2026/09/30 - 2026/09/30
231位(同エリア402件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2026/09/30
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Lumar Toshkent City Hotel
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車での移動
Yandex Go Taxi
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飛行機での移動
タシュケント空港9:30=(セントラムエア)=11:10ウルゲンチ空港
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車での移動
Yandex Go Taxi
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NAZIRA Boutique Hotel & Terrace
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イチャン・カラ
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この旅行記スケジュールを元に
ヒヴァの最初の住民はホラズム語と呼ばれる東方イラン語を話すアーリア人であったとされています。
発掘調査の結果、1世紀にはすでに町の基礎ができていたことが判明しており、アケメネス朝ペルシャの支配を受けた後、305年から995年にかけてホラズム国家の一部として繁栄しました。
712年のアラブの征服以降にはイスラム化し、10世紀に書かれたアラビア語の地理書に、初めてヒヴァの町の名前が現れます。9世紀から11世紀にかけては、天文学、数学、化学などの学問が花開く文化と教育の中心地でした。
しかし、1220年にモンゴル軍による壊滅的な破壊を受け、長い沈黙の時代を迎えることになりました。
1511年、シャイバーニー朝から独立したウズベク系の遊牧民がこの地を支配し始め、アム川の河道が変化してウルゲンチ・ハン国の首都クフナ・ウルゲンチが衰退すると、1598年にヒヴァが新都に選定され、ハン国の名前は首都の名前を冠したヒヴァ・ハン国と呼ばれるようになりました。
一時ブハラのジャーン朝によって支配され、1740年にはイランのナーディル・シャーの攻撃を受けて町は破壊されました。
1763年に権力を掌握したムハンマド・アミン・イナクのもとで復興が進み、中央アジアにおける精神的・文化的な中心地としての地位を取り戻しました。
1873年、ロシア軍の攻撃により陥落させられると同時に、ヒヴァ・ハン国は保護国化されました。
1920年4月からは「ホラズム人民ソビエト共和国」の首都とされ、当時のヒヴァには94のモスク(寺院)、63のマドラサ(神学校)のほかに多くのバザールや工房が存在していました。
1924年の民族境界画定工作の結果、この国家は廃止・分割され、ウズベク・ソビエト社会主義共和国に区画されました。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:成田空港→タシュケント空港(タシュケント泊)
2日目:タシュケント空港→ウルゲンチ空港→ヒヴァ観光(ヒヴァ泊)
3日目:ヒヴァ観光(ヒヴァ泊)
4日目:ヒヴァ→ウルゲンチ空港→ブハラ空港→ブハラ観光(ブハラ泊)
5日目:ブハラ観光(ブハラ泊)
6日目:ブハラ観光→ブハラ駅→サマルカンド駅(サマルカンド泊)
7日目:サマルカンド観光(サマルカンド泊)
8日目:シャフリサブス観光(サマルカンド泊)
9日目:サマルカンド観光→サマルカンド駅→タシュケント中央駅(タシュケント泊)
10日目:タシュケント観光→タシュケント空港→(機中泊)
11日目:成田空港
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- タクシー 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ホテルの朝食は7時からなので、前夜フロントで「明日は7時に出発する」と告げると、「それでは、弁当を準備する。6時半と7時のどちらがよいか」と言ってくれたので、6時半でお願いしておきました。この朝、部屋で食べたのが写真の弁当です。
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ロビーに降りて7時にYandex Go Taxi を呼ぶと、数分で来てくれました。タシュケント空港国内線ターミナルまで、Comfortで30,000SUM(402円)+チップ5%(任意)でした。
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タシュケント空港国内線ターミナルビルです。
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内部です。首都の空港とは思えないほど小規模です。国内線の便数が少ないですからね。
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9:30発セントラムエアのA320に後部から乗り込みます。
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LCCなので、配られたのは水だけでした。
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砂漠に造られた灌漑施設です。
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その効果で、農地が広がっています。アラル海消滅の原因ではありますが。
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ウルゲンチ空港のターミナルビルです。
空港敷地のパスポートチェック場所を出たところで、Yandex Go Taxi を呼びました。ところが、私が自身の位置を正確に把握していなかったことから、車を見つけることができません。アプリ画面を見ると、マッチングしたタクシーが走り去りつつあったので、運転手との通話機能を使って「(正しいピックアップポイントである)駐車場で待っています」と告げると、戻って来てくれ、無事に乗車できました。
ヒヴァのホテルまで、Comfortで151,000SUM(2,027円)+チップ5%(任意)でした。アプリで呼ぶ際に、通常の道路か高速道路を選ぶようになっていました。通行料金と距離が少し長い分が料金に上乗せされていましたが、10分ほど早く着くと表示されている高速道路経由を選びました。 -
この駐車場が、ピックアップポイントでした。
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約40分で、タクシーは北門からヒヴァのイチャン・カラ内に入り、NAZIRA Boutique Hotel & Terraceの裏手に着きました。表の道路は車両の進入は禁止です。クフナ・アルクへの入場口のすぐ前で、雰囲気と利便性は抜群です。写真の左方上部の外気に開放されているテラスが朝食会場になっています。
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宿泊料金を支払い、荷物を預けた後、西門を出た左側のチケット売場で48時間有効の共通入場券を購入しました。なお、ホテル、共通入場券ともクレカ可でした。
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共通入場券です。少数ですが、別料金の施設もあります。
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さて、改めて西門からイチャン・カラ内に入り、まずはメーンストリートを通って東門エリアのアッラー・クリ・ハン(Alla Kuli Khan)による建築群に向かいます。
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お茶を飲みながら談笑する老人たちの等身大ストリート像です。ベンチ(チャパイ)に腰掛け、足元にサモワール(伝統的な湯沸かし器)を置いてくつろいでいます。
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ラクダがいます。
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ジュマ・モスクのミナレットが近づいてきました。
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正面の建物はクトゥルグ・ムラド・イナク・マドラサです。
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タシュ・ハウリ宮殿へ向けて左の小道へ入ります。
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タシュ・ハウリ宮殿のハレム部分の入り口です。
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タシュ・ハウリ宮殿の全体図です。
東門付近には、19世紀前半に築かれた巨大な複合建築群が存在します。1825年に即位したアッラー・クリ・ハンが建てたもので、「タシュ・ハウリ宮殿」「マドラサ(イスラム神学校)」「ティム(屋根付き市場)」「キャラバンサライ(隊商宿)」から成るこの一帯は、当時のヒヴァ・ハン国の政治、経済、教育の中心として機能しました。
当時のヒヴァは、ロシア、ペルシャ、ブハラ・ハン国との交易によって莫大な利益を得ていました。アッラー・クリ・ハンは、イチャン・カラの西側にあった「クフナ・アルク(古い城塞)」から、最も人通りが多く商業の動脈であった東門(パルヴァン・ダルヴァザ)付近へと、都市の中心を移動させ、東門に自らの名を冠した宮殿と巨大な商業・宗教施設を集中させることで、国際交易の富を直接的に管理し、自らの絶対的な権力を国内外に誇示しようとしました。
アッラー・クリ・ハンは、溢れんばかりの富と、近隣諸国から連行してきた数多くの奴隷労働力を投入し、約10年の歳月をかけて建築群を完成させました。 -
ハレム(Harem / 1830~1832年)です。
最も早く建設が始まり、宮殿全体の北半分を占めています。ここはハンとその家族、そして女性たちだけの神聖かつ不可侵な私的居住空間でした。
長方形の中庭を囲むように、精緻な木彫りの柱に支えられた5つの壮麗なアイヴァンが並んでいます。イスラム法の規定(シャリーア)により、ハンが持つことのできる正妃は4人までと定められており、4つのアイヴァンはそれぞれの正妃に与えられました。そして最も天井が高く、装飾が豪華な5つ目のアイヴァンが、ハン自身の部屋として使用されました。
中庭の周囲には2階建ての建物が巡らされており、そこには親族の女性、30人を超えると言われた側室(コンキューバイン)、彼女たちの世話をする宦官たちが暮らす小部屋が密集していました。各部屋は独立した入口を持ち、互いに行き来できない構造になっていました。 -
左がハンの部屋、右側は正妃の部屋1で、その右側に更に3つの正妃の部屋が並んでいます。
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ハンの部屋です。
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タシュ・ハウリ宮殿を彩る美しく鮮やかな装飾タイルには、主にマヨリカタイル(Majolica Tiles)と呼ばれる技法が使われています。
成形して素焼きした赤土(粘土)のタイルの表面に、不透明な白い釉薬(錫釉:すずゆう)をベースとしてかけます。その上から直接、鉱物を含んだ顔料(コバルトや銅など)で繊細な絵柄を手描きし、再び高温の窯で焼き上げます。
白い下地の上に色が定着するため、発色が非常に鮮やかになります。目の覚めるようなコバルトブルー、トルコ石のようなターコイズブルー、そしてクリアな白は、この技法により生み出される色彩です。
また、19世紀から現在まで美しさを保ち続けている最大の理由は、イシュコール(Ishkor)と呼ばれる砂漠の植物から作られた伝統的な天然釉薬(ガラス質の上薬)にあります。
この植物灰を混ぜた特別な釉薬をかけて焼き上げることで、表面にガラスのような深い光沢が生まれ、強烈な太陽光や乾燥した気候に何百年さらされても絶対に色あせない耐久性を持ちます。
このイスラムの優れた陶器技術は、当時ムスリムの支配下にあったスペインに伝わり、スペインで作られた美しい色絵陶器やタイルが、地中海に浮かぶ中継貿易の拠点マヨルカ島を経由して、イタリアなどのヨーロッパ全土へ大量に輸出されたことから、「マヨリカ陶器」と呼ばれるようになりました。
18世紀半ばにペルシャの侵攻によってヒヴァにこのスタイルが持ち込まれ、その後ヒヴァ独自の緻密な文様として定着しました
タシュ・ハウリ宮殿では、大型のタイル板を繋ぎ合わせて大きな絵柄を表現する技法が多用されています。
これらは1つの大きな図柄を複数のタイルにまたがって描き、現場でパズルのように精密に貼り合わせています。これらの大型タイル板は中央付近の鉄釘で壁面に留められており、よく見るとそのタイル板を貼る位置が分かるように模様の中に番号が描かれています。 -
木造の天井も美しいです。
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柱礎は石で、蔓草文などが浮彫され、コーランの引用、イスラムの祈言なども刻まれていて、屋根を支えるお守りの役目を果たしていると言われています。
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奥の部屋です。天蓋付きのベッドが置かれていて、壁面にはタイルが一面に貼られています。
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正妃の部屋1です。
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柱礎の石と柱の間にはラクダの毛が挟まれています。
これは、地震の際に、弾力性と摩擦力のあるラクダの毛をクッションとして揺れを吸収し、柱が土台からズレ落ちるのを防ぐ役割を果たしています。また、地下水や地面からの湿気が石の土台を伝って木製の柱に染み込んでしまうと、木部が腐朽したり、シロアリなどの害虫に侵される原因になるので、油分を豊富に含み、防水・防湿性に優れたラクダの毛を挟むことで、柱を長持ちさせる役割もあります。 -
正妃の部屋1と2の間には、サービス通路が設けられています。
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正妃の部屋2です。
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奥の部屋です。
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正妃の部屋3です。
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正妃の部屋4です。
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奥の部屋です。
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説明板に「排水システム、19世紀」とあります。
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このような部屋もありました。木製の格天井は極彩色で細やかに描かれ、美しい壁面のモチーフはザクロなどの植物です。
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当時の衣装や生活様式を伝える展示です。
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宮殿の南側部分へはハレムの入口から道路へ戻り、南側の入口に回る必要があります。
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入口の前の敷石は当時の凹凸を残した石板で、馬車の車輪が轍を刻んだ跡が残っています。
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南側部分の平面図(避難経路図)です。完全に迷路ですね。
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イシュラト・ハウリです。ハンが来訪する賓客や使節をもてなす場でした。
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2階に小さなアイヴァンを備えた客用の部屋があり、訪問者は夏は蚊帳を使ってアイヴァンで寝ていました。
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ハンは南側のアイヴァンで賓客や使節を迎え、謁見を行っていました。
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定住民だけでなく、遊牧民の好みにも応えるよう、ユルトを張りたい者のために中庭に2つの円形台座が設けられていました。
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ハン自身もユルタの中で過ごすことが多かったとのことです。
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アルズ・ハウリです。裁判などの公務の場として使用されていました。
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アイヴァンの両側には階段があり、3つの扉が設けられた基壇へと続いています。このアイヴァンにハンが着座し、ここで審議が行われ、高官たちと案件について協議しました。
「3つの扉」は、ハンが裁判を下した後の「容疑者の運命を決める3つの象徴的な通路」に通じていました。
中央の扉 =「ハンの控室(王座の間)」
ハンはこの奥から現れてアイヴァンに座し、中庭にいる原告や被告を見下ろして審理を行いました。
右側の扉 =「無罪放免の出口(自由への通路)」
ハンから「無罪(あるいは軽い処分)」を言い渡された容疑者が通るための扉です。この扉の奥は、そのまま宮殿の外(安全な外部の通りや市民エリア)へと安全に出られる直通の通路へと繋がっていました。
左側の扉 =「有罪・処刑の出口(監獄・刑場への通路)」
ハンから「有罪」を言い渡され、投獄や死刑が確定した罪人が通される恐怖の扉です。この扉の奥は暗い地下の「監獄(地下牢)」や、宮殿の裏手にある「刑場(処刑場)」へと直結しており、二度と生きて戻れない絶望のルートとなっていました。 -
中庭にはユルタを建てるための台座があります。
羊毛のフェルトで覆われたユルタは、「夏は風通しがよく涼しく、冬は少量の薪や炭で非常に暖かくなる」という、砂漠の気候に最も適した住居形態でした。ハンは、約4時間におよぶ長時間の裁判を過酷な気候の中で快適に行うために、このテントを実用的なオフィスとして利用していました。
また、遊牧民族の伝統において、王(ハン)は「民と同じ目線で話を聞き、公明正大に裁く存在」であることが理想とされていました。豪華で閉鎖的な宮殿の奥深くに閉じこもって裁判を行うことは、領民に「密室政治」や「権力の横暴」といった不信感を与えるリスクがありました。あえて誰もが見上げる中庭のユルタの中に座り、「私は今でも伝統的なテントの中で、民の声に耳を傾けている」という親しみやすさと公正さを視覚的に演出する狙いがありました。
ヒヴァ・ハン国を統治していたウズベク族は、もともと広大な草原を移動していた遊牧民族です。19世紀当時は定住して立派な都市や「石の宮殿(タシュ・ハウリ)」を構えていましたが、彼らの心の中には「自分たちは誇り高き遊牧民の末裔である」という強いアイデンティティが残っていました。
そのため、儀礼用の空間(イシュラト・ハウリ)だけでなく、政治の最高中枢である裁判所(アルズ・ハウリ)にもユルタを設けることで、ハンとしてのルーツと王権の正統性を誇示していました。 -
事務総長の執務室です。
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ミルゾ(書記)の執務室です。
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【説明板より】シェルガズィ・ハン・マドラサのワクフ(寄進財産)文書(1720年)
内容:マドラサに寄進された土地の第4部分。ベシュメルガン村に位置し、8つの区画から成る。文書には、各区画の寸法と隣接する地域の名称が記されている。こうした大理石に刻まれた文書は計5点存在し、本品はその4番目にあたる。書体:ナスタアリーク体。言語:ペルシア語。 -
【説明板より】1864年、ムハンマド・ラヒム・ハン2世フェルーズが即位した際、詩人アガキは200の文字列からなる詩を作り、ハンは巨匠フダイベルガン・ディヴァンにそれを大理石の板に書き写すよう命じた。
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ウズベキスタン11日間
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