2013/12/07 - 2013/12/09
1814位(同エリア6008件中)
倫清堂さん
古都をのんびりと散策し、あわよくば紅葉狩りも楽しもうと、奈良を目指しました。
ピーチ便で関西空港まで飛ぶのは2回目ですが、関西空港駅から特急ラピート号に乗って難波に出るのは初めて。
日本赤十字社の協力による、被災した親子を神戸へ招待するイベントが行われる便であり、芸能人も来ていたらしく、仙台空港の搭乗口はちょっとしたお祭り騒ぎになっていました。
関西空港では少女アイドルグループの野外コンサートが行われており、屋台までが並んだお祭りが行われています。
冬が迫る古都で、散りゆく紅葉を観賞を目的とする自分にはおよそ不釣り合いな旅の始まりですが、それぞれの秋。
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難波でJR線に乗り換え、高田駅で下車。
予定ではどこかの駅で近鉄線に乗り換えるはずでしたが、慣れない路線なので乗り越してしまい、目的地の大和高田駅とは徒歩圏内にあるJRの高田駅で降りることとなりました。
両駅は近いようで案外遠く、乗り換える人は少ないのか道案内の看板などは全くありません。
この感覚は、初めて秋津・新秋津間を歩いた大学時代に感じたものに似ていました。
ともあれレンタカーの営業所にたどり着き、簡単に手続きを済ませて軽自動車で行動を開始。
まず向かうのは當麻寺。
日本に仏教が伝わった当時までその歴史を遡ることが出来るお寺です。
どうやら無料駐車場はない様子なので、近くの民間駐車場へと車を停め、仁王門をくぐって境内へと進みました。當麻寺 寺・神社・教会
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仁王門の先にある鐘楼に吊り下げられた梵鐘は、白鳳時代に鋳造された日本最古のもので、国宝に指定されています。
當麻寺の始まりは聖徳太子の弟である麻呂子親王によって推古天皇20年に河内に建立された万法蔵院で、天武天皇10年に孫の当摩国見が夢のお告げに従って現在地へ移しました。
この頃に造られた鐘が現在まで残っているという事実に、驚くほかありません。 -
更に先にはこちらも国宝に指定される本堂で、曼荼羅堂とも呼ばれます。
奈良時代の部材を用い、平安時代初期に建てられたことが分かっています。
曼荼羅堂と呼ばれることからも分かるとおり、御本尊の当麻曼荼羅はここの内陣に安置されています。
拝観料を納め、内陣へと進ませて頂きました。
中将姫が蓮の糸で織り上げたという伝説の当麻曼荼羅は、4メートル四方の画面いっぱいに極楽浄土を描いています。
現在安置されている当麻曼荼羅は文亀年間に転写されたもので、国の重要文化財。
原本である古曼荼羅は奈良時代のものであり、傷みが激しいため公開されてはいませんが、こちらは国宝に指定されています。 -
本講堂に向かって右側には講堂、左手には金堂が、ちょうど参道を挟むように並んでいます。
講堂の御本尊は阿弥陀如来坐像。
講堂の御本尊は弥勒如来坐像。
また金堂に安置される四天王像は顎鬚を蓄えて威厳に満ちた様相を呈し、とても印象的です。
これらの像はほとんどが藤原時代に作られたもので、戦乱によって建物が焼けることはあったものの、仏像や曼荼羅は難を逃れた奇蹟のような歴史により、現在もこうして有難く手を合わせることが出来るのです。
また金堂の前には、これも日本最古の石灯籠が置かれています。 -
境内には、綴織曼荼羅を一日で織り上げたという中将姫の像があります。
中臣鎌足を祖父とする藤原豊成は子宝に恵まれず、妻とともに長谷寺へ毎日祈願に訪れると、ついに夢に観音菩薩が現れて、願いがかなえられることとなりました。
しかしそれと引き換えに、夫婦のうちの一人は子の誕生から3年でこの世を去ることになるがそれでもよいかと尋ねられ、二人ともその約束を受け入れて生まれたのが中将姫でした。
観音菩薩の言葉のとおり姫は幼くして母を失い、その後豊成が再婚した照夜の前は初めこそ中将姫をかわいがりますが、豊成との間に子が生まれると中将姫の容貌と才を妬むようになり、あの手この手で姫を亡き者にしようと画策するのでした。
姫はついに照夜の前の謀によって人里離れた山中へ送られ、讒言を信じた家臣によってその命は風前の灯火となりますが、死の直前まで仏の教えのままに生きる姿に家臣は心を動かされ、姫を山中でかくまい、照夜には姫を殺したと嘘の報告をしたのでした。
姫はその後ここ當麻寺で髪を下ろし、修行の日々を過ごしていると、そこに尼僧が現れて、蓮糸を集めるように指示されます。
そのことを知った天皇によって綸旨が発せられ、すぐに100駄の蓮が集められると、そこに現れた織姫の協力によって極楽浄土の姿を描いた曼荼羅を一夜にして織り上げたのでした。
その後、中将姫は阿弥陀如来の予言通りに29歳で世を去ります。
二十五菩薩の来迎によって西方浄土へ旅立った中将姫を偲び、當麻寺ではその様子を再現した練供養会式を毎年行っています。 -
イチオシ
そのまま奥院へと向かいました。
奥院は別に拝観料が必要です。
奥院の宝物館には、二十五菩薩来迎像が収められています。
それぞれ異なる楽器を持って異なるポーズをとる25の菩薩様の像で、平等院の雲中供養菩薩をほうふつとさせます。
あちらは52でこちらは25という数字に、何か関連があるのでしょうか。
奥院は標高が高くなっており、天平時代から残る東西の三重塔がよく見えます。 -
次の目的地へ向かって走っていると、姿の美しい山を見付けました。
ちょうど道の駅があったので、トイレ休憩を兼ねて山の姿を楽しむことにします。
この山は二上山と書いて「にじょうざん」と呼びますが、古代からの呼び名である「ふたかみやま」と発音した方が、ずっと相応しいように思えます。
二上山はこの地方に住んでいた人々にとっては信仰の対象ですらあり、『万葉集』にも多くの歌として詠まれています。
大和平野の東に位置する三輪山が日の昇る山であるのに対し、この二上山は西に位置することから、日の沈む山として崇められていました。
二上山の山麓にある當麻寺で極楽浄土を求める信仰が盛んになったのも、そのような理由からなのでしょう。
その山頂には、謀反の疑いをかけられて自害した大津皇子の墓所があるとのことです。 -
紅葉の名所を求めて北上し、次に訪れたのは龍田大社。
能因法師や在原業平朝臣は、龍田川に浮かんで錦を織りなしているかのような紅葉の落葉の風情を、次のように詠んでいます。
嵐し吹く三室の山の紅葉は
龍田の川の錦なりけり
千早振る神代もきかす龍田川
からくれなゐに水くるるとは
龍田大社へと向かう途中で見た川こそが龍田川なのだと思い込んでいたのですが、神職の方へ訪ねたところ、かつての龍田川は現在は大和川という名前で呼ばれており、現在の竜田川は別な所を流れていると説明され、咄嗟に理解することが出来ませんでした。
大和川の川辺には紅葉の姿が見えず、龍田大社の紅葉も半分以上の葉が落ちていて、季節はすでに冬に差し掛かっていることを実感したのでした。龍田大社 寺・神社・教会
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龍田大社の御祭神は天御柱大神と国御柱大神。
別名は志那都比古神・志那都比売神とされることから、風を司る神様のようです。
志那とは気息が長く遠く吹き亘ることを意味し、磯長や息長に通じる言葉であると考えられます。
御創建は第10代崇神天皇の御代に遡り、国内で流行する疫病や凶作を鎮めるために造営されたと伝えられています。 -
12月に入れば日の入りも早まるので、午後3時を回ると陽光は既に赤みを帯びて来ます。
次に訪れた廣瀬大社は、先程の龍田大社と同じく崇神天皇の御代の御創建で、記録によると龍田大社より1年早い崇神天皇9年とのこと。
佐保川・初瀬川などの合流地点である鎮座地にはかつて水足池という沼地が広がっていましたが、里長の廣瀬臣藤時に神託が下り、一夜にして陸地へと変化したことから、詔によって水の神を祀る社が建てられたのでした。
主祭神は若宇加能売命は、神宮外宮の御祭神である豊宇気比売大神や、お稲荷様として信仰される宇加之御魂神と同一と考えられます。廣瀬大社 寺・神社・教会
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社殿前には橘の木が植えられています。
一晩で形成された陸地には数千本の橘が生い茂っていたことから、神社では特に橘を大切にしており、社紋も橘に定められています。
垂仁天皇に遣わされた田道間守が常世の国から持って帰ったという伝説もあり、橘は古代から常世の果物として珍重されて来ました。 -
奈良の市街地へ向かう道路は、渋滞が発生していました。
唐招提寺は必ず訪れると決めており、あわよくば薬師寺にも参拝できればと考えていましたが、唐招提寺にすら受付時間内に到着出来るかも微妙です。
回り道はないものかとナビゲーションの地図を頼りに脇道に逸れたりするのですが、かえって時間を浪費してしまう結果となり、観念して大通りを行くことにしました。
やがて暗さは増し、多くの車がライトを点灯し始める頃、ようやく唐招提寺の駐車場に到着。
受付時間にはかろうじて間に合いましたが、駐車場に停めてある車は数えるほどしかなく、拝観できる時間は1時間もないため、かなり速足で境内を廻ることになりそうです。
南大門に設けられた受付の入口は閉じられ、拝観料を納めると出口の方から通されたのでした。唐招提寺 寺・神社・教会
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南大門くぐれば、目の前には天平時代に建てられた金堂が重々しい姿で目の前に現れます。
平成12年から始まった大修理事業も無事に終わり、ほとんど人気のない広い境内で夕闇に浮かぶその姿は、古代の薫りを漂わせているようです。
詳しい造営の年代については、鑑真和上が示寂した後、間もなくのことではないかと考えられています。
もっとも鑑真和上とともに渡来した弟子の如宝が造営した当時は、今と少し違った姿をしていたようです。
江戸時代の元禄年間には重い瓦屋根を支えるために棟の高さが増し、明治時代には屋根内部の木組みの構造に西洋様式が採り入れられました。
巨大建築物を建てたり維持したりすることは重力との戦いに他ならず、工事に携わった人たちも断腸の思いで造営当時の姿を諦めたのではないかと思われます。
平成大修理まで西側の鴟尾は造営当初のものが乗せられていましたが、現在は役目を終えて保管されているそうです。
金堂には御本尊の盧舎那仏坐像、千手観音立像、薬師如来立像など、天平時代の美しい仏像が安置されています。 -
東側に建てられているの細長い建物は東室と礼堂で、鎌倉時代の築。
かつては西側にも同様の建物がありましたが、東側のみ現存しています。 -
金堂の北には、これも天平年間に造営された講堂。
初めは平城京の政庁として使用されていた宮殿建築でしたが、鎌倉時代に移築・修理した際に仏堂へとその姿と役割を変えました。
御本尊は弥勒如来坐像。
講堂の更に先には鑑真和上坐像の複製が安置される本願殿、そして境内の最も北に通常は非公開の御影堂があります。
国宝の鑑真和上坐像は、弟子の忍基が講堂の梁が折れる夢を見たことから師の死期が近いことを悟り、その姿を永遠に残すために彫られたと伝えられています。
講堂が移築されたのは鎌倉時代に入ってからであるというのが歴史的な事実なので、この夢のエピソードは後世の創作であると考えるのが妥当ですが、それにしても内面の強靭さと柔和な顔つきを同時に表現した仏師の技量にはただただ溜息が漏れるだけです。 -
唐招提寺境内の最奥部、鑑真和上御廟は、鬱蒼と茂る木々に囲まれてひときわ暗い場所にありました。
日本がまだ仏教を認めてから間もなかった頃、授戒できる僧は一人もいなかったため、唐への留学僧は現地では本当の僧として認められていませんでした。
このため日本の仏教界では、なんとかして唐から授戒の資格を持つ徳の高い僧を招くことは出来ないかと、若い僧侶であった栄叡や普照らに伝戒師の招請という任務を与えて遣唐使として送ったのでした。
彼らが出会った段階で鑑真和上は、授戒した弟子の数が数万人を数えるほどの権威ある僧でした。
栄叡たちは鑑真和上に対して日本仏教の歴史や現況を説明し、授戒の資格を持つ僧の来朝を要請したところ、鑑真はその場にいる弟子たちに誰か行く者はいないかと問いかけますが、誰一人として自ら手を挙げる者はおりませんでした。
すると驚いたことに、鑑真和上自身が日本へ渡ることを宣言したのです。
鑑真和上ほどの高僧が国を去ることが役人に知られれば、必ず止められることは目に見えています。
よって日本への渡海計画は全て秘密裏に進められました。
しかし最初の計画は弟子のひとりが密告したことで露見してしまい失敗。
その後も暴風雨による漂流などで失敗を繰り返し、栄叡は病によって死去。
鑑真和上も弱っていた目を手術するのですが、これが失敗したことで完全に失明してしまいます。
しかし鑑真和上の日本への思いは、自らの生に対する使命となっていたのでしょう。
6回目の計画は幸運にも恵まれ、ついに日本への渡海に成功したのでした。
日本の何が唐の高僧を引きつけたのか、その内奥は今となっては想像をたくましくする以外に掴む術もありませんが、教科書にたった数行しか紹介されない鑑真和上の事績の陰には多くの苦難と犠牲があったことは事実なのです。
そのことを思いつつ、御廟で手を合わせるのでした。 -
鑑真和上は日本招来から2年後の天平勝宝2年、東大寺大仏殿前に設けられた戒壇で聖武上皇をはじめとする多数の日本僧に授戒したことで、日本における仏教は新たな段階へと進みます。
その後、律宗の総本山として開山したのが唐招提寺であり、戒律の研究や講義が行える基礎がようやく整ったのです。
やがて日本仏教の最盛期を演出する伝教大師や弘法大師も、東大寺で受戒してから留学することになります。
唐招提寺の戒壇は開山と同時に設けられ、多くの僧がここで受戒しました。
覆屋は江戸時代に焼失し、3段の石段は現在、青空の下に置かれています。
唐招提寺に詣でて詠む
荒波を越え渡り来し聖にも
もみぢ色へる秋ぞ見せたし -
西大寺で車を返し、宿泊地の京都へ向かうのですが、電車に乗り間違えてしまい大阪へ逆行してしまいました。
これ以上立って電車に揺られるのも勘弁してほしいので、正しい電車は特急を利用。
1時間以上のロスでしたが、京都の宿に到着することが出来ました。
宿の選定が遅れたため、一人旅に向いている素泊まりのシングルはどこも満室である中で、ようやく見つけた国際会館のロッジです。
本当に泊まるだけの施設でレストランなど全くなく、最寄りのコンビニも徒歩10分近くかかりますが、静かな環境と広々とした部屋は旅の疲れを癒すのに充分でした。
翌日、京都御所近くの自転車屋が開店する時間に合わせて行動を開始し、電動アシスト機能付きの自転車を借りました。
天気は曇りがちで時々冷たいものも落ちて来ますが、本降りになることはなさそうです。
慣れない道で頼りになるスマートフォンの地図機能は、自転車移動する者にとっては危険ですので、目的地までの道のりが分かるようにあらかじめ地図を印刷して持っていました。
まずは白峯神宮へと向かいます。白峯神宮 寺・神社・教会
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白峯神宮の御祭神は第75代崇徳天皇と第47代淳仁天皇。
お二方ともそれぞれ都を追われて配流となった帝で、淳仁天皇は淡路島、崇徳天皇は讃岐でその儚い生涯を終えられました。
神社の御創建は新しく、幕末期に孝明天皇が崇徳天皇の神霊を京へ呼び戻すことを幕府に命じました。
ほどなく孝明天皇は崩御となり、新たに即位した明治天皇が父帝の御遺志を継いで創祀し、明治6年には淳仁天皇が合祀されたのでした。 -
鎮座地はかつて蹴鞠の宗家・師範であった公家の飛鳥井家の屋敷があった場所であることから、飛鳥井氏の守護神である精大明神を摂社に祀り、サッカーをはじめとする球技全般の選手や団体から崇敬されています。
社殿や社務所には、奉納された各種のボールが置かれています。 -
10時の拝観時間に合わせ、次に鳴き龍で有名な相国寺へと向かいました。
相国寺は御所のすぐ北側に位置する臨済宗相国寺派の総本山で、京都御所に匹敵する広大な敷地を有します。
日本を二分したいわゆる南北朝時代に終止符をうった足利義満公は、左大臣にまで登りつめたのを機に、春屋妙葩らと相談して京都に禅宗の寺を新たに開くことを決め、後小松天皇の勅許を得て工事に取り掛かりました。
義満公自身ももっこを担いで作業に携わったということですから、この事業に対する熱意の程も理解できます。
初代住職には春屋妙葩の師である夢窓疎石がつき、明徳3年に完成したのでした。
当時の京都では五山と呼ばれる特別に格の高い寺院が決められていましたが、武家出身の義満公はこの新しい禅寺を五山に指定するために、南禅寺を更に上格の別格としてたてまつったことで、相国寺は五山の地位を得ることが出来たのでした。相国寺 寺・神社・教会
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しかし完成から2年後には火災によって全焼し、再建されたものの義満公没後に勃発した応仁の乱によってまたしても焼失。
これらを合わせて4回も建設と焼失を繰り返し、現在残る建物の中で最も古いのは豊臣秀頼公によって再建された法堂となっています。
この法堂の天井に、狩野光信による蟠龍図(鳴き龍)が描かれているとのことなので、自転車を置いて受付に向かうと、そこには1枚の紙切れが張られており、法要により拝観受付は午後からとの文字が書かれていました。
仕方がないので境内に色づく紅葉などを眺め、拝観は後回しにすることにしました。 -
気を取り直し自転車に乗って向かったのは、相国寺の北に鎮座する御霊神社。
相国寺の全盛期には境内は接していたとのことですが、今は何区画かの住宅地を越えて行かなければなりません。
しかし地図で確認せずとも、鎮守の森はすぐに目に入りました。
別な場所に鎮座する下御霊神社と区別するため、上御霊神社と呼ばれています。上御霊神社 寺・神社・教会
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桓武天皇によって平安京遷都が実現した延暦13年、京の守護神として崇道天皇が祀られたのが神社の始まりです。
その後、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘夫人、文夫人が合祀されて、悪疫退散の御霊会が斎行されるようになったのでした。
崇道天皇こと早良親王は桓武天皇の実弟で、立太子までしていたエリートでしたが、藤原種継卿の暗殺事件に関与したとされて淡路へと流される途中、無実を訴えて憤死するという痛ましい最期を遂げられました。
それから京や桓武天皇の周辺に災いが続いたため、崇道天皇と追贈し、その御霊を鎮めるために祭祀が行われるようになったのでした。
他、どのご祭神も政争に巻き込まれて不遇の死を強いられた方ばかりです。
後に更に火雷神と吉備大臣を合祀し、八所御霊として崇敬されるようになったのでした。 -
御霊神社の大鳥居の脇には、応仁の乱勃発地の石碑がひっそりと立てられています。
日本史上最悪の内戦であった応仁の乱は、ここ御霊の森で文正3年、室町幕府管領の畠山政長と畠山義就の死闘が行われたことが発端でした。
理想も正義もない長い戦いはここから始まり、皇室の式微と民の困窮を招き、京都の大部分を焼野原として、日本全国を混迷の時代に導いたのでした。
これだけの大惨事の契機を後世に伝えるにはあまりに小さな石碑ですが、この小ささこそが応仁の乱が起きた時代の無道ぶりを率直に今に伝えてくれているのかも知れません。 -
次に堀川通沿いの本法寺へ。
室町時代に日親上人によって開かれた日蓮宗の本山です。本法寺 寺・神社・教会
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本法寺には本阿弥光悦が造った「巴の庭」があるため、拝観させていただくことにしました。
しかし残念ながら工事中のため、中庭以外はほとんど見るべきものはありませんでした。
本阿弥家は刀剣の鑑定などを生業として室町幕府に仕えていましたが、光悦の曽祖父にあたる本阿弥清信が6代将軍義教公の怒りに触れて投獄されてしまいました。
その獄中で出会ったのが、ここ本法寺の開山である日親上人だったのです。
日親上人の教えによって清信は熱心な法華信者となり、以来本阿弥家は本法寺を菩提寺とすることになったのでした。
その後、豊太閤の命によって本法寺の現在地への移転が行われると、光悦と父の光二は私財を投じて伽藍の整備に努め、その時に光悦は巴の庭を造ったのでした。 -
本阿弥清信と日親上人との出会いがなければ巴の庭は生まれなかったわけですが、清信の心に信仰を芽生えさせた日親上人とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
初めて不受不施の義を唱えたともされる日親上人は、日蓮宗の僧のなかでも特に原理主義的な思想を持っていたようです。
己が信じる教えを認めさせるためには同じ日蓮宗の僧といえど容赦なく説き伏せるような絶対の自信と信仰を持っており、それは相手が幕府であろうと枉げられるようなものではありませんでした。
あまりに独善的な折伏によって属する流派を破門されると、幕府に対して法華経のみを信じるよう強く訴え、ついに投獄されてしまうのでした。
獄中で過ごす間、灼熱の鍋を頭にかぶせられる拷問を受けたこともありましたが、己の信念を貫き通したことから、「鍋かむり日親」とまで呼ばれるようになったのです。
恩赦によって許された後も、布教活動の方法が問題となって再び投獄され、それに伴って本法寺は破却されることとなってしまいますが、信徒らも師に負けず信仰に熱心であったため、寺は何度も再建を果たすことになったのでした。
境内には、2番目の境内地である一条戻橋で辻説法を行う際に上人が傘を立て掛けていたとされる説法石があります。 -
本法寺に関わりのある芸術家でもう一人忘れてはならないのが、長谷川等伯です。
長谷川等伯によって慶長4年に寄進された、縦10メートル・横6メートルの巨大な仏涅槃図は、毎年特別公開されており、平常は実物大の写真が展示されています。
印刷物では何度も見たことがありますが、実物大のものを目の前にすると、その巨大さに圧倒されます。 -
さて、本法寺から細い路地をしばらく西へ進むと、船岡山の麓へとたどり着くことが出来ます。
この船岡山、実は平安時代に完成したばかりの京の都において、大極殿すなわち御所のすぐ北にありました。
もちろん山が移動したのではなく、御所が移動したのですが。
平安京は四神相応の地に建設されましたが、特に基準とされたのがこの船岡山でした。
船岡山の南にあった内裏・大内裏は戦乱によって荒廃してしまい、里内裏であった土御門東洞院殿が新たな皇居とされたのが、現在の京都御所なのです。
その新たな皇居も火災によって焼けてしまいますが、将軍であった足利義満公が敷地を拡大させてかつての内裏に匹敵する建物を再建。
応仁の戦乱期にはまたも荒廃の憂き目を見ますが、信長公と秀吉公によって再興されて現在に至るのでした。
船岡山に話を戻すと、応仁の乱では山名教之や一色義直ら西軍が城を建てて立てこもったという経緯があります。
そのことから、周辺の一帯は西陣と呼ばれるようになったのでした。 -
しばらく続いた戦国の世も、織田信長公の出現によって次第に終息へと向かうのですが、志半ばにして信長公が倒れると、その遺志を継ぐことになる秀吉公は正親町天皇の勅許によって、船岡山に信長公の御魂を祀ることにしたのでした。
平安時代の船岡山は鳥部野などに並ぶ埋葬地でしたが、おそらく秀吉公はそれとは関係なく、京の守護神として信長公をここに祀ろうとしたのではないでしょうか。
明治2年、明治天皇から建勲神社の神号を賜って創建され、明治8年に社殿が造営されます。
更に13年には織田信忠公を配祀し、43年に本殿を現在の鎮座地である船岡山山頂へと遷座させたのでした。建勲神社 寺・神社・教会
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イチオシ
船岡山から金閣寺へは道もなだらかに下っていて、アシスト機能がなくてもなめらかに自転車はすすみます。
逆に速度が上がってしまうので、歩行者に気を付けなければなりません。
こうして高校時代における修学旅行以来の金閣寺を訪れたのですが、日本でも五本の指に入る有名な観光地とあって、どこへ行っても人だらけ。
金閣寺の、この世のものとは思えない程の神々しく妖しく華やかな景観を存分に楽しむには、目にも耳にも招かれざる情報が飛び込んで来すぎでした。
よく知られたことですが、金閣寺の正式な名称は鹿苑寺。
金閣は金色に輝く舎利殿につけられた名前なのですが、いつの間にか金閣寺で通るようになったのです。
鹿苑寺は相国寺の塔頭寺院の一つであり、それは慈照寺すなわち銀閣寺も同様で、相国寺の規模がいかに大きいものであるかが理解出来ます。
金閣は昭和25年に放火によって焼かれてしまいますが、5年後には在りし日の姿に忠実に復元され、平成6年には世界遺産に登録されました。
その内部は通常非公開となっておりますが、第一層は平安時代を思わせる寝殿造の部屋に足利義満公の像などが安置され、第二層は鳳凰や龍などが描かれた天井を持つ鎌倉時代の武家造の部屋に、四天王像に守られた岩屋観音が安置されています。
最頂部にあたる第三層は唐様で、かつては阿弥陀如来立像が安置されていました。鹿苑寺(金閣寺) 寺・神社・教会
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人の流れに身を任せて境内を進むと、義満公お手洗の水というよく意味の分からない立札の立てられた巖下水や、鯉の滝登りを模した龍門の滝などがありました。
足利義満公は室町幕府3代将軍。
アニメ「一休さん」で見たのが私にとって初めての出会いだったのですが、まだ幼かった当時は義満公の名前も人物も事績も当然何も知りませんでしたし、アニメの内容も全然記憶に残っておりません。
南北朝統一を果たした後、38歳という若さで将軍職を9歳の義持公へ譲りみずからは出家したのは、全国の武士を支配した次の目標として全国の僧を支配しようという野心があったためと考えられます。
まさに権勢の絶頂にあった義満公ですが、ただ一つ思い通りにならなかったのが明との貿易でした。
彼は天皇という至高の存在を頭越しに明と交易を行うため、太政大臣の職も返上して日本国王を名乗り、明の冊封下に進んで入ったのでした。 -
鹿苑寺は彼が日本国王を名乗った頃と前後して造営されました。
当時ここには西園寺家の山荘がありましたが、義満公は北山一帯に新しい文化を花開かせようとこれを譲り受け、趣向を凝らした庭と、それまで誰も想像すらしなかった黄金の舎利殿を建てたのでした。
金閣の前に広がる鏡湖池の他に、境内には安民沢という池がありますが、こちらは西園寺家の別邸があった頃の名残りなのです。
義満公が応永15年に病死すると、4代義持公が夢窓疎石を勧請開山に、義満公の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺としたのでした。 -
金閣寺の拝観を終え自転車を南へと走らせると、すぐに平野神社へたどり着くことが出来ました。
奈良時代には平城京の宮中に鎮座していましたが、平安京遷都と同時に現在地に遷座されました。
それほど朝廷とは深い関係を持つ神社です。
現在の御祭神は今木皇大神・久度大神・古開大神・比賈大神の4柱。
記紀神話に見られる神様ではなく、竈や生産力などを司る生活に密着した神様となっています。平野神社 寺・神社・教会
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平野神社境内は桜の名所として名高く、平安時代には貴族たちが観桜の宴を行い、江戸時代に入ると庶民に夜桜が許されるようになります。
御祭神の今木皇大神が活性生成の神であることから、生命力を高める力を持つ桜の木が平安時代から植樹されて来たという経緯があります。
社紋も桜のデザインとなっています。 -
社務所の脇で、季節外れの桜の花を発見。
平野神社桜十種として挙げられる魁桜・寝覚桜・胡蝶桜などをはじめ、桜の木にはそれぞれ風流な名前がつけられています。
これら一本一本を愛でながら春の参拝というのもいつかしてみたいものです。 -
広瀬神社から更に南へと進むと、京福電鉄の北野白梅町駅が見えて来ます。
これから嵐山に向かうため、ここに自転車を停めて電車での移動となります。
北野白梅町という駅名はもちろん北野天満宮から取られたもので、すぐ近くに境内がありますが、以前に一度参拝したのと時間があまりないことを理由に今回は諦め、初めての土地へと向かうことにします。
龍安寺や仁和寺など聞いたことのあるお寺の名前を持つ駅をいくつも通過し、およそ10分で乗換駅の帷子ノ辻駅に到着。
ここは弥勒菩薩半跏思惟像で有名な広隆寺があり、1年半ほど前に車で来た時のことを思い出して幸せになりました。
嵐山本線の表示がある路線に乗り換え、走り出した電車の車内で路線図を確認すると、なんと逆方向の電車に乗っているではありませんか。
運転士さんに事情を話して次の駅で降ろしてもらい、反対側のホームへと急いで移動すると、同じように移動している人が何人も。
これだけ分かりにくいのなら、乗り換え案内をもっと分かり易く書くべきだと思うのですが。
何はともあれ、すぐにホームに入り込んできた電車に乗り込み、10分ほどで終点の嵐山駅に到着しました。
駅も外も金閣寺に匹敵するほどの混みようで、人の波を掻き分けるように天龍寺へと向かいます。天龍寺 寺・神社・教会
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天龍寺は義満公の祖父に当たる初代将軍足利尊氏公が夢窓疎石を開山として創建した臨済宗のお寺です。
尊氏公は偏諱を賜るほど後醍醐天皇の信認篤く、京都に置かれていた六波羅探題を攻めて鎌倉幕府を滅亡に導きました。
しかし大塔宮護良親王や新田義貞公との対立が後醍醐天皇との対立へと発展し、弟長義や執事の高師直による後押しもあって北朝天皇を立て、後醍醐天皇を京から吉野へ遷らざるを得ない状況を作り出してしまいます。
そもそも武力を持たない公家らが武士を統制しようという建武中興の理念そのものに無理があったので、尊氏公としては武士の棟梁として全国の武士らをまとめなければならないという現実がよく見えていたはずです。
しかし後醍醐天皇に不遇の晩年を強いてしまったことで深い自責の念に駆られることも多く、後醍醐天皇が幼い時代を過ごされた檀林寺の跡地、御嵯峨天皇の仙洞御所に天皇の菩提を弔うための壮大な寺を建てたのが、ここ天龍寺なのです。
開かずの勅使門を見て境内へ進み拝観受付まで来た時、人の多さに疲れたのかそのまま引き返すことに決めてしまいました。 -
天龍寺はいつか人出の少ない平日に改めてお参りすることにして、ここから2キロほど離れた二尊院を目指すことにします。
駅から離れている上に徒歩で移動するのが基本なので、天龍寺のような人ごみは無いだろうと考えました。
小倉山麓のこの地域は小倉餡発祥の地でもあり、のどかな風景が広がっています。
二尊院への道すがら、雰囲気のよい蕎麦屋があったので入ることにすると、京都名物のニシン蕎麦を出してくれるとのことで注文。
鰊の甘露煮はほんのり甘く、あっさりしつつも深みのあるつゆの味。
コインロッカーに上着まで入れてしまい、秋風に吹かれながら自転車を乗り回して冷えていた体も、充分に温まりました。団五郎 グルメ・レストラン
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二尊院への道は細く車一台通るのがやっとで、ほとんど遊歩道となっています。
紅葉が降る参道にようやく到着。
現在の小倉山に紅葉の木はほとんどありませんが、かつてここは京随一の紅葉の名所でした。
小倉山の紅葉を詠った和歌としては、百人一首にも撰じられている藤原忠平公の和歌が有名です。
をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば
今ひとたびのみゆき待たなむ -
総門をくぐってすぐの所には、隠遁者西行法師の庵跡の碑。
出家直後に京都北麓に庵を結んだという事実から、ここに住んだのもその頃だと思われます。
我がものと秋の梢を思うかな
小倉の里に家居せしより -
二尊院は嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師円仁によって承和年間に開山されたと伝えられています。
正式には華台寺という名前ですが、本堂に釈迦如来と阿弥陀如来を祀ることから二尊院と呼ばれています。
左右対称に並ぶ二尊像の姿は珍しく不思議な光景です。
釈迦如来を人の誕生に送り出す「発遣の釈迦」、阿弥陀如来を人の死に迎える「来迎の弥陀」として信仰する唐代の思想に由来しているとのことです。二尊院 寺・神社・教会
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二尊院は公家方との交流が盛んで、現在も旧摂関家の二条家・鷹司家・三条家・四条家などの菩提寺とされており、境内には各家の墓地が広がっています。
墓地へ続く坂道の途中、角倉了以の像が鋭い眼光で立っているのを見付けました。
京都の豪商だった了以は、京都を流れるいくつもの川の開削を、時に私費で行いました。
特に、高瀬川の開削によって京の物流は格段に便利になり、通行料を徴収したことで莫大な工費はすぐに埋めることができたということです。
商才は言うに及ばず、工事では自らも現場に立って指揮をするという優れた土木技術も兼ね備えていた人物でした。
角倉家も二尊院の檀家で、了以の墓所もあります。 -
京福電鉄で北野白梅町駅まで戻り、最後の目的地である二条城を目指します。
今回の旅程に二条城を含めてしまうのはかなり強引に感じましたが、レンタサイクルの店が近いので、この機会にと思って決めたわけです。
自転車で5分ほど走ったでしょうか、京都の街中に突然幅の広い堀が現れた時には、何かあるはずのない物を見たような不思議な感覚に陥りました。元離宮二条城 名所・史跡
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イチオシ
時刻は3時を回り、日も陰り始めています。
まずは4時までしか観覧出来ない二の丸御殿を目指すことにします。
自転車の駐輪はここは有料。
受付で入場料を支払い、堅牢な東大手門をくぐって内部へ。
二の丸の入り口である唐門は、ここが城であることを忘れさせるような華美な装飾が施されています。
石垣と堀は万が一戦となった時の防衛に必要ですが、内部を見れば二条城が戦目的でつくられたのではないことは一目瞭然です。 -
二の丸御殿は遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6棟からなっており、江戸時代初期に建てられた御殿としては日本で唯一現存するもの。
観覧者はこれら6棟全体を一周するように見学することが出来ます。
内部は襖絵や障壁画の保全のために全体的に薄暗いですが、まだ電気がなかった時代と同じ雰囲気を味わうことが出来るので、却って嬉しいことだと思います。
二の丸御殿は、徳川家康公が天下を握って間もない慶長6年に天下普請として築城を命じ、2年後の慶長8年に完成して初めて入城しました。
京都の守護と将軍上洛の折の宿泊が築城の理由で、家康公は二条城を天下泰平を象徴する城にしたかったのではないかと私は思います。
二の丸御殿は数々の歴史の舞台となった場所であり、家康公が豊臣秀頼公と会見した部屋や、最後の将軍慶喜公が大政奉還を行った部屋などがあります。 -
二条城は3代将軍家光公の時、寛永元年に大造営が始められ、寛永3年に完成して後水尾天皇の行幸をお迎えします。
二の丸庭園は小堀遠州の作庭による池泉回遊式庭園で、行幸御殿ならの眺めを考慮して改修されました。
藁でくるまれているのは蘇鉄の木。
後水尾天皇の行幸に際して鍋島勝茂公が1本の蘇鉄を献上したという記録が残っています。 -
内濠の先には本丸があります。
内濠をまたぐ東橋には、かつて二の丸御殿の黒書院と本丸御殿とをつなぐ橋廊下がかけられていました。
本丸は家光公による大造営において整備され、ほぼ現在と同じ規模の城になったのですが、その後の地震や大火などによって多くの建物が失われてしまったことは残念としか言いようがありません。 -
現在の本丸御殿は、明治26年に京都御所今出川門内にあった元桂宮の御殿を移築したもので、徳川家の城であった時代とは全く関係がありません。
つい最近、耐震診断を行ったところ、震度6強の地震で倒壊してしまう可能性があると分かり、公開は中止となってしまいました。
歴史的な建築法を守った補強工事が行われることを祈ります。 -
東橋の逆側にかけられた西橋を渡れば、ほぼ正方形の本丸の外に出ます。
ここからなら、家光公が整備した天守閣の石垣部分がよく見えます。
二条城の天守閣は、それまで伏見城にあった天守閣を移築しました。
後水尾天皇は5日間の二条城御滞在の間に、天守閣に3度も登閣されて京の眺めをお楽しみになったそうです。 -
西橋からまっすぐ行った所、普通の観光客にとって何も見るべき物のないような所に、ぽつんと一本の立札が立てられているのが気になり、近くへ行ってみると、それは旧二条城の石垣の一部でした。
家康公によって現在の二条城が整備される以前、京都には全く別な場所に別な二条城がありました。
歴史上初めて現れる二条城は室町幕府13代将軍足利義輝公の居城。
義輝公は剣術の名人でもありましたが、松永久秀の謀反によって殺害されてしまい、その現場ともなった通称「二条御所」です。
次の二条城は織田信長公によって15代将軍足利義昭公のために整備されたもので、義昭公が信長公に対立したことで破壊されてしまいます。
その次の二条城は公家の二条家の邸宅に、これも信長公によって建てられた「新二条御所」で、信長公の宿所として使用された後、東宮誠仁親王に献上されました。
いま目にしている石垣の一部は、この「新二条御所」のもので、70日間という短期間で築城されたため、石仏・板碑・石灯籠などが多く含まれているとのことです。
本能寺の変において信長公が最期を遂げると、嫡子信忠公は誠仁親王に御遷りいただき、防衛にすぐれた「新二条御所」に籠城して明智軍と戦いますが、もはやこれまでと自刃し、城郭は灰燼に帰してしまったのでした。
この遺構は地下鉄工事の際に発掘されたもので、同じ二条城という名前の縁でここへ運ばれたらしいのですが、半ば放置されているような状態です。 -
二の丸御殿の観覧時間終了のお知らせが響き、空気もますます冷たくなって来たので、そろそろこの旅も終わりが近づいたようです。
この時間では相国寺へ行っても拝観出来るとは思えないので、自転車を返し、宿泊地の大阪へと向かうことにします。
自転車は本当に便利だったので、次に京都を散策する時もぜひ利用したいと思います。
店のご主人に感謝を伝えて自転車を返却し、地下鉄の駅まで歩く途中、まだ参拝したことのない神社を見つけたので境内へ入ってみることにしました。
境内の面積は狭いものの、学問の神として崇敬される菅原道真公が生誕した場所として道真公と父是善卿・祖父清公卿をお祀りしている菅原院天満宮神社です。菅原院天満宮神社 寺・神社・教会
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菅原家はもともと陵墓や埴輪を造ったりする土師氏でした。
奈良時代末、道真公の曽祖父にあたる古人卿が願い出て、菅原の姓を賜ったのが菅原氏の始まりです。
古人卿は桓武天皇に学問を進講する侍読の職にあり、その子の清公卿も少年の頃からとても優秀でした。
清公卿は文章博士にまで昇り、最澄や空海などとともに遣唐使の一員として大陸で学びます。
道真公の父にあたる是善公は『文徳天皇実録』の撰者としても活躍し、このような学問の盛んな一家に生まれた道真公もまた、歴史や文学などの面で日本の学問の発展に大きな功績を残したのでした。
境内にある道真公産湯の井戸は、鴨川の伏流水が湧き出る清水であるということです。
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