2012/03/24 - 2012/03/25
2095位(同エリア3594件中)
倫清堂さん
大阪で行われる研修会に定期的に出席することになり、しばらくの間、月に2回のペースで仙台と大阪を往復することになりました。
研修会が行われるのは土曜日の午後ですが、せっかく何度も近畿へ行けるので、この機会に大阪市内や近郊を巡ってみたいと思います。
1回目は天王寺区。
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向かったのは、天王寺区の地名の由来ともなった四天王寺。
四天王寺はお寺ですが、その入り口には鳥居があります。
初めてこの鳥居を見や時、言いようもない不思議な感覚におちいった記憶が今でも新鮮に思い出されます。
この石の鳥居は、つい先日訪れた吉野金峯山寺の銅の鳥居と、宮島厳島神社の朱丹の大鳥居とともに、日本三大鳥居に数えられます。
この鳥居は極楽浄土があると考えられている西を向いており、聖徳太子がある人物を鎮魂するために寺が建立されたことと関連しています。
その人物とは、物部守屋。
皇室に最も近い一族の長で廃仏派の急先鋒でしたが、蘇我馬子と聖徳太子の連合軍によって倒された人物です。 -
物部氏は饒速日命を祖とする軍事氏族で、代々天皇の側近として仕えて来ました。
敏達天皇14年、大臣蘇我馬子が仏教の信仰を始めたのと前後して、全国に疫病が流行しました。
物部守屋は仏教が原因であると天皇に奏上し、天皇は信仰をやめるよう蘇我に詔を発しますが、ほどなく崩御していまいます。
守屋は蘇我の屋敷へ乗り込み、仏像を海へ投げ捨て、仏塔を焼き払ってしまいました。
しかしその後皇位継承問題が起き、守屋派に属する皇子や廷臣たちは蘇我によって次々に殺され、守屋は次第に孤立することとなります。
いよいよ時期到来と、蘇我は聖徳太子などを引き入れて守屋討伐の兵を挙げたのでした。
劣勢になっても神代からの武人の力はすさまじく、聖徳太子も危機におちいりますが、白膠木の木で四天王の像を刻んで仏の加護を願い、河内国の物部の居館で守屋を討ち取ったのでした。
戦いに勝利した聖徳太子は推古天皇元年、守屋の邸宅があった玉造に四天王寺を建立しました。
しかしその6年後、何らかの原因により現在地へと遷すことになります。
一説には守屋の霊が祟ったためと言われ、西向きの鳥居があるのは守屋の霊に極楽浄土へ行って安らいでもらいたいとの願いからなのです。四天王寺 寺・神社・教会
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市街地のど真ん中にあるとは思えないほど広大な敷地の境内には、見どころがたくさんあります。
比叡山延暦寺の根本中堂を模したとされる六時堂の前には石舞台。
その下の亀池では、多くの亀たちが甲羅干しをしていました。
また弘法大師空海も聖徳太子への尊崇の念が篤く、若き日に四天王寺を参拝したと記録されています。
敬虔な仏教者というイメージは聖徳太子の一面でしかなく、聖徳太子は実は秘法に通じた預言者であったという見方も一部ではされています。
『太平記』には、聖徳太子が残した預言書『未来記』を大楠公が四天王寺で読んだという記録が残されています。
『未来記』や、そもそも『太平記』までも偽書とするのか、全て真実と信じるのか、あるいはそれらの言い伝えの中に何か本質を見つけようとするのか、歴史を見る目は人それぞれでよいのだと思います。 -
四天王寺の配置は、仁王門・五重塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ様式で、聖徳太子が四天王寺で初めて用いたことから、四天王寺式伽藍と呼ばれています。
法隆寺も発掘された遺跡から推理すると、創建当時は四天王式伽藍であったと考えられています。
全国の寺院の中から四天王寺式伽藍の寺を挙げてみると、どれも物部守屋鎮魂の目的がちらついて見えます。
その中心伽藍も戦災によって焼けてしまい、現在のものは昭和34年の再建ですが、推古天皇元年に創建されてから数えると、なんと8度目の再建なのだそうです。 -
中央伽藍の西側の入り口から、拝観料を納めて入りました。
そして反対の東側から、聖徳太子を祀る聖霊殿が見えました。
法隆寺夢殿と同じ八角形の造りで、昭和54年までに再興されました。
外からは確認できませんが、聖霊殿の近くには物部守屋と、ともに敗れた弓削小連・中臣海勝が祀られる守屋祠があるとのこと。
勝者と敗者が隣同士で祀られているのはまさに鎮魂のためで、守屋の奴婢たちが物部氏滅亡後、邸宅跡地に建立された四天王寺の奴婢となったことが関係するとも考えられます。 -
広大な四天王寺の散策を終え、次に向かったのは生国魂神社。
初代神武天皇が九州から難波津に上陸された際、生島大神と足島大神をお祀りしたのが始まりとされます。
両神は国土全体の守護神で、後に大物主大神が合祀されました。
難波に島々が点在していた頃の歴史を知っている古社です。
もともとは現在の大阪城の近くに鎮座していましたが、秀吉公の寄進によって天正13年に現在地へ遷座しました。
谷崎潤一郎の『春琴抄』や織田作之助の『木の都』にも登場しています。生國魂神社 寺・神社・教会
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お昼過ぎの新幹線に乗らなければならないため、天王寺散歩もそろそろ切り上げなければなりません。
最後に向かったのは安居神社。
真田幸村公陣歿地です。
四天王寺建立とほぼ同じ時期に、大阪湾を一望できる景勝の地に少彦名神をお祀りしたのが始まりとされ、都から筑紫へ左遷された菅原道真公が休息されたことから、道真公死後の天慶5年に御霊を合祀しました。
幸村公は戦国武将の中でも最も人気の高い人物で、特に歴史好きな女性から人気を集めていますが、幸村公が御祭神ではありません。
大阪の陣では不利を承知で大阪側につき、家康公の本陣を奇襲して馬印を倒すほどの働きをしますが、多勢に無勢でついにこの地で討死しました。
安居神社も戦災で焼けてしまいますが、地元有志の奉賛寄進によって再建され、幸村公の銅像も建てられました。
戦災や震災からの復興は当時を生きる人々の努力の賜物ですが、その支えとなっているのは、過去に利害を越えて大義を貫いた先人の偉大な功績に他なりません。安居神社 寺・神社・教会
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