2026/07/01 - 2026/07/01
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ローマ時代の遺跡とフリップオーギュスト(フィリップ2世)城壁の痕跡を求めつつ、気の向くままの寄り道しました。訪問が2026年7月ということもあり、国立公文書館の企画展はアメリカ建国250年とフランス革命を網羅するラファイエットの軌跡でした。無料スポットの定番カルナヴァレ博物館および警察博物館はタイムオーバーで間に合いませんでした。
パリを構成する3要素、シテ/左岸/右岸を回り、パリの空気を体いっぱいに吸い込みました。
前半はこちら↓
https://4travel.jp/travelogue/12062202
パリの街中は、中世における修道院の役割や王権と教会の関係等、カトリックと世俗権力のズブズブな関係(=フランス史)が垣間見られる内容でした。政治と宗教が緊密な欧米の中で、日本以上に政教分離が進んでいるフランス人の国民感情がどのように醸成されたかを考えさせられるエリアでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
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国立公文書館を後にします。
彫刻には、鳩避けのネットが被されています。 -
ジョクール館
暫くフラン・ブルジョワ通りを東進します。 -
通りの向かいに古い塔があります。
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パリ市信用組合
1637年創業、パリ最古の金融機関です。慈善家テオフラスト・ルノードによって設立された、パリ市における信用供与と社会福祉を担う公的行政機関です。質屋/連帯貯蓄/ローン/過剰債務者支援/競売まで行います。
入口横には、自由/平等/博愛と刻まれています。現在のフランス国旗(トリコロール/三色旗)は、パリ市の青/赤とブルボン家の白が融合したものです。クレディ ミュニシパル 観光名所
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簡単なセキュリティチェックを受けると、中庭があります。
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パリ市立信用銀行は、1462年にフランシスコ会修道士バルナバによって設立されたイタリアの慈善団体、モンテ・ディ・ピエタに触発されたものでした。1637年にラ・ガゼット紙の創刊者テオフラスト・ルノードは、高利貸し業者に苦しむパリ市民を救うべく最初の質屋を開業しました。ルイ13世の侍医であり、リシュリュー枢機卿の友人でもあり、王国の貧困者総監でもあった彼は、貧困問題に深く関心を寄せていました。彼らの死と共に後ろ盾を失うと、高利貸しの圧力により1644年に解散へ追い込まれます。
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高利貸しを取り締まるため、ルイ16世は金利を規制する公的機関として質屋を再開することを決定します。多くの金貸しが軒を連ねるロンバール通り(4区)に近い一等地に設立されます。日々の生活費を借金に頼っていた人々にとって、すぐに頼みの綱となります。
国王の特許状
質屋の設立 1777年12月9日、ベルサイユにて発布
神の恩寵により、フランスおよびナヴァール国王ルイ:この書簡の読者へ。質屋がヨーロッパ各国、特にイタリアをはじめ、フランドル、エノー、カンブレー、アルトワといった諸州に設立された質屋がもたらしてきた、そして今ももたらし続けている数々の好影響は、パリをはじめとする王国の主要都市に質屋を設立することが、国民にとってどれほど有益であるかを疑う余地がない。この手段は、貧困が引き起こす混乱、そして多くの家族の喪失という悲劇を、最も効果的に抑制できるものと私たちは考えた... -
1789年7月14日、革命家たちは質屋から銃を徴発します。それらの銃はバスティーユ牢獄への攻撃に用いられました。
モンテディピエタは山のように沢山の慈悲という一般名詞から成る語句ですが、内容は質業なので、初出を除き質屋と訳しています。 -
1804年、ナポレオンが質業の独占権を与えると、市民のニーズに応えるべく支店網を拡大します。1918年にはパリ市立信用銀行となり、質業と並行して銀行業務も展開していくことを意味していました。写真は、1820年の様子。
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マ・タント(私の叔母)は、パリ市立信用銀行の愛称です。この愛称は、ルイ・フィリップ王の息子であるジョアンヴィル公(1818~1900年)のエピソードが由来です。ジョアンヴィル公は、ギャンブルの借金を返済するために時計を質に入れますが、母には、時計を叔母の家に預けたと偽りました。叔母にあたるアデライード・ドルレアンの肖像画が役員室に飾られています。 王の息子も利用しているのが凄いです。
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隣の中庭に入ると、先ほどの光景が。実はフィリップ2世尊厳王が築いたパリの城壁(1190-1200年築)の断片(塔の部分)でした。中庭の真ん中を城壁が縦断していました。その後、1638年にヌーヴィオン館を建設する際に建物の一部として組み込まれました。
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後ろはこんな感じ。床の2本の黄色い線で城壁の場所と幅が分かりますが、カフェのせいで分かりにくいです。
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フィリップ2世の城壁
パリの城壁中で、正確な配置が知られる最古のものです。セーヌ川右岸は2850mで、1190-1209年にかけて建設されました。左岸は2535mで、1200-1215年にかけて建設されました。城壁内の面積は253haです。 -
エルエ邸
ヴィエイユ・デュ・タンプル通りとフラン・ブルジョワ通りの角に佇む、高くまっすぐな屋根と優美な小塔が特徴的な、魅力的な2階建ての建物です。16世紀初頭、カリエール領主でありフランス財務長官を務めたジャン・エルエによって建てられました。19世紀には、1階部分が商業施設として利用されるようになりました。 -
アルバレの小路
この狭い小路は、17世紀初頭に建てられた2つの古い邸宅の間から伸びています。中世には、かつてのバルベット邸と、フィリップ・オーギュスト城壁の麓にあった弩兵の訓練場へと通じていました。小路の両側には、持ち送り式の建物(1620年頃)が今も残っています。 -
1407年にブルゴーニュ公ジャン無畏公は、従兄弟であるシャルル6世の弟オルレアン公ルイを暗殺しました。ルイは、バルベット邸でバイエルン王妃イザボーを訪れた直後のことでした。これは、アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦※の始まりとなりました。
※百年戦争では、国王派と英国に味方するブルゴーニュ派に分かれました。Le Voltigeur カフェ
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アルメラ館
ピエール・ダルメラは、ルーブル宮建築に携わったルイ・メテゾーとジャック・アンドルーエ・デュ・セルソーに依頼して邸宅を1612年に完成しました。彼の弟は1655年にこの館を会計検査院長ルイ・ベトーに売却し、ベトーは中庭と庭園の間にあった古い二重構造の階段を、左翼にある現在のルイ14世様式の階段に改築しました。 -
サンドレヴィル館
1586年築で、ルイ13世の治世中に短期間だけこの邸宅を所有した人物に由来します。通り沿いは1767年に再建され、ファサードはルイ16世様式となっています。 -
クーランジュ館
1634年築で、クーランジュ家の所有でした。1662~1703年まで、ルイ14世と愛妾モンテスパン夫人の間に生まれた6人の庶子が居住しました。現在はストリートマーケットとなっています。 -
邸宅の奥は庭園になっています。1707年に現在の建物に改築され、屋内から私有庭園を楽しめるように、右側がパビリオンになっています。2014年にジョゼフ・ミニェレ庭園として公開され、ラベンダー/イチジクといった南仏の植物を集めた心地よい静かな空間となっています。
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イチジクの木のトンネルを潜ります。
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南側には、フィリップ・オーギュスト城壁の塔の一部が残っています。防御力を確保するために、70m毎に塔が建てられ見張りを配置しました。
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新しい庭園の名前の由来となったジョゼフ・ミニェレ(1888-1949)は、サン・ジェルヴェ病院付属学校の校長かつレジスタンス活動家として、第二次世界大戦中数十人のユダヤ人の子供たちを強制送還から救いました。
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庭園に隣接する現在のサン・ジェルヴェ病院付属学校。パリ市立の公立小学校です。ユダヤ人の多いマレ地区ならではのエピソードです。
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オテル・ダルブレ
通り沿いは1740年に貸用に改築され、破風と丸窓を備えたルイ15世様式の堂々としたファサード、突き出した錬鉄製のバルコニー、そして壮麗な彫刻が施された馬車用入口を設けました。シャンデリアや装飾的な錬鉄製品を製造するメゾン・バゲ社の店舗は、1900年頃にこの地域の評判を高めました。1960年代まで、多くの工房や小規模商店が営業を続けていました。賃老朽化が著しかったオテル・ダルブレは1975年にパリ市が差し押さえ、現在はパリ市庁舎文化局本部となっています。 -
1563年にフランス軍最高司令官アンヌ・ド・モンモランシーが買い取った時点では中庭奥の棟のみでしたが、1586年にイタリア人銀行家マリオ・バンディーニが通りに面した部分を増築します。1630年に財務長官ガブリエル・ド・ゲネゴーは、主棟に直角に交わる左翼棟と、3つのアーチで支えられた右翼棟を増築し、右翼棟には馬車小屋が設けられました。 内装を引き受けたダルブレが名前の由来です。
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ジョゼフ・ミニェレ庭園から見た邸宅。
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パヴェ通りの標識が出たので、右折してフラン・ブルジョワ通りとお別れです。右前の建物は、パリ市歴史図書館です。
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ラモワニョン館
1559年に着工されたこの建物は、パリで最も古い個人邸宅の一つです。1584年にアンリ2世の庶子ディアーヌ・ダングレームが取得し、中庭と庭園の間にある大きな本館が完成します。巨大なコリント式の付け柱で装飾され、両脇には2つのパビリオンを配置、狩猟の女神ディアナの象徴である鹿の頭/三日月/妖精が飾られています。 17世紀末にはパリ高等法院の著名な議員であったラモワニョン家が買い取り、文学と科学のサロンを営みました。 -
正門は1718年築で、賢者(蛇を掴む子供)と真実(鏡を持つ子供)の寓意像が飾られています。 ラモワニョン家の次に所有したアントワーヌ・モリオーは、パリの歴史に関する蔵書を集め1759年にパリ市に寄贈しました。フランス革命中に蔵書は散逸し、19世紀には職人/商店/住居として利用され、1928年にパリ市が購入、1960年代にパリ市立歴史図書館へと改装されました。
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ラ・フォルス監獄
1559年築のラ・フォルス公爵アンリ=ジャック・ノンパール・ド・コーモンが所有し、パヴェ通り南端までの敷地でした。1754年に陸軍省に買収され、1780年に拘置所へと改装されました。グラン・フォルス(男性用)とプチ・フォルス(女性用)に分かれており、プティット・フォースは女性専用で、ラモワニョン邸に隣接していました。1792年の九月虐殺でランバル公妃マリールイーズ※はここで約100人の人々と共に虐殺されました。両棟とも1845年に取り壊され、パリ市歴史図書館に隣接する壁の一部のみが現存しています。
※マリーアントワネットの寵臣のひとり。 -
サンアントワーヌ通りのメトロ1号線サンポール駅。
車道よりも広い歩道に、遊園地などが稼働し、いかにも庶民のパリという空気に包まれた空間。実は車道部分がリヴォリ通り、歩道部分がサンアントワーヌ通りという2つの道路が並行している場所です。サンポール駅 駅
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一筋南のシャルルマーニュ通りを歩くと、石垣の切れ目が。
フィリップ オーギュストの城壁跡 史跡・遺跡
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ここもフィリップオーギュストの城壁跡です。
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十字軍遠征に出発する際、パリを無防備な状態にしておくことを懸念したフィリップ・オーギュストは、1190年に右岸に城壁の建設を開始し、土地の多くは畑/牧草地/ブドウ畑など人が住んでいない土地でした。70m毎に塔が築かれ、高さ9m基部の厚さ3mの城壁を補強していました。
右岸では、それから2世紀も経たないうちにシャルル5世の城壁が建設されたため、フィリップ・オーギュストの城壁は不要となり、ごく一部を除いて姿を消しました。この城壁の中で最も長く、最も保存状態の良い断片です。 -
セーヌ川沿いにあるアンリ・ガリ公園。
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園内に、バスティーユ要塞の一部「自由の塔」の跡が建ちます。三段の石垣が円形で積み重なっています。1370年にシャルル5世の城壁の一部として建てられ、フランス革命で取り壊されます。1899年の地下鉄工事で基礎部分が見つかり、アンリガリ広場に移設されました。
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こちらは国立公文書館所蔵バスティーユ要塞の模型。憲法制定議会の要請で1790年に作成されました。直径10m高さ24m(5階建て)の円塔が8個連なります。手前の列の奥から2つ目が自由の塔です。大砲の進化で17世紀には時代遅れとなり、堀を含めた閉鎖性ゆえにリシュリューの一言で政治犯を収容するようになります。
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ルヴィエ島
セーヌ右岸、サンルイ島の隣にルヴィエ島が存在しました。放牧地や弩弓場として使用され、1843年に陸続きとなりました。薄く囲まれているところがバスティーユ要塞です。 -
モルラン通りとアンリ4世通りが、かつての島の境界線です。
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アンリ4世通りに架かるシュリー橋でサンルイ島を横断します。シュリーは、アンリ4世の宰相でした。
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遊覧船の動きを見ると、川筋がかなり湾曲していることが分かります。対岸には1644年築のランベール館が見えます。会計検査院長を務めたランベールが建てました。
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世界有数のアパルティマンで、内装等の美術的価値が集客力となっています。2022年には2億ユーロで売却されています。日本人では岸恵子が住民でした。写真はヘラクレスのギャラリーと呼ばれるパート。
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ランベール館の隣は、ロザン館。1657年にロザン公爵が建設、ルイ14世様式が美しいアパルティマンです。番地のプレート右の装飾も17世紀のものです。現在はパリ高等研究院が入居しています。ドア左のプレートには、ボードレールが1821-67年まで入居していたことが記されています。
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トゥルネル橋の手前のアパルティマンには、キュリー夫人が入居していました。左岸へ渡ります。
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アラブ世界研究所横から、サンジェルマン大通りが始まります。カルティエラタン(ラテン地区)と呼ばれるエリアです。マレ等は地区なのに、ここだけはカルティエとフランス語で呼ぶのがミステリーです。名前の通り、ローマ時代から続くパリ最古の歴史を持つエリアです。
アラブ世界研究所 博物館・美術館・ギャラリー
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サンジェルマン大通り7番地は、異常に細い隙間に建つ建物です。フィリップオーギュストの城壁跡に建てられたためです。
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脇道に逸れると、上り坂です。サント・ジュヌヴィエンヌの丘と呼ばれる地帯です。
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エコール・ポリテクニークの解析学教授を務めるアンドレ=マリー・アンペールは、1814年にフランス科学アカデミー会員となり、1821年に粒子電流の仮説を立てて検流計と最初の電気式電信機を発明し、1824年にはコレージュ・ド・フランスの物理学教授に選出されました。1818年から1836年に亡くなるまで、アンペールはこの家に住み、そこは彼の研究室でもありました。電流を表す単位アンペアは、彼の名前が由来です。
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左岸も丘があります。
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抜け道があります。
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その先はアリーナ。
アレーヌ ド リュテス (リュテス円形闘技場) 史跡・遺跡
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ルテシアの円形闘技場
ルテシアはローマ時代のパリの都市名で、3世紀の蛮族の侵攻によって破壊された後、その建材はシテ島に避難していた人々によって再利用されました。中世の地形図にはclos aux arènes(囲まれた闘技場)という名で痕跡が残されていますが、その正確な位置は1858年まで不明でした。 -
1869年、モンジュ通りの開通時に再発見されました。当時、ジェネラル・オムニバス社が車両と厩舎を建設するために取得した土地に、円形闘技場が発見されました。
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スタンドは、1万人を収容できる規模です。アリーナにも自由に降りられるのも嬉しいです。フランスでは、オランジュの円形劇場でコンサートを行ったのをきっかけに、ローマ遺跡で芸術イベントを行うのが通例です。
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円形競技場を後にします。
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スタンド席の下には、メトロの駅の出入口も。アールヌーヴォー様式が素敵です。
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サントジュヌヴィエーヴ修道院から分岐するクロヴィス通りを進むと、フィリップオーギュストの城壁跡が。左岸で最も状態の良い場所で、解説付きです。城壁は高さ10mで、宗教/行政/司法のシテ地区、経済活動の右岸、そして左岸に誕生した大学の3エリアを一つに統合する最初の試みでした。
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サン テティエンヌ デュ モン(聖エチエンヌ山の)教会
メロヴィング朝開祖のクロヴィス王(511年没)は、レウコティリウス山頂に教会を建立して妻の聖クロティルド(545年没)と共に、聖ジュヌヴィエーヴ(512年没)の傍らに埋葬されることを望みました。502年にアウグスティヌス修道会が教会の管理を任され、聖ジュヌヴィエーヌの名声と信仰の高まりから、聖ジュヌヴィエーヴ山と呼ばれるようになりました。後に、同じ名前が王立修道院にも付けられました。サン テティエンヌ デュ モン教会 寺院・教会
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聖ジュヌヴィエーヴ:420年頃に生まれ、フン族の侵攻の際にパリを守りました。メロヴィング朝創始者クローヴィスのキリスト教への改宗に貢献し、サンドニを崇敬しました。1626年に列聖され、パリの守護聖人となっています。ネオゴシック様式の礼拝堂には彼女の石棺が安置され、ステンドグラスにはその生涯が描かれています。彼女の聖遺物は、フランス革命中の1793年にグレーヴ広場(現市庁舎)で焼却され、灰はセーヌ川に捨てられました。
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1220年頃まで、修道院の敷地内に住む使用人や農民たちは修道院教会の地下聖堂で礼拝に参列していました。パリ大学の発展で住民が大幅に増加したため、パリ司教ウード・ド・シュリーは、修道院教会に隣接する新しい教会を建設することを許可しました。絵図では、左(北)から順に聖エティエンヌ教会/修道院教会/修道院と並んでいます。
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この教会は手狭になったため、現在の教会へ改築(1492~1626年)されました。中世の慣習に従い、教会の建設はまず聖歌隊席と鐘楼(1540年竣工)から始まり、1580年にはルネサンス様式の身廊と後陣背後のステンドグラスで装飾された回廊(納骨堂の回廊)、1626年にファサードが完成しました。
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数学者、作家、哲学者であるパスカルは、この教会の聖母礼拝堂の入り口に埋葬されました。
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教会向かいのアンリ4世高校は、1796年以降旧サント=ジュヌヴィエーヴ王立修道院の一区画を使用しています。11~18世紀にかけての建造物(回廊/クロヴィス塔(旧鐘楼:写真)/礼拝堂(旧食堂)、サル・デ・メダイユ(旧珍品館))が歴史的建造物に指定されています。卒業生には、フーコー/サルトル/マクロン大統領がいます。
1804年に修道院教会は取り壊され、跡地はクロヴィス通りになっています。 -
パンテオン
ルイ15世がサンジュヌヴィエーヴ教会として建設するも、完成時はフランス革命の真っ只中だったために、フランスの偉人の遺体を祀る墓廟(世俗的施設)となります。いままで歩いた中では、キュリー夫妻が含まれます。83mのドームは、フーコーが振り子の実験を行いました。パンテオン 建造物
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Thouin通りの隙間は、先ほどのクロヴィス通りから続く城壁跡です。グーグルマップの航空写真ビューで閲覧すると、バッチリわかります。パリ大学は12世紀後半に神学部が開校した、トゥールーズ/モンペリエと並ぶフランス最古の大学です。ルイ9世の家臣ソルボンが学生のために寮を整備したことで、ソルボンヌと呼ばれるようになります。
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サンジュヌヴィエーヌの丘を下る途中のこの建物は、何でしょうか?
正解は、5区6区の警察署。 -
そして、パリ警視庁の警察博物館も入っています。
ここも無料スポットです。ウェブサイトチェックして企画展が面白そうだったので狙っていましたが、夕方でもう閉館していました。 -
ルネ・ヴィヴィアーニ広場
第一次世界大戦勃発時に首相だった人物の名前を冠した公園です。大学発祥の地という解説板が設置されます。原始のキャンパスは青空教室で、学生が椅子の代わりにした干し草の俵にちなんだ地名が残るためです。園内には1601年にジャン・ロバンが植えたパリ最古の樹木があります。 -
サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会
広場に面した教会は、大学の学長選挙が行われるなど、大学の自治と大きくかかわるスポットでした。 -
ドゥーブル橋を渡るとシテ島。ノートルダム大聖堂が見えます。修復は順調みたいです。ローマ時代はユピテルの神殿が建っていましたが、クロヴィスの死後に聖エティエンヌ教会となりました。1160年にパリ司教のモーリス・シュリーが聖母マリアへ奉献する教会への建て替えを実行し、1275年に完成します。
※もともとあった聖エティエンヌ教会は、先ほど訪れた聖エティエンヌ修道院内に移ります。ノートルダム大聖堂 寺院・教会
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1804年には、ナポレオンの戴冠式が聖堂内で行われました。
ファサード前は、ローマ時代から続く幹線道路で、パリの道路起点となっています。シテ島 旧市街・古い町並み
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地下遺跡があります。シテ島は、ユリウス・カエサルのガリア征服時にパリシィ族が立て籠もった要塞都市です。パリシィ族は、パリの名称の起源です。エティエンヌがパリをフン族の攻撃から守った要塞でもあります。
シテ島地下遺跡 (クリプト) 史跡・遺跡
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シテ島は、シャルル5世まで王宮の所在地でした。敷地内には、ルイ9世が聖遺物を安置するために建設したサントシャペルもあります。
サントシャペル 寺院・教会
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旧王宮には13世紀にパリ高等法院が設置され、裁判のために収監された人々の拘置所(牢獄)となります。一番有名な収監者は、マリーアントワネットです。当時は有料で、支払金額によって劣悪/個室/家具持込可能と3段階に分かれました。写真は、角地の時計塔。
ちなみにアントワネットは、ここから法廷へ出廷して裁判を受け、即日判決、即日処刑されました。その隙間時間に最期の手紙をしたためました。コンシェルジュリー 城・宮殿
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拘置所はコンシュルジュリーと呼ばれます。門番/看守をコンシュルジュと呼んだのが起源で、ホテルなどにいるコンシュルジュの由来です。現在はパリの裁判所(palace de justice)となっており、警視庁の拘置所も入っています。
裁判所 (パリ) 建造物
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期間限定で、ポンヌフは氷柄のシートで覆われました。この日は、まさかの通行止め。F2(元国営放送)では、ネガティブな内容の報道の仕方でした。
ポンヌフは1607年架設で、耐久性は折り紙付きです。意味は新橋で、橋の両側に家が建つ従来の橋と違い、換気も良く衛生的な橋として革新的でした。ポン ヌフ 建造物
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シャンジュ橋を渡って、右岸へ。市バス350系統とポルトーデラシャペルで接続する38系統が走るパリ古道路線。オールナイトでドゴール空港まで結びます。
シャンジュ橋 建造物
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ルーヴル宮の東面(シュリー翼)を縦断します。シュリー翼の中庭には、ルーヴル要塞の土台が残っています。入場料がディズニーランド並みになったので、迂闊には入れません。
ルーヴル美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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ミッテランのガラスのピラミッドプロジェクト(革命200周年プロジェクトの一環)で地下を掘ったら見つかりました。フィリップオーギュストの城壁から突き出た正方形の要塞で、シャルル5世が宮殿として整備を始めます。
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リヴォリ通りを横断すると、
パリ商品取引所 観光名所
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フィリップオーギュストの城壁(塔)が残っています。
パリ旧証券取引所 建造物
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右折すると、ブルス・ド・コメルス(旧パリ商品取引所)。18世紀の穀物取引所を起源とする円形の建物。現在は、フランソワ・ピノーのコレクションを展示しています。ケリング(旧PPR)のフランソワ・ピノー親子の息子(アンリ)の方です。彼らがハイブランドを買いあさることで、巨大なゾンビ化して現在に至るコングロマリットです。すぐ横のLes Halles駅からCDGまで乗り換えなしで行けます。
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残りは、国立公文書館のアメリカ建国250年記念企画展ラファイエットの生涯を所蔵コレクションで辿る内容です。息切れしない程度にお付き合い願います。
革命の時代を生きたジルベール・デュ・モティエ・ド・ラファイエット(1757-1834)は、自由の擁護者としてアメリカ独立戦争(1777-81)/フランス革命初期(1789-92)/ナポレオン1世の失脚(1815)/七月王政の成立(1830)において名を馳せました。彼は大陸間の文化的な架け橋としての地位を確立しました。ラファイエットの名声は、生前から彼の演説や肖像画によって米仏両方で広く流布し、あらゆる社会層に及びました。読者層の拡大(女性も含む)/版画や彫刻の大量生産/工業製品の消費増加/世論の政治への介入の増大などが背景にあります。 -
「新世界において、ラファイエット氏は新しい社会の誕生に貢献し、旧世界においては老いた社会の崩壊に貢献した。ワシントンでは自由が彼を想起させ、パリでは無政府状態が彼を想起させる」シャトーブリアン『墓の向こうからの回想録』
ラファイエットは、肖像画や回想録に加え、同時代の批評家による評論/賛辞/パンフレット/歌/版画など数多くの文書によって名声を得ました。 これらの遺物を制作/流通/入手した経路および所有者を認識することで、ラファイエットが公的人物としての地位を確立したメカニズムを解明することができます。 -
「若く、裕福で、高貴で、祖国で愛されていたラファイエット氏は、19歳にしてこれらの恵まれた境遇をすべて捨て、生涯を形作った自由への愛のために、海を越えて戦地へと赴いた。」スタール夫人著『フランス革命の主要な出来事に関する考察』1818年
父方からは剣士貴族の末裔、母方(公爵家)からは莫大な財産を相続したラファイエット侯爵は、ルイ16世の宮廷で華やかな地位に就く運命にあった。しかし、幼い頃から抱いていた騎士道精神、そして生涯を通じて彼を導いた啓蒙思想の自由と解放への情熱は、彼を軍人としての道を歩ませ、アメリカ独立戦争(1775~83年)への志願兵としての参戦へと導いた。 -
ラファイエットのアメリカ到着
ラファイエットは1775年、英国王ジョージ3世の弟グロスター公爵との夕食会でアメリカ独立戦争について知りました。グロスター公爵はイギリスの大西洋横断植民地政策に反対していました。1776年、ラファイエットは議会から大陸軍の将校を秘密裏に募集するよう命じられた代理人、サイラス・ディーンと出会います。あらゆる警告をものともせず、1777年春、ラファイエットは大西洋を渡り、志願兵としてワシントンの陸軍参謀に加わりました。
写真は、米大陸軍の制服を着用した姿。 -
ベンジャミン・フランクリンの推薦状があったことと、船中で英語を修得したこととフリーメイソンであることが幸いし、8/5のワシントンとの面会で2人は親しくなります。緒戦では負傷しつつも整然と軍を退却させたことが高く評価され、野営での越冬後の歴戦で功績を挙げました。現場では勇敢/賢明/慎重という評価を得ます。写真のようなワシントン宛の手紙が何通も展示されていました。
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フランス本国からの武器援助と兵員援助を要請され、ラファイエットは1779年にヴェルサイユへ戻ります。国王からは特別なもてなしを受け、社交界では英雄としてもてはやされます。宮廷でのロビー活動を経て、1790年4月にボストンへ戻ります。ボストン港で司令部のワシントンへ宛てた手紙には、6隻から成る艦隊と歩兵5000名の遠征軍について書かれています。
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ヨークタウンの戦い(1781)
独立戦争は、9/28-10/17のヨークタウンの戦いが決戦となります。ロシャンボー率いる仏艦隊がチェサピーク湾の海戦で英国艦隊を破って制海権を得ると、大陸軍は英陸軍7500名のうち500名を死傷、7000名を捕虜にします。
ラファイエットからジョージ・ワシントンへの書簡(8月25日付)では、召使いのジェームズ※からイギリス軍がヨークタウンの要塞化を開始したという情報を得たと書いています。
※大陸軍士官所有の黒人奴隷。 -
アメリカの英雄:ラファイエット将軍
困難な時期から参戦し、巧みに大陸軍を指揮したラファイエットは、独立戦争の英雄とみなされます。1782年に戦場画家ジャン=バティスト・ル・パオンは、ワシントンの肖像画を制作した際に駐仏大使ベンジャミン・フランクリンへ次のように書きます。「閣下は、私が制作した偉大なワシントン将軍の肖像画をご存知でしょう。その対となるものとして、ラファイエット侯爵の肖像画も制作いたしました。」 -
ラファイエットは帰国後も、ワシントンとやり取りをします。1782年12月4日付の手紙は、重要な情報をイギリス側に渡さないために、ワシントンと共に考案した秘密暗号を使用しています。この書簡にはラファイエットが数字を書き、ワシントンが解読した暗号の使用例が10箇所残っています。1783年のパリ条約で英国は米国の独立を承認します。
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ラファイエットからジョージ・ワシントンへの書簡(1783年2月5日付)
ラファイエットは、パリでベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムズが予備和平条約に署名したことを祝いつつ、ワシントンも奴隷解放の試みに加わるよう求め、最後にこう締めくくっています。「もしこれが無謀な計画だとしても、賢明だと思われるよりは、狂人だと思われる方がましだ。」
※ワシントンの所有する奴隷農園は、正確には妻の持ち物であり、夫の一存では勝手に手を付けられず、ラファイエットも1784年には奴隷を手放す意思がないことを悟ります。 -
ラファイエット、奴隷制度に反対
ラファイエットは王立軍で准将に昇進し、1784年のアメリカ訪問では4つの州で名誉市民となりました。フランスとイギリスの奴隷制度廃止論者たちに触発され、またアメリカ独立戦争で国人奴隷が進んで諜報活動をしてくれた自身の経験から、ラファイエットは奴隷制度廃止運動に積極的に参加するようになりました。写真は1785年頃の肖像画です。 -
1784年11月21日付、ラファイエットによる推薦状。ヨークタウンの戦いにおけるジェームズの重要な功績を称えるもの。J.B.マーティンによる肖像画(1824年)付き。
この文書は、1787年にジェームズがバージニア州議会から奴隷解放される上で重要な役割を果たした。ジェームズは、ラファイエットという姓を名乗り、生涯を通じてこの姓を用います。 1824年にJ.B.マーティンが肖像を描き加えました。 -
ラファイエットの農園のスケッチ
フランス領ギアナのオヤポック川近くに位置するプランテーション「ラ・ベル・ガブリエル」は、クローブとシナモンの栽培に特化していました。スケッチには、農園の名前の由来となったガブリエル山(実際は標高272mの丘)が描かれています。 ラファイエットは1785年にイエズス会から土地と約70人の奴隷を買い取りました。労働に対して賃金を支払うこと、基礎教育、そして人道的待遇(鞭打ち禁止等)によって出生率が上昇し、乳幼児死亡率が低下し、ひいては大西洋奴隷貿易への依存度を減らせることを示そうとしました。1792年に投獄された後、彼の財産は国家によって没収されます。 -
アドリエンヌ・ド・ノアイユ=ラファイエット(1759-1807)
1774年、ラファイエットはアイエン公爵の次女、アドリエンヌ・ド・ノアイユと結婚し、宮廷で大きな影響力を持っていたノアイユ家の一員となりました。意志の強い女性であったアドリエンヌは、夫の政治活動を巧みに支え、1807年に亡くなるまで領地を管理しました。奴隷解放にも熱心で、ギアナの農園運営に大きくかかわります。 -
ラファイエットの胸像を囲む子供たち
左:アナスタシー(1777年生)。ラファイエットがアメリカに滞在していた時期に生まれた子供の名前は、その時代を反映しています。ジョルジュ(英名:ジョージ)・ワシントン(1779~1849年)は大陸軍総司令官にちなんで名付けられ、フランス革命中は米ワシントンのもとで生活します。ヴァージニー(1782~1849年)はバージニア州にちなんで名付けられました。 -
グランヴィル・シャープからラファイエットへの書簡(1789年7月31日)
1786年から、ラファイエットは法学者グランヴィル・シャープ(1735-1813)と文通を始めました。シャープは、イギリスにおける奴隷貿易廃止運動の先駆者の一人で、ロンドンで設立された奴隷貿易廃止協会の会長を務めました。また、解放奴隷をアフリカに再定住させる計画の創始者の一人でもあり、この計画は現在のシエラレオネの首都フリータウンの建設につながりました。 -
人権宣言(1789年10月2日提出/採決)
1787年の財政危機に対処するために開催された名士会議と、所領のあるオーヴェルニュ地方の議会において、ラファイエットは増税に反対し、大胆な改革を提唱することで頭角を現します。1789年3月、貴族として三部会に選出されたラファイエットは第三身分(平民)と歩調を合わせた思想を擁護します。1789年7月に三部会が憲法制定議会として発足する過程で、ラファイエットはトマス・ジェファソンの援助の下でアメリカのモデルに触発された人権宣言を提案しました。この提案は、新設された国民議会の副議長への選出を確実なものにしました。 -
ラファイエットの肖像が描かれたコートボタン(1789年)
紙または絹に印刷された画像は、金属製の円盤の中にガラスで固定されています。小さくて人気のあるこれらのボタンは、パリ市民がラファイエットへの政治的支持を示す手段となりました。
ラファイエットはバスティーユ要塞討ち入りの翌日にパリ民兵隊(国民衛兵隊の前身)の司令官に任命されます。ラファイエットは首都パリの治安維持を担う約3万人の兵士からなる60個大隊を率いる立場にありました。 -
ラファイエットからジョージ・ワシントンへの書簡、1790年3月17日
この書簡で、ラファイエットは師であるワシントンに「専制政治の要塞」バスティーユ牢獄の鍵を贈りました。「これは、養父への息子としての、将軍への副官としての、そして自由の伝道者としてその父祖への、私の恩義です」とラファイエットは記しています。パリのブルジョワジーによって選出された常任委員会はバスティーユ牢獄の解体を命じ、バイイをパリ市長に、ラファイエットを国民衛兵総司令官に任命しました。 -
1790年7月14日に開催された連邦祭典は、ラファイエットの人気が頂点に達した時期でした。彼の指揮のもと綿密に企画されたこの祭典は、シャン・ド・マルスに集まった25万人を超える観衆の前で、政治権力の結束の高まりを象徴するものでした。ラファイエットは自身のイメージを非常に重視しており、そのことは、身だしなみ、髪型、そして好んで乗っていた白馬など、あらゆることに気を配っていたことからも明らかです。 パリでは、彼は世論の変化を常に把握できる情報提供者のネットワークで身を囲い、マスコミで彼を弁護してもらうために広報担当者のグループに金を払いました。 彼はまた、彼の公の場への出演や演壇からのスピーチに拍手を送ってくれるエージェントも抱えました。
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ジャン=アントワーヌ・ウードン(1741-1828)は、1786年にラファイエットの最初の胸像を制作しました。写真は1790年にアメリカ独立の英雄としてのラファイエットを表現したもので、バージニア州からパリ市に寄贈されました。ウードンの工房では、この胸像の石膏複製が数多く制作・販売されました。
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1791年の連邦祭における宣誓
数十万人の観衆を前に、かつてオータン司教だったタレーランが、ミサを終えたばかりの祭壇に立ち、ラファイエットは国家/法/国王への忠誠を誓い、続いてルイ16世夫妻、議員たちも忠誠を誓いました。画家は、ラファイエットを画面の中心に据えています。
写真のトリコロール(三色旗)を発案したのはラファイエットでした。パリ市のシンボルである青と赤の間に国王の白を挟んでおり、王政と共和政の融合を意図しています。 -
ラファイエットの政治思想
政権交代が頻繁に起こる激動の政治情勢の中、ラファイエットは揺るぎない信念と一貫性で際立っていました。権力の交代ごとに立場を変える風見鶏のような政治家とは異なり、彼は最後まで同じ信念を貫きました。行政権は普通選挙ではなく限定選挙によって選出される二院制議会によって均衡が保たれるべきだと考えました。深く分裂したこの国において、彼の第一の目標は、自由と節度という意識を育むことでした。 -
自由を擁護しつつ法も遵守する。国民衛兵司令官としての任務は、衆愚と真っ向から対立するようになりました。中立を保つと、八方美人と批判されました。写真は、二面性を持つ男バイイ=ラファイエットという風刺画で、国民衛兵隊司令官ラファイエットがパリ市長ジャン=シルヴァン・バイイと形成した「タンデルン(二枚舌)」を揶揄したものです。政治的中立は、右派においても左派においても、二枚舌だと非難されました。
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1790年以降は「最も恥ずべき秘密を暴露する」と称する悪意からの中傷の標的となります。政敵のマラーは、マリー=アントワネットとの情事の夜を捏造したり、あらゆる手段を用います。 1791年秋に流通した風刺画では、ラファイエットは他のどの人物よりも頻繁に取り上げられます(ルイ16世54枚に対し、87枚)。これらのパンフレット/ポスター/風刺画の印刷部数は少なかったものの、その技術的な簡素さ/低コスト/迅速な配布によって、効果的な反対運動の道具となりました。
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ラファイエット逮捕状、1792年8月19日
国民衛兵隊を辞したラファイエットは、国境に駐屯する中央方面軍や北部軍の指揮を委ねられます。軍紀を乱すジャコバン派を是正しようとしますが、8月の王政廃止に伴い国家反逆罪で逮捕状が出ます。フランス全土に配布された複数の写しのうちの1つと思われるこの文書には、内務大臣ジャン=マリー・ロランの署名と、司法大臣ジョルジュ・ジャック・ダントンの副署があります。文書はラファイエットが革命転覆を企てたと告発し、北部国境におけるフランス軍司令官の職を解任し、逮捕を命じています。 -
ラファイエットはイギリス経由でのアメリカ亡命を決意し、1792年8月19日の朝、15名の将校/従者を伴い、オーストリア軍の前哨基地に投降します。フランスでは恐怖政治がラファイエットの家族を襲い、妻アドリエンヌの母/妹/祖母を含むノアイユ家の5人がギロチンにかけられます。アドリエンヌは投獄されますが、フランス駐在アメリカ合衆国代表グーヴェルヌール・モリスの介入により処刑を免れ、1795年に釈放/アメリカへ亡命します。アメリカ独立戦争の英雄であるローザン将軍とキュスティーヌ将軍も、潜在的な反逆者と疑われギロチンにかけられました。
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共和主義者として墺/普からも危険視され、ラファイエットは亡命叶わず捕虜となり、1797年に解放されます。デンマークで家族と亡命生活を送り、ブリュメール18日のクーデター(1799年)の混乱に紛れて越境/帰還します。非民主的な手続きで権力を得たナポレオンへの忠誠を拒む一方で、政治的な活動を控えて自宅で静かに過ごします。
社会ではフランス革命の清算/歴史的評価が始まり、ラファイエットは王党派/自由主義派双方で論争の的となりました。この肖像画は『フランス革命史跡』に収められたもので、彼を国民衛兵隊司令官の制服姿で描き、平和で名誉ある勇退をした(過去の人物)と書かれます。 -
ラファイエットの肖像を描いたメダル、1801年頃
ラファイエットの肖像は、著名な人々のメダルのカタログで目立つように取り上げられました。 このシリーズには、ルイ16世、マリー アントワネットのほか、ロベスピエール、ナポレオンも含まれていました。
余談ですが、ラファイエットやワシントンが無償で引き受ける当時の公職に就けたのは、妻が多くの所領を持つ金持ちだったからであり、マスオさん状態ゆえにワシントンは妻に頭が上がりませんでした。現在も英国貴族院(上院)は無報酬です。 -
共和国第一執政/フランス皇帝となるナポレオン・ボナパルトが樹立した独裁政権を批判していた彼は、パリから60キロ離れたセーヌ=エ=マルヌ県のラ・グランジュ=ブレノー城(妻が相続した所領)に隠棲し、周辺の領地の開発に専念しました。「絶対君主制の味方にはなれない」と、彼は1804年にジェファーソンに宛てた手紙に書いています。投獄時の劣悪な環境が原因で、アドリエンヌは1807年に命を落とします。
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復古王政期
ラファイエットは、百日天下での入閣は拒否しますが、長年唱えた二院制が盛り込まれた1815年憲法は受け入れ、下院議員として当選、極左派として政界復帰します(1818/22/27年再選)。
写真は1818年(61歳)の時の肖像で、野党議員であった彼は、19世紀前半に典型的なブルジョワの服装(金ボタンの青いコート/白いベスト/レースのジャボが付いたネクタイ)をしています。 -
アメリカ訪問
ジェームズ・モンロー大統領は、1824年に議会の承認を得てラファイエットをアメリカへ招待しました。「フェアウェル・ツアー」と呼ばれるようになる13ヶ月に及ぶこの旅は、当時合衆国を構成していた24州すべてを巡る壮大なものでした。熱烈な歓迎を受け、各地で何千人もの人々が彼を一目見ようと集まり、新聞は彼の動向を日々追っていました。訪問後は、ペンシルベニア州の多くの町/郡/大通り/公園/大学に彼の名前が付けられました。ラファイエットはまさに「国民の賓客」であり、エリート層だけでなく一般市民も参加する数々の公式レセプションで彼を歓迎しました。 -
ラファイエットによる米国下院での演説、1824年12月10日
ラファイエットは冬季をワシントンD.C.で過ごし、12月10日に連邦議会の合同会議で演説するよう招かれました。これは外国の要人としては初めてのことでした。この演説の中で、彼は前回の訪問から40年の間にアメリカが成し遂げたすべての成果を祝福し、「自由、平等、そして真の社会秩序というアメリカの原則に対する私の忠誠心は、若い頃から変わらず、そしてこれからも死ぬまで変わることはない」と述べました。 -
ラファイエットは奴隷制反対運動への共感を示すため、奴隷身分の黒人と自由黒人の両方を訪問し、アメリカ独立革命以来親交の深かった先住民とも面会します。弁護士/学校/聖職者/独立戦争の退役軍人/フリーメイソンの代表団を迎え、礎石を据え、名誉学位を授与されます。歴史家のアン・ラブランドは「ラファイエットの訪問はアメリカ国民の間に歴史的連続性と共通の価値観を喚起し、黎明期の民主主義にとって重要な正当性を与えた」と評しています。
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13ヶ月に及ぶラファイエットのアメリカでの華々しい凱旋旅行を象徴する一枚は、1819年のアリ・シェフェールによる肖像画です。ラファイエット自身もこの肖像画を最も気に入って、凱旋旅行中にこの肖像画の複製をアメリカ合衆国下院に贈り、現在も下院議場の議長席右側に飾られています。シェフェールの肖像画がアメリカで人気を博した要因の一つは、ジャン=マリー・ルルーがこの肖像画をもとに制作した版画(写真)です。ラファイエットは版画の複製を旅行中に友人たちへ配り、それらが数多くの版画や記念品に用いられ、19世紀末までアメリカにおけるラファイエットの代表的なイメージとなりました。名刺代わりに肖像画を配るなんて、なかなかのナルシストだと思います。
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フランクリンの墓に立つラファイエット、ティーセット、1826~29年頃
アメリカ市場向けにイギリスで製造され、アメリカで非常に人気を博した製品の一例です。瞑想するラファイエットのシンプルでロマンチックな描写は、幅広いアイテムに再現されました。原版は、記念碑に刻まれた名前をワシントンに変えるだけで、別バージョンも大量生産できました。 -
七月革命
1830年7月27~29日(栄光の三日間)、パリ市民はシャルル10世に対して蜂起します。パリに集結した自由主義派の議員たちは、共和制の宣言を阻止しようとオルレアン公を擁立します。 市民はオルレアン公に敵意を抱いていましたが、ラファイエットと共に市庁舎のバルコニーに現れ、三色旗を掲げてラファイエットが彼を抱擁すると、群衆はオルレアン公を歓呼で迎え、8月9日に議会によってルイ・フィリップ1世として「フランス国王」に正式に任命されます。皮肉なことに、共和主義者であるラファイエットの人気が七月王政を生み出します。 -
悪夢(1832年)オノレ・ドーミエ(ペンネームをロジェランとして発行)
ソファで昼寝をするラファイエット。彼の腹の上には巨大な洋ナシが乗っており、眠りを妨げています。洋ナシはルイ・フィリップ王の顔を象徴しています。ラファイエットは「市庁舎綱領」と書かれた紙を握り、これは1830年の七月革命が樹立するはずだった「共和制の王位」を暗示しています。ドーミエは実際には、革命を骨抜きにした国王と、無知ゆえに知らず知らずのうちに共犯者となったラファイエットの両者を風刺しています。 -
ラファイエットとポーランド
1830年の革命後、ラファイエットはポーランドの11月蜂起(1830~31年)をはじめとする民族解放運動を積極的に支援しました。彼はポーランド国民衛兵隊の「擲弾兵」に選出され、ポーランド革命家を支援する中央委員会を設立し、自らも委員長に就任しました。中央委員会には、ラファイエットの息子であるジョルジュ・ワシントン・ラファイエットやヴィクトル・ユーゴーらが名を連ね、反乱軍に軍事的・財政的支援を提供し、1831年2月12日には彼らのために宣言を発表しました。ラファイエットはフランス各地に支部を設立するよう働きかけ、ジェームズ・フェニモア・クーパーと共にアメリカ・ポーランド委員会の設立にも尽力しました。 -
ポーランド蜂起軍が贈呈したロシア国旗の断片(額装済み)
1832年8月8日、ラファイエットはポーランド国民委員会の委員長ヨアヒム・レレヴェルの謁見を受け、1830年のポーランド蜂起の際に敵から奪取した最初の国旗とされる断片を贈呈されます。ロシア国旗の断片は、かつてのポーランド・リトアニア共和国の紋章(上部にポーランドの鷲/下部にリトアニアの騎士)で飾られた額縁にガラス越しに収められており、裏面にはラファイエットへの献辞が記されています。 「強大な敵から奪った最初の旗の断片をご覧ください。我々は辛うじてこの儚い残骸を携えて脱出しました。将軍、この記念品を我々の手からお受け取りください。我々は栄光と悲しみを共に祝い、国民の愛情の証としてこれを捧げます」 -
死と神格化
ラファイエットは1834年5月20日、パリのアンジュー通りにある自宅で死去、ピクピュス墓地に埋葬されました。アメリカ合衆国では、議会が30日間の国家服喪期間を宣言し、都市/史跡/様々な機関が彼の名にちなんで命名されました。アメリカでは、建国の父たちと並び称される存在として、人々の記憶に深く刻まれました。 -
ギルバート・モティエ・ラファイエット将軍の葬儀、1834年7月21日
ラファイエットの訃報がアメリカ合衆国に届くと、国民は深い悲しみに包まれました。アンドリュー・ジャクソン大統領の命令により、ラファイエットは34年前にワシントンに与えられたのと同じ軍事的栄誉をもって葬られました。議会は議場を喪服で覆い、ジョン・クインシー・アダムズ元大統領は合同会議で3時間にわたる弔辞を述べました。ラファイエットの年齢76歳8ヶ月14日と綿密に計算されたこの版画は、ラファイエットに対するアメリカ人の敬意をよく表しています。 -
ラファイエットの昇天、1834年頃
ジョージ・ワシントンがラファイエットを天国、あるいは永遠の栄光の神殿へと迎え入れる様子を描いたフランスの寓意版画。ラファイエットは天使とフランス兵に付き添われ、左側には数人のネイティブアメリカンが、右下には銃剣を構えたヒュドラが描かれます。ラファイエットがデザインに携わったフランス国旗には1789年の日付が記されており、これはフランス革命の始まりを示しています。 -
ラファイエットはまたしても愚か者だった。彼は自分が演じたかった主役には全く向いていなかった。ナポレオン
ファイエット氏は英雄ではないが、正直な人だ。ルイ 18 世(写真)
1789年から変わっていない男は二人しかいない。ラファイエットと私だ。シャルル10世 -
こうやってラファイエットの生涯を追うと、ベルサイユのばらのオスカルが黒い騎士事件以降の話が、ラファイエットを幾らか参考にしているのでは?と感じました。
ロマン主義にどっぷり漬かったインテリ層と、泥水を飲んできた人たちの評価の温度差も、興味深い内容でした。
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