2011/09/07 - 2011/09/07
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さすらいおじさんさん
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清閑寺は谷間に京都市街地を望む清水音羽山の中腹にあり、平安から鎌倉時代にかけての第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高倉天皇の後清閑寺陵の南にある。
創建は平安時代、802年に紹継(しょうけい)法師が開創したとも第50代・桓武天皇が創建したともいわれている。
一時荒廃したが平安時代、第66代・一条天皇在位中(986−1011年)、伊予守佐伯公行が再興して996年に天皇の発願により創建された祈願寺となっている。
平安時代末1129年と室町時代の応仁・文明の乱(1467−1477年)にも焼失し再建されている。
天皇とのゆかりも深く、1176年に第79代・六條天皇、1181年に第80代・高倉天皇を寺内に葬っており現在は寺の北の山腹に六条天皇陵、高倉天皇陵が設けられている。
境内に残る要(かなめ)石は、六條院の小堂跡といわれ また小督局(こごうのつぼね、1157年―不明)が出家した寺と伝えられているが『平家物語』巻6「小督」や謡曲「小督」は、高倉天皇と小督の悲恋を描いている。小督は宮中一の美女で琴の名手で高倉天皇の寵愛を得るが高倉天皇の中宮・建礼門院徳子の父・平清盛の怒りを買い嵯峨に身を隠す。小督への思いを断ち切れない高倉天皇は源仲国に捜索させ仲国は琴の音を頼りに小督を見つけだし宮中に連れ戻す。再び天皇の寵愛を得て範子内親王を生むが清盛の目をのがれることはできず宮中を追われ清閑寺で出家させられた。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで清閑寺で亡くなったといわれている。
山門を入ったところに小督の供養塔(宝筐印塔)が建てられているが謡曲では高倉天皇が自分の墓は小督の棲んだ清閑寺に葬るように遺言したとされている。現在、高倉天皇陵の傍らにも小督局墓と伝えられている墓があるがこの時代は天皇といえども権力者・平清盛には従わざるを得なかったのは悔しかっただろう。
(写真は清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔周辺の光景。
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謡曲「小督」の説明。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔周辺の光景。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔の説明。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔周辺の光景。
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小督の物語の絵での説明。小督は宮中一の美女で琴の名手で高倉天皇の寵愛を得るが高倉天皇の中宮・建礼門院徳子の父・平清盛の怒りを買い嵯峨に身を隠す。小督への思いを断ち切れない高倉天皇は源仲国に捜索させ仲国は琴の音を頼りに小督を見つけだし宮中に連れ戻す。再び天皇の寵愛を得て範子内親王を生むが清盛の目をのがれることはできず宮中を追われ清閑寺で出家させられた。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで清閑寺で亡くなったといわれている。
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謡曲「小督」の説明。高倉天皇と小督の悲恋を描いている。小督は宮中一の美女で琴の名手で高倉天皇の寵愛を得るが高倉天皇の中宮・建礼門院徳子の父・平清盛の怒りを買い嵯峨に身を隠す。小督への思いを断ち切れない高倉天皇は源仲国に捜索させ仲国は琴の音を頼りに小督を見つけだし宮中に連れ戻す。再び天皇の寵愛を得て範子内親王を生むが清盛の目をのがれることはできず宮中を追われ清閑寺で出家させられた。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで清閑寺で亡くなったといわれている。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔周辺の光景。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔周辺の光景。
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謡曲「小督」の説明。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔の説明。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔。
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境内に残る要(かなめ)石。六條院の小堂跡といわれている。
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清閑寺の小督の供養塔・宝筐印塔。
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境内に残る要(かなめ)石周辺の光景。ここからは市内を望むことができる。谷の奥の市内の景色を開いた扇として、石は、扇の要に見立てられている。小督も宮中の生活を懐かしんで眺めていたという。
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境内に残る要(かなめ)石周辺の光景。
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境内に残る要(かなめ)石。六條院の小堂跡といわれている。
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第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高倉天皇の後清閑寺陵。高倉天皇が自分の墓は小督の棲んだ清閑寺に葬るように遺言したとされているが高倉天皇陵の傍らにも小督局墓と伝えられている墓があるそうだ。
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清水寺から清閑寺にいたる山路歌の中山にある第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高倉天皇の後清閑寺陵周辺。
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嵐山の小督塚(こごうづか)。小督(1157年頃−1200年頃)は寵姫でありながら高倉天皇(たかくらてんのう1161−1181年)の正妻で時の権力者、平清盛(たいらのきよもり1118−1181年)の娘・中宮徳子(ちゅうぐう とくこ1155−1214年、後の建礼門院・けんれいもんいん)よりも天皇の大きな寵愛を受けたために清盛の怒りを買って嵯峨野に逃げるように隠遁した。渡月橋の北詰脇には小督を忘れられない高倉天皇から小督の捜索を指示された源仲国が小督が奏でる琴の音を聴いた「琴きき橋跡」の石碑がある。石碑から徒歩5分、桂川沿いの奥まったところにひっそりと小督塚が立てられている。
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謡曲「小督」の説明。
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嵐山の小督塚(こごうづか)周辺の光景。
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嵐山の小督塚(こごうづか)。
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嵐山の渡月橋横にひっそりと立つ「琴きき橋跡の碑」。琴の名手として知られた小督(こごう生没年未詳)の悲しい歴史を伝えている。
桜町中納言、藤原成範(ふじわらのしげのり1135−1187年)の娘・小督は,高倉天皇(1161−1181年)の寵姫(ちょうき)として一身に寵愛を受けていた。高倉天皇の中宮(皇后)・後の建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ1155−1213年)の父平清盛(たいらのきよもり1118−1181年)は天皇が娘より小督を寵愛することに怒った。身の危険を察した小督は内裏を出て嵯峨野に隠れ住んだ。未練を断ち切れない高倉天皇から捜索の命を受けた源仲国(みなもとのなかくに生没年未詳)は,小督の弾く「想夫恋(そうふれん)」を聴き居所を見つけたといわれる。「琴きき橋跡の碑」は小督の弾く「想夫恋」を仲国が聞いた橋跡を示すものとされる。石碑には「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の袖」と仲国の心情歌が彫られ、謡曲「小督」でも「峰の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か駒(こま)引き止めて立ち寄れば爪音(つまおと)高き想夫恋」と仲国が小督を見つけた感動の場面を謡っている。
仲国は小督を宮中に連れ戻し、喜んだ高倉天皇は一層寵愛する。小督は範子内親王を儲けるが、またも清盛に見つかり宮中を追われ、清閑寺に出家して生涯を過ごした。権勢をふるう平清盛に恋を引き裂かれた高倉天皇は21歳の若さで崩御となった。 -
「琴きき橋跡の碑」前の光景。
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「琴きき橋跡の碑」横の嵐山の渡月橋。
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