2026/10/01 - 2026/10/02
-位(同エリア403件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2026/10/01
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イチャン・カラ
2026/10/02
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車での移動
定額タクシー
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飛行機での移動
ウルゲンチ空港10:00-(ウズベキスタン航空)-10:50ブハラ空港
この旅行記スケジュールを元に
ヒヴァ2日目の後編です。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:成田空港→タシュケント空港(タシュケント泊)
2日目:タシュケント空港→ウルゲンチ空港→ヒヴァ観光(ヒヴァ泊)
3日目:ヒヴァ観光(ヒヴァ泊)
4日目:ヒヴァ→ウルゲンチ空港→ブハラ空港→ブハラ観光(ブハラ泊)
5日目:ブハラ観光(ブハラ泊)
6日目:ブハラ観光→ブハラ駅→サマルカンド駅(サマルカンド泊)
7日目:サマルカンド観光(サマルカンド泊)
8日目:シャフリサブス観光(サマルカンド泊)
9日目:サマルカンド観光→サマルカンド駅→タシュケント中央駅(タシュケント泊)
10日目:タシュケント観光→タシュケント空港→(機中泊)
11日目:成田空港
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- タクシー 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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北門から、イチャン・カラ内に戻ります。
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遠くに、デシャン・カラの北門、コシュ・ダルヴァザ(Kosh Darvaza)が見えます。
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北門付近からも城壁に登ることができます。(別料金)
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クフナ・アルクの入口の門です。ウズベク語で「古い城塞」を意味し、1830年代にアラクリ・ハンが東門近くに「タシュ・ハウリ宮殿(石の宮殿)」を建設した際、元の城塞と区別するために名付けられたものです。
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1686年から1688年にかけて、アラン・ハン(Arang-khan)によって、イチャン・カラの西門に接する形で建設が開始されました。厚く高い土壁によって一般市民の居住区であるイチャン・カラから完全に隔離されており、敷地内には、謁見の間、モスク、ハレム、兵器庫、火薬庫、裁判所、軍事パレードや闘羊用の広場、牢獄などが設けられていましたが、18世紀半ば、イラン(アフシャール朝)のナディール・シャーが率いる軍勢の侵攻により、多くの建造物は破壊されました。
その後、ヒヴァは再び黄金期を迎え、1804年から1806年にかけて、イルトゥザル・ハン(Iltuzar-khan)により、謁見の間をはじめとする城塞内の主要施設が大規模に再建されました。そして、タシュ・ハウリ宮殿が完成した後も、クフナ・アルクは依然として重要な行政機能と要塞としての役割を担い続けました。
1873年、近代兵器を擁して三方から進軍してきたロシア軍により、ヒヴァは陥落し、ヒヴァ・ハン国は外交権や軍事力を失い、属国としての地位に甘んじることになりました。しかし、ロシア帝国は中央アジアの広大なイスラム社会を直接統治するコストと反乱リスクを避けるため、国内の行政システムやイスラム法に基づく裁判、ハンによる内政統治権については大部分を存続させるという間接統治方式を採ったことから、ハンの即位儀礼や日常の行政業務、使節団の応接などは引き続きクフナ・アルクを中心に行われ、細々とではあるものの宮殿としての機能は維持され続け、1920年に最後のハンが退位してヒヴァ・ハン国が完全に歴史から姿を消すまで続きました。 -
現在は空き地となっている場所には、3つの中庭を囲むように建物が配置されていました。門の正面にある第一の中庭は使節がハンとの謁見を待つ場所であり、第二の中庭には大砲が置かれ、第三の中庭にはハンの執務室が設けられていました。
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謁見の間(クリニシュ・ハナ)の中庭です。
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アイヴァンの奥には「玉座の間」があり、アイヴァンの右と中央の扉は、その部屋の異なる位置へと繋がっています。
右側の扉(身分の高い人用)は、ハン自身や、遠方からの重要なお客様が玉座の間へ出入りするために使われました。
中央の扉(一般の謁見者・実務用)は、裁判の訴えを起こしに来た市民や、政務の報告を行う一般の役人たちが通される日常的な入口でした。
なお、左側の扉は、「財務室(金庫)」や貴重な古文書が保管されていた「書庫・記録保管室」へと繋がる専用の裏部屋への入口です。 -
窓には、木の透彫があります。
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玉座の間です。
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この玉座はレプリカで、本物は、1873年のヒヴァ陥落時に戦利品として接収され、現在はモスクワのクレムリン武器庫博物館に保管・展示されています。
1816年、地元の名工ムハンマドによって制作された玉座は、木彫りの骨組みの上に、美しいイスラムの幾何学模様や植物文様が施された純銀の箔が隙間なく打ち付けられており、ヒヴァの金属・木工工芸の最高傑作です。 -
アクチャハン・カラ(Akchakhan-kala)遺跡とトプラク・カラ(Toprak-kala)遺跡についての展示がありました。
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アクチャハン・カラは、紀元前4世紀~前3世紀に建設された古代ホラズム王国の城塞都市です。アケメネス朝ペルシアから独立したばかりの古代ホラズム王国の「最初の首都」であった可能性が高く、中央アジアの考古学・美術史において極めて重要な遺跡とされています。近年、宮殿の壁を飾っていた膨大な数の色鮮やかな壁画が発見されました。(写真の壁画断片がオリジナルかレプリカかは不明です。)
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トプラク・カラは、アクチャハン・カラが紀元後2世紀頃に破壊され、放棄されたことに伴い、その約14km北東に新たな首都として建設されたと見られており、3世紀~4世紀初頭にクシャーナ朝の台頭などで衰退するまで繁栄しました。
遺跡は、約500m × 350mで、周囲を高い土壁の城壁で囲まれていました。北西角には、高さ約14メートルもの巨大な日干し煉瓦の基壇の上に建てられた「三つの塔を持つ王宮」がそびえ立ち、王宮の南側には、中央の大通りによって区切られた碁盤の目状の市街地が広がり、一般市民の住居や工房、神殿が整然と配置されていました。 -
謁見の間の南側に、モスクと一体化した複合施設の一部として造幣所(Zarbkhana)が19世紀初頭に整備され、ヒヴァ・ハン国の財政を支える金貨や銀貨がここで鋳造されていました。写真の再現展示は観光客に大人気で、写真を撮るのがたいへんでした。
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ロシア革命による混乱と深刻なインフレーション、そして極端な紙の不足に直面したヒヴァ政府は、この造幣所で世界的に見ても極めて珍しい「絹の紙幣」を製造しました。地元産の絹を幅11センチのリボン状に織り上げ、硬いニレの木で作られた版木を用いて手作業で染料を押し当て、ウズベク語のアラビア文字で額面や偽造防止の警告を印刷しました。手作業で裁断されたため、紙幣の端には特徴的なフリンジ(房)が残っています。このシルク紙幣は、ヒヴァ・ハン国の落日を象徴する遺物です。
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モスクです。アラクリ・ハン時代(1825年~1842年)の建築で、謁見の間よりも20年~40年ほど後に建てられたとされています。
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アイヴァンの列柱は二列になっていて、柱は6本あります。
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ミンバル(説教壇)です。
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ミフラーブです。
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アクシェイク・ババ(Ak Sheikh Baba)の見張り台への入口は、クフナ・アルクの門を出て左に少し行ったところにあります。(別料金)
写真は、紀元前4世紀~前3世紀頃の要塞壁の基礎部分の遺構です。 -
12世紀の構造物を起源とする城塞内で最も古い建造物で、もともとは、スーフィー(イスラム教の神秘主義者)の聖者、アクシェイク・ババの住居または修道室であったと伝えられています。日干しレンガと粘土で造られたこの小高い土台は、後に城塞の監視塔として軍事的に利用されました。
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イチャン・カラ全体と城壁の外の広大なオアシスを360度見渡すことができるため、ハンの防衛指揮所として最適でした。また、強固で隔離された空間であったため、一時期は火薬を保管する兵器庫としても利用されていました。夏の暑い夜には、ハンがこの高台で風を受けて涼を取った言われています。なお、現在は木製階段が撤去されていて、上の階には上れませんでした。
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手前に、謁見の間が見えます。
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カルタ・ミナル、「短いミナレット」という意味です。ムハンマド・アミン・ハン(在位1845年~1855年)により、マドラサ付随するミナレットとして1852年建設が開始されました。ムハンマド・アミン・ハンは、この塔を単なる礼拝の呼びかけの施設ではなく、世界を驚嘆させるモニュメントにすることを目指し、計画の高さは70mから80mを超えるとされ、これが完成していれば、インド・デリーのクトゥブ・ミナール(72.5m)を凌ぎ、当時のイスラム世界で最も高いミナレットとなるはずでした。前代未聞の高さの塔を、強風や自重から支えるため、基底部の直径は約14.2mという異例の太さで設計され、上部に向かって急激に直径を細くしていくテーパー構造が採用されました。
1855年、ムハンマド・アミン・ハンは、トルクメン人のテケ族とペルシャ(ガージャール朝)の連合軍との戦いに敗れ、捕虜となり斬首されてしまいました。これより、ミナレットの建設工事は、高さが約26mから29mに達していたところで、凍結されました。 -
中央アジアには多数のミナレットが存在しますが、カルタ・ミナルのように「塔の表面が完全に彩釉タイルとマヨリカタイルで覆い尽くされている」ものは他に類を見ません。ターコイズブルー、深い緑、紺碧、そして白で彩られたギリフ(イスラム美術特有の星や多角形を組み合わせた幾何学模様)や連続文様が、円筒形の塔を帯状に幾重にも取り囲んでいて、太陽の光の角度によってタイルの色合いは複雑に変化し、砂漠の街に青い蜃気楼のような美しさを放ちます。
上部にペルシャ語のナスタアリーク体(優美な曲線を持つアラビア文字の書体)による装飾文字で、次のような詩が刻まれています。「人間の魂に歓喜をもたらす、高きミナレットが建立された。天の眼でさえ、これに類するものを見たことがない。その名声は地上の首長たちにも届いた。その姿に欠点や瑕疵は一切ない……」。 -
ムハンマド・アミン・ハン・マドラサです。1851年に建設が開始され、1854年に完成した建物は、77m×60mという規模で、内部には125室のフジュラが設けられ、一度に最大260名の学生を収容することが可能な、中世から近代に至るまでの中央アジア全域において最大の神学校でした。現在では、ホテル・オリエント・スター・ヒヴァ(Hotel Orient Star Khiva)として活用されています。
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マドラサの2階から、木造の橋を渡ってミナレットに入って行くようになっています。
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夕食は、昨日と同じTea house Mirza Boshiです。日本人の団体ツアーが数組、他に個人客もいて日本人比率がかなり高いです。写真は、「ラグマン」でトマトスープのうどんのような感じです。
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ビーツとオレンジのサラダです。
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夜食用に、フライドポテトをテイクアウトしました。
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朝食後、ウルゲンチ空港10時発のウズベキスタン航空便でブハラへ向かいます。ヒヴァからウルゲンチ空港へのYandex Go Taxiは、朝のラッシュ時にはマッチングしづらいということだったので、ホテルに手配を依頼しようと思っていたところ、客室にこんなパンフレットが置いてありました。17USDと料金も手頃だったのでフロントで申し込み、現金200,000SUMをホテルに支払いました。17USDとは要するに200,000SUMということだったようです。これであれば、7時にドライバーがホテルのロビーまで来てくれるので、前面道路に車両が乗入れられないこともあってたいへん助かりました。
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ブハラまでは90USDなので、2人なら飛行機より安いですね。所要時間は6~7時間とありますが。
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ウルゲンチ空港のパスポートチェック場所です。ヒヴァから高速道路を通らずに所要40分ほどでした。
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チェックインカウンターです。
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特に頼んではいなかったのですが、ホテルで朝食弁当を準備してくれました。これもたいへんありがたかったです。
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搭乗口前のカフェと売店です。
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後部から乗り込みます。
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ブハラまでは、ほとんど砂漠でした。
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旅行記グループ ウズベキスタン11日間
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