていた 前線へ送る夕べ 等々の放送も該送信所から送られた。<br />同時に、陸海軍専用短波送信機も設置され、外国駐在武官や、陸軍前線司令部、海軍艦隊司令部宛暗号電信が扱れれた。<br />但し、該隧道内部は結露が著しい事から、漏電対策には苦労したとされる。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩14分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第5号隧道
    旧上り線用(廃止)
    沼津方
    坑門
    明治21年(1888年)建築
    当時の建築限界は狭小。
    該隧道は、大東亜戦争(昭和16年(1941年)12月8日〜昭和20年(1945年)8月15日)末期、サイパン島陸海軍守備隊全滅に伴ふ失陥に依る日本本土への直接空襲が現実味を帯びて来た事から、運輸通信省逓信院は空襲被災に依る海外向短波放送送信途絶を懸念し、該省傘下国策企業たる國際電気通信会社に対し、短波送信機器の疎開設置を命令し、該線単線化に依り遊休施設と化していた該隧道内部に移転を決定し、昭和19年(1944年)6月に該工事に着工した。
    短波送信機器は、茨城県八俣、栃木県小山、及び、愛知県依佐美設置機器を谷峨信号所宛に送達し移設させた。
    同年12月に該工事が竣工し、該社足柄送信所として稼動開始し、新京、上海、昭南(シンガポール)、ボンベイ(ムンバイ)、アメリカ大陸向放送を開始し、我が国将兵向慰問番組でハイケンスのセレナードが前奏で使われていた 前線へ送る夕べ 等々の放送も該送信所から送られた。
    同時に、陸海軍専用短波送信機も設置され、外国駐在武官や、陸軍前線司令部、海軍艦隊司令部宛暗号電信が扱れれた。
    但し、該隧道内部は結露が著しい事から、漏電対策には苦労したとされる。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩14分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第6号隧道<br />沼津方<br />坑門<br />下橋台は<br />第1相澤川橋梁橋台跡

    谷峨-駿河小山間



    箱根第6号隧道
    沼津方
    坑門
    下橋台は
    第1相澤川橋梁橋台跡

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第1相澤川(だいいち あいざわがわ)橋梁<br />旧上り線用(廃橋)<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る<br />英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鋼鐡混在<br />下路ダブルワーレントラス構桁 径間61.0m(200ft)×1連<br />が架橋された。<br />山北-駿河(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手した。<br />既存橋梁は強度に問題を有し、且つ、建築限界が狭隘な事から、該強化拡大を目的として新設橋梁と同じ、<br />米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る<br />米國ペンコイド(PENCOYDE)社製<br />鋼鐡製<br />下路曲弦プラットトラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連<br />に架替が実施され、明治34年(1901年)6月11日に複線化工事竣工後、既存線は上り線専用になった。<br />その後、該状態が継続し、大東亜戦争決戦体制強化に伴い、該線全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日迄に単線化工事が完了し、該橋梁上の軌条が撤去転用され、該橋梁は廃橋になった。<br />該橋梁は、大東亜戦争終結後も残存したが、戦争激化に伴い不要不急工事として建設中断された樽見線(現 樽見鉄道)建設工事再開が昭和28年(1953年)に決定し、該橋梁は該線揖斐川橋梁として転用される事になり、此の為に該地より撤去架橋され、揖斐川橋梁として現役である。<br />橋桁は撤去されたが橋台が現存する。<br />因みに、橋梁名は相澤川だが該橋梁架橋河川名は鮎澤(あゆざわ)川である。<br />明治期には、時として現地名と事実名が相違する事例が存在し、一例として、中央本線淺川(現 高尾)-与瀬(現 相模湖)間に存在する湯ノ花(ゆのはな)隧道が貫通存在する山岳名は、猪ノ鼻(いのはな)山である。<br />何故に名称相違が存在するのか理解困難である。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1062<br />御殿場線谷峨駅 徒歩20分

    谷峨-駿河小山間



    第1相澤川(だいいち あいざわがわ)橋梁
    旧上り線用(廃橋)
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る
    英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鋼鐡混在
    下路ダブルワーレントラス構桁 径間61.0m(200ft)×1連
    が架橋された。
    山北-駿河(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手した。
    既存橋梁は強度に問題を有し、且つ、建築限界が狭隘な事から、該強化拡大を目的として新設橋梁と同じ、
    米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る
    米國ペンコイド(PENCOYDE)社製
    鋼鐡製
    下路曲弦プラットトラス構桁 径間62.4m(202ft)×1連
    に架替が実施され、明治34年(1901年)6月11日に複線化工事竣工後、既存線は上り線専用になった。
    その後、該状態が継続し、大東亜戦争決戦体制強化に伴い、該線全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日迄に単線化工事が完了し、該橋梁上の軌条が撤去転用され、該橋梁は廃橋になった。
    該橋梁は、大東亜戦争終結後も残存したが、戦争激化に伴い不要不急工事として建設中断された樽見線(現 樽見鉄道)建設工事再開が昭和28年(1953年)に決定し、該橋梁は該線揖斐川橋梁として転用される事になり、此の為に該地より撤去架橋され、揖斐川橋梁として現役である。
    橋桁は撤去されたが橋台が現存する。
    因みに、橋梁名は相澤川だが該橋梁架橋河川名は鮎澤(あゆざわ)川である。
    明治期には、時として現地名と事実名が相違する事例が存在し、一例として、中央本線淺川(現 高尾)-与瀬(現 相模湖)間に存在する湯ノ花(ゆのはな)隧道が貫通存在する山岳名は、猪ノ鼻(いのはな)山である。
    何故に名称相違が存在するのか理解困難である。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1062
    御殿場線谷峨駅 徒歩20分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第1相澤川橋梁<br />沼津方<br />橋台跡<br />熊笹に覆われ識別困難。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1062<br />御殿場線谷峨駅 徒歩20分

    谷峨-駿河小山間



    第1相澤川橋梁
    沼津方
    橋台跡
    熊笹に覆われ識別困難。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1062
    御殿場線谷峨駅 徒歩20分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />旧上り線用路盤跡<br />旧第1相澤川橋梁神戸方橋台付近から、旧箱根第6号隧道を経て旧第2相澤川橋梁国府津方橋台に至る旧上り線廃線跡は、昭和50年(1975年)前後まで軌条、及び、枕木が撤去された状態で半ば放置状態だったが、並行する国道246号線道路拡張計画が浮上し、該計画実施の為に、日本国有鉄道所有地を大蔵省管理地に移管させ、更に、建設省に管理地に再移管させた。<br />該隧道は該道路拡張計障害になる事から埋没させ該上部が拡張敷地となった。<br />他方、一部土地は払下され民有地になったが、残存路盤部は整備舗装され、地元生活道路の一部になった。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨諸淵1088<br />御殿場線谷峨駅 徒歩22分

    谷峨-駿河小山間



    旧上り線用路盤跡
    旧第1相澤川橋梁神戸方橋台付近から、旧箱根第6号隧道を経て旧第2相澤川橋梁国府津方橋台に至る旧上り線廃線跡は、昭和50年(1975年)前後まで軌条、及び、枕木が撤去された状態で半ば放置状態だったが、並行する国道246号線道路拡張計画が浮上し、該計画実施の為に、日本国有鉄道所有地を大蔵省管理地に移管させ、更に、建設省に管理地に再移管させた。
    該隧道は該道路拡張計障害になる事から埋没させ該上部が拡張敷地となった。
    他方、一部土地は払下され民有地になったが、残存路盤部は整備舗装され、地元生活道路の一部になった。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨諸淵1088
    御殿場線谷峨駅 徒歩22分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />旧上り線用路盤跡<br />明治41年(1908年)7月23日附で、該地に取卸場(とりおえおしば)仮乗降場を設置し、小山に存在した富士瓦斯紡績より委託された大型貨物を横濱→小山→取卸場に輸送し、現地に於いて取下た。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨諸淵1095<br />御殿場線谷峨駅 徒歩24分

    谷峨-駿河小山間



    旧上り線用路盤跡
    明治41年(1908年)7月23日附で、該地に取卸場(とりおえおしば)仮乗降場を設置し、小山に存在した富士瓦斯紡績より委託された大型貨物を横濱→小山→取卸場に輸送し、現地に於いて取下た。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨諸淵1095
    御殿場線谷峨駅 徒歩24分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第2相澤川(だいに あいざわがわ)橋梁<br />旧上り線用(廃橋)<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る<br />英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鋼鐡混在<br />下路ダブルワーレントラス橋桁 径間61.0m(200ft)×1連<br />が架橋された。<br />山北-駿河(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既成線の改良工事に着手した。<br />既存橋梁は強度に問題を有し、且つ、建築限界が狭隘な事から、該強化拡大を目的として新設橋梁と同じ、<br />米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る、<br />米國ペンコイド(PENCOYDE)社製 <br />鋼鐡製<br />下路曲弦プラットトラス橋桁 径間62.4m(202ft)×1連<br />に架替が実施され、明治34年(1901年)6月11日に複線化工事竣工後、既成線は上り線専用になった。<br />その後、該状態が継続し、大東亜戦争決戦体制強化に伴い、該線全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日迄に単線化工事が完了し、該橋梁上の軌条が撤去転用され、該橋梁は廃橋になった。<br />該橋梁は、大東亜戦争終結後も残存したが、戦争激化に伴い不要不急工事として建設中断された樽見線(現 樽見鉄道)建設工事再開が昭和28年(1953年)に決定し、該橋梁は該線揖斐川橋梁として転用される事になり、此の為に該地より撤去架橋され、揖斐川橋梁として現役である。<br />橋桁は撤去されたが橋台が現存する。<br />因みに、下り線(現本線)は、鮎澤川右岸を通過する為に、第1、及び、第2相澤川橋梁は架橋当初から存在しない。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1248<br />御殿場線谷峨駅 徒歩27分

    谷峨-駿河小山間



    第2相澤川(だいに あいざわがわ)橋梁
    旧上り線用(廃橋)
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る
    英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鋼鐡混在
    下路ダブルワーレントラス橋桁 径間61.0m(200ft)×1連
    が架橋された。
    山北-駿河(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既成線の改良工事に着手した。
    既存橋梁は強度に問題を有し、且つ、建築限界が狭隘な事から、該強化拡大を目的として新設橋梁と同じ、
    米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る、
    米國ペンコイド(PENCOYDE)社製
    鋼鐡製
    下路曲弦プラットトラス橋桁 径間62.4m(202ft)×1連
    に架替が実施され、明治34年(1901年)6月11日に複線化工事竣工後、既成線は上り線専用になった。
    その後、該状態が継続し、大東亜戦争決戦体制強化に伴い、該線全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日迄に単線化工事が完了し、該橋梁上の軌条が撤去転用され、該橋梁は廃橋になった。
    該橋梁は、大東亜戦争終結後も残存したが、戦争激化に伴い不要不急工事として建設中断された樽見線(現 樽見鉄道)建設工事再開が昭和28年(1953年)に決定し、該橋梁は該線揖斐川橋梁として転用される事になり、此の為に該地より撤去架橋され、揖斐川橋梁として現役である。
    橋桁は撤去されたが橋台が現存する。
    因みに、下り線(現本線)は、鮎澤川右岸を通過する為に、第1、及び、第2相澤川橋梁は架橋当初から存在しない。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1248
    御殿場線谷峨駅 徒歩27分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第2相澤川橋梁跡<br />旧上り線用(廃止)<br />橋台<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1248<br />御殿場線谷峨駅 徒歩27分

    谷峨-駿河小山間



    第2相澤川橋梁跡
    旧上り線用(廃止)
    橋台

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1248
    御殿場線谷峨駅 徒歩27分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第2相澤川橋梁跡<br />旧上り線用(廃止)<br />橋台<br />全景<br />下流側<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1248<br />御殿場線谷峨駅 徒歩27分

    谷峨-駿河小山間



    第2相澤川橋梁跡
    旧上り線用(廃止)
    橋台
    全景
    下流側

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1248
    御殿場線谷峨駅 徒歩27分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第2相澤川橋梁<br />国府津方<br />橋台<br />写真奥に御殿場線箱根第6甲号隧道(現用)が見える。

    谷峨-駿河小山間



    第2相澤川橋梁
    国府津方
    橋台
    写真奥に御殿場線箱根第6甲号隧道(現用)が見える。

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第2相澤川橋梁<br />沼津方<br />橋台

    谷峨-駿河小山間



    第2相澤川橋梁
    沼津方
    橋台

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />現本線<br />旧下り線<br />奥に見える隧道抗門は、箱根第6甲号隧道 沼津方坑門<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨川西1062<br />御殿場線谷峨駅 徒歩25分

    谷峨-駿河小山間



    現本線
    旧下り線
    奥に見える隧道抗門は、箱根第6甲号隧道 沼津方坑門

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨川西1062
    御殿場線谷峨駅 徒歩25分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />現本線<br />旧下り線<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨川西1062<br />御殿場線谷峨駅 徒歩25分

    谷峨-駿河小山間



    現本線
    旧下り線

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨川西1062
    御殿場線谷峨駅 徒歩25分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川(だいさん あいざわがわ)橋梁<br />旧上り線用(廃橋)<br />国府津方<br />橋台<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る<br />英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製<br />錬鋼鉄混在<br />下路ダブルワーレントラス橋桁 径間61.0m(200ft)×1連<br />が架橋された。<br />山北-駿河(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手した。<br />既存橋梁は強度に問題を有し、且つ、建築限界が狭隘な事から、該強化拡大を目的として新設橋梁と同じ、<br />米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る<br />米國ペンコイド(PENCOYDE)社製<br />鋼鐡製<br />下路曲弦プラットトラス橋桁 径間62.4m(202ft)×1連<br />に架替が実施され、明治34年(1901年)6月11日に複線化工事竣工後、既存線は上り線専用になった。<br />その後、該状態が継続し、大東亜戦争決戦体制強化に伴い、該線全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日迄に単線化工事が完了し、該橋梁上の軌条が撤去転用され、該橋梁は廃橋になった。<br />該橋梁は、大東亜戦争終結後も残存したが、戦争激化に伴い不要不急工事として建設中断された樽見線(現 樽見鉄道)建設工事再開が昭和28年(1953年)に決定し、該橋梁は該線揖斐川橋梁として転用される事になり、此の為に該地より撤去架橋され、揖斐川橋梁として現役である。<br />橋桁は撤去されたが橋台が現存する。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1394<br />御殿場線谷峨駅 徒歩32分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川(だいさん あいざわがわ)橋梁
    旧上り線用(廃橋)
    国府津方
    橋台
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、英國人技師 チャールズ・A・ポーナル(Charles A.POWNALL)(生没年不詳)設計に拠る
    英國パテント・シャフト(PATENT SHAFT)社製
    錬鋼鉄混在
    下路ダブルワーレントラス橋桁 径間61.0m(200ft)×1連
    が架橋された。
    山北-駿河(現 駿河小山)間複線化工事は、明治33年(1900年)に着工したが、複線化工事進捗と共に、翌明治34年(1901年)初頭に増線分が開通し、取敢えず、運転線路を新線に移行させ、直ちに既存線の改良工事に着手した。
    既存橋梁は強度に問題を有し、且つ、建築限界が狭隘な事から、該強化拡大を目的として新設橋梁と同じ、
    米國人技師 テオドール・クーパー(Thodore COOPER)(生没年不詳)、及び、カール・D・シュナイダー(Carl C.SCHNEIDER)(生没年不詳)共同設計に拠る
    米國ペンコイド(PENCOYDE)社製
    鋼鐡製
    下路曲弦プラットトラス橋桁 径間62.4m(202ft)×1連
    に架替が実施され、明治34年(1901年)6月11日に複線化工事竣工後、既存線は上り線専用になった。
    その後、該状態が継続し、大東亜戦争決戦体制強化に伴い、該線全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日迄に単線化工事が完了し、該橋梁上の軌条が撤去転用され、該橋梁は廃橋になった。
    該橋梁は、大東亜戦争終結後も残存したが、戦争激化に伴い不要不急工事として建設中断された樽見線(現 樽見鉄道)建設工事再開が昭和28年(1953年)に決定し、該橋梁は該線揖斐川橋梁として転用される事になり、此の為に該地より撤去架橋され、揖斐川橋梁として現役である。
    橋桁は撤去されたが橋台が現存する。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1394
    御殿場線谷峨駅 徒歩32分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川<br />旧上り線橋梁<br />国府津方橋台<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1374<br />御殿場線谷峨駅 徒歩35分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川
    旧上り線橋梁
    国府津方橋台

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1374
    御殿場線谷峨駅 徒歩35分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川<br />旧上り線用<br />橋台跡<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1374<br />御殿場線谷峨駅 徒歩35分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川
    旧上り線用
    橋台跡

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨谷戸1374
    御殿場線谷峨駅 徒歩35分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川橋梁<br />旧上り線用<br />沼津方<br />橋台跡<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1394<br />御殿場線谷峨駅 徒歩38分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川橋梁
    旧上り線用
    沼津方
    橋台跡

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1394
    御殿場線谷峨駅 徒歩38分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川橋梁<br />旧下り線用(現用)<br />全景<br />総和53年(1978年)に架替<br />橋台台座も追加設置された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1395<br />御殿場線谷峨駅 徒歩40分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川橋梁
    旧下り線用(現用)
    全景
    総和53年(1978年)に架替
    橋台台座も追加設置された。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1395
    御殿場線谷峨駅 徒歩40分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川橋梁<br />沼津方正面<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1395<br />御殿場線谷峨駅 徒歩40分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川橋梁
    沼津方正面

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1395
    御殿場線谷峨駅 徒歩40分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第3相澤川橋梁<br />銘板<br />1977年(昭和52年)<br />川崎重工業製造<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1395<br />御殿場線谷峨駅 徒歩40分

    谷峨-駿河小山間



    第3相澤川橋梁
    銘板
    1977年(昭和52年)
    川崎重工業製造

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1395
    御殿場線谷峨駅 徒歩40分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />現本線<br />(旧 下り線)<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩40分

    谷峨-駿河小山間



    現本線
    (旧 下り線)

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩40分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第4相澤川(だいよん あいざわかわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、工部省技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日〜昭和2年(1927年)1月23日が、明治18年(1885年)に設計した、<br />米國製<br />鋼錬鐡混合<br />上路プラットトラス構桁 径間32.2m(95ft)×1連<br />が架橋された。<br />此れは、隣接する、第5相澤川橋梁、及び、信越本線上碓井川橋梁と共に、我が国初の日本人設計トラス橋構桁である。<br />その後、明治34年(1901年)6月11日に山北-小山間複線化の際に、鮎澤川河中に橋脚を設置し<br />米國製<br />鋼鐡<br />上路プラットガーダー橋桁 支間19.2m(35ft)×3連<br />が架橋され、新橋は下り線専用となり、既成橋は上り線専用になった。<br />上路プラットトラス構桁は、安定力を有する代わり、橋桁が川面から可能な限り高地に存在する事が望ましく、該地の如く、架橋位置が低位置の場合、河川増水時に構桁が水流に直撃され流水障害を発生させ落橋の危険性を有する。<br />明治43年(1910年)8月11日、及び、13日に関東地方を直撃した超大型台風の為に、該河川増水の為に、上り線橋梁に流水障害が原因で不安定状態が発生した事から、鐵道院は、上り線用 上路プラットトラス構桁を下り線用 プレートガーダー橋桁と同品に架替た。<br />因みに、此の時に現地から撤去された該構桁は、明治45年(1912年)に鐵道院新橋工場に於いて径間短縮改造工事を施工し、磐越西線長谷川橋梁に転用され現存する。<br />更に、大正末期から大型貨物用蒸気機関車9900型(D50型)導入に依る橋桁構造強化を目的として、昭和3年(1928年)に上下線共に、<br />国産 東京石川島造船所製造<br />鋼鐡<br />上路プレートガーダー橋桁 支間19.2m(35ft)×3連<br />に再架替が施工された。<br />該橋は、その後、大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完了し、該橋は下り線用橋梁が存続本線となり、上り線用橋梁は廃橋になった。<br />上り線用橋桁は戦後も残存したが、戦争激化に依り不要不急工事指定で建設工事が中断させられた樽見線(現 樽見鉄道)建設工事が昭和28年(1953年)に再開が決定し、上り線橋桁は樽見線用建設資材として撤去転用された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩45分

    谷峨-駿河小山間



    第4相澤川(だいよん あいざわかわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、工部省技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日〜昭和2年(1927年)1月23日が、明治18年(1885年)に設計した、
    米國製
    鋼錬鐡混合
    上路プラットトラス構桁 径間32.2m(95ft)×1連
    が架橋された。
    此れは、隣接する、第5相澤川橋梁、及び、信越本線上碓井川橋梁と共に、我が国初の日本人設計トラス橋構桁である。
    その後、明治34年(1901年)6月11日に山北-小山間複線化の際に、鮎澤川河中に橋脚を設置し
    米國製
    鋼鐡
    上路プラットガーダー橋桁 支間19.2m(35ft)×3連
    が架橋され、新橋は下り線専用となり、既成橋は上り線専用になった。
    上路プラットトラス構桁は、安定力を有する代わり、橋桁が川面から可能な限り高地に存在する事が望ましく、該地の如く、架橋位置が低位置の場合、河川増水時に構桁が水流に直撃され流水障害を発生させ落橋の危険性を有する。
    明治43年(1910年)8月11日、及び、13日に関東地方を直撃した超大型台風の為に、該河川増水の為に、上り線橋梁に流水障害が原因で不安定状態が発生した事から、鐵道院は、上り線用 上路プラットトラス構桁を下り線用 プレートガーダー橋桁と同品に架替た。
    因みに、此の時に現地から撤去された該構桁は、明治45年(1912年)に鐵道院新橋工場に於いて径間短縮改造工事を施工し、磐越西線長谷川橋梁に転用され現存する。
    更に、大正末期から大型貨物用蒸気機関車9900型(D50型)導入に依る橋桁構造強化を目的として、昭和3年(1928年)に上下線共に、
    国産 東京石川島造船所製造
    鋼鐡
    上路プレートガーダー橋桁 支間19.2m(35ft)×3連
    に再架替が施工された。
    該橋は、その後、大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完了し、該橋は下り線用橋梁が存続本線となり、上り線用橋梁は廃橋になった。
    上り線用橋桁は戦後も残存したが、戦争激化に依り不要不急工事指定で建設工事が中断させられた樽見線(現 樽見鉄道)建設工事が昭和28年(1953年)に再開が決定し、上り線橋桁は樽見線用建設資材として撤去転用された。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩45分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第4相澤川橋梁<br />旧下り線用(現用)<br />奥に見える上路トラス構桁橋梁は東名高速自動車道路<br />上路トラス構桁は深い渓谷間架橋に適し、何故、該地の如き低地に架橋されたのか、甚だ理解吝かならず。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩45分

    谷峨-駿河小山間



    第4相澤川橋梁
    旧下り線用(現用)
    奥に見える上路トラス構桁橋梁は東名高速自動車道路
    上路トラス構桁は深い渓谷間架橋に適し、何故、該地の如き低地に架橋されたのか、甚だ理解吝かならず。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩45分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第4相澤川橋梁<br />橋脚<br />該線内の他橋梁と比較して橋脚が特異な形態を有する。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩45分

    谷峨-駿河小山間



    第4相澤川橋梁
    橋脚
    該線内の他橋梁と比較して橋脚が特異な形態を有する。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩45分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />第4相澤川橋梁<br />橋台<br />初代橋梁架橋時の上路プラットトラス構桁用に低位置に橋台台座が設置され、後に上路プレートガーダー橋梁架替時に、該台座が積増された痕跡が残存。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩45分

    谷峨-駿河小山間



    第4相澤川橋梁
    橋台
    初代橋梁架橋時の上路プラットトラス構桁用に低位置に橋台台座が設置され、後に上路プレートガーダー橋梁架替時に、該台座が積増された痕跡が残存。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩45分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />相澤(あいざわ)仮信号所跡<br />該信号所は、大正4年(1915年)2月15日開設である。<br />即ち、該開通時に架橋された上路プラットトラス構桁は、明治43年(1910年)8月11日、及び、13日連続襲来の大型台風が原因で、橋台が損傷した事から、該橋梁橋脚に重量バランスに不具合が発生し、該構桁は、上り線用と同型の上路プレートガーダー橋桁に架替られた。<br />然るに、明治34年(1901年)6月11日複線化時の上り線用橋桁に対し、高重量対応処置を要する事になった為に、該橋桁を架替補修の間、該地に信号所を設置し、谷峨-相澤間を単線運転とする事で運転時刻への影響を最小限度にさせた。<br />該工事完了後、同年6月20日附で廃止された。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩55分

    谷峨-駿河小山間



    相澤(あいざわ)仮信号所跡
    該信号所は、大正4年(1915年)2月15日開設である。
    即ち、該開通時に架橋された上路プラットトラス構桁は、明治43年(1910年)8月11日、及び、13日連続襲来の大型台風が原因で、橋台が損傷した事から、該橋梁橋脚に重量バランスに不具合が発生し、該構桁は、上り線用と同型の上路プレートガーダー橋桁に架替られた。
    然るに、明治34年(1901年)6月11日複線化時の上り線用橋桁に対し、高重量対応処置を要する事になった為に、該橋桁を架替補修の間、該地に信号所を設置し、谷峨-相澤間を単線運転とする事で運転時刻への影響を最小限度にさせた。
    該工事完了後、同年6月20日附で廃止された。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩55分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />相澤(あいざわ)仮信号所跡<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩55分

    谷峨-駿河小山間



    相澤(あいざわ)仮信号所跡

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩55分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />相澤仮信号所跡<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地<br />御殿場線谷峨駅 徒歩55分

    谷峨-駿河小山間



    相澤仮信号所跡

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨柏木無番地
    御殿場線谷峨駅 徒歩55分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />招魂碑<br />明治参一年<br />招魂碑<br />第二月吉日<br />   鐵道水害工事役員一同<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1685<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩50分

    谷峨-駿河小山間



    招魂碑
    明治参一年
    招魂碑
    第二月吉日
       鐵道水害工事役員一同

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1685
    御殿場線駿河小山駅 徒歩50分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />招魂碑<br />全景<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1685<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩50分

    谷峨-駿河小山間



    招魂碑
    全景

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1685
    御殿場線駿河小山駅 徒歩50分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />招魂碑<br />明治30年(1897年)10月3日未明に襲来した大型台風の為に、山北-小山(現 駿河小山)間に於いて数箇所の築堤崩壊が発生した事から、該復旧工事の為に、職員、工事作業員や復旧資材を搭載組成された臨時工事列車が、該区間築堤流失を知らず梯子状の現場を通過しようとして進入した事から、牽引機関車1両、土運車6両が脱線転覆し築堤下の酒匂川に転落し、便乗中の職員作業員8名が死亡、17名が重軽傷する2次災害が発生した。<br />該碑は該事故死者慰霊の為に翌明治31年(1898年)2月に建立された。<br />現在では該史実を知る者も居なくなり、半ば忘却されている。<br /><br />神奈川県足柄上郡山北町谷峨1685<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩50分

    谷峨-駿河小山間



    招魂碑
    明治30年(1897年)10月3日未明に襲来した大型台風の為に、山北-小山(現 駿河小山)間に於いて数箇所の築堤崩壊が発生した事から、該復旧工事の為に、職員、工事作業員や復旧資材を搭載組成された臨時工事列車が、該区間築堤流失を知らず梯子状の現場を通過しようとして進入した事から、牽引機関車1両、土運車6両が脱線転覆し築堤下の酒匂川に転落し、便乗中の職員作業員8名が死亡、17名が重軽傷する2次災害が発生した。
    該碑は該事故死者慰霊の為に翌明治31年(1898年)2月に建立された。
    現在では該史実を知る者も居なくなり、半ば忘却されている。

    神奈川県足柄上郡山北町谷峨1685
    御殿場線駿河小山駅 徒歩50分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第7号(はこね だいななごう)隧道<br />沼津方坑門<br />該隧道は、明治22年(1889年)2月1日開通時の設置。<br />設置当時の総延長は211.23mだった。<br />その後、複線化が決定した事から、鮎澤川側に明治31年(1898年)に総延長232.87mの新隧道が竣工し、明治34年(1901年)6月11日に複線化竣工時に、新隧道は上り線専用になり、既成隧道は下り線専用になった。<br />関東大震災発生に依り、下り線用隧道内部構築に変状が発生した程度だったが、上り線用隧道は、東京方坑門上部が垂下し、且つ、該隧道内部に亀裂が多数発生し、内部構築での変状が著しい状態になった。<br />大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日附を以って上り線用隧道は廃止された。<br />戦後、該線全線電化が決定し、該隧道内部建築限界拡大工事が必要となった事から、廃止になり放置されていた上り線用隧道を簡易整備して列車を運行し、直ちに、下り線用隧道整備を施工した。<br /><br />静岡県駿東郡小山町駒沢1147<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩10分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第7号(はこね だいななごう)隧道
    沼津方坑門
    該隧道は、明治22年(1889年)2月1日開通時の設置。
    設置当時の総延長は211.23mだった。
    その後、複線化が決定した事から、鮎澤川側に明治31年(1898年)に総延長232.87mの新隧道が竣工し、明治34年(1901年)6月11日に複線化竣工時に、新隧道は上り線専用になり、既成隧道は下り線専用になった。
    関東大震災発生に依り、下り線用隧道内部構築に変状が発生した程度だったが、上り線用隧道は、東京方坑門上部が垂下し、且つ、該隧道内部に亀裂が多数発生し、内部構築での変状が著しい状態になった。
    大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定し、昭和19年(1944年)7月11日附を以って上り線用隧道は廃止された。
    戦後、該線全線電化が決定し、該隧道内部建築限界拡大工事が必要となった事から、廃止になり放置されていた上り線用隧道を簡易整備して列車を運行し、直ちに、下り線用隧道整備を施工した。

    静岡県駿東郡小山町駒沢1147
    御殿場線駿河小山駅 徒歩10分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第7号隧道<br />旧上り線用(廃止)<br />沼津方坑門<br /><br />静岡県駿東郡小山町駒沢1147<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩10分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第7号隧道
    旧上り線用(廃止)
    沼津方坑門

    静岡県駿東郡小山町駒沢1147
    御殿場線駿河小山駅 徒歩10分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />箱根第7号隧道<br />旧下り線用(現用)<br />沼津方坑門<br />関東大震災で、該隧道は内部が変状被害が発生した。<br />該線電化工事の際に坑内建築限界を拡大工事を施工。<br /><br />静岡県駿東郡小山町駒沢1147<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩10分

    谷峨-駿河小山間



    箱根第7号隧道
    旧下り線用(現用)
    沼津方坑門
    関東大震災で、該隧道は内部が変状被害が発生した。
    該線電化工事の際に坑内建築限界を拡大工事を施工。

    静岡県駿東郡小山町駒沢1147
    御殿場線駿河小山駅 徒歩10分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />大澤川(おおさわがわ)橋梁<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br /><br />静岡県駿東郡小山町東742<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

    谷峨-駿河小山間



    大澤川(おおさわがわ)橋梁
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。

    静岡県駿東郡小山町東742
    御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />大澤川橋梁<br />旧下り線用(現用)<br /><br />静岡県駿東郡小山町東742<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

    谷峨-駿河小山間



    大澤川橋梁
    旧下り線用(現用)

    静岡県駿東郡小山町東742
    御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />大澤川橋梁<br />旧下り線用(現用)<br />国産<br />鋼鉄製<br />プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連<br /><br />静岡県駿東郡小山町東742<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

    谷峨-駿河小山間



    大澤川橋梁
    旧下り線用(現用)
    国産
    鋼鉄製
    プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連

    静岡県駿東郡小山町東742
    御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />大澤川橋梁<br />旧上り線用(廃橋)<br />国産<br />鋼鉄製<br />プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連<br /><br />静岡県駿東郡小山町東742<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

    谷峨-駿河小山間



    大澤川橋梁
    旧上り線用(廃橋)
    国産
    鋼鉄製
    プレートガーダー橋桁 径間9.1m(30ft)×1連

    静岡県駿東郡小山町東742
    御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

  • 谷峨-駿河小山間<br /><br /><br /><br />大澤川橋梁<br />旧上り線用(廃橋)<br />昭和43年(1968年)4月27日に国府津-御殿場間電化時に廃橋を再用し廃止。<br /><br />静岡県駿東郡小山町東742<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

    谷峨-駿河小山間



    大澤川橋梁
    旧上り線用(廃橋)
    昭和43年(1968年)4月27日に国府津-御殿場間電化時に廃橋を再用し廃止。

    静岡県駿東郡小山町東742
    御殿場線駿河小山駅 徒歩8分

  • 駿河小山(するがおやま)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />該駅設置前は付近一帯は荒蕪地で人家も殆ど存在しない荒漠地だったが、それでも、民家3軒、春日神社、及び、花所用水の移転を余儀無くされた。<br />該駅開業当時の駅名は 小山(おやま)と称したが、既に明治18年(1885年)7月16日に日本鐵道小山停車場が開設されていた事から、双方に混乱を招来させた為に、後発の該駅に駅名改称の必要性を認識させ、鐵道院は、明治45年(1912年)3月26日附を以って、該駅新駅名を 六合(ろくごう)とする事に決定し同年5月1日より実施する旨を公示したが、実施日前日の同年4月30日に変更実施日を1箇月延期し同年6月1日実施とする事を公示した。<br />然るに、今となっては理由が定かでは無いが、何故か計画実施日前々日たる同年5月30日に翌6月1日実施を再延期し、更に新名称たる六合では無く駿河(するが)とする事に決定し、同年7月1日に実施された。<br />現在、多数の文献に該駅名は、小山→六合→駿河→駿河小山に駅名変更が3回発生したとの記述を有する物を散見するが、実際には六合は使用されず、故に駅名改称は2度が正当である。<br />小山町発展の基礎を築いたのは、明治31年(1898年)に富士瓦斯紡績小山工場設置が嚆矢である。<br />その為に、該工場で働く女工が全国から参集し該町が最盛期を迎えた。<br />大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したが、該震災に依り、該駅構内建築物に一部損傷が発生したが軽微で、該駅には東京発米原経由富山行普通第77列車が停車中だったが、人的車輌双方に被害は発生しなかった。<br />該列車は、該駅以降は運転中止され、同月18日に該駅から御殿場間開通まで、該列車客車をして駅事務室、及び、職員宿泊施設代用として活用した。<br />然るに、該駅に隣接する富士瓦斯紡績小山工場の煉瓦建築物は大音響と共に一瞬にして大崩壊した。<br />当時、該社では約8000名の女工が3交代で勤務就業しており、就業中の中で煉瓦塀の下敷きになった123名が延焼した火災の為に焼死する惨事となった。<br />山北-御殿場間は、神戸鐵道局工務課長以下で組織された特別救援隊が復旧工事に従事し、同月18日に駿河-御殿場間が単線開通するまで、線路上には多数の小山町民が押掛け、線路上は安全なりとの判断から避難者生活を送る状態だった。<br />関東大震災で壊滅的被害が発生した富士瓦斯紡績小山工場復興に伴う貨物取扱増加に対応すべく、該駅構内拡張に関する請願を、小山町他3村合同に拠り、昭和3年(1928年)6月4日に、時に第26代内閣総理大臣 田中義一(たなか ぎいち)(元治元年(1864年)7月25日〜昭和4年(1929年)9月29日)(昭和2年(1927年)4月20日〜昭和4年(1929年)7月2日在任)内閣の鐵道大臣 小川平吉(おがわ へいきち)(明治2年(1870年)1月2日〜昭和17年(1942年)2月5日)(昭和2年(1927年)4月20日〜昭和4年(1929年)7月2日在任)に対し行った。<br />然るに、元来該駅所在敷地は急斜面の狭隘地を切り開き設置された為に、若し、拡張するとすれば当時の土木技術では困難で、移転か地下化しか選択の余地が無く、更に、昭和戦前期に於ける最低最悪内閣に位置付けられたる田中内閣の、且つ、後に私鉄疑獄事件に依り親任官経験者たる逮捕有罪になる小川如き人物に対し請願など行っても、小川から見れば自身の懐にカネが入らぬ地方の取るに足らぬ一請願など一顧の価値も見出せぬに相違無く、故に、該請願は検討対象すらなり得ず黙殺された。<br />駅名に就いては駿河が旧国名たるを以って位置が漠然としているとの指摘が多く、昭和27年(1952年)1月1日附を以って駿河小山(するがおやま)駅に再改称された。<br />小田急の気動車を使用した連絡準急列車が昭和30年(1955年)10月1日より新宿-御殿場間に運転されたが、該列車運転当初は該駅は通過していた。<br />然し、小山町内に数か所のゴルフ場が整備開設された事で、地元小山町は再三に亘り該列車停車要望書を提出し、昭和38年(1963年)6月1日より該駅停車が実現した。<br />該駅開業以来、修理を重ねて来た初代駅本屋は、老朽化が著しくなった事から改築される事になり、該工事は、昭和42年(1967年)12月に着工し、該線国府津-御殿場間電化完成の昭和43年(1968年)4月27日に一部使用を開始し、同年5月11日に竣工式が盛大に開催された。<br />引続き駅前広場整備に着手し、同年10月2日に完成した。<br />昨今では乗降人員の低下から、該駅は平成24年(2012年)3月17日附を以って無人化された。<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山(するがおやま)駅



    該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
    該駅設置前は付近一帯は荒蕪地で人家も殆ど存在しない荒漠地だったが、それでも、民家3軒、春日神社、及び、花所用水の移転を余儀無くされた。
    該駅開業当時の駅名は 小山(おやま)と称したが、既に明治18年(1885年)7月16日に日本鐵道小山停車場が開設されていた事から、双方に混乱を招来させた為に、後発の該駅に駅名改称の必要性を認識させ、鐵道院は、明治45年(1912年)3月26日附を以って、該駅新駅名を 六合(ろくごう)とする事に決定し同年5月1日より実施する旨を公示したが、実施日前日の同年4月30日に変更実施日を1箇月延期し同年6月1日実施とする事を公示した。
    然るに、今となっては理由が定かでは無いが、何故か計画実施日前々日たる同年5月30日に翌6月1日実施を再延期し、更に新名称たる六合では無く駿河(するが)とする事に決定し、同年7月1日に実施された。
    現在、多数の文献に該駅名は、小山→六合→駿河→駿河小山に駅名変更が3回発生したとの記述を有する物を散見するが、実際には六合は使用されず、故に駅名改称は2度が正当である。
    小山町発展の基礎を築いたのは、明治31年(1898年)に富士瓦斯紡績小山工場設置が嚆矢である。
    その為に、該工場で働く女工が全国から参集し該町が最盛期を迎えた。
    大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したが、該震災に依り、該駅構内建築物に一部損傷が発生したが軽微で、該駅には東京発米原経由富山行普通第77列車が停車中だったが、人的車輌双方に被害は発生しなかった。
    該列車は、該駅以降は運転中止され、同月18日に該駅から御殿場間開通まで、該列車客車をして駅事務室、及び、職員宿泊施設代用として活用した。
    然るに、該駅に隣接する富士瓦斯紡績小山工場の煉瓦建築物は大音響と共に一瞬にして大崩壊した。
    当時、該社では約8000名の女工が3交代で勤務就業しており、就業中の中で煉瓦塀の下敷きになった123名が延焼した火災の為に焼死する惨事となった。
    山北-御殿場間は、神戸鐵道局工務課長以下で組織された特別救援隊が復旧工事に従事し、同月18日に駿河-御殿場間が単線開通するまで、線路上には多数の小山町民が押掛け、線路上は安全なりとの判断から避難者生活を送る状態だった。
    関東大震災で壊滅的被害が発生した富士瓦斯紡績小山工場復興に伴う貨物取扱増加に対応すべく、該駅構内拡張に関する請願を、小山町他3村合同に拠り、昭和3年(1928年)6月4日に、時に第26代内閣総理大臣 田中義一(たなか ぎいち)(元治元年(1864年)7月25日〜昭和4年(1929年)9月29日)(昭和2年(1927年)4月20日〜昭和4年(1929年)7月2日在任)内閣の鐵道大臣 小川平吉(おがわ へいきち)(明治2年(1870年)1月2日〜昭和17年(1942年)2月5日)(昭和2年(1927年)4月20日〜昭和4年(1929年)7月2日在任)に対し行った。
    然るに、元来該駅所在敷地は急斜面の狭隘地を切り開き設置された為に、若し、拡張するとすれば当時の土木技術では困難で、移転か地下化しか選択の余地が無く、更に、昭和戦前期に於ける最低最悪内閣に位置付けられたる田中内閣の、且つ、後に私鉄疑獄事件に依り親任官経験者たる逮捕有罪になる小川如き人物に対し請願など行っても、小川から見れば自身の懐にカネが入らぬ地方の取るに足らぬ一請願など一顧の価値も見出せぬに相違無く、故に、該請願は検討対象すらなり得ず黙殺された。
    駅名に就いては駿河が旧国名たるを以って位置が漠然としているとの指摘が多く、昭和27年(1952年)1月1日附を以って駿河小山(するがおやま)駅に再改称された。
    小田急の気動車を使用した連絡準急列車が昭和30年(1955年)10月1日より新宿-御殿場間に運転されたが、該列車運転当初は該駅は通過していた。
    然し、小山町内に数か所のゴルフ場が整備開設された事で、地元小山町は再三に亘り該列車停車要望書を提出し、昭和38年(1963年)6月1日より該駅停車が実現した。
    該駅開業以来、修理を重ねて来た初代駅本屋は、老朽化が著しくなった事から改築される事になり、該工事は、昭和42年(1967年)12月に着工し、該線国府津-御殿場間電化完成の昭和43年(1968年)4月27日に一部使用を開始し、同年5月11日に竣工式が盛大に開催された。
    引続き駅前広場整備に着手し、同年10月2日に完成した。
    昨今では乗降人員の低下から、該駅は平成24年(2012年)3月17日附を以って無人化された。
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅



    駅本屋
    全景
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />出改札口<br />該駅無人化で全部閉鎖された。<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅



    出改札口
    該駅無人化で全部閉鎖された。
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />旧1番線ホーム跡<br />国鉄末期まで残存していたが、民営化後、保守されぬまま自然崩壊が進行。<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1<br />

    駿河小山駅



    旧1番線ホーム跡
    国鉄末期まで残存していたが、民営化後、保守されぬまま自然崩壊が進行。
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />ホーム<br />昭和3年(1928年)5月3日に支那山東省に於いて発生し、該地在留日本人が大虐殺された済南事変(さいなん じへん)鎮定の為に、当時の我が国政府は帝國陸軍に対し動員を指示し、該命令に基き第3師団に動員命令が発せられた。<br />該駅から該師団に入隊する為に近隣町村49名が出征の際に、近隣から該駅に於いて約5000名が歓送。<br />該駅構内に約5000名集結とは現状では想像困難。<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅



    ホーム
    昭和3年(1928年)5月3日に支那山東省に於いて発生し、該地在留日本人が大虐殺された済南事変(さいなん じへん)鎮定の為に、当時の我が国政府は帝國陸軍に対し動員を指示し、該命令に基き第3師団に動員命令が発せられた。
    該駅から該師団に入隊する為に近隣町村49名が出征の際に、近隣から該駅に於いて約5000名が歓送。
    該駅構内に約5000名集結とは現状では想像困難。
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />富士紡績生産品は該地から出荷された。<br />貨物取扱廃止後、現在は線路も殆ど撤去され空地が目立つ。<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅



    旧貨物取扱所跡
    富士紡績生産品は該地から出荷された。
    貨物取扱廃止後、現在は線路も殆ど撤去され空地が目立つ。
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />金太郎桜<br /><br /><br /><br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅



    駅構内
    金太郎桜



    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />旧1番線ホームは保守されず自然崩壊が進行。<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅



    駅構内
    旧1番線ホームは保守されず自然崩壊が進行。
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />内部<br />支柱に古軌条再用<br />http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1。<br />

    駿河小山駅



    跨線橋
    内部
    支柱に古軌条再用
    http://gotembasen.net/eki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%B0%8F%E5%B1%B1

    駿河小山駅

  • 駿河小山駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />俯瞰

    駿河小山駅



    駅構内
    俯瞰

    駿河小山駅

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />駿河小山駅<br />場内信号機<br /><br />静岡県駿東郡小山町霜ノ下75<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩7分

    駿河小山-足柄間



    駿河小山駅
    場内信号機

    静岡県駿東郡小山町霜ノ下75
    御殿場線駿河小山駅 徒歩7分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />駿河小山駅<br />場内信号機<br />該信号機は線路と無縁な道路脇に建植されている。<br /><br />静岡県駿東郡小山町霜ノ下75<br />御殿場線駿河小山駅 徒歩7分

    駿河小山-足柄間



    駿河小山駅
    場内信号機
    該信号機は線路と無縁な道路脇に建植されている。

    静岡県駿東郡小山町霜ノ下75
    御殿場線駿河小山駅 徒歩7分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />松澤(まつざわ)仮信号所跡<br />該信号所は、大正4年(1915年)7月10日開設である。<br />即ち、大正3年(1914年)8月12日未明に、関東中部地方を直撃した大型台風は、酒匂川上流域たる鮎澤川に異常出水させ、翌13日7時30分頃、第5相澤川橋梁橋台下を洗盤した事から、該橋梁橋台が傾斜崩壊した為に、該橋梁上下線構桁共に該河川中に墜落下被害が発生した。<br />鐵道院は、直ちに仮復旧工事に着手し開通に漕ぎ付けたが、本復旧工事作業中たる、同年9月13日未明に襲来した異常低気圧が原因とする局地的集中豪雨の為に、該橋梁構桁は再度墜落下被害が生じた。<br />此の為に、鐵道院は、既成路線、及び、現用架橋地点に於ける渡河復旧を断念し、別線での構築で路線を設置させる事に決定し、工事に着手したが、該信号所は、新旧路線切替地点に設置され、同年8月30日附で、新路線への切替が完了した事から廃止された。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下2605<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス堺の沢停留所 降車3分

    駿河小山-足柄間



    松澤(まつざわ)仮信号所跡
    該信号所は、大正4年(1915年)7月10日開設である。
    即ち、大正3年(1914年)8月12日未明に、関東中部地方を直撃した大型台風は、酒匂川上流域たる鮎澤川に異常出水させ、翌13日7時30分頃、第5相澤川橋梁橋台下を洗盤した事から、該橋梁橋台が傾斜崩壊した為に、該橋梁上下線構桁共に該河川中に墜落下被害が発生した。
    鐵道院は、直ちに仮復旧工事に着手し開通に漕ぎ付けたが、本復旧工事作業中たる、同年9月13日未明に襲来した異常低気圧が原因とする局地的集中豪雨の為に、該橋梁構桁は再度墜落下被害が生じた。
    此の為に、鐵道院は、既成路線、及び、現用架橋地点に於ける渡河復旧を断念し、別線での構築で路線を設置させる事に決定し、工事に着手したが、該信号所は、新旧路線切替地点に設置され、同年8月30日附で、新路線への切替が完了した事から廃止された。

    静岡県駿東郡小山町竹之下2605
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス堺の沢停留所 降車3分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧本線分岐点<br />明治22年(1889年)2月1日開通時は、写真右手を直進していた。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩4分

    駿河小山-足柄間



    旧本線分岐点
    明治22年(1889年)2月1日開通時は、写真右手を直進していた。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩4分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧本線分岐点<br />明治22年(1889年)2月1日開通時は、写真右手を直進していた。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩4分

    駿河小山-足柄間



    旧本線分岐点
    明治22年(1889年)2月1日開通時は、写真右手を直進していた。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩4分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧本線分岐点<br />明治22年(1889年)2月1日開通時は、写真右手を直進していた。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩4分

    駿河小山-足柄間



    旧本線分岐点
    明治22年(1889年)2月1日開通時は、写真右手を直進していた。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩4分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧本線分岐点<br />旧本線跡。<br />原野の中に残存する土地区分標。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩5分

    駿河小山-足柄間



    旧本線分岐点
    旧本線跡。
    原野の中に残存する土地区分標。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩5分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線<br />線路跡<br />明治22年(1889年)2月1日開業時は該空地部分に路線が敷設された。<br />即ち、開通当時は鮎澤川を上流域に向かい線路築堤が直進し、該河川上流域に於いて渡河する構造だったが、鮎澤川が氾濫の都度、該築堤を崩壊させる為に、度々該区間不通原因となっていた。<br />然るに、大正3年(1914年)8月12日未明に、関東、及び、中部地方に襲来した大型台風が原因で該河川が氾濫し第5相澤川橋梁橋台下が洗盤され、翌13日7時頃に、該橋梁橋台が傾斜崩壊した事で該橋上下線構桁が該河川内に落橋した。<br />鐵道院は、直ちに復旧工事に着手し仮開通に漕ぎ着けたが、同年9月13日に、今度は異常低気圧が発生し、該低気圧総雨量は、明治43年(1910年)8月11〜13日の大豪雨災害時より多量とされた。<br />此の為に、修復中の第5相澤川橋梁は再度落橋被害が発生した事で、鐵道院は既成線復旧を放棄し、改めて、現行線に依る路線変更を工事を施工し開通させたのが現路線である。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩5分

    駿河小山-足柄間



    旧東海道本線
    線路跡
    明治22年(1889年)2月1日開業時は該空地部分に路線が敷設された。
    即ち、開通当時は鮎澤川を上流域に向かい線路築堤が直進し、該河川上流域に於いて渡河する構造だったが、鮎澤川が氾濫の都度、該築堤を崩壊させる為に、度々該区間不通原因となっていた。
    然るに、大正3年(1914年)8月12日未明に、関東、及び、中部地方に襲来した大型台風が原因で該河川が氾濫し第5相澤川橋梁橋台下が洗盤され、翌13日7時頃に、該橋梁橋台が傾斜崩壊した事で該橋上下線構桁が該河川内に落橋した。
    鐵道院は、直ちに復旧工事に着手し仮開通に漕ぎ着けたが、同年9月13日に、今度は異常低気圧が発生し、該低気圧総雨量は、明治43年(1910年)8月11〜13日の大豪雨災害時より多量とされた。
    此の為に、修復中の第5相澤川橋梁は再度落橋被害が発生した事で、鐵道院は既成線復旧を放棄し、改めて、現行線に依る路線変更を工事を施工し開通させたのが現路線である。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩5分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線<br />線路跡<br />中央部平面が旧路盤跡。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩5分

    駿河小山-足柄間



    旧東海道本線
    線路跡
    中央部平面が旧路盤跡。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩5分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />旧東海道本線<br />線路跡<br />左手曲線部分が旧線路跡。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩6分

    駿河小山-足柄間



    旧東海道本線
    線路跡
    左手曲線部分が旧線路跡。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩6分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第5相澤川(だいご あいざわがわ)橋梁<br />プレートガーダー橋桁<br />鋼鉄製<br />支間21.34m(70ft)×2連<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />開通時は、<br />工部省技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日〜昭和2年(1927年)1月23日)設計に拠る、<br />米國製<br />錬鋼鐡混材<br />上路プラットトラス構桁 径間32.0m(105ft)×1連<br />が架橋された。<br />該構桁は、隣接する、第4相澤川橋梁、及び、信越本線上碓氷橋梁と共に、我が国橋梁初の日本人設計に拠る構桁である。<br />駿河(現 駿河小山)-御殿場間複線化工事は、開通年に着工し翌明治24年(1901年)2月に増線分が開通したが、増線橋梁は該同設計図面に拠る鋼鐡製橋梁が架橋され、新橋梁は下り線専用になり既成線は上り線専用になった。<br />大型蒸気機関車導入計画に基き、明治36年(1903年)冬、及び、明治38年(1905年)秋に、鋼桁、及び、橋台上部を補強工事を施工した。<br />大正3年(1914年)は、我が国各地に於いて大水害が多発した年だった。<br />同年8月12日に静岡県に上陸した台風は、中心最大気圧が昭和9年(1934年)9月21日に大阪に上陸した室戸台風(むろと たいふう)に匹敵する巨大勢力を有していた。<br />此の為に、降り注いだ記録的大雨に拠り、駿河(現 駿河小山)-足柄間所在の第5相澤川橋梁、及び、山澤川橋梁に被害が発生した。<br />鮎澤川が濁流の為に該橋梁橋台が洗盤された事で、該橋梁橋台が傾斜倒壊し、橋桁が該河川渦中に落橋した。<br />東海道本線は大幹線であり、鐵道院は直ちに復旧工事に着手し、同年同月17日に仮開通が可能になった。<br />然るに、同年9月12日未明の大雨は、雨量に於いて明治43年(1910年)8月の関東大水害の時より多く、前回台風に拠り地盤が弛緩していた第5相澤川橋梁橋台下地盤が、急激な出水で洗盤されていた事から、今回の風水害で橋台下根元から転倒崩壊し、該橋桁は上下線共に河中に再度落橋する重大被害が発生した。<br />鐵道院では事態を重視し、検討した結果、國府津起点28.3km地点に 竹ノ下(たけのした)仮信号所を設置し、旅客は現地に於いて徒歩連絡を余儀無くされたが、他方、応急復旧として木組橋脚を設置し、予備プレートガーダー橋桁×2連を架橋させ、同年同月26日に単線での開通に漕ぎ着けた。<br />然し、鐵道院は、更に検討を重ねた結果、現地に於いて、上路プラットトラス構桁を修復し再架橋する事は、今後に於いて風水害に際に同様事例の再発が懸念される為に、該構桁を再用での完全復旧を放棄し、該橋梁に至る取付路線を変更し、此の為に、現地に於いて単線運転を実施しつつ工事実施を要する事から、翌大正4年(1915年)7月10日附で該橋東岸 國府津起点26.4km地点に松澤(まつざわ)仮信号所を設置し、松澤、竹ノ下両信号所間は単線運転を講じつつ、その後、上下線交互に路線切替を実施し、同年8月30日を以って複線運転が可能になった。<br />その後、東海道本線から御殿場線に格下された翌昭和10年(1935年)に、駿河(現 駿河小山)-御殿場-裾野間は閑散線と認定され単線運転化される事になり、同年11月1日より実施され、該橋梁は旧上り線用を使用継続し、旧下り線用は使用停止されたが、更に、大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、該橋梁上軌条は撤去され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完了し、該橋梁は旧上り線を本線とし、旧下り線は廃橋になった。<br />現在は、旧下り線側を含め、橋桁、橋脚、及び、橋台全てが現存する。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩2分

    駿河小山-足柄間



    第5相澤川(だいご あいざわがわ)橋梁
    プレートガーダー橋桁
    鋼鉄製
    支間21.34m(70ft)×2連
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    開通時は、
    工部省技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日〜昭和2年(1927年)1月23日)設計に拠る、
    米國製
    錬鋼鐡混材
    上路プラットトラス構桁 径間32.0m(105ft)×1連
    が架橋された。
    該構桁は、隣接する、第4相澤川橋梁、及び、信越本線上碓氷橋梁と共に、我が国橋梁初の日本人設計に拠る構桁である。
    駿河(現 駿河小山)-御殿場間複線化工事は、開通年に着工し翌明治24年(1901年)2月に増線分が開通したが、増線橋梁は該同設計図面に拠る鋼鐡製橋梁が架橋され、新橋梁は下り線専用になり既成線は上り線専用になった。
    大型蒸気機関車導入計画に基き、明治36年(1903年)冬、及び、明治38年(1905年)秋に、鋼桁、及び、橋台上部を補強工事を施工した。
    大正3年(1914年)は、我が国各地に於いて大水害が多発した年だった。
    同年8月12日に静岡県に上陸した台風は、中心最大気圧が昭和9年(1934年)9月21日に大阪に上陸した室戸台風(むろと たいふう)に匹敵する巨大勢力を有していた。
    此の為に、降り注いだ記録的大雨に拠り、駿河(現 駿河小山)-足柄間所在の第5相澤川橋梁、及び、山澤川橋梁に被害が発生した。
    鮎澤川が濁流の為に該橋梁橋台が洗盤された事で、該橋梁橋台が傾斜倒壊し、橋桁が該河川渦中に落橋した。
    東海道本線は大幹線であり、鐵道院は直ちに復旧工事に着手し、同年同月17日に仮開通が可能になった。
    然るに、同年9月12日未明の大雨は、雨量に於いて明治43年(1910年)8月の関東大水害の時より多く、前回台風に拠り地盤が弛緩していた第5相澤川橋梁橋台下地盤が、急激な出水で洗盤されていた事から、今回の風水害で橋台下根元から転倒崩壊し、該橋桁は上下線共に河中に再度落橋する重大被害が発生した。
    鐵道院では事態を重視し、検討した結果、國府津起点28.3km地点に 竹ノ下(たけのした)仮信号所を設置し、旅客は現地に於いて徒歩連絡を余儀無くされたが、他方、応急復旧として木組橋脚を設置し、予備プレートガーダー橋桁×2連を架橋させ、同年同月26日に単線での開通に漕ぎ着けた。
    然し、鐵道院は、更に検討を重ねた結果、現地に於いて、上路プラットトラス構桁を修復し再架橋する事は、今後に於いて風水害に際に同様事例の再発が懸念される為に、該構桁を再用での完全復旧を放棄し、該橋梁に至る取付路線を変更し、此の為に、現地に於いて単線運転を実施しつつ工事実施を要する事から、翌大正4年(1915年)7月10日附で該橋東岸 國府津起点26.4km地点に松澤(まつざわ)仮信号所を設置し、松澤、竹ノ下両信号所間は単線運転を講じつつ、その後、上下線交互に路線切替を実施し、同年8月30日を以って複線運転が可能になった。
    その後、東海道本線から御殿場線に格下された翌昭和10年(1935年)に、駿河(現 駿河小山)-御殿場-裾野間は閑散線と認定され単線運転化される事になり、同年11月1日より実施され、該橋梁は旧上り線用を使用継続し、旧下り線用は使用停止されたが、更に、大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、該橋梁上軌条は撤去され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完了し、該橋梁は旧上り線を本線とし、旧下り線は廃橋になった。
    現在は、旧下り線側を含め、橋桁、橋脚、及び、橋台全てが現存する。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所降車 徒歩2分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第5相澤川橋梁<br />初代該橋梁は現地点より鮎澤川上流域に存在した。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所 降車2分

    駿河小山-足柄間



    第5相澤川橋梁
    初代該橋梁は現地点より鮎澤川上流域に存在した。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所 降車2分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第5相澤川橋梁<br />上流側<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所 降車2分

    駿河小山-足柄間



    第5相澤川橋梁
    上流側

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線駿河小山駅 富士急沼津バス花戸停留所 降車2分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第6相澤川(だいろく あいざわがわ)橋梁<br />プレートガーダー橋桁<br />径間12.19m(40ft)×2連<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩25分

    駿河小山-足柄間



    第6相澤川(だいろく あいざわがわ)橋梁
    プレートガーダー橋桁
    径間12.19m(40ft)×2連

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩25分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第6相澤川橋梁<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩25分

    駿河小山-足柄間



    第6相澤川橋梁

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩25分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />竹ノ下(たけのした)仮信号所跡<br />該信号所は、大正3年(1914年)9月13日開設である。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下2481<br />御殿場線足柄駅 徒歩12分

    駿河小山-足柄間



    竹ノ下(たけのした)仮信号所跡
    該信号所は、大正3年(1914年)9月13日開設である。

    静岡県駿東郡小山町竹之下2481
    御殿場線足柄駅 徒歩12分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />地蔵川(じぞうがわ)橋梁<br />鋼鉄製<br />プレートガーダー橋桁<br />支間12.1m(40ft)×1連<br />旧下り線(現行橋)<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下2301<br />御殿場線足柄駅 徒歩3分

    駿河小山-足柄間



    地蔵川(じぞうがわ)橋梁
    鋼鉄製
    プレートガーダー橋桁
    支間12.1m(40ft)×1連
    旧下り線(現行橋)

    静岡県駿東郡小山町竹之下2301
    御殿場線足柄駅 徒歩3分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />地蔵川橋梁<br />全景<br />旧上り線を含め橋台が現存。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下2301<br />御殿場線足柄駅 徒歩3分

    駿河小山-足柄間



    地蔵川橋梁
    全景
    旧上り線を含め橋台が現存。

    静岡県駿東郡小山町竹之下2301
    御殿場線足柄駅 徒歩3分

  • 足柄(あしがら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治36年(1903年)1月20日に、当時の最新保安方式に双信閉塞方式導入時に信号所として設置。<br />関東大震災では、該信号所本屋が倒壊する被害が発生した。<br />駅昇格は谷峨駅開業より若干遅れ昭和22年(1947年)9月15日になった。<br />駅昇格当時は付近一帯が高原野菜産地たる事で、東京・横浜方面から列車区間への各駅乗車券発売枚数制限から、食料品買出し客の不正乗車が多く、駅職員は割増運賃収受に追われる。<br />上大井、及び、谷峨駅と共に合理化対象となり平成9年(1997年)3月22日ダイヤ改正を期して該駅は無人化された。<br />現在では該駅附近は御殿場の近郊都市として発展し該駅だけが寂寞たる雰囲気に取残されている。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄(あしがら)駅



    該駅は、明治36年(1903年)1月20日に、当時の最新保安方式に双信閉塞方式導入時に信号所として設置。
    関東大震災では、該信号所本屋が倒壊する被害が発生した。
    駅昇格は谷峨駅開業より若干遅れ昭和22年(1947年)9月15日になった。
    駅昇格当時は付近一帯が高原野菜産地たる事で、東京・横浜方面から列車区間への各駅乗車券発売枚数制限から、食料品買出し客の不正乗車が多く、駅職員は割増運賃収受に追われる。
    上大井、及び、谷峨駅と共に合理化対象となり平成9年(1997年)3月22日ダイヤ改正を期して該駅は無人化された。
    現在では該駅附近は御殿場の近郊都市として発展し該駅だけが寂寞たる雰囲気に取残されている。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅

  • 足柄駅<br /><br /><br /><br />旧出改札口跡<br />該駅無人化以降は寂寞感が漂う。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅



    旧出改札口跡
    該駅無人化以降は寂寞感が漂う。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅

  • 足柄駅<br /><br /><br />駅前広場<br />金太郎記念碑<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅


    駅前広場
    金太郎記念碑
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅

  • 足柄駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />跨線橋が無く構内踏切で横断。<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅



    駅構内
    跨線橋が無く構内踏切で横断。
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅

  • 足柄駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />ホーム<br />http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅



    駅構内
    ホーム
    http://gotembasen.net/eki/%E8%B6%B3%E6%9F%84#tabs-1

    足柄駅

  • 足柄-御殿場間<br /><br /><br /><br />旧足柄信号場跡<br />旧転向線跡<br /><br />静岡県駿東郡小山町新柴無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩13分

    足柄-御殿場間



    旧足柄信号場跡
    旧転向線跡

    静岡県駿東郡小山町新柴無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩13分

  • 足柄-御殿場間<br /><br /><br /><br />旧足柄信号場跡<br />旧転向線跡<br />線路奥の築堤が旧転向線跡<br /><br />静岡県駿東郡小山町新柴無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩15分

    足柄-御殿場間



    旧足柄信号場跡
    旧転向線跡
    線路奥の築堤が旧転向線跡

    静岡県駿東郡小山町新柴無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩15分

  • 足柄-御殿場間<br /><br /><br /><br />旧足柄信号場跡<br />旧転向線跡<br /><br />静岡県駿東郡小山町新柴無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩18分

    足柄-御殿場間



    旧足柄信号場跡
    旧転向線跡

    静岡県駿東郡小山町新柴無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩18分

  • 足柄-御殿場間<br /><br /><br /><br />旧足柄信号場跡<br />該信号所は、明治36年(1903年)1月20日開設である。<br />旧分岐跡<br />右手空地が旧転向線<br /><br />静岡県駿東郡小山町新柴無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩18分

    足柄-御殿場間



    旧足柄信号場跡
    該信号所は、明治36年(1903年)1月20日開設である。
    旧分岐跡
    右手空地が旧転向線

    静岡県駿東郡小山町新柴無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩18分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第7相澤川(だいなな あいざわがわ)橋梁<br />プレートガーダー橋桁<br />支間12.13m(40ft)×1連<br />旧上り線用(現行橋)<br />該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。<br />明治24年(1891年)3月に複線化後は上り線専用になった<br />その後、東海道本線から御殿場線に格下された翌昭和10年(1935年)に、駿河(現 駿河小山)-御殿場-裾野間は閑散線と認定され単線運転化される事になり、同年11月1日より実施された。<br />大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、該橋梁上軌条は撤去され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完了した。<br />現在は、旧下り線橋台が現存する。<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩20分

    駿河小山-足柄間



    第7相澤川(だいなな あいざわがわ)橋梁
    プレートガーダー橋桁
    支間12.13m(40ft)×1連
    旧上り線用(現行橋)
    該橋は、明治22年(1889年)2月1日開通時の橋梁である。
    明治24年(1891年)3月に複線化後は上り線専用になった
    その後、東海道本線から御殿場線に格下された翌昭和10年(1935年)に、駿河(現 駿河小山)-御殿場-裾野間は閑散線と認定され単線運転化される事になり、同年11月1日より実施された。
    大東亜戦争決戦体制強化に拠り、該線は全線単線化が決定され、該橋梁上軌条は撤去され、昭和19年(1944年)7月11日附で単線化工事が完了した。
    現在は、旧下り線橋台が現存する。

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩20分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第7相澤川橋梁<br />全景<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩20分

    駿河小山-足柄間



    第7相澤川橋梁
    全景

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩20分

  • 駿河小山-足柄間<br /><br /><br /><br />第7相澤川橋梁<br />全景<br /><br />静岡県駿東郡小山町竹之下無番地<br />御殿場線足柄駅 徒歩20分

    駿河小山-足柄間



    第7相澤川橋梁
    全景

    静岡県駿東郡小山町竹之下無番地
    御殿場線足柄駅 徒歩20分

  • 足柄-御殿場間<br /><br /><br /><br />狩屋(かりや)踏切<br />該沿線区間内で富士山が望見可能な箇所は意外と少ない。<br />鉄道唱歌第14番<br />はるかにみえし富士の嶺は<br />(はるかに みえし ふじのねは)<br />はや我そばに来りにけり<br />(はやわがそばに きたりけり)<br />雪の冠 雲の帯<br />(ゆきのかんむり くものおび)<br />いつもけだかき姿にて♪<br />(いつも けだかき すがたにて)<br /><br />御殿場市東田中378<br />御殿場線御殿場駅富士山口 富士急沼津バス狩渡橋停留所降車 徒歩8分

    足柄-御殿場間



    狩屋(かりや)踏切
    該沿線区間内で富士山が望見可能な箇所は意外と少ない。
    鉄道唱歌第14番
    はるかにみえし富士の嶺は
    (はるかに みえし ふじのねは)
    はや我そばに来りにけり
    (はやわがそばに きたりけり)
    雪の冠 雲の帯
    (ゆきのかんむり くものおび)
    いつもけだかき姿にて♪
    (いつも けだかき すがたにて)

    御殿場市東田中378
    御殿場線御殿場駅富士山口 富士急沼津バス狩渡橋停留所降車 徒歩8分

  • 御殿場(ごてんば)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />富士山口<br />該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />該駅は、当時の駿東郡御殿場村新橋(にいはし)地区に設置されたが、当時の御殿場は、足柄街道、及び、鎌倉往還に面した小宿場に過ぎぬ存在だった。<br />然るに、該駅開業当日3時頃、御殿場村住民某宅の暖炉残り火不始末が原因で出火し、折からの冬季強風に煽られ、該村内120戸が全焼する火災が発生した。<br />該火災で、新築直後の該駅本屋、及び、構内施設は被災せず無事だったが、当日午前中に開催予定されていた開業式典は急遽中止に決し、該開業式典出席者に配布予定の、折詰弁当、紅白饅頭、日本酒、及び、一般者への祝餅蒔用餅は該被災者達に無償供与された。<br />因みに、該区間終端駅たる静岡町も当日一番町焼芋販売稼業宅から火災が発生し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生した。<br />要するに、國府津-静岡間開通当日、御殿場、及び、静岡に於いて大火が発生すると言ふ、関係者にとって何とも幸先不幸な門出だった。<br />翌明治23年(1890年)に、地元旅館業者 伴野佐吉(ばんの さきち)(天保10年(1836年)9月4日〜明治38年(1905年)3月11日)は、私費を以って新橋浅間神社を起点に、富士山御殿場口登山連絡路を整備開設した事で、横浜在留外国人に富士登山に関する関心が高まり、御殿場の地名が俄かに脚光を浴びる事になった。<br />然し、明治35年(1902年)10月1日に中央本線鳥澤-大月間が延長開通し、大月から馬車鉄道乗継が富士登山として最短距離とされた事から、翌明治36年(1903年)夏期の御殿場駅乗降客数が以前と比較して激減する結果を招来させた。<br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、該駅構内に於ける施設被災は軽微だったが、該駅停車中の上り貨物第902列車貨車数両に脱線転覆の被害が発生した。<br />その後、該脱線転覆貨車は数日間放置状態だったが、同月13日〜16日に鐵道省浜松工場雇扱技手29名に依り復線復旧した。<br />該駅から鉄道開通の報を知り、在京被災者達は、箱根経由で約15700名、足柄街道経由で約10000名が御殿場町に殺到し、該町役場では、在郷軍人会66名、地元青年団391名、県立御殿場実業学校(現 県立御殿場高校)生徒128名、女学校生徒16名から成る懇請救護団を組織し、該駅構内に於いて被災者達の援護活動に従事した。<br />大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)7月30日10時5分頃、該駅停車中の旅客列車に対し艦載機が機銃掃射攻撃を行い、旅客3名死亡、負傷者若干名が発生した。<br />該駅本屋は開業時以来の歴史的建築物だったが、昭和62年(1987年)に改築され、第2代目駅本屋橋上駅様式になる。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/gotemba/<br />http://www.gotembasen.net/stinfo/gotemba.html

    御殿場(ごてんば)駅



    駅本屋
    富士山口
    該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
    該駅は、当時の駿東郡御殿場村新橋(にいはし)地区に設置されたが、当時の御殿場は、足柄街道、及び、鎌倉往還に面した小宿場に過ぎぬ存在だった。
    然るに、該駅開業当日3時頃、御殿場村住民某宅の暖炉残り火不始末が原因で出火し、折からの冬季強風に煽られ、該村内120戸が全焼する火災が発生した。
    該火災で、新築直後の該駅本屋、及び、構内施設は被災せず無事だったが、当日午前中に開催予定されていた開業式典は急遽中止に決し、該開業式典出席者に配布予定の、折詰弁当、紅白饅頭、日本酒、及び、一般者への祝餅蒔用餅は該被災者達に無償供与された。
    因みに、該区間終端駅たる静岡町も当日一番町焼芋販売稼業宅から火災が発生し、約1100戸が焼失する明治22年静岡大火が発生した。
    要するに、國府津-静岡間開通当日、御殿場、及び、静岡に於いて大火が発生すると言ふ、関係者にとって何とも幸先不幸な門出だった。
    翌明治23年(1890年)に、地元旅館業者 伴野佐吉(ばんの さきち)(天保10年(1836年)9月4日〜明治38年(1905年)3月11日)は、私費を以って新橋浅間神社を起点に、富士山御殿場口登山連絡路を整備開設した事で、横浜在留外国人に富士登山に関する関心が高まり、御殿場の地名が俄かに脚光を浴びる事になった。
    然し、明治35年(1902年)10月1日に中央本線鳥澤-大月間が延長開通し、大月から馬車鉄道乗継が富士登山として最短距離とされた事から、翌明治36年(1903年)夏期の御殿場駅乗降客数が以前と比較して激減する結果を招来させた。
    大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、該駅構内に於ける施設被災は軽微だったが、該駅停車中の上り貨物第902列車貨車数両に脱線転覆の被害が発生した。
    その後、該脱線転覆貨車は数日間放置状態だったが、同月13日〜16日に鐵道省浜松工場雇扱技手29名に依り復線復旧した。
    該駅から鉄道開通の報を知り、在京被災者達は、箱根経由で約15700名、足柄街道経由で約10000名が御殿場町に殺到し、該町役場では、在郷軍人会66名、地元青年団391名、県立御殿場実業学校(現 県立御殿場高校)生徒128名、女学校生徒16名から成る懇請救護団を組織し、該駅構内に於いて被災者達の援護活動に従事した。
    大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)7月30日10時5分頃、該駅停車中の旅客列車に対し艦載機が機銃掃射攻撃を行い、旅客3名死亡、負傷者若干名が発生した。
    該駅本屋は開業時以来の歴史的建築物だったが、昭和62年(1987年)に改築され、第2代目駅本屋橋上駅様式になる。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/gotemba/
    http://www.gotembasen.net/stinfo/gotemba.html

    御殿場駅

  • 御殿場駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />国府津方<br />俯瞰<br />通過列車の補助機関車連結器開放を該地点に於いて実施していた。

    御殿場駅



    駅構内
    国府津方
    俯瞰
    通過列車の補助機関車連結器開放を該地点に於いて実施していた。

    御殿場駅

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この旅行記へのコメント (10)

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  • ペコリーノさん 2015/05/01 21:49:17
    ありがとうございました
    横浜臨海公園さん、ありがとうございました

    高校生の時に駿河小山駅から沼津駅まで電車に乗って通学しておりました。
    平成3年以降、この線に乗車する機会がなくなり、谷峨、駿河小山、足柄の駅が無人化されたのは情報として知ってはいたものの、実際に閉鎖されている駅の窓口を見てしまうと、涙が出そうになりました。
    一度だけ、学校帰りに寝過ごして、谷峨駅まで行ってしまったとき、たった一人の谷峨駅の駅員さんが下りの列車が来るまで、呆然としている私の話し相手になってくれたことを思い出します。時刻は夜の8時過ぎ、田舎の小さな駅で私はたった一人の乗降客でした。
    今ではそんな学生さんの相手をしてくれる人もいないという事なんですね。
    足柄には私が3歳の時まで住んでいましたが、その時の駅と周辺の記憶ははっきりと覚えています。
    本当に懐かしく見させていただきました。
    ありがとうございました。

    ペコリーノ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/05/03 03:36:14
    拝復
    ペコリーノさま、こんばんは。


    この度は、小生のページに初訪問と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    かねがね、ペコリーノさまのお名前は、fau.himmelさまのページで拝見させて頂いておりました。

    それにしても、御殿場線は年々不便になる一方です。
    現在では3両編成も少なくなり、多くの列車は2両、それもワンマン運転の為に、運転士は無人駅での集札やら富士登山の外国人の対応に神経を磨り減らされている姿が散見される様になりました。

    昭和62年(1987年)の民営当時は3駅しか無かった御殿場線内無人駅が、現在では民営後に開業した長泉なめりを含め9駅に増えました。
    然し、まさか特急停車駅の駿河小山まで無人化されるとは、思いも寄らぬ事態と言えました。
    更に、あの辺りの各駅へは使用可能と信じ、東京横浜方面からスイカパスモで乗車する事から、此れら電子カードが使えないと知り、乗車駅から現金払いを請求される為に、特に休日の谷峨で下車するハイカー連中相手に手間取り、電車は遅延し、御殿場に定時到着など有得ない状況になっております。

    また、無人化された事で、駅構内ゴミ箱に捨てられた残飯目当てに、駅にイノシシ軍団が出没するなど、以前では想像すら出来なかった事が現実化しています。

    今後とも何卒宜敷くお願いします。



    横浜臨海公園

  • 旅 愛子さん 2014/12/26 11:25:37
    横浜臨海公園さんへ

    今年も、力作の旅行記ありがとうございました。
    横浜臨海公園さんの旅行記は、思い入れの深いもので、
    いつも感心して拝見しております。

    来る年も大作を期待しています。
    横浜臨海公園さんにとって、来年も良い旅年になるよう、
    願っております。
    今年もフォローありがとうございました。
    来年もよろしくお願いします。

    旅 愛子より

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/12/30 12:56:00
    拝復
    旅 愛子さま、こんにちは。


    旅行記に投票と望外のコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    件の旅行記は、資料集めだけで3年半かかり、然も、交通が無い地域なので、全部徒歩で訪れるほか手段がございませんでした。

    また来年も宜敷くお願い申します。


    横浜臨海公園
  • ムロろ~んさん 2014/06/06 16:24:23
    無人駅の多さ!
    横浜臨海公園さま

    こんにちは、ムロろ〜んです。
    ご無沙汰しております。
    今日、インドネシアのジョグジャカルタから帰って来ました。南国でとても暑かったのですが、仏教遺跡が多く興味津々旅することができました。

    さて御殿場線の旅行記を拝見させて頂きました。
    駿河小山駅でさえも無人化になるなんて正直驚きました。
    電車が遅れた時に駅員さんがいるだけでも安心するのに、経費削減も分かりますが、ちょっと驚きました。
    山北駅がNPO法人で守っているとのこと。地域の方々にとってえきって重要なものだと思いますから、駅に人がいると言うことは大切ではないかなと思いました。


    ムロろ〜ん(-人-)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/06/07 11:48:18
    拝復
    ムロろ〜んさま、こんにちは。


    ご無沙汰をしてりましたが、相変わらずのご活躍ぶりに、ただただ脱帽でございます。

    仰せの通り、御殿場線は、谷峨-駿河小山間で県境を越える為に、乗車移動人数も少なくなり、加えて、昨今の少子化の影響で、高校生の通学利用も減少傾向に歯止めがかかりません。

    国府津-御殿場間の中間駅で現在有人なのは、下曽我、松田だけで、山北ですら簡易委託となり、駿河小山に至ってはカタチの上では特急停車駅にも拘らず、無人化されてしまいました。
    駅前も無人化されて凋落現象が見られ、うら寂しい状態になってしまっております。

    困るのは、無人化され、駅前が夜な夜な暴走族の溜り場と化してしまている事で、地元警察も困惑を隠せない様子が見て取れました。

    インドネシアに渡航された由。
    小生が、インドネシアに初渡航したのは、昭和52年(1977年)秋で、当時は今みたいに便利な所ではなく、ひたすら暑い地との初印象でした。
    然し、当時は、大東亜戦争で日本の為にインドネシアがオランダの植民地から解放されたと認識していた方々が多数存命されていて、日本人として、それはそれは大事にされたものでした。




    横浜臨海公園
  • 鴨川の夕立!さん 2014/04/20 17:15:39
    山北駅 南駅舎
    横浜海浜公園さま

    山北駅 南駅舎の写真を拝見して実家の近くにある
    筑豊本線 筑前山家駅を思い出しました
    高校時代まで蒸気機関車が走っていて
    写真部だった私は友人と冷水峠まで撮影に行きました。
    筑豊本線も乗降客数は減って来ています。
    時代とはいえ寂しい限りですね。

                 鴨川の夕立!

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/04/21 17:45:31
    拝復
    鴨川の夕立!さま、こんばんは。


    旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    > 山北駅 南駅舎の写真を拝見して実家の近くにある
    > 筑豊本線 筑前山家駅を思い出しました
    →筑豊本線は篠栗線が全通するまで、博多からは原田(はるだ)駅を経由して飯塚に通う人々でごった返し、原田駅では駅弁すら販売されていたそうですが、篠栗線が桂川まで開通した事で人の流れが変わり、特急かもめ や 寝台特急あかつき が直方や飯塚に停車し冷水峠を越えて走っていた事など、今では想像すら出来ぬ超閑散線になってしまいました。

    小生が筑豊本線を初めて訪れたのは昭和60年(1985年)の晩秋でしたが、原田→新飯塚間では、客車だけは沢山連結しているにも拘らず、車内には小生1人だけだったのが、今でも記憶に残っております。

    桂川-原田間は現在でも筑豊本線ですが、何所も本線の実態から外れてしまった所は閑散として、昔の栄華を偲ばせるだけに、時代の変化を感じさせずにはいられません。




    横浜臨海公園
  • norisaさん 2014/04/19 15:59:15
    重く長い歴史に感銘!
    横浜臨海公園様、

    こんにちは。

    いよいよ御殿場線の歴史が完成ですね!

    原口要さんの苦闘から始まり実に苦難の歴史をたどった御殿場線の歴史を改めて知りました。

    御殿場線は現在はまさにローカルですので観光で2,3回ほど利用しただけすが、今見ても狭い川沿いのまさしく隘路を縫うように走り、ここに線路を建設するのは大変だったと実感できます。
    それも今から一世紀以上前ですからね!!
    いかに明治の国も国民も目的意識が明瞭だったか良くわかる事例ですね。

    昔は現在のようなトンネル掘削技術がなかったため地上を選択せざるを得なかったのでしょうが御殿場線の駅の中にはかなり無理して造ったものもあり、いくら国土が狭いとはいえ驚きあきれた覚えがあります。

    それに線路だけではなく当時の蒸気機関の性能と非環境対応性を想起すれば山北ー谷峨間の登坂はいかにも地獄絵だったこともわかります。

    また通過地域が地域だけに災害の影響をかなり受けていたことは初めて知った次第です。

    さらに政治家と企業の癒着による機器導入の経緯なども初めて目にしましたが、いまさらながら政治の暗部も再確認させていただきましたーーー。

    現在は一時間に数本しか通らない御殿場線も今の東海道線や新幹線ができる前は東西の大動脈だったわけで、今では隔世の感がありますが、改めてこの線路に感謝したいですね。

    さて、これだけの大作。
    資料内容も写真も超労作です!
    このまま出版出来る秀作と思えます。
    (過去の旅行記と合わせればさらに大作です)

    いつも歴史の中に新しい事実を見出してご紹介して頂き感謝いたします!

    ありがとうございました。

    norisa


    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/04/20 22:39:53
    拝復
    norisaさま、こんばんは。


    旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    御殿場線の旅行記作成で、計画当初から一番難関な内容になるものと思っておりましたが、本当に資料収集だけで3年以上かかってしましました。

    ご存知と思いますが、鐵道省は大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、鐵道省本省庁舎が類焼した事から、それ以前に於ける資料類が断片的にしか残存しておらず、日時の特定や事案の裁決など、現在では解明が困難な事態になっているのが実情です。

    ウィキペディアあたりでは、身勝手でいい加減な論理が罷り通っておりますが、参考にすらならぬ投稿ばかりで、改めて呆れさせられます。

    国会図書館憲政資料室、国立公文書館、JR東日本大宮鉄道博物館、足繁く訪れましたが、結論を出すのに苦労しました。

    市史等々、地元郷土資料でも間違いがあってはならない資料に、堂々と嘘の記述が記載されているのを発見した時など、疲労困憊する想いをさせられます。

    また、伝記が無い人物のプロフィールなど、ゼロから解明しなければならず、本当に大変な作業が続きます。

    現在、一番の最難関な内容にトライし、解明に努力しておりまして、新旅行記上程に向けて頑張っております。

    何卒、ご期待の程を!




    横浜臨海公園

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