鎌倉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 鎌倉市材木座にある来迎寺は、1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまりで、当時は、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。正式には、隋我山能蔵院来迎寺という。<br /> 衣笠城主三浦大介義明の菩提寺であるから来迎寺には三浦大介義明の墓と三男多々良三郎重春の墓がある。頼朝の信任の厚かった三浦一族も、この後50年余りで滅びてしまう。子孫の三浦若狭守泰村は、宝治元年(1247年)の宝治合戦で、北条軍と安達軍の前に大敗し、妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた。大江広元墓の鳥居横のやぐらに祀られているが、今では訪れる人もいない。<br />(表紙写真は来迎寺本堂)

鎌倉材木座来迎寺

1いいね!

2010/01 - 2010/01

6277位(同エリア7344件中)

0

2

ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市材木座にある来迎寺は、1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまりで、当時は、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。正式には、隋我山能蔵院来迎寺という。
 衣笠城主三浦大介義明の菩提寺であるから来迎寺には三浦大介義明の墓と三男多々良三郎重春の墓がある。頼朝の信任の厚かった三浦一族も、この後50年余りで滅びてしまう。子孫の三浦若狭守泰村は、宝治元年(1247年)の宝治合戦で、北条軍と安達軍の前に大敗し、妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた。大江広元墓の鳥居横のやぐらに祀られているが、今では訪れる人もいない。
(表紙写真は来迎寺本堂)

  • 来迎寺本堂。

    来迎寺本堂。

  • 本堂裏手、五輪塔の奥には墓があり、花が供えられている。

    本堂裏手、五輪塔の奥には墓があり、花が供えられている。

この旅行記のタグ

関連タグ

1いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP