![神奈川県平塚市平塚3にある阿弥陀寺は浄土宗のお寺で報恩山来迎院阿弥陀寺という。「新編相模国風土記稿」(天保12年(1842年)刊)には、鎌倉光明寺末寺で、開山は雲公建蓮社起譽(文禄2年(1593年)寂)、開基は府川出雲守吉種(弘治3年(1557年)没、法名道順)とある。また、東浦賀三浦郡に属する乗誓寺伝に曽我十郎祐成の子・河津三郎信之が親鸞の弟子となり了源と称し、安貞元年(1227年)平塚庄に阿弥陀寺を建立したが、文明年中(1469年〜1487年)比叡山の衆徒が大谷祖廟を破却した時、阿弥陀寺の住僧空淨が碩学の聞えがあったために、その寺をも破却すべきだとの風聞が起こり、空淨寺を捨て東浦賀に移り、その後阿弥陀寺を浄土宗に改め、今に存すと云う。これに縁れば起立は奮き事であり、今では寺が改宗した後の事だけを伝えていることになる。<br /> 天正19年(1591年)寺領十石の御朱印、かつ境内制札を賜ったという。本尊は阿弥陀(長三尺三寸、運慶作)であったが、今住持なく藤沢常光寺が兼帯している。寺寶は、御茶碗二口、御茶入一口、御茶筌班竹にて作れり、霰釜一口の四品で、東照宮この辺りで鷹狩りした際に、当寺で御茶を召上られ、その器を賜りしと伝えておる。鐘楼は享保12年(1727年)鋳造の鐘である。<br /> 平塚では多い鉄筋コンクリート造の本堂である。しかし、本堂横の庫裡は木造である。「新編相模国風土記稿」にある鐘とそれを掛ける鐘楼も見当たらなかった。空襲で消失したのであろうか?<br />(表紙写真は阿弥陀寺本堂)](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/93/48/650x_10934890.jpg?updated_at=1416961129)
2014/09/26 - 2014/09/26
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神奈川県平塚市平塚3にある阿弥陀寺は浄土宗のお寺で報恩山来迎院阿弥陀寺という。「新編相模国風土記稿」(天保12年(1842年)刊)には、鎌倉光明寺末寺で、開山は雲公建蓮社起譽(文禄2年(1593年)寂)、開基は府川出雲守吉種(弘治3年(1557年)没、法名道順)とある。また、東浦賀三浦郡に属する乗誓寺伝に曽我十郎祐成の子・河津三郎信之が親鸞の弟子となり了源と称し、安貞元年(1227年)平塚庄に阿弥陀寺を建立したが、文明年中(1469年〜1487年)比叡山の衆徒が大谷祖廟を破却した時、阿弥陀寺の住僧空淨が碩学の聞えがあったために、その寺をも破却すべきだとの風聞が起こり、空淨寺を捨て東浦賀に移り、その後阿弥陀寺を浄土宗に改め、今に存すと云う。これに縁れば起立は奮き事であり、今では寺が改宗した後の事だけを伝えていることになる。
天正19年(1591年)寺領十石の御朱印、かつ境内制札を賜ったという。本尊は阿弥陀(長三尺三寸、運慶作)であったが、今住持なく藤沢常光寺が兼帯している。寺寶は、御茶碗二口、御茶入一口、御茶筌班竹にて作れり、霰釜一口の四品で、東照宮この辺りで鷹狩りした際に、当寺で御茶を召上られ、その器を賜りしと伝えておる。鐘楼は享保12年(1727年)鋳造の鐘である。
平塚では多い鉄筋コンクリート造の本堂である。しかし、本堂横の庫裡は木造である。「新編相模国風土記稿」にある鐘とそれを掛ける鐘楼も見当たらなかった。空襲で消失したのであろうか?
(表紙写真は阿弥陀寺本堂)
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