2005/10/15 - 2005/10/25
376位(同エリア973件中)
kojikojiさん
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上海F1のニュースを見ていたらイメージが浮かんできて、上海からそのまま蘇州に入って自転車で観光して、太湖にも行って杭州へは京杭運河を船を使って、杭州の三大名店も味わって、紹興もちかいな、新しく出来た富春山居も見ておこう。予定を組んでみたら2週間弱で行けそうなので手配しました。F1の開催と重なってじまい、離れた蘇州でもホテル代が高騰していました。何とか交渉して1泊は高い料金を払うだけで済みました。蘇州は2回目なので以前に見られなかった獅子林と滄浪亭を見て蘇州四大名園制覇しました。また前回は真冬で寒かっただけの自転車でしたが、気候も良く街を一周出来ました。当時は全て自転車でしたが5年も経つとほとんどが電動バイクになっていました。摩托車の乗り入れは禁止されています。あっという間に進歩してしまう中国には来る度に驚かされます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 自転車 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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春の上海と江南の旅行に続いて、上海から蘇州と杭州を巡る旅を計画しました。スターアライアンスのマイルも溜まっていたのでANAの成田から上海浦東までひとっ飛びです。
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9:50発の成田便は11:55に上海浦東空港に到着しました。両替をしてインフォメーションで蘇州行きのバス乗り場を尋ねると、係員の女の子はついてきなさいと案内してくれました。かなり複雑で案内してもらわないと判り難いですが、申し訳ない気分です。
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空港から蘇州行きのバスのチケットを買ったので上海市内はスルーです。蘇州市内の渋滞もあったので2時間30分くらいかかりました。
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途中の高速道路からF1の看板が見えました。本当はF1も観戦したかったのですが却下されました。1人の頃はイタリアのモンツァやポルトガルのエストリルなんて行けたのですが。
蘇州の市内にはいると予約したホテルの目の前を通過しましたが、バスが停められないので降ろしてもらえず、反対側の街外れまで連れていかれました。戻るのにタクシー20元と1時間近い時間ロスでした。 -
蘇州のホテルは凱菜酒店で、ここに3泊します。この日と翌日はF1のせいで宿泊料金がべらぼうに高かったです。1泊1,780元(23,000円)で2泊と月曜日が988元(12,800円)でした。後年上海と杭州と江南の水郷を巡る7泊8日のツアーでもこのホテルに2泊しました。そのツアーは年末年始でしたが、39,800円という格安な物でした。とても美しい景色が広がります。部屋からの眺めは新しい建物も古い建物と同じ色の瓦屋根と白漆喰の壁になっています。古いものと新しい物が調和しています。京都もこんな風に残せていたらと思います。
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部屋で一休みして、日が暮れてから「観前街」までぶらぶら出掛けました。このホテルにしたのは蘇州四大名店が連なる観前街が近かったからです。商店街としては150年以上の歴史を持ち、1本入った平行して延びる太監弄には「松鶴楼」や「得月楼」や「王四酒家」など蘇州を代表する老舗蘇州料理店が並んでいます。
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今回は美味しい物を食べるのも旅の大きな目的です。蘇州三大名店と上海蟹は外せません。
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どの店に入ってよいか目移りしてしまいます。
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今晩は「得月楼」という三大名店の一つです。
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「清溜河?仁」は川エビの炒め物です。蘇州では新鮮な川エビがとれるため、来客の際に最初にでてくることが多いメニューです。「エビ」の発音が蘇州の方言の「歓迎する」の発音と似ている事もあり始めに出すのだそうです。太湖三白と呼ばれる料理の太湖白?です。
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「梅菜扣肉」という客家料理で、広州で広く作られます。池袋でもお昼のランチで食べさせてくれる店があって大好物でしたが、惜しくも閉店してしまいました。「梅菜(メイツァイ)」という広東省梅州地区で作られている漬物がポイントですが、日本でも簡単に手に入るようになりました。
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「松鼠桂魚(桂魚の丸揚げ甘酢あんかけ)」桂魚は川や湖沼にいる淡水魚で、中国では淡水魚の王様といわれています。これに衣を付けて熱い油に入れて強火で揚げて、反り返った形や揚げられた外見が、まるでリス(松鼠)の尻尾のように見えることから、その名が付いたと言われています。大変に手の込んだ盛り付けです。
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スープは淡白なジュンサイと豆腐のものにしました。
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美味しい紹興酒も一緒です。「古越龍山」の名前は古い越を興した龍(王の意味)の山(府山)がその由来で、紹興にも今回の旅で立ち寄ります。
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2人では食べすぎですね。全部で288元!当時のレートで4,000円でした。ここから今回の旅の美食三昧が止まらなくなりました。
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「得月楼」には今回の旅でもう一度訪れ、後年の旅でも大晦日に訪れて上海蟹を食べました。
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ホテルへの帰りは夜店を覗きながら帰りました。10月なのに新銀杏が出ていておいしそうでした。
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栗も美味しそうでしたので買って食べました。日本で食べる天津甘栗とはちょっと違います。
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ホテルのロビーで記念写真。10年後に同じホテルに泊まった時も同じ場所で写真を撮りました。
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ホテルの部屋の窓からは定慧通りにひっそりと佇む「双塔」が見えます。北宋時代の982年から建築された八角七層の2つの塔は舎利塔(左側)と功徳舎利塔(右側)と名付けられ、高さは約33.7メートルあり同じ構造です。双塔が当初建てられたという羅漢院正殿は現存せず、石柱や敷居などが残るのみです。
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太陽の昇る東側を撮ったら不思議な写真になりました。ホテルの部屋のガラスがフィルターの役目をしてしまったようです。
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宿泊した凱菜酒店前の運河の水門です。蘇州はいたる所に水路があります。この水路を南に下った先に貸自転車屋さんがあり、1日40元(560円)でした。
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5年前の年末に来た時も蘇州駅前の自転車屋で貸自転車を借りましたが、1日10元くらいだったと思います。真冬の寒い日に手袋もせず、寒さに震えながら留園と舘山寺と北塔などを巡りました。それに比べたら天国のような日です。
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自転車を借りて出発です。とりあえず町の西側に向かいます。その前に杭州行きのフェリーの予約です。
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「蘇州輪船埠頭」まで来ました。埠頭の建物も新しく立派です。杭州と蘇州間だけでなくもっと整備をして、長い距離のクルーズが出来る事を望みます。杭州から北京まで行ける日は来るのでしょうか?
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夕方の出港なのでターミナルは閑散としています。翌々日の杭州行きの豪華船のスイートに予約を入れました。788元(11,000円)でした。もちろん中国語は話せないのですが、筆談で十分でした。
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乗船する呉越号です。「呉越同舟」というわけですね。残念ながらこの蘇州と杭州を結ぶ京杭運河のクルーズは運休してしまったようです。
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豪華船の中にも部屋によってランクがいろいろでした。それ以外にも安いランクの下の船もあるようです。
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自転車はまだ現役ですが、もう5年もしたらみんな電動になるのではないでしょうか。
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西側の大きな外城河まで出ました。蘇州の街をグルリと周って寒山寺に向かいます。
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10年後に来たときは年末の混雑した蘇州の街のこの3輪人力車で駆け抜けました。
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楓橋通りの1本道を寒山時に向かってひた走ります。途中の上津橋で一休みします。
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橋の上から寒山寺方面を眺めてみます。
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橋のたもとでは手打ちの麺が干してありました。
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橋の上は風が通るので涼しそうです。
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街路樹の雰囲気はヨーロッパの街並みのようでもあります。2000年の頃は町中に自転車が溢れかえり、その中を一緒に街を走り抜けるのは気持ちよかったのですが、5年後に来たらほとんどが電動バイクに変わっていました。
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蘇州市内はガソリンエンジンのバイクは乗り入れ禁止になっていて、音も無く電動バイクで楽々走る人を見てしまった後は、妻の動きも鈍くなったような気がします。
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10月だというのに運河沿いには紫陽花が満開に咲いていました。
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陽開く「寒山寺」到着しました。このお寺は蘇州の旧市街から西に約5キロメートルの場所にあり、寒山拾得の故事でも名高いです。楓橋路に面しており、唐代の詩人の張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊」(ふうきょう やはく)の石碑があることでも知られます。
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寒山は寒巌幽窟という洞窟に住んでいたためそう呼ばれ、樺の皮をかぶって大きな木靴をはいていたという。拾得は天台山国清寺の僧侶の豊干に拾い養われたので拾得と称、国清寺の行者となります。2人は7世代にわたる仇敵同士の家に生まれますが、豊干はふたりを悟りに導き相交わるようになります。国清寺で食事係となって乞食同然の生活をしたと言われます。
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寒山寺は中唐の詩人で政治家でもあった張継の七言絶句「楓橋夜泊」によっても広く知られています。この詩は都落ちした旅人が蘇州西郊の楓江にかけられた楓橋の辺りで船中に泊まった際、旅愁のために眠れぬまま寒山寺の鐘の音を聞いたという様子を詠ったものです。
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妻にとっては李香蘭主演の映画「支那の夜」の劇中歌である「蘇州夜曲」の渡辺はま子の歌がその全てのようです。東宝の看板スター・長谷川一夫と満洲映画協会(満映)の看板スター・李香蘭との共演による「大陸三部作」の二作目で、現在見ても面白い映画です。
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境内中央には本堂にあたる大雄宝殿があり、クスノキの一刀彫りに金色に彩色された釈迦牟尼仏と阿難と迦葉の像があり、脇には十八羅漢が並んでいました。堂内で線香を買い求め、周りの人に倣ってお参りします。寒山寺の入場料は1人40元(560円)でした。
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それぞれ実家の家内安全を祈ります。
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この時は病気療養中だった父の回復を祈りましたが、10年後に来た時にはすでに他界していたので、母の書いた般若心経を持ってきて、このお寺の御坊さんに託しました。大晦日には大きな法要があるのですが、偶然その日に来る事が出来ました。
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大雄宝殿の南東側には、屋根の大きく反り返った2階建ての鐘楼があり、観光客でも鐘を撞くことができます。鐘楼の前には「聴鐘石」と刻された自然石が置かれており、記念写真の撮影スポットとなっています。鐘楼は1人5元(70円)が別途必要です。
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張継の詩に詠まれた寒山寺の鐘は唐代に鋳造されましたがすでにうすなわれていました。明代の嘉靖年間に本寂禅師によって2代目の鐘が鋳造され、鐘楼も建てられますが、この鐘も16世紀末葉から17世紀前半にかけて失われます。 現在寒山寺では2つの鐘が用いられています。
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最後に寒山寺が再建された約100年前の清朝末期のもので、ひとつは1906年に中国で製造された大きい鐘であり、もうひとつは同じ頃に日本で鋳造されたもので、初代内閣総理大臣伊藤博文による銘文が鋳されています。
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4代目とされる鐘は1986年に民豊鍋廠という工房で製作された鐘で、高さ2.25メートル、外周1.5メートル、重量2.5トンで、梵鐘づくりの名工と呼ばれた李吉人が、北京に所在する大鐘寺の資料によって唐代の鐘を再現したものです。
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「普明宝塔」は境内東端の最も奥に位置し、1995年12月に建てられた高さ52メートルの木造の塔で、唐の楼閣式仏塔を模したものです。
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日本の寺院とはまた違った良さがあります。
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塔の上からは周囲の屋根瓦が望めますが、その上には1角コインが投げられています。下に落ちないで乗っかると縁起が良いとされているのでしょうね。
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美しい透かし彫りが壁に組み込まれています。
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切妻の壁には寒山と拾得が遊ぶ姿がレリーフになっていました。
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この橋と楓橋を合わせ「江楓古橋」と呼ばれ、ともに歴史は唐代にさかのぼるが、現今の橋はいずれも清の同治年間に修造されたものだそうです。
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「江村橋」は寒山寺南門付近に架かる橋で、多くの参詣客にとっての参道でもあります。
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「楓橋夜泊」(ふうきょうやはく)
中唐の政治家の張継の七言絶句で、南に下る旅の船の中で寝付かれずにいると、蘇州の寒山寺の鐘の音が響き、まだ夜が明けていないのを知るという意味です。
月落烏啼霜満天
江楓漁火對秋眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船 -
寒山寺を後にして自転車で出発します。めったにカラオケなど行きませんが、行くと2人で唄う「蘇州夜曲」を口ずさみながら走りました。「君がみ胸に 抱かれて聞くは 夢の船唄 鳥の歌 水の蘇州の 花散る春を 惜しむか 柳がすすり泣く」
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「花をうかべて 流れる水の 明日のゆくえは 知らねども こよい映した ふたりの姿 消えてくれるな いつまでも 」
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「髪に飾ろか 接吻しよか 君が手折し 桃の花 涙ぐむよな おぼろ月に 鐘が鳴ります 寒山寺」
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「留園」に到着しました。留園は蘇州西北にある門の外側に位置し、明代の万暦二十一年(1593年)に創建されて東園と名付けられます。清代の嘉慶三年(1798年)に劉恕が荒れ果ててしまった東園旧址の基礎上に改築して碧荘と命名し、同時に園主の姓となる劉に因って劉園とも呼ばれます。
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太平天国の乱の際の戦禍や管理不足によって庭園は次第に荒れ果ててしまい、3年を費やして大規模な増築改修を行い、光緒二年(1876年)についに落成し、名前も「劉園」と同音の「留園」と改められます。
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現在は北京の「頤和園」と承徳の「避暑山荘」、同じ蘇州の「拙政園」と並んで中国四大古典園林とされています。また
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蘇州古典園林のうち「拙政園」と「留園」は中国四大名園の二つに数えられ、宋代の「滄浪亭」と元代の「獅子林」、明代の「拙政園」と清代の「留園」の4つの時代にそれぞれ作庭起源をもつ庭園を合わせて蘇州四大園林ともいいます。
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北京の「頤和園」は前年に訪問していますし、今回の旅では、宋代の「滄浪亭」と元代の「獅子林」をこの後見学します。私はこれで蘇州古典園林を制覇したことになりますが、妻はこの8年後に「拙政園」を訪れます。
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庭園の太湖石の奇岩を配した庭や、文人趣味の邸宅も素晴らしいのですが、この時は宋時代の衣装をきた女性が「箏」を奏でたり、「揚琴(ようきん)」を奏でたりしています。
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何とも言えない風雅な庭園見学になり感激しました。
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昆曲(こんきょく)と呼ばれる中国の古典的な舞台演劇が演じられていました。昆曲とは京劇より古い演劇形式で、元末から明の初め、江蘇省昆山一帯に生まれました。最初は蘇州一帯で演じられていましたが、明の万暦帝の時代(1573年~1620年)になると蘇州を中心に長江以南の銭塘江以北に広まり、その後北京にも伝わります。
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昆曲の特徴としては抒情性の強さと動作の繊細さ、節回しの美しさと優雅な舞踊などが挙げられるそうです。清代の中期以降は演劇の地位は北京を中心に発展した京劇が取って代わりますが、昆曲と京劇は見た目はほとんど同じです。昆曲の特徴は主に節回しの繊細さや優美さにあります。
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昆曲の有名な演目には春秋時代呉越の戦いを背景とした范蠡と西施の「浣紗記」、昆曲の代表作品である「牡丹亭」、玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を描いた「長生殿」、明の興亡を背景とした文人と妓女のラブストーリー「桃花扇」など多彩な作品があります。
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「牡丹亭」は2009年に歌舞伎役者の坂東玉三郎が、蘇州弁でこの昆曲を演じたことで話題になりました。
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この日も「牡丹亭」一幕が演じられていたようです。
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他に観る人も無く、妻と2人で演者と対峙していると不思議な気分になってきます。まるで我々も牡丹亭の時代に迷い込んだようでした。
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さらに先に進むと今度は「二胡」の演奏です。
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二胡はひしゃく型の胴に蛇皮などを張り、棹を差し込んだ擦弦楽器(弦をこすって音を出す楽器)です。その物悲しい音色には聴き入ってしまいます。
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太湖石(たいこせき)とは、中国の蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形の奇石のことです。太湖付近の丘や湖に浮かぶ島は青白い石灰岩でできていますが、かつて内海だった太湖の水による長年の侵食によって石灰岩には多くの穴が開き複雑な形と化します。
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太湖石の観賞ポイントについて諸説ありますが、有名なのが「痩・漏・皺・透」という判断基準だそうです。痩=細く長いこと、石が自立していること。漏=でこぼこと穴が開いていること。皺=石肌が良いこと、皺や模様が豊富で趣きがあること。透=大小の様々な穴があり、奥の景色が見えていることだそうです。
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太湖石は白居易が発見したという説もあるそうで、「石は文字が書いてあるのでも声を出すわけでもない、香りもないし味もしないが、魅力的な面白い形をしており人を満足させられるなら、ただの石にも高い価値が付く」と書き残しています。
そんな太湖石ですが、横浜の「三渓園」に行ったときに、三重塔を目指して山道を進んで行くと竹林がまるでアーチのようになっていました。そこに太湖石が打ち捨てられていました。原三渓が生きていたらびっくりすると思いました。 -
最後は「琵琶」の演奏でした。琵琶は洋ナシ型胴や円型胴をした4弦の撥弦楽器です。中国へはインドやペルシアから伝わり、正倉院には4弦のものと5弦のものが残されていますが、現存する歴史的な5弦の琵琶は世界で1本、正倉院にしかありません。
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留園には前回の旅でも訪れていますが、今回は季節の良い時期にじっくり見学できてよかったです。留園からは「北寺塔」へ行きましたが、工事中でネットが張られていたので先を急ぐことにしました。
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「獅子林」へ急ぎ自転車を走らせました。カートを引いていたおじさんは帽子から回教(イスラム)の方と分かりますが、本物の豹の皮を積んでいたのでびっくり。
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留園で時間を取られてしまったので、だいぶ陽が傾いてきました。前回の旅でも「獅子林」に到着したら入場門が閉まった後でした。
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「拙政園」の前の道を「獅子林」に向かうところです。5年前と同じ位置で運河を撮ってみました。
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この獅子林には思い出があります。前回の旅でここへ辿り着いたときには入り口の門が閉まっていました。出口で観光客に手品を見せて商売している女の子に、もう閉まってしまったのか尋ねますが言葉は通じません。彼女はちょっと困って両手を合わせて右の頬に当てました。ああ、獅子林は寝てしまったのね。もう閉まったのだと理解しました。その時の女の子はもういませんでした。
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何とか「獅子林」に入る事が出来ました。この庭は元の時代の1342年に天如禅師の弟子が禅師のために造営した庭園で、天如禅師はかつて浙江省の天目山の獅子崖で修行したことから「獅子林」と名づけられたといわれます。園内には太湖岩の奇石が林立し、その太湖石を積み重ねて築いた築山に迷路のような洞窟が通っています。
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九曲橋(きゅうきょくばし)は上から見ると橋がギザギザに曲がっていて、歩く時に四方がよく見えるようになっています。隋から唐の時代に富裕な官僚や文人は亭(てい・ちん)を私的な庭園に組み込むようになり、その役割は実用的なものから美的なものへと変わります。亭は座って休める場所や庭園の風景を楽しむための場所を提供します。さらに亭は庭園の風景を構成する重要な部分になり、鑑賞の場であるだけでなく鑑賞の対象にもなります。
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これも石舫なのでしょう。いつのものか分かりませんが、北京の頤和園の昆明湖に浮かぶ石舫を思い出します。
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念願かなって感無量です。日本だと「獅子林」はプリンスホテルの中華料理店のイメージが強いですね。「留園」も子供の頃にテレビのコマーシャルで見た「リンリンランラン留園、リンリンランラン留園、留園行って幸せ食べよう~。」でお馴染みでした。
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立派な太湖石を組んだ築山が見事でした。獅子の形の岩が99か所あるといわれているそうです。
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庭園に巡らされた白漆喰の壁には風雅な装飾が施されています。
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これは視覚的な効果もあるのだと思いますが、庭園に風を渡らせたり、逆に池からの涼しい風を邸宅に流す工夫もあったのでしょう。
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「獅子林」を出るとすっかり日は落ちていました。自転車に乗って先を急ぎます。
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自転車で走る地元の人の流れに乗るとようやく中国と一体化で来た気がします。
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東北街の橋を渡れば予定の4分の3は走ったことになります。日も暮れて月が大きく昇ってきました。
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写真がボケてしまいましたが、高架の橋の上からの眺めはとても美しかったです。
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フラッシュを炊くと空気中のちりまで写ってしまいます。
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さあ、自転車を返して晩御飯にしましょう。
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「もうすぐご飯だよ。」と声を掛けたら元気になりました。
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外城河をほぼ1周しました。
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白く輝く干将東路の橋を渡ればホテルは近くです。ホテルの前を一度通過しながら自転車を返して長い一日が終わりました。ほぼ11時間のサイクリングでした。
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頑張った妻にはご褒美が必要です。この日も昨晩と同じ「得月楼」で食事にしました。まずは大きな「大閘蟹(ダーヂャーシエ)」を持ってきてもらい、タグや重さを確認します。これは一度下げられて調理されます。
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今日は蟹がメインなので他の料理はセーブしましょう。まずは鴨の冷製でビールをいただいて喉を潤します。
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蟹の味を壊さないあっさり味の白魚のスープにしましょう。太湖三白の一つである太湖銀魚と呼ばれる4センチほどの骨のない白魚です。
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椎茸の旨煮と青梗菜の一品も美味しかったです。
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ようやく蟹が蒸しあがりました。お酒は同里(トンリー)の黄酒です。中国国内では「大閘蟹(ダーヂャーシエ)」と呼ばれる上海蟹は、養殖ものだと1年中出回っていますが、美味しい時期がまさに旅したころです。中国語で「九雌十雄」と言われ旧暦の9月にはメスが美味しく、旧暦の10月にはオスが美味しいと言われます。
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大閘蟹の産地の中でも有名なのが「陽澄湖(ヤンチェンフー)」で、最も美味しい上海蟹として人気です。この旅の3年後は陽澄湖で上海蟹釣りにも行きました。
個人的意見ではメスの卵は濃厚な卵の黄身のような味で、オスは白子のようなねっとりとした味です。 -
大満足の夕食でした。この日の食事は288元(4,000円)でした。
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翌日の太湖への日帰り旅行からの帰りは、シェラトンホテルに行ってみました。本当はここに泊ってみたかったのですがF1のせいもあって予約できませんでした。現在はパンパシフィック蘇州と名前が変わっています。
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上手いこと道前街の姑胥橋の停留所でバスが降りられたので良かったです。そのまま外城河沿いに南に下っていきました。胥門の外城河(西濠)に架かる万年橋が美しいアーチを見せています。
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この辺りは再開発が済んでいますが、店などはまだ入っておらず開店休業状態でした。
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新しいものですが、呉の国の宰相である「伍子胥」の像が置かれてありました。伍子胥が楚に勝利し、父兄の恨みを晴らすべく、平王の死体を鞭打ったという話は「死屍に鞭打つ」という言葉で残っています。
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新市路まで出るとようやくホテルが見えてきましたが、ライトアップしてないので暗いです。
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盤門景区に面した広大な敷地に古典的な宮殿のような建物が広がっています。この当時ほとんどライトアップしていないので真っ暗でした。
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中央の吹き抜けは8角形を組み合わせた形をしていました。
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ここで暫く休憩させてもらいました。
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ロビーのバーでお酒をいただいて104元(1,450円)。部屋が空いていれば泊まりたいホテルでしたが、町中の観前街まで出るんは少々面倒のようです。
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今日はついているのかここでも琵琶の演奏を聴く事が出来ました。
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この日の晩御飯は三大名店の一つ「王四酒店」です。得月楼の並びにあります。
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「龍井蝦仁」は龍井茶と川エビを炒めたものです。これは本当に美味しいです。本場は名前の通り龍井のある杭州の料理です。
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豆苗炒めもガーリックが効いていておいしかったです。
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旅はまだまだ続くのですが3日目にして少々疲れて来たので「酸辛湯」をいただきます。世界中どこに行っても疲れたらこのスープです。
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春の旅行で上海でも食べた「蟹粉豆腐」は豆腐と上海蟹の肉と卵の入った旨煮です。これも美味しいです。
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食事のお供は「王四酒家」の名前を冠した黄酒です。この日の食事は188元(2,600円)とお安かったです。
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お酒が少し残ったので持ち帰りました。今時中国でも酔っ払って酒瓶ぶら下げている人いませんよ。妻の横の塀は巨大な空き地を囲っていましたが、次に行ったときは巨大な商業施設に変わっていました。
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結局部屋で酒盛りが始まってしまいました。
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蘇州の最終日はホテルからタクシーに乗って「滄浪亭」に来ました。ここで四大名園達成しました。個人的にはここが一番落ち着いていられる所でした。ここは1人20元(280円)の入場料でした。
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「滄浪亭」は蘇州の四大名園の一つで、唐末の時代に呉越広陵王であった銭元僚が造営したものを、北宋慶暦年間(11世紀中期)に詩人の蘇舜欽が改築しています。蘇舜欽は官職を失ってから蘇州に移り住み、この地に魅かれ買い取ったと言われています。滄浪亭という名は、紀元前3世紀頃の楚の政治家、屈源の楚辞という詩から名づけたとされています。
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滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足
滄浪の水 清ければ以って、吾が纓(えい)を洗うべし。滄浪の水 濁れば、以って、吾が足を洗うべし。 -
築山を登っていくと滄浪亭と呼ばれる亭があるのですが、写真を残していませんでした。
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回廊で見逃してはならないのは、漏窓(ろうそう)です。漏窓とは窓枠の内部に模様を組んだものです。白壁の中に漆喰細工で作られていて、装飾という意味合いが強いのですが、採光と通風の機能を持っています。これは霊芝と鶴でおめでたい吉祥紋です。
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木漏れ日と漏窓の漆喰の陰影が何とも言えないです。
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爬山廊の漏窓は木の葉の形の中に芙蓉か牡丹の花が表されています。
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この花弁の下地がどうなっているのか知りたくなります。
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漏窓は江南庭園の中でも、特に蘇州において発達したと言われています。なかでも、ここ滄浪亭の漏窓は特に見事だと言われています。
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中国では八宝と呼ばれる吉祥模様があり、宝瓶(ほうびょう)もその一つです。
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これは瓢箪で、昔は作物の種入れとして用いられてきた歴史が長く、「瓢箪の中に入れた種は必ず芽が出る」ので、幸福や成功のチャンスがめぐってくると言われるおめでたい形です。
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巾着の形も縁起が良いとされるのだと思います。
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漏窓ばかり見ていて肝心の所をいくつか見落としていましたが、素晴らしい庭園でした。
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日向ぼっこしていた猫ともお別れです。
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かつての滄浪亭は、現存している滄浪亭の6倍以上の広さを有していたといわれています。滄浪亭の入口を入らずにさらに運河に沿って進んでいくと、運河が池のような姿に広がります。この部分は、かつての滄浪亭の池だったところで、この池を中心に庭園が南北に広がっていたことになります。かつての滄浪亭でも最も美しい景観が広がっていたところだと言われています。
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滄浪亭を出て「盤門」の方まで歩いてみます。水路沿いにぽつんと建つ理髪店が面白かったので写真を1枚。
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まだ天秤棒が現役なのですね。
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「蘇州碑刻博物館」までやってきました。ここは文廟と呼ばれる孔子を祀る廟でもあります。博物館が目的ではなく、古玩市場のような所があるというので行ってみました。しかし立派な?島星門です。後年青島からの旅で孔子縁の足跡をたどりました。
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確かに骨董品やらがらくたがたくさんありましたが、これと言って欲しい物はありませんでした。が、時間があったらまた来たい所ではありました。
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「盤門」が蘇州最後の観光です。表側の塔の方から入りました。蘇州城は紀元前508年に呉王闔閭(こうりょ)が城を築いたのがその始まりです。設計したのは伍子胥(ごししょ)であるとされています。当時の伍子胥が蘇州に作った城門の中で、今でも残っているのはこの盤門だけです。入場料は1人25元(350円)。
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昨晩見掛けた伍子胥の石像がこの近くにある理由が分かりました。
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瑞光搭周辺はかつての蘇州の水郷風景を再現するかのように整備されていて、造られた美しさではありますが、気持ちの良い風景が広がっています。池の反対側にある麗景楼で、三階建ての建物でどっしりした構えです。屋根の跳ね上がり方が優雅です。
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行けの向こうに昨晩立ち寄ったシェラトンホテルの美しい姿が見えました。
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シェラトンホテル側の庭園をゆっくり散策してみます。
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芙蓉の花が咲き乱れています。昨日行った太湖の東山でも奇麗に咲いていました。
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ホテルの建物も景観と一体になっているので違和感がありません。こういうところは中国は進んでいると思います。
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回遊式の庭園には築山もあり、高低差があるのでそれぞれの景色を楽しめます。
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盤門は2つの水門と2つの陸門、これに小城郭と城楼と両側の城壁から組み合わせから成り立っている門で、蘇州では一般的だった水陸の城門を唯一現存させています。呉越戦争では呉越が水陸両軍で戦っています。
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公園内に運河まで引き込まれています。ここは遊覧船があり舟遊びが楽しめます。
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一番奥から瑞光搭を望みます。この塔は三国時代に呉の孫権が母の恩に報いるために禅寺を建立した際に、建設されたものです。三国志で読むと孫権は母に頭が上がらなかったようですが、大変尊敬していたとも言えます。現存している瑞光搭は北宋の時代である1004年に再建されたもので、七層で八角形の仏塔で煉瓦と木で建てられています。高さは53メートルもあります。
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少し疲れてきましたが、休憩するような場所もありません。
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ということで運河を遊ぶ遊覧船があったので乗ってみました。緩やかな流れの中で艪の音とおばさんが唄ってくれた歌を聴いていると眠くなります。
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蘇州の街中なのに緑濃い運河の景色です。
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30分くらいの舟遊びでしたが休憩も出来て楽しかったです。
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川面はこんな風景です。もっとゆっくりしたい蘇州でしたが、今晩の船で杭州に向かいます。ホテルに戻らなければ。
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盤門は結婚式の写真撮影のポイントのようです。たくさんのカップルが正装して歩いていました。
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花嫁さんも大変ですが、新郎も大変ですね。そういえば蘇州にはウエディングでレスばかり扱う店が並ぶ通りがあったはずです。
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風光明媚で素敵なところでした。旧跡を歩いているよりは公園を散策している気分です。
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中国の人は観魚が大好きです。近年は日本の錦鯉の良いものはみな中国の人が買うとも聞きました。
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餌に群がり盛り上がる水面を見ていたらちょっと気持ち悪いです。昔は北海道でニシン漁が盛んだったころは海面が魚で盛り上がったと聞いたことを思い出しました。
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ちゃんとジグザグに歩けるので安心しました。九曲橋を渡れないとキョンシーですからね。
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ここからはタクシーで観前街まで戻りました。
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最後に「老盛興蘇州湯包館」で蘇州麺を食べることにしていました。地元のおばさんがレジ台で何にしようかワイワイしています。陽射しも緩くなった午後3時の麺屋です。蘇州麺のお店は最初に入口近くのカウンターで食券を買い、店員に食券を渡してラーメンを受け取るセルフサービス式が主流だそうです。
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蘇州で一押しなのがこの「蘇州麺」で、スープは白湯で鶏ベースの塩味やうすい醤油味です。麺はストレートで博多ラーメンみたいな少し細い麺です。具と麺は別々に分けてでてくるのが蘇州麺です。麺だけ食べて投入してもよし、自分のタイミングで具を麺に投入できます。
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我が家のモットーは半分ずつ食べるなので、この場合は具材を半分づと分けました。ベースの麺とスープは同じですから。
お腹がいっぱいになったところでホテルへ戻り、荷物をピックアップして再びタクシーで蘇州の埠頭へ行って杭州までのクルーズ旅が始まります。
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