2013/12/01 - 2013/12/01
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横浜臨海公園さん
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該区間は、國府津-静岡間開通の一環として、明治22年(1889年)2月1日に開通した。
然るに、御殿場-沼津間建設は、実は、國府津側からでは無く沼津側から開始された。
即ち、横濱港から船舶で輸送された建設資機材一式は沼津港沖合で艀に積替え、沼津港に陸揚げされた。
此の為に、沼津港-沼津停車場間に鉄道が布設され、通称 蛇松(じゃまつ)線2.7kmが建設され明治20年(1887年)3月27日に試運転を開始後、正式に開通し静岡県東部地域に於ける機材輸送ルートが確立した。
該区間開通当時は、御殿場以外では佐野(現 裾野)に停車場が設置された。
該区間に投入された蒸気機関車は、工部省鐵道局が明治14年(1881年)に発注した英キットソン(KITSON&Co)社製1800型、及び、英デュープス(DUPS)社製1850型C型タンク式蒸気機関車で、該機関車は小型で、且つ、小出力だった事から牽引力登攀力共に劣り、佐野から御殿場に至る連続25‰登り勾配が連続し、慢性的列車遅延区間の最たる箇所と化した。
此の為に、工部省鐵道局も抜本的対策を講じる必要性を痛感させられ、早くも、該区間開通年8月に小山(現 駿河小山)から複線化工事の為の測量が開始されたが、該区間には隧道や大橋梁が存在しなかった事から、翌明治23年(1890年)12月15日に御殿場-沼津間が複線化されたが、御殿場-佐野間15.1km間に途中停車場が存在しない為に、列車増発のネックたる事に変わり無く、明治29年(1896年)に御殿場6.9km、佐野8.2km地点に、神山(こうやま)ブロック合図所が設置され、此れに依り、該区間閉塞が2分割され列車増発が可能になった。
ブロック(Block)とは、此の当時の閉塞保安機器としてブロック式通信機を使用していた事に因むもので、後に官制変更に拠り、明治33年(1900年)に神山信号所に名称変更された。
日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)後に政府は全国主要私有鉄道を国有化させる事に決定し、明治39年(1906年)3月31日附で鐵道國有法が制定され、該法に基き全国主要17私鉄は明治40年(1907年)迄に漸次政府に買収され国有化された。
明治41年(1908年)12月5日附で、内閣鐵道院が成立したが、東海道本線に於ける輸送量は客貨共に増加傾向に変化が無く、該状態では列車増発すら困難な状態だった事から、明治44年(1911年)5月1日附で、富士岡、及び、岩浪両信号所が開設され、神山信号所は役目を終え廃止された。
御殿場線は頂点たる御殿場駅を通過すると今度は次第に足鷹山と富士山の麓を回遊するが如く準高原的風景に変貌する。
然し、御殿場駅から裾野駅まで下り25‰勾配、更に、裾野駅から下土狩駅まで下り10‰勾配になる。
明治期から大正初期にかけ旅客車輌も含め貫通制動が存在しない時代は機関士にとって速度超過は時に危険を伴った。
明治末期に真空制動が開発設置の際も、必ずしも当時の鉄道車輌は貫通型制動が設置されていなかった為に列車全体に制動が行渡る訳では無かった。
特に、大正初期に当時の中型蒸気機関車B6型こと2120型機関車が、御殿場駅で貨物の入換中に停止に失敗して制動が効かぬまま貨車を引いたまま本線を暴走し、此の時の時速を計算すると時速105キロ以上出ていたものの、奇跡的に途中脱線もせず沼津駅神戸方場外で停車すると言ふ椿事が発生した。
但し、沼津駅で停車後、機関車貨車共に車軸が焼付きを生じ自力では運転不可能になり工場に臨時入場させる始末だった。
大正中期までに客車に対して貫通制動が整備されたが、必ずしも効きの良い存在では無く、貨車に至っては真空制動使用末期まで全車輌に貫通型が設置される事は無く、常に暴走の危険と隣り合わせだった。
大正末期に現在の空気制動が開発され昭和5年(1930年)に全車輌に設置完了まで、御殿場駅では貨物列車では機関車の後部に真空制動のシリンダー設置の車輌を連結し未設置の車輌は車掌が全車輌のハンドブレーキ締めて回っていた。
富士山登山口として御殿場は広く知られているが、元来の登山口は富士宮、若しくは、甲府であり、御殿場自体は後発設置である。
鐵道唱歌は、明治33年(1900年)5月1日に初版本が東京では無く大阪で出版発売されたが、既に発売当時は、御殿場駅が富士登山入口たる事が我が国内に於いて衆目周知されていたと見え、
第15番
ここだ御殿場夏ならば
(ここだ ごてんば なつならば)
我も登山を試みむ
(われも とざんをこころみむ)
高さは一万数千尺
(たかさは いちまんすうせんじゃく)
十三州も唯一目♪
(とうさんしゅうも ただひとめ)
と唄われた。
即ち、地元旅館商店主 伴野佐吉(ばんの さきち)(天保10年(1839年)9月4日~明治38年(1905年))3月11日)は、明治維新以降、横濱居住地在住の外国人に拠る富士登山ルートとして避暑地たる箱根から御殿場を経由して直接登山可能たる事に目をつけ、私財を供し、明治16年(1883年)8月に富士登山新道を開設した。
更に、東海道線開通に伴い御殿場町新橋(にいはし)に御殿場停車場が開設された事で、明治25年(1892年)5月には、「富士登山ニ関スル営業人規約書」を設定させ組合組織とし、賃料宿泊費を1合目上等25銭、下等20銭と設定し、2合以上では1合毎に1銭追加として、休憩料金や飲食物販売価格を設定し、協定料金体系を確立させていた。
鐵道院は幹線用大型蒸気機関車導入に対し、更なる大型高出力化を企画し、明治43年(1910年)に英米独各国機関車製造メーカーに対し、軸従2C式、且つ、過熱式たるの仕様書を提示依頼し発注した。
英ノース・ブリテッシュ(NORTH BRITISH)社製 8700型
独シュヴァルツコップ(SCHWALZKOPFF)社製 8800型
独ボルジッヒ(BORSIG)社製 8850型
米アメリカン・ロコモテヴ(AMERICAN LOCOMOTIVI)社 8900型
該機関車群は、明治44年(1911年)から翌明治45年(1912年)にかけて我が国に輸入された。
鐵道院の発注仕様書通りに製造したのは独製造企業2社のみで、英製造企業は仕様書に於ける過熱式では無く従来の飽和式だった為に独米製造機種に比較して性能的に劣った。
また、米製は、軸従を2Cでは無く2C1で製作され、後の純国産旅客用大型蒸気機関車18900型(後のC51型)設計に大いに参考になったとされている。
鐵道院は、明治45年(1912年)6月15日附でダイヤ改正を実施し、我が国初の欧亜連絡用1.2等特別急行列車が新橋-下関間で運転された。
その為に、それ迄は御殿場駅に於いて後部補助機関車の解放の為に全列車が停車していたが、此れ以降、停車時間を惜しみ、走行しながら後部補助機関車を解放する列車が出現する。
大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に依り、該区間内に於ける被害は他所と比較して比較的軽微な状態だったが、沿線に植柱されていた電信電話用回線用電柱が倒壊した為に、沼津以東に於ける電信電話回線は途絶状態になった。
該区間内では、富士岡-岩波間を東京発下関行下り12等特別急行第1列車が走行中で、震災発生と同時に該列車機関手が異常振動を察し、直ちに非常制動を動作させ急停車し、岩波信号場まで最徐行で進行させ停車した。
当時の特別急行列車牽引用C51型旅客用大型蒸気機関車、及び、該専用客車には真空制動機以外に空気制動機が設置済だった事から異常時に於ける非常制動動作停車が可能だった。
特別急行第1列車は、該信号場に3時間10分停車の後、前途線路を仮補修し最徐行で沼津駅まで運転された。
以後、該震災被害に関する該区間事項は、
9月 1日
富士岡-裾野間単線開通。
9月 2日
裾野-沼津間単線開通し4往復臨時旅客列車運転。
9月 3日
名古屋鐵道局静岡運輸保線事務所 所長以下160名の応援復旧舞台が沼津に到着し、被災区間復旧工事が本格化する。
同日、御殿場-富士岡間単線開通し、岩波-裾野間複線復活。
電信電話回線が、11時15分 三島(現 下土狩)まで、12時35分 富士岡まで、15時05分 御殿場まで復旧。
9月 4日
名古屋鐵道局復旧応援部隊450名が沼津に到着し、主として御殿場以東に於ける被災区間復旧工事に従事が決定。
17時15分に國府津-沼津間電話回線1回線復旧し、國府津に於いて、対東京回線と接続させた事で東京-沼津間電話が使用可能になり、それまでの途絶状態から、初めて東京に於ける該震災被害の具体的実像を知り得る。
9月 5日
東海道本線沼津以東復旧区間に就いて、本来の所管は東京鐵道局新橋運輸保線事務所管理区間だが、震災被災に依り通信以外途絶状態である事から、第22代第Ⅱ次 山本権兵衛(やまもと ごんべい)(嘉永5年(1852年)11月26日~昭和8年(1933年)12月8日)内閣(大正12年(1923年)9月2日~大正13年(1924年)1月7日在任)の鐵道大臣 山之内一次(やまのうち かずつぐ)(慶應2年(1866年)12月12日~昭和7年(1932年)12月21日)(大正12年(1923年)9月2日~大正13年(1923年)1月7日在任)命令に拠り、該区間開通まで、名古屋鐵道局静岡運輸保線事務所に事務代行執行に決定し、大臣名に拠り、全国各鐵道局長宛に電信通達された。
9月 6日
鐵道省本省連絡途絶の為に、門司鐵道局長命令で震災救援航海が決定した関釜鐵道連絡船高麗丸(3054t)を東京芝浦沖に廻航させる為に下関港出航後、途中、神戸港に寄港させ、神戸鐵道局工務課長以下震災復旧救援要員を乗船させ、同日清水港入港後下船し沼津に到着し、該救援要員は、御殿場以東不通区間復旧工事担当に決定し、駿河(現 駿河小山)-御殿場間復旧工事に従事する。
然るに、同日19時09分頃、裾野駅構内に於いて、下り御殿場発沼津行臨時貨物列車が下り急勾配に於ける速度節制を誤り、該駅東京方ポイントに於いて脱線転覆し、該貨物列車に便乗していた復旧工事従事作業員12名、及び、乗客1名が死亡、10名が重軽傷を負う事故が発生した。
応急復旧状態で余震収まらぬ為に路盤が弛緩した箇所に該貨物列車の速度超過が重なり列車脱線に至ったものと推定された。
該事故復旧は翌7日20時30分で、それ迄、御殿場-裾野間が再不通になった。
9月 7日
國府津-沼津間電信電話回線3回線復旧。
9月13日
御殿場駅構内に於いて脱線転覆した上り貨物第902列車脱線貨車復線片付の為に、濱松工場雇技工手29名が現地到着し該作業完了。
9月17日
御殿場-岩波間複線復旧。
同日、國府津-沼津間電信電話回線完全復旧。
御殿場-富士岡間に於いて下り貨物第409列車脱線貨車復線片付作業完了。
9月18日
駿河(現 駿河小山)-御殿場間単線開通。
9月21日
谷峨-駿河(現 駿河小山)間単線開通。
10月 9日
駿河(現 駿河小山)-御殿場間複線復旧。
大正7年(1918年)3月21日に工事着工以来、昭和8年(1933年)6月19日に難工事だった丹那隧道が貫通し、翌昭和9年81934年)12月1日に当時の熱海線國府津-熱海-沼津間が全線開業に拠り東海道本線編入が確実視され、國府津-御殿場-沼津間は支線化が避けられない状況となり、新路線名称が、箱根(はこね)線、函北(かんほく)線、國沼(こくしょう)線などの下馬評が囁かれる内、昭和9年(1934年)3月に当時の御殿場町長 稲葉五三郎(いなば ごさぶろう)(明治8年(1875年)3月~昭和31年(1956年)12月)は鐵道省東京鐵道局長宛に陳情書を提出し、
『現在ノ國府津沼津間ハ熱海経由線開業ト同時ニ富士山線或ハ山線ト改メントスル意見モ有ルガ御殿場駅ハ國府津沼津間ノ路線ノ勾配ノ頂点デアリ富士登山、富士五湖巡リ箱根探勝ノ連絡駅ノ位置ニ有リ広大ナ陸軍演習場ヲ擁シテイル。故ニ、御殿場線ト改称サレタシ』
と意見具申し、鐵道省に於いて検討した結果、丹那隧道開通に伴い、熱海線國府津-熱海-沼津間は東海道本線に正式編入され、同時に、國府津-御殿場-沼津間は御殿場線に命名が決定し、東海道本線所属支線に格下された。
列車本数激減に拠り。該線は明らかに全般的に見て遊休施設と化した事から複線施設は残存のまま、昭和10年(1935年)8月1日附で御殿場-裾野間、駿河(現 駿河小山)-御殿場間は同年11月1日附で複線使用を中止し片線運転化された。
該線は陸軍鐵道連隊将兵に拠る急勾配線区運転訓練の為に活用される事になった。
日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)の結果、陸軍参謀本部は戦地に於ける作戦遂行上、鐵道活用の必要性を認識させられた事から、明治29年(1896年)11月に、陸軍鐵道大隊として独立させ、大隊本部を千葉県千葉町に設置した。
その後、大正7年(1918年)に、大隊が連隊に格上され、新設された第2鐵道大隊は千葉県習志野町(現 習志野市)に本部が設置された。
第1大隊、第2大隊宿舎が山北に設置され、該部隊将兵が実際に該線列車を運転士、急勾配区間列車運転を体得させた。
大東亜戦争が勃発し、戦局苛烈となり物資不足が深刻化し、決戦体制強化方針に拠り、鐵道省は、全国主要路線で輸送量僅少な複線区間を単線化させ、軌条類等々を他重要輸送路線に転用する計画を立案し、御殿場線を含め、関西本線奈良-王寺間、参宮線阿漕-高茶屋、松阪-徳和、相河口(現 多気)-宮川、山田上口-山田(現 伊勢市)間等々を含め、諸該線を輸送量過剰と認定し単線化を決定し、昭和19年(1944年)4月11日から該工事を開始し、同年7月11日に完了した。
該工事に拠り、富士岡、及び、岩波両信号場は、それ迄の双信信号取扱所から単線区間に於ける行違場となり、両信号場に列車交換施設として転向線が設置された。
また、撤去した軌条は、多数の文献で柳井線複線化工事に流用したとの資料を散見するが、該記述は事実では無く、実際は、横須賀線横須賀-久里浜間延長工事、及び、東海道本線高島貨物線鶴見-高島間に該線50kg重軌条が流用され、代りに、該区間重軌条化に拠り捻出された37kg軌条が該線に流用交換されたと言ふのが紛れも無い事実である。
また、我が国政府は大東亜戦争非常決戦大綱を策定し、該大綱に基き、全国近距離区間列車運転の2等車連結中止を決定し同年4月1日から実施したが、然るに、該大綱に拠り、該線に於いて2等車連結を中止した結果、該線沿線富士岡に陸軍砲兵学校が存在する事から、該線に於いて佐官以上に属する陸軍高級将校利用が多く、特に、将官級将校を一般人と同じ3等車に混乗させる事は好ましく無いとの意見が陸軍軍務局から提示された事から、已む無く、同時期に連結中止となった横須賀線と同じく、同年8月16日から2等車連結を復活させた。
戦後、陸軍砲兵学校跡は進駐してきた米軍が接収し戦車訓練場としてい使用した事から、該線御殿場駅発着米戦車輸送が実施された。
然し、米軍戦車は大型で、且つ、横幅もあり、該線山北-駿河小山間には明治期に構築された隧道が数ヶ所存在し、隧道内建築限界支障が懸念された事から、該戦車輸送は隧道が存在せず接触事故を生じさせない沼津方から入線させた。
然して、該線に於いて使用されていた大型貨物用蒸気機関車D51型では牽引力不足が顕著だった事から、東海道本線沼津以西区間で使用され余剰傾向に在ったD52型を使用した処、予想を超えた効果が発揮された事から、昭和22年(1947年)より該機が本格的に使用され、該線全線電化まで主力機になった。
昭和40年(1965年)3月28日19時頃、富士岡-岩波間走行中の下り旅客第643D列車が廠舎踏切に於いて、前後確認を怠った陸上自衛隊所属大型トラックと衝突し、該列車10両内6両が脱線し、職員3名、乗客2名が重軽傷を負った。
該事故に対し、日本国有鉄道は車輌復旧費用を含め金1800万円を防衛庁から徴収した。
御殿場-裾野間は昭和43年(1968年)7月1日に御殿場-沼津間を以って該線全線電化後は、富士岡駅、及び、岩波駅に於ける列車交換設備撤去後は該駅に交換施設が存在しない為に列車増発が不可能だったが、平成元年(1989年)10月1日に両駅に交換施設が再設置され列車増発が可能になる。
表紙写真は、御殿場駅ホームから遠望 富士山。
http://www.gotembasen.net/
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~國府津-山北間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10373761
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~山北-御殿場間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10854953
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~御殿場-裾野間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10619463
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~裾野-沼津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10590273
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
御殿場(ごてんば)駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
該駅は、当時の駿東郡御殿場村新橋(にいはし)地区に設置されたが、当時の御殿場は足柄街道、及び、鎌倉往還に面した小宿場に過ぎぬ存在だった。
然るに、翌明治23年(1890年)に、地元旅館業者 伴野佐吉(ばんの さきち)(天保10年(1836年)9月4日〜明治38年(1905年)3月11日)は、私費を以って新橋浅間神社を起点に、富士山御殿場口登山連絡路を整備開設した事で、横浜在留外国人に富士登山に関する関心が高まり、御殿場の地名が俄かに脚光を浴びる事になった。
然し、明治35年(1902年)10月1日に中央本線鳥澤-大月間が延長開通し、大月から馬車鉄道乗継が富士登山として最短距離とされた事から、翌明治36年(1903年)夏期の御殿場駅乗降客数が激減する結果を招来させた。
大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、該駅構内に於ける施設被災は軽微だったが、該駅停車中の上り貨物第902列車貨車数両に脱線転覆の被害が発生した。
その後、該脱線転覆貨車は数日間放置状態だったが、同月13日〜16日に鐵道省浜松工場雇扱技手29名に依り復線復旧した。
大東亜戦争末期たる昭和20年(1945年)7月30日10時5分頃、該駅停車中の旅客列車に対し艦載機が機銃掃射攻撃を行い、旅客3名死亡、負傷者若干名が発生した。
該駅本屋は開業時以来の歴史的建築物だったが、昭和62年(1987年)に改築され、現橋上駅様式になる。
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http://www.gotembasen.net/stinfo/gotemba.html -
御殿場駅
駅本屋
富士登山口
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御殿場駅
駅本屋
箱根乙女口
昭和62年(1987年)に該駅橋上化に依り新たに開設された。
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御殿場駅
国府津方場内信号機
該地点から該駅構内は水平地。
旧東海道本線時代は、山北駅から途中停車場地域を除き該地点まで25‰上り勾配が継続。
該駅開業当初は、山北、若しくは、沼津で連結した後部補助機関車解放の為に該駅に全列車が停車したが、明治末期に英米独から輸入した高出力蒸気機関車導入に拠り、該駅構内を走行中に後部補助機関車連結器を解錠し解放する列車が出現した。
即ち、該駅上下場内信号機地点間に於ける水平地たるを利用し、勾配区間から該地点に到達した列車は、後部捕縄機関車が後押を更に強め、列車後部車掌が両車輌連結器間遊間発生確認と同時に連結器解錠フックを作用させ、該作業完了後、該車掌は本務機関車、次いで、後部補助機関車に対し、昼間は緑色旗、夜間は燈具緑色発光を以って作業完了合図を送り、本務機関車が車掌合図確認の汽笛長二声を吹鳴させ、更に、後部補助機関車が本務機関車汽笛確認に対する汽笛長二声を吹鳴と同時に本務機関車は列車を減速する事無く該駅構内を通過し、後部補助機関車は連結器解放確認汽笛吹鳴と同時に直ちに減速し該構内に於いて停車した。
当時の機関手回顧に依れば、御殿場周辺は濃霧が多く発生し車掌合図確認が困難だった事例少なからず多かった。
また、車掌回顧では、連結器解錠作業は、動揺激しい車輌デッキに両足を跨げ行う為に常に転落の危険を有していた。
後に、本州線は大正14年(1925年)7月17日に螺旋連結器から現在の自動連結器に交換後は、後部補助機関車機関室から前面連結器に対しワーヤーで接続解錠する機器が設置されたが、動作不良が多発した事から、大正末期に開発されたばかりの電車自動扉開閉装置を応用した自動連結器自動解錠装置が開発設置され、該地点に達した列車は後部補助機関車機関手が該装置を作動させ、車掌は解錠作用確認完了だけになり危険な作業から解放された。
該作業は昭和9年(1934年)11月30日24時まで継続し、同年12月1日0時を期し、東海道本線から御殿場線に所属変更され通過列車が全廃されたが、関係職員に死者は発生せず無事乗切った。 -
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御殿場駅
第1番ホーム
東海道本線時代は優等列車も停車し、戦後も東京発着普通列車が入線していた事から12両編成が停車可能。
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御殿場駅
第2番ホーム
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御殿場駅
第1番ホーム
側壁段差
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御殿場駅
第2番ホーム
写真右線路は主として該駅折返列車に使用されるが、東海道本線時代は下り本線だった。
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御殿場駅
第1番ホーム
背景は富士山。
鉄道唱歌(てつどう しょうか)は、多 梅稚(おおの うめわか)(明治2年(1869年)〜大正9年(1920年)作曲、大和田建樹(おおわだ たてき)(安政2年(1857年)5月22日〜明治43年(1910年)10月1日作詞に依り、明治33年(1900年)5月10日に大阪に於いて初版本が出版された曲である。
第1集第15番に、
ここだ御殿場夏ならば
われも登山をこころみむ
高さは一万数千尺
十三州もただ一目
と歌われている。
大和田は相撲取りを彷彿させる明治期の男性としては巨漢体形だったが、該駅開業翌年たる明治23年(1890年)夏に富士登山を果たしている。
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御殿場駅
元陸軍専用ホーム跡
明治39年(1906年)設置。
現在の陸上自衛隊東富士演習場は、明治29年(1896年)4月上旬に陸軍東京湾要塞砲兵が実弾射撃訓練の為に該地一帯を使用した事が嚆矢である。
然るに、該演習当時は兵舎など存在せず、参加将兵達は已む無く近在の農家に宿泊露営した。
途中、日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月8日〜明治38年(1905年)9月5日)勃発の為に演習どころでは無かったが、戦後、陸軍省は該地区一帯が官有地、及び、入会地で構成されている事に着目し、明治40年(1907年)から、坂妻、及び、滝ヶ原に廠舎建設を開始し明治42年(1909年)迄に完成させた。
また、明治41年(1908年)には大野原楓塚に永久、及び、半永久砲台2箇所を構築した。
陸軍省の要請を受け帝國鐵道庁は御殿場駅に陸軍専用ホーム、及び、陸軍関係施設を建築した。
此れらの土地使用に鑑み、陸軍省軍務局は坂妻、滝ヶ原、及び、大野原各地区と入会地使用に鑑み、各種特恵契約、及び、報奨金支払と廃弾拾いに関する被害無補償とする10年毎の更改協定を締結した。
昭和期には帝國陸軍も他国軍隊に対抗する為に戦車を導入した事から戦車演習場としての色彩を帯びる様になった。
大東亜戦争(だいとうあせんそう)終結で該地一帯は軍用地としての価値を喪失する事となり、大蔵省管財局管理を経て皇室御料地となった所を除き、昭和20年(1945年)9月1日附迄に開拓地として民間に払下られる事になり、旧満州朝鮮からの引揚者が続々と入植していった。
然るに、進駐軍たる連合軍は兵駒演習地として該地に目をつけ、翌昭和21年(1946年)11月14日附を以って開拓地使用中止命令を発し、該地域一帯は接収され、該駅軍用ホームは連合軍戦車積卸に使用された。
我が国の独立と共に、陸上自衛隊東富士演習場として活用されたが、該駅貨物取扱廃止に依り該ホーム施設は使用停止となり、現在は東海旅客鉄道施設が設置されたがホーム側壁に旧時代痕跡を残す。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/gotemba/
http://www.gotembasen.net/stinfo/gotemba.html -
御殿場駅
元陸軍専用ホーム跡
現在は跡地に、東海旅客鉄道関係施設、及び、御殿場市御殿場駅南駐車場が設置。
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御殿場駅
黄瀬川(きせがわ)橋梁
橋桁は交換されているが橋台は構築当時の原形。
該川は狩野川最大支流の一級河川。
過去暴風雨の都度、川沿に氾濫を反復させた該川も上流域では普通の河川。
御殿場市川島田552
御殿場線御殿場駅富士山口 徒歩3分 -
新橋浅間神社(にいはし せんげん じんじゃ)
富士登山御殿場口入口
御殿場市新橋2083
?: 0550−83−5818
御殿場線御殿場駅富士山口 徒歩12分
http://gotemba.jp/sengen/ -
新橋浅間神社
稲葉五三郎領徳碑
稲葉五三郎(いなば ごさぶろう)(明治8年(1875年)3月〜昭和31年(1956年)12月)は、地元企業家。
作家 新田次郎(にった じろう)(明治45年(1912年)6月6日〜昭和55年(1980年)2月15日)著 芙蓉の人(ふようのひと)で、主人公 野中 到(のなか いたる)(慶應3年(1867年)9月19日〜昭和30年(1955年)2月28日)は、当時の我が国に於ける冬季気象観測学が、欧米と比較し甚だ遅れている事に対し、富士山頂に於ける越冬観測を志し、周囲の猛反対を押切り、明治28年(1895年)10月1日から妻千代子と共に富士山頂に於いて冬季気象観測活動を開始した。
然るに、当時の気象観測機器は万能などでは無く、次第に機能停止する内、厳寒期到来と共に、当時の栄養学概念乏しき時代故に、ビタミンB1不足が原因に拠り夫婦共に脚気衝心を発症し人事不祥状態で倒れている所を、同年12月12日に野中夫妻を心配し厳寒の中を登山し訪問して来た勝又恵次、熊吉兄弟に発見され、該状況を見て勝又兄弟だけでは救出不可能と判断され、勝又兄弟は直ちに下山し、麓で報告を受けた御殿場の有志達が同年12月21日に決死救出隊を組織し、野中夫妻は救出され下山を余儀無くされたが、妻千代子を背負い下山したのが若き日の稲葉だった。
稲葉は、該人柄から誰からも好まれ、昭和3年(1928年)12月に当時の御殿場町長に推挙され5期20年間に亘り町長を務めた。
御殿場町長時代、現御殿場線区間が東海道本線から分離支線化する際に、國沼線、箱根線、等々の路線名称数候補から新路線名から御殿場の地名を残す為に御殿場線を強く主張し、鐵道省は該意見を採択し御殿場線と命名した。
第55代内閣総理大臣 石橋湛山(いしばし たんざん)(明治17年(1884年)9月25日〜昭和48年(1973年)4月25日)(昭和31年(1956年)12月23日〜昭和32年(1957年)2月25日在任)揮毫。
昭和26年(1951年)建立。
御殿場市新橋2083
?: 0550−83−5818
御殿場線御殿場駅富士山口 徒歩12分
http://gotemba.jp/sengen/新橋浅間神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん新橋浅間神社 寺・神社・教会
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新橋浅間神社
富士山東表口便道開鑿記念碑
現在でこそ富士登山は山梨県側入山が当然の如くなったが、昭和初期まで富士登山入口は御殿場とされていた。
地元旅館商店主 伴野佐吉(ばんの さきち)(天保10年(1839年)9月4日〜明治38年(1905年))3月11日)は、明治維新以降、横濱居住地在住の外国人に拠る富士登山ルートとして避暑地たる箱根から御殿場を経由して直接登山可能たる事に目をつけ、私財を以って、明治16年(1883年)8月に富士登山新道を開設した。
更に、東海道線開通に伴い御殿場町新橋に御殿場停車場が開設された事で、明治25年(1892年)5月には、「富士登山ニ関スル営業人規約書」を設定させ組合組織とし、賃料宿泊費を1合目上等25銭、下等20銭に設定させ、2合以上では1合毎に1銭追加算として、休憩料金や飲食物販売価格を設定し協定料金体系を確立させた。
御殿場市新橋2083
?: 0500−83−5818
御殿場線御殿場駅富士山口 徒歩12分 -
御殿場-南御殿場間
右手 旧下り線 現電留線
左手 旧上り線 現本線
御殿場市萩原1311
御殿場線御殿場駅富士山口 徒歩15分 -
御殿場-南御殿場間
右手 旧下り線 現電留線
左手 旧上り線 現本線
御殿場市萩原1311
御殿場線御殿場駅富士山口 徒歩15分 -
御殿場-南御殿場間
カマド神社踏切
東海道本線時代たる昭和6年(1931年)8月に自動列車接近警報機を設置。
現在は遮断機も無く、現状の閑散とした光景からは参拝客が引きも切らなかった当時の状況が想像すら困難。
御殿場市竃238
御殿場線南御殿場駅 徒歩4分 -
御殿場-南御殿場
諏訪神社境内
御神体
疣石(いぼいし)
擦れば疣取効果があるとか。
御殿場市竃238
御殿場線南御殿場駅 徒歩4分 -
御殿場-南御殿場間
カマド神社踏切
御殿場市竃238
御殿場線南御殿場駅 徒歩4分 -
御殿場-南御殿場間
カマド神社踏切
昭和29年(1954年)に御殿場線と該社境内間に国道246号線バイパスが設置され境内を通過。
現在は内陸部にバイパスが設置され、県道に格下。
御殿場市竃238
御殿場線南御殿場駅 徒歩4分 -
南御殿場(みなみごてんば)駅
改札口
該駅は、昭和37年(1962年)7月20日開業である。
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南御殿場駅
駅構内
非電化時代は牽引蒸気機関車を含め12両編成列車も運転されていた事から、戦後開設された無人駅にしてはホームが異様に長い。
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南御殿場駅
駅構内
御殿場-裾野間で該駅付近のみ平坦地だった事から駅開設が可能だった。
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南御殿場-富士岡間
沼津方俯瞰
ホーム外は直ちに下り25‰勾配。 -
南御殿場-富士岡間
高尾山踏切(たかおさん ふみきり)
御殿場市竃772
御殿場線南御殿場駅 徒歩6分 -
南御殿場-富士岡間
高尾山踏切付近
現在は旧上り線を1本の単線として活用、
御殿場市竃772
御殿場線南御殿場駅 徒歩6分 -
富士岡(ふじおか)駅
駅本屋
全景
該駅は、明治29年(1896年)に御殿場-佐野(現 裾野)間に設置された神山(こうやま)ブロック取扱所が、明治44年(1911年)5月1日に、御殿場-沼津間に双信閉塞式導入に伴い廃止され、代りに、該日附を以って富士岡信号所として設置されたのが嚆矢である。
信号所設置当時に現在の築堤が設置され、上り貨物列車退避用に使用。
大正11年(1922年)4月1日附で富士岡信号場に名称変更された。
旅客取扱開始は、現在の陸上自衛隊駒門戦車学校所在地に、戦前は陸軍重砲兵学校が設置され、戦時下故に陸軍に拠る旅客扱要請を受けた事がきっかけである。
昭和18年(1943年)に該線が単線化された際に、交換施設として転向線が設置された。
信号場が駅に格上したのは、昭和19年(1944年)8月1日附である。
駅格上当初は、利用者に対する厳格な利用規定が存在し、該学校に通勤する軍人、軍属、及び、陸軍当局指定者に限定され、一般利用者利用は不可だったが、時節柄、該地への軍将校出張が多く、軍特有の口頭命令受領者が該駅到着時に憲兵から無証明状態故に利用拒否が相次ぎ矛盾を指摘された事から、同年11月10日附で利用者制限が撤廃され、表向き誰でも自由に乗降可能になった。
但し、駅本屋とは別に憲兵隊詰所が設置され、常時憲兵が監視しており、不審者、特にスパイに対する警戒感から、誰もが自由に乗降可能と言ふ訳では無かった。
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富士岡駅
駅本屋
駅昇格時の昭和19年(1944年)7月竣工の初代建築物。
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富士岡駅
旧スイッチバック跡
右手奥空き地が旧スイッチバック加速線跡地。
昭和43年(1968年)10月1日に電化後に廃止撤去。
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富士岡駅
駅構内
富士山を模った築山
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富士岡駅
駅ホーム
右手土手は旧ホーム跡
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富士岡駅
駅ホーム
富士山を遠望。
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富士岡駅
駅ホーム
左線が下り線で旧本線。
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富士岡駅
駅構内
沼津方から俯瞰。
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富士岡駅
元スイッチバック跡
右手は現在の該駅構内。
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富士岡駅
元スイッチバック跡
現在は富士見台として整備。
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富士岡駅
現行線
旧上り線
撤去された下り線跡
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富士岡-岩波間
旧複線跡
左方空地が撤去された旧上り線跡
御殿場市神山1636
御殿場線岩波駅 徒歩35分 -
富士岡-岩波間
神山(こうやま)信号所跡
該区間開通当時、御殿場-佐野(現 裾野)間は1閉塞だった事から列車増発は不可能であり、その為に、明治29年(1896年)に、御殿場6.9km地点、佐野8.2km地点たる該地に、神山ブロック合図所が設置された。
即ち、ブロックとは当時の複線区間に於いて使用されていた保安装置の名称であり、明治33年(1900年)に双信閉塞器が導入された事から、神山信号所に名称変更された。
然るに、明治末期ともなると開通当時の低出力蒸気機関車と異なり性能も向上した事から、更なる閉塞区間短縮が可能となり、明治44年(1911年)5月1日に、現在の富士岡、岩波両信号所が開設された事で、該信号所は発展的解消を遂げ廃止された。
御殿場市神山1195
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
神山信号所跡
トヨタ自動車東日本工場専用線分岐点
裾野市神山1195
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
トヨタ自動車東日本工場専用線分岐点跡
写真中央部に分岐器が設置されていた。
御殿場市神山1195
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
トヨタ自動車東日本工場専用線
トヨタ自動車東日本工場は裾野市に展開する自動車製造工場である。
該社は、自社製造乗用車を搬出し鉄道輸送する為に設置した専用線で、富士岡-裾野間に分岐点を設置し該工場内に連絡していた。
然し、当時の乗用車の鉄道輸送は、現在の大型トレーラー車輸送方式と同じく露天状態での荷積だった事から、積載貨車制動作動時に発生するブレーキシューの鉄片粉の為に、乗用車ボディー塗料表皮膜損傷が避けられず、常にディーラーや購入者から苦情が絶えず、結局該輸送法は長続きせず、昭和59年(1984年)2月1日附で該線一般貨物取扱が廃止され、分岐点に設置されていた分岐器は撤去されたが、該専用線部分の軌条は撤去されず、殆どの部分が現存する。
現在、トヨタ自動車に於いて、乗用車輸送を鉄道輸送する際はコンテナに梱包し発送する為に、以前の如き苦情は無くなったが、エコロージーの観点から見ても大型トレーラー車に依る輸送より鉄道輸送の方が好ましく、復活を検討するもの一考かと思われる。
裾野市神山1195
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
トヨタ自動車東日本工場専用線跡
旧西川橋梁跡
旧軌条が残存。
裾野市御宿1290
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
トヨタ自動車東日本工場専用線跡
旧西川橋梁跡
裾野市御宿1290
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
トヨタ自動車東日本工場専用線跡
落葉の中に旧軌条が残存。
裾野市御宿無番地
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
トヨタ自動車東日本工場専用線跡
東名高速道路横断隧道
隧道内に旧軌条が残存。
裾野市御宿無番地
御殿場線岩波駅 徒歩25分 -
富士岡-岩波間
上岩波川(かみいわなみかわ)橋梁
元上り線用
御殿場市神山954
御殿場線岩波駅 徒歩12分 -
富士岡-岩波間
上岩波川橋梁
元上り線用
黄瀬川は該地点に於いて2流れに分流する為に、上岩波川橋梁 対 下岩波川橋梁間は該河川中州が存在。
御殿場市神山954
御殿場線岩波駅 徒歩12分 -
富士岡-岩波間
下岩波川(しもいわなみかわ)橋梁
旧上り線用
裾野市岩波250
御殿場線岩波駅 徒歩10分 -
富士岡-岩波間
下岩波川橋梁
元上り線用
全長19.20m
裾野市岩波250
御殿場線岩波駅 徒歩10分 -
富士岡-岩波間
小鍋田開渠橋梁(おなべだ かいきょ きょうりょう)
開渠とは掘削された運河や人工河川。
裾野市岩波270
御殿場線岩波駅 徒歩8分 -
富士岡-岩波間
小鍋田開渠橋梁
下り場内信号機
裾野市岩波270
御殿場線岩波駅 徒歩8分 -
富士岡-岩波間
小鍋田開渠橋梁
旧下り線橋台跡
裾野市岩波270
御殿場線岩波駅 徒歩8分 -
富士岡-岩波間
小鍋田開渠橋梁
全景
手前側が旧下り線跡
裾野市岩波218
御殿場線岩波駅 徒歩7分 -
富士岡-岩波間
小鍋田開渠橋梁
下り線橋台跡
裾野市岩波218
御殿場線岩波駅 徒歩7分 -
富士岡-岩波間
小鍋田開渠橋梁
橋桁銘板
鐵道省
大型貨物用蒸気機関車D50型導入を前に、橋梁強化の為に旧橋桁と更改された。
裾野市岩波218
御殿場線岩波駅 徒歩7分 -
富士岡-岩波間
岩波駅
沼津方俯瞰
左側が旧下り線跡
裾野市岩波212
御殿場線岩波駅 徒歩5分 -
富士岡-岩波間
岩波駅旧転向線跡
裾野市岩波230
御殿場線岩波駅 徒歩4分 -
岩波(いわなみ)駅
駅本屋
全景
該駅は、明治44年(1911年)5月1日設置の岩浪信号所が嚆矢である。
然し、同年7月18日に理由は不明ながら、岩波信号所に改称された。
その後、御殿場線が昭和18年(1943年)5月に単線化された際に、転向線や列車停車用築堤が設置される。
旅客扱開始は、昭和19年(1944年)7月15日で、現地は急勾配点に所在する為に、列車停車用築堤上にホームが設置された。
昭和43年(1968年)10月1日に御殿場-沼津間が電化された際に、電車の性能から該急勾配上にホームを新設し、築堤上ホーム、及び、転向線は廃止されたが、転向線痕跡が残存する。
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岩波駅
駅本屋
近接
地上から3階改札口を経てホームで乗車するも、該駅には駅本屋、ホーム共に、エレヴェーター、エスカレーターの類は一切存在しない。
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岩波駅
駅舎改築記念碑
既製余剰品を活用。
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岩波駅
駅構内
駅本屋上から沼津方を俯瞰。
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岩波駅
旧列車停車ホーム跡地
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岩波駅
旧列車停車ホーム跡地
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岩波駅
旧列車停車ホーム跡地
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岩波-裾野間
新川(しんかわ)橋梁
現行線は旧下り線
裾野市深良1255
御殿場線岩波駅 徒歩6分 -
岩波-裾野間
新川橋梁
旧上り線橋台跡
裾野市深良1260
御殿場線岩波駅 徒歩6分 -
岩波-裾野間
深良用水(ふから ようすい)
該地域一帯は、水量豊富な黄瀬川が存在するも、段丘上に所在する事から、古来より不毛の地とされ農耕不適地だった。
江戸期初期、友野与右ヱ門(ともの ようえもん)は、水量豊富な芦ノ湖水を隧道掘削の上、該地に引水する事を思い立ち、寛文3年(1663年)3月に箱根大権現に該水利用を請願し、許可を得た事から、寛文6年(1666年)に沼津藩に対し工事着工許可を申請し、深良隧道を掘削させ寛文11年(1671年)に竣工した。
更に、現在の岩波地区に引水する為に新川を穿ち、その結果、不毛の地は沃野へと変貌を遂げた。
裾野市深良1250
御殿場線岩波駅 徒歩5分 -
岩波-裾野間
国府津方を俯瞰
S字曲線を描きつつ25‰上り勾配が存在する。
遠方に岩波駅構内転向線跡が望見。
裾野市上原1760
御殿場線岩波駅 徒歩18分 -
岩波-裾野間
西安寺(せいあんじ)
浄土宗派に属す該寺は、東海道本線時代、上り線に於いて前後にS字急曲急勾配が存在する事から、機関士から空転寺と呼称されていた。
裾野市市場1939
御殿場線岩波駅 富士急行バス三島御殿場線裾野市民センター前停留所降車 徒歩7分 -
裾野駅
手前線路は旧東海道本線時代は下り本線。
大正12年(1923年)9月6日の臨時貨物列車脱線事故は該分岐器で発生。 -
裾野駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
該駅本屋は該駅開業当時の建物を修復しつつ現用した建築物で、該路線線内に於ける最古の木造建造物である。
但し、開設当時は 佐野(さの)驛と称したが、両毛線佐野驛との同称だった事で、当時外貨獲得最大輸出品だった絹製品発送地として両毛線該驛との混同が甚だしく、混同を避ける為に、大正4年(1915年)7月15日附で現駅名に改称された。
関東大震災に依る該駅被害は軽微であり、裾野-沼津間は震災当日に仮復旧開通した。
然るに、同年同月6日19時10分頃、御殿場発沼津行臨時貨物列車が富士岡発車後、富士岡-裾野間に存在する25‰下り勾配区間に於いて、制動効果失効の為に暴走し、速度超過状態で該駅国府津方踏切付近に存在する分岐器付近に進入した事から、牽引蒸気機関車、及び、貨車計29両が脱線し、殊に、当時の貨車は台枠に至るまで総木造構造車輌も少なくなく、脱線貨車23両は原形を留めぬ程、粉砕状態となり、震災被災区間復旧要員として便乗中だった作業員12名、乗客1名が死亡、10名が重軽傷を出す惨事となった。
事故原因は、震災当日に仮復旧したとは言え、地盤が地震の為に弛緩状態な所に高速で暴走した列車が突っ込んだものが原因と推定された。
震災復旧要員が多数存在した為に、事故復旧は翌7日20時30分に開通させた。
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裾野駅
駅本屋
構内側
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裾野駅
旧第1番ホーム跡
非電化時代まで使用された。
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裾野駅
ホーム上屋
該線該駅が静岡鉄道管理局所属時代に施工されたが、東京鉄道管理局様式。
昭和31年(1956年)2月 東鉄工業施工。
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裾野駅
ホーム上屋
支柱古軌条
CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1880 SEC131 □□□□
(英キャムメル・フィールド・スティール社 1880年製造 製造ロット番号131番 発注者不明)
製造ロット番号から工部省鐵道局発注品。
同品は東海道本線早川駅、横須賀線田浦駅ホーム上屋支柱にも現存。
支柱番号第5号a
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裾野駅
跨線橋
昭和31年(1956年)2月竣工
東鉄工業株式会社施工
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裾野駅
跨線橋
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裾野駅
駅名表示
背後に塗り消されたが旧式駅名表示が薄く残存。 -
裾野駅
跨線橋
内部
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裾野駅
第1番ホーム
側壁
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この旅行記へのコメント (7)
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- ひでじいさんさん 2021/07/21 17:17:03
- お邪魔します。
- 御殿場線、、、よくここまで調べましたね。私もほぼ地元で良く乗りましたが歴史的なことは知りませんでした。
以前は複線で東海道本線だったんですね。山北駅には転車台があってよく遊びました。
私の伯父さんが御殿場線の駅長だったので、ただで載せてもらえました。
山北駅の桜の木は伯父さん達が昔植えたと聞いてます。
電化は今から60年前だったかなあ。
昔は進駐軍の兵隊さんが乗っていてチョコレート貰ったのを思い出しました。
昔の事を思い出しました、ありがとうございます。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2021/07/22 13:46:36
- 拝復
- ひでじぃさま、こんにちは。
拙稿旅行記をご覧くださり、更に投票を賜りまして、誠に有難うございました。
御殿場線の旅行記では、御殿場-裾野間編より山北-御殿場間編の方が作成もより困難で、山渓地帯故に道無き道を訪れなければならず、イノシシや蝮群に出くわしたりと本当に大変な現地訪問でした。
山北駅の転車台は東海道本線時代は2台存在した様ですが、大東亜戦争中の不要不急施設に認定され、北海道発貨物を船舶輸送から鉄道輸送に転換させる為に、列車本数が急増化した上越線用に使用させる為に、同じ東京鐵道局内だった高崎管理部の要請で高崎機関区に移築され当該転車台は高崎で現存しております。
御殿場には連合軍が進駐した為に、御殿場線列車に2等車が連結されておりました。
山北駅北側の桜並木が往年の樹勢は無くなりましたが、それでも開花の話題を耳にすると、今はひっそりでも桜花の時期は凄かったんだろうと思っております。
横浜臨海公園
- ひでじいさんさん からの返信 2021/07/22 20:48:37
- 感銘しました
- 横浜臨海公園さん
私は旅に出る前に若干観光スポットの事を調べて行き、帰ってきて旅行記&口コミは不備誤記があるといけないので都度、ネットで由緒など調べてから載せます。
横浜臨海公園さんの歴史等の詳しさには感銘します。
写真を拝見すると人の気づかない所が多く、これまた感銘です。
また、文章の作りが上手いですね。
ローカル線に乗るのは旅のテーマの一つですが、貴殿には追い付けません。
今後も鉄道旅を続けてください。
ではまた。
> ひでじぃさま、こんにちは。
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> 拙稿旅行記をご覧くださり、更に投票を賜りまして、誠に有難うございました。
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> 御殿場線の旅行記では、御殿場-裾野間編より山北-御殿場間編の方が作成もより困難で、山渓地帯故に道無き道を訪れなければならず、イノシシや蝮群に出くわしたりと本当に大変な現地訪問でした。
> 山北駅の転車台は東海道本線時代は2台存在した様ですが、大東亜戦争中の不要不急施設に認定され、北海道発貨物を船舶輸送から鉄道輸送に転換させる為に、列車本数が急増化した上越線用に使用させる為に、同じ東京鐵道局内だった高崎管理部の要請で高崎機関区に移築され当該転車台は高崎で現存しております。
> 御殿場には連合軍が進駐した為に、御殿場線列車に2等車が連結されておりました。
> 山北駅北側の桜並木が往年の樹勢は無くなりましたが、それでも開花の話題を耳にすると、今はひっそりでも桜花の時期は凄かったんだろうと思っております。
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> 横浜臨海公園
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- 琉球熱さん 2014/02/16 14:15:19
- 労作に感服
- 横浜臨海公園さん、こんにちは
御殿場線は登山の際に時々(本当に時々ですが)利用しております。
ひなびた山間の鉄道、というイメージ。同時に車窓からの景色は、山間を走るだけに、東海道線では見られないものでもあり、私は好きな路線です。
鉄道、特に古い路線には壮大な歴史がありますね。そこには「国家」の影も見え隠れします。
これだけのデータを収集し、かつ整理する作業は大変なご苦労であったと推察します。
私などは感じたことを羅列しているだけでも、それなりの時間を要していますので、ただただ感服するのみです。
軽く読み飛ばせるモノが増えているだけに、大変貴重な存在です。
大変でしょうが、今後もぜひ継続してください。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2014/02/16 16:01:15
- 拝復
- 琉球熱さま、こんにちは。
小生の駄作旅行記に投票と掲示板にコメントを賜りまして、有難うございました。
> 御殿場線は登山の際に時々(本当に時々ですが)利用しております。
> ひなびた山間の鉄道、というイメージ。同時に車窓からの景色は、山間を走るだけに、東海道線では見られないものでもあり、私は好きな路線です。
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> 鉄道、特に古い路線には壮大な歴史がありますね。そこには「国家」の影も見え隠れします。
>
> これだけのデータを収集し、かつ整理する作業は大変なご苦労であったと推察します。
→実は、御殿場線の旅行記の最大の難関、山北-御殿場間編の資料を収集、取捨選択中です。
困った事に、東京の国立国会図書館憲政資料室や大宮鉄道博物館収納の資料集に欠落が多く、その穴を埋める為に苦労をさせられております。
兎に角、廃線になった旧上り線橋梁が、戦後になり国鉄樽見線建設の為に揖斐川橋梁として転用されたり、終戦直後に賠償としてタイの泰緬鉄道の映画でも有名な橋梁の本格復旧で2連が使用されたりと、資料読みが大変です。
横浜臨海公園
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- norisaさん 2014/01/30 21:39:21
- まさに労作!
- 横浜臨海公園さん
こんばんわ。
久しぶりの旅行記拝見しました。
余りの労作に会社ではコメントもできず、自宅にて改めて拝見させて頂きました。
御殿場線は今は全くのローカル線で実際に乗車したのは二度ほどしかありません。
しかし、このさびれた線路や駅にかくも多くの歴史があるとは知りませんでした。
普通は工事は東京に近い国府津から開始しそうなものですが、重くて大きな鉄路や機材を運搬するために大きな港のある沼津からスタートしたことやその他多くの貴重な記録は、これはもう旅行記というよりも近代歴史(しかも詳論)以外の何物でもありません。
ご調査はざぞ大変だったと推察します。
この旅行記がいくつかあれば完全に近代日本史のあるジャンルの書籍として出版できますね!!
近代化を急ぐ日本人や政府の熱い情熱や雰囲気が伝わる労作ーー。
ありがとうございました。
norisa
- 横浜臨海公園さん からの返信 2014/01/31 15:47:00
- 拝復
- norisaさま、こんにちは。
旅行記に投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。
> 御殿場線は今は全くのローカル線で実際に乗車したのは二度ほどしかありません。
> しかし、このさびれた線路や駅にかくも多くの歴史があるとは知りませんでした。
> 普通は工事は東京に近い国府津から開始しそうなものですが、重くて大きな鉄路や機材を運搬するために大きな港のある沼津からスタートしたことやその他多くの貴重な記録は、これはもう旅行記というよりも近代歴史(しかも詳論)以外の何物でもありません。
→現在、残りの山北-御殿場間の作成を検討しております。
然し、該区間は山岳地帯なのとイノシシなどの獣類や蛇も出没する所なので、写真撮影は真冬しか出来ない状態です。
>
> ご調査はざぞ大変だったと推察します。
→資料が入ったバックを盗まれ完成が1年遅れました。
> この旅行記がいくつかあれば完全に近代日本史のあるジャンルの書籍として出版できますね!!
→実は、沿線に所在する数図書館司書からも同じ事を言われております。
次作として、東京浜松町間煉瓦高架橋群史、及び、川崎-横浜間を作成中でございます。
横浜臨海公園
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旅行記グループ 御殿場線歴史的痕跡探訪記
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