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JR関西線桑名駅から徒歩15分、桑名城(くわなじょう、三重県桑名市吉之丸)は関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)に上総大多喜から10万石を以て入封した徳川四天王の一人で家康の腹心ともいえる本多忠勝(ほんだ・ただかつ、1548~1610)によって揖斐川が伊勢湾に注ぐ河口近くの地に10年を越える歳月を費やして完成させた近世城郭です。<br /><br />この地に城が築かれたのは文治2年(1186)鎌倉幕府の命により桑名行綱(くわな・ゆきつな)が当地を支配したのに始まり、戦国時代初期には国人領主が互いに争う中、有力国人である伊藤氏が東城を、樋口氏が西城をそして矢部氏が三崎城をそれぞれ構えて自領の勢力拡大に明け暮れていました。<br /><br />天正2年(1574)、上洛実現をめざす信長は揖斐川を臨む交通の要地である桑名を確保するため武将滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)を派遣、強大な軍事力により上述国人らを支配下に置き、更に秀吉時代でも信長三男神戸信孝(かんべ・のぶたか、1558~1583)を始め、一柳氏、氏家氏と有力家臣を配して桑名の支配をあたらせます。<br /><br />武人として数々の戦功を挙げてきた上述の本多忠勝は桑名入封と同時に桑名城の改修と共に藩政にも注力し当地の大規模町割りを行い現在の桑名市街の基礎を確立、また交通の要地という観点から商業の発展を支えるため東海道の宿場町整備にも傾注しています。<br /><br />慶長14年(1609)忠勝が隠居し家督を継いだ嫡男忠政(ただまさ、1575~1631)は元和3年(1671)大坂の陣における武功によって播磨姫路へ15万石に加増のうえ移封、代わって家康異父弟にあたる松平(久松)定勝(まつだいら・さだかつ、1560~1624)が11万石を以て山城伏見から入封、二代定行(さだゆき、1587~1668)は城下の湿地開拓による新田開発に貢献するも寛永12年(1635)伊予松山に移封となります。<br /><br />以降家康に近い譜代大名が藩主として入封、即ち美濃大垣より定行の弟にあたる松平(久松)定綱(まつだいら・さだつな、1592~1652)が11万3千石で入封し3代定重(さだしげ、1644~1717)まで続き、宝永7年(1710)には備後福山より松平(奥平)忠雅(まつだいら・ただまさ、1683~1746)が10万石で入封して7代忠堯(ただあき、1801~1864)まで続き、更には松平(久松)定永(まつだいら・さだなが、1791~1838)が陸奥白河より11万3千石にて再入封し5代続き維新を迎えることになります。<br /><br /><br />公園入口に設置の案内板には「桑名城の沿革」として次の記載があります。<br /><br />「戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され、信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。<br /><br />桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。<br /><br />桑名に本格的な城郭が築かれてのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張を行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。<br /><br />桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヶ所、櫓は95ヶ所とあります。<br /><br />しかし、 幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府側に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東方地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(たつみやぐら)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。」

伊勢桑名 家康関東入封の際には破格の10万石にて大多喜藩主を務めた四天王の一人本多忠勝が揖斐川河口に近世城郭として築いた水城の『桑名城』訪問

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2016/04/29 - 2016/04/29

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR関西線桑名駅から徒歩15分、桑名城(くわなじょう、三重県桑名市吉之丸)は関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)に上総大多喜から10万石を以て入封した徳川四天王の一人で家康の腹心ともいえる本多忠勝(ほんだ・ただかつ、1548~1610)によって揖斐川が伊勢湾に注ぐ河口近くの地に10年を越える歳月を費やして完成させた近世城郭です。

この地に城が築かれたのは文治2年(1186)鎌倉幕府の命により桑名行綱(くわな・ゆきつな)が当地を支配したのに始まり、戦国時代初期には国人領主が互いに争う中、有力国人である伊藤氏が東城を、樋口氏が西城をそして矢部氏が三崎城をそれぞれ構えて自領の勢力拡大に明け暮れていました。

天正2年(1574)、上洛実現をめざす信長は揖斐川を臨む交通の要地である桑名を確保するため武将滝川一益(たきがわ・かずます、1525~1586)を派遣、強大な軍事力により上述国人らを支配下に置き、更に秀吉時代でも信長三男神戸信孝(かんべ・のぶたか、1558~1583)を始め、一柳氏、氏家氏と有力家臣を配して桑名の支配をあたらせます。

武人として数々の戦功を挙げてきた上述の本多忠勝は桑名入封と同時に桑名城の改修と共に藩政にも注力し当地の大規模町割りを行い現在の桑名市街の基礎を確立、また交通の要地という観点から商業の発展を支えるため東海道の宿場町整備にも傾注しています。

慶長14年(1609)忠勝が隠居し家督を継いだ嫡男忠政(ただまさ、1575~1631)は元和3年(1671)大坂の陣における武功によって播磨姫路へ15万石に加増のうえ移封、代わって家康異父弟にあたる松平(久松)定勝(まつだいら・さだかつ、1560~1624)が11万石を以て山城伏見から入封、二代定行(さだゆき、1587~1668)は城下の湿地開拓による新田開発に貢献するも寛永12年(1635)伊予松山に移封となります。

以降家康に近い譜代大名が藩主として入封、即ち美濃大垣より定行の弟にあたる松平(久松)定綱(まつだいら・さだつな、1592~1652)が11万3千石で入封し3代定重(さだしげ、1644~1717)まで続き、宝永7年(1710)には備後福山より松平(奥平)忠雅(まつだいら・ただまさ、1683~1746)が10万石で入封して7代忠堯(ただあき、1801~1864)まで続き、更には松平(久松)定永(まつだいら・さだなが、1791~1838)が陸奥白河より11万3千石にて再入封し5代続き維新を迎えることになります。


公園入口に設置の案内板には「桑名城の沿革」として次の記載があります。

「戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され、信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。

桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。

桑名に本格的な城郭が築かれてのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張を行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。

桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヶ所、櫓は95ヶ所とあります。

しかし、 幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府側に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東方地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(たつみやぐら)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。」

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス JRローカル

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  • 桑名市街案内板<br /><br />主たる建物の位置を示す案内板が地図と共に市街の至る所に設置され、初回訪問者には迷うことはありません。

    桑名市街案内板

    主たる建物の位置を示す案内板が地図と共に市街の至る所に設置され、初回訪問者には迷うことはありません。

  • 三の丸堀<br /><br />舟入橋から三ノ丸堀を通して石垣を一望します。

    三の丸堀

    舟入橋から三ノ丸堀を通して石垣を一望します。

  • 九華公園案内板<br /><br />桑名城跡は公園化されその名も「九華(きゅうか)公園」という名称で市民には親しまれています。

    九華公園案内板

    桑名城跡は公園化されその名も「九華(きゅうか)公園」という名称で市民には親しまれています。

  • 筏橋方向

    筏橋方向

  • 九華橋方向<br /><br />本丸に繋がる九華橋を捉えます。

    九華橋方向

    本丸に繋がる九華橋を捉えます。

  • 九華橋<br /><br />大手橋ともいうべき九華橋を渡り本丸跡に向かいます。

    九華橋

    大手橋ともいうべき九華橋を渡り本丸跡に向かいます。

  • 二の丸方向<br /><br />九華橋から二の丸方向を望みます。

    二の丸方向

    九華橋から二の丸方向を望みます。

  • 三の丸掘方向<br /><br />同様に九華橋から三の丸堀方向を一望します。

    三の丸掘方向

    同様に九華橋から三の丸堀方向を一望します。

  • 神戸櫓跡<br /><br />一柳氏が城主の頃、伊勢神戸城(現鈴鹿市)の天守閣が当地に移築されるも、本多忠勝が城郭を近代化する改修工事の際にはそのまま櫓としてそのまま残され「神戸櫓」と称していたそうです。

    神戸櫓跡

    一柳氏が城主の頃、伊勢神戸城(現鈴鹿市)の天守閣が当地に移築されるも、本多忠勝が城郭を近代化する改修工事の際にはそのまま櫓としてそのまま残され「神戸櫓」と称していたそうです。

  • 神戸櫓跡説明

    神戸櫓跡説明

  • 鎮国守国神社鳥居<br /><br />桑名城本丸跡には松平定綱及び松平定信を祀った鎮国守国神社が配されています。

    鎮国守国神社鳥居

    桑名城本丸跡には松平定綱及び松平定信を祀った鎮国守国神社が配されています。

  • 鎮国守国神社境内風景

    鎮国守国神社境内風景

  • 鎮国守国神社境内風景

    鎮国守国神社境内風景

  • 辰巳櫓跡<br /><br />本丸の東南に在った三重の櫓で、元禄14年(1701)天守閣が焼失し再建されなかったので、以降は当櫓が天守閣に代わるシンボルとされていたようです。

    辰巳櫓跡

    本丸の東南に在った三重の櫓で、元禄14年(1701)天守閣が焼失し再建されなかったので、以降は当櫓が天守閣に代わるシンボルとされていたようです。

  • 辰巳櫓跡説明

    辰巳櫓跡説明

  • 吉野の丸堀風景<br /><br />東屋から本丸と二の丸に挟まれた吉の丸堀を一望します。

    吉野の丸堀風景

    東屋から本丸と二の丸に挟まれた吉の丸堀を一望します。

  • 二の丸堀<br /><br />二の丸橋から二の丸堀を一望します。

    二の丸堀

    二の丸橋から二の丸堀を一望します。

  • 二の丸堀風景

    二の丸堀風景

  • 桑名城絵図<br /><br />「勢州桑名城中之絵図」と題された正保年間(1644~48)に作成された絵図が掲載されています。

    桑名城絵図

    「勢州桑名城中之絵図」と題された正保年間(1644~48)に作成された絵図が掲載されています。

  • 桑名城絵図<br /><br />揖斐川の水を城内に取り込んだ水城となっており、本丸の右には二の丸を、そして左には三の丸を配した梯郭式城郭となっています。

    桑名城絵図

    揖斐川の水を城内に取り込んだ水城となっており、本丸の右には二の丸を、そして左には三の丸を配した梯郭式城郭となっています。

  • 九華公園地図<br /><br />往時の桑名城絵図に現在の地図を重ねて位置関係が確認できます。

    九華公園地図

    往時の桑名城絵図に現在の地図を重ねて位置関係が確認できます。

  • 桑名城跡石標<br /><br />

    桑名城跡石標

  • 鎮国守国神社拝殿<br /><br />桑名城本丸跡に鎮座している鎮国守国(ちんこくしゅこく)神社は松平定綱(鎮国公)と松平定信(守国公)を祀った神社となっています。

    鎮国守国神社拝殿

    桑名城本丸跡に鎮座している鎮国守国(ちんこくしゅこく)神社は松平定綱(鎮国公)と松平定信(守国公)を祀った神社となっています。

  • 桑名城天守台跡<br /><br />鎮国守国神社の右奥には桑名城天守台跡が残っています。

    桑名城天守台跡

    鎮国守国神社の右奥には桑名城天守台跡が残っています。

  • 天守台跡<br /><br />中央部に石段が設けられていますが右側の看板には石積みが古くなっている為崩壊の怖れありとして立入禁止となっています。

    天守台跡

    中央部に石段が設けられていますが右側の看板には石積みが古くなっている為崩壊の怖れありとして立入禁止となっています。

  • 戊辰殉難招魂碑<br /><br />天守台の中央には戊辰戦争の犠牲者を追悼して建てられた招魂碑があります。

    戊辰殉難招魂碑

    天守台の中央には戊辰戦争の犠牲者を追悼して建てられた招魂碑があります。

  • 桑名城天守台跡等説明板

    桑名城天守台跡等説明板

  • 桑名城天守台跡説明板

    桑名城天守台跡説明板

  • 松平越中守家略系図<br /><br />家康の異父弟である久松定勝が家康より松平姓を賜り後裔が久松松平氏として桑名城主として支配してきた系図が掲載されています。

    松平越中守家略系図

    家康の異父弟である久松定勝が家康より松平姓を賜り後裔が久松松平氏として桑名城主として支配してきた系図が掲載されています。

  • 土塁<br /><br />鎮国守国神社の東側には駐車場となっており、そのフェンスの境目には東西十数メートルに亘って土塁が見られます。

    土塁

    鎮国守国神社の東側には駐車場となっており、そのフェンスの境目には東西十数メートルに亘って土塁が見られます。

  • 本多忠勝像<br /><br />三の丸跡を貫通する道路に面した駐車場の前面には桑名城を近世の城郭に改めた徳川四天王の一人と言われた本多忠勝の雄姿像が配されています。

    本多忠勝像

    三の丸跡を貫通する道路に面した駐車場の前面には桑名城を近世の城郭に改めた徳川四天王の一人と言われた本多忠勝の雄姿像が配されています。

  • 三の丸御殿跡<br /><br />本丸の北側には新城(三の丸)と呼ばれる一郭が築かれ城主が住む御殿が設けられていました。

    三の丸御殿跡

    本丸の北側には新城(三の丸)と呼ばれる一郭が築かれ城主が住む御殿が設けられていました。

  • 三の丸御殿(新城)説明

    三の丸御殿(新城)説明

  • 三の丸水門

    三の丸水門

  • 揖斐川河口風景

    揖斐川河口風景

  • 播龍櫓<br /><br />桑名城の隅櫓の一つとして復元された播龍(ばんりゅう)櫓が川口に在る七里の渡しに面して建てられ、往時では桑名のシンボルともいうべき櫓で、東海道を往来する旅人にはよく目にしていたようです。<br /><br />

    播龍櫓

    桑名城の隅櫓の一つとして復元された播龍(ばんりゅう)櫓が川口に在る七里の渡しに面して建てられ、往時では桑名のシンボルともいうべき櫓で、東海道を往来する旅人にはよく目にしていたようです。

  • 播龍櫓説明<br /><br />播龍とは昇天する前のうずくまった状態の龍のことで航海の守護人として据えられていたようです。また安藤広重による東海道五十三次の桑名風景にこの櫓が描かれているそうです。

    播龍櫓説明

    播龍とは昇天する前のうずくまった状態の龍のことで航海の守護人として据えられていたようです。また安藤広重による東海道五十三次の桑名風景にこの櫓が描かれているそうです。

  • 宝暦治水説明<br /><br />幕府の命により薩摩藩家老である平田靭負を奉行とする治水工事(木曽・長良・揖斐川の分流)が行われ1年3ヶ月で完成するも、40万両(薩摩藩年収入の2年分以上)の費用がかかり、病死等で80余名の犠牲者を出すほどの大工事でありました。

    宝暦治水説明

    幕府の命により薩摩藩家老である平田靭負を奉行とする治水工事(木曽・長良・揖斐川の分流)が行われ1年3ヶ月で完成するも、40万両(薩摩藩年収入の2年分以上)の費用がかかり、病死等で80余名の犠牲者を出すほどの大工事でありました。

  • 明治改修説明

    明治改修説明

  • 伊勢湾台風以降の治水整備説明

    伊勢湾台風以降の治水整備説明

  • 播龍櫓全景

    播龍櫓全景

  • 揖斐川河口風景

    揖斐川河口風景

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