高倉天皇と小督の悲恋を伝える清閑寺
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- 旅行時期:2011/09(約14年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
東山・祇園・北白川 クチコミ:79件
清閑寺は谷間に京都市街地を望む清水音羽山の中腹にあり、平安から鎌倉時代にかけての第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高倉天皇の後清閑寺陵の南にある。
創建は平安時代、802年に紹継(しょうけい)法師が開創したとも第50代・桓武天皇が創建したともいわれている。
一時荒廃したが平安時代、第66代・一条天皇在位中(986−1011年)、伊予守佐伯公行が再興して996年に天皇の発願により創建された祈願寺となっている。
平安時代末1129年と室町時代の応仁・文明の乱(1467−1477年)にも焼失し再建されている。
天皇とのゆかりも深く、1176年に第79代・六條天皇、1181年に第80代・高倉天皇を寺内に葬っており現在は寺の北の山腹に六条天皇陵、高倉天皇陵が設けられている。
境内に残る要(かなめ)石は、六條院の小堂跡といわれ また小督局(こごうのつぼね、1157年―不明)が出家した寺と伝えられているが『平家物語』巻6「小督」や謡曲「小督」は、高倉天皇と小督の悲恋を描いている。小督は宮中一の美女で琴の名手で高倉天皇の寵愛を得るが高倉天皇の中宮・建礼門院徳子の父・平清盛の怒りを買い嵯峨に身を隠す。小督への思いを断ち切れない高倉天皇は源仲国に捜索させ仲国は琴の音を頼りに小督を見つけだし宮中に連れ戻す。再び天皇の寵愛を得て範子内親王を生むが清盛の目をのがれることはできず宮中を追われ清閑寺で出家させられた。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで清閑寺で亡くなったといわれている。
山門を入ったところに小督の供養塔(宝筐印塔)が建てられているが謡曲では高倉天皇が自分の墓は小督の棲んだ清閑寺に葬るように遺言したとされている。現在、高倉天皇陵の傍らにも小督局墓と伝えられている墓があるがこの時代は天皇といえども権力者・平清盛には従わざるを得なかったのは悔しかっただろう。
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- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2013/02/26
いいね!:2票
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