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以前からの願いであった、両親を連れての日光旅行が、ようやく実現することとなりました。

日光へ 泰平の基を築き神となった将軍

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2010/05/02 - 2010/05/03

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倫清堂

倫清堂さん

以前からの願いであった、両親を連れての日光旅行が、ようやく実現することとなりました。

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  • 朝6時半に自宅を出発。 <br /><br />自家用車で東北道・日光宇都宮道路を通り、途中ほとんど休憩もなしにまずは早く東照宮へ到着することを目標にしました。 <br /><br />そんな苦労をして辿り着いても、既に周辺の車道は渋滞していて、駐車場に向かう列は全く前進しません。 <br /><br />車で待っている時間がもったいないと3人が同意したため、日光駅の方へ引き返し、途中の有料駐車場を探しました。 <br /><br />何気なく入った裏道に公園があったので、その駐車場に車を停めました。 <br /><br />東照宮までは徒歩15分くらいの場所でしょうか。 <br /><br />参道に並ぶ土産物屋を眺めながら、東照宮へ向けて歩きました。 <br /><br />日光橋の手前に、天海上人の像を発見。 <br /><br />徳川家康公に仕え、その死後は東照宮の宗教面の設計者となった人物です。 <br /><br />徳川幕府による天下太平の実現は、この方の支えがあったからこそのもので、東照宮と隣接する慈眼堂には墓所もあります。 <br /><br />その墓参りは、自分にとって今回の日光旅行のひそかな目的の一つでもあります。

    朝6時半に自宅を出発。

    自家用車で東北道・日光宇都宮道路を通り、途中ほとんど休憩もなしにまずは早く東照宮へ到着することを目標にしました。

    そんな苦労をして辿り着いても、既に周辺の車道は渋滞していて、駐車場に向かう列は全く前進しません。

    車で待っている時間がもったいないと3人が同意したため、日光駅の方へ引き返し、途中の有料駐車場を探しました。

    何気なく入った裏道に公園があったので、その駐車場に車を停めました。

    東照宮までは徒歩15分くらいの場所でしょうか。

    参道に並ぶ土産物屋を眺めながら、東照宮へ向けて歩きました。

    日光橋の手前に、天海上人の像を発見。

    徳川家康公に仕え、その死後は東照宮の宗教面の設計者となった人物です。

    徳川幕府による天下太平の実現は、この方の支えがあったからこそのもので、東照宮と隣接する慈眼堂には墓所もあります。

    その墓参りは、自分にとって今回の日光旅行のひそかな目的の一つでもあります。

  • 大谷川を渡って境内に入るには、現在は車も通行できる日光橋を通る必要がありますが、それと並んで朱塗りの神橋がかけられています。 <br /><br />二荒山を開くために訪れた勝道上人の行く手を阻んでいたのが、この大谷川の絶壁でした。 <br /><br />そこで神仏の加護を一心に祈ったところ、深沙王が現れて2匹の蛇を放ち、その蛇の背中から山菅は生えて橋となったのでした。 <br /><br />それが神橋の由来です。

    大谷川を渡って境内に入るには、現在は車も通行できる日光橋を通る必要がありますが、それと並んで朱塗りの神橋がかけられています。

    二荒山を開くために訪れた勝道上人の行く手を阻んでいたのが、この大谷川の絶壁でした。

    そこで神仏の加護を一心に祈ったところ、深沙王が現れて2匹の蛇を放ち、その蛇の背中から山菅は生えて橋となったのでした。

    それが神橋の由来です。

  • 東照宮と一言で言っても、そこには様々な寺社があって、それぞれが役割を持って祭祀や儀式を行っています。 <br /><br />最初に向かったのが輪王寺。 <br /><br />その入り口には、勝道上人の像が立てられています。 <br /><br />勝道上人は天平神護2年、男体山登頂修行の霊場として四本龍寺と日光(二荒)権現を開きました。 <br /><br />その後一時衰退しますが、慶長18年に天海上人が日光山に徳川家康公を遷葬したことで、寺は「輪王寺宮」の勅号を受けることができたのでした。

    東照宮と一言で言っても、そこには様々な寺社があって、それぞれが役割を持って祭祀や儀式を行っています。

    最初に向かったのが輪王寺。

    その入り口には、勝道上人の像が立てられています。

    勝道上人は天平神護2年、男体山登頂修行の霊場として四本龍寺と日光(二荒)権現を開きました。

    その後一時衰退しますが、慶長18年に天海上人が日光山に徳川家康公を遷葬したことで、寺は「輪王寺宮」の勅号を受けることができたのでした。

  • ひときわ大きなお堂は三仏堂で、本尊の阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を安置しています。 <br /><br />日光霊場は、男体山を父に、女峰山を母に、太郎山を子に見立てた山岳信仰の場であり、阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音はそれぞれ女峰山・男体山・太郎山の本地仏とされます。 <br /><br />お堂は平安時代初期、慈覚大師が来山した際に仁明天皇の勅願によって創建されました。

    ひときわ大きなお堂は三仏堂で、本尊の阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を安置しています。

    日光霊場は、男体山を父に、女峰山を母に、太郎山を子に見立てた山岳信仰の場であり、阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音はそれぞれ女峰山・男体山・太郎山の本地仏とされます。

    お堂は平安時代初期、慈覚大師が来山した際に仁明天皇の勅願によって創建されました。

  • 日光山輪王寺三仏堂、その裏にある大護摩堂と相輪とうなどを見ながら進むと、東照宮の表参道に抜けることができます。

    日光山輪王寺三仏堂、その裏にある大護摩堂と相輪とうなどを見ながら進むと、東照宮の表参道に抜けることができます。

  • 日光東照宮の主祭神は江戸幕府を築いた初代将軍徳川家康公(東照大権現)。 <br /><br />また相殿には豊臣秀吉公と源頼朝卿をお祀りします。 <br /><br />豊臣秀吉公を祀る理由は、天下統一を果たした彼から天下を譲り受けたという意味で分かりやすいですが、源頼朝卿が祀られている理由はすぐには浮かばないと思います。

    日光東照宮の主祭神は江戸幕府を築いた初代将軍徳川家康公(東照大権現)。

    また相殿には豊臣秀吉公と源頼朝卿をお祀りします。

    豊臣秀吉公を祀る理由は、天下統一を果たした彼から天下を譲り受けたという意味で分かりやすいですが、源頼朝卿が祀られている理由はすぐには浮かばないと思います。

  • 実際に母から訊かれたので、家康公は源氏の末裔であることや、幕府を開く上で日本史上初の幕府を開いた頼朝卿の政治を手本としたことなどを説明しました。 <br /><br />家康という名は、八幡太郎として知られる源義家公と、祖父の松平清康公からそれぞれ1字ずつ受けた名なのです。

    実際に母から訊かれたので、家康公は源氏の末裔であることや、幕府を開く上で日本史上初の幕府を開いた頼朝卿の政治を手本としたことなどを説明しました。

    家康という名は、八幡太郎として知られる源義家公と、祖父の松平清康公からそれぞれ1字ずつ受けた名なのです。

  • 徳川家康公は岡崎松平家に生まれ、母との別離や織田・今川家での人質生活など、幼少時は逆境の中を生きて来ました。 <br /><br />しかし桶狭間の戦いで今川軍が潰走すると、機会を逃さずに故郷の岡崎城に入り、独立することができたのでした。 <br /><br />そして織田信長公と血縁関係となって同盟を結び、織田は西、松平は東へと、天下太平の志を果たすべく領地を拡大して行きます。 <br /><br />徳川という姓は、浜松を攻略した頃から名乗り始めたもので、平氏の流れである織田をはばかって敢えて源は名乗らず、松平家の祖の得川親氏公の後胤として「徳川」の姓に改めたのでした。 <br /><br />「得」ではなく「徳」の字を選んだのは、徳による天下太平の世を築くという志によるものであることは言うまでもありません。

    徳川家康公は岡崎松平家に生まれ、母との別離や織田・今川家での人質生活など、幼少時は逆境の中を生きて来ました。

    しかし桶狭間の戦いで今川軍が潰走すると、機会を逃さずに故郷の岡崎城に入り、独立することができたのでした。

    そして織田信長公と血縁関係となって同盟を結び、織田は西、松平は東へと、天下太平の志を果たすべく領地を拡大して行きます。

    徳川という姓は、浜松を攻略した頃から名乗り始めたもので、平氏の流れである織田をはばかって敢えて源は名乗らず、松平家の祖の得川親氏公の後胤として「徳川」の姓に改めたのでした。

    「得」ではなく「徳」の字を選んだのは、徳による天下太平の世を築くという志によるものであることは言うまでもありません。

  • 参道を進むと、東照宮で最もきらびやかな建物の一つである陽明門が見えて来ます。 <br /><br />その柱の一本だけが上下反対に立てられる「逆柱」であるのは有名ですが、随身像の一人が明智光秀に似ていることから、天海上人の正体を明智光秀とする説があることは、そこまで知られていません。 <br /><br />また、陽明門から唐門・拝殿・本殿へは正確に南北に並んでおり、夜空の北極星がその背に常にまたたくよう配置されています。

    参道を進むと、東照宮で最もきらびやかな建物の一つである陽明門が見えて来ます。

    その柱の一本だけが上下反対に立てられる「逆柱」であるのは有名ですが、随身像の一人が明智光秀に似ていることから、天海上人の正体を明智光秀とする説があることは、そこまで知られていません。

    また、陽明門から唐門・拝殿・本殿へは正確に南北に並んでおり、夜空の北極星がその背に常にまたたくよう配置されています。

    日光東照宮 寺・神社・教会

  • 三方ヶ原の戦いでの苦い敗戦、正室である築山御前の武田氏内通疑惑による長男信康の切腹、同盟相手の信長公が本能寺の変で討たれるなどの悲劇を乗り越え、優秀で忠義の篤い家臣に支えられながら、小牧・長湫の戦いで羽柴軍を破ったことで、秀吉公とも血縁関係となって勢力を伸ばします。 <br /><br />秀吉公による天下統一により、先祖伝来の岡崎から未開の地とも言える江戸に移封されますが、そのことにも耐え忍び、現在の1000万都市の土台を築いたのでした。 <br /><br />豊太閤が薨去し、関ヶ原・大阪両陣を経て、ついに天下太平を実現しました。 <br /><br />征夷大将軍の位は、その存命中に嫡男の秀忠公へと譲り、自らは大御所として太平の世の基を完全なものにするまで政務を握り、数奇な人生を閉じたのでした。 <br /><br />その遺体は久能山に葬られましたが、一周忌を経てこの日光へと遷葬されました。 <br /><br />これは、久能山の墓所と日光山の墓所を直線で結ぶとちょうど富士山を通ることから、御魂が「不死」となって日本を護り続けることを願う、家康公自身が遺言にしたためた計画でした。

    三方ヶ原の戦いでの苦い敗戦、正室である築山御前の武田氏内通疑惑による長男信康の切腹、同盟相手の信長公が本能寺の変で討たれるなどの悲劇を乗り越え、優秀で忠義の篤い家臣に支えられながら、小牧・長湫の戦いで羽柴軍を破ったことで、秀吉公とも血縁関係となって勢力を伸ばします。

    秀吉公による天下統一により、先祖伝来の岡崎から未開の地とも言える江戸に移封されますが、そのことにも耐え忍び、現在の1000万都市の土台を築いたのでした。

    豊太閤が薨去し、関ヶ原・大阪両陣を経て、ついに天下太平を実現しました。

    征夷大将軍の位は、その存命中に嫡男の秀忠公へと譲り、自らは大御所として太平の世の基を完全なものにするまで政務を握り、数奇な人生を閉じたのでした。

    その遺体は久能山に葬られましたが、一周忌を経てこの日光へと遷葬されました。

    これは、久能山の墓所と日光山の墓所を直線で結ぶとちょうど富士山を通ることから、御魂が「不死」となって日本を護り続けることを願う、家康公自身が遺言にしたためた計画でした。

  • 家康公の神柩を納める奥社宝塔は、本殿より少し西側の奥に位置しますが、奥社と本殿を結ぶ線を南東に延長すると、そのまま江戸城に至るという配置がなされています。

    家康公の神柩を納める奥社宝塔は、本殿より少し西側の奥に位置しますが、奥社と本殿を結ぶ線を南東に延長すると、そのまま江戸城に至るという配置がなされています。

  • 修復事業のため、唐門の彫刻などはほとんど見えませんでしたが、極彩色に塗りたての透塀などは間近で見ることができました。 <br /><br />特別拝観として、拝殿で参拝をすることができ、時代が時代なら100万石以上の大名しか座ることのできない場所まで進みました。 <br /><br />ここに座ることのかなわなかったご先祖の分まで祈りを捧げて来ました。 <br /><br />陽明門を出て右に向かうと、薬師堂があります。 <br /><br />薬師堂内陣の天井には雲なしの大蟠龍が描かれていますが、その頭部の下で拍手をすると、龍が鳴いているように聞こえる「鳴龍」として有名です。 <br /><br />和尚さんが説明をしてくれた後、拍子木を打ち鳴らすと、それはみごとに鈴の転がるような龍の鳴く声の響きとなったのでした。 <br /><br />父が、この薬師堂は一度焼けているはずだと言っていましたが、帰って調べると、確かに昭和36年に焼失していました。 <br /><br />現在の薬師堂は43年に復元された建物です。

    修復事業のため、唐門の彫刻などはほとんど見えませんでしたが、極彩色に塗りたての透塀などは間近で見ることができました。

    特別拝観として、拝殿で参拝をすることができ、時代が時代なら100万石以上の大名しか座ることのできない場所まで進みました。

    ここに座ることのかなわなかったご先祖の分まで祈りを捧げて来ました。

    陽明門を出て右に向かうと、薬師堂があります。

    薬師堂内陣の天井には雲なしの大蟠龍が描かれていますが、その頭部の下で拍手をすると、龍が鳴いているように聞こえる「鳴龍」として有名です。

    和尚さんが説明をしてくれた後、拍子木を打ち鳴らすと、それはみごとに鈴の転がるような龍の鳴く声の響きとなったのでした。

    父が、この薬師堂は一度焼けているはずだと言っていましたが、帰って調べると、確かに昭和36年に焼失していました。

    現在の薬師堂は43年に復元された建物です。

  • 薬師堂から更に奥に進むと、下野国一之宮の二荒山神社に抜けることができます。 <br /><br />「ふたらさん」神社と読みます。 <br /><br />御祭神の二荒山大神は、大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3柱の神のことで、やはり男体山・女峰山・太郎山の権現と考えられます。

    薬師堂から更に奥に進むと、下野国一之宮の二荒山神社に抜けることができます。

    「ふたらさん」神社と読みます。

    御祭神の二荒山大神は、大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3柱の神のことで、やはり男体山・女峰山・太郎山の権現と考えられます。

  • その創始は神護景雲元年、勝道上人が大谷川の北岸に祠を奉った時にさかのぼります。 <br /><br />今回は時間の関係で行くことができませんが、華厳滝で有名な中禅寺湖のほとりには中宮祠、男体山山頂には奥宮が鎮座しており、いつか行ってみたいと思います。

    その創始は神護景雲元年、勝道上人が大谷川の北岸に祠を奉った時にさかのぼります。

    今回は時間の関係で行くことができませんが、華厳滝で有名な中禅寺湖のほとりには中宮祠、男体山山頂には奥宮が鎮座しており、いつか行ってみたいと思います。

    日光二荒山神社 寺・神社・教会

  • 拝観料を支払い、神苑に入りました。 <br /><br />そこには若返りの水と言われる霊泉が湧いている他、70にも及ぶ刀傷の残る化燈籠があります。

    拝観料を支払い、神苑に入りました。

    そこには若返りの水と言われる霊泉が湧いている他、70にも及ぶ刀傷の残る化燈籠があります。

  • 更に進むと、輪王寺大猷院の表門が見えて来ます。 <br /><br />東照宮を整備した、3代将軍家光公の廟所で、慶安4年に没して後光明天皇から「大猷院」の法号が勅賜されました。

    更に進むと、輪王寺大猷院の表門が見えて来ます。

    東照宮を整備した、3代将軍家光公の廟所で、慶安4年に没して後光明天皇から「大猷院」の法号が勅賜されました。

  • 家光公は祖父の家康公を心から敬慕し、寛永13年の21年神忌に向けて、日本一豪華な廟所を大造営したのでした。 <br /><br />家康公が寅年なのに対し、家光公は辰年であるため、社殿には龍の彫刻が目立ちます。 <br /><br />なお、2代将軍の秀忠公は卯年で、初代から寅・卯・辰と続いたため、家光公は巳年に世継ぎが誕生することを祈願し、その願いはかなって寛永18年に家綱公が生まれたのでした。

    家光公は祖父の家康公を心から敬慕し、寛永13年の21年神忌に向けて、日本一豪華な廟所を大造営したのでした。

    家康公が寅年なのに対し、家光公は辰年であるため、社殿には龍の彫刻が目立ちます。

    なお、2代将軍の秀忠公は卯年で、初代から寅・卯・辰と続いたため、家光公は巳年に世継ぎが誕生することを祈願し、その願いはかなって寛永18年に家綱公が生まれたのでした。

    日光山 輪王寺 大猷院 寺・神社・教会

  • 家光公は「祖父家康公を祀る廟所を凌いではならない」との遺言を残したため、彫刻や彩色は東照宮より控えめですが、金に輝く社殿が並ぶ境内は別世界のようでした。 <br /><br />幸運なことに、今回ちょうど徳川家光公「御尊像」特別公開の時期と重なっており、拝観することができました。

    家光公は「祖父家康公を祀る廟所を凌いではならない」との遺言を残したため、彫刻や彩色は東照宮より控えめですが、金に輝く社殿が並ぶ境内は別世界のようでした。

    幸運なことに、今回ちょうど徳川家光公「御尊像」特別公開の時期と重なっており、拝観することができました。

  • 父と母には宝物殿に行ってもらい、自分は一人、慈眼堂へと向かいます。 <br /><br />参拝客でごった返す東照宮から、二荒山神社・大猷院と、奥に進めば進むほど人の姿は少なくなり、慈眼堂へ向かう人は日に数名しかいないようです。 <br /><br />法華堂と常行堂の間から苔むした石段の道へと進むと、質素な社殿が見えて来ます。

    父と母には宝物殿に行ってもらい、自分は一人、慈眼堂へと向かいます。

    参拝客でごった返す東照宮から、二荒山神社・大猷院と、奥に進めば進むほど人の姿は少なくなり、慈眼堂へ向かう人は日に数名しかいないようです。

    法華堂と常行堂の間から苔むした石段の道へと進むと、質素な社殿が見えて来ます。

  • 天海大僧正墓所はその裏、六部天に囲まれた石造りの五輪塔でした。 <br /><br /><br />気はながくつとめはかたく色うすく <br />食ほそうしてこころひろかれ <br /><br /><br />徳川幕府成立を陰で支えた宗教者らしい、当たり前ながら深い遺訓です。 <br /><br />宝物殿で父と母に合流し、東照宮を後にしました。 <br /><br />宝物殿の裏には、世界一長い歴史小説『徳川家康』を書いた山岡荘八先生の記念碑があったのですが、あまりに多くの豪華な社殿を見た感動がおさまらず、つい忘れてしまったのでした。 <br /><br />今回は他に四本龍寺・本宮神社・滝尾神社にも行けなかったので、これらは次回のお楽しみにしたいと思います。

    天海大僧正墓所はその裏、六部天に囲まれた石造りの五輪塔でした。


    気はながくつとめはかたく色うすく
    食ほそうしてこころひろかれ


    徳川幕府成立を陰で支えた宗教者らしい、当たり前ながら深い遺訓です。

    宝物殿で父と母に合流し、東照宮を後にしました。

    宝物殿の裏には、世界一長い歴史小説『徳川家康』を書いた山岡荘八先生の記念碑があったのですが、あまりに多くの豪華な社殿を見た感動がおさまらず、つい忘れてしまったのでした。

    今回は他に四本龍寺・本宮神社・滝尾神社にも行けなかったので、これらは次回のお楽しみにしたいと思います。

  • 遅い昼食のため、近くのレストランに入りました。 <br /><br />有名な日光金谷ホテルが経営するレストランは、時間が外れているというのに万席で、食事にありつけるまで1時間はかかるとのこと。 <br /><br />向かい側の土産物屋の2階にあるレストランに入りました。 <br /><br />注文して待っていると、隣の席のお客さんには料理より先にデザートが出てしまったり、反対側のお客さんは「カレーライス」と「天ぷらうどん」を注文したのに「カレーうどん」が出て来るという場面に遭遇してしまい、自分たちも不安になったのでした。 <br /><br />無事に昼食を終え、公園に停めた車に戻り、日光杉並木に沿って車を走らせました。 <br /><br />総延長37キロの杉並木は、世界最長の並木道で、松平正綱公が家康公第33回神忌に寄進したものです。 <br /><br />そのまま今市に入り、報徳二宮神社に参拝しました。

    遅い昼食のため、近くのレストランに入りました。

    有名な日光金谷ホテルが経営するレストランは、時間が外れているというのに万席で、食事にありつけるまで1時間はかかるとのこと。

    向かい側の土産物屋の2階にあるレストランに入りました。

    注文して待っていると、隣の席のお客さんには料理より先にデザートが出てしまったり、反対側のお客さんは「カレーライス」と「天ぷらうどん」を注文したのに「カレーうどん」が出て来るという場面に遭遇してしまい、自分たちも不安になったのでした。

    無事に昼食を終え、公園に停めた車に戻り、日光杉並木に沿って車を走らせました。

    総延長37キロの杉並木は、世界最長の並木道で、松平正綱公が家康公第33回神忌に寄進したものです。

    そのまま今市に入り、報徳二宮神社に参拝しました。

    今市報徳二宮神社 寺・神社・教会

  • 二宮尊徳(金次郎)は、嘉永6年から日光神領の財政立て直しに取り掛かり、没するまでの2年余の期間、献身的な態度で事業に打ち込んだのでした。 <br /><br />ここ今市の報徳二宮神社の裏には、尊徳の遺体が安置される墓所があります。 <br /><br />遺言により、最初は墓石は立てられませんでしたが、忌明けの安政4年に門人たちの手によって建立されたのでした。

    二宮尊徳(金次郎)は、嘉永6年から日光神領の財政立て直しに取り掛かり、没するまでの2年余の期間、献身的な態度で事業に打ち込んだのでした。

    ここ今市の報徳二宮神社の裏には、尊徳の遺体が安置される墓所があります。

    遺言により、最初は墓石は立てられませんでしたが、忌明けの安政4年に門人たちの手によって建立されたのでした。

  • 宇都宮市内に宿泊し、翌日は宇都宮二荒山神社の参拝から始めました。 <br /><br />東照宮と同じ二荒山神社の名前ですが、こちらの御祭神は豊城入彦命。 <br /><br />第10代崇神天皇の皇子で、夢占いによって皇位継承を弟に譲り、東国の支配者として遣わされた方です。 <br /><br />下野国一之宮。 <br /><br />下野(しもつけ)と上野(こうづけ)はもともと一体で、毛野国と呼ばれていましたが、その始祖である毛野君の祖先と言われています。

    宇都宮市内に宿泊し、翌日は宇都宮二荒山神社の参拝から始めました。

    東照宮と同じ二荒山神社の名前ですが、こちらの御祭神は豊城入彦命。

    第10代崇神天皇の皇子で、夢占いによって皇位継承を弟に譲り、東国の支配者として遣わされた方です。

    下野国一之宮。

    下野(しもつけ)と上野(こうづけ)はもともと一体で、毛野国と呼ばれていましたが、その始祖である毛野君の祖先と言われています。

  • 社記によると、第16代仁徳天皇の御代に毛野国が上下二国に分けられた際、御祭神の四世孫に当たる奈良別王が下野国造に任命され、祭祀を始めたとされます。 <br /><br />宇都宮という町は、この二荒山神社を中心に栄えて来たと言ってもよく、JRと東武両駅の中間にある小高い丘に鎮座しています。 <br /><br />最近は町が発展しすぎて、参道脇に高層ビルが建ってしまったのが残念ですが、大都市のビルの合間に現れる大鳥居と鎮守の森はとても神秘的な雰囲気を残しています。

    社記によると、第16代仁徳天皇の御代に毛野国が上下二国に分けられた際、御祭神の四世孫に当たる奈良別王が下野国造に任命され、祭祀を始めたとされます。

    宇都宮という町は、この二荒山神社を中心に栄えて来たと言ってもよく、JRと東武両駅の中間にある小高い丘に鎮座しています。

    最近は町が発展しすぎて、参道脇に高層ビルが建ってしまったのが残念ですが、大都市のビルの合間に現れる大鳥居と鎮守の森はとても神秘的な雰囲気を残しています。

    宇都宮二荒山神社 寺・神社・教会

  • 次に益子に向かいました。 <br /><br />父と母は最近民藝運動に関心が高く、陶芸の作品をよく観賞しに行っています。 <br /><br />益子は益子焼の産地として有名で、前回訪れた時は、目当てにしていた陶芸の博物館が休館日だったことから、今回の旅行で見学を果たしたいと言っていました。 <br /><br />連休に合わせて陶器市も開かれており、道路の渋滞が予想されることから、ここで別行動をとることになりました。 <br /><br />既に渋滞が始まっている陶芸メッセで二人を降ろし、自分は茨城県の筑波山に向かいました。 <br /><br />益子から筑波に伸びる道路はほとんど車の通行がなく、予想よりも早く筑波山神社に到着することができました。 <br /><br />想像よりもかなり観光地化されていて、参拝者駐車場などはなく、近くの土産物屋に高額の料金を支払って停めることとなりました。 <br /><br />鳥居から境内に入ってまず見えるのが御神橋。 <br /><br />寛永10年、3大将軍家光公による寄進で、普段は渡ることができません。

    次に益子に向かいました。

    父と母は最近民藝運動に関心が高く、陶芸の作品をよく観賞しに行っています。

    益子は益子焼の産地として有名で、前回訪れた時は、目当てにしていた陶芸の博物館が休館日だったことから、今回の旅行で見学を果たしたいと言っていました。

    連休に合わせて陶器市も開かれており、道路の渋滞が予想されることから、ここで別行動をとることになりました。

    既に渋滞が始まっている陶芸メッセで二人を降ろし、自分は茨城県の筑波山に向かいました。

    益子から筑波に伸びる道路はほとんど車の通行がなく、予想よりも早く筑波山神社に到着することができました。

    想像よりもかなり観光地化されていて、参拝者駐車場などはなく、近くの土産物屋に高額の料金を支払って停めることとなりました。

    鳥居から境内に入ってまず見えるのが御神橋。

    寛永10年、3大将軍家光公による寄進で、普段は渡ることができません。

  • 階段を登ると、巨大な随身門がそびえているのが見えて来ました。 <br /><br />こちらも家光公の寄進ですが、その後2度焼失し、現在のものは文化8年の再建です。 <br /><br />その大きさに圧倒されます。

    階段を登ると、巨大な随身門がそびえているのが見えて来ました。

    こちらも家光公の寄進ですが、その後2度焼失し、現在のものは文化8年の再建です。

    その大きさに圧倒されます。

  • 随身門の横で、ガマの油売りの口上が実演されていました。

    随身門の横で、ガマの油売りの口上が実演されていました。

  • 筑波山は、その眺めが非常に美しいことから東の富士山とも言われ、2峰並ぶことから有史以前より男女2柱の神が祀られて来ました。 <br /><br />神武天皇元年、男体山には伊弉諾尊、女体山には伊弉冊尊を祀ることが定められ、第10代崇神天皇の御代には、物部氏の一族の筑波命が筑波国造に任じられ、筑波一族によって祭祀が行われるようになりました。 <br /><br />日本武尊が東征の帰途に登山されたと記録も残っています。 <br /><br />南北朝時代には、南朝勢力拡大のために航海に乗り出したしたものの遭難した北畠親房卿が、小田城から筑波山を仰ぎながら『神皇正統記』を著しました。 <br /><br />江戸時代には、江戸の鬼門を守る神山として、幕府より神領1500石が献じられました。 <br /><br />現在はケーブルカーやロープウェイで筑波山山頂まで行くことができ、高天原と伝えられる場所もあります。

    筑波山は、その眺めが非常に美しいことから東の富士山とも言われ、2峰並ぶことから有史以前より男女2柱の神が祀られて来ました。

    神武天皇元年、男体山には伊弉諾尊、女体山には伊弉冊尊を祀ることが定められ、第10代崇神天皇の御代には、物部氏の一族の筑波命が筑波国造に任じられ、筑波一族によって祭祀が行われるようになりました。

    日本武尊が東征の帰途に登山されたと記録も残っています。

    南北朝時代には、南朝勢力拡大のために航海に乗り出したしたものの遭難した北畠親房卿が、小田城から筑波山を仰ぎながら『神皇正統記』を著しました。

    江戸時代には、江戸の鬼門を守る神山として、幕府より神領1500石が献じられました。

    現在はケーブルカーやロープウェイで筑波山山頂まで行くことができ、高天原と伝えられる場所もあります。

    筑波山神社 寺・神社・教会

  • そして、筑波山は水戸天狗党が決起した場所でもあります。 <br /><br />神職の方に、天狗党関連の史跡はないものか尋ねたところ、日枝神社から階段を降りた所にある石碑と、鳥居のそばにある藤田小四郎の像を教えていただきました。 <br /><br />藤田東湖の四男であった小四郎は、長州藩士らと交友を深め、父の死後は水戸の尊王攘夷運動の中心人物に台頭します。 <br /><br />そして攘夷を決行できない幕府に訴えようと、ここ筑波山で挙兵し、東照宮へ参拝に行くも妨げられ、資金難などにより行く先々で乱暴を繰り返したため、暴徒として恐れられたのでした。 <br /><br />現在の敦賀市で投降するまで彼らがたどった道のりは、言語に絶する険しいものでした。 <br /><br />そして全員処刑の悲劇。 <br /><br />明治維新への運動は水戸から起こったものの、新政府の要職にまったく水戸藩出身者がいないのは、優秀な人材はみな天狗党に加わって、一人残らず敦賀の露と消えたからなのです。

    そして、筑波山は水戸天狗党が決起した場所でもあります。

    神職の方に、天狗党関連の史跡はないものか尋ねたところ、日枝神社から階段を降りた所にある石碑と、鳥居のそばにある藤田小四郎の像を教えていただきました。

    藤田東湖の四男であった小四郎は、長州藩士らと交友を深め、父の死後は水戸の尊王攘夷運動の中心人物に台頭します。

    そして攘夷を決行できない幕府に訴えようと、ここ筑波山で挙兵し、東照宮へ参拝に行くも妨げられ、資金難などにより行く先々で乱暴を繰り返したため、暴徒として恐れられたのでした。

    現在の敦賀市で投降するまで彼らがたどった道のりは、言語に絶する険しいものでした。

    そして全員処刑の悲劇。

    明治維新への運動は水戸から起こったものの、新政府の要職にまったく水戸藩出身者がいないのは、優秀な人材はみな天狗党に加わって、一人残らず敦賀の露と消えたからなのです。

  • 筑波山神社の参拝を終え、両親を迎えに車を急がせますが、筑波スカイラインの手前で渋滞。 <br /><br />スカイラインに行きたいのではないのに、道路が1車線しかないため、車が進むのを待つしかありません。 <br /><br />ようやく渋滞を抜け、来た道をそのまま益子に向けて走りますが、車の数も増えているため、さっきのようにスムーズには進みません。 <br /><br />そして益子に近づくと、陶器市に向かう車でまたも渋滞。 <br /><br />両親には電話で連絡し、2人で先に昼食をとっておいてもらうことにしましたが、ちょうど着いた時に食べ終わって店を出て来たのでした。 <br /><br />父と母は益子陶芸美術館を見ることができて、満足していました。<br /><br />益子の次は笠間に向かいます。

    筑波山神社の参拝を終え、両親を迎えに車を急がせますが、筑波スカイラインの手前で渋滞。

    スカイラインに行きたいのではないのに、道路が1車線しかないため、車が進むのを待つしかありません。

    ようやく渋滞を抜け、来た道をそのまま益子に向けて走りますが、車の数も増えているため、さっきのようにスムーズには進みません。

    そして益子に近づくと、陶器市に向かう車でまたも渋滞。

    両親には電話で連絡し、2人で先に昼食をとっておいてもらうことにしましたが、ちょうど着いた時に食べ終わって店を出て来たのでした。

    父と母は益子陶芸美術館を見ることができて、満足していました。

    益子の次は笠間に向かいます。

  • ここには日本三大稲荷の一つ、笠間稲荷神社が鎮座しています。 <br /><br />茨木空港が開港したのに合わせ、テレビのニュースでは笠間稲荷神社の宣伝が何度も流れていました。 <br /><br />社殿によると、第36代孝徳天皇の御代、白雉2年の御創建とされています。

    ここには日本三大稲荷の一つ、笠間稲荷神社が鎮座しています。

    茨木空港が開港したのに合わせ、テレビのニュースでは笠間稲荷神社の宣伝が何度も流れていました。

    社殿によると、第36代孝徳天皇の御代、白雉2年の御創建とされています。

    笠間稲荷神社 寺・神社・教会

  • 本殿には名匠と言われた後藤縫之助による「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」などの彫刻があります。

    本殿には名匠と言われた後藤縫之助による「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」などの彫刻があります。

  • 境内にある樹齢400年の藤は、見ごろを迎えて豊かに咲いていました。

    境内にある樹齢400年の藤は、見ごろを迎えて豊かに咲いていました。

  • 笠間も益子同様に焼き物が有名です。 <br /><br />次に向かったのは、北大路魯山人の鎌倉の旧宅を移築した春風萬里荘。 <br /><br />「春風萬里」とは、李白の漢詩にある言葉で、風流人の北大路魯山人が好んで使っていた言葉であるそうです。<br /><br />最後の目的地の水戸には、ほぼ予定していた時間に着くことができました。<br /><br />梅の季節ではないためか、偕楽園へ向かう道はまったく混んでいませんでした。 <br /><br />まず常磐神社に参拝。

    笠間も益子同様に焼き物が有名です。

    次に向かったのは、北大路魯山人の鎌倉の旧宅を移築した春風萬里荘。

    「春風萬里」とは、李白の漢詩にある言葉で、風流人の北大路魯山人が好んで使っていた言葉であるそうです。

    最後の目的地の水戸には、ほぼ予定していた時間に着くことができました。

    梅の季節ではないためか、偕楽園へ向かう道はまったく混んでいませんでした。

    まず常磐神社に参拝。

    常磐神社 寺・神社・教会

  • ここは以前にも訪れたことがありますが、その際に時間がなくて見学できなかった義烈館に、今回は入ることができました。 <br /><br />義烈館という名前は、2代藩主光圀公の諡号「義公」と、9代藩主斉昭公の諡号「烈公」から取られています。 <br /><br />光圀公はテレビ時代劇でも有名な水戸黄門のことですが、黄門とは中納言の唐名のことなので、光圀公以外にも多く存在しているのですが、テレビの影響で黄門様といえば光圀公と印象付けられています。 <br /><br />『大日本史』の編纂事業を開始したことや、大楠公の墓石を建てたことなどで有名です。 <br /><br />水戸は徳川御三家の一つに数えられますが、初代将軍家康公の遺訓により、将軍家が皇室をないがしろにすることのないよう戒める意味で、水戸家からは将軍を出してはならないことになっていました。 <br /><br />将軍家が民に対して誤った政治を行った時、水戸が皇室の兵として幕府を誅する役割を与えたのです。 <br /><br />そして実際に水戸家に生まれ一橋家に養子に入った慶喜公が、幕府による政治を終わらせたのでした。 <br /><br />水戸学関連の資料がたくさん展示されていましたが、その中で最も目を引いたのが、義公・烈公・慶喜公3方の書を並べた展示でした。 <br /><br />慶喜公は有栖川宮の内親王を母として生まれたためか、最も上手に感じられました。

    ここは以前にも訪れたことがありますが、その際に時間がなくて見学できなかった義烈館に、今回は入ることができました。

    義烈館という名前は、2代藩主光圀公の諡号「義公」と、9代藩主斉昭公の諡号「烈公」から取られています。

    光圀公はテレビ時代劇でも有名な水戸黄門のことですが、黄門とは中納言の唐名のことなので、光圀公以外にも多く存在しているのですが、テレビの影響で黄門様といえば光圀公と印象付けられています。

    『大日本史』の編纂事業を開始したことや、大楠公の墓石を建てたことなどで有名です。

    水戸は徳川御三家の一つに数えられますが、初代将軍家康公の遺訓により、将軍家が皇室をないがしろにすることのないよう戒める意味で、水戸家からは将軍を出してはならないことになっていました。

    将軍家が民に対して誤った政治を行った時、水戸が皇室の兵として幕府を誅する役割を与えたのです。

    そして実際に水戸家に生まれ一橋家に養子に入った慶喜公が、幕府による政治を終わらせたのでした。

    水戸学関連の資料がたくさん展示されていましたが、その中で最も目を引いたのが、義公・烈公・慶喜公3方の書を並べた展示でした。

    慶喜公は有栖川宮の内親王を母として生まれたためか、最も上手に感じられました。

  • 次に、常磐神社のもう1方の御祭神、水戸斉昭公が設立した水戸藩校弘道館を見学。

    次に、常磐神社のもう1方の御祭神、水戸斉昭公が設立した水戸藩校弘道館を見学。

  • 斉昭公は、将軍継嗣問題で井伊大老と対立し、安政の大獄によって永蟄居を命じられてそのまま亡くなりますが、藩政改革を成功させたり、海外に学んで軍備を拡充するなどの功績を残しました。

    斉昭公は、将軍継嗣問題で井伊大老と対立し、安政の大獄によって永蟄居を命じられてそのまま亡くなりますが、藩政改革を成功させたり、海外に学んで軍備を拡充するなどの功績を残しました。

  • 弘道館の精神は、天保9年に発表された「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目で、それらの教えにもとづいて藩士やその師弟たちが学びました。 <br /><br />弘道館という名称は、『論語』衛霊公篇にある「人よく道を弘む。道、人を弘むるにあらず」から取られています。

    弘道館の精神は、天保9年に発表された「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目で、それらの教えにもとづいて藩士やその師弟たちが学びました。

    弘道館という名称は、『論語』衛霊公篇にある「人よく道を弘む。道、人を弘むるにあらず」から取られています。

    弘道館 名所・史跡

  • また、斉昭公の筆による「游於藝」の扁額も『論語』の言葉です。 <br /><br />斉昭公の人間としての懐の深さが思われます。

    また、斉昭公の筆による「游於藝」の扁額も『論語』の言葉です。

    斉昭公の人間としての懐の深さが思われます。

  • <br />弘道館の正庁玄関には、明治元年に起こった弘道館の戦い(弘道館戦争)による弾痕が残されています。 <br /><br />天狗党の乱が終息した後、水戸藩では反天狗党の諸生党が実権を握りました。 <br /><br />しかし戊辰戦争が起こると、朝廷は諸生党の追討命令を下し、天狗党の生き残りが反撃を行います。 <br /><br />水戸を脱した諸生党の人たちは会津などへ行って新政府軍と戦いますが、会津城が落ちると再び水戸に戻り、水戸城への立て籠もりを企てます。 <br /><br />しかし水戸城の守りは固く、三の丸にあった弘道館を占拠して立て籠もり、その戦闘によって多くの貴重な蔵書も焼かれてしまいました。 <br /><br />その後、諸生党は壊滅。 <br /><br />天狗党同様、水戸の教えを受けた優秀な人材が多く失われてしまったのでした。


    弘道館の正庁玄関には、明治元年に起こった弘道館の戦い(弘道館戦争)による弾痕が残されています。

    天狗党の乱が終息した後、水戸藩では反天狗党の諸生党が実権を握りました。

    しかし戊辰戦争が起こると、朝廷は諸生党の追討命令を下し、天狗党の生き残りが反撃を行います。

    水戸を脱した諸生党の人たちは会津などへ行って新政府軍と戦いますが、会津城が落ちると再び水戸に戻り、水戸城への立て籠もりを企てます。

    しかし水戸城の守りは固く、三の丸にあった弘道館を占拠して立て籠もり、その戦闘によって多くの貴重な蔵書も焼かれてしまいました。

    その後、諸生党は壊滅。

    天狗党同様、水戸の教えを受けた優秀な人材が多く失われてしまったのでした。

  • <br />弘道館の見学を終え、水戸城の本丸を歩くことにしました。 <br /><br />那珂川と千波湖という天然の堀を有する水戸城は、馬場氏・江戸氏・佐竹氏の支配を経て、水戸徳川家の本拠となりました。 <br /><br />水戸藩の初代藩主は頼房公。 <br /><br />家康公の11男です。 <br /><br />大手橋のたもとには、頼房公の銅像が建っていました。<br />


    弘道館の見学を終え、水戸城の本丸を歩くことにしました。

    那珂川と千波湖という天然の堀を有する水戸城は、馬場氏・江戸氏・佐竹氏の支配を経て、水戸徳川家の本拠となりました。

    水戸藩の初代藩主は頼房公。

    家康公の11男です。

    大手橋のたもとには、頼房公の銅像が建っていました。

  • 城郭は大戦の空襲によって焼失してしまい、残っていません。 <br /><br />もともと堀があった橋の下を、今は電車が走っています。 <br /><br />このように時の流れは風景を変えてしまいますが、水戸の精神は時代が変わっても日本人の心に生き続けてほしいものです。

    城郭は大戦の空襲によって焼失してしまい、残っていません。

    もともと堀があった橋の下を、今は電車が走っています。

    このように時の流れは風景を変えてしまいますが、水戸の精神は時代が変わっても日本人の心に生き続けてほしいものです。

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