2010/09/23 - 2010/09/24
525位(同エリア788件中)
倫清堂さん
何か月も前から調整して、4日半の連休を取ることができ、少しぜいたくな旅行を計画しました。
しかし、その旅行の計画は、名古屋へ向かう飛行機が2時間以上も遅れて出発したため、修正を余儀なくされました。
飛行機のトラブルにめぐり合うほど、旅行の回数が増えたということでしょうか。
午前中に予定していた豊川稲荷や砥鹿神社への参拝をあきらめ、午後の予定地である岡崎を目指しました。
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イチオシ
セントレア空港からレンタカーを借りて高速道路に乗り、ナビシステムを頼りに車を走らせます。
地元とくらべると、高速道路の上でも通行している車はのんびりしている感じがして、自分の運転だけが妙にセカセカしているように思えてしまいました。
低気圧の影響で天気は降ったり曇ったり。
岡崎城がある岡崎公園に着いた時には、雨は上がっていたので、傘を持たずに公園の散策に出ました。 -
まず向かったのは龍城神社。
徳川家康公・本多忠勝朝臣・天神地祇・護国英霊をお祀りしています。龍城神社 寺・神社・教会
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岡崎城は、後に徳川幕府を開く徳川家康公が誕生した場所です。
城は最初、三河国仁木氏の守護代であった西郷頼嗣によって現在の明大寺の地に築かれ、家康公の祖父にあたる清康公が、当時の城主であった松平信貞から奪って、これを本拠地としました。
現在の岡崎城は、その後清康公によって移築されたもので、明治の廃城令によって一度は取り壊されますが、昭和34年に天守閣が復元されました。
天守閣の内部に入り、歴代城主を紹介する展示などを見学しますが、これからの移動距離を考えると、あまりのんびり見ることもできません。岡崎城 名所・史跡
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城を出ると雨が降っていました。
傘を車に置き忘れたことを後悔しましたが、受付で貸出をしていることを知り、ありがたく拝借しました。
この傘は、公園内にある三河武士のやかた家康館の他、駐車場でも返却が可能で、利用者にやさしいサービスに感心しました。
借りた傘をさして周辺を歩きます。
家康公の胞衣が埋められている胞衣塚、産湯に使用したとされる東照公産湯の井戸を見て、三河武士のやかた家康館に入りました。 -
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家康館の側には、滝も配置された立派な庭園がありますが、そこに三方ヶ原の戦いに敗れた時の家康公をモデルにした像が置かれています。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、人質としての生活には終止符が打たれ、岡崎の人々や臥薪嘗胆の思いでいた家臣たちに迎えられた家康公ですが、旧今川領へ進出しようとする武田信玄とぶつかったのが、三方ヶ原の戦いでした。
最強と言われる武田騎馬軍団に、兵力でも劣る三河衆は惨敗し、命からがら城へ逃げ戻った家康公は、馬上で脱糞していたことさえ気づいていなかったとの伝説が残っています。
しかし、敗戦が確実であっても武田勢と戦ったことは、家康公の生涯に多大な経験と家臣との一体感を生んだのでした。 -
家康館展示室では、『三河物語』の作者である大久保彦左衛門を案内役に、松平8代から、家康公が天下を取るまでの道のりを紹介しています。
三河武士のやかた家康館 美術館・博物館
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また、今回は特別展示として、本多忠勝没後四百年記念・本多家の遺宝が行われており、鹿角の兜で有名な本多忠勝所用の黒糸威胴丸具足を見ることができました。
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見学を終えて外へ出ると、雨はまだ降っていましたが、家康公銅像や復元された大手門などを見て、岡崎公園をあとにしました。
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次に向かったのは、岡崎城より少し南側に鎮座している六所神社。
松平家初代親氏公が、奥州一之宮の塩竈神社から勧請した、松平家の総氏神です。
ご祭神は塩土老翁命など計16柱。
親氏公は、新田氏の一族である世良田氏の流れで、諸国をめぐりながら商品を売り歩いていました。
松平郷に立ち寄った際、連歌を張行する松平信重に執筆役を依頼され、その筆跡がすばらしかったことから、娘婿となって松平家を継いだのでした。 -
階段の上にある楼門と、その奥に鎮座する極彩色の社殿の配置は、塩竈神社と全く同じでした。
六所神社 寺・神社・教会
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境内には、塩竈神社から送られたと思われる塩竈桜も植えてありました。
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イチオシ
次に向かったのは伊賀八幡宮。
松平家4代親忠公によって文明2年に創建されました。
松平家の惣領は兄の親長が継いでいましたが、親長の系統は天文年間に絶えてしまい、実質的に親忠の系統が総領家の立場となったことから、4代とされています。
事実、親忠公は戦にも強く、その時代に松平家の勢力は大きく広がったのでした。
伊賀八幡宮の特徴は、一面に蓮が茂り、石橋のかかる神池と、その奥にそびえる随神門です。 -
3代将軍家光公の時、家康公の遺言のとおりに東照大権現が合祀されました。
伊賀八幡宮 寺・神社・教会
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同じく親忠公によって創建されたのが、松平家の菩提寺である大樹寺です。
六所神社・岡崎城・伊賀八幡宮・大樹寺と、松平氏ゆかりの場所はほとんど一直線上に並んでいるため、観光ルートとしては特におすすめです。大樹寺 名所・史跡
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大樹寺は、応仁元年に起きた井田野合戦の戦没者を供養するために、文明7年に開創されました。
本来、松平宗家の菩提寺は妙心寺で、大樹寺は安城松平家だけの菩提寺でしたが、親忠家が勢力を伸ばして実質的な惣領となったため、松平家の菩提寺ということになります。 -
墓地の最奥には、松平家代々の墓がありました。
向かって右から、初代親氏公・2代恭親公・3代信光公・4代親忠公・5代長忠公・6代信忠公・7代清康公・8代広忠公、そして立派な石塔が立っている徳川家康公の順です。 -
境内には、国の重要文化財に指定される多宝塔があります。
これは家康公の祖父にあたる清康公が建立したものです。
清康公は西三河ばかりでなく尾張まで勢力を伸ばした、松平家きっての英傑ですが、天文4年に守山城に着陣した際、謀反を疑われていた老臣の阿部大蔵の息子が、父が斬られたことと勘違いして乱心し、清康公を刺し殺してしまったのでした。
もし25歳という若さで命を落としていなければ、天下人ともなれる素質を持った人でした。
ここまで大急ぎで走り回ったため、食事もとっていませんでした。
大樹寺の駐車場にちいさな茶屋があったので、そこで一服。 -
大樹寺を出て、車は山間部へと向かいます。
新しい道路が完成していたため、少し道に迷ってしまいましたが、次の目的地の滝山東照宮の駐車場に到着。
どこに社殿があるのかが分からず、車道を歩いてしまったりしましたが、目立たないところにある階段から進むと、趣のある御堂が見えてきました。
ここが滝山寺で、保安年間に役小角によって草創されたと伝えられています。
隣接する滝山東照宮に参拝。
3代将軍家光公による創建で、日光・久能山と合わせて三大東照宮とされます。 -
神君出生の地にも東照宮を勧請したいという家光公の思いと、生前の家康公がよく訪れていた滝山寺境内を選んだ酒井忠勝公・松平正綱公らの思いが込められた神社です。
滝山東照宮 寺・神社・教会
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さらに車は山奥へ進み、この日最後の目的地である松平郷に到着しました。
初代親氏公が婿入りする以前から、松平家はこの地に土着して来ました。
その血統をさかのぼると、神話に登場する八咫烏を祖先とする賀茂氏が現れます。
松平家・徳川家の家紋の三葉葵は、もともと賀茂神社の社紋から来ています。
武家としての新田氏と、祭祀を行う賀茂氏とが一つになった舞台が、ここ松平郷なのです。 -
まずは高月院へと向かいました。
寛立上人が親氏公の義父である松平信重の援護を受けて建立し、後に親氏公は本尊や堂塔を寄進しました。
このように寺院へ寄進する人は有徳人と呼ばれ、所領の請負代官に就任したり、社会的に信頼を集めたりしていました。
家康公の天下統一事業は、実はこの何代も前の祖先から続く徳の積み重ねによって、完成したのかも知れません。高月院 寺・神社・教会
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最後に松平東照宮に参拝。
松平東照宮は、親氏公が居館を置いたとされる場所に鎮座しています。
はじめ、八幡神を勧請して若宮八幡宮としてお祀りしていましたが、元和5年に久能山東照宮から徳川家康公の御分霊を勧請して東照宮を名乗りました。 -
岡崎城で家康公が誕生した際には、松平郷松平家当主の親長公が、ここの井戸の水を竹筒に詰めて早馬で運び、産湯に用いられたと伝えられています。
それ以来、将軍交代の際には諸国巡検使の巡検地とされました。
社務所の壁に、気になる額が飾ってありました。
神主さんの尋ねたところ、その内容は松平初代親氏公の願文で、書いたのは前の宮司さんとのことでした。
天下和順 日月清明
風雨以時 災癘不起
国豊民安 兵戈無用
崇徳興仁 務修禮穣
こうして1日目の旅は終わり、宿泊地の名古屋へ向かいました。松平東照宮 寺・神社・教会
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名古屋の知人と会い、料理とお酒をたくさんご馳走になりましたが、がんばって早起きしました。
降ってはいないものの、すっきりしない天気です。
桑名駅まで関西本線に乗り、駅前で新たにレンタカーを借ります。
県をまたいでの乗り捨ては余計な料金が発生するので、この日は三重県内で借りて乗り捨てできるルートを選びました。
まずは桑名城に向かいます。
城郭は残されていませんが、桑名城址九華公園として整備されています。
駐車場の入り口には、本多忠勝公の像があり、こちらをぐっと睨んで座っています。
本多忠勝公の像は岡崎城にもありましたが、桑名の方が大きく、槍を立てた姿も勇壮に見えます。
本多忠勝公は徳川四天王と称され、家康公による天下統一後は桑名藩に封じられ、桑名城の築城を行いました。
忠勝公は特に槍術に秀で、ひとたび槍を振れば、飛ぶ蜻蛉も切り落とすとの定評があったため、その槍は「蜻蛉切り」と名付けられました。
13歳の初陣から、出陣した合戦は全部で57回にも上り、一度として傷を負ったことがなかったそうです。桑名城跡 九華公園 公園・植物園
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桑名城の本丸であった場所に、今は九華明神鎭國守國神社が鎮座しています。
御祭神の鎭國大明神は、従三位松平越中守定綱公のことで、松平定信公が祖神として白河城内にお祀りしたのが始まりです。
本多家は2代目城主忠政公の時に姫路藩に移封となり、代わって久松氏が入封しました。
5代藩主松平定綱公は一家を創立しますが、7代藩主定重公の時に越中高田に、定賢公の時に白河に移封となり、定永公の時に15代藩主として復封となります。
文政6年の復封に際して白河から遷祀され、天保5年に、守國大明神正三位松平越中守定信公を合祀したのでした。 -
イチオシ
少し歩いた所には、東海道五十三次で唯一の海路である七里の渡しの渡船場跡があります。
海路の距離が7里あることから、そう呼ばれて来ました。
ここに立つ鳥居は伊勢神宮の参拝路への入り口として鳥居で、神宮の宇治橋の外側に立つ鳥居を移したものです。
宇治橋の鳥居の前は、外宮御正殿の棟持柱として利用されるので、ここで次の遷宮までの20年間を合わせると、合計で60年間も活躍する御用材なのです。
ちなみに内宮御正殿の棟持柱は、宇治橋の内側の鳥居としての役目を終えると、関の追分けで鳥居として用いられます。
関宿の近くを通る予定ですが、鳥居を見るための時間はないのが残念です。七里の渡跡 名所・史跡
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次に向かったのは多度大社。
車道に立っている大鳥居が印象的でした。
駐車場に車を停めて御神域に向かうと、そのただならぬ雰囲気に気持ちが高ぶって来ました。
古くは多度山を神体山として仰いでいたものを、雄略天皇の御代に初めて社殿が建てられたとのことです。
流行りのパワースポットと同列に扱うのが愚かに感じられるほどの気の勢いがあり、まるで伊勢神宮に参拝した時と同じような感覚でした。 -
参道左手には、要塞のような重層建築物が建っており、何のための建物なのか分かりませんでした。
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しかし、神馬舎近くの案内板を見て、ここは上げ馬神事の舞台であとなることを思い出し、建物は観客席であることに気付きました。
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毎年5月に行われる多度祭では、おみくじによって選ばれた6名の騎手が、心身潔斎に努めて乗馬の練習を行い、祭りの当日は人馬一体となって2メートル余りの絶壁を駆け上がるのです。
最近は価値観の違う人たちが、動物虐待ではないかと言って中止を求めたりするそうですが、神の遣いとしての馬と、長年培われてきた伝統を最も大事にしているのが、神社とそれを中心とする信心深い人々なのです。
多度祭は、織田信長公の兵火による神社の荒廃で一時期中断を余儀なくされましたが、再興を成し遂げたのは初代藩主の本多忠勝公だったのでした。 -
多度大社の参道は奥へ奥へと続き、その途中には数多くの摂社末社が置かれています。
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イチオシ
そして最も奥、滝の流れるすぐ側に本宮と別宮が鎮座しています。
本宮は多度神社で、御祭神は天津彦根命。
別宮は一目連神社で、御祭神は天目一箇命。
天津彦根命は天照大御神の第三皇子であるご縁から、「お伊勢まいらばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」と謡われています。
北伊勢地方を治めていた豪族の祖先神ですが、記紀神話には極めて記述が少ない謎の神様です。
天目一箇命は天津彦根命の子で、天照大御神が天岩戸に隠れてしまった際、刀斧・鉄鐸を造った鍛冶の神様です。
鍛冶という職業は片目を失明することが多いことから、このように名付けられたのでしょう。
立ち去り難い気持ちを抑え、多度大社をあとにしました。多度大社(北伊勢大神宮) 寺・神社・教会
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多度大社から車で10分ほどの所にも、神話に関係の深い場所があります。
日本武尊が蝦夷征伐に向かう際、神剣を置き忘れた尾津前(日本書紀では尾津浜)の地と伝えられる日本武尊尾津前御遺跡です。
民家もまばらな田園地帯の真ん中に、こんもりした杜があるのがそれで、鳥居があるのですぐに分かりました。
車がやっと通れる細い道しかないので、少し離れた所に路上駐車し、鳥居をくぐって石段を登ります。 -
あまり高くない丘の頂上には、さびれた社殿が鎮座していました。
神社の名前は小津神社で、日本武尊が神剣を立てかけたという松の根元が大切に保存されています。
東国を平定して帰還した際、剣が同じように置かれていたことに感激し、「尾張に ただに向へる 一つ松 あはれ一つ松 人にありせば 衣着せましを 太刀佩けましを」と詠んで讃えたそうです。 -
次に桑名東インターから高速道路に乗り、鈴鹿へと向かいます。
鈴鹿は古代から交通の要衝でしたが、東国で乱が起きても畿内を守れるよう、鈴鹿関が置かれていました。
そのような理由からか、道案内の神である猿田彦大神をお祀りする椿大神社が鎮座しており、伊勢国一之宮に列せられています。
春先の伊勢参宮の時には、時間の制限もあって、ここまで足を延ばすことはできませんでした。
境内に入ると、うっそうと茂る杜の中に長い参道が続いており、広い敷地にはたくさんの社殿が建てられています。 -
まず目に入ったのは、御船磐座でした。
天孫瓊々杵尊と配下の一行が高天原から降臨した際、ここに御船が繋がれて、猿田彦大神によって九州へ先導されたと伝えられています。
その容姿は、鼻長七咫・背長七尺、口は明るく、目は八咫鏡のような様子でホオズキの色に輝いていたと記されています。 -
神話には記述はありませんが、猿田彦大神は天之宇受女命と結婚したと伝承されています。
その天之宇受女命をお祀りするのが、別宮の椿岸神社です。
瓊々杵尊は無事に葦原中国に降り立つと、天之宇受女命に、猿田彦大神を送り届けたのだからその神の名を姓とするよう命じ、猿女君の姓を賜ったのでした。
その後、猿田彦は五十鈴川上にある故郷へ帰ったとされています。
境内には、猿田彦大神の墓と伝えられる前方後円墳があります。 -
イチオシ
椿大神社の歴史は、入道ヶ獄と椿ヶ獄を天然の社とする神代からの祭祀が始まりで、垂仁天皇の御代に、倭姫命の御託宣によって社殿を創設することになったのでした。
御祭神の猿田彦大神は、降臨しようとする瓊々杵尊を天の八衢で迎えた道別(ちわき)の神であることから、もともと道別大神の社と呼ばれていましたが、仁徳天皇の夢に「椿」の字が現れたため、社名を改めたと伝えられています。
アメリカ合衆国ワシントン州グラナイトフォールズ市には、分社が鎮座しています。椿大神社 寺・神社・教会
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参拝を終え、結婚式場もある参集殿、椿会館に立ち寄って、食事をすることにしました。
ここの一番のおすすめは、鶏肉を炊き込んだ特製とりめし。
平日のためか、他に客の姿はなく、注文してすぐに出て来たのが、急ぎ足の旅人には大変ありがたいことでした。
味も満足できるものでした。 -
事故発生率が高いという名阪国道を緊張しながら走り、伊賀に入りました。
まずは伊賀国一之宮の敢國神社に参拝です。
駐車場には、バイクで訪れた一人の参拝者の姿だけがありました。
車を降りて参道を歩き始めると、雨が降り出し、一気にその勢いは強くなりました。
車まで傘を取りに戻るにしても距離が中途半端だし、悩みながら進みますが、雨はますます強くなってしまいました。 -
石段を登って参拝。
敢国神社の御祭神、大彦命は第8代孝元天皇の皇子で、第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として北陸を平定しました。
大彦命は稲荷山古墳から出土した鉄剣に名前が確認されてから、実在の人物と認められるようになりましたが、それよりもずっと以前から、伊賀の開拓を行った守り神として、また陰陽師でも有名な安倍氏の祖先として、信仰されて来ていたのです。
今回は行くことができませんでしたが、近くには大彦命の墓と伝えられる御墓山古墳があります。敢國神社 寺・神社・教会
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ずぶ濡れになって車に戻り、次の目的地である伊賀上野に向かいます。
伊賀上野城がある上野公園を目指し、有料駐車場に車を停めました。
かなり雨が強いため、上野天神社への参拝はあきらめ、代わりに屋内を見学できる芭蕉翁記念館に入りました。
ここ伊賀は俳聖松尾芭蕉の故郷でもあります。
展示品はそれほど多くはありませんが、芭蕉を大事にする地元の人々の思いが満ちているのが感じられました。 -
少し歩くと、伊賀流忍者博物館が見えて来ます。
せっかくなので入館し、まずは伊賀市高山から移築された民家を見学。伊賀流忍者博物館 美術館・博物館
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どんでん返しや刀隠しなどを、忍者の服を着た職員が実演して見せてくれます。
ただ残念なことに、これらのからくりは伝承をもとに復原されたものだということです。
地下を通って忍者伝承館へ向かうと、実際に忍者が身に着けていた服や、武器などが展示されています。 -
雨の中、どうしても見ておきたい施設へと歩きました。
伊賀焼、等身大の芭蕉坐像が安置されている俳聖殿です。
昭和17年、松尾芭蕉生誕300周年を記念して建てられ、芭蕉さんの命日に当たる10月12日には、毎年芭蕉祭が行われています。
建物の内外を掃除している人たちがいたので、芭蕉さんの像を見ることができるかと思いましたが、やはり中は暗く無理でした。俳聖殿 名所・史跡
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すぐ近くには上野城があります。
織田信雄公の家臣、滝川雄利によって築かれ、慶長16年に藤堂高虎が家康公の命によって拡張されますが、豊臣家が滅んだために不要となり、改修は中止されました。 -
イチオシ
明治維新後、廃城令によって取り壊されますが、昭和10年に衆議院議員の川崎克氏の私財によって、木造瓦葺の模擬天守が築かれたのでした。
藤堂高虎公は、次々と主君を変えた世渡り上手として知られ、最後に天下を握った家康公の信任も非常に厚いもので、江戸城の改築も任されたのでした。伊賀上野城 名所・史跡
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さきほど芭蕉翁記念館で、芭蕉翁生家は歩いてすぐの所にあると教えられていたので、まだ雨は降り続いていますが、そこへ向かうことにしました。
しかし実際に歩いてみると、かなりの距離がありました。
さすが、伊賀忍者の末裔たちは健脚なのだと感心しました。
松尾芭蕉が幕府の隠密であってという説は有名です。
代表作『おくのほそ道』が書かれたのは、実は仙台藩の情報を探る任務のためだったとされ、一日に400キロも移動したという逸話もあります。芭蕉翁生家 名所・史跡
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どこで果てるか分からない旅を続ける芭蕉さんは、故郷の家に帰ったときの感慨もひとしおだったようです。
生家の前には、句碑が立てられていました。
古里や臍のをに泣としのくれ
年の瀬に故郷に戻り、大事に保管されていた自分のへその緒を見て、亡き父母をなつかしく思った、そのような人間松尾芭蕉の思いも、古くなった壁や柱にしみついているような気がします。
見学を終え、上野公園の駐車場に戻りましたが、雨は一向にやむ気配がないため、予定を切り上げて京都の宿泊場所に向かうことにしました。
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