2010/04/24 - 2010/04/25
628位(同エリア876件中)
倫清堂さん
北東北へ桜を見に行くことにしました。
本当ならこの時期に桜が満開となっているはずの盛岡を目的地としていましたが、今年は温暖化の影響どこへやらの寒い春となってしまったため、どのくらい咲いているか少し心配です。
PR
-
東北道のサービスエリアでは、東北ならではの麩を使った汁物の試食が振舞われていました。
最初に向かったのは毛越寺。
奥州藤原氏2代目基衡公がその晩年に壮大な伽藍を造営したことで知られています。
今は当時を偲ばせる建物はなく、ただ礎石や土塁だけが残されているだけとなっています。毛越寺 寺・神社・教会
-
清衡公が築いた毛越寺は、池を前面に配した浄土庭園の様式でした。
寝殿造りを模した金堂など、白河天皇の御願寺法勝寺に近く、都の文化を平泉に移植しようとした藤原氏の思いが伝わって来ます。 -
-
次に中尊寺へ。
中尊寺は、前九年・後三年の役で亡くなった人々をなぐさめるため、初代清衡公によって整備された寺です。 -
敷地内にはたくさんの堂があり、その一つ一つが独立しています。
坂を登った所に弁慶堂がありました。 -
中尊寺といえば金色堂。
現在はコンクリート造りの覆堂の中で、極楽浄土の輝きを放っています。
奥州藤原氏は、源義経公をかくまったことを理由に幕府との関係が悪化し、義経公を自害に追い込んだ後、亡ぼされてしまいました。
金色堂の須弥壇下には、初代清衡公・2代基衡公・3代秀衡公のご遺体と、4代泰衡公の首級が納められています。中尊寺 寺・神社・教会
-
-
中尊寺の敷地の最も奥に、白山神社が鎮座しています。
仁明天皇の御代に慈覚大師によって加賀の白山比神社から勧請されました。 -
中尊寺薪能の舞台となる能楽殿は、嘉永6年伊達慶邦公による再建で、天正19年に豊臣秀次公と伊達政宗公が能舞を観賞した他、明治9年には明治天皇も天覧されました。
神社の御由緒が書かれているものはないかと尋ねたところ、神職の方がしばらく探して下さり、平成8年の薪能のパンフレットをいただきました。
大切に収めさせていただきます。白山神社神楽殿 名所・史跡
-
中尊寺から坂を下って来た所に、まだつぼみばかりの桜の木に囲まれて、武蔵坊弁慶之墓の碑が立っていました。
弁慶は熊野別当湛増の子で、母の胎内に3年いたことから髪や歯がはえた状態で生まれたため、鬼の子であるとして比叡山に入れられました。
京の五条大橋で牛若丸(義経公)に戦いを挑み、敗れて家来となった話は有名です。
また、平家を亡ぼしたものの兄に嫌疑をかけられ、追われた先の安宅の関で「勧進帳」を読み上げた逸話は、歌舞伎の題材にもなりました。
そして平泉の衣川館で、義経公を守って立ち往生という壮絶な最期をとげました。
後に仙台藩により、衣川館があったとされる場所に義経堂が建てられました。
しかし、義経公と弁慶は実は死んでおらず、生きて逃れて来たとする伝説が北国の各地に残されています。 -
盛岡に向かいました。
サービスエリアで遅い昼食をとった直後ですが、目指すはじゃじゃ麺発祥・白龍。
目的地の一つである櫻山神社からすぐの場所で、神社の駐車場に車を停められないものかと、鳥居をくぐって進みました。
参拝者向けの駐車場のようでもあり、月極の看板もあり、このまま停めておくのは少し怖い気がしたので、参拝だけ済ませることにしました。
盛岡城は天正19年、南部信直公によって築城が開始されました。
8代利視公の時、盛岡藩初代信直公の遺徳を偲んで淡路丸に神殿が建立され、淡路丸大明神として祭祀が始められ、11代利敬公の時に櫻山大明神と改称され、南部家初代光行公を合祀しました。桜山神社 寺・神社・教会
-
社殿裏の小高い山には、宝大石・烏帽子岩があります。
二の丸と同じ高さにあった三の丸の土地を削った際、八幡社近くにあった三角岩がその巨大な姿を現したため、利直公はこれを瑞兆と喜んで「八幡社の重宝」として崇めたのでした。 -
有料駐車場に車を移動し、遅い昼食の後の早い夕食にありつくことができました。
じゃじゃ麺発祥・白龍という店。
小さな店ですが、ひっきりなしに客が現れ、合い席は当たり前です。
甘い味付けの味噌だれを想像していましたが、食べてみると意外に辛口です。白龍 グルメ・レストラン
-
イチオシ
翌日、盛岡で最も有名な桜の名所、石割桜を見に行きました。
盛岡地方裁判所の敷地内にありますが、観光客が来ることを予想して、門は開けられています。
ちょうど開花が発表されたばかりで、一部だけ花をつけていました。
盛岡藩家老の北監物の庭園にあった巨石が落雷で二つに割れ、その間に種が飛んできて芽吹いたという伝説の桜です。石割桜 花見
-
次に岩手護國神社へ参拝に行きました。
明治2年に、県知事だった南部利恭氏が社殿を建立し、目時隆之進政明命と中島源蔵常明命をお祀りしたのが始まりで、その後の度重なる大戦で亡くなった英霊が合祀されました。 -
現在、岩手県出身の3万5千7百余柱の英霊の御霊が合祀されています。
神職の方は、隣接する盛岡八幡宮と兼務しているようです。
境内には、多くの慰霊碑の他、無縁の戦死者を祀る奉安殿も鎮座しています。 -
それから、隣接する、盛岡市内で最も規模の大きな神社の盛岡八幡宮へ。
康平5年、前九年の役で源頼義公・義家公が安倍一族平定のために石清水八幡宮を不来方の地に勧請したのが創始とされます。
その後、頼朝公による義経公追討に功があった南部家初代光行公が八幡大明神をお祀りしました。
南部家も清和源氏の末裔で、八幡神を氏神として崇敬していました。
城内に祀られたため、一般庶民は参拝することができなかったのを、29代重信公が現在の地に遷座して、広く崇敬されることになったのでした。
現在の拝殿は平成9年に大改修されたものです。盛岡八幡宮 寺・神社・教会
-
-
手水舎は滝壺にあって自然にくぼみが形成された珍しい石で、明治9年、明治天皇の東北御巡幸の際に高覧されたものです。
境内には、多くの摂社・末社があり、参拝客でにぎわっています。 -
最後に、小岩井農場まきば園を目指します。
-
混雑する前にレストランに入り、ジンギスカンを味わいます。
小岩井農場まきば園 テーマパーク
-
園内を散策していると、ちょうど乳搾り体験の時間が来ました。
-
牛舎見学も参加することができました。
乳牛を飼育する牛舎や、子牛を飼育する牛舎などがありますが、どれもが昭和初期の建造で、国の有形文化財に指定されています。
ガイドさんの説明もかなりくわしく、小岩井農場が作られた歴史など、今まで知らなかったことも勉強することができました。 -
小岩井は、今でこそ地名になっていますが、もともとは農場を創業した、日本鉄道会社副社長小野義眞・三菱社社岩崎彌之助・鉄道庁長官井上勝の3人の姓の頭文字を取ってつけられたものでした。
ここに農場を開いた理由が、地域の農民の暮らしを豊かにするためという志が立派だったと思います。
しかし、土壌が悪いために農業は発展せず、小野と井上は撤退してしまい、岩崎によって酪農中心の農場へと転換されて今に至っています。
口蹄疫の影響で、靴の消毒は念入りに行われていました。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
24