2025/08/13 - 2025/08/13
58位(同エリア398件中)
さっくんさん
ゴールデンウィーク同様、最後の最期迄行動予定が建てられなかった今年のお盆。あんまりにも天候が優れませんでした。それ迄の異常な暑さはなんだったのか?仕事の時はド快晴の炎天下。よりによってお盆休みが始まったのを待ち構える様に天気が崩れ…。予定を立てていた方々の怨嗟の声が聞こえてきそうな空の色です。
それでも何にもしないのも勿体ないと、でも遠出する程天気も良く無いと言う事で、ご近所で行ってみたかったところを歩いてみる事にしました。結果何故だか知らねど石仏尽くしの散策となりました。お盆だけあって、呼ばれたのかな?
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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駅に向かう途中、ふと思い出したかの様に浄慶寺さんに立ち寄りました。
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浄慶寺は浄土宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来、開山は元和元年(1615年)境内にはアジサイが多く、柿生のアジサイ寺と呼ばれています。また境内には数多くの羅漢像が安置されており、その表情や動作が非常にユーモラスで、東京郊外の変哲の無いお寺さんであるにも関わらず、ちい散歩にも取り上げられた事もあるお寺さんです。
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お寺には神社もあり、此方は秋葉大権現です。秋葉と言ってもオタクの神様でも無ければ、電気の神様ではありませんし48人いる訳でもありません。防火の神様として広く信仰されている神様だそうです。
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境内に入ると早速可愛らしい羅漢様が出迎えてくれました。
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お!何奴じゃ!って表情の羅漢様。
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此方の羅漢様達は、有名なデザイナーが造られたものでしたよね?可愛らしい。
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ほのぼのとした羅漢様達の横には…
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貴方、一休禅師ですか?慌てない、慌てない!一休み、一休み!
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飲めや、踊れや
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アルハラしてる羅漢様(笑)
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毒殺される羅漢様…時代劇の見過ぎです。
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羅漢様を写している姿を激写されてしまいました。
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よぉ、良く来て下さったなぁ…田舎のジィちゃんか?
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負けてたまるか!
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腕試しの後は頭で勝負だ!参ったか!
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大谷翔平さんがいらっしゃいました。
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本堂に続く参道沿いにもたくさんの羅漢様が、一番手前の羅漢様は、今の私と同じ様にパソコンで4トラベルの旅行記を書いている途中です。
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ざまぁ見たか!って煽り捲る羅漢様(笑)
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ブルージーな羅漢様。
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浄慶寺本堂。とても癒される寺院でした。
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此方は秋葉大権現様。この頃48人衆も、本家の街も、めっきり廃れてしまったと聞きます。なんとかしてやってください?管轄外ですって?そいつは失礼しました。
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寺の裏方からは、上部に残る自然遊歩道に繋がる道が続きます。遊歩道には夜間照明が施されますが、寺社に繋がる部分には照明がありません。私は時にとあるバス停の近道として、この道を使うのですが、冬になると帰宅時は照明が無いこの道をスマホのライトを頼りに下る事になります。
それはそんなとある帰宅途中。スマホのライトを頼りに墓場の裏を歩く背筋が凍る一瞬。足元を照らす私のスマホのその先に、目をランランと光らせた、皺だらけの男が寝そべって、此方を凝視して寝そべっているではありませんか!
「でっ、でたぁ~!」
と言う言葉を必死に飲み込んで
「え?えっ?まさか酔っ払い?で、でもゾンビみたいな風体(失礼)って事は御老人?こんな時間に、こんな人通りの無い場所で倒れていると言う事は…私がなんとかしないと命に関わる!」
こんな事を慌てふためいて、頭をグルグルさせながら、なんとか正解を導き出しました。 -
御老人の腕を自分の肩に回し、御老人の体を腰に乗せる様にセオリー通りに立ち上がらせます。年老いた体は力を入れ過ぎると壊れてしまいそうで、立ち上がらせた時の、余りにもの軽さに驚きました。立ち上がらせた時は足に全く力が入らない状態でしたが、看板に手を突かせ落ち着き始めると、徐々に力が戻ってきた様で、介助すれば歩けるくらいに回復しました。幸い御老人の自宅は近かったので、付き添いながら家までご一緒させて頂きました。深々と頭を下げられ、また転んでしまいかねないので必死に抑えて家を後にしました。
足は覚束ないもののゆっくりですが坂道は登れるのですが、一旦転んでしまうと足腰が弱っているので、立ち上がるのに非常に難儀してしまうのでしょう。場所が場所だけに、非常に慌ててしまいましたが、微力ながら人助けが出来て本当に良かったと思います。少子高齢化の時代、明日は我が身、助け合うのが当たり前の世の中であって欲しいと思います。いやぁ、でもマジ心臓止まるかと思った。 -
さて、本日のお題を目指す為、小田急よみうりランド駅に移動しました。本来京王よみうりランドが最寄りなのですが、私が暮らすのは小田急沿線である事、どうやら多摩自然遊歩道を歩きながら現地へ向かう事が出来る様なので、小田急よみうりランド駅を基点としました。然しながら遊歩道の入り口が解り辛い…。
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一旦遊歩道に入ってしまうと、そこは此処が東京(川崎)なのか?と疑いたくなる程鬱蒼とした木々に覆われた林道となります。然しながらこの木々のカーテンの向こうには、車が渋滞し、その向こうには住宅に埋め尽くされた現代の多摩の景観が拡がります。多摩丘陵には、所々その一部だけが昔の里山を保全する区域が残されており、その一部が自然遊歩道として市民に親しまれています。
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緑のカーテンが途切れた部分から多摩の街並みが見張らせます。なだらかな丘の上は、昨今宅地造成が進んだ事で、その殆どが住宅地に変わりました。昔の里山は、今となっては住宅地にはうってつけの条件であり、〇〇ヒルだったり〇〇ヶ丘と名前が変わります。もう住所の名前が後付けだって事がバレバレな案件です。但し、一部は、元々の地名だととても買い手がつきそうもないので、造成した上で名称を変えて売りに出される土地もあります。例えば、昔土地が瘦せている、水害が繰り返された等の様々なネガティブな要因から、当時の人が敢て人が寄り付かないだろうネガティブな地名をつけた場合があります。勿論現在では造成が為され、多くの不安要素は取り払われた上で売りに出されている筈ですが、気にされる方は、こうした明らかに後付けされた土地を求める時は、以前の地名を紐解いて見た方が良いかもしれません。全ての土地には歴史があり、地名にはそう名付けられた所以があります。
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多摩周辺は竹林が多いのかは知りませんが、本日訪れた場所で漏れなくついてきた小規模の竹林。細く直立し立ち並ぶ竹林は太陽の木漏れ日の差し方が木々のそれとは違い独特の雰囲気を持っています。
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竹林と言えば、どうしても京都の嵐山を想い起してしまいますが、あそこはいつだって観光客が群れを成し、今となってはインバウンドの人だらけで全く風情がありません。竹林の凛とした雰囲気を楽しみたいのなら、名も無きこうした地方の竹林の方がよっぽど風情を感じます。
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そう言えば、インバウンドの人のガッカリポイントに伏見稲荷が挙げられるそうです。理由は混み過ぎていて思った様な写真が撮れないからだそうです。笑っちゃいますよね?そう言うお貴方が来るから混んでるんですから(笑)
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竹林はあっという間に過ぎ、普通の緑道へ。しかし、その緑道さえ多摩では貴重な遺産です。
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ありがた山に近づくと、山の周囲の殆どは造成され、読売巨人軍の施設が建設されていました。一部はもう運営が開始され、本日はお盆と言う事もあり何某かのイベントが開催されている様で、イベントらしい、ハイテンションな場内アナウンスに導かれて、続々と会場に野球ファンが押し寄せていました。ちょっと離れた先には読売ランド。駅名から察する迄も無く、此処一帯が読売グループの土地と言っても良いのでしょう。
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ありがた山は妙覚禅寺と言う臨済宗建長寺派の寺院が管理しています。山号は雲謄山。本尊は釈迦牟尼仏。創建は1550年と言う由緒あるお寺さんです。ありがた山がなんとか生きながらえているのも、幾ら読売グループとは言え、この由緒あるお寺を立ち退かせるなんて暴挙に出られないからだと思います。
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お寺の規模は大きく山の斜面いっぱいに墓地が拡がっています。訪れたのがお盆と言う事もあって数多くのお墓参りの人々がいらっしゃいました。墓地からは新宿の副都心の向こうにスカイツリー迄見渡せます。
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その頂上に、明らかに一般の墓地とは異なる空間が広がり、其処には四千とも言われる年季の入った石仏が肩を寄せ合う様に立ち並んでいます。此処だけ空気感が変わったようにさえ感じます。いったい何故この様な世界観が生まれたのでしょう?
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1940~3年にかけて、東京駒込地区に野積みされ放置されていた無縁仏を、道義的、宗教的理由から此処に集められ供養された結果だと言います。日徳海と呼ばれる団体が行った事で、妙覚禅寺の先代、先々代の好意を受けて此処に安置されているそうです。無縁仏を運び込む時、「ありがたや、ありがたや。」と唱えられていた事から「ありがた山」と呼ばれる様になりました。
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どこか遠い記憶で見た事がある風景だなと感じていたところ、なんと前回紹介した能ヶ谷のお化けマンション同様、特撮や怪奇ものの撮影現場として屡々ロケ地として使われていた様です。確認したところ、仮面ライダーストロンガーがありがた山の無縁仏を背景にファイティングポーズを取っている画像が確認出来ました。
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こうした背景には、多摩のこの周辺に特撮ものを扱うプロダクションがあった事が挙げられます。まさか此処はお化けマンションの様に無許可でとは言えないでしょうが、無縁とは言え、実際にお亡くなりになった人々の眠る場所。こんな場所で撮影をしようとする人々は愚か、許可を出したであろう寺側の意識も低過ぎるのではないかと思います。
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現在は無縁になってしまったとは言え、調べて見るとどこぞの藩主等、結構名だたる人々も眠っています。
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しかしながら、東京郊外の駅チカでこの風貌なので、格好の心霊スポットとして有名になってもいます。
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下の一般の墓地部分からでも都心方面の絶景を眺める事が出来ますから、ありがた山からも素晴らしい景観が眺められます。駒込方面から移送されてきた霊魂も、懐かしい方面を眺めながら眠りにつけていると思います。
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頂上裏手には五輪の塔が建ち並び、その向こうに現代の多摩の都市空間が広がっています。
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ありがた山に無縁仏が運ばれてきた当時は、此処がこれ程都市開発が進むなんて思いもしなかった事でしょう。然し今となってはありがた山周囲は開発が進み、まるでビーチの遊びの棒倒しの様に、周囲の山は削りに削られ、削ぎ取られ、今となっては妙覚禅寺とありがた山だけを残すかの様な光景となっています。
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削りに削られ断崖となったありがた山の裏手には、膨大に整地された空間に、ジャイアンツタウンが出来上がっていました。本日はお盆のイベントでしょうか?沢山の野球ファンが訪れ、イベントらしいハイテンションのアナウンスが響いています。
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ジャイアンツタウンとありがた山を挟んで、その反対には読売ランドがあり、此処周辺は読売グループの地場であり、稲城市も応援しています。妙覚禅寺もありがた山も、周囲を読売グループに包囲され、今や落城寸前の古城の様な佇まいです。
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まだまだ開発は途上。既存の施設の周りにはこれから開発が進むであろう空き地が周囲を囲んでいます。平坦に切り開かれた大地に、取り残された島の様にありがた山が取り残されています。
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確かに資本主義の方程式で読み解けば、こんな駅チカな物件で、読売グループは巨大な金を落とすのに比べ、誰も墓参りに来る事の無い、心霊マニアしか集まらない無縁仏等、行政にとっては邪魔なだけな存在かも知れません。
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でもこれ等数千に及ぶ石像は、無縁とは言え人々の生きた証でもあるのです。金を落とす業者や、今を生きる人間の利便性だけ優先する様な行政の下では暮らしたいとは思いません。
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今となっては、通常の墓地の最上部に位置する他とは時の流れが隔てられたかの様な特殊な空間。訪れるのは、心霊マニアと私の様な変わり者くらい。心霊スポット巡り自体に興味は無いし、霊感も無いのですが、心霊話や怖い話は結構好きで、ちょっと違った角度から心霊スポットに惹かれます。心霊スポットと呼ばれるからには、其処には必ずや、人の歴史が息づいているのです。此処の無縁者達は、どんな物語を語ってくれるのでしょう?
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心霊スポットを、只のワーキャーで済ませてしまっては勿体ない。耳を澄ませれば、歴史の深淵が出迎えてくれるでしょう。皆さんは四谷怪談や番長(州)皿屋敷の何処に怖さを感じますか?お岩さんの腫れ上がった醜い顔ですか?お菊さんの恨めしそうな声ですか?
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私は、一度は愛し合った妻を心代わりしただけで、妻に毒を持ってしまう民谷伊右衛門、新人女中のお菊さんを死に追いやった先輩女中のパワハラ。そんな生きた人々の醜い言行、其処にこそ此等の怪談の一番怖い部分なのでは無いかと思います。つまり江戸の怪談は幽霊譚に見せかけて、人怖の物語だったのです。
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お岩さん、お菊さん。時と共に忘れ去られがちな此等の悲劇を繰り返させない、風化させない。江戸時代の人々は、そんな想いで、お岩さんやお菊さんを敢えて怨霊に姿を変えさせ、戒めとして残したのかもしれません。
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そう読み解けば、怪談とは、安穏な世を望む当時の人々の切ない想いが籠められており、江戸時代の人々の優しさに触れられた様な気もします。ゾッとした後にホッコリとする。考えさせられる。そんな怪談が私は好きです。
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現代のネットでも、続々と怪談が生まれています。その中で一番有名なものの一つに、旧2チャンネルの怪談スレッド「洒落にならない怖い話」に掲載された「クネクネ」があります。
とある兄弟が田舎に帰省し、大興奮して遊びますが、遠くに人やらカカシやらが、またと無い動作をしています。不思議に感じた兄が双眼鏡を覗き彼はその正体を見てしまいました。自分も見たいと双眼鏡をせがむ弟に「解らない方が良い。」と言い残し、兄は茫然自失してしまいます。
それ以来、兄は知的障害的な症状が出て通常の生活が送れなくなり、そのまま田舎の祖父の家に引き取られ、別れて暮らす事となると言うストーリーです。 -
幼い兄弟の楽しい筈の夏休みが、突如意味不明の何かによって理不尽に引き離される。その要因が「クネクネしたもの」と言う曖昧なもので終わってしまう処も秀逸で、読者に多いな余韻と恐怖、そして考察を生みました。その中で一番合点がいく考察に熱中症説があります。
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当時の現場は炎天下の夏休みの田んぼ。日を遮るものも無いでしょうし、遊びに夢中な彼等が初期症状を見逃してしまうのも無理はありません。そしてふと見た人影、若しくはカカシがボヤケたり、揺れている様に見えたのかもしれません。そしてそのまま倒れ、熱中症による脳障害が発生してしまったのでしょう。
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幼い頃、最愛の兄弟を失う事は片割れにとって衝撃過ぎる出来事です。当時は幼く親も詳しくは彼に説明出来なかった事でしょう。いや、成長して、その原因が熱中症だと理解出来る年齢になったとしても、兄が倒れる直前に双眼鏡で見た「クネクネした何か」が彼の頭から離れる事は決して無いでしょう。
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人は時に信じがたい不幸と向き合わなければならない事象が発生します。しかしそれをそのまま語ってはエグ過ぎる、残酷過ぎる場合、自分を、そして読者を、守る為にもデフォルメを加える。そうして生まれた怪談も多いのでは無いかと思います。特に鬼関連に強くそれを感じます。
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今年も暑い日々が続きました。仕事柄、外仕事なのでこの夏幾度か「クネクネ」に遭遇しそうになりました。まだまだ残暑は続きます。楽しい旅の風景の中にクネクネ動くものを発見したなら、迷わず救急車を呼んでください。
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ありがた山を下山し、ありがた山を見上げます。左手には新道の工事が進行中。右手の階段は新しく出来がったジャイアンツタウンに向かう階段。正に四方を開発され取り残されてしまった山と言った光景です。このまま読売グループに切り崩されてしまう日が来るのでしょうか?
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次の訪問先、小沢城址へと向かう坂には、ズラリとジャイアンツの選手たちの手形が道路に並び、この街が読売グループの土地であるかを誇示しています。ペンキで真弓、弘田、バース、掛布、岡田、佐野、平田、木戸って書き換えてしまいましょうか(笑)特別野球ファンでも無い私が、こんな昔のオーダー覚えているなんて、当時のタイガースが如何に奇跡的だったかと言う事だと思います。
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そんなジャイアンツ関連施設へと向かう途中、大げさに表示されるジャイアンツ関連の看板に隠れる様な、何の看板すらない脇道を入って小沢城址へと向かいます。
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なんと、巨大な倒木が行く手を阻んでいました。それほど大きな台風が来た記憶が無いので、自然に倒れたのでしょうか?大規模に造成が進むジャイアンツ関連の場所とは裏腹にこうした所は放置のままです。入り口に「倒木あり侵入できません。他の入り口から登城してください。」程度の案内くらい出来るでしょうに。
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なんとか乗り越えました。気合です。さすが資本主義の国。金の生るところにはジャブジャブ金を投資するけれど、こうした余り人の集まらない場所は見捨てられるのがオチです。と言うか…等々力渓谷も倒木問題で半閉鎖されてしまいましたが、人手不足で管理が追いつかず、こうした都心部であったとしても交通の妨げになる街内部で無ければ、後回しにせざる得ない状況なのかもしれません。
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入ってすぐに開けた部分に出ました。曲輪だった場所でしょうか?驚いた事にお婆ちゃんに出くわしました。お婆ちゃんも倒木に驚いていましたが、
「これだけ自然が残されている場所があって、他所の場所に行く必要が無いのです。」
と嬉しそうに語っていました。そして知っている筈なのに倒木のある方面に下っていきました。あの倒木を老婆が越せるとは思えないので、声はかけましたが、それでも笑顔で彼女は下っていきました。…まさかお婆ちゃん…幽霊じゃないよね?でも例え幽霊でも素敵なお婆ちゃんでした。 -
小沢城址の石碑です。過去に幾つか城巡りの旅行記を挙げた事で、多くの城好きの先輩方が旅行記を見て下さり、フォローや暖かいコメントを残してくださった方々もいらっしゃいましたが、本当に恥ずかしいばかりで、私は城を見る目が本当に貧弱で、特にこうした城郭や、石垣すら残らない、痕跡程度の城跡は本当に難しいです。極めた方から言わせると、こうした城跡程面白いと言うのですが、中々その境地迄達しません。今回も、見落としが多いと存じますが、どうかお手柔らかにお願いします。
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小沢城の歴史は古く、平安時代後期、稲毛三郎重成により築城されたと伝わります。(重成の子、小沢小太郎築城説もあり)多摩丘陵東端の小高い丘陵に築かれ、眼下には多摩川沿いの低地が広がり、矢野口の渡しを有する交通の要衝として重要な位置にあった城です。
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戦国早期の1530年には後北条氏康が、北条領に侵攻した上杉朝興を撃退した小沢原の戦の舞台ともなりましたが、戦国時代には廃城となった様です。城跡は多摩自然遊歩道に組み込まれており、各所で解説版が施され、私の様な素人でも城の遺構を楽しめる工夫が施されています。
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此方は空堀跡です。小沢城は尾根のピークに主郭を置かない特異な構造の城だそうです。確かに近世城郭で言えば、低い場所に本丸がある様なものなので、不思議な構造と思います。
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此方は物見台。現在では気が鬱蒼と生い茂ってしまっていますが、当時の眺めは素晴らしく、江戸から秩父、関八州が見渡せたと言います。
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此方は井戸の跡。窪地に深い穴を掘り生活用水として利用されていたと考えられていますが、深くて危険な為、礫石で埋めたと言われます。現在でも窪地は残り、井戸があったと思われる場所には、印象的な倒木が立ち枯れていました。
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浅間山は、現地の当時の富士山信仰からそう名付けられた様で、浅間山、先程の物見台(小沢峰)八州台(富士塚)の三つの峰を中心に小沢城が築かれています。現在では浅間山からの展望が素晴らしいです。
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浅間山の眼下には多摩丘陵の最東端。矢野口の渡しで多摩川を越えれば現在の世田谷区、そしてその先に新宿副都心。
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新宿副都心の高層ビル群の右手には、スカイツリーも確認出来ました。
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この広大な街には、いったいどれだけの物語が人知れず眠っているのでしょう。そして、今も千万を超す物語が現在進行中なのです。
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私の物語も目下現在進行形、でも最早クライマックスに向けて進行中?出来る事ならインディ・ジョーンズの様に大冒険して、矢吹ジョーかラ王の様に真っ白に、一片の悔いないエンディングを迎えたいものです。
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小沢城址を下山します。小沢城址は多摩自然遊歩道と合体して、尾根沿いの散策路を伝って下山します。多摩自然遊歩道は京王線の稲田堤駅から小田急線の読売ランド駅付近まで、お寺さんや小沢城址等の見所を伝いながら都会とは思えない散策路となっています。入り口などが少々わかり辛い箇所があるので、地図などを準備して臨むと良いでしょう。
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此方にも小規模な竹林がありました。
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多摩自然遊歩道の出口に出ました。相変わらず解りにくい(笑)
現在小沢城跡は小沢城址緑地保全地区に指定され小沢城址里山の会が保全を務めている様です。保全地区となっている事から、読売グループに侵略される心配は無いと思いますが、管理する里山の会と読売グループでは、象と蟻程組織に差があります。高齢化も進んでいるでしょうし、こうした善意の団体のみの運営では追いつかないことも多々あるでしょう。倒木とか安全にかかわる事は行政も積極的にサポートし、先程出逢ったお婆ちゃんを始め、地元の人が安心して散策出来る城址であって欲しいと思います。 -
京王稲田堤から若葉台迄移動して、其処から徒歩で小田急はるひ野駅を突っ切ります。途中見つけたインドカレー屋さんで遅めの昼食を頂きました。
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途中見つけた小さな向日葵君。位置的には前回紹介した真光寺川の最先端より、もうちょい進んだ様なところ。真光寺町と黒川町の境辺りを歩いています。
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周囲は此処が東京都は思えない田園風景。
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その田園風景と林野の境界に質素な鳥居が建てられています。毘沙門大堂の鳥居です。
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今では廃寺となっていますが、古い歴史を持つ真言宗墨仙(くろかわ)山金剛寺が建てられていた場所だそうです。今では小さな祠と石像が残されているだけですが
、その荒れた風貌から、此処もまた心霊スポットとして有名になってしまいました。 -
そして毘沙門大堂の全貌です。左手の祠には嘗ては行基作と伝えられる毘沙門天が安置されており、その事から毘沙門大堂の名前が付けられましたが、平成7年、心無い屑の諸行により盗まれてしまいました。
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そして鳥居の下に並ぶ石仏群。経年劣化が激しいですが、特にすべて頭部が失われています。これは明治時代の廃仏棄釈が行われた時に破壊されたものだそうです。こうした景観が、心霊スポット化した要因の最たるものだと思われます。
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然しながら、放って置いてはあっという間に緑に飲まれてしまうだろうこの地形に、草を刈り、管理が施されている事から、地元の人から大切にされているお堂だと言う事をしみじみと感じます。
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意図せず今回はまるで石仏巡りの様な散策となりました。お盆だったので、呼ばれたのでしょうか?これだけの数石仏があると言う事は、その石仏の数だけ、いや、この石仏を彫り、祀った人々も加えれば、その数倍の人々の生き様、想い、人生、即ち歴史が此処に眠っていると言う事です。その想いに耳を傾ければ、其処には懸命に生きようとした彼等の思念に押し潰されそうな気がします。私もいずれ彼岸に向かいます。襟を正して真っ当に生きれたらと思います。
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旅を一つ熟す度に、一つ、また一つ、煩悩が昇華していく様です。それが尽きるか?体力が尽きるのが先か?私も彼岸を渡るのでしょう。訪問先の目標は100カ国で良いかなと区切りはつけていましたが、108にしても良さそうです。
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最後に訪れたのは町田市三輪町に残る沢山城址です。鶴見川沿いの段丘面の多い複雑な、正に城を作ってくれと言う様な立地に建てられた後北条家の城跡です。今では沢谷戸自然公園の脇の私有地となっているので、気を遣っての参拝が必要です。
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城郭は、三輪町の七面山に建てられていました。七面山なんて、八つ墓村みたいに中二病をくすぐる名称ですが、三輪町の由来は奈良の三輪山に端がある様ですが、七面山は山梨県の日蓮宗の山が有名です。七面山の由来は、山の形状に七つのガレ場があった事からとも言われますが、日蓮宗の守護女神を祀った七面大明神にあるとも言われます。城跡にも七面大明神が祀られている事から、此方が此処での由来になると思われます。
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本郭らしき場所に出ました。城内には至る処に団体客、犬の散歩お断りの看板が立てられています。朧気な記憶ですが、此処もまたテレビ局が何かやらかした結果だと記憶しています。本当ロクでも無い連中です。折角地主さんの好意で見学出来ているのです。
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城は後北条氏の属城で、詳細は不明ですが、秀吉の小田原攻めに対し、この城から兵糧を小田原に輸送する旨の書簡が残されている様です。
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秀吉による八王子城攻めの時は、八王子城の危急を小田原城に伝えるべく早馬が、此処沢山城に立ち寄ったかもしれません。
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嘗て日本の名城を散策しながら、其処でその城を地元の誇りと感じて暮らしている人々の声を聴いて、羨ましく感じましたが、オラが街にも城があったんじゃないですか!しかも、後北条氏と言う関東の大戦国武将の所縁の城が!そしてその名も字こそ違えど私が最も敬愛する戦国武将、石田三成公の居城の佐和山城と同じ読みの沢山城(タクサンと読む説もあり)
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本郭だったであろう曲輪から空堀であったであろう窪地を跨いで、更に登った先、七面山の頂上に七面明神が祀られています。往時は物見台だったかと思います。
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主郭と七面明神の間にある、空堀であったと思われる窪地。
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その反対側の風景です。
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城跡を後にします。此処も小規模の竹林となっています。左側のフェンスの下は沢谷戸自然公園となっていて、お盆のシーズンだけあって子供達の嬌声が聞こえてきます。
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沢谷戸自然公園の入り口に降りてきました。U字型のオブジェがある入り口左手の黒いフェンス沿いの急な細い階段を登って城跡に向かいます。嘗て色々あった様で、土地の所有者さんがあまり積極的では無い御様子で、入り口の表記も無ければ、各禁止事項の看板以外は城についての説明は一切ありません。私有地なので表示に従って、節度ある散策をお願いします。
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鶴見川沿いから七面山を眺めました。かつて後北条家の小田原城から八王子城へと続く中継拠点としての出城が其処にあったと伝えられています。今となっては私有地ですし、更にネガティブに捉えられている様子もあり、オラが街の誇りと言う以前に、この街に暮らしているどれだけの人が、この城の存在を知っているのか?と言う現状ですが、少なくとも私は誇りとして胸に抱いておこうかと思います。
最期迄ご覧になって下さり、ありがとうございました。
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