2016/04/21 - 2016/04/21
337位(同エリア805件中)
ムッシュさん
平塚宿・大磯宿から小田原宿へ
商店シャターの浮世絵の高麗山(こうらいさん)の存在感が半端ない。
【編集情報】
画像15~19枚目に、湘南平からの眺望フォト4枚追加しました。
【平塚宿】
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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平塚市の東境界の馬入川の橋をわたっています。向こうに見えるは、JR東海道線の鉄橋。もうすぐ平塚駅に近い
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橋を渡り平塚市に来ると、先ず東海道の【馬入一里塚碑】
江戸日本橋より数えて15里目です
右側に『江戸十五里』、左側に『京百十一里・大阪百二十二里』と刻まれていた。
ここが江戸日本橋から数えて15番目の一里塚。 -
平塚宿入り口付近の馬入の一里塚
【東海道 馬入の一里塚】
「 慶長九年(1604年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。
馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。 文化三年(1806年)に出版された「東海道分間延絵図」には、 北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。」
平成十六年(2004年)三月 平塚市 -
平塚駅に近い、〒局裏の小さな紅谷公園に、
【怪談”番長皿屋敷”のお菊塚】
お菊は平塚宿役人の娘さん。奉公先で見初められたお菊さん、いうことを聞かなかったので嫌がらせを受け、ついには手打ちにされたという。
紅谷町公園の片隅にお菊塚がある。主人の皿を割って折檻された挙句に、井戸に飛び込んで自殺した女中が、夜な夜な井戸から現れて皿の数を数えるという有名な会談「番町皿屋敷」のモデルと言われるのがお菊である。
*平塚では、「平塚宿の役人、真壁源右衛門の一人娘だったお菊は、行儀見習いに出た江戸の奉公先で無実にも関わらず非業の死を遂げ、その亡骸がこの場所に葬られた」、と伝えられています。 -
【番町皿屋敷 お菊塚】
伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
平塚市教育委員会 -
【平塚宿の江戸見附】
ということは、ここから平塚宿は始まる場所です。
石垣の上に土盛りされた頂上部に、竹矢来が組まれた見付けの復元。
旧東海道が夏の名物、七夕祭りの中心となっている。街道沿いに数千本の大きな竹飾りが覆う様は壮観である。日本三大七夕祭りとは仙台と、愛知県一宮と、ここ平塚である。
【平塚宿の江戸見附】
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約一・五キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。
平成十三年(2001年)十月 平塚市 -
平塚宿の江戸見付。江戸方面側に立つ見附
天保14年(1843)平塚宿の宿内家数は443軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠54軒で宿内人口は2400人、宿並は東から十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町の五町で構成。 -
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東海道53次の浮世絵。丸い山は、高麗山です。(商店のシャター画)
高麗山の由来は、唐、新羅に敗れた高句麗の王族高麗若光(こまのじゃっこう)らが移り住んだ所と云います。
高麗山の頂部は、湘南平と呼ばれ、大変眺望の良い所です。
街道情報の関連で、続く3枚フォトに掲載します。 -
【平塚宿脇本陣】
江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。
平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801~03)頃の宿場の様子を画いた「東海道文間延絵図」には、西組問屋場より西に画かれていますが、天保年間(1830~44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
平成十三年(2001)三月 平塚市 -
平塚宿高札場の跡碑
山口屋茶舗の所が高札場跡です、規模は長さ二間半(約5m)、横一間(約1.8m)、高さ一丈一尺(約3m)でした。
【平塚宿高札場】
高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。
平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約五メートル)、横一間(約一・八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。
平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
平成十三年(2001)三月 平塚市 -
【平塚宿問屋場跡】
慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には、 問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が一〇余人以上勤務していた。
平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した、伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て、慶安四年(1651)その目的を達した。
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交替で執務したという。 -
平塚 春日神社
『春日神社』。
春日神社は、平塚宿の鎮守。
創祀年代等不明。社伝に、もと平塚山黒部宮と称し建久2年(1191年)に源頼朝が馬入川
(相模川)の橋供養の祈願所と定め、翌3年8月9日に御台所(政子)の安産祈願に神馬を
奉納したという。明治6年(1873年)7月30日、村社に列し、同41年4月30日、
神饌幣帛料供進神社に指定された。
祭神は天児屋根命( あめのこやねのみこと )、武甕槌命 ( たけみかずちのみこと )、
経津主命 ( ふつぬしのみこと )、比売神(ひめのかみ)の春日四神を祀る。 -
『春日龍宮社』(右)と『春日龍王神社』
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『春日龍宮社』
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『春日龍宮社』由緒
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春日龍王神社
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春日龍王神社
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『春日天満宮』
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『春日天満宮 由緒』
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【東海道平塚宿の碑】
塚見附跡を抜けると、平塚宿の碑、脇本陣跡、高札場、東組問屋場跡、本陣跡、西組問屋場跡と続いている。
この辺一帯は空襲で総て焼け、ただ街道筋に標識が立っているだけである。
平塚宿は本陣1(代々、加藤七朗兵衛を名乗る)、脇本陣1、旅籠54軒。 -
平塚宿の西方見付け。そう京方見付跡です。ここまでが平塚宿です。
【平塚宿京方見附】
東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。
宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったと思われます。
初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま)の姿に往時の風情が偲ばれます。
建設省等による東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
平成十三年(2001)三月 平塚市 -
更に西に歩を進め、前方に見える形の良い山が【高麗山(こまやま、標高168m)】
この高麗山と花水川に挟まれた地域が高麗で、さらに河口側が唐ヶ原(もろこしがはら)という。平安時代の「更科日記」にも「もろこしが原」と出てくるところだ。
唐・新羅の連合軍に敗れた高句麗人の王族・高麗若光(こまのじゃっこう)らが移り住んだ所と推定されている。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五拾三次之内 【平塚】 縄手道 広重画】
広重はこの傍示杭を手前に、街道の先には小さく花水橋、遠景正面に丸い高麗山、隠れるように冠雪した富士山、そして右手には大山詣りで知られた大山を描いています。このなだらかな丸みが美しい。
浮世絵に描かれている棒示杭は、京方見附を出たところの路傍に関札と共に立ててあったもの、正面の丸い山が高麗山、右は大山、真中の白い山が富士山、高麗山ふもとの橋が花水橋。
飛脚と駕籠をかついでいる駕籠かきが描かれているが、駕籠は竹製で軽いため、空車時は一人でもかつげるものである。
女性や足の弱い者は、江戸からの第二夜を平塚泊まりとした。
『歌川広重 東海道五十三次 平塚 縄手道』を再び。
この絵は平塚市と大磯町、江戸時代で言えば平塚宿と高麗村(高麗寺村)との境界線が描かれています。 -
湘南平頂上の展望台
(寄り道して湘南平ハイキング時のフォトです。5枚程) -
【高麗山公園(湘南平)です】
街道を離れ、湘南平に寄り道です
目立つシンボルマークのアンテナ塔です。
こちらは、展望台から、周囲を眺めています。 -
高麗山公園(湘南平)からです。
眺望良し
西北方向に、ばっちり富士山が望めます。その手前は、箱根外輪山の北端のほうかな。小さな△山は、矢倉岳。 -
高麗山公園(湘南平)からです。眺望良し
東方面の風景。湘南海岸、平塚市内と相模湾です。遠くの島は、江の島。
右上の超遠方の山並みは、房総半島(千葉県) -
高麗山公園(湘南平)からです。眺望良し
西方面、左の海は相模湾、遠方の稜線は箱根から真鶴半島へ、更に遠方は伊豆半島です -
東海道歩きに戻ります。
平塚宿を離れ、花水川を渡ると、直ぐに【高来(たかく)神社】の参道です。
【高来(たかく)神社】
高句麗からの渡来人による創建と云われます。
養老元年(717)神社内に僧行基が、高麗寺(こうらいじ)を創建し、神仏習合の聖地となった。寛永11年(1634)には東照権現(徳川家康)が勧請された。
高来神社は明治以降「たかくじんじゃ」と読む。しかし江戸時代までは、高麗(こうらい)神社。
伝承では、神功(じんぐう)皇后の三韓征伐の頃、武内宿禰(たけのうちのすくね)が、三韓の神を移したのが始まりとなっているが、実際は高句麗(こうくり)からの渡来人の創建と云われている。天智天皇の時代に滅亡した高句麗からは、多くの人々が日本に渡って来た。
三韓とは朝鮮半島南部の馬韓、辰韓、弁韓を指している。その北部に高句麗があった。
山頂と山麓に、上宮、下宮がある。
【高来神社(高麗寺)略縁起】
古代 大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されて来た。
創始 神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(高麗権現)を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀されております。
若光渡来 天智七年(668)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(716)大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長」として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。
高麗寺の創建 養老元年(717)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ケ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺として長く信仰されて来ました。
中世 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期 天正十九年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(1634)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧上より寺十三条掟書を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治三十年に高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院(二の鳥居の右手にある)に安置されました。高来神社は古来より高麗・大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。 -
高来(たかく)神社
【高来神社(高麗寺)略縁起】
古代 大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。
創始 神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(高麗権現)を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀されております。
若光渡来 天智七年(668)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(716)大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。
高麗寺の創建 養老元年(717)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ケ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺として長く信仰されて来ました。
中世 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期 天正十九年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(1634)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧上より寺十三条掟書を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治三十年に高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院(二の鳥居の右手にある)に安置されました。高来神社は古来より高麗・大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。
*慶覚院は、高来神社の手前にあり、「建治4年(1278)」銘のある地蔵菩薩像と、本地仏の一本造の千手観音像がある。千手観音像は破損が著しいが平安時代の作と考えられ、12年に1度子年の春に開帳されている。
『高来神社(たかく じんじゃ)』
「高来神社入口信号」を右に入った所が高来神社で、後の高麗山が御神体である。
高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。
旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。一の鳥居の前に建つ社標石の文字は、紀州徳川家第八代藩主だった徳川頼倫の麗筆という。頼倫の実弟徳川茂承が高麗に土地を購入して別荘を建てたため、高麗山の麓の住人はその別荘を「紀州さん」と呼んでいたという。
鳥居の神額は、明治の軍人政治家で第二次山縣内閣では文部大臣も務めたことのある樺山資紀の筆によるものとのことだ。 -
高来(たかく)神社の本殿
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当時、虚空蔵と熊野権現を祀った堂があり(現存)、ここに下馬標が立っており、
大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通った。 -
化粧坂(けわい)を進むと左手に【化粧井戸】がある。
大磯の白拍子(鎌倉時代の遊女)であった”虎御前”は、この井戸水で朝な夕な化粧をしたと云います。
虎御前は鎌倉時代の遊女であったが、日本三大仇討ちの一つ曾我兄弟(現小田原市に在)の兄十郎と恋仲になった。
鎌倉時代はこの辺が、大磯の中心で遊郭が軒を並べていたとのこと。
化粧坂一里塚は、旅人の旅程の目安となり江戸日本橋より十六里の所に日陰で風よけなどで小休憩の場となる。高さ3m程の上に海側に榎を山側に栴檀を植えた。
化粧井戸は、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたと言われている。 -
【化粧坂の一里塚碑】
井戸の先が化粧坂の一里塚跡です、日本橋より16里目です
旅人の旅程の目安となり江戸日本橋より十六里の所に日陰げ風よけなどで小休息の場となる。高さ約三米程の上に海側に榎を山側にせんだんを植えた。
大磯町 -
『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女。
虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。
当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、
むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。
虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らしていた -
【此辺大磯宿の史跡 江戸見附〕
宿場の出入り口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。また、宿場の範囲を示しており、宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいた。
なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。
大磯町 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五拾三次之内 大磯 虎ケ雨 広重画】
【大磯八景碑 化粧坂の夜雨】
大磯宿に到着です。
広重は夕暮れ時の大磯宿江方戸見附と宿並そして画面左に小余綾(こゆるぎ)の磯を描き、虎御前が十郎の命日である五月二十八日に流す涙雨を降らせています。
【大磯宿】
天保14年(1843年頃)大磯宿の宿内家数は676軒、うち本陣3、脇本陣0、問屋場2、旅籠66軒で宿内人口は約3000人でした。
本図は、初代歌川広重が天保四年(1883)頃に製作した浮世絵『東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨』です。
空は鼠色に曇って秋雨が降る中、大磯宿境の傍示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬で行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れてなにか寂しげです。
画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸と磯の松、その向こうに広がる相模灘。
水平線近くの沖合いが白く明るく見えるのも、海岸で良く見る風景です。
大磯の海岸は、万葉集に詠われた「よろぎの浜」、古今集でも「こゆるぎの磯」とも呼ばれる枕歌の景勝地です。また、この辺りは鴫立澤とも呼ばれ、西行法師の歌『心無き身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮』は「三夕の和歌」の一つとして有名です。
また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曽我十郎と大磯の郭の遊女・虎(虎御前)が仇討のため二人が別れ、仇討の果てに陰暦五月二十八日、曽我十郎が命を落とした悲恋物語の曽我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったという故事から梅雨時のしとしと降る雨を「虎ヶ雨」とも呼ばれます。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由来する伝説の情趣でしょう。
画題横に『虎ヶ雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています。
【大磯八景の一 化粧坂の夜雨】
雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松の雫の音はかりして 敬之
大磯八景は、明治四十年頃、大磯町第五代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりです。
その後、大正十二年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立しました。
現在は、「小淘綾の晴嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」、「鴫立沢の秋月」、「照ヶ崎の帰帆」、「富士山の暮雪」の七基が残っています。
〔歴史と味の散歩路パンフレットより〕 -
【此辺大磯宿の史跡 虎御石】
蘇我十郎の剣難を救った身代石。また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。
江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにあがらずという色好みの石なり…」とある。
この場所におかれていた。
大磯町
『小島本陣と大磯宿』の説明看板。
宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる大旅館を本陣という。本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて 此の名称が用いられた。
享和3年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、その建坪は夫々246,238,235坪であった。
本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる床の間との違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前には庭園がある。大名と側近は 本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。
大行列の場合は隣の宿まで使用しなければ ならなかった。
尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの現在の大内館(旅館)の場所にあった。
これ等の本陣は天保7年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の並々ならぬ努力が偲ばれる。」 -
一里塚
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大磯宿陣屋
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大磯宿小島本陣跡碑
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大磯宿小島本陣跡の現代の様子
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【延台寺の「虎御石」】の説明
高麗山麓に住んだ山下長者が、虎池弁天に子宝を祈願したところ、小石を授けられ、虎御前が生まれた。曽我十郎が虎御前のもとに通っていた夜、仲を嫉妬した者が遠い矢を放ったが、この石に当たって命拾いしたという伝承がある。
【〈虎御石〉】
安元元年(1175)大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は四十歳を過ぎても子宝に恵まれず虎池弁財天に願をかけて授かったので虎と名付けた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名付けて大切におまつりしていた。不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られるほどに成長し、いつか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲となった。十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のおかげで命がたすかったので一名身替りの石ともいう。兄弟は富士の裾野で父の敵、工藤祐経を討ち本懐を遂げて死んだ。虎女は兄弟の最後の地をたずね「露とのみ消えにしあとを来てみれば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで庵を結んで兄弟の菩提を弔ったのが当山である。(説明版) -
【〈虎御石〉】
安元元年(1175)大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は四十歳を過ぎても子宝に恵まれず虎池弁財天に願をかけて授かったので虎と名付けた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名付けて大切におまつりしていた。不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られるほどに成長し、いつか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲となった。十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のおかげで命がたすかったので一名身替りの石ともいう。兄弟は富士の裾野で父の敵、工藤祐経を討ち本懐を遂げて死んだ。虎女は兄弟の最後の地をたずね「露とのみ消えにしあとを来てみれば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで庵を結んで兄弟の菩提を弔ったのが当山である。(説明版) -
虎女供養塔
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左【大磯宿遊女の墓】
江戸時代 宿場の遊女は人知れず無縁塚に葬られる者も多かったといいます しかし当山檀徒に縁ある遊女は当山墓地に丁寧に埋葬されました
右【虎池弁財天御神石】
石に当山第十六世日登上人(天明年間)の筆になる宝塔を拝し供養する御神石は 江戸時代には当山の寺領弁天池の中の島の社に虎池弁財天御神石として祀られていたご霊石であります
昭和五十八年廿八日日眞代 -
【新島襄先生終焉の地碑】
国道と旧道の三角地に新島襄先生終焉之地碑がある。天保14年(1843)、安中藩士の子として江戸・神田に生まれ、21歳で渡米しキリスト教徒となった。キリスト教主義教育を受け、帰国後同志社大学創設に尽力した。
新島襄はここにあった旅館百足(むかで)屋で、病気療養中でしたが、明治23年(1890)47歳で逝去。旅館跡地には、大磯での療養を勧めたジャーナリスト・徳富蘇峰の筆による碑がたった。(左のフォト)
「幕末のジャンヌ・ダルク」と称された妻・八重もおおいそに駆け付け襄をみとった。八重への最後の言葉は「グッドバイ、また会わん」であった。
【新島襄終焉の地】
明治の先覚的教育者新島襄は1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り苦学10年、キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して1875年(明治8年)11月29日、京都に同志社英語学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地・百足屋旅館別館「愛松園」で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。(説明版) -
新島襄終焉地
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大磯の有名店【いのうえかまぼこ店】
元首相、吉田茂に愛された。 -
【日本最初の海水浴場】
初代軍医総監松本順の尽力により、わが国最初の海水浴場として大磯海水浴場が照ヶ崎海岸に開設されたのは明治十八年(1885)のことです。
明治二十二年の『朝野新聞』は「・・・・・・殊に驚くべきは婦人達の、大胆にも浴場に遊泳し、塩気強き大濤の恐ろしき音にて来るにも構わず、妻君令嬢並びに女教師らしき連中が身に薄き巾着の西洋寝巻きをまとい、首に大なる麦わら帽子をかぶり・・・・・・。」と大磯付近の海水浴風景を紹介している。 -
大磯海岸物語、日本海水浴発祥の地です
多くの著名人が邸宅を構える避暑地になった。
富士山を望める風光明媚な照ケ崎海岸も抱え、山形有朋、伊藤博文、原敬、大隈重信、西園寺公望、加藤高名、寺内正毅、吉田茂と8人の元首相が邸宅を構えた。陸奥宗光や井上準之助のていたくもあり、政界の奥座敷と呼ばれた。 -
【鴫立庵入口】
情緒あふれる鴫立庵(しぎたつあん)。寛文4年(1664)小田原の崇雪(そうせつ)がこの地に草庵を結び、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付けました。
鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎(らくしや)、滋賀の無名庵(むみょうあん)と並び、西行法師ゆかりの日本三大俳諧道場の一つとされる。
敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南 清絶地」から、「湘南発祥の地」とされることもある。
橋が架かっている小沢を、鴫立つ沢と称していた。 -
諸国を巡った漂泊の歌人・西行法師が、大磯の海岸で
「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
という名歌を詠んだという。これにちなんで小田原の宗雪という人物が、草庵を結んだのが鴫立庵の始まり。 -
鴫立庵の説明板
【〈鴫立庵の創設〉】
今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、しかも景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念する為に、後人が選んで、それと名づけたものです。それは寛文4年(1664年)(万治元年ともいう)の頃のことで、今を去る三百年余の昔に当たります。当時小田原の崇雪という人が、石仏の五智如来像をこの地に運んで、草庵を結び、始めて鴫立沢の標石を建てたといわれます。その場所が、今日の鴫立庵であり、五智如来の石像(後世修復せしか)も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝(宝生)の五仏をいい、その像は庵の後の丘の上に、東面して並んでいますが、最初はこれを本尊として、西行寺などを作るのが目的だったといわれています。
石碑の近くにある鴫立庵(しぎたつあん)の庭園の奥まったあたりに、「鴫立沢」と彫られた石碑があり、その裏面に「著盡湘南清絶地(あきらかにしょうなんはせいぜつをつくすのち)」と記されており、
寛文年間には既にこの辺りを「湘南」と呼んでいたことが確認できる。
出家した俳人・祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」一帯の景色が、中国湘江の南方一帯の『湘南』の美しい景色に似ていたことに因んでいると。 -
【俳諧の庵、鴫立庵】 樹齢400年を越える欅の下に伏せる、茅葺の庵
小田原の医師の子、崇雪(そうせつ)が、寛文4年(1664年)、
西行法師の詠んだ名歌
「心なき身にも あわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」 を慕って、
鴫立沢(しぎたつさわ)の畔に、草庵鴫立庵(しぎたつあん)を結んだ。
そして、標石を立て、東海道を往還する人に鴫立沢を示し、「 著盡湘南清絶地 」と景勝を讃えて刻んだのが、湘南の始まりとのこと。
鴫立庵は元禄時代に俳人大淀三千風(みちかぜ)が入庵してから有名になり、多くの俳人が集まるようになった。
鴫立庵は、江戸初期、西行の歌を偲んで建てられたもので京都の楽柿舎(らくししゃ)と、近江の無名庵と共に俳諧3大道場と呼ばれたところである
庭園には、西行や芭蕉をはじめ多くの句碑が建立されている -
【鴫立庵の庵】
この鴫立庵と、京都の樂柿舎(らくししゃ)、近江の無名庵(むみょうあん)が俳諧3大道場と呼ばれていた
【大磯町指定有形文化財 鴫立庵 大磯町指定史跡名勝天然記念物 鴫立沢】 (昭和58年7月1日指定)
現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があります。庵室については大淀三千風(1700~1750)が建てたもの、俳諧道場については三世庵主鳥酔が明和二年(1756)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられます。
鴫立沢には西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりありました。寛文四年(1664)、崇雪がこの地に草庵を結んだ時に鴫建沢の標石を建て、その標石に《著盡湘南清絶地》と刻んだことから、《湘南》の名称発祥の地として注目されています。
平成二十二年三月 大磯町教育委員会 -
【芭蕉句碑】
円位堂の左側にある円筒形の句碑で、芭蕉の四時遺章が残されている。
“みのむしの音を聞に来よ草の庵”
“日のみちや葵かたふく皐月雨”
“はこねこす 人もあるらしけさの雪”
“春たってまた九日の野山哉”
下段には芭蕉の弟子やゆかりの人の26句が刻まれている。 -
引き続き、東海道を歩きます。大磯町のマンホール。美しい大磯の海岸風景に、町の花サザンカと町の木クロマツ、町の鳥カモメのカラーデザイン。「大磯」の文字
街道の松並木と海岸が描かれてる。 -
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【大磯町至福寺。島崎藤村の墓】があります。
晩年を過ごした大磯で71年の生涯を閉じた文豪・島崎藤村の遺徳を偲ぶ「藤村忌」が、命日の8月22日に大磯町の地福寺で催される。
地福(ぢふく)寺は、真言宗の古刹で、家康が利用したという茶屋がある。境内には梅の老巨木群がある。
藤村は昭和16年の春からここを借り、「東方の門」を執筆。しかし、昭和18年8月に脳溢血に倒れ71年の生涯を閉じた。
【地福寺】
船着山地福寺と称し東寺真言宗の古刹(意~古い寺~読みはこさつ)。
承和3年(837)空海の弟子、果燐の創建。町指定・有形文化財の木造弘法大師坐像が本尊で胎内に墨書銘が有り、天文11年(1542)佛師但馬作とあります。
右手に五鈷杵、左手に念仏を執って坐す通形の弘法大師像。寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げの小ぶりな像。
作者・造立年のわかる室町時代の弘法大師像として貴重な作例である。
他に永禄2年(1589)と天正17年(1542)の文書2通があり、小田原北条氏から特別な保護を受けた資料で、共に大磯町指定の文化財。山門を入ると参道の両脇には多くの梅の古木が。 -
【島崎藤村の墓】 ここ地福寺(大磯)です。
夫婦でこの地で墓が並んでいます。
島崎藤村の生家は、中山道の馬籠宿にあります。以前の中山道ウォーキングで立ち寄りました。
藤村の読経・埋葬式は昭和 18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られた。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げた -
島崎藤村の妻の墓。境内に並んで葬られています。
『島崎藤村墓』と刻まれた墓碑。
墓標の裏面には次のように記載されていた。
「明治五年二月十七日木曽馬籠ニ生レ 昭和十八年八月二十二日大磯ニ歿ス」と。
そして亡くなられた当時は、土葬であり、7回忌に現在のお墓に改葬された。
設計は、谷口吉郎(東宮御所・明治村・東京国立博物館等)で、3大墓所の一つで、山口県の森鴎外・鎌倉の吉江信子と、こちらのお墓とのこと。
そして詩集『若菜集』や小説『破戒』などの名作を残した近代文学を代表する作家で、晩年を大磯町で暮らした島崎藤村を偲ぶ「藤村忌」が、毎年命日の8月22日に
この地福寺で行われる -
境内の牡丹の花
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【島崎藤村旧居】 見学可能です
閑静な住宅街の一隅です。JR大磯駅から歩いて五分です。
「初恋」「破壊」など多くの詩や小説を生んだ藤村が晩年の2年余を過ごした。
【島崎藤村邸】
藤村は、明治三年(1872)二月十七日筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在、木曽郡山口村神坂区馬籠)の本陣の家に生まれ、本名を春樹という。
昭和十六年(1941)一月十四日大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷土行事であるのをよろこばれ、これを左義長と言い初められた。
大磯の温暖な地をこよなく愛し、その春、大磯町東小磯に住まれ、「東方の門」の筆を起こしたのであった。当村は「一葉舟」「夏草」などの詩集を刊行して日本近代詩史に不滅の名を刻み他に文明批評随筆、旅行児童文学など数多くを残している。昭和十八年(1943)八月二十一日静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中頭痛を訴え急に倒れた。八月二十二日午前零時三十五分「涼しい風だね」という言葉を残して木曽の生んだ大文豪は行年七十一才で永眠され、本人の希望により大磯地福寺に葬られた。 -
【島崎藤村旧居内部】
「余にふさわしき閑居なり」 旧島崎藤村邸~靜の草屋~
藤村は明治5年(1872)2月17日筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の木曽郡山口村神坂区馬籠)の本陣の家に生まれ本名を春樹という。昭和16年(1941)1月14日大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷土行事であるのをよろこばれ、これを左義長と言い初められた。大磯の温暖な地をこよなく愛し、その春大磯町東小磯のこの地に住まわれ、「東方の門」の筆を起こしたのであった。藤村は「一葉舟」「夏草」などの詩集を刊行して日本近代詩史に不滅の名を刻み、他に文明批評随筆、旅行児童文学など数多くを残している。昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中、頭痛を訴え急に倒れた。8月22日午前零時三十五分「涼しい風だね」という言葉を残して木曽の生んだ大文豪は行年71歳でw永眠され、本人の希望により大磯地福寺に葬られた。(説明版) -
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大磯宿 上方見附跡
【上方見附】
見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き、宿場を守る防御施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは一・六米程で、その上に竹矢来が組まれていた。
この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
そこには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。
この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。
大磯町経済観光課 -
【大磯宿 上方見附跡】の説明板より
「「見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6米程でその上に竹矢来が組まれていた。
宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。
この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。そのには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。
この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。」 -
【吉田茂銅像】
昭和58年に、地元有志の方々による建立委員会によって建立されました。
お顔は東の方角を見つめており、サンフランシスコ講和条約締結の地、サンフランシスコとワシントンに向けて設置されたと言われています。
この場所からは、富士山や相模湾を一望でき、吉田茂が眺めた同じ景色を感じ取ることができます。 -
【旧吉田邸の庭】
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