2014/01/03 - 2014/01/03
34位(同エリア64件中)
滝山氏照さん
JR東海道線三島駅から伊豆箱根鉄道に揺られ韮山駅(伊豆の国市)下車、四方を山々に囲まれた盆地を20分ほど東進、北条早雲いわゆる伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき、1432~1519)が堀越公方・足利正知(あしかが・まさとも、1435~1491)の内紛に乗じて伊豆に攻め込み同地を領有化し、それまでの興国寺城から当地に入城、既存の城郭を大きく改修し本拠とした韮山城(にらやまじょう、静岡県伊豆の国市韮山)を訪ねました。
北条早雲、正しくは伊勢新九郎盛時、入道して早雲庵宗瑞、実名は不明と言われていますが、北条の姓は出自を正当化するために二代目当主氏綱(うじつな、1487~1541)時代からで、早雲自身は生涯北条姓は名乗っていませんが便宜上北条早雲と呼称します。
そもそも早雲の出自は諸説がありますが室町幕府政所の執事伊勢氏の庶流が有力で、早雲の妹の北川殿が駿河守護大名である今川義忠(いまがわ・よしただ、1436~1476)に嫁いでいる事情で早雲は駿河に下ったと言われています。
文明8年(1476)2月、義忠が遠江遠征中戦死、一族・家臣は幼児竜王丸(氏親、母親は北川殿で早雲の甥)と一族の小鹿範満(こじか・のりみつ、生誕不詳~1487)の支持派に分かれて争うことになります。
この内紛に乗じて外部勢力が介入、即ち既述の堀越公方は山内上杉政憲(うえすぎ・まさのり、生誕不詳~1487)を、扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)は小鹿氏との姻戚関係を理由に太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)をそれぞれ派遣します。
これら介入に対し早雲は甥の竜王丸に家督を相続する立場を敢えて採らず、後述するように両派の間を取りまとめ上杉政憲や太田道灌と交渉します。
つまり竜王丸が成人するまでは小鹿範満が後見することで決着を見ますが、11年後の長享元年(1487)11月に範満を武力で攻めたて自害に追い込み小鹿派を一掃し竜王丸を名実ともに今川家の家督とします。
上述の如く早雲は小鹿派を一掃した恩賞として今川家当主となった氏親(うじちか、1471~1526)から興国寺城(こうこくじじょう・静岡県沼津市根古屋)を与えられ、以降も依然として今川氏親の後見人である事は不変で、併せて今川家の家臣として国主の意向に従い幾度となく甲斐国や遠江国・三河国に出陣、今川氏領国の安定に貢献します。
然しながら早雲は今川家家臣の身分に留まらず既述の如く堀越公方内紛に乗じて韮山城を本拠とする中伊豆地方経営に傾注する一方、三浦・大森両氏を相模支配の支柱としていた扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ)が没し、甥の朝良(ともよし、1473~1518)が家督を引継ぎます。
このように家督を引き継いだ間隙を狙って明応4年(1495)9月、早雲は予め策を講じて扇谷上杉氏家臣・大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503)居住の小田原城を襲い藤頼を追放、念願の相模進出の足掛かりを確保するになりますが、当の早雲は小田原には移動せず彼は生涯韮山を離れることはありませんでした。
韮山町教育委員会等製作による説明板では下記のごとく紹介されています。
「 韮 山 城 跡
右前方の山を通称「龍城山」といい、ここが戦国時代の代表的な平山城という形式の城として知られる「韮山城」の跡である。韮山城の最初の築城については明らかではないが、「北条五代記」によると、文明年間(1469~1486)堀越公方・足利政知の家臣外山豊前守が城をつくったのが始まりとされている。その後延徳3年(1491)駿河興国寺城にいた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が堀越御所の内部の争いにつけ込み、政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、韮山城を本格的に築城したといわれている。早雲は、この地を本拠として小田原城を奪い、後北条氏五代の基を築いた。本拠を小田原に移した北条早雲は後に韮山にもどり永正16年(1519)88歳で没するまで33年間ここに住んだ。
現在の韮山高校の校舎の付近を今も御座敷といい、早雲の居館跡であろう。小田原北条氏の西方の守りとして、韮山城は重きをなした。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城征伐のときは、城主北条氏規(4代氏政の弟)は、約4万の大軍に対して、3千余の将兵をもって、この城を守り通し田のである。
北条氏規が城を退いた後、徳川家康は内藤信成を城主としていたが、慶長5年(1600)移封により韮山城は廃城となった。山の高い所に本丸、次いで二の丸、権現平、三の丸、塩蔵跡や土塁、空堀、内堀などが残っている。
韮山町教育委員会
韮山町産業観光課 」
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
韮山城跡・堀切
韮山中学校体育館後背の小路を山に向かって歩きますとやがて堀切に通じ、城跡に入ったことがわかります。 -
韮山城・水堀跡
堀切からはなだらかな下り坂が四方に広がりその先は大規模な池で、かつては周辺が湿地帯であったのでこれを利用して水堀を造ったと思われます。現在は韮山親水公園として憩いの場所となっています。 -
韮山城跡
城池周辺は遊歩道となっており、進んでいくと階段を下る小路となっています。 -
韮山城跡
城跡遊歩道から南北に走る城跡部を見上げます。 -
韮山城跡遊歩道
城池を右手にして遊歩道を北進します。所々に「公園利用注意」板が立てられています。 -
韮山城跡遊歩道
遊歩道は途中にアップダウンがいくつかあり、登り階段を進みます。 -
韮山城跡
遊歩道の左側は韮山城跡が南北に走っています。 -
韮山城跡
-
旧城池
旧城池は現在では公園化され湖畔には釣り人の姿が見られます。 -
城郭登口
遊歩道の途中に堀切が現れ登り階段が設置、ここから城郭へ入ってゆきます。傍らには韮山城跡説明板が立てられ説明文と共に城跡の絵地図が掲載されています。 -
韮山城跡説明板(全景)
-
韮山城跡説明板(近景)
「韮山城とは
明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中瀬城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城である。
北条氏の本拠地が小田原に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3ヶ月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。その後、徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1600)信成の駿府転封とともに廃城となった。
韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸・二の丸などの曲輪や、土塁、堀などが良好な状態で残存している。平時の巨漢などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る(現県立韮山高校校地)、また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、「天ケ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土塁などの意向が確認できる。」 -
韮山城跡絵地図
絵地図では東部は湿地を利用した水堀、城郭の周囲を巡らした水堀が記されています。 -
堀切
城郭に通じる急階段を登ってゆきます。 -
第四郭
堀切の階段を登り切ると広めの郭が視野に入ります。 -
熊野神社に向かう登城口
-
熊野神社に向かう登城口
-
熊野神社(第三郭)
伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき、北条早雲)が韮山城の守り神として祀った神社です。鳥居の向こうに拝殿が認められます。 -
熊野神社由緒
御祭神は伊邪那美神、創立は明応9年(1500)9月との事です。 -
熊野神社拝殿
場違いと思われる質素な小振りな拝殿となっています。 -
熊野神社境内風景
拝殿から境内を捉えます。 -
第二郭城郭登口
第二郭への登り口が造られここを登ります。 -
城郭下り道路
登口とは別に右側道路は麓に通じる道路となっています。 -
第二郭への階段
更に階段を登ってゆきます。 -
旧伊勢新九郎守盛時(早雲)居館跡
第二郭に向かう途中の階段から居館跡を確認します。現在は韮山高校の校舎と校庭・グラウンドとなっています。 -
第二郭
-
第二郭
-
主郭への登口
-
イチオシ
主郭跡
-
韮山城跡周辺案内図
説明では韮山城は本城と背後の天ケ岳の砦により構成、韮山高校に城主早雲の館が、韮山中学校側に家臣や職人の屋敷があったそうです。 -
案内地図(一部抜粋)
韮山盆地東側山麓の突端部に韮山城跡が築城されていることが判ります。 -
イチオシ
市街地展望
主郭から韮山駅方向をとらえます。 -
旧水堀跡展望
主郭から東方向にある旧水堀跡(現・親水公園池)を一望します。 -
イチオシ
主郭の南方向
主郭の南側には足を踏み入れていないので状況が把握できませんが、別な郭があるかも知れません。 -
イチオシ
旧早雲居館跡
韮山城跡の麓には韮山高校があり、往時はこの地が早雲居住する館であったといわれています。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
35