2010/06/12 - 2010/06/12
339位(同エリア502件中)
倫清堂さん
教え子たちが毎年楽しみにしている夏合宿会場として、平成22年は塩竈の離島、寒風沢を選びました。
まさか合宿が終わって1年もしないうちに、大津波で壊滅的な損害を受けるとは、想像もしていませんでした。
下見に訪れた時の貴重な写真が残っていたので、寒風沢の歴史とともに振り返りたいと思います。
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寒風沢は浦戸諸島最大の島で、140人ほどが生活しています。
塩竈マリンゲートから市営定期船が出ており、野々島の浦戸中学校に非常勤として勤めていた時は、毎週その船に乗って往復していました。
寒風沢は野々島の次なので、勤めていた間のおよそ1年間、寒風沢より先には行ったことがありませんでした。
寒風沢で生まれ育った知人から、もう使わなくなった自宅を貸別荘として提供していることを聞き、そこを主な会場として離島での合宿を計画した次第です。
知人の所有するクルーザーで本土を出発し、10分ほどで寒風沢に到着。
さすがにお客さんを乗せる定期船とはスピードが違います。
寒風沢の桟橋は野々島との連絡船にも利用されており、そこからは山の上にある浦戸中学校も見えます。
それほど近いので、連絡船は向こうの岸にいても、合図をすればすぐにこちらの岸に来てくれる仕組みです。
合宿では、野々島で体験活動を行った後、連絡船で寒風沢に渡る計画を立てました。 -
初めて寒風沢島に上陸。
島全体はそれほど広くはなく、徒歩で一周できると言われました。
案内板の地図を見ながら、子供たちをどこへどう連れて行くかを考えます。
やはり一番の楽しみは海水浴。
浦戸の海を見渡せる山を通って、地元の人以外にはあまり知られていない砂浜へとたどる道を選びました。 -
目にとまったのは方位が書かれた石柱。
その新しさから歴史的な遺跡ではないことは分かりますが、そのモデルとなったものが、ちょうど今から行く山の上に置かれているとのこと。 -
住宅地につながる道端には、大きな石碑が立てられていました。
この石碑こそが、初めて世界一周した寒風沢生まれの日本人を顕彰した石碑です。
時は寛政5年11月。
寒風沢生まれの5名を含む乗組員16名の乗った若宮丸が、江戸向けの仙台藩米と材木を積んで石巻港を出港しました。
塩屋崎へさしかかった時、暴風雨によって故障してしまい、若宮丸は操船不能となってしまったのです。
漂流を続け、翌年5月に漂着したのは、アリューシャン列島の小島でした。
そこで船頭は病死してしまいますが、残る15名はシベリアのイルクーツクに送られます。
その後、ロシア皇帝に呼び出されたりもしますが、何名かが病死してしまい、あるいは何名かはロシアに帰化することとなり、日本へ帰国を果たしたのは、寒風沢生まれの津太夫と佐平ら4名だけでした。
意外に身近なところに日本で最初に世界へ開かれた扉があったことは驚きです。 -
海がよく見える山への登山道は、とても狭い道でした。
蚊が群れているだけでなく、蛇も現れるとのことです。
しかし、そこから見える海は青く美しいものでした。
辺りを見ると、ヒモのようなものに縛られたお地蔵さんがあります。
ヒモはいたずらではなく、かつて遊郭で漁師の相手をしていた遊女が、海へと戻ってしまう漁師を引き止めておきたくて、海が荒れることを祈ってお地蔵さんを縛ったものだと、知人が教えてくれました。
そう言えば、住宅地の中にも、かつて遊郭として使用されていた様式の建物がありました。
ただ遊郭や遊女の話は子供達にはまだ早いので、珍しいお地蔵さんという程度の解説にとどめることになりそうです。 -
そして、本物の十二支方位石もこの場所にありました。
奉献者は木村又兵衛という幕吏です。 -
しばらく藪の中を進むと、龍神を祀る小さなお社へとたどり着きます。
寒風沢の海では、海難事故が絶えなかったそうです。
あまりに事故が続くため、ある占い師に占わせたところ、事故が起きる海底に龍神が沈んでいる様子が見えたのです。
そこで寒風沢の人たちが海に潜って調べてみると、確かに龍神の姿をした石が見つかりました。
これを地上に引き上げてお社に祀ったところ、海難事故はぱったりとなくなったそうです。 -
伊達藩時代の慶応3年、塩竈への入り口となっている寒風沢には砲台が築かれました。
ここには加農砲3門の他、弾薬庫や見張所などが設置されていたそうです。
翌慶応4年には、江戸開城によって開陽丸の引き渡しを求められた榎本武陽が、艦隊を引き連れて同じ浦戸諸島の石浜にたどり着いています。
榎本武陽や土方歳三は、奥羽越列藩同盟の盟主的立場にある仙台藩に、新政府軍に対する徹底抗戦を献策しますが、結局は受け入れられず、仙台藩は謝罪降伏嘆願書を提出します。
こうして幕末の内戦の舞台は、函館へと移るのでした。 -
島の鎮守の神明社は、天照皇大御神と豊受皇大神をお祀りしています。
社殿は平成9年の再建で、境内には鐘つき堂もあります。
神主さんは常駐していませんが、島の人たちによって大切にされている雰囲気がありました。 -
神明社を抜けると、すぐに砂浜にたどり着くことができます。
海水浴シーズンになると、シャワー室などが設置されるとのことですが、周りには他に何もなく、きっとここまで海水浴に来る観光客も少ないことでしょう。
それは実際に合宿を行った時、8月という海水浴に最も適した時期であるにもかかわらプライベートビーチ同然であったことで、予想が的中したのでした。
砂浜には、比較的大きな石碑が立てられていました。
それはチリ地震津波を記録したもので、昭和51年の建造でした。
この石碑を見たおかげで、意識の中には万が一ことも想定され、津波が来た時はしばり地蔵のある山に避難するように心がけることができました。
合宿は無事に終わりましたが、翌年の3月11日に、未曾有の大津波が寒風沢も襲い、合宿場所として利用した知人の実家も跡形もなく流されてしまったのです。
それ以降、まだ寒風沢を訪れる機会はありませんが、成長した教え子と一緒にまた島を訪ね、復興のために少しでも力になりたいと思っています。
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