2026/08/13 - 2026/08/13
83位(同エリア88件中)
さっくんさん
今年のお盆は天気の不順と突然入った仕事で半分失われてしまいました。でも、西日本の天気は良さそうです。私の旅の目的に、日本の全県に足跡を残すと言う目標があります。九州には3つの県が残されています。お盆の間に駆け足でその三県を巡ろうと思いました。
駆け足での旅となりますが、私の旅ですから歴史にはこだわりたい。長崎では、原城と島原城を訪れ、島原の乱に想いを馳せ、佐賀県では唐津城と名護屋城で朝鮮出兵はなぜ起きた?を考察し、大分県では中津城にて黒田官兵衛を考えようと思い立ちました。
-
私の旅する上での最大の欠点は、踏ん切りがつけられない事だと思います。今年のお盆は唐突に割り込まれた仕事と台風で、大いに出遅れてしまいました。今年は見送るべきか?強行突破か?悩みに悩んで、当日の早朝、長崎迄の航空券をゲットしました。当日だった事、そして価格がお盆のわりに手頃だった事。その代償は成田発でしたが、羽田も乗り換え云々面倒臭いし、京成を使えばそれほど成田は遠くない!決まってしまえばレッツゴー?です。
-
雨の中の出発になりました。8月13日この日の夜、千葉県が大惨事に陥るなんて、知る由も無く成田に向けて出発しました。12日に残業を終えたので、一日ゆっくりしてから出かけようとも思いましたが、そうしていたら、成田発は有り得なかった事でしょう。
-
千葉県の皆様、大変申し訳ございません。私が国内を旅行するといつもこうなります。弘前に行った時も帰りの新幹線が天候不順で全部止まってしまい大変な目に陥りました。どうやら私、嵐を呼ぶ男の様です。
-
成田空港は何十回も訪れていますが、第3ターミナルは初めてでは無いでしょうか?まさか成田に、しかも国内線利用で訪れる事になるとは思ってもいませんでした。
-
そもそも国内旅行で飛行機に乗るなんて、何十年ぶりかの事になります。パスポート…いらないよね?オンラインチェックインしてしまえば、電車に乗り換えるのと変わらない程楽チンです。
-
此方がお世話になったジェットスターさん。成田発でしたが、大手の料金の半額以下、新幹線よりも安い値段で長崎迄連れて行って貰えます。有難いです。
-
搭乗ゲートはLCCらしく簡素ですが、機能的だと思います。ドバイの様にLCCでも何でも揃うと言う訳にはいきませんが、コンビニはあります。でもコンビニにある様なコーヒーメーカーは無く、温かい珈琲が飲みたかったなぁ。
-
さて、出発です。やっぱりパスポートコントロールが無いのは楽です。大阪より西、仙台より北は、LCCを検討するのも良いかもしれません。
-
晴れてる!そして目の前に海!これはテンション上がります。東京のお盆の天気は壊滅的でした。これだけでも長崎に来て良かった!と思いました。
-
今回は、未訪問県を訪れる旅で、少ない日数で3県を訪問する事になるので、ゆっくり周遊している時間はありません。一つの県に割り当てられるのはたった1日。折角長崎空港まで訪れて、歴史浪漫が詰め込まれた長崎はスルーです。嗚呼勿体無い!
-
早速バスで鉄道駅に向かわねばならないのですが、空港前に泊まっているリムジンバスは長崎行。私が向かう諫早駅は、なんとローカル・バスでした。でも、PASMOが使えて安心です。
-
山裾に、ずっと昔から此処に暮らしているだろう家屋を眺め、ホッコリします。東京の雑踏で生まれた私には、故郷と呼べるものがありません。なんか憧れるんです。こうした風景…。全く何の変哲も無い風景ですが…。
-
諫早駅に到着しました。予想外にモダンな駅舎の前で、諫早のんのこ踊りを踊る女性が出迎えてくれました。同じ日本で、馴染みの踊りですが、衣装の色使いとか、細かいディティールが異なる、旅に出たんだなぁと実感する瞬間です。
-
此方はJRの路線です。今回私が乗るのは島原鉄道。おっと!島原鉄道はPASMOが使えないじゃないですか?
-
島原鉄道に乗ろうとすると、ホームに一直線に乗客が並んで待っています。普通列車は其々のドアの前で並んで待ちますが、まるでバスの停留所の様です。列車が到着して理解出来ました。1両編成で改札は車内で行うので、一つしかドアが無いのです。つまり、バスと同じ様なものなのです。
-
そして列車に描かれた可愛らしい女性。赤ん坊をおんぶしています。はて、これは誰でしょう?調べてみて涙脆い私は号泣しそうになりました。彼女の名前は「からゆきさん」貧しくて、海外に売られていった島原の女の子です…。
オーストラリアのブルーム、シンガポール、そしてザンジバル…世界中で彼女達の悲しい足跡を辿りました。海外では見つけられても、日本では忘れ去っていました…。此処だったのですね…。今回はとても時間が足りず、訪れる事が出来ませんでしたが、天如塔に手を合わせに行きたかったです。心残りです。 -
車窓からは長閑な風景が見えています。島原は美しい海と美しい山、そして豊富な湧き水、豊かな自然に恵まれますが、普賢岳の噴火、そして記憶に新しい熊本の地震等、自然災害に多く苦しめられた地でもあります。今回は島原の乱にテーマを絞らざる得なかったので、雲仙にも訪れる事が叶いませんでしたが、再び訪れたい素敵な街でした。
-
有明海が見えてきました。諫早湾です。干拓問題により、農業と漁業を営む人々との対立や環境問題でも大きく取り上げられた地域です。どちらも、日本には欠かせない、日本を支えてくれている人々が抱えた問題ですから、政府は真摯に取り組んで欲しいと願います。
-
イチオシ
大三東駅に到着しました。何も遮るものが無い、ホームの向こうに有明海が広がる風景でバズった駅です。
-
海水パンツ履いて電車に乗って、到着したら海に飛び込みたくなる、そんな駅です。
-
何も無い、でも素敵な駅でした。
-
島原駅に到着しました。退屈するかな?と思いきや、車窓の風景がとても素敵で、心は子供の様にはしゃいでいました。
-
駅舎には「からゆきさん」が出迎えてくれました。アフリカのザンジバルで、からゆきさん達が暮らしたと言う家の前で、アフリカの子供達が、ハンカチ落としの様な遊びをしていました。からゆきさんが伝えたのかな?って思いました。
島原の子守歌…涙無しには聞けません。特攻隊員は国を守る為爆弾代わりにされ、英雄となりました。からゆきさんは、家を守る為、奇麗なおべべを着せられ、異国に売られていきました。人はなんて都合の良い生き物でしょう…。
やすらかに…。
島原の子守歌、なんと島原鉄道の役員の方が書いた歌なのだそうです。
https://youtu.be/rrk7YYROkXo?si=6HuX1K9Uu5NkTiGv -
駅舎の目前は、最早島原城が見えています。焦らないで!目前にあるけど、今日はお預けです。今日は此処より僻地にある原城に向かわなければ、行程を熟せません。天気が持つか…それが心配です。
-
そもそも、島原駅のこの駅舎、島原城の大手門のデザインをモチーフとしています。島原駅が島原への玄関口となっているので正に大手門そのものです。
-
原城跡へのバスを待つ間、島原鉄道で相席させて頂いた地元のオバチャンとお話をさせて頂きました。鉄道の部分廃止、バスの減便、地方の何処でも聞く問題を島原も抱えている様です。
-
バスに乗って気づきました。先程島原鉄道でPASMOが使えなかったと言う事は…島鉄バスがPASMOを使える訳が無い。慌てて財布をひっくり返します。普段現金を使わない私は大慌てです。小銭を合わせてなんとか往復分ありました。長距離バスなので料金も馬鹿になりません。田舎道なのでコンビニも滅多にありません。危うく詰んでしまうところでした。島原に戻ったら真っ先にATMに行かねばなりません。
-
バスの車内からは美しい海と共に、背後には美しい山々が聳えます。雲仙の山々です。その一つの山肌が痛々しく岩肌を露出していました。同乗していた地元のお婆ちゃんが、先日の熊本の地震の際崩落したものだと教えてくれました。熊本は有明海を挟んで島原の対面にあたります。熊本で起きた地震は島原にも当然影響します。
嘗て1792年島原雲仙で起きた山体崩壊に伴う巨大津波により、島原は勿論熊本も大災害が発生し、島原大変肥後迷惑と言う言葉が生まれましたが、今回はそれの逆バージョンと言えるでしょうか?この後日、阿蘇山の噴火危険レベルが繰り上げられましたが、熊本に阿蘇山、島原に雲仙、余りに過酷な自然環境に思います。 -
島原駅から島鉄バスに乗り約70駅。漸く目指す原城跡に到着しました。余りに辺鄙だからでしょうか?お盆と言えどインバウンドは愚か、日本人観光客の姿も疎らです。
-
此処原城は、戦国時代、有馬貴純により築かれ、有馬晴信により改修を受けました。近隣には日野江城が残りますが、本来此方が本城で、原城は支城として築かれましたが、本城は手狭だった事もあり、やがて原城が主体となった様です。
-
有馬晴信が転封となると、松倉重政が日野江城に入城しますが、一国一城令に伴い、松倉重政は、日野江城及び原城を廃城とし、新たに島原城の建築を開始します。これが島原の乱の発端となりました。
-
原城は、有馬海を背後に要害として築かれた梯郭式縄張で築かれ、其々の曲輪は広大な面積を持ちます。
-
城巡りより、悲劇的な歴史より、不覚ながら周囲の自然の美しさに目を奪われてしまいました。美しく穏やかな水を湛える有馬海。背後に聳える雲仙の山々。そして緑の大平原。
-
しかし一方、この大地では島原の乱にて両軍合わせ4万以上の人々の命が失われ、江戸時代の大噴火による山体崩壊は、有明海の向こう、熊本迄甚大な被害を与えました。
-
山と海に囲まれた島原は、観光客としては風光明媚に映りますが、それ故に耕作地が乏しく、飢饉に見舞われる事も度々あり、これもまた島原の乱発生の要因となった他、近代では困窮した農民が、我が娘を「からゆきさん」として、海外に売り飛ばさ無ければ生きていけない悲劇に見舞われました。
-
そして現在も、対岸である熊本地震の影響は続き、如何にこの地が人が暮らすにあたって過酷な地である事が伝わてきます。島原は、余りに過酷で、余りに美しい…。
-
さて、自然に目を奪われていないで、城を見なくてはなりませんが、大きな一揆が起きた城だけに、幕府により徹底的に破壊され、その殆どが痕跡と言って良いでしょう。
-
とは言え、この城は歴史的重大事件が起きた城であり、隠れキリシタン関連の地として世界遺産にも認定されている為、解説板等は詳しく整備され、絶景を楽しみながら、歴史を学ぶ事が出来ます。
-
しかしながら、何の構造物も残されて無きゃ、退屈で飽きちゃうよ!って思った貴方!御安心下さい。現在ではVRと言う素晴らしい技術があるんです。自分のスマホにアプリをダウンロードしたり、タブレットを借りて、特定のポイントに到着すると、在りし日の原城の姿が見れるんです!
-
私は、この技術を少々舐めてかかっていたので、実際使って見て、大いに感動しました。特定のポイントでは、タブレットを動かせば、360°連動して画面も動きます。解説を聞きながら、想像が及ばない部分も、実際の画像がそれを補完してくれます。
-
何が素晴らしいかと言えば、この方法なら遺構を全く傷つけずに済みます。是迄商業目的で再現度の低い天守閣が乱造され、多くの遺構を傷つけてしまった過去があります。しかし、この方法なら安価で安心な再現方法であり、これから構造物を持たない城跡の観光利用として推進して欲しいアトラクションと言えるでしょう。
-
イチオシ
では、此処で起こった悲劇、島原の乱を考察していきたいと思います。
-
島原の乱を語る時、例えばYouTubeとか、視聴率を稼ぎたいからでしょうか?「虐殺」とか「皆殺し」とか、センセーショナルな文面が続きます。確かに多くのキリシタンの命が奪われたのは確かです。では、それは、「虐殺」や「皆殺し」の様な一方的な出来事だったのでしょうか?「かわいそう」と言う側面から歴史的事実を判断すると、非常にアンバランスな結論に辿り着いてしまい兼ねません。それは、歴史考察に留まらず、未来を見越す時も同様の事です。昨今問題となっている熊害の件がその良い例です。
-
先ずは、この大乱が勃発した原因です。キリスト教徒による弾圧への氾濫と誤解している人が多いと思いますが、直接的要因はべらぼうな年貢に耐えかねて、一揆軍が代官を殺害した事が発端となります。確かに年貢がべらぼうだった事は間違いありません。現在と当時は風習も違います。だとしても代官を殺して、(現代なら市役所の人?)を殺してただで済む事が無いのは、古今東西、変わる事は無いでしょう。
-
このべらぼうな年貢の取り立ては、島原を治めていた松倉重政、勝家父子が石高に見合わない立派な島原城を建設し、それに比例する石高に見合わない取り立てを行ったことにあります。窓を作れば窓税、墓穴を掘れば、墓税なんて言葉が残る程、あらゆる物事に税がかかったと言います。確かに先程眺めてきた島原城は、復興された天守閣とは言え壮大なものでした。
-
さて、ではキリスト教は関係ないのか?と言われれば、勿論そんな事はありません。ただ純真無垢な信徒を幕府が弾圧したと言うものではありません。キリスト教自体は間違い無く素晴らしい宗教の一つだと言う事は間違いありませんが、問題なのは、それを取り扱っている国、そして権力者です。
-
当時、スペインとポルトガルは、世界を山分けにしようと、各地で植民地を増やしていた時代であり、その先鋒としてキリスト教が利用された事は間違いありません。また日本の大名も、彼等との交易を交わそうとしていた、つまり信仰と言うより利権が欲しかった輩もいました。そうした輩はキリスト教に取り込む為、行動がエスカレーションしていきました。例えば日本の伝統的宗教である寺社仏閣の破壊等です。更には、ポルトガルは、日本の子供達を奴隷として売り捌いていたのです。これで禁教にしない方がどうかしているとさえ感じます。
-
時にヨーロッパに於けるキリスト教は排他的な傾向が強く、こうした異教徒排斥に繋がる行動が、豊臣秀吉から始まり、徳川幕府へと受け継がれた、キリスト教排斥に転じる方向性を更に強めた事は間違いありません。当時島原に重税を課していた松倉家でさえ、当初はキリスト教には寛容だったのですが、幕府からの勧告を受け、それで逆にスイッチが入ってしまった感があります。
-
さて、こうして代官殺害を契機に巻き起こった一揆でしたが、対岸の天草の軍勢も加わり、開幕早々連戦連勝でした。そして、一揆軍は島原城を包囲します。しかし皮肉な事に、石高を水増しして、民からべらぼうな年貢を取り立てて建てられた鉄壁の防御力を誇る島原城は一揆軍の猛攻を防いだのです。
-
この大乱は、当然遠く離れた幕府も知る事となり、当初は九州の大名で鎮圧させる方針でしたが、どうも風向きがおかしい。そこで幕府は板倉重政を派遣しますが、この人物余り統率力が無く、また平和な世が訪れ、実戦経験が乏しい足軽、寄せ集めの軍隊のモチベーションの低さから、一揆軍には歯が立たず、そして風の噂で聞こえて来た、幕府がもっと腕利きを派遣すると言う噂…。焦った板倉重政は無謀な特攻を試みて、逆に一揆軍の返り討ちに遭い戦死してしまいます。
-
討伐軍の総大将を失い、幕府のメンツは丸潰れです。しかもそれを良い事に一揆軍は言ってはならない事を言ってしまいました。天草四郎を豊臣秀頼の生き写し、いや、大阪を落ち延びた豊臣秀頼の子孫こそが天草四郎でる。なぁんて事を言い出しました。勿論それは、味方のモチベーションを揚げる為もあったでしょうが、大権現家康が、執念を込めて滅ぼした秀頼の名前を出されたら、家光は何が何でもぶっ潰してくれる!と思っても仕方無い事でしょう。
徳川家光は島原に、自分の左手と表現した知恵伊豆こと松平信綱を派遣したのです。因みに右手は讃岐、酒井忠勝です。 -
しかし、板倉重政の器量不足はあったものの、単なる農民、純朴たる信徒が武士に対してこうもアッサリ連戦連勝出来るのでしょうか?勿論そんな事はありません。かつて島原には有馬晴信、天草は小西行長と言うキリシタン大名が治めていました。ですので、島原にも天草にも数多くの浪人が一揆軍に参戦していたのです。その中には、秀頼の名を持ち上げている等から察して、大坂の陣で死に不平分損なった不平分子も数多く含まれていた事でしょう。
-
また、一揆軍は3万7千人の勢力がいたと伝えられていますが、その中には数多くの強制的にキリスト教軍に参加させられていた人も含まれました。即ち家族を人質に取られ、一緒に戦わないと家族の命は保証しないと脅されて参戦させられていた人々です。つまり、彼等は純朴な信徒どころか、かなりえげつない戦闘集団だったのです。事実、カソリックはそれを理由に、島原の乱を聖戦とは認めていませんし、彼等の死を殉死とは認めていません。
-
さて、家光の左手松平信綱は、現地を視察し、むやみに攻める事をせず兵糧攻めを行います。そしてオランダに対して砲撃を依頼しました。これは幕府から反論もありました。下手に南蛮人に手助けを求めると厄介な事になると考えたからです。借りを作っちゃ駄目だと言う事です。(ゼレンスキー!聞いてるか?)信綱は、そんな事は百も承知でした。信綱は、こう返しました。「なぁに、一日だけで良いんですよ。」
-
信綱は解っていました。一揆軍が頼りにしているポルトガルはカソリック、反してオランダはプロテスタントで、お互い仲が悪い。
「カソリック信者が暴徒となって暴れてるから、ちょっと懲らしめてやってくれ!」
これから幕府と近づきたいと考えているオランダにとっては、小癪なカソリックに一発くれてやるくらいお安い御用です。こうしてオランダ艦隊は原城に向かいました。 -
イチオシ
原城に籠城し、飢えと戦う一揆軍にとって頼みの綱はポルトガルの援軍でした。しかし残念ながら彼等は世界情勢など解る筈もありません。原城から眺める海に、黒船が現れた時、彼等は歓喜したに違いありません。しかし、その船はオランダのプロテスタントの軍艦だったのです。味方が現れたと歓喜したのも束の間、その船から放たれた大砲は、彼等の心を打ち砕きました。
-
続いて信綱が行ったのは、矢文による投降喚起です。最初は条件付きで様々な要求が書かれていたそうです。幕府側も大いに妥協しました。棄教するなら天草四郎であろうと放免にすると。幕府側にも困っていた事があったのです。一揆に加わったもの約3万7千人。これが全員亡くなってしまうと、藩の経営に大きな支障を来してしまいます。ですから幕府は決して全滅させようとは思っていなかったのです。事実、この乱の後、幕府は多くの移民を島原に移住させる事となりました。
-
飢えが進むと、一人、また一人と城を去る者も出始めました。ただ単に不平分子として一揆に参加していた者、脅迫され一揆に参加せざる得なかった者達です。こうして、篩にかけられた結果、矢文の内容もどんどんシンプルなものへと変わっていきました。
「もう何も望まない。ただキリスト教さえ信仰を許して貰えるのなら…。」
一方幕府は
「棄教さえすれば、天草四郎でも放免しよう…。」
それは、シンプルでありながら、決して交わる事の無い矢文でありました。 -
こうして、お互いの唯一の望みが交わる事の無い中、一揆軍の死体の胃に、何も内容物が無い事を知ると、信綱は時の到来した事を知りました。突撃の即ち突撃の時がやってきたのです。戦いは一日で決着がつきました。彼等はカソリック。自殺は出来ません。幕府としても多くの命を失いました。棄教しない一揆軍に妥協する事は許されません。画して、3万人に及ぶ一揆軍の命が失われる事になったのです。
-
私の私見としては、この戦いは大きな悲劇であり、結果として多くの命が失われましたが、今まで話してきた通り、これは虐殺とは言えないと言い切れると考えています。発端は苛烈な年貢の取り立てであり、キリスト教徒へ対する過度な拷問等数々の非難されるべき行為はあったのは間違いないものの、一揆軍もまた、様々な暴力的行為を働いていたと言う事実。
-
それに対し幕府は最後まで矢文を使い投降を喚起した事。また苛烈な年貢の取り立てを行い、反乱のきっかけを作った松倉勝家を、切腹では無く斬首を命じています。これは江戸時代を通じて唯一、大名が斬首された唯一の例となり、如何に幕府が、この事件を真剣に捉えていた事が解ります。世を乱す輩は勿論、その様な輩を生む事となった身内さえも決して妥協せず叩き潰す!と。
不祥事が起こると、書類送検と言う曖昧な手段で、権力者や身内を保護してしまう現代の日本より、アンバランスな優しさを打ち出す軟弱な今の風潮より、よっぽど公正且つ厳格な処分を執っていたとさえ感じます。 -
ただ、私を驚かせたのは矢文により、一人、一人、城内から去っていく者が増える中、3万にも及ぶものが城内に留まり、信仰を守り抜いたと言う事です。
カソリックが言う様に、最初こそ苛烈な年貢による反乱であり、多くの浪人が加わった、宗教紛争とは大きく性質が異なる争いだった事は拭えません。でも、歴史を振り返っても、純粋な宗教紛争なんて、有り得ません。あの十字軍ですら、政治や経済、様々な宗教以外の要素が多分に含まれています。 -
その中で、原城で飢えに苦しみ、矢文で篩にかけられ、それでもこの城に留まり、亡くなっていった信徒達は、彼等の矢文にある様に、もう彼等には信仰しか残されていなかったのです。つまり彼等こそが、純粋な聖戦を戦ったのであり、彼等こそ殉教者だったのだと思います。カソリックは、最後に残った彼等には、彼等にこそ、殉教を認めてあげて欲しいと感じます。
-
この後、幕府はキリスト教弾圧をさらに厳しく行い、本格的な鎖国に向かっていきます。しかし私は宗教と言うものは、世界中のどんな国よりも強く、そして長く生きると思っています。(カルトや新興は除く)宗教は人の心の中に生きるものだからです。ユダヤ、キリスト、イスラーム…宗教は色々ありますが、世界中のどんな国よりも長生きしているのがそれを証明しています。キリスト教を禁じられた長崎の人々も、地下に潜伏し、独特なスタイルを生みながら、明治まで信仰を守り抜きました。
-
イチオシ
では、幕府はキリスト教に寛容であるべきだったのか?私は残念ながらそうあるべきでは無かったと考えます。島原の乱が起きようが、起こるまいが、キリスト教を断ち切る必要があったと考えています。
最初に告げた様に、キリスト教が危ない宗教だからではありません。純粋に信仰している人達は敬虔な者達です。でも、それを扇動する権力者、そしてその背後にいる彼等の国、当時の背景を鑑みれば、幕府の取った政策は間違いないものだったと信じています。 -
彼等の手口は、太古から現在に至る迄一貫しています。武力が通じない相手の場合、先ず宗教を先行させるのです。そして信者を扇動して、異教徒を攻撃する。島原でも多くの寺社仏閣が攻撃を受けました。当然その国の既存の宗教と争いが起こる事でしょう。支配したい国が、二分して内戦状態にする。それこそが彼等の作戦だからです。
-
事実、島原の一揆軍が、日本各地のキリシタンに連絡を取り、各地で放棄し内乱を激化させようとしていたとされる資料も残されています。一揆軍と幕府軍が大規模に衝突し、疲弊すれば、彼等は自分達の信徒を守ると言う大義名分を抱えて攻め込んでくるでしょう。そうやって世界を二分しようとスペインと条約を交わした国ですから。
-
勿論天草四郎をはじめ、一揆軍誰一人として日本をポルトガルに売り払おうとなんて思っちゃいなかったでしょう。でも…そうなりかねなかった。何処かで聞いたフレーズじゃないですか?国内が親NATO派と親ロシア派で二分され、プーチンは親ロシア派を守ると言う大義名分を掲げてウクライナに侵攻し、NATOがウクライナを守るのを口実に、ウクライナに武器を供与し、もう、ウクライナは滅茶苦茶です。
-
日本は島原の乱から200年後、再び欧米に狙われます。その時は討幕を狙う薩摩と幕府と、正に日本が二分されていた時代でした。この時は日本は大政奉還と言うウルトラCを行う事で、国内を一夜にして統一、フランスとイギリスの目論見を打ち破る事に成功しました。国内を二分する、または、させる事は、彼等の植民地支配の伝統的手法なのです。
-
即ち、幕府は何が何でもこの乱を鎮圧し、国を一つにしなければならなかった。もし、この乱が長引き、国中にキリシタンの反乱が巻き起こっていたとしたら、今頃我々はポルトガル語を喋っているのかもしれないと私は考えています。
-
エルサルバドルと言う国では、マフィアが国を牛耳り、常に凶悪犯罪ランキングのトップにある国でした。しかし大統領が情け容赦無くマフィアを監獄に入れた結果、治安が劇的にあがりました。治安が改善すると観光客が戻り、商業が復活し、国が潤いました。国の人々の安全を確保し、良い国を築くには、厳しい処断も時に必要なのです。
-
島原の乱は日本の歴史全体を通しても、多大な犠牲を産んだ大きな悲劇です。 但しもし島原の乱が起こらなかったとしても、時代背景を鑑みれば、いずれ日本の何処かで類似する一揆が起きた可能性は高いでしょう。
-
そして、幕府がそれらに対し「かわいそう」と甘い判断を下したのなら、一揆は各地に飛び火し、やがて幕府の基盤を崩してしまうでしょう。さすれば、好機到来とばかりに日本は欧州勢の植民地にされた事でしょう。
-
嘗て徳川家康が行った二度に渡る大坂の陣。それは豊臣家を葬る為の戦いでしたが、私はそれ以上の目的があったと考えています。
現代でも戦争の後、多くの兵士がPTSDに苦しみ、アフガン紛争はアルカイダを生み、シリア内戦はISを産んだ様に、一度争いに身を置いた者は、簡単に元の生活には戻れ無いのです。
長く続いた戦国時代なら尚更の事、多くの浪人が各地に残り、怨嗟の声を挙げています。平和な世を築くに当たって、家康は彼等を征する必要がありました。それが大坂征伐だったのです。
豊臣征伐を行う事で、争いに誘蛾灯に誘われ群がって来る浪人達を一網打尽にし、一斉に不平分子のガス抜きを行う。それが家康の本当の狙いだったのではないかと私は考えています。
奇しくも、島原にも浪人が結集し、天草四郎豊臣秀頼の血筋だとして、戦意高揚しました。幕府は、そんな彼等を完膚無き迄叩き潰す事によって、戦国時代以来、是迄続いて来た「暴力に訴えて国を変える」と言う発想自体を完膚無き迄叩き潰したかったのだと思います。
以降200年、太平の世が続く事になります。その代償として、多くの命が此処で失われました。合掌
それでは、原城を後にしようかと思います。 -
イチオシ
様々な想いに駆られながら、島原への長い帰り道をバスに揺られます。多くの犠牲を払う事になったキリシタン。では彼等を誅した幕府は悪だったのでしょうか?
熊を殺してはかわいそう。だから猟師を誹謗中傷する。そしたら熊被害に苦しむ人々はどうなってしまうでしょう? -
人は兎角二元論が大好きです。一部を切り取った、都合良く解り易い二元論に踊らされて、要らん正義感に駆られ、踊らされている事にも気づかないものです。
扇動的に切り取られた部分では無く、切取られてしまった部分にこそ、真実が隠されているものです。 -
島原に帰って来ました。駅前では無く大手と言うバス停です。此処が街の中心、嘗て大手門があった場所。今ではアーケード商店街の入口がありますが、今や地方のあるあるで、ちょっとモノ寂しさを感じる佇まいです。
-
嗚呼直ぐ其処に島原城が…ホテルはこの辺の筈…。島原ステーションホテルと言うよりかお城の方が近い!でも城は駅に近いので、ステーションホテルと言う名前もギリギリセーフ。でも駅直近では無い。少々疲れた外観に、まぁ、この値段で、こんなものかと…。
-
イチオシ
で案内された部屋を開けて、思わず土下座したい気持ちに!
「先程は大変無礼な言葉、誠に申し訳ありませんでした!!」
窓から島原城が!!
温泉地にありながら温泉では無い、ちょっと疲れたビジネスホテルですが、島原城見たさに島原を訪れた旅人にとって、この演出は、最高級のオモテナシです。
温泉は日本各地で楽しめますが、島原城を眺められるのは、島原ステーションホテルの片側のみです。 -
これは感動です。しっかり見てねとばかりにお城に向かって椅子と机が!!こんな素敵なホテルからの風景、サウジアラビアのアル・マディーナ以来です。嗚呼このままいると、お尻が椅子にくっついちゃって、離れる事が出来そうもありません。
-
こんな立地にビジネスホテルで良いんですか?いや、ビジネスホテルだからこそ私が泊まれているのですが…。
-
もうこれから外出しても、最早太陽の光線は弱まるばかりですが、明日の予習に出かけましょう。ホテルを出て道路を渡れば一区画向こうは島原城と言う最高の立地。
-
お堀に沿ってグルリと島原城を一周。クレムリンも一周しましたよぉ!
-
民衆に一揆を起こす程重税を課して建てられた島原城の石垣は、一揆軍の攻撃を跳ね返しました。
-
もうお城は当然閉まっていますが、敷地内には入れる様なのでお邪魔します。
-
島原城天守閣と御対面する前に、日本のお城の天守閣の二つの様式を紹介したく思います。
-
日本のお城の天守閣は大きく分けて望楼型と層塔型の二つに分かれます。始めに造られたのは望楼型。安土城がその開祖です。
2から3階建ての入母屋造りの大きな家屋の屋根をくり抜いて、其処に2から3階建ての物見櫓を乗っけて造ります。入母屋造りの破風が必然として存在し、それが日本の城らしさを醸し出しています。
望楼型の代表例として松江城が挙げられます。下層、横向きの入母屋造りの建物の真ん中に望楼が乗っかってるのが解ると思います。 -
しかし戦国も末期になると、建築技術も向上し、もっと簡単に、もっと手早くを求められます。こうした中、藤堂高虎により考案されたのが、層塔型天守閣です。
仕組みは簡単、積み木の様に積み上げるだけです。しかし、それだと、望楼型の様な破風が必要無くなり、当時の武士は味気無く感じたのでしょう。折角経済的に築いたと言うのに、思いっきり装飾としての破風をこさえて城を飾りました。層塔型で建てられた名古屋城が、その典型です。(屋根に付いた三角の破風は全て飾りで、本来必要の無いもの。)
しかし、この日本人の破風好きは、現代人も同様の様で、本来破風を持たない城であった小倉城が再建される時、権力者の意向によって、無い筈の破風が付けられて建てられてしまったと言う歴史的に恥ずかしい復興が行われてしまいました。 -
現存12天守閣の一つ弘前城は、とても珍しいタイプの層塔型天守閣です。方角により、装飾としての破風が設けられ、異なる側面では、素の層塔型天守閣となっています。そうなった理由は解りませんが、貴方はどちらが好みでしょう?少なくとも、層塔型であっても、破風を装飾として加える城が多数派であった事は確かでしょう。
-
そして此方が島原城天守閣です。天辺の屋根の破風以外は全く破風を持たない、これぞ層塔型天守閣です。余りに破風を付け過ぎて、五月蠅く感じてしまうお城もある中、これだけスッキリと仕上げられたお城も珍しいです。層塔型と言えど、装飾破風を複数設けて、望楼型の外見に近づけている城が殆どですから。
-
島原城の縄張りは連郭式の平城です。層塔型で建てられた天守閣は独立式。戦いが多かった時代は、連立式や副天守を付属する構造を持つ城が多かったですが、太平の世が来ると、天守閣は権威を示す役割が重要になった事から独立式天守閣が増えました。島原城もドドーンと単体で天守閣が聳えます。
-
因みに島原城は、史実に基づいて外観を再現したコンクリート製の天守閣なので、外観復興天守閣と言うカテゴリーに分類されます。築城は松倉重政。彼が重税を課しこの城を作った事が、島原の乱の大きな要因となりました。が、その責任を取って斬首されたので、その後は譜代大名である深溝松平家が城主を務めました。
-
ただこの城の縄張りは、二の丸と唯一橋で繋がっている構造です。橋を落とせば本丸は独立出来ますが、逆に言えば袋の鼠。一揆軍は其処を突き、兵糧攻めに持ち込めば…。いやぁその…飢えに耐え切れず一揆を起こしたのですから、逆に兵糧が尽きるのは一揆軍の方が先か…。
-
北東に位置する、即ち丑寅櫓から有明海を臨みました。丑寅櫓は民具資料館、南東の巽櫓は西望記念館、西三重櫓の三つの櫓が再建されています。
-
此方は丑寅櫓です。天守閣のみならず、付随する建築物が残されたり、再建されているのもポイントが高いです。
-
島原城と雲仙岳。人の築いた美しい城と、自然が作り上げた美しい山。ですが、かたや島原の乱を産み、かたや島原大変、肥後迷惑の大惨事を引き起こしました。
-
東の空が青味を増してきました。下から見上げる島原城。下手をするとノペェーって感じになってしまったり、デブッチョの五重の塔になりかねませんが、美しく見えるのは、高くなる程小さく重ねられる比率によるものでしょうか?
-
イチオシ
雲仙の山に向かい退城します。また明日!
-
お城を後にして武家屋敷が残る一角に向かってみます。
-
吉田松陰が島原を訪れ、砲術家宮川度右衛門を訪ね、カノン砲や海防について学んだ事が記されています。
-
武家屋敷が並ぶ通りにやってきました。弘前で訪問した武家屋敷の通りに似ていますが、水路が中央に引かれているのが特徴的です。これは、両側に暮らす武家に公平に水を分配する為の配慮でした。
-
当然本日の営業は終了していますが、明日は計画がタイトです。間に合わなかった場合を想定して、外観だけでも拝みに来ました。
-
武家屋敷通りには、実際人々が暮らし、その中には、この通りに車庫を持つ家もあります。皆、器用にこの水路を交わし、車を出し入れしています。見事なものです。
-
この通りは下級武士が暮らす地域だった様です。弘前に残された武家屋敷通りも下級武士のものでした。上級を差し置き、下級武士の屋敷が残されるケースは、どうして生まれるのでしょう?
-
城は大抵の場合、その街の中心、即ち一等地にあたり、天守閣こそシンボルとして残されましたが、その周囲は学校や市庁舎等に使われる事が多く、城の直近に位置していた上級武士の家屋は、多くの場合それらの建設の為撤去されてしまいました。
-
上級武士の家屋より外側に位置した下級武士の家屋は、街によっては開発の波を被るより前に、史跡保存の手が伸びて、今日、訪れる事が可能になりました。
-
此方の城壁は城の城壁では無く、隣接する学校の城壁です。
-
再び島原城が見えてきました。
-
ライトアップが始まりました。
-
ゆっくり対象物を周りながら、徐々に角度を変えながら、色んな表情を眺める事が好きです。あ!これは歴史的建築限定です。人に対して行なったら、それはストーカー。犯罪です。お店でやったら、マッチ売りの少女の気分になって、自分が哀しくなるのでやめましょう。
-
ほぼ島原城を一周してきました。何をやっているのでしょう?天守閣が巽櫓に隠れてしまっているじゃないですか!
-
気を取り直してもう一枚、実はホテルから一番近い、巽櫓越しに眺める島原城。これが私の島原城イチオシスポットに決定しました。巽は南東。つまりは朝方が順光になります。これなら明日晴れれば、素晴らしい一枚を期待出来るでしょう。(逆にベストスポットが西側だったら、私は涙目だったでしょう。西側が順光になる頃には、私は島原を出ていないとならないからです。)
-
今度は道路を挟んで、先程のアーケード街を突っ切ります。もう、人っ子一人いません。
-
島原は湧水が有名な街で、街の至る所で水が湧きますが、此処はその中でも有名な一画で、水路に鯉が泳ぎます。
-
島原大変、肥後迷惑と謳われた島原の大噴火。未曾有の被害を被った島原ですが、唯一残された光明が、この湧き水なのだそうです。つまり、島原の乱の際は、未だ島原には湧き水が湧く事は無かったと言う事です。
-
もう暗くて鯉さんも見えづらくなってしまいました。見上げれば、ほうじゅうさんと言うお食事処。島原名物も扱っている様です。頂きましょう。
-
島原名物の3点セット。河豚の押し寿司。島原の乱時に、一揆軍が食べた戦闘食が起源とされる具雑煮(サッパリとして且つしっかりと出汁の効いた塩ベースの出汁に、その名に負けない具沢山。)そしてデザートは、島原名物かんざらし。ついつい食事を疎かにする私が放った、久々のホームランです。
-
でも…私の座るカウンターのすぐ脇に、これから調理されるだろうお魚さんが泳ぐ水槽があるのですが、私が河豚のお寿司に手を伸ばそうとすると、何故か水槽の河豚さんが近づいて来て、目が合ってしまうのです。
「僕のオカン食べちゃったの?」
「僕のオトン美味しかった?」
。・゚・(ノД`)・゚・。 -
お腹いっぱいご馳走になって、島原城に戻れば、夜もすっかり更けていました。
-
自室に戻ります。何やら背後でつけっぱなしにしていたテレビが不吉なニュースを流していました。
千葉県を豪雨が襲い浸水。成田空港は、外に出られず、多くの旅人さんが空港に缶詰にされている…なんて言う事だ…。
続いてのニュースです。阿蘇山の噴火危険レベルが繰り上げになりました。私の行く場所、行く場所、何故か危険度レベルが上がる…。私は疫病神なのか?
此処まで来たら、心配しても致し方無し。明日は忙しい一日です。おやすみなさい。
最後迄ご覧になってくださり、ありがとうございました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
日本の旅2
-
真光寺川 源流を目指して
2025/07/19~
町田
-
たまに、たまたま、多摩を巡る。ありがた山、小沢城址等
2025/08/13~
登戸・新百合ヶ丘
-
たまに、たまたま、多摩を巡る。2 小山田城跡、小野路城跡
2025/12/29~
町田
-
宿題を済ませに南宮山へ・関が原陣跡巡り2
2025/12/30~
関ヶ原・垂井
-
たまに、たまたま、多摩を巡る3 三輪町
2025/12/31~
町田
-
鶴見川中流域にて、嘗て此処に暮らした人々の苦闘の歴史に想いを馳せた。
2026/05/22~
港北・長津田・青葉
-
未訪問県を訪れる旅、原城にて島原の乱に想いを馳せた。
2026/08/13~
南島原市
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
南島原市(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 日本の旅2
0
120