2008/07 - 2008/12
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ドクターキムルさん
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鎌倉市浄明寺と大町を繋いでいる釈迦堂口切通は、切通ではなく洞門であるが、その風情は鎌倉らしさを感じさせてくれる。現在は通行止めになっているが、高々10メートル程度のトンネルを潜れないために迂回すると浄明寺と大町間は数kmにもなろうか。
釈迦堂口切通周辺には多くのやぐら群が存在している。特に、大町釈迦堂口遺跡には中世鎌倉の横穴式墳墓「やぐら」(「日月やぐら」「唐糸やぐら」などを含め)が多く残り、初代執権・北条時政(1138年?1215年)邸跡との説があった場所も発掘調査の結果、未知の廃寺跡の可能性が指摘されている。また、洞門の上にも古道があり、いくつかの切通もある。こちらの方が釈迦堂口切通の道よりも古そうだ。峰の道を残すために切通ではなく洞門になったのであろう。もともとこの地は、三代執権、北条泰時が、父の義時の菩提を弔うために建立した釈迦堂があったところと伝えられてきており、名前の由来になっている。それ以前には、初代執権、北条時政の名越山荘があったところとされる。したがって、鎌倉時代の前期には道があり、今ある古道の中にはその当時からの道もあろうか。
鎌倉七口の切通の多くが江戸時代以降にさらに深く掘削され、道幅も拡張されている。釈迦堂口切通はどうかと言うと、洞門の高さは8mくらいに見え、天井が高い。鎌倉では明治期までに掘削された随道は、釈迦堂口切通ほど短いものはないのだが、ぜいぜい高さが2mくらいのものだ。ではどうして釈迦堂口切通は天井が高いのか?それは簡単なことで、最初は高さが2mくらいのものだったのが、下を掘削して次第に天井との間が開いていったのだろう。浄明寺側からは今でも長い坂が続くが、釈迦堂口切通が掘削された当初にはもっと坂はきつかったのだ。次第に下を掘削して低くし、現在のようになったのであろう。今見ると、幅があり、高さと長さがそれほど差がない釈迦堂口切通の洞門であるからこそ威風堂々としており、鎌倉らしさを感じさせてくれているのだ。もし、仮に、釈迦堂口切通が鎌倉時代に掘られたものだとしても当時はみすぼらしい小さな洞門に過ぎなかったであろう。
最近、このあたりの大町釈迦堂口遺跡が新たに国の史跡に指定され、鶴岡八幡宮の大イチョウが県の指定天然記念物から解除された。時代も少しずつ移り変り、道も時代と供に変わって行くのだ。
(表紙写真は釈迦堂口切通)
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