2009/10 - 2009/10
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ドクターキムルさん
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大正7年に建てられた「二十五坊旧蹟」の石碑から一本道を入って3、400mも上ると山が迫る。突き当たりには石段があり裏山へと登れる。しかし、右手には高さが2mもない岩山を貫く素掘りのトンネルがあった。入り口だけはコンクリートが打たれているが、すぐに素掘りの岩肌が見える。長さは100mはないであろうか、向こうに出口の日の光が見える。江戸時代以前に掘られたトンネルであろう。今は個人所有であり、トンネルの入り口に表札が掲げられ、関係者以外立ち入り禁止の古びた看板もある。スポーツカーなら抜けられようか。地図で確認するとトンネルは80m余りあり、来迎寺のある西御門一丁目の谷戸に繋がっている。トンネルを抜けるとすぐに建物があり、階段でヴィラ西御門の横の道に続く。道を下って行くと来迎寺に行く道の前にある西御門ハイツから80m余り上ったところの三叉路に出る。出来たら一度通ってみたい鎌倉らしい道である。
鶴岡二十五坊があった雪ノ下の御谷(おやつ)とよばれる一帯の真ん中あたりには空き地が広がる。古都保存法発祥の地の看板が立つ。「この地、御谷は古都としての聖域・鶴岡八幡宮の後方にあたり、谷戸正面の山一体は■踞峰と称する霊地であった。昭和39年, この御谷に宅地開発の手が伸びるにいたり, 貴重な自然と歴史的環境を守ろうと御谷地区住民と多くの市民が起ちあがり, 宅地開発への反対運動を繰り広げた。その勢いは国会も動かすこととなり, 昭和41年, 「古都」をもつ府県選出の国会議員を中心とした超党派の議員立法として「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」 (俗に「古都保存法」という)を誕生させた。よって, 当地を古都保存法発祥の地と称する 神奈川県・鎌倉市」(■は獣(犬)偏にムハ久の「さん」)とある。もう1枚の看板には江戸時代の鶴岡八幡宮寺境内図の絵があり、「国指定史跡鶴岡八幡宮境内 昭和42年4月24日指定 この地域は、「国指定史跡鶴岡八幡宮境内」のうち、 二十五坊跡あるいは御谷(おやつ)と呼ばれ、 鶴岡八幡宮寺に仕えた僧侶の住坊が営まれていたところです。建久年間(1190年代)供僧二十五口の制が定められ、 鎌倉時代には鶴岡八幡宮寺別当が東大寺、 東寺などの別当をかねるなど、 日本仏教界の中心の一つとなっていましたが、 明治初年の神仏分離の影響を受け、 廃絶しました。また、 この地域の史跡整備に先立ち、 昭和63年3月に史跡の保存管理計画を策定しましたが、 平成2年以降住民との話し合いが行われ、 平成13年 4月に住民の意見を反映した保存管理計画に改定しました。今後は住民をはじめ、 市民の方々の協力を得ながら、 史跡の保存、整備に取り組んでいきたいと考えています。平成15年3月 鎌倉市教育委員会」
緑地となっている経緯が解かる。
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大正7年建立の二十五坊跡の石碑。
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入口だけコンクリートを打った手堀のトンネル。向こう側に出口が見える。
このトンネルの向こう側にあたる西御門地区にも二十五坊は広がっていたのであろう。民家となっているが、庭には石仏が並んでいる。おそらくは、国大付属鎌倉小中裏手(北側)から第二中、トンネルの出口がある第二中北側あたりにまで二十五坊があったのであろう。
雪ノ下御谷(おやつ)側は駐車場、鶴岡文庫、新宮南参道横、近代美術館鎌倉別舘、巨福呂洞門手前からこのトンネル前までであろうか。近世十二坊が雪ノ下御谷(おやつ)側にあったとされる。中世二十五坊の残りの十三坊の相当数は東側の雪ノ下3から西御門1にあったのではなかろうか。 -
二十五坊跡地の板緑地に立つ「古都保存法発祥の地」等の2枚の看板と石碑。
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鶴岡八幡宮寺境内図。この図からも二十五坊は雪ノ下御谷(おやつ)側と雪ノ下3から西御門1に亘っていたとすべきだろう。
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「古都保存法発祥の地」の看板。
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広い空き地隅山側には大木が生い茂っている。
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