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諏訪原城(すわはらじょう、静岡県島田市金谷)は大井川の西岸に迫る牧之原台地の東突端に在り、眼下にはJR金谷駅が小さく視野に入り、更に線路の東方向には大井川が一望できる地理的条件に恵まれた位置にあります。<br /><br />室町足利将軍の凋落ぶりに対し遠戚であることをを自認する戦国大名今川義元(いまがわ・よしもと、1519~1560)は本領の駿河国に加え遠江国を計略を計って領土化し、これを機に属領三河国の完全支配に自信を深めます。<br /><br />永年に亘る甲斐国との戦い、そして北条早雲(ほうじょう・そううん、1432?~1519)死去により疎遠となった小田原北条氏との富士川以東を巡る争いを巧みな外交交渉(政略婚)により向後の憂いを解決、いよいよ天下人を目指すため西進します。<br /><br />1560年ご存じの通り義元は桶狭間にて織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582)の急襲を受けて不覚の生涯を終え、主を失った従軍は這う這うの体で駿府に逃げ帰る事となります。<br /><br />嫡男氏真(うじざね、1538~1615)は凡将で指導力乏しく家臣達をまとめる求心力弱く、従い父義元の弔い合戦を企てることすらできず逆に有力家臣からも疎んじられます。一方義元亡き後の後継氏真では領国経営困難と見た武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)は甲相駿三国同盟の破棄に踏み切り嫡男義信(よしのぶ、1538~1567)を自害に追い込み、永禄11年(1568)12月大軍を率いて駿府を攻撃し今川館は炎上します。<br /><br />駿府を追われた氏真は重臣朝比奈泰朝(あさひな・やすとも,1538~不詳))を頼り遠江国掛川城に身を寄せますが、義元没後に本来の自領三河に戻って独立し支配力を高めた徳川家康(とくがわ・いえやす、1543~1616)の攻略を受け北条氏政(ほうじょう・うじまさ、1538~1590)の食客となりここで約230年に亘って覇を唱えた名門今川氏は駿河・遠江両国を失い滅亡することとなります。<br /><br />上述の通り旧今川領の占取については織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582)の仲介をもって信玄と家康とで大井川を境として駿河は武田、遠江は徳川という分割の密約が成立します。<br /><br />駿河は武田氏、遠江は徳川氏の所領となったものの、やがて双方は争うことになり元亀2年(1571)に信玄は遠江国東南にある徳川方の高天神城を攻撃しますが落城に至らずやむなく撤退します。<br /><br />元亀4年(1573)信玄の病死により陣代ながら後継の勝頼(かつより、1546~1582)は父信玄の意を受け遠江支配を目指します。<br /><br />具体的には父が果たせなかった高天神城攻略であり、天正元年(1573)勝頼は高天神城への補給線を確保するため重臣馬場信春(ばば・のぶはる、1515~1575)に命じ東海道に沿った牧之原台地の東端の舌状地に諏訪原城を築城させることになります。<br /><br />翌天正2年(1574)に勝頼は高天神城に攻撃をかけ、ついに勝頼は同城を手中にし父信玄の悲願を実現させます。<br /><br />ところが天正3年(1575)5月、長篠の戦において勝頼率いる騎馬軍団が織田・徳川連合軍に大敗、これを機に家康は武田氏軍の各拠点の城への攻略に転じます。<br /><br />遠江でも家康の攻略が活発化して同年8月諏訪原城も攻撃を受け、約1ケ月の攻防が展開されるも城主の討死しを機に落城、徳川方の手に落ちると名前を牧野城と改称、以降城番を常駐させ天正10年(1582)3月に武田氏滅亡まで続きます。<br /><br /><br />2023年9月5日追記<br /><br />現地に建てられた案内板には諏訪原城の縄張図などと共に下記のように説明<br />されています。<br /><br /><br />『 国指定史跡   諏 訪 原 城 跡<br /><br />              指定年月日 昭和50年11月25日<br />              追加指定  平成14年12月19日<br /><br /><br />諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀・丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代氏の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。<br /><br />当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じたと「甲陽軍鑑」等に記されています。城内に諏訪大明神を祭ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。<br /><br />天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め滅ぼされたのち「牧野城」(牧之原城)」と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し。「家忠日記」には、堀普請(堀を作る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。<br /><br />天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから<br />、天正18年(1590)頃廃城とになったと考えられています。』<br /><br /><br />

遠江金谷 遠江国戦略拠点として武田勝頼の命により築城の達人でもある武川衆出身の武将馬場信春が牧之原台地に独自の馬出しを構えた『諏訪原城』訪問

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2014/01/03 - 2014/01/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

諏訪原城(すわはらじょう、静岡県島田市金谷)は大井川の西岸に迫る牧之原台地の東突端に在り、眼下にはJR金谷駅が小さく視野に入り、更に線路の東方向には大井川が一望できる地理的条件に恵まれた位置にあります。

室町足利将軍の凋落ぶりに対し遠戚であることをを自認する戦国大名今川義元(いまがわ・よしもと、1519~1560)は本領の駿河国に加え遠江国を計略を計って領土化し、これを機に属領三河国の完全支配に自信を深めます。

永年に亘る甲斐国との戦い、そして北条早雲(ほうじょう・そううん、1432?~1519)死去により疎遠となった小田原北条氏との富士川以東を巡る争いを巧みな外交交渉(政略婚)により向後の憂いを解決、いよいよ天下人を目指すため西進します。

1560年ご存じの通り義元は桶狭間にて織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582)の急襲を受けて不覚の生涯を終え、主を失った従軍は這う這うの体で駿府に逃げ帰る事となります。

嫡男氏真(うじざね、1538~1615)は凡将で指導力乏しく家臣達をまとめる求心力弱く、従い父義元の弔い合戦を企てることすらできず逆に有力家臣からも疎んじられます。一方義元亡き後の後継氏真では領国経営困難と見た武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)は甲相駿三国同盟の破棄に踏み切り嫡男義信(よしのぶ、1538~1567)を自害に追い込み、永禄11年(1568)12月大軍を率いて駿府を攻撃し今川館は炎上します。

駿府を追われた氏真は重臣朝比奈泰朝(あさひな・やすとも,1538~不詳))を頼り遠江国掛川城に身を寄せますが、義元没後に本来の自領三河に戻って独立し支配力を高めた徳川家康(とくがわ・いえやす、1543~1616)の攻略を受け北条氏政(ほうじょう・うじまさ、1538~1590)の食客となりここで約230年に亘って覇を唱えた名門今川氏は駿河・遠江両国を失い滅亡することとなります。

上述の通り旧今川領の占取については織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582)の仲介をもって信玄と家康とで大井川を境として駿河は武田、遠江は徳川という分割の密約が成立します。

駿河は武田氏、遠江は徳川氏の所領となったものの、やがて双方は争うことになり元亀2年(1571)に信玄は遠江国東南にある徳川方の高天神城を攻撃しますが落城に至らずやむなく撤退します。

元亀4年(1573)信玄の病死により陣代ながら後継の勝頼(かつより、1546~1582)は父信玄の意を受け遠江支配を目指します。

具体的には父が果たせなかった高天神城攻略であり、天正元年(1573)勝頼は高天神城への補給線を確保するため重臣馬場信春(ばば・のぶはる、1515~1575)に命じ東海道に沿った牧之原台地の東端の舌状地に諏訪原城を築城させることになります。

翌天正2年(1574)に勝頼は高天神城に攻撃をかけ、ついに勝頼は同城を手中にし父信玄の悲願を実現させます。

ところが天正3年(1575)5月、長篠の戦において勝頼率いる騎馬軍団が織田・徳川連合軍に大敗、これを機に家康は武田氏軍の各拠点の城への攻略に転じます。

遠江でも家康の攻略が活発化して同年8月諏訪原城も攻撃を受け、約1ケ月の攻防が展開されるも城主の討死しを機に落城、徳川方の手に落ちると名前を牧野城と改称、以降城番を常駐させ天正10年(1582)3月に武田氏滅亡まで続きます。


2023年9月5日追記

現地に建てられた案内板には諏訪原城の縄張図などと共に下記のように説明
されています。


『 国指定史跡   諏 訪 原 城 跡

              指定年月日 昭和50年11月25日
              追加指定  平成14年12月19日


諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀・丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代氏の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。

当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じたと「甲陽軍鑑」等に記されています。城内に諏訪大明神を祭ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。

天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め滅ぼされたのち「牧野城」(牧之原城)」と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し。「家忠日記」には、堀普請(堀を作る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。

天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから
、天正18年(1590)頃廃城とになったと考えられています。』


交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 旧東海道金谷坂標柱<br /><br />JR金谷駅を出て右側道路を下りガードを潜り駅の反対側に出て、右折して急峻な道路を登ります。登り切った所に左右の広い道路に立ちますと石畳の旧東海道上り坂入口が在るのが判ります。

    旧東海道金谷坂標柱

    JR金谷駅を出て右側道路を下りガードを潜り駅の反対側に出て、右折して急峻な道路を登ります。登り切った所に左右の広い道路に立ちますと石畳の旧東海道上り坂入口が在るのが判ります。

  • 金谷石畳道路<br /><br />大きな丸い石で敷かれた道路を登ってゆきます。凸凹差が激しくスムーズに歩けず、しかも慎重に脚を運ぶため疲労度が激しいので途中休憩しながら登ります。

    金谷石畳道路

    大きな丸い石で敷かれた道路を登ってゆきます。凸凹差が激しくスムーズに歩けず、しかも慎重に脚を運ぶため疲労度が激しいので途中休憩しながら登ります。

  • 「金谷坂の石畳」説明板

    「金谷坂の石畳」説明板

  • 旧東海道<br /><br />石畳旧東海道が続きます。

    旧東海道

    石畳旧東海道が続きます。

  • 大手口と十二号堀説明板<br /><br />

    大手口と十二号堀説明板

  • 三日月形水堀<br /><br />諏訪神社の外周の堀は三日月形で武田氏の築城術であることを強く示しています。

    三日月形水堀

    諏訪神社の外周の堀は三日月形で武田氏の築城術であることを強く示しています。

  • 諏訪神社<br /><br />大手口から見た諏訪神社を捉えます。武田氏の守護神である諏訪神社を勧請していることから諏訪原城と称しています。<br /><br />

    諏訪神社

    大手口から見た諏訪神社を捉えます。武田氏の守護神である諏訪神社を勧請していることから諏訪原城と称しています。

  • 諏訪神社<br /><br />諏訪神社の鳥居辺りが南丸馬出で武田氏独特の三日月形堀とセットで造られています。

    諏訪神社

    諏訪神社の鳥居辺りが南丸馬出で武田氏独特の三日月形堀とセットで造られています。

  • 諏訪人神社拝殿<br /><br />「安産祈願」が掲示された簡素な拝殿とその先に本殿と思われる小屋が見えます。

    諏訪人神社拝殿

    「安産祈願」が掲示された簡素な拝殿とその先に本殿と思われる小屋が見えます。

  • 九号堀説明板<br /><br />土橋によって分けられた自然湧水を利用した水堀で、長さは109.0m、幅は14.5mの大規模水堀となっています。

    九号堀説明板

    土橋によって分けられた自然湧水を利用した水堀で、長さは109.0m、幅は14.5mの大規模水堀となっています。

  • 九号堀<br /><br />自然湧水を利用した見事な水堀で深さも立派です。

    九号堀

    自然湧水を利用した見事な水堀で深さも立派です。

  • 諏訪原城跡石標

    諏訪原城跡石標

  • 諏訪原城跡説明板

    諏訪原城跡説明板

  • 大規模空堀<br /><br />城郭の外側を北から南にかけて三日月形の深い大規模空堀が巡らされています。

    大規模空堀

    城郭の外側を北から南にかけて三日月形の深い大規模空堀が巡らされています。

  • 壁立説明板<br />

    壁立説明板

  • 空堀<br /><br />空堀の南方向を捉えます。

    空堀

    空堀の南方向を捉えます。

  • 空堀<br /><br />同様に北方向を捉えます。

    イチオシ

    空堀

    同様に北方向を捉えます。

  • 三の丸跡

    三の丸跡

  • 三の丸説明板<br /><br />二の丸に次ぐ規模で主に食糧・武器・弾薬庫を備えているスぺ−スでした。

    三の丸説明板

    二の丸に次ぐ規模で主に食糧・武器・弾薬庫を備えているスぺ−スでした。

  • 武家屋敷跡<br /><br />大規模外空堀の西側に設けられた武家屋敷跡は茶畑と化しています。

    武家屋敷跡

    大規模外空堀の西側に設けられた武家屋敷跡は茶畑と化しています。

  • 第十一号堀<br /><br />武家屋敷の南側に設置された約1.0mほどの浅い空堀で外敵侵入時での気勢を一時的に削ぐ役割をしています。

    第十一号堀

    武家屋敷の南側に設置された約1.0mほどの浅い空堀で外敵侵入時での気勢を一時的に削ぐ役割をしています。

  • 馬場跡

    馬場跡

  • 今福淨閑戦死墓塚<br /><br />今では茶畑となっている大手郭に武田氏方城主として今福淨閑の墓塚が建立されています。

    イチオシ

    今福淨閑戦死墓塚

    今では茶畑となっている大手郭に武田氏方城主として今福淨閑の墓塚が建立されています。

  • 二の丸跡<br /><br />城郭最大の規模を誇る二の丸跡が広がります。

    二の丸跡

    城郭最大の規模を誇る二の丸跡が広がります。

  • 二号堀説明板<br /><br />城郭の西北部に施され二の丸を防御する二号空堀、空堀の規模は長さが72.5m、幅が14.5mとなっています。

    二号堀説明板

    城郭の西北部に施され二の丸を防御する二号空堀、空堀の規模は長さが72.5m、幅が14.5mとなっています。

  • 土橋<br /><br />馬場跡辺りから二の丸に入る土橋ですが工事車両利用のため鉄板が敷き詰められています。<br /><br /><br />

    土橋

    馬場跡辺りから二の丸に入る土橋ですが工事車両利用のため鉄板が敷き詰められています。


  • 二の丸跡説明板<br /><br />城主に次ぐ幹部級武士の屋敷・詰所の他来城者等の控所がありました。

    二の丸跡説明板

    城主に次ぐ幹部級武士の屋敷・詰所の他来城者等の控所がありました。

  • 二の丸跡全景

    二の丸跡全景

  • 五号堀<br /><br />武田氏独特の築城術を示す三段鍵堀(底部が三段になっている)であり、敵の侵入が手間取る効果があります。

    五号堀

    武田氏独特の築城術を示す三段鍵堀(底部が三段になっている)であり、敵の侵入が手間取る効果があります。

  • 三段鍵堀

    三段鍵堀

  • 六号堀<br /><br />五号堀の向にあり南から南東に流れる自然の谷沢を利用した空堀で、長さが83.0m、幅が14.5mの規模をなしています。

    六号堀

    五号堀の向にあり南から南東に流れる自然の谷沢を利用した空堀で、長さが83.0m、幅が14.5mの規模をなしています。

  • 六号堀説明板

    六号堀説明板

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 本丸跡説明板

    本丸跡説明板

  • 天主台地<br /><br />本丸の奥に位置する高台には山城ですから天主はなく、その代り二層の櫓が設置され、物見役が常駐して敵の動きを絶えず監視しています。

    イチオシ

    天主台地

    本丸の奥に位置する高台には山城ですから天主はなく、その代り二層の櫓が設置され、物見役が常駐して敵の動きを絶えず監視しています。

  • 天主台地説明板

    天主台地説明板

  • 搦手外郭方向<br /><br />本丸東側は牧之原台地の突端となっており、ここから城郭の裏門(搦手口)を経て搦手外郭に至ります。

    搦手外郭方向

    本丸東側は牧之原台地の突端となっており、ここから城郭の裏門(搦手口)を経て搦手外郭に至ります。

  • 十六号堀説明板<br /><br />恐らく搦手口を防御する役割として設置されたものと思われます。規模は長さが90.0m、幅が6.0で幅が他の堀よりも狭く設定されています。<br /><br /><br /><br />

    十六号堀説明板

    恐らく搦手口を防御する役割として設置されたものと思われます。規模は長さが90.0m、幅が6.0で幅が他の堀よりも狭く設定されています。



  • 搦手口<br /><br />いわゆる裏通りを下ります。搦手外郭は今では旧国道となっており、曲がりくねった急峻な小路をつたって降りてゆきます。

    搦手口

    いわゆる裏通りを下ります。搦手外郭は今では旧国道となっており、曲がりくねった急峻な小路をつたって降りてゆきます。

  • 搦手外郭<br /><br />搦手口を降りて外郭に至ります。ここからJR金谷駅に向かいます。

    搦手外郭

    搦手口を降りて外郭に至ります。ここからJR金谷駅に向かいます。

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