2006/08/08 - 2006/08/08
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スキピオさん
マドレーヌ教会はたびたび「マドレーヌ寺院」とも呼ばれる。
それもそのはずだ。
今からちょうどニ百年前の1806年、ナポレオンがこの地にこの建物の建設を命じた時、彼はこれを帝国陸軍の栄光を称えるための寺院 temple にしようとしたからだ。
ナポレオン失脚(1814年)後、この建物はキリスト教の教会となり今に至るが、教会らしからぬギリシャ様式の外観からだろうか、ちまたでは今だ「教会」の名が冠せられず「ラ・マドレーヌ」と呼ばれる。
【約二百年前にできたネオ・クラシック様式のマドレーヌ教会、 列柱と破風】
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【マドレ−ヌ教会の正面入口階段に立ち、コンコルド広場、その中央に立つオベリスク、さらに先のブルボン宮殿を望む。モーパッサンの小説『ベラミ』は主人公がこの視点を持って終わる】
ここはギー・ド・モーパッサン(1850−93)の傑作『ベラミ』の最後の舞台となった場所だ。野心家のデュロワは男前だけを頼りに社会の階梯を昇って行き、ついに自分の勤める新聞社の社長令嬢と結婚するに至る。その結婚式が行なわれる教会がここだ。彼の結婚式はここで行なわれなければならない。なぜなら、式を終えて教会正面から出てきたデュロワは、コンコルド広場の中央に立つオベリスクの彼方に目を向けなければならないからだ。
《それから、目をあげると、かなたコンコルドの広場の向こうに、衆議院の建物がそびえていた。マドレーヌ教会の玄関からブルボン宮の玄関まで、ひととびに飛んでいけそうな気がした。(田辺貞之助訳 春陽堂)》 -
【マドレーヌ教会横・・・この少し先に「フォーション」がある】
ブルボン宮には日本で言えば衆議院、つまり国民議会が置かれている。
作者は、卑しくて、つまらない男が代議士にまで登り詰めることを示唆して小説を終える。
ここにこそ痛烈な皮肉が込められているのだ。
時代は十九世紀後半の千八百八十年代、狂乱の第三共和制がスタートしたばかりで、銀行家、資本家、成り金、社会主義者からアナーキスト、なんでもござれの時代だった。
この共和制は、ブーランジェ将軍事件、パナマ事件、ドレフュス事件を経て、自由の象徴マリアンヌ(ドラクロワなどが描いた自由の女神の愛称)を搾取という栄養材で太りに太らせたあげく、行き着いたのが第一次世界大戦だ。これは史上初めて出現した大量破壊兵器によっておびただしい犠牲者を出す悲惨な戦争となった。 -
【8区の「モンソー公園」にあるモーパッサン像・・・かつて永井荷風はパリに到着して真っ先にこの敬愛するモーパッサンの石造を拝した】
その間、革命百周年を記念して開催された1889年の万国博覧会(鉄の時代を象徴するエッフェル塔が作られる。これをモーパッサンが忌み嫌ったのは周知のこと)、十九世紀を葬り、二十世紀を迎えるために開催された1900年の万博という、二つの万博で産業資本の勝利を高らかに歌い上げる。
実際は、その勝利のために、植民地の原住民(『ベラミ』の主人公は2年間アフリカでアラブ人を迫害したことを懐かしく思い出している)、鉱山や炭坑で働く人びとなど社会の底辺が犠牲になっていたのだ。それをモーパッサンは短編小説や紀行文で訴えていた。 -
【サン・トノレ通り】
マドレーヌ教会からデュフォ通りを行き、サン・トノレ街に出る。このサン・トノレ街は有名ブランドの商店が軒をつらねるフォーブール・サン・トノレとは違う。念のため。後者は前者の延長線にある。
「レ・アル」の南から西に延びた、このサン・トノレ街はオスマン男爵のパリ大改造以前まで(つまり19世紀初頭まで)はパリの中心的な通りだった。
たとえば有名な『シラノ・ド・ベルジュラック』(17世紀)の中に登場するパン屋も、劇作家モリエール(17世紀)の生家も、最初に「レストランスープ(体力回復スープ)」を提供し(18世紀)、食堂が「レストラン」と呼ばれる切っ掛けを作った「食堂」もこの通り沿いにあった。
大革命時、ジャコバン派を率いた清廉の士ロベスピエールが住んでいたのもここだった。 -
【サン・トノレ通り・・・ロベスピエール滞在を示すプレート】
《マキシミリアン・ロベスピエールは、1791年7月17日から1794年7月28日(共和暦2年テルミドール10日)、すなわち彼の死の日までここに滞在する》と書かれている。
個人的な欲望や利益をいっさい排除しつつ、ひたすら理想的な革命の達成を目指し、結果多くの血を流した「清廉の士」は、自らもギロチンの露となり、36年の生涯を閉じた。
◇このすぐ近くのカンボン通りとサン・トノレ通りの交差点に「ノートル=ダム・ド・ラソンプシオン(聖母被昇天)教会」があります。この地下にあるポーランド料理のレストランはものすごく〈おすすめ〉です。目立ちませんが、向かって左側の階段を降りると入口があります。15ユーロもあれば、ポーランド料理のフルコースをいただけます。店内の雰囲気と接客態度(信者の方でしょうか)は三ツ星です。 -
死刑の判決を受けた人びとがコンシエルジュリーの牢獄からギロチンの待つ革命広場(現在のコンコルド広場)まで荷車に乗せられて通ったのもこの通りだった(ロベスピエールも例外ではなかった)。
若きナポレオンはサン・ロック教会前のまさにこの通りで、反革命派の蜂起を殲滅させて華々しいパリデビューを果たした。
それから、彼がほとんどまっしぐらに出世街道を駆け登り、皇帝にまでなったのは周知のことだ。
【サン・ロック教会内】
◇ジャコバン派の名の由来となったジャコバン修道院もサン・トノレ街から少し入ったところにありましたが、現在は「マルシェ・サン・トノレ広場」というガラスの建物からなるしゃれたショッピング・センターになっています。
ですから、修道院の面影はまったくありません。このジャコバン修道院で、志を同じくする闘士たちが集会を開いたことから「ジャコバン派」と呼ばれました。 -
マルシェ・サン・トノレ広場に入る手前の道を左に曲がるとヴァンドーム広場がある。
【ヴァンド−ム広場】
ヴァンドーム広場はもしかするとパリで一番ハイ・ソサエティーな広場かも知れない。
[スキピオという名前は高貴だけど、21世紀の、しかも日本の片隅にひそむスキピオはまったくの庶民です。そんな庶民のスキピオがこの広場に入ってもまったくなじみません。いかめしい建物に囲まれて感じるのは居心地の悪さだけというみじめさ]
中央の銅柱の上にナポレオンがすっくと立っている。この銅柱はオーステルリッツの会戦で捕獲した大砲を鋳潰して作ったものらしい。古代ローマを模倣して螺旋状にナポレオンの戦勝場面が浮き彫りとなっている。柱上のナポレオンは以前は伍長の姿をしていたらしいが現在はローマ皇帝を模倣している。 -
【ナポレオン像と街灯】
この広場の居心地の悪さはどこから来るのだろうか。もちろん上流社会的な雰囲気からなのはわかっている。だが、どうもそれだけではない。いや、もしかするとそれと一体化しているのかも知れないが、それは水気、湿気の無さではないだろうか。
この広場には草木も花も、水盤も噴水もない、つまりここは砂漠のようにかさかさに乾いた世界なのだ。
本来なら水盤や噴水のあるべきところに、ナポレオンの銅柱がある。画家のクールベがこの銅柱に不快を感じたのは、もちろん反権力ゆえかも知れないが、それだけではないかも知れない。『こんにちはクールベさん』や『オルナンの埋葬』を描いたクールベのこと、もっと人と人との潤いのある世界としての広場を欲したのだろう。彼は、このヴァンドームの塔を引き倒して、罰金を課せられた。 -
ピアニストのショパンが息を引き取った館と向き合って、法務省、ホテル「リッツ」などが軒を並べているが、ここはなんと言っても宝石店で有名だ。
【ヴァンドーム広場・・・ホテル「リッツ」】 -
ミシェル・トゥルニエ(1924−)の小説『黄金のしずく Goutte d'or』はここで物語を終える。
サハラ砂漠に住んでいたベルベル人の少年、イドゥリスは偶然手に入れた「黄金のしずく」という宝石を持ってフランスにやってくるが、あっけなくマルセイユで娼婦にその宝石を巻き上げられてしまう・・・
【『黄金のしずく』(ミシェル・トゥルニエ著・榊原晃三訳・白水社1996年)の表紙】 -
それでもなんとかパリにたどり着き、従兄を頼って18区のミラ通りというアラブ人街に住む。彼が知り合いになる風変わりなマネキン人形の蒐集家が住んでいる所が小説のタイトルにもなっている「黄金のしずく」通りだ。
【「黄金のしずく通り」のプレート】 -
【黄金のしずく通り】
モンマルトルの丘の東、サクレ・クールの下に位置する「黄金のしずく通り」とその界隈はアラブ人街と言えるかも知れない。
近くに安売りのデパート《タチ》がある。小説ではこの店の主任に頼まれて、美少年のイドゥリスは少年用のマネキンを作るために、「ドロリとした物質」の中に入り、「型取り」をされる。
◇確かに《タチ》は安い。まあまあしゃれた六つひと組のコップが1.5ユーロという値段。特に、ナイフやフォークなど台所用品がおもしろい。 -
【「黄金のしずく」通りと「ボリス・ヴィアン」通りの交差点】
イドゥリス少年がパリを体験し味わうこのミラ通りからグット・ドール通り、ロシュシュアール大通り=シャペル大通りは「ヴァンドーム広場」とは対極の、アラブ人を中心とした庶民的な界隈だ。
ちなみに、ボリス・ヴィアン(1920〜1959)の家は「ムーラン・ルージュ」の方にあり、何故ここに彼の名が冠せられているか、わからない。
彼は、ご存知かも知れませんが、技師、詩人、小説家、作詞・作曲家、歌手、ジャズのトランペッターという、マルチな天才だった(小説全集は「早川書房」から出ています)。若者にとって彼は《反権力・ダンディー》として常にカリスマ的な存在だ。 -
【アラブ人街の最寄り駅「バルベス=ロシュシュア−ル駅」のホーム・・・ここは珍しく高架線になっている】
さてまた小説に戻る。彼は色々なアルバイトをして、最後にする仕事が道路工事だ。ちょっと小説を引用してみよう。おおはしゃぎの従兄の台詞。
《「おい、イドゥリス!ヴァンドーム広場だぞ!あそこはパリの生活の究極のそのまた究極っていうところだ。いろんな宝石店や香水を売る店がある。ホテル〈リッツ〉もあるし、法務大臣の邸もある。それに、何と言ったって、広場の戦勝記念碑の上には大ナポレオンの像が載っかっているんだ!いやおまえの頭の中では想像できないだろう。ところが、われわれ北アフリカのアラブ人は、あそこで、一体何をすると思う?道具を持って行って、いたるところを壊すんだ!」》
こうして、イドゥリス少年はヴァンドーム広場の宝石店の前で、猛烈な音をたてるエア・ハンマーで店を揺らしながら道路を粉砕する。すると「アフリカ、中東の宝石と貴金属 クリストバル宝石店」のショーウインドーがふと目にとまる。中にはたった一つの宝石しか展示されていない。彼は我が目を疑う。まさにそれはマルセイユで娼婦に奪われた「黄金のしずく」だった。
彼は狂ったようにエア・ハンマーを激しく使う。彼はエア・ハンマーをパートナーにして踊り狂う。あまりに激しいのでショーウインドーにひびが入り、地震センサーが働き、サイレンが鳴り響く。それでもかまわずイドゥリス少年はエア・ハンマーを相手に踊り続ける・・・ -
【ヴァンド−ム広場、今は地下駐車場も完成している(左隅)】
現在、イドゥリス少年たちが始めた工事はとっくに終わり、広場の地下に大駐車場ができている。そして宝石店が並び、空々しいまでの格調の高さを誇っている。
◇トゥルニエの小説は常に様々な《二項対立》が絡まりあって成り立っています。この小説ではたとえば「砂漠と都会」という対立項から、黄金のしずくという宝石とそれを運んできた少年が18区のアラブ人街とヴァンド−ム広場をするどく対立させています。
しかし究極のところで「砂漠のようなヴァンドーム広場」が砂漠の少年イドゥリスを引き付け、砂漠で拾った宝石「黄金のしずく」がこのパリの砂漠で見い出されるところに作者のメッセージが感じられます。
彼の傑作中の傑作『フライデー・・・あるいは太平洋の冥界』(岩波書店)では「文明(ロビンソン)と自然(フライデー)」が、不思議なパラドクスを準備しています。
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