清閑寺
寺・神社・教会
3.27
クチコミ・評判
1~5件(全5件中)
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清閑寺の手前にある天皇陵の名前には「六條天皇 清閑寺陵」「高倉天皇 後清閑寺陵」のように「清閑寺」の名称がついています
- 3.5
- 旅行時期:2022/12(約3年前)
- 0
清水寺の奥にある子安の塔の先にある門を出て山道を20分ほど歩きます。
門にある案内板には「500m」とありましたが、もっ... 続きを読むとあるように感じました。
門をでると石柱には「歌の中山 清閑寺」とあります。清水寺と清閑寺をつなぐ道を「歌の中山」と言う地名のようです。
無人の門に拝観料100円を箱に入れるようになっていたようですが、訪問したて時には「閉門中」とありました。
ちょっと見は廃寺のような感じです。しかし清閑寺の手前にある天皇陵の名前には「六條天皇 清閑寺陵」「高倉天皇 後清閑寺陵」のように「清閑寺」の名称がついていると言うことは、かっては立派な由緒あるお寺のようです。
帰宅して調べると、かっては広大な境内を持つお寺で、多くの歌人に歌にも詠まれたようですが、京都の人が「先の大戦」と言う「応仁の乱」で大半が焼失したようです。
閉じる投稿日:2022/12/09
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清水寺に通じる落ち着いたお寺
- 4.0
- 旅行時期:2020/03(約6年前)
- 0
清水音羽山の中腹に位置し、東大路から京都女子大の坂を上り、一号線の高架をくぐり30分くらいするとお寺につきます。階段を登り... 続きを読む小さな山門をくぐると、小さいですが、きれいに整備された境内があります。モミジが多いので春や秋はとてもきれいと思います。また、境内から京都市内が望め、京都タワーも小さく見えます。ここにある要石で誓いを立てると願いが叶うと言われています。現在はないですが、幕末は西堂隆盛と僧の月照が会談をした茶室「郭公亭」が鐘楼の上にあったそうです。平安・鎌倉期には多くの堂宇が整備され、山伝いにつながっている清水寺と対峙したりしたそうです。 閉じる
投稿日:2020/03/02
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平家物語ゆかりの寺
- 4.5
- 旅行時期:2015/07(約10年前)
- 2
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歌の中山 清閑寺
- 3.0
- 旅行時期:2013/07(約12年前)
- 1
清水寺の子安の塔そばの南門を出て,道なりに進んでいくと清閑寺があります。
山号は「歌の中山」。
「歌の中山」とは地... 続きを読む名であり,清水寺と清閑寺をつなぐ道のことです。
古来,花鳥風月に恵まれ,歌人たちに詠まれてきました。
■要石
境内には大きな石があります。
この石の前に立てば京都の街があたかも扇を開いたかのような角度で眺望でき,ちょうど石のある位置が扇の「要」にあたることから「要石」と呼ばれます。
■高倉天皇と小督局
平家物語に出てくる小督局(こごうのつぼね)は平清盛に宮中を追われ,ここ清閑寺で出家しました。
局を寵愛していた高倉天皇は「局のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言をし,21歳の若さで亡くなりました。
そんな経緯で,現在高倉天皇陵は清閑寺の途中の参道にあり,また高倉天皇陵の傍らには小督局のお墓があります。 閉じる投稿日:2013/07/17
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高倉天皇と小督の悲恋を伝える清閑寺
- 4.0
- 旅行時期:2011/09(約14年前)
- 2
清閑寺は谷間に京都市街地を望む清水音羽山の中腹にあり、平安から鎌倉時代にかけての第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高... 続きを読む倉天皇の後清閑寺陵の南にある。
創建は平安時代、802年に紹継(しょうけい)法師が開創したとも第50代・桓武天皇が創建したともいわれている。
一時荒廃したが平安時代、第66代・一条天皇在位中(986−1011年)、伊予守佐伯公行が再興して996年に天皇の発願により創建された祈願寺となっている。
平安時代末1129年と室町時代の応仁・文明の乱(1467−1477年)にも焼失し再建されている。
天皇とのゆかりも深く、1176年に第79代・六條天皇、1181年に第80代・高倉天皇を寺内に葬っており現在は寺の北の山腹に六条天皇陵、高倉天皇陵が設けられている。
境内に残る要(かなめ)石は、六條院の小堂跡といわれ また小督局(こごうのつぼね、1157年―不明)が出家した寺と伝えられているが『平家物語』巻6「小督」や謡曲「小督」は、高倉天皇と小督の悲恋を描いている。小督は宮中一の美女で琴の名手で高倉天皇の寵愛を得るが高倉天皇の中宮・建礼門院徳子の父・平清盛の怒りを買い嵯峨に身を隠す。小督への思いを断ち切れない高倉天皇は源仲国に捜索させ仲国は琴の音を頼りに小督を見つけだし宮中に連れ戻す。再び天皇の寵愛を得て範子内親王を生むが清盛の目をのがれることはできず宮中を追われ清閑寺で出家させられた。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで清閑寺で亡くなったといわれている。
山門を入ったところに小督の供養塔(宝筐印塔)が建てられているが謡曲では高倉天皇が自分の墓は小督の棲んだ清閑寺に葬るように遺言したとされている。現在、高倉天皇陵の傍らにも小督局墓と伝えられている墓があるがこの時代は天皇といえども権力者・平清盛には従わざるを得なかったのは悔しかっただろう。
閉じる投稿日:2013/02/26
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