2026/09/30 - 2026/09/30
203位(同エリア402件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2026/09/30
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イチャン・カラ
この旅行記スケジュールを元に
ヒヴァ1日目の後半です。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:成田空港→タシュケント空港(タシュケント泊)
2日目:タシュケント空港→ウルゲンチ空港→ヒヴァ観光(ヒヴァ泊)
3日目:ヒヴァ観光(ヒヴァ泊)
4日目:ヒヴァ→ウルゲンチ空港→ブハラ空港→ブハラ観光(ブハラ泊)
5日目:ブハラ観光(ブハラ泊)
6日目:ブハラ観光→ブハラ駅→サマルカンド駅(サマルカンド泊)
7日目:サマルカンド観光(サマルカンド泊)
8日目:シャフリサブス観光(サマルカンド泊)
9日目:サマルカンド観光→サマルカンド駅→タシュケント中央駅(タシュケント泊)
10日目:タシュケント観光→タシュケント空港→(機中泊)
11日目:成田空港
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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東門(ポルヴォン・ダルヴァザ/英雄の門)です。この名は、14世紀に実在したヒヴァの守護聖人、無敗のレスラーにして哲学者・詩人でもあったパフラヴァン・マフムドの伝説に由来しています。1804年から1806年にかけて、エルトゥザル・ハンによって本格的な建設が開始され、1835年、次代のアッラー・クリ・ハンによって現在のアーチ状の姿へと完成させられました。
東門のすぐ外側の広場は、ロシア帝国に占領される1873年まで中央アジア最大規模の「奴隷市場」として使用されていました。当時のヒヴァは、広大な農地を維持し、城壁の建設やハレム(後宮)を機能させるために、膨大な労働力を必要としていました。過酷な砂漠の旅を経て捕らえられたペルシア人やロシア人の捕虜たちはこの東門に連行され、商品として売買されました。門の内部にある暗い小部屋は、逃亡を企てた奴隷や反抗的な奴隷が鎖に繋がれ、自らの過酷な運命を待つための場所でした。
また、この東門の前ではハンの勅令(法律や命令)が読み上げられ、罪人の公開処刑も行われていたため、地元の人々からは密かに「パッシャブ・ダルヴァザ(死刑執行人の門)」や「クル・ダルヴァザ(奴隷の門)」と呼ばれ恐れられていました。
奴隷貿易と関税によって莫大な富を蓄積したアッラー・クリ・ハンは、1830年代に東門周辺の大規模な都市再開発に乗り出し、門のすぐ隣には、長旅を終えた隊商たちが、ラクダや商品と共に安全に宿泊できる堅牢な隊商宿「キャラバンサライ」や、巨大な屋根付き屋内市場である「ティム」、そしてイスラム教の高等教育機関である「マドラサ」が次々と建設されました。
東門はハンの宮殿(タシュ・ハウリ宮殿など)や巨大な神学校に隣接しているため、イチャン・カラの門の中で最も豪華に装飾されています。正面の大きなアーチ(ファサード)には、幾何学的なタイルモザイクが職人の手によって美しく施されており、さらに文字が刻まれた「大理石の銘板」があるのも東門だけの大きな特徴です。 -
アムダリヤ川方面からの大量の物流を受け入れるため、部屋で仕切るのではなく、一本の広い通路の両側にオープンな棚(窪み)を連続して並べています。城壁を抜けた後もそのまま長いトンネル(アーケード)が街の内部へと突き抜けていく特殊な構造で、門が「屋根付きのショッピングモール」になっている状態です。
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ティムの東門です。この門は、20世紀後半から現代にかけて行われた修復・再開発プロジェクトにより新たに設けられたもので、ティムが建設された当初は、ここは完全に閉じられた外壁でした。
イチャン・カラ東部の複合建築群は、「タシュ・ハウリ宮殿(1830年~)→キャラバンサライ(1832年~)→マドラサ(1834年~)→ティム(1836年~)」と段階的に建設されました。
「ティム」とは複数のドーム状の屋根を連続して架けることで、厳しい砂漠の日差しや砂埃、冬の凍てつく寒さから商人たちやデリケートな商品を守るために設計された「屋根付きの専用商業通路」で、全長約76m、幅約26mという細長い平面です。屋根には大ドーム2個、小ドームは12個で2列に並び、ドームの直径は大きいもので約9.5m、小さいもので約6mほどあります。 -
かつては、ドームに設けられた開口部から差し込む自然光の明るさで作業や取引が行われていました。
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内部はドーム空間がリズミカルに配置され、アーチ型の通路でつながり、通路の両側には商人が店を並べていました。
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ティムの本来の入口は、タシュ・ハウリ宮殿との間の小道にあります。
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アッラー・クリ・ハン・マドラサです。
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改修してホテルにするようです。
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客室の完成予想はこんな感じ。
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1834年の建設開始で、合計99室のフジュラ(学生用の小部屋)や、大小の礼拝堂、講義室、そして、当時としては画期的な都市図書館までを緻密に配置した、非常に機能的な間取りとされています。それが、そのままホテルに転用されます。
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このマドラサは、建設当時すでに過密状態だった東門付近の敷地に建てられたため、既存の城壁の一部や、1688年からあったホージャ・ベルディバイ・マドラサ(Khoja Berdibai Madrasah)の半分を取り壊す形で建てられました。そしてマドラサ全体が、約3メートルの人工的な高台の上に構築されているため、周囲の建物より高く、非常に堂々として見えるようになりました。
マドラサの正面が、先代のホジャムベルディ・ビイ・マドラサに覆いかぶさるように建てられた理由は、「都市大改造を急いだアッラー・クリ・ハンの権力」と「東西のメドレセを対面させる伝統的デザイン(コシュ制)の実現」を、超過密な敷地で強行したためです。
イスラム建築の伝統では、重要なメドレセを建てる際、既存の広場や向かいの大建築に正面を向かい合わせる「コシュ(Kosh)制」という対面配置が理想とされていたことから、アッラー・クリ・ハンは、自分のマドラサを、既存の「クトゥルグ・ムラド・イナク・マドラサ」の真向かいに配置し、イチャン・カラの東門前に記念碑的な大広場を形成しました。また、普通なら旧メドレセを完全に取り壊すところですが、アッラー・クリ・ハンは信仰や先代への配慮、あるいは突貫工事(1~2年で完成)のスピードを重視し、「半分だけ残して一体化させる」という設計を選びました。 -
その結果、下に埋もれたホジャムベルディ・ビイ・マドラサの中庭は、新メドレセへの進入路によって左右に分断され、まるで馬の背に掛ける左右の振り分け荷物袋(フジュム)のような形状になってしまい、「フルジュム・マドラサ」と呼ばれるようになりました。
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主門(ピシュタク)の装飾は優美で、隣接するバザールや門と調和するようにデザインされています。
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門の上部や周囲には、白地に青の文字で描かれたペルシャ語の碑文が見られます。内容はコーランのほか、建設を命じたアッラー・クリ・ハンを讃える詩や、完成年であるヒジュラ暦1250年(西暦1834-1835年)を示すクロノグラム(年代暗号)が刻まれています。
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内部です。
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中庭(ハヤート)は、ホテルへの改修工事中でした。
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東門の北に接して、城壁と一体化したように、マドラサ2階のフジュラの窓が見えます。
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クトゥルグ・ムラド・イナク・マドラサです。建設を主導したのは、君主アッラー・クリ・ハンの叔父で、ヒヴァ・ハン国の実力者だったクトゥルグ・ムラド・イナク(Kutlug Murad Inaq)です。着工は1804年。ヒヴァのみならず、ハザラスプなど近隣の都市から優秀な石工や木工職人が招聘され、1812年に完成しました。
それまでのヒヴァのマドラサは、砂漠の過酷な気候や外敵の侵攻を想定した要塞のような平屋構造が主流でした。しかし、この建築においてヒヴァで初めて「2階建てのフジュラ」が本格的に導入され、限られた敷地面積のなかに81室ものフジュラを配置することが可能となり、ヒヴァにおける学術拠点としての収容力と威厳は飛躍的に高まりました。 -
ピシュタクは、周囲の建物を圧する威風堂々たる高さを誇り、両端には「グルダスタ」と呼ばれる防衛塔の名残を残す装飾的な円柱塔がそびえ立っています。
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グルダスタには、主に、スタンプ押しによって精緻な模様が施された無釉の「テラコッタ(素焼きの陶土)」装飾が用いられています。この立体的なレリーフ装飾はヒヴァの他の建造物には見られない極めて珍しい技法で、ブハラ建築の影響を強く受けつつも、独自の素朴さと力強い美しさを醸し出しています。
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平面図です。
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内部のモスクです。ミフラーブの前に絨毯が敷かれているので、現在でも祈りに使用されているようです。
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中庭に、ドームの屋根と地下への出入口があります。巨大な貯水槽「サルドバ(Sardoba)」、あるいは「テイ・ザミン(Teyi Zamin:地下の意)」と呼ばれる施設です。
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ヒヴァはアムダリヤ川下流域のデルタ地帯に位置することから、地下水位が非常に高く、かつ土壌中の塩分濃度が極めて高いため、井戸では塩分が溶け込んだ水しか得られず、飲料水や生活用水としては使用できません。そこで、雨水や遠くの運河から水路を伝って引いた淡水をここに貯水しました。このサルドバは、地下に直径約7.15メートルにおよぶ広大な空間を持ち、周囲の塩分を含む地下水が浸透してこないよう、焼き煉瓦の壁面には特別な防水漆喰が幾重にも塗られており、19世紀を通じて、イチャン・カラで暮らす市民の大部分が、この地下貯水槽から安全な飲料水を得ていました。
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アク・マスジドです。1647年または1657年、シャイバーニー朝のアブルガージー・ハンの命により、モスクの基礎が築かれました。この初期の建設は単独で行われたものではなく、モスクに隣接する「アヌーシャ・ハンの浴場(ハマム)」の建設と同時期に進められました。入浴施設と祈りの場をセットで整備したのです。
長らく基礎のみ、あるいは小規模な礼拝所として機能していたこの場所で、1838年にアッラー・クリ・ハンにより大規模な建設が再開され、1842年に完成しました。
国家の権威を誇示するための中央集権的な金曜モスク(ジュマ・モスク)とは異なり、アク・マスジドはイスラム教徒に義務付けられた1日5回の日常礼拝(サラート)を行うための、地域社会に密着した身近な信仰の場です。 -
アク・マスジドでは、中央の礼拝堂の東・北・西の「三方」を取り囲むように連続した広大なアイヴァンが設けられています。この三面アイヴァンが採用されたのは、日常礼拝に集まる地域住民のために、日陰の開放的な空間を最大限に確保するためと考えられています。
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東側のアイヴァンの奥に、夏用礼拝堂のミフラーブがあります。ヒヴァではミフラーブは南面に設けられています。ちなみに、ブハラでは西面に設けられていますので、当時の地理観が感じられて興味深いです。
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ヒヴァの伝統的な木彫工芸を担った二人の名匠、ヌル・ムハンマド(Nur Muhammad)とカランダル(Kalandar)が精巧な木彫りの扉や木製円柱の制作を手掛けました。彼らの手による緻密な植物紋様や幾何学紋様は、単なる建具の枠を超えた芸術作品として評価されています。
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冬用礼拝堂(ハナカ/祈祷室)の内部です。外壁とドームは、「ガンチ」と呼ばれる中央アジア特有の白い石膏(アラバスター)漆喰で仕上げられています。この真っ白な外観が、「アク(白い)・マスジド(モスク)」という名前の由来となっています。
壁面には4つの小さな窓が設けられており、そこには「パンジャラ」と呼ばれるガンチを用いた幾何学模様の透かし彫り(格子細工)が嵌め込まれ、堂内に柔らかな自然光を取り入れています。 -
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ミフラーブです。モスクとして現役のようです。
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建物の北西の角には、背の低くずんぐりとした小さなミナレットが建てられています。アク・マスジドのミナレットはあくまで地域の住民に肉声を届けるという実用的な目的のために、モスクの完成と同時期に控えめなスケールで建設されたものです。
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アヌシュ・ハン浴場(Bathhouse of Anush Khan)です。アク・マスジドと同じく、アブルガージー・ハンの命により、1657年に建設が開始され、極めて緻密な建築計算に基づく給排水システムの構築や、地下下水道網の整備、漆喰による防水加工などが段階的に進められ、最終的にすべての施設が完成したのは1664年です。
この浴場は、隣接するアク・マスジドの「ワクフ(慈善活動のための寄付財産)」として登録されていました。つまり、浴場から得られた利益は、モスクの維持管理や街の慈善事業の資金に充てられていました。
当時は単に体を洗う場所というだけでなく、過酷な砂漠気候を生きる市民の健康維持や社交の場としても重要な役割を担っており、現在も旅行者に伝統的なスチームバスやマッサージを提供するセラピー施設として使用されています。 -
アク・マスジドの西側の細い道を上って裏側へ回り込むと、各建物の屋根を見ることができます。
手前から、アヌシュ・ハン浴場、東門のアーケード、アッラー・クリ・ハン・メドレセです。 -
アク・マスジドのハナカのドームもよく見えます。
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Tea house Mirza Boshiで、遅めの昼食にします。メニューに日本語が併記されていて、日本語を話せるスタッフが注文取りなどをしてくれました。
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アチュチュクです。タマネギとハーブ、塩コショウ、酢などで味付けされたトマトサラダです。
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牛肉の串焼き、シャシリクです。
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サイイド・アラウッディーン廟(Sayid Allauddin Mausoleum)です。サイイド・アラウッディーンは、「ナクシュバンディー教団」の著名な指導者として、多くの弟子を育て、民衆に精神的な光を与え続けた人物で、1303年に亡くなりました。この廟建設の発案者は、高弟のアミール・クラルで、概ね1350年代から1380年の間に着工・竣工したと考えられています。
外壁にも内壁にも、中央アジアの建築でよく見られるような青いタイル装飾は一切施されておらず、荒く削られた焼きレンガがむき出しになっています。この極めて禁欲的でシンプルな意匠は、現世の物質的な富を否定し、内面的な精神性を重んじたスーフィズムの哲学を建築という形で表現したものと考えられています。
1825年には、アラクリ・ハンが崩れかけていた廟を修復すると同時に、元のグルホナ(墓室)の西側に接するようにして、広々とした正方形の「ジヤラトホナ(Ziyaratkhona)」を増築しました。 -
増築部分に設けられた新しい入口です。
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平面図です。
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現在の巡礼者の動線は、まず新しいジヤラトホナ(礼拝室)に入り、そこからアーチ状の低い開口部をくぐって奥の古いグルホナ(墓室)へと進むというものです。壁全体には「ガンチ(Ganch)」と呼ばれる伝統的な石膏(漆喰)が白く滑らかに塗られ、天井はスキンチを使ってドームが架けられています。
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1863年に没したヒヴァの君主サイイド・ムハンマド・ハン(Sayid Muhammad Khan)は、生前から聖者サイイド・アラウッディーンを深く崇敬しており、自らの遺体をこの偉大な聖者の傍らに埋葬するよう遺言を残していました。彼を埋葬するため、奥の墓室(グルホナ)の内部には、「ダフマ(Dakhma)」と呼ばれる巨大な台座が新たに建設され、その巨大な台座の上に、「サガナ(Sagana)」と呼ばれる、イスラム様式の尖頭アーチ型の2つの石棺が平行に並べて置かれました。向かって右側がサイイド・アラウッディーンのもの、左側がサイイド・ムハンマド・ハンのものです。なお、葬られているのは地下で、「石棺」はその上に設置されています。
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ダフマの四隅には装飾的な小さな半柱があしらわれています。台座や君主の棺を覆うこれらの美しいマヨリカタイルの大部分は、1960年代に行われたソ連時代の修復作業の際に、14世紀の伝統的なホレズム様式を完璧に模倣・再現して作られました。中世の高度な工芸技術を現代に蘇らせようとした修復職人たちの並々ならぬ執念の賜物です。
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ホテルに戻り、チェックインしました。
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小規模なホテルですが、ビールも販売しています。
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部屋はこんな感じです。最近改装されたようですが、デザインや造作は先進国と比べると雑で、恐らく地元の住宅などと同じ程度なのだと思います。部屋の鍵の使い方が難しく、毎回フロントのスタッフに手伝ってもらいました。なお、ウズベキスタンで泊まった他のホテルは先進国と同じくカードキーでした。
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ホテルの共用テラス席からの眺めです。
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