2013/07/09 - 2013/07/10
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ANZdrifterさん
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小説「津軽」。 本編は1) 巡礼、2) 蟹田、3) 外が浜、4) 津軽平野、5) 西海岸 となっています。今回は西海岸の深浦町を歩いてから五所川原市に移動、子守のタケの嫁ぎ先の小泊村(現中泊町)まで往復してきました。
小泊岬(権現崎)は津軽半島から西に突き出している小さな半島で、北側の付け根には本州の日本海側で最北の港:小泊港があり、南側の下前地区には港と、本邦最北の徐福渡来伝説地があります。
深浦から帰った太宰は五所川原の叔母の家に泊まり、翌朝は二日酔いのまま津軽鉄道にのり、生家のある金木町は通り過ぎて、終点の中里から一日一便の満員バスで立ったまま2時間かけて、タケが嫁いでいる小泊にむかった。 現在は五所川原から小泊行きのバスが金木・中里経由が6便、木造・十三経由が3便、何れも2時間で格段に便利になっている。
五所川原駅前から、弘南バスの小泊行き(¥1640円:往復は2460円)に乗り、小泊小学校前でおりて坂の上にある小さい公園 (再会公園)までのぼる。 ここに「小説 津軽の像記念館」というミニ・ミュゼアムがあり、庭には太宰と タケが並んで運動会を眺めている銅像が作られていた。
この「津軽の像記念館」はビデオを見なければ30分で終えるが「津軽」のハイライトの像を見ることが出来るのでお薦め。ただし11月から3月は不定休ゆえ要電話予約(0173 64 3588)。
なおここの担当者はとても親切で熱心な人で、お話して心が休まる人でした。
「津軽」では、太宰はタケの娘に案内されて運動会のテントに行く :「 修治だ と言って帽子をとる。「あらあ」それだけだった。「ここさ坐りなせえ」と傍に坐らせ、タケはそれきり何も言わず、きちんと正座して子供たちの走るのを見ている。私はまるで、もう、安心してしまっている。平和とは、こんな気持ちの事を言うのであろうか」 と太宰が書いている。 像はその像である。
その後、連れ立って竜神様の森に行き、タケは堰を切ったように能弁になって離別後の30年間の思いを述べたことになっているが、太宰没後の某紙のインタヴューでは再会の件の大部分は実際にはなかったことだとタケが語っているという。
なお、この竜神様は土地の所有者が替って、現在は維持管理が行き届かなくなっているとのこと。
小泊港は、太宰が「本州の西海岸の最北端の港である。この北は山を越えてすぐ東海岸の竜飛である」と書き「この村には不似合なくらい立派である」 と書いていますが、確かに広大な港で、多くの漁船が見えました。
小泊港に面して頑丈そうな鳥居があり、その横の柴崎城址の案内板には 「津軽の豪族、安東盛季が(南部氏に攻められ)福島城を捨て(1443年)エゾに逃歩のさい、最後に立ち寄ったところ。小規模な山城の代表的なものとされる」とありました。城址を見たいので階段を上ってしばらく行くと0,3km とあったが、さらに10分歩いた三叉路には何の案内板もなく、あきらめて引き返し、タクシーで小泊半島の付け根を横断して南側の下前地区に移動しました。(三叉路からさらに左に行くと柴崎神社があったのだそうですが、1500mはありそうです)
BC200年ころ秦の始皇帝が派遣した徐福の渡来伝説は、日本各地に残っており kamnavi.jp には24箇所の渡来地が図示されています。主に瀬戸内、九州、太平洋側ですが、日本海側の徐福渡来伝承地は京都府伊根と、東北地方の秋田県男鹿半島と、青森県小泊岬の3箇所だけです。 中国の資料に「平原大沢を得、王となりて戻らず」と書かれていて、徐福は日本に居ついて弥生文化をもたらしたとか、神武天皇だとかいう説もあります。
小泊岬の伝説は「始皇帝の命により、不老不死の仙薬を求めて東方海上の三神山をたずねて船出した徐福は、小泊岬の権現山を蓬莱山と思い込み、南麓の下前海岸に着いた(漂着?)」ということですが、ほかにも飛龍大権現を御祭神とし、徐福を航海の神として脇士に祀っていた飛龍宮(807年建立)があり、一時期は修験道とも混交していたが、明治期に祭神をイザナギ、イザナミの両神として、尾崎神社と改称したという。 なお、尾崎神社の宮司は徐福の子孫だという。
徐福記念公園は国道脇にあり、道の駅の横にある。徐福の像以外には特別なものはないが、道の駅も、トイレも、徐福の名が書き込まれている。
下前地区の外側で、国道がライオン島を通るための橋の欄干には、ライオンなどの彫刻が設置されていて、この部分はライオン街道と呼ばれています。
彫刻の作者は太宰の像を作った彫刻家だということでしたが、なぜライオンなのかは聞き漏らした。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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昨年(2012年)十三湖から遠望した小泊岬(権現崎)。
左端の山上に「徐福の子孫」が神官を務める尾崎神社がある。 -
ここでは「津軽」の前にいつでも 小説をつけて ”小説「津軽」”と書いている。
このポスターは倉庫から出してもらったが、値段をつけて売ればいいのに、と思いました。 -
”小説「津軽」の像記念館” 前の道標
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”小説「津軽」の像記念館”の庭園。
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・・・・・たけは それきり何も言わず・・・・ という一節が刻まれている。
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たけ と太宰が並んで運動会場にいる。
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記念館の最初の展示に「津軽」で太宰がたどった道が示されていた。
シャッターを押した後で撮影禁止の掲示に気づいたが、撮ってしまったので乗せておきます。 -
小泊港の横の道。すぐ右上が山になっている。
倉庫や商店が多かった。 -
小泊港。
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小泊港。ずいぶんと大きな港でした。
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小泊港を見下ろしました。
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柴崎神社の鳥居だと思います。 が、600mのはずなのに急いで15分近く歩いてもつきませんでした。
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柴崎城址の看板。これで600mと教えられたのが間違いでした。
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ここから引き返しました。
この道を40分ほど歩くと尾崎神社に行けるようですが、天候と体力、それと時間の都合であきらめました。 -
小泊岬の南側に移動しました。
下前小学校から下前港を展望。 -
下前港。
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下前港は大きな電球を並べているイカ漁の漁船が多数ありました。
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バス停「みなと団地」の近くにある徐福記念公園。徐福の里。
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徐福の像
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徐福の像。
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徐福の像の傍らにある碑。
陽光の反射を防ぐために自分の影を写しました。
一世紀の 漢書 伍被伝に
「徐福をして海に入り仙薬を求めしむ。多珍宝、童男女三千人、五種・百工を斉して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来たらず」とあるのが出典です。 -
ギョウジャニンニクなどを採って、地元の縄文人と仲良くしていた
らしい。
尾崎神社の宮司は徐福の子孫だと伝えられているが、天皇家よりも古い家系になってしまう。 -
徐福の里にある「道の駅」
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トイレも徐福にちなんで中国風。
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徐福の里、最寄のバス停「みなと団地」。
弘南バスは港の奥まで入ってから戻って、このバス停のすこし左から山を越えます。
戸建の新しい家が10戸ほど建っていた。 -
国道が陸から島、また陸へと橋でつながっている。
ライオン街道と呼ばれている。 -
これがライオン岩。 島なのか岬なのか。 岬らしい。
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それぞれの橋のたもとには、太宰とタケの像をつくった彫刻家による像がつけられている。
多くはライオン像であった。 -
ライオン街道の像
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こんな季節でした。
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帰途、新青森駅1Fの食堂で、太宰にちなむ絵や写真、原稿のコピーを壁いっぱいに張り巡らせた店がありました。社長が金木町の出身なのだそうです。
太宰が書いた絵のコピーもありました。左下の「水洗」は「水仙」の誤変換です。
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