2012/03/04 - 2012/03/04
106位(同エリア160件中)
滝山氏照さん
JR中央線荻窪駅より西武バスにて石神井公園行きに乗り荻窪病院前下車、 宝珠山・観泉寺(かんぜんじ、東京都杉並区今川)という曹祠宗の寺院は、本尊は釈迦如来で戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。
今川氏はかつては駿河・遠江を所領とし三河の徳川家を圧するほどの勢力を従えていた名門守護大名でしたが今川義元(いまがわ・よしもと、1519~1560)は桶狭間にて命を失い、嫡男氏真(うじざね、1538~1615)は父の偉業を継ぐも求心力乏しく家臣の信頼を失い、やがて武田信玄及び三河を回復した徳川家康の進出に抗し切れず所領を手放すことになります。
所領を失った氏真は家康の斡旋で一時は小田原北条家に居を構えますが長居はできず当てのない旅に出てます。
領土を失った身分とはいえ風流と伝統を身につけた氏真ですから公家に親戚を持つ京都で悠々自適な生活を送ったと思われます。
いつから徳川家康の家臣となったかは定かではありませんが、臣下関係が逆転なったとはいえ氏真の息子直房(なおふさ、1594~1662)が今川家の菩提寺を建て、先祖への敬愛と子孫繁栄の願いを表したとすれば当世をしたたかに生きる姿を感じないわけにはゆきません。
2023年5月15日追記
寺院内に特別に配されている今川家累代の墓には下記のごとく喜寿されています。
『 今 川 家 累 代 墓(東京都指定旧跡)
戦国時代、桶狭間で織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代は高家として幕府に仕えました。今川家は地行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めました。
義元から3代目となる直房はこの観泉寺を今川家の菩提所とし、今川氏の始祖国氏(くにうじ)や義元など今川一族の供養を行うようになりました。
墓碑が残るのは義元の子氏真以降の当主や一族出身の女性や子どもなど多岐にわたっています。
また観泉寺は今川氏の所領支配の中心でもあり、年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。
この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。
東 京 都 教 育 委 員 会 』
また、当該寺の境内には下記の説明板もあります。
「 観 泉 寺
当寺は宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られておます。寺伝によれば、慶長2年(1579)、今の下井草2丁目付近に鉄そう雄鷹痩火大和尚より開基され、観音寺と称しました。
正保2年(1645)、今川13代直房は、将軍家光の名を受けて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など3ケ村500石の加増を受けました。それを機に当寺を菩提寺とし、現在地に移して寺名を観泉寺と改めました。信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興とし、万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬、氏真を開基としました。
ここに眠る開基の今川氏真は、今川氏が敗れた永禄3年(1560)5月19日の「桶狭間の戦」で父義元を失い、家督を継ぎますが、領国であった駿河は北条氏・武田氏が、遠江は松平元康(徳川家康)が支配することになりました。今川氏没落後の氏真は、北条氏や松平氏の下に身を寄せ、文化人として多くの和歌を詠んでいます。徳川幕府が成立したのち、今川氏は幕府高家として召し抱えられ存続しました。
境内墓所にある、氏真を含む今川氏累代の墓は都の旧跡に指定されています。
平成29年3月
杉 並 区 教 育 委 員 会 」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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