2014/01/03 - 2014/01/03
33位(同エリア58件中)
滝山氏照さん
伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩で約10分、晴雲山・成福寺(じょうふくじ、静岡県伊豆の国市四日町)は正応2年(1289)、鎌倉幕府第8代執権北条時宗(ほうじょう・ときむね、1251~1284)の三男正宗(まさむね、生没不詳)が建立した北条氏菩提寺として知られています。
桓武平氏の流れをくむ北条氏は平安時代末期には伊豆国役人として平氏に仕えており、その居館は近隣の守山麓から成福を含む広大な敷地を有し、北条時政(ほうじょう・ときまさ、1138~1215)の父である時家(ときいえ、生没不詳)の代には持仏堂が成福寺の前進であったと伝えられています。
ご存じの通り源頼朝が当地に配流、北条時政が頼朝を監視する立場でありますが娘政子が頼朝室となり併せて周囲の親源氏豪族の支持を得た事で治承4年(1180)、当地にて挙兵により頼朝を支援する立場となった北条氏一族は頼朝と行動を共にします。
鎌倉幕府創立後は頼朝を補佐する役目のため伊豆を離れ鎌倉に移住することになり、成福寺も北鎌倉に建立されます。
頼朝後の源将軍は求心力乏しく、北条氏は有力御家人を加えた合議制による政務を遂行、源将軍以降は摂関家から将軍を迎え入れ、将軍を補佐する役職として執権職を設置し初代執権職に時政が就任します。
時宗が執権任期中に最大の事件が起こります。即ち文永の役(1270年10月)及び弘安の役(1281年)です。
これはモンゴルのチンギスハーンは中国を制圧した後、元朝の時代に日本への影響力を行使する使者に対し受け入れ拒否を示した事によるものです。
元のフビライは二回に亘り高麗・江南軍を派遣しますがいずれも九州御家人を中心とする反撃と博多湾強風により敗退を余儀なくされます。
元の派遣軍は甚大成る損害を受け約16万人以上の戦死者を出したことから幕府は全国から高僧を招いて戦没者追悼会を実施します。
この時期に時宗の三男の正宗は本願寺如信上人の弟子となり、先祖出身地である伊豆国北条村に浄土真宗・成福寺を再興します。
また正宗は両親を遺骨を鎌倉から分骨として持ち帰り、館の築山に墓を造ると共に北条氏一族の供養塔を建てて菩提を弔います。
2022年10月7日追記
境内に建てられた説明板には次のように記載されています。
『 鎌倉北条氏と成福寺の由来
平安時代に桓武天皇の流れをくむ伊豆の国在庁官人であった平時家(時政の父・政子の祖父)の持仏堂が成福寺(天台真言)の前身であったと伝える。
鎌倉幕府創立の源頼朝を補佐した北条氏も当地より鎌倉に移住し成福寺も北鎌倉小袋谷に建立された。幕府の招きで来られた親鸞聖人の門弟となった泰継(泰時の子)が浄土真宗に改宗、現在も鎌倉成福寺がある。
北条時宗の時、元(モンゴル)と高麗の大軍が九州に攻め来り(元寇)十余万人の戦死者を出した。全戦没者追弔会が幕府によって国中の高僧により施行された。その時北条時宗の子正宗は本願寺第二世如信上人の直弟子となり、伊豆北条村に浄土真宗成福寺を再興した。時に正応2年5月25日(1289)正宗は両親の遺骨を鎌倉より分け持ち帰り、館の高土手(築山)に墓を造り、また北条一族の供養塔を建て菩提を弔った。北条氏子孫法灯を守り現在に至っている。
現本堂は親鸞聖人生誕八百年、中興開基釈正宗七百年遠忌を記念し、平成元年十月再建した。
建立にあたり、史跡発掘調査が実施され、本堂下境内より当時の遺品が多数発見され史実が明らかになってきた。
韮山 正福寺 』
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
PR
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
8