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最終日は、会津若松市内を回ります。<br />会津松平藩は、徳川家光の異母弟にあたる保科正之が出羽山形藩より23万石で入封し、徳川譜代の最右翼として幕末まで、その役割を全うします。<br /><br />会津若松は、鶴ヶ城を中心とする城下町なのですが、鶴ヶ城から市内で一番賑わう七日町通りまででもちょっと距離がありますし、飯盛山付近の白虎隊の史跡に御薬園・東山温泉近くの北部寺院群など、主な観光スポットを考えただけでもかなりの広範囲。とても23万石の城下町とは思えないくらいの広さです。<br />思うに、会津の基礎を固めた蒲生氏郷は最終的に92万石、上杉景勝は120万石で入封していますので、本来持っている城下町としての懐の深さは、例えば仙台以上なのかもしれません。<br /><br />ということで、周遊バスで回るのが普通だし、前回はそうして回ったのですが、やっぱりちょっと味気ない。歩きと自転車を組み合わせて、街の広さもじっくり体感してみたいと思いました。

大内宿から会津・喜多方の旅(三日目前半)~会津若松駅から歩いて飯盛山まで。八重の桜のモデルになった石部桜にも立ち寄りました~

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2013/04/29 - 2013/04/29

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たびたび

たびたびさん

最終日は、会津若松市内を回ります。
会津松平藩は、徳川家光の異母弟にあたる保科正之が出羽山形藩より23万石で入封し、徳川譜代の最右翼として幕末まで、その役割を全うします。

会津若松は、鶴ヶ城を中心とする城下町なのですが、鶴ヶ城から市内で一番賑わう七日町通りまででもちょっと距離がありますし、飯盛山付近の白虎隊の史跡に御薬園・東山温泉近くの北部寺院群など、主な観光スポットを考えただけでもかなりの広範囲。とても23万石の城下町とは思えないくらいの広さです。
思うに、会津の基礎を固めた蒲生氏郷は最終的に92万石、上杉景勝は120万石で入封していますので、本来持っている城下町としての懐の深さは、例えば仙台以上なのかもしれません。

ということで、周遊バスで回るのが普通だし、前回はそうして回ったのですが、やっぱりちょっと味気ない。歩きと自転車を組み合わせて、街の広さもじっくり体感してみたいと思いました。

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  • 朝の散策は、蒲生忠郷の墓から。<br />高巌寺の境内かと思ったら、道を挟んで本堂の裏側を回ったところ。

    朝の散策は、蒲生忠郷の墓から。
    高巌寺の境内かと思ったら、道を挟んで本堂の裏側を回ったところ。

  • もともとは、ちょっと離れた場所にあったようですが、土地区画整理事業の関係があって、ここに移されたようです。忠郷は、蒲生氏郷の嫡男、秀行が会津蒲生藩の初代であり、その子で二代目に当たります。しかし、秀行が早逝し、自らも25才で死去。子がなかったために、会津蒲生藩は途絶えることに。<br />ただ、母が徳川二代将軍秀忠の妹であったこともあり、弟蒲生忠知が伊予松山で存続を許されました。<br /><br />

    もともとは、ちょっと離れた場所にあったようですが、土地区画整理事業の関係があって、ここに移されたようです。忠郷は、蒲生氏郷の嫡男、秀行が会津蒲生藩の初代であり、その子で二代目に当たります。しかし、秀行が早逝し、自らも25才で死去。子がなかったために、会津蒲生藩は途絶えることに。
    ただ、母が徳川二代将軍秀忠の妹であったこともあり、弟蒲生忠知が伊予松山で存続を許されました。

  • 会津市内散策で、甲賀町口門跡を探してウロウロしていたら、同じ甲賀町通りに面して、妙法寺という立派なお寺がありまして、大きなケヤキの木がありました。

    会津市内散策で、甲賀町口門跡を探してウロウロしていたら、同じ甲賀町通りに面して、妙法寺という立派なお寺がありまして、大きなケヤキの木がありました。

  • 寺の建物は、戊辰戦争ですべて焼けてしまったようですが、このケヤキは、戦禍を生き延びたもの。たくましいパワーを感じる姿でした。

    イチオシ

    寺の建物は、戊辰戦争ですべて焼けてしまったようですが、このケヤキは、戦禍を生き延びたもの。たくましいパワーを感じる姿でした。

  • 自然景観指定緑地の標識。市の保護を受けているようですが、それも当然でしょうか。境内には戊辰戦争で亡くなった方の墓もあるようでしたが、このすばらしい欅の大木にはずいぶん癒されているかもしれません。<br /><br />

    自然景観指定緑地の標識。市の保護を受けているようですが、それも当然でしょうか。境内には戊辰戦争で亡くなった方の墓もあるようでしたが、このすばらしい欅の大木にはずいぶん癒されているかもしれません。

  • ここからは飯盛山に向かって、針路を定めます。<br />初めに訪ねたのは蚕養国神社。この名前は、「こがいくにじんじゃ」と読みます。<br />

    ここからは飯盛山に向かって、針路を定めます。
    初めに訪ねたのは蚕養国神社。この名前は、「こがいくにじんじゃ」と読みます。

  • 会津若松市内の古三社の一つで、養蚕守護の神として、農、工、商、諸業繁栄の神社です。

    会津若松市内の古三社の一つで、養蚕守護の神として、農、工、商、諸業繁栄の神社です。

  • 境内には、峰張桜とよばれる桜があって、樹齢900年以上とかなりの老木。会津五桜の一つだそうです。<br />

    境内には、峰張桜とよばれる桜があって、樹齢900年以上とかなりの老木。会津五桜の一つだそうです。

  • もう花は散っていましたが、

    もう花は散っていましたが、

  • こうした老木は幹を見るだけでも、その風格でパワーを感じるもの。確かに、この桜もそのレベルに達しています。

    イチオシ

    こうした老木は幹を見るだけでも、その風格でパワーを感じるもの。確かに、この桜もそのレベルに達しています。

  • さらに進むと、「元祖白糸納豆」の暖簾。ただ、暖簾はかかっていても加工場のような感じだし、どうしたものかと思ったのですが声をかけると小売りもできるようで、朝飯代わりに一ついただきました。

    さらに進むと、「元祖白糸納豆」の暖簾。ただ、暖簾はかかっていても加工場のような感じだし、どうしたものかと思ったのですが声をかけると小売りもできるようで、朝飯代わりに一ついただきました。

  • 事務所のようなところで食べさせてもらいましたが、ご主人のお話では福島の風評被害はまだまだ続いていて、福島産をウリにしていた当社も随分影響が大きかったようです。今でも、県内産は使えなくて、他県のものを使っているのだそうですが、以前と同じ味に戻すのにはけっこう苦労もあったようでした。一方で、県内の大豆生産はなくなったのかといえば、それも違うよう。政府が買い上げてくれるので生産はできるのだそうで、その大豆がどこに行っているのかは分かりませんが、いろんな仕組みがあるようです。<br /><br />

    事務所のようなところで食べさせてもらいましたが、ご主人のお話では福島の風評被害はまだまだ続いていて、福島産をウリにしていた当社も随分影響が大きかったようです。今でも、県内産は使えなくて、他県のものを使っているのだそうですが、以前と同じ味に戻すのにはけっこう苦労もあったようでした。一方で、県内の大豆生産はなくなったのかといえば、それも違うよう。政府が買い上げてくれるので生産はできるのだそうで、その大豆がどこに行っているのかは分かりませんが、いろんな仕組みがあるようです。

  • 次は妙国寺。戊辰戦争では会津藩が降伏した後に、藩主松平容保は新政府軍から1か月の謹慎を申し付けられ、この寺に入ることになりました。

    次は妙国寺。戊辰戦争では会津藩が降伏した後に、藩主松平容保は新政府軍から1か月の謹慎を申し付けられ、この寺に入ることになりました。

  • 境内は広くて、本堂などもけっこう新しい感じですが、歴史の舞台となった場所の一つです。<br /><br />

    境内は広くて、本堂などもけっこう新しい感じですが、歴史の舞台となった場所の一つです。

  • 日蓮宗の寺なので、日蓮の銅像もありました。

    日蓮宗の寺なので、日蓮の銅像もありました。

  • そして、ここにあるもう一つの重要な史跡が白虎隊士仮埋葬地。妙国寺の境内ではなく、脇の駐車場の方から入ります。ちょっと、分かりにくいかもしれません。<br />

    イチオシ

    そして、ここにあるもう一つの重要な史跡が白虎隊士仮埋葬地。妙国寺の境内ではなく、脇の駐車場の方から入ります。ちょっと、分かりにくいかもしれません。

  • 白虎隊士の遺体は誰も手を触れることが出来ず、野ざらしの状態であったのですが、牛ヶ墓の吉田伊惣治という人が余りにも可愛そうに思い、夜な夜な遺体をこの墓地に運び埋葬したのだそうです。<br />野ざらしの状態なんて変に思うかもしれませんが、戊辰戦争の直後は官軍によって、遺体には一切手を触れるな。守らないと首をはねるという命令が出されていたようです。埋葬したのは、それなりの覚悟が必要だったはずです。<br />

    白虎隊士の遺体は誰も手を触れることが出来ず、野ざらしの状態であったのですが、牛ヶ墓の吉田伊惣治という人が余りにも可愛そうに思い、夜な夜な遺体をこの墓地に運び埋葬したのだそうです。
    野ざらしの状態なんて変に思うかもしれませんが、戊辰戦争の直後は官軍によって、遺体には一切手を触れるな。守らないと首をはねるという命令が出されていたようです。埋葬したのは、それなりの覚悟が必要だったはずです。

  • ここから、今度は石部桜を訪ねます。この桜は、大河ドラマ「八重の桜」のオープニングで使われている桜です。畑の向こうに見えているあれが石部桜ですね<br />

    ここから、今度は石部桜を訪ねます。この桜は、大河ドラマ「八重の桜」のオープニングで使われている桜です。畑の向こうに見えているあれが石部桜ですね

  • NHKが撮影したのはこのアングルですと表示されていまして、

    NHKが撮影したのはこのアングルですと表示されていまして、

  • それがこのアングル。

    それがこのアングル。

  • しかし、脇に回ってみると、正直、印象はだいぶ違います。<br />テレビでは、大きい桜である一方で、美しく若々しいようなイメージがありましたが、実物は樹齢約600年と、かなりの老木。

    しかし、脇に回ってみると、正直、印象はだいぶ違います。
    テレビでは、大きい桜である一方で、美しく若々しいようなイメージがありましたが、実物は樹齢約600年と、かなりの老木。

  • 幹が8本に分かれ、のたうっているような姿は、風雪に耐えてきた凄味を感じさせるものでした。むしろ、こうした姿の方が主人公八重の姿に重なるようにも感じましたが、いかがでしょうか。<br />しかし、逆に、NHKはこうした実像を避けて、変な解釈が付くのを嫌ったのかもしれませんが。。

    イチオシ

    幹が8本に分かれ、のたうっているような姿は、風雪に耐えてきた凄味を感じさせるものでした。むしろ、こうした姿の方が主人公八重の姿に重なるようにも感じましたが、いかがでしょうか。
    しかし、逆に、NHKはこうした実像を避けて、変な解釈が付くのを嫌ったのかもしれませんが。。

  • 飯盛山のふもとに戻って、滝沢本陣へ。旧白河街道沿いにあって、会津藩主の参勤交代の際には休息所として利用されたもの。<br /><br /><br />

    飯盛山のふもとに戻って、滝沢本陣へ。旧白河街道沿いにあって、会津藩主の参勤交代の際には休息所として利用されたもの。


  • ここが入口です。

    ここが入口です。

  • 中に入って、ここから座敷の方に上がります。<br />

    中に入って、ここから座敷の方に上がります。

  • 戊辰戦争の際には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、白虎隊もここから戸ノ口原戦場へと出陣しました。 

    戊辰戦争の際には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、白虎隊もここから戸ノ口原戦場へと出陣しました。 

  • ここも相当の攻撃を受けたようで、

    ここも相当の攻撃を受けたようで、

  • 座敷には弾痕や

    イチオシ

    座敷には弾痕や

  • 刀傷などが生々しく残っています。

    刀傷などが生々しく残っています。

  • これは座敷に続く庭。この景色はのどかなんですけどね。

    これは座敷に続く庭。この景色はのどかなんですけどね。

  • 古文書もたくさん残っています。

    古文書もたくさん残っています。

  • 会津戦争の解説は手書き。なんだか気持ちがこもっています。

    会津戦争の解説は手書き。なんだか気持ちがこもっています。

  • 陣屋を後にして、さざえ堂の方から飯盛山に登ります。<br />登り口に立つ太夫桜。

    陣屋を後にして、さざえ堂の方から飯盛山に登ります。
    登り口に立つ太夫桜。

  • あまり目立ちませんが、会津では石部桜とともに会津二老樹とされる名桜。名前の由来は、いつき太夫という名妓が、花見の頃この辺りで兇徒のために殺害され、弟の法師が、その姉を弔うために植えた桜と言われています。<br />

    あまり目立ちませんが、会津では石部桜とともに会津二老樹とされる名桜。名前の由来は、いつき太夫という名妓が、花見の頃この辺りで兇徒のために殺害され、弟の法師が、その姉を弔うために植えた桜と言われています。

  • その先にあるのが白虎隊記念館。ここは、飯盛山の中腹です。

    その先にあるのが白虎隊記念館。ここは、飯盛山の中腹です。

  • 白虎隊の隊士の子孫がどうなっているとか。館長さんはかつて会津若松市長だったこともあるようで、話もうまいしなんでも詳しい。敵に城を包囲されて砲弾が撃ち込まれる中、唐人凧をあげて仲間の士気を鼓舞したという後の大阪市長、池上四郎の話とか、軽妙な語りで、話の内容に引きつけられてしましました。<br />

    白虎隊の隊士の子孫がどうなっているとか。館長さんはかつて会津若松市長だったこともあるようで、話もうまいしなんでも詳しい。敵に城を包囲されて砲弾が撃ち込まれる中、唐人凧をあげて仲間の士気を鼓舞したという後の大阪市長、池上四郎の話とか、軽妙な語りで、話の内容に引きつけられてしましました。

  • 館内は撮影禁止です。

    館内は撮影禁止です。

  • 記念館のそばにある「さが餅屋」。外観は、まだ新しそうなお店だし、正直ちょっと平板なので、そんなに期待せずに入ったのですが、

    記念館のそばにある「さが餅屋」。外観は、まだ新しそうなお店だし、正直ちょっと平板なので、そんなに期待せずに入ったのですが、

  • 店内は、小上りも広いし、いい雰囲気。<br />

    店内は、小上りも広いし、いい雰囲気。

  • 名物のお餅は餡子が一押しだそうでそれをいただきました。大盛りのお餅が出てきて、これはすごい。じんわりと旨味が伝わってきて、確かにこれは老舗の味。ここはお勧めです。<br />

    イチオシ

    名物のお餅は餡子が一押しだそうでそれをいただきました。大盛りのお餅が出てきて、これはすごい。じんわりと旨味が伝わってきて、確かにこれは老舗の味。ここはお勧めです。

  • さが餅屋から上ったところにある小さな神社は厳島神社。かつては宗像神社といって、南北朝の頃、建てられた神社。祭神は、弁才天。<br />ちなみに、飯盛山は別名を辯天山。村人が、弁財天を立派に祀ったことを喜んで、打ち上げをやっていたところに、牛に乗った弁天様が現れて、赤飯を腹いっぱい村人に振る舞ったという昔話がありまして、これが飯盛山の名前のいわれとなったとのことでした。<br /><br /><br />

    さが餅屋から上ったところにある小さな神社は厳島神社。かつては宗像神社といって、南北朝の頃、建てられた神社。祭神は、弁才天。
    ちなみに、飯盛山は別名を辯天山。村人が、弁財天を立派に祀ったことを喜んで、打ち上げをやっていたところに、牛に乗った弁天様が現れて、赤飯を腹いっぱい村人に振る舞ったという昔話がありまして、これが飯盛山の名前のいわれとなったとのことでした。


  • そして、傍らには戸ノ口堰洞穴。これは、猪苗代湖の水を会津藩に引くために作られたものですが、戊辰戦争の際、戸ノ口原での戦いに敗れた白虎隊士20名が、鶴ケ城の安否を確かめるためにこの洞穴を通って飯盛山に出たという場所。

    そして、傍らには戸ノ口堰洞穴。これは、猪苗代湖の水を会津藩に引くために作られたものですが、戊辰戦争の際、戸ノ口原での戦いに敗れた白虎隊士20名が、鶴ケ城の安否を確かめるためにこの洞穴を通って飯盛山に出たという場所。

  • とうとうと流れる水量はかなりのもの。抜け道となったにしても、困難な道だったと思われます。<br /><br />

    とうとうと流れる水量はかなりのもの。抜け道となったにしても、困難な道だったと思われます。

  • さざえ堂は、一回体験すればもういいでしょう。今回はパスします。

    さざえ堂は、一回体験すればもういいでしょう。今回はパスします。

  • その向かいにあるのが宇賀神堂。会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を神像として建立した神社です。

    その向かいにあるのが宇賀神堂。会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を神像として建立した神社です。

  • この中には、白虎隊19士の木像が安置されていて、のぞくとお堂いっぱいにこっちを向いて並んでいます。なぜか、像はフランス流の洋服姿ですが、そんなに違和感はないと思います。<br />

    この中には、白虎隊19士の木像が安置されていて、のぞくとお堂いっぱいにこっちを向いて並んでいます。なぜか、像はフランス流の洋服姿ですが、そんなに違和感はないと思います。

  • ここから、山すそを回って白虎隊十九士の墓の方へ。向こうにはもう鶴ヶ城が見えています。

    ここから、山すそを回って白虎隊十九士の墓の方へ。向こうにはもう鶴ヶ城が見えています。

  • ここが頂上の広場です。

    ここが頂上の広場です。

  • 正面にはローマ市寄贈の碑。ただ、鷲の乗った碑はかなりの高さがあって、逆に違和感もないことはないような。<br />こんなところに、ローマ市から何で?という感じもなくはないのですが、戊辰戦争で会津藩が街を守るために戦った姿が、イタリアの都市国家の歴史の中で何度も経験しているローマ人の心に響いたのかもしれません。徳川幕府への忠誠という部分はどうだったのか。それはよくわかりません。 <br /><br />

    正面にはローマ市寄贈の碑。ただ、鷲の乗った碑はかなりの高さがあって、逆に違和感もないことはないような。
    こんなところに、ローマ市から何で?という感じもなくはないのですが、戊辰戦争で会津藩が街を守るために戦った姿が、イタリアの都市国家の歴史の中で何度も経験しているローマ人の心に響いたのかもしれません。徳川幕府への忠誠という部分はどうだったのか。それはよくわかりません。

  • そして、これが白虎隊の墓。亡くなった19士の墓石が横一直線に並んでいます。<br />

    そして、これが白虎隊の墓。亡くなった19士の墓石が横一直線に並んでいます。

  • 五月の連休の前半だったこともあって、観光客でいっぱい。線香の煙ももうもうと上がって、隊士の冥福を祈る姿が途切れることはありませんでした。<br />

    五月の連休の前半だったこともあって、観光客でいっぱい。線香の煙ももうもうと上がって、隊士の冥福を祈る姿が途切れることはありませんでした。

  • 白虎隊十九士の墓の隣りにあるのが松平容保碑。歌碑には、「幾人の 涙はいしにそそぐとも その名はよよに 朽じとぞ思ふ」。明治になってから、飯盛山で行われた慰霊祭で詠んだ歌。白虎隊士の殉難忠節に対し、思いを込めたものです。<br /><br />

    白虎隊十九士の墓の隣りにあるのが松平容保碑。歌碑には、「幾人の 涙はいしにそそぐとも その名はよよに 朽じとぞ思ふ」。明治になってから、飯盛山で行われた慰霊祭で詠んだ歌。白虎隊士の殉難忠節に対し、思いを込めたものです。

  • 白虎隊士自刃者の中で蘇生し、唯一の生き残りとなったのが飯沼貞雄。その墓は、白虎隊十九士の墓と白虎隊士自刃の地 のちょうど中間あたりにあります。<br />

    白虎隊士自刃者の中で蘇生し、唯一の生き残りとなったのが飯沼貞雄。その墓は、白虎隊十九士の墓と白虎隊士自刃の地 のちょうど中間あたりにあります。

  • 飯沼貞雄は、通信省の技師となって、仙台市で没します。生き残った事を生涯悔い、会津若松には近寄らなかったと言われますが、この地への埋葬は遺言だったとか。背負ったものの大きさは計り知れないものがあったのだと思います。ご冥福を祈ります。<br />

    飯沼貞雄は、通信省の技師となって、仙台市で没します。生き残った事を生涯悔い、会津若松には近寄らなかったと言われますが、この地への埋葬は遺言だったとか。背負ったものの大きさは計り知れないものがあったのだと思います。ご冥福を祈ります。

  • 白虎隊士自刃の地は、飯盛山の一番奥。鶴ヶ城が遠くに見える場所で、白虎隊はここから鶴ヶ城を見て、炎上しているものと思い込んだと言います。<br />

    白虎隊士自刃の地は、飯盛山の一番奥。鶴ヶ城が遠くに見える場所で、白虎隊はここから鶴ヶ城を見て、炎上しているものと思い込んだと言います。

  • 私が見てもそんなに遠くに見えるわけでもないのに、炎上と見たというのですから、実際に炎上はしていないにせよ、よほどの激しい放火に包まれていたのだと思います。

    私が見てもそんなに遠くに見えるわけでもないのに、炎上と見たというのですから、実際に炎上はしていないにせよ、よほどの激しい放火に包まれていたのだと思います。

  • 傍らに建つ城を眺める隊士の像が痛々しく感じられました。

    イチオシ

    傍らに建つ城を眺める隊士の像が痛々しく感じられました。

  • 飯盛山を降りてきました。この参道は、いつも賑やかです。

    飯盛山を降りてきました。この参道は、いつも賑やかです。

  • 一角にある小池菓子舗。<br /><br />

    一角にある小池菓子舗。

  • 店頭では、粟まんじゅうを蒸かしていまして、その黄色い色が他では見たことがないような鮮やかさ。とても目を引きました。2度と災難に「アワ」ないようにという、しゃれた粟饅頭。<br />傍らの休憩所でいただきましたが、粟と餡子の相性というか、餡子の味自体もぼんやりしているような。。見た目に反して、味はイマイチだと思いました。<br />

    店頭では、粟まんじゅうを蒸かしていまして、その黄色い色が他では見たことがないような鮮やかさ。とても目を引きました。2度と災難に「アワ」ないようにという、しゃれた粟饅頭。
    傍らの休憩所でいただきましたが、粟と餡子の相性というか、餡子の味自体もぼんやりしているような。。見た目に反して、味はイマイチだと思いました。

  • ちょっと気になっていたのが白虎隊伝承史学館。白虎隊記念館ほどメジャーではないし、白虎隊関係の資料を展示するという意味でもかぶった感じがするので、訪ねる人は少ないかもしれません。それに、こちらは資料を説明してくれるわけでもあないし、イマイチかなあと思っていました。

    ちょっと気になっていたのが白虎隊伝承史学館。白虎隊記念館ほどメジャーではないし、白虎隊関係の資料を展示するという意味でもかぶった感じがするので、訪ねる人は少ないかもしれません。それに、こちらは資料を説明してくれるわけでもあないし、イマイチかなあと思っていました。

  • しかし、ここで昔話をしてくれるそうです。お願いしたら、飯盛山の弁天様の話をしてくれました。なかなか面白い。ひょっこり、こんな話を聞くのも、旅の醍醐味でしょう。<br /><br />

    イチオシ

    しかし、ここで昔話をしてくれるそうです。お願いしたら、飯盛山の弁天様の話をしてくれました。なかなか面白い。ひょっこり、こんな話を聞くのも、旅の醍醐味でしょう。

  • ちょっと気分が楽しきなってきたところで飯盛山のふもとにあるお土産物屋も覗いて見ます。<br />

    ちょっと気分が楽しきなってきたところで飯盛山のふもとにあるお土産物屋も覗いて見ます。

  • 普通のお土産物屋さんかと思ったら、店内では、一生懸命、赤べこの絵付けをしている人の姿がありました。ちゃんと、お手本があって、それも参考にしながら作業しているのですが、とても楽しそう。これは旅の思い出にいいですね。赤べこは会津若松市内では他ではほとんど見ませんでしたが、そういう意味でも、穴場かもしれません。<br />

    普通のお土産物屋さんかと思ったら、店内では、一生懸命、赤べこの絵付けをしている人の姿がありました。ちゃんと、お手本があって、それも参考にしながら作業しているのですが、とても楽しそう。これは旅の思い出にいいですね。赤べこは会津若松市内では他ではほとんど見ませんでしたが、そういう意味でも、穴場かもしれません。

  • さて、ここでレンタサイクルを借りまして、北部の寺院群を回ります。坂が多い分、自転車はギアチェンジができる快適なもの。飯盛山からだと下りになるし、ここからレンタサイクルのしたのは大正解だったような感じです。<br />まず訪ねたのは大龍寺。この寺は、新島八重の実家、山本家の菩提寺。それまで点在していた山本家の墓をここに集め、「山本家之墓」墓標が建てられていました。

    さて、ここでレンタサイクルを借りまして、北部の寺院群を回ります。坂が多い分、自転車はギアチェンジができる快適なもの。飯盛山からだと下りになるし、ここからレンタサイクルのしたのは大正解だったような感じです。
    まず訪ねたのは大龍寺。この寺は、新島八重の実家、山本家の菩提寺。それまで点在していた山本家の墓をここに集め、「山本家之墓」墓標が建てられていました。

  • 墓標は、八重が書いたもの。やや細身の線です。先入観もあったかもしれませんが、ちょっと男勝りのような印象を受けました。<br />なお、戊辰戦争の際には、お茶の小笠原流で知られる小笠原家ゆかりの寺院であったため戦火をまぬかれ、新政府軍の野戦病院として使用されていたということです。<br /><br />

    墓標は、八重が書いたもの。やや細身の線です。先入観もあったかもしれませんが、ちょっと男勝りのような印象を受けました。
    なお、戊辰戦争の際には、お茶の小笠原流で知られる小笠原家ゆかりの寺院であったため戦火をまぬかれ、新政府軍の野戦病院として使用されていたということです。

  • さらに進むと幹線沿いにこの目立つ建物。会津松本東西館です。かつて、福島県葛尾村の新開家が明治20年代に建て、4代に渡って守りつづけてきた建物を移築したものです。<br /><br /><br />

    さらに進むと幹線沿いにこの目立つ建物。会津松本東西館です。かつて、福島県葛尾村の新開家が明治20年代に建て、4代に渡って守りつづけてきた建物を移築したものです。


  • では、ちょっとここにも寄ってみましょう。

    では、ちょっとここにも寄ってみましょう。

  • 吹き抜けの2階造りですが、屋根裏には養蚕部屋があるのが特徴です。<br />

    吹き抜けの2階造りですが、屋根裏には養蚕部屋があるのが特徴です。

  • そして、内部には会津桐たんすを主力に、地元で伝えられてきた古い陶器の食器類が飾られていて、それぞれがなかなか美しい。

    そして、内部には会津桐たんすを主力に、地元で伝えられてきた古い陶器の食器類が飾られていて、それぞれがなかなか美しい。

  • なんか、ちょっとした美術館のような雰囲気です。がらんとした店内で、しばし豊かな時間を楽しみました。

    なんか、ちょっとした美術館のような雰囲気です。がらんとした店内で、しばし豊かな時間を楽しみました。

  • 並んで立つのが桐屋夢見亭。このお店は、七日町に本店のある飯豊権現蕎麦の支店です。しかし、奥会津只見町の曲屋、「三瓶家」 を移転したというこちらのお店もとても趣があります。<br /><br />

    並んで立つのが桐屋夢見亭。このお店は、七日町に本店のある飯豊権現蕎麦の支店です。しかし、奥会津只見町の曲屋、「三瓶家」 を移転したというこちらのお店もとても趣があります。

  • 靴を脱いで奥に上がると、椅子に座るテーブル席と座敷の両方があって、ちょっと面白い。<br />

    靴を脱いで奥に上がると、椅子に座るテーブル席と座敷の両方があって、ちょっと面白い。

  • そばは、権現蕎麦をいただきましたが、これは更科系ですね。きれいな、すっきりした味わいがすばらしい。極上の会津にふさわしい名店だと思います。<br /><br />以上で三日目の前半が終了。午後には、またもうひと踏ん張りです。

    そばは、権現蕎麦をいただきましたが、これは更科系ですね。きれいな、すっきりした味わいがすばらしい。極上の会津にふさわしい名店だと思います。

    以上で三日目の前半が終了。午後には、またもうひと踏ん張りです。

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