2010/08/21 - 2010/08/23
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倫清堂さん
お盆を過ぎて過ごしやすくなる季節。
家族で行く車を使った旅行としては、たぶん移動距離が最高記録となる旅を計画しました。
自宅を朝6時に出て、高速道路を利用し、石川県を目指します。
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少しは涼しくなっているはずの季節なのですが、この日も猛暑となりました。
車内の冷房は弱めに設定していますが、車を降りると高温と湿気が容赦なく全身にまとわりついて来ます。
磐越道で1回、北陸道で2回の休憩をとり、満タンにしてきたガソリンがちょうど切れかける頃、最初の目的地である白山比咩神社に到着したのでした。 -
白山比神社は加賀国一之宮で、金沢からも鉄道で行くことができます。
数年前に初めて金沢を訪れた際、団体旅行であったために時間的余裕がなかったことから、参拝をあきらめた経緯があります。
ですので、今回は絶対に参拝したいと強く願っていました。
御祭神は白山比大神・伊弉諾神・伊弉冉神です。
白山比大神は、日本書紀に登場する菊理媛神と同一神であると考えられています。
イザナギが、死んでしまったイザナミを黄泉の国に迎えに行ったものの、その醜く変わり果てた姿に、別離を言い渡した際、言い争いになったのを仲裁したのが菊理媛神です。
その後、黄泉の国から帰ったイザナギは禊をします。
これらのことから、穢れを祓う神であるという説や、生者と死者の間をとりもつ神であるという説などがあります。白山比咩神社 (白山ひめ神社) 寺・神社・教会
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白山比神社の奥宮は白山の山頂に鎮座し、今回参拝したのは本宮と呼ばれています。
いつかは山頂まで登拝に参りたいですが、今回は時間も準備もないため、境内の白山奥宮遙拝所の参拝で終わらせました。
境内には他に、白山比大神の荒魂をお祀りする荒御前神社があります。 -
イチオシ
それから杉並木の表参道を下り、一の鳥居をくぐって境内を出ました。
明治時代までは一の鳥居はなく、神宮寺である白山寺の本地堂や、護摩堂、地蔵堂などがあったのですが、神仏分離政策によってそれらはすべて失われてしまったそうです。
このまま進むと、加賀一の宮駅へとたどり着きます。
駅と手取川との間には、神社の古宮跡などがあります。
また反対側ぼ舟岡山には、神社の創祀之地顕彰碑があります。
いずれ白山登拝をする際に、これらの史跡も訪れてみたいと思っています。 -
金沢へ向かう途中、白山七社のひとつである金劔宮を参拝しました。
御祭神は瓊々杵尊など7神。
白山七社は、白山登拝の起点として設けられた馬場にそれぞれ鎮座します。
金劔宮は白山第一王子とされ、木曽義仲や源義経公も参拝しています。
ここの地名である鶴来は、かつて剣の宮と呼ばれたこの神社の名前に由来します。金劔宮 寺・神社・教会
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金沢に入り、まずは香林坊にあるホテルに車を停めます。
ここからは駐車場の心配があるためというのが表向きの理由ですが、あまりの暑さにアルコールをとりたいという理由もありました。
ホテル前からバスの乗り、2つ目のバス停で降りれば、そこは近江町市場の目の前。
父の要望で、以前に入ったことがあるという鮨処源平を探して入りました。
ここは注文すれば握ってくれるのですが、その寿司が値段別に違う模様の下駄に乗せられて出てくるのです。
流行の回転寿司と同じだなと思いながら、ビールで寿司を流し込みました。鮨処 源平 グルメ・レストラン
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遅い昼食を終え、タクシーに乗ってひがし茶屋街を目指します。
以前に金沢を訪れた際、古い街並みを好む母にぜひ見せたいと思った場所です。 -
母は母なりに下調べをしたらしく、志摩という茶屋に行ってみたいと言われました。
志摩は国の重要文化財に指定されるお茶屋で、入館料を支払うことで見学させてもらえます。
どんなに暑くても館内では靴下を履くというきまりがあり、建物を極力大切に保存しようという姿勢を感じました。
赤い壁が特に印象的でした。志摩 名所・史跡
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イチオシ
次に向かい側にある懐華楼も見学。
こちらは舞妓さんの説明があって、お茶屋遊びの粋を知ることができました。
その後、しばらく母の買い物に付き合いました。 -
主計町茶屋街を少し除いた後、タクシーを拾って金沢城の方へ向かいます。
運転手の方は、今後100年かけて金沢城を復元するという話を教えてくれました。
母が、行き先に成巽閣を指定すると、もう閉館の時間かも知れないと言われてしまいました。
やはり買い物に時間をかけ過ぎたようです。 -
せっかく来たのだから外観だけでもと思って進むと、職員の方が親切にも見学を許可してくれたのでした。
あまり時間はありませんが、謁見の間や群青の間など見て回ることができました。
成巽閣は、前田家13代齊泰公が母堂のために造営した奥方御殿で、国の重要文化財に指定されています。成巽閣(歴史的建造物) 名所・史跡
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成巽閣の見学を終え、兼六園の方向へ向かうと、金沢神社が見えたので参拝。
11代藩主前田治脩公が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公をお祀りしたのが始まりです。
12代斉広公、13代斉泰公も合祀されています。 -
兼六園へは今回は入らず、金沢城の石垣を眺めながら、尾山神社へ向かいました。
ここへ来るのも自分は2回目。
尾山神社のシンボルである神門のステンドグラスが、西に沈もうとしている夕日を受けて鮮やかに光を拡散させています。
このお宮は西向きに建てられているということを、2回目の参拝で気づいたのでした。尾山神社 寺・神社・教会
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主祭神は前田利家公ですが、2代目利長公による御創建当時は、幕府を憚って八幡神を中心にお祀りしていました。
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前田利家公は豊太閤亡き後、徳川家康公と互角に対峙できる実力を持った数少ない大名の一人で、関ヶ原の戦いを前にして没しますが、徳川幕府は加賀藩を常に警戒しなければなりませんでした。
有名な神門、は明治8年にオランダ人ホルトマンの設計により建てられましたが、まるで教会のようなデザインは、利長公がキリシタンに対して好意的であった史実が関連しているのでしょうか。 -
この日はこれで見学を終わりにし、近江町市場へ夕食をとりに行きました。
旅行雑誌で選んだ店は、期待通りとまでは言えませんでしたが、治部煮を食べるという念願は果たすことができました。 -
翌日は自家用車での旅の利点を活かし、能登半島を楽しむことにしていました。
ホテルを早めに出て、能登有料道路で輪島を目指します。
地図で見るとあまり広い感じがしない能登半島ですが、実際に移動してみるとかなりの距離を移動しなければなりません。
能登道から見える日本海はきれいですが、やがて山道に入り、1車線の道路に多少不便を感じながらも、輪島に入ることができました。
輪島と言えば、輪島塗。
時間はちょうど9時をまわり、当初の予定には入っていなかった石川県輪島漆芸美術館の開館時間に当たっているので、見学することにしました。
こういう所で展示されている美術品を見ていつも感じるのは、せっかくの一級品も陳列棚に並べられて可哀そうだということです。
名器は、使われてこそ輝く物です。石川県輪島漆芸美術館 美術館・博物館
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見学を終え、次は重蔵神社を参拝。
御祭神は天冬衣命という聞きなれない神様で、同じく御祭神の大国主命の父神とされます。
崇神天皇の時代に、四道将軍のひとり大彦命から神田を寄進されたという由緒ある神社です。重蔵神社 寺・神社・教会
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この日はキリコの準備で多くの人や機材が入っていました。
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そう、輪島と言えば切子燈籠、略してキリコ祭りが有名です。
その雰囲気を一年中味わえる施設としてキリコ会館が開設されており、これも予定には入れていなかったのですが、漆芸美術館の受付の方の薦めで行ってみることにしました。 -
キリコの予備知識はなかったのですが、ここには実際に祭礼で練り歩くキリコが展示されており、解説も詳しく、100点満点以上の満足感を味わうことができました。
驚いたというか、当然というべきか、キリコの最上部には榊と神籬が立てられていることに感激しました。
見た目や人集めだけを目的とする現代的なマツリとは、その精神性の深さに雲泥の差があります。輪島キリコ会館 美術館・博物館
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キリコ会館には、他にも能登の伝統を伝えるたくさんの展示があり、ここを見るだけでも能登の魅力は十二分に伝わって来ます。
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イチオシ
次に能登半島で一番の景勝の地、千枚田を訪れました。
田の枚数は1004枚あるとのことで、名前は決して大げさなものではありません。
車道の下側の景色が美しいため気づきにくいのですが、実は上側にも棚田は広がっています。
早くも昼食時。
道の駅・千枚田に車を停め、昼食をと思ったのですが、腹の満たされそうなものは何も置いていません。
そこで売店の女性に尋ねてみると、能登丼を食べられる食堂が網羅されたパンフレットを渡してくれました。白米千枚田 自然・景勝地
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パンフレットを見ながら家族と相談し、決めた行き先は大衆割烹滝見亭。
千枚田から車で7分ほどの所でした。
メニューは豊富ですが、せっかく能登に来たのに能登丼を食べない手はありません。
若い女の子の接客は今一つでしたが、能登丼は食べてよかったと思える逸品でした。
能登丼と呼ぶ料理には厳しい規定があり、能登産のコシヒカリや魚介類を使用していることの他、食器まで能登産というこだわりです。
また、これも能登産の箸は持ち帰りができるとのことですが、滝見亭の能登丼にも持ち帰り用の箸がついて来ました。割烹 滝見亭 グルメ・レストラン
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イチオシ
腹も満ちたところで、曽々木海岸の景勝地、窓岩で一休みします。
そそり立つ岩の真ん中にぽかりと開いた穴が、なんとも不思議な眺めでした。
遠くから見ると小さな穴ですが、実際は直径2メートルほどあるようです。 -
次に能登安徳合祀時國家に向かいました。
壇ノ浦の戦いに敗れて能登に配流となった平大納言時忠の子の時国は、平家であることを捨てて時国家を興し、この地で農耕を営んで近隣の村々を治めました。
慶長11年、それまで加賀藩領であった時国村の一部が越中土方領となり、13代当主時保は時国家を2つに分立させて、それぞれにつかせたのでした。
時保が居住したのがこの家で、近くを流れる川の下流側にあることから、下時国家とも呼ばれています。時國家 名所・史跡
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その邸宅は茅葺き入母屋造りで、大黒柱や梁などに相当な太さの木材が用いられており、天井がないために木の組み合わせを見ることができます。
年貢の検分を行った広い土間や、当主の安全を確保する寝室などの他、米などを隠した屋根裏の「かくし倉」など、当時の生活をしのばせる豪華な邸宅です。
暑い中、職員の女性の方が丁寧に解説してくれました。 -
邸宅の裏には、安徳天皇をお祀りするお社が鎮座しています。
安徳天皇の母堂は平清盛の娘の建礼門院で、平家の血を受けた安徳帝は平家団結の象徴でした。
壇ノ浦の戦いで、二位の尼に抱かれて入水され、8歳にしてその生涯を終えられたのです。
昭和60年、壇ノ浦の戦い後800年を機に、安徳天皇の御霊をお祀りする山口県の赤間神宮から分祀し、以後時国家の当主が捧持しているとのことです。 -
次に、川の上流側にあるという上時国家へ向かいます。
車ですぐ、歩いても行ける距離の所にあります。
こちらは敷地に入る前から、地上18メートルの茅葺屋根が迫って来るように見えていました。 -
21代当主の時輝の頃に建てられた邸宅です。
見どころは、大納言の格式を表す縁金折上挌天井。
時の加賀藩主が訪れた際も、自ら中納言であることを慮って、天井に紙を張って入室したそうです。
造りは下時国家より立派ですが、見学客を案内して解説してくれるようなサービスはなく、部屋ごとに設置された録音テープをどこかで操作してこちらの動きに合わせて流してくれるのが、少々薄気味悪く感じられました。上時国家 名所・史跡
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ここまで時間を気にしながら見学の連続で、お土産を買うことなどすっかり忘れていました。
そこで新しく整備された道路を通って能登空港に寄り、お土産を購入。
再び能登道に乗って、羽咋まで向かいました。
能登半島で最後に向かったのは、羽咋に鎮座する能登国一之宮の気多大社です。 -
御祭神は大国主神と事代主神。
いわゆる大黒様とえびす様です。 -
その歴史は古く、越中守であった大伴家持が参拝の際に詠んだ和歌「気太神宮」が万葉集に残されています。
気多大社 寺・神社・教会
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国文学と民俗学の大家、折口信夫が養子とした藤井春洋の生家が近くにあり、その縁から境内には父子の歌碑が建てられています。
春洋は大東亜戦争の末期に硫黄島周辺で散華し、その将来を期待していた折口信夫は悲しみのために体調を崩し、回復しないままこの世を去ってしまいます。
気多大社からほど近い、潮騒の聞こえる砂丘の松林に、父子の墓はあるのだそうです。 -
気多大社の特色は、後背地に広がる国内最大級の平地の原生林で、国の天然記念物にも指定されています。
ここは「いらずの森」と呼ばれ、一般の人はもちろん、宮司でさえ年に1度の大みそかの神事の時だけ入ることが許されます。
社殿の右側に、きっとその神事の時にくぐると思われる鳥居があり、その奥は人を寄せ付けない厳しい気に満ちているようでした。
昭和天皇は行幸に際し、
斧入らぬみやしろの森めずらかに
からたちばなの生ふるをみたり
との御製を神社に賜っています。
気多大社への参拝も終わり、すぐ隣にある大社焼窯元を訪れました。
野苺などの葉をそのまま焼きつけた「真葉手」の珍しいデザインが特徴で、母も気に入って何枚も皿を買っていました。 -
能登半島を横断するように氷見に抜け、そのまま富山県に入りました。
この日最後に向かったのは、越中国一之宮の気多神社。
越中には、なんと4社も一之宮があり、それぞれが由緒ある神社です。
日暮れも近く、これから宿泊地の新潟市までまだかなり距離が残っているため、高速道路に乗る前に一カ所だけ選んだのがここでした。氣多神社 寺・神社・教会
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能登が越中の一部であった時代、越中国の一之宮は気多大社でしたが、再び能登が分離した際、国府近くにあった遙拝所が現在の気多神社になったのではないかという説が有力です。
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境内には国府跡や、越中国司であった大伴家持を祀る大伴神社があります。
ここ高岡市には、大伴家持の関連史跡が残されているようですが、今回は気多神社の参拝だけで終わってしまいました。
他の一之宮の参拝もあることだし、いずれ再び訪れたい場所です。
幌馬車という喫茶店で軽く食事をとり、新潟に向けて出発。
新潟市内のホテルに着いたのは、夜9時過ぎでした。 -
翌朝、食事をしてすぐ一人でホテルを出て、新潟白山神社に参拝しました。
新潟白山神社は、白山比神社と同じ3神をお祀りしています。
残念ながら二度の火災によって古文書が失われてしまったため、その御創建の詳しい年代は不明ですが、今から千年近く前であることは確かなようです。
参拝しながら、ここは以前に来たことがあることに気づきました。
何年か前になりますが、あるイベントに参加するために、知人たちと深夜に地元を出発し、夜明け前に新潟に付いたのです。
イベントが終わり、地元に帰る前に寄って、一休みした場所です。
懐かしいなあと思いながら、その時にはゆっくり見て回ることができなかった本殿裏の摂社・末社や、白山公園の中も散歩してみました。 -
白山公園は、明治時代に初めて整備された都市公園のひとつです。
白山神社の境内を出て少し歩くと、小高い丘の上に銅像が見えました。
近づいて見ると、白山公園創設者の楠木正隆氏の像でした。
肥前大村藩に生まれた楠木正隆氏は、明治5年に新潟県令となり、この白山公園を創設した他、道路や橋などの整備や学校・病院等の開設を行い、その後は東京府知事などを歴任した人物です。
その名前から、楠木正成公の子孫かと思いましたが、血のつながりはないようです。白山公園 公園・植物園
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はす池には大きな蓮の花が開いており、ベンチに座り、時間の経過も忘れて見入っている人の姿もありました。
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次に新潟縣護國神社に参拝。
駐車場が見つからず、仕方なく歩道に車を停めました。
境内はとても広く、どこに社務所があるのか分かりませんでした。
何やら洋風の建物もありますが、それが社務所とは思えません。
後で調べると、それは結婚式場でした。
神社には、新潟県関係の英霊や戦没者が祀られています。
帰り道は海に沿った道路で、神社は日本海のすぐ近くに鎮座していることが分かり、新潟出身の英霊もきっと安らげる場所なのだと思いました。
ホテルに戻ると、ちょうど家族もチェックアウトを終わらせたところでした。
日本海沿岸道を村上市の手前に当たる荒川胎内まで進み、小国峠を越えて南陽に出て、山形道・東北道を通って昼過ぎに帰宅。
夕方からの仕事にも間に合い、旅の身から日常の身へと素早く変身させるのでした。新潟縣護國神社 寺・神社・教会
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