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杉並木を抜ければ、鉢石宿、日光ゴールへ到着<br /><br /><br />【鉢石宿】<br />江戸を起点とする日光街道の最終の宿場です。幕末期の記録では、町並みの長さが5町(約550m)、家が227軒、旅籠が19軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒あり、宿の人口は985人でした。<br />東武日光駅のあたりから杉並かが途切れ、鉢石宿に入ります。宿内には、手前から松原町・石屋町・御幸町・下鉢石町・中鉢石町・上鉢石町と、江戸時代の町名が今も残り、これらの町を通り過ぎると、日光街道の最終地点、神橋に至ります。神橋の向こうは、奈良時代、勝道上人による開山以来の生地、日光です。

日光街道古道を歩く no12. 今市宿(31)から野口を抜けて鉢石宿(32)、日光ゴールへ到着

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2013/11/14 - 2013/11/14

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ムッシュ

ムッシュさん

杉並木を抜ければ、鉢石宿、日光ゴールへ到着


【鉢石宿】
江戸を起点とする日光街道の最終の宿場です。幕末期の記録では、町並みの長さが5町(約550m)、家が227軒、旅籠が19軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒あり、宿の人口は985人でした。
東武日光駅のあたりから杉並かが途切れ、鉢石宿に入ります。宿内には、手前から松原町・石屋町・御幸町・下鉢石町・中鉢石町・上鉢石町と、江戸時代の町名が今も残り、これらの町を通り過ぎると、日光街道の最終地点、神橋に至ります。神橋の向こうは、奈良時代、勝道上人による開山以来の生地、日光です。

旅行の満足度
4.5
交通手段
徒歩

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  • 上今市の杉並木公園を出ると、さらに日光東照宮に向って杉並木を歩きます。さすがに並木は立派で、美しく、歩いてると気分も癒されてくる。

    上今市の杉並木公園を出ると、さらに日光東照宮に向って杉並木を歩きます。さすがに並木は立派で、美しく、歩いてると気分も癒されてくる。

  • 【砲弾打込み杉】<br />この辺りは戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡を残しています。左の杉の窪み。

    【砲弾打込み杉】
    この辺りは戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡を残しています。左の杉の窪み。

  • これが、戊辰戦争時に官軍が撃ち込んだ砲弾が当たり破裂した打込み跡

    これが、戊辰戦争時に官軍が撃ち込んだ砲弾が当たり破裂した打込み跡

  • 野口の4本杉を過ぎると、【薬師堂】があります。<br />松並木口の左手奥に大日如来があります、境内には十九夜塔、庚申塔、寒念仏供養塔等があります。

    野口の4本杉を過ぎると、【薬師堂】があります。
    松並木口の左手奥に大日如来があります、境内には十九夜塔、庚申塔、寒念仏供養塔等があります。

  • 薬師堂の裏の小さな祠には男性シンボルが祀ってあります。

    薬師堂の裏の小さな祠には男性シンボルが祀ってあります。

  • 【並木太郎】<br />並木の中で1番大きく美しいと言われる銘木。高さ約38m。直径2.5m。<br />生岡神社参道口からわずかに進むと右手に並木太郎と呼ばれる大杉が聳えています、この木一本で二十坪の家が三軒建つといいます。

    【並木太郎】
    並木の中で1番大きく美しいと言われる銘木。高さ約38m。直径2.5m。
    生岡神社参道口からわずかに進むと右手に並木太郎と呼ばれる大杉が聳えています、この木一本で二十坪の家が三軒建つといいます。

  • 美しい並木太郎の立ち姿です<br />【杉の自然と植生】<br />  公園周辺に植えられている杉のうち、最も古いものは江戸時代初期に植えられ、約360年を経て今日に至っております。樹高は約45m、直径約1.8mと大変大きなものです。<br />ここで少し『杉』のことについて考えてみましょう。<br />  『杉』は日本特産で、各地に広く自生し、また有用樹種として最も多く植林されています。(注)スギの学名:Cryptomeria Japonica<br />  なお、大きな分類でのスギ科では世界に8属、15種あり、日本に2属2種が自生しています。<br />  日本で最も長寿と言われる鹿児島県屋久島の杉は3000年をこえるものがあります。これに比べると、日光杉並木は10分の1程度の年月しか経っていなく、屋久島の杉とでは子供みたいなものですが、数を含めた並木の延長では正に世界一であります。<br />  また、我が国においては、杉の代表的な産地があります。地名に冠して、『秋田杉』(秋田県)、『北山杉』(京都府)、『見延杉』(山梨県から静岡県にかけて)等と呼ばれています。<br />  これらの産地はいずれも雨が多いことがあげられ、水を好む杉にとって必要不可欠の要素なのです。それでは、前記した産地に比べて雨量の少ない日光地域の杉がどうしてこんなに大きく育ったかというと、大谷川の伏流水(河川の下に、自然に溜まった水をいう)によるところが大きいといわれています。この案内版が立っている左側に大谷川がありますが、この大谷川は中禅寺湖に源を発し華厳の滝を経て本地域周辺を流れており、正に奥日光全体の自然そのものがこの杉並木を育ててきたことになるのです。<br /><br /> 自然は本当に雄大で神秘的です。こんなことを考えながらもう一度『日光杉並木』を鑑賞してみて下さい。<br />                         平成5年3月 栃木県

    美しい並木太郎の立ち姿です
    【杉の自然と植生】
      公園周辺に植えられている杉のうち、最も古いものは江戸時代初期に植えられ、約360年を経て今日に至っております。樹高は約45m、直径約1.8mと大変大きなものです。
    ここで少し『杉』のことについて考えてみましょう。
      『杉』は日本特産で、各地に広く自生し、また有用樹種として最も多く植林されています。(注)スギの学名:Cryptomeria Japonica
      なお、大きな分類でのスギ科では世界に8属、15種あり、日本に2属2種が自生しています。
      日本で最も長寿と言われる鹿児島県屋久島の杉は3000年をこえるものがあります。これに比べると、日光杉並木は10分の1程度の年月しか経っていなく、屋久島の杉とでは子供みたいなものですが、数を含めた並木の延長では正に世界一であります。
      また、我が国においては、杉の代表的な産地があります。地名に冠して、『秋田杉』(秋田県)、『北山杉』(京都府)、『見延杉』(山梨県から静岡県にかけて)等と呼ばれています。
      これらの産地はいずれも雨が多いことがあげられ、水を好む杉にとって必要不可欠の要素なのです。それでは、前記した産地に比べて雨量の少ない日光地域の杉がどうしてこんなに大きく育ったかというと、大谷川の伏流水(河川の下に、自然に溜まった水をいう)によるところが大きいといわれています。この案内版が立っている左側に大谷川がありますが、この大谷川は中禅寺湖に源を発し華厳の滝を経て本地域周辺を流れており、正に奥日光全体の自然そのものがこの杉並木を育ててきたことになるのです。

     自然は本当に雄大で神秘的です。こんなことを考えながらもう一度『日光杉並木』を鑑賞してみて下さい。
                             平成5年3月 栃木県

  • 【明治天皇のご休憩跡碑】<br />明治天皇七里御小休所碑が有ります、明治9年(1876年)東北巡幸の帰途に休息所となった四方垂木の旧家を残しています。

    【明治天皇のご休憩跡碑】
    明治天皇七里御小休所碑が有ります、明治9年(1876年)東北巡幸の帰途に休息所となった四方垂木の旧家を残しています。

  • 男体山が大きく見えてきた。ゴールも近づいてきました。

    男体山が大きく見えてきた。ゴールも近づいてきました。

  • 杉並木は、東武日光線とクロスしています。正面の鉄橋ガードが日光線。

    杉並木は、東武日光線とクロスしています。正面の鉄橋ガードが日光線。

  • 【東武日光駅】<br />  日光軌道/市内路面電車日光軌道は現在のJR日光駅といろは坂の上り口となる<br />馬返しを結ぶ総延長10.6㎞の路面電車であった。<br />明治41年(1908)に、清滝の精銅所で精錬した製品の輸送を目的に、当時の日光町と古河合名会社(現在の古河電気工業)とで日光電気軌道を資本金20万円で設立<br />し、明治43年(1910)8月10日、停車場前から岩の鼻間の8㎞で営業を開始。その頃の乗客は、物資が積まれた端の方に便乗していた。その後馬返し岩の鼻間を開業したが、人力車や車夫などは失業してしまうと猛反対したというが、乗客の大量輸送という路面電車の登場は、日光の発展に大きく貢献した。いま、その面影が「日光郷土センター」前に架線柱があり、また、神橋と日光橋の間には橋梁の土台となる橋台があり、さらに田母沢橋と安良沢橋に橋梁が残っている。<br />

    【東武日光駅】
      日光軌道/市内路面電車日光軌道は現在のJR日光駅といろは坂の上り口となる
    馬返しを結ぶ総延長10.6㎞の路面電車であった。
    明治41年(1908)に、清滝の精銅所で精錬した製品の輸送を目的に、当時の日光町と古河合名会社(現在の古河電気工業)とで日光電気軌道を資本金20万円で設立
    し、明治43年(1910)8月10日、停車場前から岩の鼻間の8㎞で営業を開始。その頃の乗客は、物資が積まれた端の方に便乗していた。その後馬返し岩の鼻間を開業したが、人力車や車夫などは失業してしまうと猛反対したというが、乗客の大量輸送という路面電車の登場は、日光の発展に大きく貢献した。いま、その面影が「日光郷土センター」前に架線柱があり、また、神橋と日光橋の間には橋梁の土台となる橋台があり、さらに田母沢橋と安良沢橋に橋梁が残っている。

  • 【鉢石宿】

    【鉢石宿】

  • 【水ようかん屋さん(老舗)】<br />下鉢石町に入ると右手に創業天明7年(1787年)練羊羹の老舗綿半(わたはん)があります。

    【水ようかん屋さん(老舗)】
    下鉢石町に入ると右手に創業天明7年(1787年)練羊羹の老舗綿半(わたはん)があります。

  • 重要文化財建築である日光物産

    重要文化財建築である日光物産

  • 【磐裂(いわさく)霊水】【日光のおいしい水】<br />日光山に近づくと右手の広場に盤裂(いわさく)霊水があります、1,200余年前日光開山の祖勝道上人がここに清水を発見し、以来修験者が神仏に供える霊水と伝えられています、この清水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい水として定評があります。

    【磐裂(いわさく)霊水】【日光のおいしい水】
    日光山に近づくと右手の広場に盤裂(いわさく)霊水があります、1,200余年前日光開山の祖勝道上人がここに清水を発見し、以来修験者が神仏に供える霊水と伝えられています、この清水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい水として定評があります。

  • 【天海大僧正の立像】<br />広場には天海大僧正(慈眼大師)銅像があります、天海上人は比叡山で天台宗の奥義を極め、家康に仕え日光山の貫主となり、家康亡き後は遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し東照宮の創建に尽くし、寛永20年(1643年)に大往生を遂げました、享年百八歳でした。<br /><br />天海は比叡山で天台宗の奥義をおさめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に写し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の人である。<br />  天海は、寛永二十年(1643)一〇八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。<br /><br />【天海大僧正】<br />慶長15年(1610)75歳のとき、駿府城で初めて徳川家康の前で論議を開き、この時、家康は68歳でしたが、天海に感銘し「もっと早く天海に逢いたかった。」といったそう で す 。 慶 長 1 8 年(1613)78歳のとき、日光山の住職になり、天海<br />が家康に仕えたのは7年間で、その後二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として徳川家のために尽力した。<br />1616年(元和2年)75歳で家康が亡くなると、天海は、以前より残された遺言によって東照宮の造営を采配し、元和3年(1 6 1 7)3月に完成。「元和の造営」。後の家康二十一回忌の法要を機会に三代将軍家光とともに大改修を計画し、寛永<br />13年(1636)3月に現在の社殿を造りあげた。「寛永の大造替」<br /><br />

    【天海大僧正の立像】
    広場には天海大僧正(慈眼大師)銅像があります、天海上人は比叡山で天台宗の奥義を極め、家康に仕え日光山の貫主となり、家康亡き後は遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し東照宮の創建に尽くし、寛永20年(1643年)に大往生を遂げました、享年百八歳でした。

    天海は比叡山で天台宗の奥義をおさめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に写し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の人である。
      天海は、寛永二十年(1643)一〇八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。

    【天海大僧正】
    慶長15年(1610)75歳のとき、駿府城で初めて徳川家康の前で論議を開き、この時、家康は68歳でしたが、天海に感銘し「もっと早く天海に逢いたかった。」といったそう で す 。 慶 長 1 8 年(1613)78歳のとき、日光山の住職になり、天海
    が家康に仕えたのは7年間で、その後二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として徳川家のために尽力した。
    1616年(元和2年)75歳で家康が亡くなると、天海は、以前より残された遺言によって東照宮の造営を采配し、元和3年(1 6 1 7)3月に完成。「元和の造営」。後の家康二十一回忌の法要を機会に三代将軍家光とともに大改修を計画し、寛永
    13年(1636)3月に現在の社殿を造りあげた。「寛永の大造替」

  • 【板垣退助立像】<br />板垣の日光東照宮攻め中止の決断により、無事に日光が残った。<br />日光金谷ホテルの坂道に板垣退助像があります、総督府参謀の板垣は日光廟に立て籠もった大鳥圭介等の旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守りました。<br />【板垣退助像】<br />総督府参謀の板垣退助は、貴重な建築物である東照宮を焼失することを恐れ東照宮に陣を張る大鳥圭介、土方歳三、旧幕臣、会津藩士らを説得し、日光山内を戦火から救った。<br /><br />板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家。<br />明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。<br />明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われる。<br /> その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は、第二次大戦に軍需に徴収された。昭和四十二年に再建。<br /><br /> 彫刻家、新関国臣の作。

    【板垣退助立像】
    板垣の日光東照宮攻め中止の決断により、無事に日光が残った。
    日光金谷ホテルの坂道に板垣退助像があります、総督府参謀の板垣は日光廟に立て籠もった大鳥圭介等の旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守りました。
    【板垣退助像】
    総督府参謀の板垣退助は、貴重な建築物である東照宮を焼失することを恐れ東照宮に陣を張る大鳥圭介、土方歳三、旧幕臣、会津藩士らを説得し、日光山内を戦火から救った。

    板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家。
    明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。
    明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われる。
     その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は、第二次大戦に軍需に徴収された。昭和四十二年に再建。

     彫刻家、新関国臣の作。

  • ゴールの【神橋】<br />この橋を渡ると日光東照宮ですが、一般には渡れません。隣に車道+歩道の公道があり、こちらを歩いてゴールする。<br /><br />【神橋】<br />「板橋長拾三間五尺(六尺五寸を一間とす)幅弐間四尺弐寸。朱塗にて金の擬宝珠あり。其色水に映じてきらびやかなり。或は朱の御橋ともいふ。両岸に石の柱あり。前後に埓(らち)を設けて常人の往来を許さず。御参詣の時渡らせらるゝの外は、一坊の行人下山の時渡る事を許す」(日光道中略記)ずっと一般の通行を禁じていた。「天平神護2年(766)勝道上人日光山にわけ入らんとて此川上に至りしが、崖そいたち、谷深くして渡るべきよしなければ、こなたの岸にたゝずみて、ししやすらはれけるに、深沙大王あらはれ玉ひ、青赤の二蛇を放て橋とせられければ、上人霊蛇の上をふまんことおそれありとて、草かる翁をまねき、山菅をからせ、これを蛇躰にお ほ ひ て 渡 ら れ け り 。 大 同 3 年(808)上人其跡に橋を作り、山菅の橋と名づく」(日光道中略記)寛永13年(1636)に東照宮の造営が終わったとき、以前からあった山菅橋を架け替えて今の形の橋とし、名も神橋と改めた。依頼、16年ごとに架け替えられてきたが、今の橋は明治37年(1904)に架け替えられたもの。<br /><br />橋の長さ28m、幅7.4m、水面よりの高さ10.6m。2011年12月に世界遺産に登録される。<br />奈良時代末期に架けられ、寛永13年に現在の神橋に造り替えられてからは、神事・将軍社参・勅使・例幣使などが参詣のときのみ使用され、一般の人々は下流に架けた仮橋(日光橋)を通行した。<br />昭和48年より有料で一般に公開されるようになり、平成9年~17年にかけて大修理が行われた。山間の峡谷に用いられた「はね橋」形式としては日本唯一の古橋で、山口県錦帯橋・山梨県猿橋と共に日本三代奇橋の一つに数えられている。<br />                          二荒山神社所有。<br />

    ゴールの【神橋】
    この橋を渡ると日光東照宮ですが、一般には渡れません。隣に車道+歩道の公道があり、こちらを歩いてゴールする。

    【神橋】
    「板橋長拾三間五尺(六尺五寸を一間とす)幅弐間四尺弐寸。朱塗にて金の擬宝珠あり。其色水に映じてきらびやかなり。或は朱の御橋ともいふ。両岸に石の柱あり。前後に埓(らち)を設けて常人の往来を許さず。御参詣の時渡らせらるゝの外は、一坊の行人下山の時渡る事を許す」(日光道中略記)ずっと一般の通行を禁じていた。「天平神護2年(766)勝道上人日光山にわけ入らんとて此川上に至りしが、崖そいたち、谷深くして渡るべきよしなければ、こなたの岸にたゝずみて、ししやすらはれけるに、深沙大王あらはれ玉ひ、青赤の二蛇を放て橋とせられければ、上人霊蛇の上をふまんことおそれありとて、草かる翁をまねき、山菅をからせ、これを蛇躰にお ほ ひ て 渡 ら れ け り 。 大 同 3 年(808)上人其跡に橋を作り、山菅の橋と名づく」(日光道中略記)寛永13年(1636)に東照宮の造営が終わったとき、以前からあった山菅橋を架け替えて今の形の橋とし、名も神橋と改めた。依頼、16年ごとに架け替えられてきたが、今の橋は明治37年(1904)に架け替えられたもの。

    橋の長さ28m、幅7.4m、水面よりの高さ10.6m。2011年12月に世界遺産に登録される。
    奈良時代末期に架けられ、寛永13年に現在の神橋に造り替えられてからは、神事・将軍社参・勅使・例幣使などが参詣のときのみ使用され、一般の人々は下流に架けた仮橋(日光橋)を通行した。
    昭和48年より有料で一般に公開されるようになり、平成9年~17年にかけて大修理が行われた。山間の峡谷に用いられた「はね橋」形式としては日本唯一の古橋で、山口県錦帯橋・山梨県猿橋と共に日本三代奇橋の一つに数えられている。
                              二荒山神社所有。

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