2009/12 - 2010/12
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ドクターキムルさん
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大船にある常楽寺は粟船山(ぞくせんざん)といい、この粟船が訛って大船の地名になった。地名を立派なものに変えた例ともいえる。富塚が戸塚に変わったのとは大違いだ。鎌倉幕府三代執権・北条泰時が夫人の母の供養の為、嘉禎3年(1237年)に建立した粟船御堂が始まりと言われている。その後、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が蘭渓道隆を寿福寺から招いて臨済宗の寺となった。蘭渓道隆は建長寺を開山する前にこの寺に住み禅を広めた。
鎌倉時代に建てられた建物が現存していない鎌倉地域においは、室町時代に建てられた建物さえも6棟程度と少ない。このために、常楽寺文殊堂は江戸初期の建物であり、かつては扇ガ谷の尼寺英勝寺の太子堂であったが、明治元年に移築したもので、鎌倉では古い建物になる。秘仏として木造文殊菩薩坐像が安置されており、毎年1月25日に行われる文殊祭の時以外は開帳されない。木鼻は簡素化された鎌倉には良く見られるものである。山門は万治4年(1661年)の建立であり、文殊堂、仏殿と供に萱葺きである。仏殿(元禄4年(1691年)建立)には本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像のほか、蘭渓道隆像が安置されている。また、天井には狩野雪信筆の「雲龍図」が描かれている。鎌倉で古い雲龍図はここだけである。
この寺の梵鐘は重文であり、建長寺の梵鐘、円覚寺の梵鐘(供に国宝)と共に鎌倉三名鐘とされ、鎌倉国宝館に寄託している。
北条泰時と大応国師のお墓が仏殿裏にある。また、裏山山頂に木曽義仲の子・木曽義高の墓と中腹に泰時の娘で三浦泰村の夫人(姫宮)の墓がある。
境内には開山の禅僧が植えたとも言われる銀杏の古木の枯れ株があり、ひこばえが生えている。
また、和風の庭園が設けられており、水音が聞こえる。
(表紙写真は常楽寺山門に掛かる「粟船山」の扁額)
英勝寺では太子堂が大船・常楽寺に移築され文殊堂として現存していると寺伝されている。絵馬殿ではなく、太子堂が正しいであろう。
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常楽寺山門。常楽寺は臨済宗建長寺派の寺院。
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境内参道。
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常楽寺仏堂。
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常楽寺仏堂には本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像のほか蘭渓道隆像が安置されている。
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常楽寺仏堂天井の狩野雪信筆の「雲龍図」。
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文殊堂。
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文殊堂の木鼻。
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文殊堂の木鼻。
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仏堂裏の開基北条泰時公の墓。
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仏堂裏の再中興龍淵胤和尚の墓。
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仏堂裏の円通大応国師の墓。
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大銀杏のひこばえ。昭和13年に倒尽した。中に枯れた幹が残る。
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「涼蔭」碑(昭和14年)。大銀杏を愛でる碑。
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和風の庭園。
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粟船山中腹の姫宮(泰時の娘)の墓。
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粟船稲荷。
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「木曽冠者義高之塚」(鎌倉同人会、大正15年)。
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「木曽清水冠者義高公之墓」。
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粟船山山頂の木曽義高の墓。木曽義高は頼朝・政子の長女大姫の許婚。鎌倉には人質として来ていた。
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