佐倉・四街道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
京成電鉄佐倉駅から徒歩約20分、佐倉簡易裁判所に行く途中にある玉宝山・松林寺(しょうりんじ、千葉県佐倉市弥勒町)は佐倉藩初代藩主でその後老中首座となった土井利勝(どいとしかつ、1573~1644)が土井家の菩提寺として建立した浄土宗の寺院です。<br /><br />2月28日訪問時には道路沿に利勝の両親と夫人の供養塔がありまして自分が行った時は墓所中央部の台座には何もなく所在が不明でした。<br /><br />【再訪】<br />その後3月15日に再び訪ねますと見事に関係の供養塔が再建されているのが確認されました。<br />昨年の東日本大震災の影響により倒壊などした供養塔が修復されたと思われます。修復されてなによりです。<br /><br /><br /><br />2023年11月16日追記<br /><br />千葉県浄土宗寺院誌」 (昭和57年刊)には当該寺院について詳細に記述されています。<br /><br />『 玉宝山 松林寺<br /><br />当寺は、江戸時代初期を代表する浄土宗の学僧照誉了学上人(団蓮社照誉上人遊獄了学大和尚)が、佐倉城主・土井大炊頭勝利の招きにより土井家の菩提寺として、郷里の愛知県土井から父母と夫人の墓を改葬して、佐倉の弥勒町に建立した寺院である。<br /><br />等寺の山号・院号は「玉宝山・清光院」という。これは、当寺に改葬されている土井利勝の父の法名である「宝光院本誉見貞」、母の法名である「玉等院殿清誉寿安」、夫人の法名である「清光院殿浄誉明徹」の三方の法名を巧みに取り入れて名付けたものである。<br /><br />当寺の創建年次については諸説がある。現地の「佐倉真砂子」や「寺院明細帳」は慶長10年(1605)9月としている。一方、開山照誉了学上人の履歴を伝える僧上寺の「縁山志」(九)には寛永4年(1627)としている。増上寺所蔵の元禄8年(1695)に作成された「浄土宗寺院由緒書」二十四所収の松林寺の項には創建年次が記入されていない。<br /><br />しかしこれらの諸説を整理すると、土井利勝の佐倉入りは慶長15年(1610)である。さらに院号の由来たる利勝夫人清光院が亡くなったのは元和3年(1617)である。そのため松林寺がこれ以前の慶長10年(1605)に創建されたものとは考え難く、了学上人の伝記に従って、寛永4年(1627)に檀林・飯沼弘経寺を退き、佐倉の清光寺に隠退され、そこを城主・土井利勝に懇請されて土井家の菩提寺として当寺を開創したと考える方が妥当であろう。<br /><br />開山の照誉了学上人は、徳川家康関東入国以前の下総小金城主・高木氏の出身であり、同地の檀林・東漸寺で出家されている。<br />徳川政権下では、大多喜城主・本多忠勝の帰依をうけ、文禄4年(1595)同地に良信寺(元和元年に良玄寺と改称)を創建している。その後檀林・東漸寺や飯沼弘経寺の歴代を経て、佐倉清光寺に隠退している。この間に慶長16年(1611)には、伊勢桑名城主・本多忠政に招かれて同地に忠勝の菩提寺西西寺を創建している。佐倉隠退後は、清光寺と松林寺を兼帯していたようである。寛永9年(1632)には特に幕府に招かれて本山増上寺十七世の住職となり、二代将軍秀忠の葬儀の導師の大役を勤めている。<br />これは本山増上寺の住職は次席檀林である小石川伝通院か鎌倉光明寺から入山するのを原則としていた中で、佐倉の田舎寺院から了学上人が増上寺に入山したのは異例のことであった。了学上人の学識と高徳振りが早くから世間に知られていたためであろう。また佐倉城主・土井利勝の働きかけにもよるところが大きかった。増上寺入山後の了学上人の活躍はめざましく、寺内機構の整備と教団発展の基礎を確立されている。そして寛永11年(1634)2月13日に85歳の高齢をもって弟子たちに見守られながら入寂された。<br /><br />その他、当寺の什宝としては、千葉県指定有形文化財の観音堂がある。この観音堂は元の本堂が崩壊したため、現在松林寺の本堂として活用されている。この観音堂は土井勝利が佐倉城築城の際に建立されたものと伝えられ、桟瓦葺(元は草葺)寄棟造、間口柱間3間、奥行同4間の小規模な仏堂である。しかし側柱に面の大きな角柱を用い、その上に端正な形の三斗を組んだ白木造りの外観は、千葉県内の小仏堂では珍しいもので、江戸時代初期の建造物と考えられる。軸部の様式は、内外とも柱状の組物は和様三斗中備は発束を用い、天井は内陣・外陣とも太めの?縁天井である。内陣・外陣の境には丸柱が立ち、格子や格子戸を設けていた。外部の戸締りは以前は?戸や坂戸であったが、現在はガラス戸に取り替えられ、また周囲に下屋底を付す等の改造がなされている。内陣の奥に安置された厨子は、扉や羽目板に優美な彫刻をもち、建築とほぼ同じ時期の作と考えられる。<br /><br />現在の観音堂の規模から考えて、さぞ創建当時の本堂は立派なものであったと思われる。』<br />

下総佐倉 佐倉城主土井利勝懇請により両親と夫人供養の為後に増上寺住職となった賢僧の了学上人開山による菩提寺『松林寺』散歩

12いいね!

2012/02/28 - 2012/03/15

345位(同エリア747件中)

0

10

滝山氏照

滝山氏照さん

京成電鉄佐倉駅から徒歩約20分、佐倉簡易裁判所に行く途中にある玉宝山・松林寺(しょうりんじ、千葉県佐倉市弥勒町)は佐倉藩初代藩主でその後老中首座となった土井利勝(どいとしかつ、1573~1644)が土井家の菩提寺として建立した浄土宗の寺院です。

2月28日訪問時には道路沿に利勝の両親と夫人の供養塔がありまして自分が行った時は墓所中央部の台座には何もなく所在が不明でした。

【再訪】
その後3月15日に再び訪ねますと見事に関係の供養塔が再建されているのが確認されました。
昨年の東日本大震災の影響により倒壊などした供養塔が修復されたと思われます。修復されてなによりです。



2023年11月16日追記

千葉県浄土宗寺院誌」 (昭和57年刊)には当該寺院について詳細に記述されています。

『 玉宝山 松林寺

当寺は、江戸時代初期を代表する浄土宗の学僧照誉了学上人(団蓮社照誉上人遊獄了学大和尚)が、佐倉城主・土井大炊頭勝利の招きにより土井家の菩提寺として、郷里の愛知県土井から父母と夫人の墓を改葬して、佐倉の弥勒町に建立した寺院である。

等寺の山号・院号は「玉宝山・清光院」という。これは、当寺に改葬されている土井利勝の父の法名である「宝光院本誉見貞」、母の法名である「玉等院殿清誉寿安」、夫人の法名である「清光院殿浄誉明徹」の三方の法名を巧みに取り入れて名付けたものである。

当寺の創建年次については諸説がある。現地の「佐倉真砂子」や「寺院明細帳」は慶長10年(1605)9月としている。一方、開山照誉了学上人の履歴を伝える僧上寺の「縁山志」(九)には寛永4年(1627)としている。増上寺所蔵の元禄8年(1695)に作成された「浄土宗寺院由緒書」二十四所収の松林寺の項には創建年次が記入されていない。

しかしこれらの諸説を整理すると、土井利勝の佐倉入りは慶長15年(1610)である。さらに院号の由来たる利勝夫人清光院が亡くなったのは元和3年(1617)である。そのため松林寺がこれ以前の慶長10年(1605)に創建されたものとは考え難く、了学上人の伝記に従って、寛永4年(1627)に檀林・飯沼弘経寺を退き、佐倉の清光寺に隠退され、そこを城主・土井利勝に懇請されて土井家の菩提寺として当寺を開創したと考える方が妥当であろう。

開山の照誉了学上人は、徳川家康関東入国以前の下総小金城主・高木氏の出身であり、同地の檀林・東漸寺で出家されている。
徳川政権下では、大多喜城主・本多忠勝の帰依をうけ、文禄4年(1595)同地に良信寺(元和元年に良玄寺と改称)を創建している。その後檀林・東漸寺や飯沼弘経寺の歴代を経て、佐倉清光寺に隠退している。この間に慶長16年(1611)には、伊勢桑名城主・本多忠政に招かれて同地に忠勝の菩提寺西西寺を創建している。佐倉隠退後は、清光寺と松林寺を兼帯していたようである。寛永9年(1632)には特に幕府に招かれて本山増上寺十七世の住職となり、二代将軍秀忠の葬儀の導師の大役を勤めている。
これは本山増上寺の住職は次席檀林である小石川伝通院か鎌倉光明寺から入山するのを原則としていた中で、佐倉の田舎寺院から了学上人が増上寺に入山したのは異例のことであった。了学上人の学識と高徳振りが早くから世間に知られていたためであろう。また佐倉城主・土井利勝の働きかけにもよるところが大きかった。増上寺入山後の了学上人の活躍はめざましく、寺内機構の整備と教団発展の基礎を確立されている。そして寛永11年(1634)2月13日に85歳の高齢をもって弟子たちに見守られながら入寂された。

その他、当寺の什宝としては、千葉県指定有形文化財の観音堂がある。この観音堂は元の本堂が崩壊したため、現在松林寺の本堂として活用されている。この観音堂は土井勝利が佐倉城築城の際に建立されたものと伝えられ、桟瓦葺(元は草葺)寄棟造、間口柱間3間、奥行同4間の小規模な仏堂である。しかし側柱に面の大きな角柱を用い、その上に端正な形の三斗を組んだ白木造りの外観は、千葉県内の小仏堂では珍しいもので、江戸時代初期の建造物と考えられる。軸部の様式は、内外とも柱状の組物は和様三斗中備は発束を用い、天井は内陣・外陣とも太めの?縁天井である。内陣・外陣の境には丸柱が立ち、格子や格子戸を設けていた。外部の戸締りは以前は?戸や坂戸であったが、現在はガラス戸に取り替えられ、また周囲に下屋底を付す等の改造がなされている。内陣の奥に安置された厨子は、扉や羽目板に優美な彫刻をもち、建築とほぼ同じ時期の作と考えられる。

現在の観音堂の規模から考えて、さぞ創建当時の本堂は立派なものであったと思われる。』

交通手段
私鉄 徒歩

PR

  • 道路に面した墓所

    道路に面した墓所

  • 墓標と台座<br /><br />肝心の墓石の姿がありません。

    イチオシ

    墓標と台座

    肝心の墓石の姿がありません。

  • 墓標<br /><br />墓標の横に利勝の両親と夫人の供養塔説明があります。

    墓標

    墓標の横に利勝の両親と夫人の供養塔説明があります。

  • 本堂<br /><br />当寺の山号・院号は「玉寶山・清光院」と言い、利勝の父の法名「寶光院本誉見貞」、母の法名「玉等院殿清誉壽安」、夫人の法名「清光院殿浄誉明徹」の3つを巧みに取り入れて名づけています。<br /><br />因みに利勝自身の墓はその後の転封先である古河の利勝寺正定寺にあるそうです。

    本堂

    当寺の山号・院号は「玉寶山・清光院」と言い、利勝の父の法名「寶光院本誉見貞」、母の法名「玉等院殿清誉壽安」、夫人の法名「清光院殿浄誉明徹」の3つを巧みに取り入れて名づけています。

    因みに利勝自身の墓はその後の転封先である古河の利勝寺正定寺にあるそうです。

  • 松林寺説明

    松林寺説明

  • 佐倉七福神・毘沙門天<br /><br />毘沙門天は仏教四天王の一人融通招福の神です。

    佐倉七福神・毘沙門天

    毘沙門天は仏教四天王の一人融通招福の神です。

  • 土塁<br /><br />本堂が土塁で囲まれています。

    土塁

    本堂が土塁で囲まれています。

  • 土塁と駐車場<br /><br />

    土塁と駐車場

  • 土井利勝父母・夫人供養塔再建(平成24年3月15日再訪)<br /><br />他日訪ねますと供養塔が再建されていました。再建の理由はおそらく昨年3月の東日本大震災を受けて供養塔が倒壊したのでその修復作業が必要であったと思われます。

    土井利勝父母・夫人供養塔再建(平成24年3月15日再訪)

    他日訪ねますと供養塔が再建されていました。再建の理由はおそらく昨年3月の東日本大震災を受けて供養塔が倒壊したのでその修復作業が必要であったと思われます。

  • 土井利勝父母・夫人供養塔全景(平成24年3月15日再訪)<br /><br />改めて立派な供養塔を参拝して霊の安寧を祈ります。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    土井利勝父母・夫人供養塔全景(平成24年3月15日再訪)

    改めて立派な供養塔を参拝して霊の安寧を祈ります。





この旅行記のタグ

関連タグ

12いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP