見所満載!
- 4.0
- 旅行時期:2020/01(約6年前)
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by nichiさん(男性)
小樽 クチコミ:20件
この博物館は前から訪れたかった所。
小樽の歴史を知ることができます。
この博物館も明治26年に建てられた「旧小樽倉庫」にあります。
入場料は300円
侮ってはいけません。
見所満載で予定時間を大幅に過ぎて真剣に見入ってしまいました。
「おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来するとのこと。
昭和40年代まで「小樽内(オタルナイ)」という集落が存在していたようです。
アイヌの服は、草皮衣(テタラベ)と言う衣類。
イラクサと繊維を使った衣類がありました。
北前船の紹介も。
江戸中期から明治にかけて大阪と北海道を結んだ経済動脈であった北前船。
物を運ぶだけでなく、寄港地で売り買いをする「買積船」でした。
蝦夷地と言われた当時の北海道に生活物資のほとんどを供給し、海産物や毛皮類を小樽より本州に運び出していました。
北前船が寄港地で行った売買記録。
これ、面白くて夫婦で見入ってしまいました。
今じゃエクセルで簡単に作れますが、当時は縦書きの墨で書いていた伝票ですね。
北前船の模型がありました。
全長32m。
意外と小さい。。。
荷物を多く積み込むため、ずんぐりしてます。
800石(約120t)積んでいたようですが、1400石(210t)積むことも可能だったとのこと。
北前船の航海は、春の大阪から始まり、寄港地で商売しながら北上するため、蝦夷(北海道)まで片道50日~60日かかります。
風頼りの帆船であるため、隠岐の島の西郷、羽前の飛島(山形県酒田)、津軽の深浦(青森県西津軽郡)などは、風待ち及び潮待ちに適した寄港地として栄えた港のようです。
北前船の航海で使われた道具が紹介されていました。
航海で使われた望遠鏡や磁石とか、、、
GPSは無いしな~
引札です!
つまり江戸時代の広告チラシ!
これ、面白い!
北前船は物だけでなく、人や文化も運んでいました。
小樽は、上方文化を含めた寄港地の文化の上陸地となりました。
北前船による物資の輸送が盛んになると、小樽の街に倉庫ができ始めました。そのころの紹介も面白かったです。
オコバチ川から手宮にかけての埋め立てが明治20年ごろに終了しました。
江戸時代から明治時代にかけて、河岸や港において廻船などの商船を対象として様々な業務を行った廻船問屋は、小樽で倉庫業を始めました。
その多くは木骨石造と言われる安価な建築費で防火に優れた大型倉庫でした。
この博物館も木骨石造です。
廻船問屋は今で言う、総合商社ですね。
小樽市総合博物館運河館として使用されているこの建物の模型がありました。
明治26年(1983年)に加賀橋立(石川県加賀市)の北前船主であった西出孫左衛門と西谷庄八によって設立された「小樽倉庫組」の木骨石造り建設です。
「口字型」の配置と鯱に特徴があります。
鰊盛業屏風です。
鰊漁から加工までの様子を六曲一双に描いています。
これ、面白くてシニア夫婦2人じっくりと拝見しました。
港に鰊をあげて、鰊つぶしと言う工程を経て、「もっこ」と呼ばれる背負子に鰊を入れて運びます。そして出荷。
江戸時代前期から道南で盛んになっていた鰊漁は、江戸代後半は小樽周辺の漁場に中心が移ってきました。
鰊の豊漁は、巨万の富を生み、小樽経済の基礎を築きました。
鰊は3月下旬から4月上旬にかけて産卵のために日本沿岸にやってきます。
豊漁の時は海が盛り上がるぐらい鰊が押し寄せたとのこと。
この漁と共に春が訪れることから、春告魚とも呼ばれています。
鰊の漁期にはたくさんの季節労働者が全国からやってきました。
漁業経営者は多くの季節労働者を受け入れるための住宅を造りました。
中には鰊御殿と呼ばれるほどの豪華な建物もあり、今でも一部残っています。
私達は見れなかったど、、、、
豊かになった小樽には、国際航路が開かれ、様々な外国の物資や文化が入ってきました。
裕福な方々は、当時高価だったカメラや映画を撮るカメラも。
当時小樽の街の再現エリアがありました。
小樽がもっとも華やかであった大正時代の街並みを復元しています。
しかし、次第に鰊漁の漁獲高は減り、昭和28年(1953年)に終わりを迎えました。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
クチコミ投稿日:2020/02/08
いいね!:4票
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