2026/06/30 - 2026/06/30
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2026/06/30
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この旅行記スケジュールを元に
都会が苦手で、最近は意識的に遠避けていたパリ。
パリからの鉄道利用で滞在時間が発生したので、久々のパリ観光。
昔何度も歩いた馴染みの道ですが、改めて歴史がぎゅっと詰まっていることを再認識させられました。
記憶を頼りに費用ゼロ円、行き当たりばったりの旅のはじまりです。
世界的な物価高騰、前代未聞の対ユーロ円安という逆風に抗う一日でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
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フランスへの空路入口は、大概CDGです。第三国経由でオルリー、高いチケットでニース/ジュネーヴという選択肢もありますが。
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宇宙をイメージする近未来空港は、今も廃れません。ちょうどクレージュがスペースルックを発表した頃と重なります。
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これまた稀なT1。前回はカタール航空利用以来です。
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動く歩道の終点。
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反対から見ると、こんな感じ。ドーナツ状のターミナルで入国手続きを済ませます。
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ドーナツの内側。
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制限エリアの上下階移動はエレベータではなく、ドーナツ内側を跨ぐ動く歩道で移動します。
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入口
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スリランカ航空のクルーと一緒。
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飛行機/海外旅行との組み合わせがドンピシャで、気持ちが揚がるデザイン。
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宇宙旅行の気分です。
シャルルドゴール空港 (CDG) 空港
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3階へ移動します。
ドーナツ形のT1出入口は1~32でA~D地区に分かれますが、歩いて一周しても5分程度とコンパクトなのが魅力。無限大のT2と違って、ストレスフリーです。公共交通はこの辺りに集結します。10番口から、路線バス350系統へ乗ります。 -
こんな感じで、昼行便と夜便(N)で系統が分かれます。
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リムジンを含めて、バスはT1へ直接乗り入れているのが魅力です。RER/TGVの”T1駅”は、CDG-VALでT3まで移動しなければなりません。
路線バスの乗り方は「3階の10番出口」と覚えておきましょう。
※運賃は市内のバスと同じ2.05ユーロ。以前はメトロと共通の磁気切符でしたが、メトロ/RERは2.55ユーロ/zoneに値上がりしています。 -
48分で終点へ着く予定です。
EXPO駅前に停車。CDGへ通じるRER-B線の停車駅です。このあと航空博物館等を寄ります。 -
サンドニ運河を渡ります。蛇行するセーヌ川をショートカットする水路です。サンドニ市内を走ります。
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スタッド・フランスを掠めて、終点のポルト・デラ・シャペル(シャペル門)に到着。以前は東駅まで運行していましたが、慢性的渋滞でポルト・デラ・シャペルで運転打ち切りということも多かったです。ここからメトロに乗るのが王道でしょうか。
今回は平日のデイタイムでしたが、渋滞で30分以上遅れました。渋滞はどんどん深刻化しています。環状道路の内側なので、パリ市内(18区)です。 -
久々なので、まずは東駅を目指して2,30分歩きます。冴えない道ですが、原始のN1(国道1号線)ルートで、ガロ・ローマ時代から続く古道です。サンドニ大聖堂や北征の際に通行した格式あるルートです。
N1;パリ~ダンケルクを結び、18区の部分は現在はA1が指定されています。 -
沿道には、サンドニ・デラシャペル教会(Église Saint-Denys de la Chapelle_写真手前)と付属のジャンヌダルクバシリカ(手前)が。パリ防衛史ではヒロインたちが大きな役割を果たしたことを思い起こさせるスポットで、ラシャペルという地名の元となった建物です。1860年に18区やサンドニ市等に編入されるまでは、ラシャペル村でした。
通常サンドニはDenisと綴りますが、ここはyで綴ります。余談ですが、フランスでアルファベットのYはigrec(ギリシャ語のi)といいます。 -
原始はローマのバッカス神殿、その後はサンドニの墓地、フン族をパリから撃退した聖ジュヌヴィエーヴが475年に礼拝堂を築いてサンドニの聖遺物を収め(636年に遺体と聖遺物はサンドニ大聖堂へ移動)、ジャンヌダルク(写真)がパリ奪還前に一晩祈りを捧げた場所です。現在の建物は、パリ司教モーリス・ド・シュリーが1204年に再建したものです。
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メトロ2号線のla Chapelle駅。技術上の問題で、サンマルタン運河/東駅/北駅の下を通すことができず、高架で対応。1860年に取り壊されたフェルミエー・ジェネローの城壁跡地を利用して建設されました。
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東駅のバスターミナル横には、5世紀のバシリカを起源とするサンローラン教会。12世紀の鐘楼は18世紀に増築され、メイン部分は15世紀に拡張されました。最後は第二帝政期にファサードに手が加えられます。ちなみにフランス語ではバジリクと発音し、今回の範疇では古代ギリシャ/ローマ建築を踏襲した建築様式を指します。
聖ローラン教会 寺院・教会
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10区区役所(1892-96築)
1860年に区制が敷かれます。10区は北駅/東駅等を擁し、11区と共に市内で最も人口密度の高いエリアです。 -
簡単なセキュリティチェックだけで、内部を見学できます。
10区は、6世紀に干拓されるまで処刑場/病院/修道院等の隔離系施設が散在するだけのエリアでした。 -
ネオルネサンス様式の美しさが素晴らしいです。
干拓による農地化後も、隔離施設が建てられます。18世紀に格好の郊外として、貴族が館(別荘)を建て始めました。 -
左はパリ市の紋章、右は第三共和政の国章。庁舎落成式には、10区出身の現職大統領としてフェリックス・フォールが参列しています。
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サンマルタン門が見えます。シャルル5世が築いた城壁のライン上に建ちます。すぐ横には、サンドニ門も建ちます。
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1678年にルイ14世がフランシュコンテ地方を神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)から割譲したことを記念して建立しました。太陽王の業績をギリシャ神話風に描写しています。
サン マルタン門 建造物
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門の横には、1872年から文化を発進し続けるルネサンス劇場が。
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3区に突入し、国立工芸院(Cnam)図書館の隅っこの塔に注目。中世のサンマルタン・デシャン修道院時代のもの(1140年頃)です。
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CNAMは1794年に創設された三校の一つで、いわゆるエリート難関校です。周辺で幅を利かせていたサンマルタン・デシャン修道院を接収して、現在に至ります。正門には、芸術と科学を象徴する女神が彫られています。
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敷地内には、同じく1140年頃の修道院教会が遺ります。クリュニー修道会に所属していました。修道院自体は、6世紀から立地します。旧教会は、図書館や食堂として用いられました。
パリ工芸博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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レオミュール通りを挟んで反対側は、サン・ニコラ・デ・シャン教会です。サンマルタン・デシャン修道院の傘下として11世紀に開設され、現在の建物は1420-1642年にかけて築かれました。
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度々登場するシャン(champ)は野原を意味し、それぞれの教会/修道院建設時の様子を物語ります。
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中世初期における修道院の役割
修道士が隠遁生活を送るうえで、尚且つ社会に奉仕する使命も果たせる環境として、郊外の湿地/荒地など生活/農業に適さない土地が領主から寄進されます。修道士には、荒地等を開墾して有用な土地にすることが寄進主から期待されました。中世の絵には、祈りに専心する一方で、修道士が樹木を切り倒して土地を開墾している様子が描かれています。 -
ニコラ・フラメルの家
1397年に妻ペルネルの死後、1階部分に店舗/上階を貧しい人々の宿泊施設とするために建てました。1407年に完成したことが、地上階上部のフリーズに刻まれた銘文によって証明されており、年代を特定できる邸宅としては、パリに現存する最古の建物です。現在はオーベルジュとして営業中。この辺りからマレ地区へ突入です。オーベルジュ ニコラ フラメル 地元の料理
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オテル・ダルウィル
スイスの銀行家で後にルイ16世時代の財務総監となるネッケルに邸宅として使用され、現在の建物は1766年築。ファサードにルイ16世様式が反映される以外は、大きく手が加えられています。 -
フランスの近代建築も、古さを感じさせないのが凄いです。
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ゲネゴー邸
ルイ14世の国務顧問官ゲネゴーの邸宅として1651年に完成、ファサードの大きな窓が印象的です。主屋から直角に伸びる2つの翼とその間の中庭があり、主屋の奥には庭園となっています。隣のモンジェラス邸と共に、現在は狩猟と自然の博物館として利用されています。狩猟博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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対角線上には、オードリエットの噴水。
1764年築で、水瓶を持つ裸の女性が艶めかしいです。 -
噴水の向かいには、国立公文書館の広大な敷地が。ナポレオン3世書庫の壁が続きます。
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スービーズ館
1708年築で、1808年以降は国立公文書館として使用されています。国立古文書博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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敷地には、前の持ち主だったギーズ公時代の塔が遺っています。ヴァロア朝末期は、ギーズ公アンリ、ナヴァラ公アンリ(アンリ4世)、国王アンリ3世の3人のアンリが三つ巴でしたが、ギーズ家は1688年に断絶します。
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国立公文書館
フランス革命の産物で、1790年9月にルイ16世の承認を得た勅令により正式に設立されました。ナポレオンも強い関心を示し、1808年には広大なスービーズ邸買収を命じました。
写真は堅牢な造りのエントランスで、クリソン館と呼ばれます。 -
②エントランス(クリソン館)
③スービーズ館
④クリソン館の中庭
⑤マロニエの中庭
⑥ナポレオン3世保管庫
⑦ルイフィリップ保管庫
⑧シャルルブバン保管庫
⑨シャンソン保管庫
⑩ロアン館
⑪太陽の中庭
⑫ボワジュラン館
⑬ダッシー館
⑭ブルトゥイユ館
⑮フォントネ館
⑯ジョクール館
⑰プチカラン
⑱グランカラン -
旧閲覧室
19世紀の大部分において、スービーズ公爵の居室の前室と天蓋室は公文書棚で埋め尽くされていました。手狭になった閲覧室に代わり、 1902年に52席の閲覧室へリフォームされて1988年まで使用。2013年に木工装飾が修復された後、常設展示室となりました。 1727年のイラストに基づいてネオ・ロカイユ様式の彫刻パネルが復元されました。 -
会合の間
四隅には、世界の四方を象徴するレリーフ※が飾られています。1808年以降は文書保管庫として使用され、1867年以降はヴァロワ朝時代の公文書展示室となりました。
※…アジア:片手に芳香植物の花束、もう一方の手に香炉を持ち、東洋がもたらした香辛料や香油を象徴。ラクダ
アメリカ:半裸で、弓と矢を矢筒に収め、その矢筒を巡って二人のプットーが争う。両脇にはワニ。
ヨーロッパ:果物で満たされた豊穣の角を持ち、足元に置かれた書物とパレットによって象徴される芸術と科学を司る。プットー(天使)が担ぐ小さな神殿は、新の宗教を象徴。馬
アフリカ:ほとんど裸で、麦の束で満たされた豊穣の角を持つ。ライオン -
次の部屋はナポレオンの遺言に関する展示。
ナポレオンは、彼が忠実な臣下と認めた者たちに遺贈し、マルボを中心とした将軍たち(軍人)が大半を占めます。文官は3名のみで、郵便局長のラヴァレット、民法起草時の国務院報告者レアル、外交官ビニョンです。また、息子が王位に就くことを願い、多くのものを形見分けしています。本人はフランスでの埋葬を希望します。遺産相続は1860年に完了したとみなされ、遺言状等は国立公文書館へ引き渡されます。 -
これは私の遺言である。すべて私の自筆で記した。ナポレオン1世の署名
フランス帝国の紋章が描かれたナポレオン1世の印章
鉤爪に雷を掴む古代の鷲が、レジオンドヌール勲章の壮麗な襟章に囲まれ、その上に帝国の冠を戴いている様子を描いています。この冠は、オコジョの毛皮で裏打ちされた紋章のマントの上に置かれ、その背後にはシャルルマーニュ(カール大帝)の笏と正義の手が交差して描かれています。 -
奥へ通じる秘密の通路のようなものが。
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小書斎
1749年の財産目録では公爵従者の部屋となっていますが、シャルル・ド・スービーズの死後、机と本棚が置かれ、大理石の暖炉は、オテル・ド・スービーズに残る唯一のオリジナルの暖炉です。エコール・デ・シャルト(公文書学校)講師のオフィス/学芸員の部屋を経て、1990年代に修復されました。 -
窓からは、かつてのオテル・ド・クリソン門(14c)の木骨造りのファサードと、門の上にはプリマティッチョが16世紀に建てたギーズ家の礼拝堂が見えます。
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サロン
かつては下の階に広がっていたフランス式庭園に大きく開かれた公爵のサロンは、スービーズ館のハイライトです。大きな出窓から光がたっぷりと差し込み、金色のヤシの木で縁取られた背の高い桟窓に反射します。
スービーズには本格的な図書館はありませんが、共有の庭を挟んで向かい側にあるロアン館1階にある(兄である)アルマン・ガストン・ド・ロアン枢機卿の図書館を利用することができました。この図書館は当時、学者、歴史家、哲学者の間でよく知られていました。 -
サロンの向かいのマロニエの中庭
砂利が敷いてあるだけの現在とは違い、当時はフランス式庭園で、向かいに建つルイフィリップ保管庫やその奥のグランカランもかつての庭園スペースで、ロアン館まで続いていました。
シャルルがスービーズ公爵を継ぐと音楽が重んじられ、 1769~81年にかけて近代音楽の振興に重要な役割を担ったル・コンセール・デ・ザマテ(アマチュア音楽家によるコンサート)が置かれました。ハイドンの交響曲や新しいドイツの室内楽作品を幅広く演奏し、名声はフランス国外にも広がり、若きモーツァルトの耳にも届きました。ロアン邸は、1808~1927年まで国立印刷局として使用されました。 -
サロンは1808年以降は公文書保管室、その後は公文書保管学校の教室として使用されました(写真)。1870年パリ包囲戦の間は野戦病院と雰囲気ぶち壊しの使用法でした。1994年までに1745年当時の姿へ改修されました。
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大書斎
設計図では大書斎と名付けられますが、実際には食堂として使われていました。この部屋は付属棟と繋がっていましたが、ナポレオン三世収蔵庫を建設するために取り壊されました。コーニスだけが書斎の装飾における唯一のオリジナル要素として残っています。 壁の絵画は右より:ガブリエル・ド・ロアン=スービーズ(タラール公爵夫人_18c前半)、アルマン・ガストン・ド・ロアン=スービーズ(ロアン枢機卿_1713年)、アンヌ・シャボ・ド・ロアン(スービーズ公女_17c前半)、花(17c)。 -
2階へ移動します。来月はアメリカ建国250年ということもあって、ラファイエットの企画展中でした。その奥に常設展と館の展示があります。
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公爵夫人の儀礼の間
1735~40年にかけて改装された当時の装飾が残ります。公爵家の慣習とヴェルサイユ宮殿の王室の模範に倣い、スービーズ家の社交生活の華やかさを最も壮麗に称える場所でした。夫人は儀式用の寝台から、廷臣が地位に応じて手すりの前後に並ぶ様子を目にしました。 -
ロマンス神話
木製パネルのメダリオンとコーニスのスパンドレルには、それぞれジュピターの激しい恋のエピソードが描かれています。神話(寓話)は、太陽王の時代には君主を称える手段として用いられていましたが、それ以降は自由と快楽を求める貴族たちの享楽的な生活様式を讃えるものとなりました。教訓や寓話に関する部分は脇に置かれ、神々の愛の情熱を描いたエピソードが重視されています。 -
ロカイユ様式
ルイ14世古典主義の荘厳で威圧的な効果とは対照的に、ここでは装飾要素の曲線と輪郭が強調されています。白地に金色で描かれた、葉の茎と葉のモチーフや花のガーランドのしなやかな網目模様、そしてヤシや貝の曲線的で繊細なデザインが、天井まで部屋を優雅に包み込んでいます。
1867年以降、この儀式室には、アンリ4世からルイ16世までのブルボン朝の治世に関するコレクションが収蔵され、夫人のベッドがあった場所にはルイ16世の遺言とマリー・アントワネットが宛てた最後の手紙が、見学のハイライトとして単独で展示されていました。 -
夫人のサロン
公爵のサロンの真上に位置し、様々な装飾は視線を天井へ誘導します。青灰色の印象的な天井です。 -
この部屋は、復古王政期には警備員の執務室でしたが、1851年まで手が加えられませんでした。 1867年に一般公開された際には、第一帝政の華々しい業績に関する展示がなされました(写真)。
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夫人の寝室
木製の仕切りに隠された扉で儀式用の部屋と繋がっています。儀式用の部屋よりも簡素で、当時の王室の華やかな儀式とは明確に区別されたプライバシーへのニーズ(⇔ルイ14世時代)に応えるものでした。 -
天蓋付きベッドの部屋
実際には寝室の控室であるにもかかわらず、この名称はその後も使われ続けました。 寝室のドアの向かい側のドアから続く通路は、音楽を愛したシャルル・ド・スービーズのアパートメントへ続いていました。このアパートメントは2つの通りに沿ってL字型をしていましたが、1860年代に取り壊されてナポレオン3世大保管庫が建っています。 -
壁には、国立公文書館の初代館長(1790-1804)アルマン=ガストン・カミュの肖像画が掛かります。著名な弁護士/アカデミー会員であるだけでなく、三部会では第三身分の議員を務めました。
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エンパイア・ルーム
19世紀に、幾つかの小部屋の壁を撤去して作られました。戸棚には主要な刑事裁判の証拠品を展示していましたが、1939年には第一帝政時代の文書を展示する常設展示室となったことが名称の由来です。現在は文書の保存方法を展示しています。 -
革全体に金箔押し装飾が施された革製箱(18世紀)
最も貴重な文書は、登録簿の形で製本されたり、紋章入りの箱に入れて棚に並べられ、権力の象徴としての役割も果たしました。しかし古い箱は、埃/湿気/害虫に弱く、第二帝政期以降は、保存に適した箱へ移し替えられました。 -
フック
パリの荷運び人が荷物や家具をより便利に運ぶために用いた、背負子(しょいこ)のこと。背面にフックの付いたストラップで荷物を固定します。1830年以降の敷地の拡張、1850年の閲覧室開設による運搬頻度/距離の増加に伴い、1988年まで活躍しました。
それでは、いよいよ公文書を見学します。 -
筆記媒体
エジプトで植物として栽培されたパピルスは、茎を乾燥させ、編み込み、叩いて固めることで筆記媒体となりました。非常に脆く、製本が容易ではなかった上、地中海貿易の衰退に伴い入手困難になったため8世紀には廃れます。
写真は当館の最古の文書で、625年にクロヴィス2世によるメロヴィング朝の領主ダゴベルトによるサン=ドニ修道院への寄進の確認書です(展示は複製)。これはフランク王によって発行された現存する最古の文書です。 -
獣皮紙:最も強固な媒体
8世紀には、羊/山羊/子牛の皮から作られる丈夫な獣皮紙に取って代わります。羊皮紙は、紀元前2世紀に発明されたとされるペルガモン市に由来します。7世紀には西洋に広まり、最も厳粛な事柄から些細な事柄まで、権力の行使における主要な媒体となります。皺苦茶にされたり、湿気や火災で損傷を受けたりしても、驚くべき耐性を発揮します。写真はフィリップ6世によるランス管区の聖職者、貴族、第三身分の代表者への三部会の召喚状(1347年 複製)。羊皮紙の尾に赤い蝋で秘密の印章が押印されています。 -
羊皮紙
脱脂されて真皮のみが残され、石灰水に浸してナイフで毛を削り落とし、薄く伸ばし、磨き、漂白されます(写真)。最後に、シート状に裁断します。
活版印刷機が発明/普及すると、記録媒体は紙に一本化されます。 -
蝋
消去/破棄を前提とした下書きなど一時的な筆記に適し、中世後期まで特に会計目的で使用されていました。蝋にはピッチを混ぜ、内容を他の媒体に写し取ることも可能です。用が済むと表面を滑らかにして消去し、何度も再利用できます。この特性ゆえに希少なコレクションです。写真は、ルイ9世の侍従ジャン・サラザンの蝋板(1256年 複製)で、国王がテンプル騎士団と交わした会計の記録です。国王の財宝がどこに保管されていたかを示します。
続いては、文書媒体の加工方法です。 -
巻物
プロヴァンスをフランス王室に併合する1486年10月の勅令(羊皮紙/巻物/複製)
テキストが1枚に収まらないほど長い場合は巻物にしました。羊皮紙の巻物は中世において主要な法律文書、裁判記録、人物登録簿などに広く用いられていました。テンプル騎士団裁判の記録の一つ(1308年)は、長さ53mに及びます。フランス語のrôle(行政登録)/enrolement(登録する)は、rouleau(ロール/巻物)に由来します。 -
記録簿
作成過程は書籍とよく似ており、ノートを綴じ合わせ、綴じ紐で結びます。書籍/記録簿はどちらも4cに登場した写本に由来しますが、その内容には明確な違いがあります。記録簿は、情報/行為/人物/物品などを時間の経過と共に継続的に記録します。その記録の限界は、重量/時間/制度(作成機関が消滅すると記録簿は消滅する)によって決まります。
トゥールーズの地方自治に関する文書集(1305年5,6月)赤いモロッコ革装丁
この登録簿には、1141~1246年にかけて37件の文書が収められています。トゥールーズ伯爵によって与えられた特権/規則/領事や地方自治の判例が含まれています。慣習法が公式に成文化される以前は、トゥールーズ領事は、法律が曖昧な場合には解釈を行い、法律に規定がない場合には判決を下す責任を負っていました。ヴェリーナの使用と頭文字の丁寧な表現は、これが単なる作業用文書ではなく由緒ある写本であることを示しています。 -
ノート
羊皮紙や紙のシートを複数枚重ね合わせたもので、折り畳んだり、切ったり、縫ったり、綴じたりして作られます。11世紀以降ヨーロッパ全土に広まった紙は、この種の製本に特に適していました。15世紀には、紙の文字が印刷の需要に応えました。小さくて薄く保管しやすいため、事務処理や会計処理など多くの場面で重宝されます。近代では、商人が旅の記録にノートを使っていました。1789年には、三部会の招集により膨大な量の記録が残されました。
パリ税台帳(1296~1300年)
課税対象者のリスト/税額、免税者のリストを記載した冊子のシリーズ。税額は年間10万リーブルのタイユであった。これはパリ市が国王に無償で贈与したもので、その条件として住民は消費財に課せられる間接税マルトット(1リーブルあたり1ドゥニエ)を免除された。税台帳では税額が地区ごとに配分され、各地区内では通りごとに、納税者の氏名/職業/住所が記載されている。 -
ケレルマン将軍によるヴァルミーの戦いの記録(1792年)紙ノート
デュムーリエとケレルマンが指揮するフランス革命軍は、ブラウンシュヴァイク公が指揮するオーストリア/プロイセン連合軍に勝利した。 -
折り畳む
短い文書には一枚の紙/羊皮紙が使用され、テキストの長さに合わせて裁断され、輸送中は折り畳まれます。折り畳むことで、情報を他人の目から保護し、保管も容易になります。中世の印章と蝋は手書き署名に取って代わり、18世紀以降は封筒の使用が広く普及し、20世紀以降は標準規格の用紙が使われるようになりました。 -
サン=ドニ修道院長シュジェールの遺言(複製)1137年6月17日 羊皮紙/蝋印
シュジェールは、第二次十字軍遠征の際にはルイ7世から王国を託された人物です。遺言の中で、自身の命日の祝典と多数の施しの分配について指示しました。文書の下部には革紐がぶら下がっており、その上に印章があります。この新しい封印方法は、柔軟性に欠け壊れやすい従来の銀箔印章に取って代わります。 -
サン=ドニ修道院の創立記念式典のための基金財団設立の勅許状(折り畳まれた状態)1372年 羊皮紙
中世の勅許状は保存/保管のために折り畳まれていました。裏面には文書の目的を示す注記があります。 -
封印の印章
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世の金製勅書(1246年)。
エルサレムへ出発したルイ9世に必要な武器/馬/食料を提供するよう配下のシチリア将校たちに命じています。
中世ヨーロッパでは、文書の封印方法によって権威ある機関が他と区別されることがありました。ビザンツ帝国から受け継がれた金製勅書は、敬虔王ルイの時代にカロリング朝の官房に導入されて広まりました。 -
教皇クレメンス5世の勅書(1312年):テンプル騎士団の財産を聖ヨハネ騎士団に移管するという内容。赤と黄色の紐に鉛の印章で封印された羊皮紙。複製。
より控えめな例として、ヴェネチア総督とローマ教皇は、古代から近代に至るまで鉛製印章を使用しました。 -
筆記(writing)
筆記の形態は様々なプロセスに依存し、当館は裁判所書記官/公証人など専門的な筆記技術を持つ人々が作成した文書も数多く存在します。フン族大侵攻/ローマ帝国崩壊後も書写は修道院で受け継がれ、写字室で宗教文書を書き写す修道士の姿は、この専門技術の象徴となりました。一方で君主の館では、法案作成のための書体を考案した専門家によって、別の書写慣習が生まれます。 -
メロヴィング朝書体
ローマの筆記体はメロヴィング朝書体と呼ばれる書体へと発展します。6,7世紀にかけてフランク王国官房で王室の書簡や勅令の作成に用いられ、その後アイルランド修道士によって設立された修道院にも導入されました。細長く、ほぼ縦書きで、文字間に多くの合字が用いられ、単語が区切られていないのが特徴です。
写真:フランク王キルペリク2世は、ダゴベルト1世がサン=ドニ修道院に与えたマルセイユの国庫収入からの年間100スーの地代と通行料免除の特権を再確認した。716年3月。羊皮紙。複製。 -
カロリング小文字体
シャルルマーニュ(カール大帝)は、著名なアングロ・サクソン人修道士アルクインをはじめとする多くの学者を周囲に集めました。学者たちは文化の刷新を促し、略語を用いず、単語を正しく区切った、より簡潔で読みやすい新しい文字体系の開発につながりました。この丸みを帯びた文字はカロリング小文字体と呼ばれています。この書体は11世紀まで使用されました。
敬虔王ルートヴィヒ1世(仏語:ルイ)がサン=モール=デ=フォッセ修道院に通行料および交通税の免除を与えた文書。アーヘン、816年6月20日。銀箔印章で封印された羊皮紙。複製。 -
ゴシック体
パリ港における塩の計量に関するパリとルーアンの水商人間の協定(1210年)。パリ水商人ギルドの印章(船の図柄)、SIGILLUM (MERC)と記された封印羊皮紙
12~13cにかけて建築がロマネスク様式から尖頭アーチへと移行するのに伴い、ゴシック体が登場しました。より角張った細い文字、断片的な曲線、そして際立った白黒のコントラストが特徴です。文字の読みやすさ、テキストの配置を形式化が伴います。初期ゴシック体、テクスチュラ(典礼写本用)、役所や公証人によって用いられた速記に適するシヴィリティなどが誕生します。
sigillum:印章(sealの語源), marc:市場(marketの語源)共にラテン語 -
ロンド体
ラングドック地方長官ダゲソーによるヴィヴァレ地方の平和回復策に関する報告書(1683年)紙
ゴシック体から派生したロンド体は、記録裁判所書記官ルイ・バルベドールによって完成形に仕上げられました。優雅で丸みを帯びた(ロンドの由来)書体は、斜めにカットされたペン先を斜めに持つことで得られる太い線と細い線のコントラストが際立つのが特徴です。 ロンド体が主流となるにつれ、法案作成においてはラテン語に代わってフランス語が用いられるようになりました。18世紀末、より細く繊細なペンが使われるようになったことで、やや簡素な形で用いられるようになり(金融書体)、20世紀初頭まで行政機関などで使用されました。 -
ボルドー公爵の出生証明書 1820年9月29日 紙
19世紀以降、明確な公式の書体は無くなったとはいえ、印刷された活字に触発された美しい筆跡を身につけることは、行政職に就く上で有利な要素でした。日常で言えば、大切な相手に書く際には綺麗に書くよう努力を惜しまないものです。この価値観は、義務教育で筆記をあらゆる学習の出発点として教育を受けた何世代にも亘って継承されました。大人になっても、特に行政/銀行/商業/ホテル業界等で働く人々は、美しい筆跡を維持しています。 -
筆記体
一本の線で素早く書かれる筆記体は、文字の普及とともに発展しました。中世末期以降、行政や司法の必要に応じて、正式な文書を作成する前に下書きが迅速に作成されました。公証人の記録や一部の手続き文書などがその例です。しかし、16,17cに筆記体は著しく衰退します。ルイ14世は、公証人や書記官に読みやすい字を書くよう命じました。
裁判所書記官の筆記体
西州司法長官ジャン・マルタン、ローバルデモン男爵によるルーダンのウルスラ会修道院長の奇跡的な治癒に関する情報(1637年) -
王妃の筆跡
マリー・ド・メディシス王太后が息子ルイ13世へ宛てた書簡。レディギエール公爵がカトリックに改宗したので、国王が彼を大元帥に任命したことを知り、喜びを表明している。1622年 紙
この文書は、16世紀に確立されたプロによる整然とした定型的な筆記体と、王侯貴族/ブルジョワ/聖職者といった”素人”筆記体との間の大きな違いが出ています。素人の筆跡は、大きく傾斜した文字でほとんどの場合識別できます。注:当時の綴りには殆ど規則がなかったことに留意すべきである。
最初の10行の書き起こし:愛する息子よ、あなたが体調を崩されたと知った時、私は大変心配しました。しかし、あなた自身から健康を確信できた時は、この上ない喜びを感じました。あなたの健康が維持されるよう、心から神に祈っています。あなたの国の救済は、まさにあなたの健康にかかっているのですから。このことを私に知らせてくださったこと、そして私の従兄弟であるレディギエール公爵に[判読不能]の役職を与えようというご配慮に感謝いたします。
※アカデミー・フランセーズ(1635年設立)やヴォージュラの著作で言語規範の整備が進む前の書簡。 -
公証人の証書。モリエールとアルマンド・ベジャールの結婚契約書(1662年)紙 複製
40歳で既に名声を得ていたモリエールは、20歳年下の女優アルマンド・ベジャールと結婚した。アルマンドの母は、二人に1万リーブル・トゥルノワの持参金を与えた。これは当時としては相当な金額で、農夫の100年分の賃金に相当する。公証人記録には、こうした個人の物質的な生活に関する情報が記録されている。モリエールは裕福だったのだ! -
自己について書くこと
18世紀、男女ともに教育水準が向上したことで、書簡/ノート/新聞など自分の良心を表現する文章において自己表現する人が、庶民の中からも現れます。この頃から、筆記体はますます自由奔放になり、あらゆる規則から解放されていきました。羽根に代わった金属製のペン先によって可能になった多様な書体は、書き手の個性を反映しました。
ナポレオン、ジョゼフィーヌへ、あなたの体のあらゆる場所にキスを。
1796年9月17日、イタリア方面軍の便箋に書かれた手紙。紙 複製。 -
さよなら、この忌々しいポン引きめ! パリジャン同士のやり取り
デュボワという人物からユゴーという人物への脅迫状:罵詈雑言、侮辱、そして挿絵、1764年。紙。複製。
パリ市民の間でも識字率が高かった証拠品の一つ -
7/14(火):何も無し。ルイ16世の日記より1789年の部分 紙 複製
ハイライトは、これでしょうか。1766年1月1日、まだ王太子で11歳だったルイは日記をつけ始めました。毎月末、毎日下書きしていたものをもとに新しいページを作成し、各行を日付に割り当てました。そのため、消しゴムを使わず、非常に規則正しいレイアウトになっています。主な記録は、狩猟、謁見、旅行、そして宮廷生活を彩る様々な出来事でした。1789年7月14日の日付に記されたrien(英nothingに相当) という単語は、多くの議論を巻き起こし、出来事の重要性を理解できない国王の無関心の表れだと捉えました。
※7/14は、革命記念日で国民の祝日。日本における3.11や2.26/5.15と同じように固有名詞化され、シンプルにLe 14 Juilletと表記/呼称される。 -
ロベスピエールの最後のメモ
第3年テルミドール10日(1794年7月28日)にロベスピエールから押収された文書
複製 フランス革命で採用された革命暦をしています。1792年9月22日を紀元とし、キリスト教色を廃して10進法も取り入れています。ナポレオンが従来のグレゴリオ暦に戻しました。 -
暗号化された文書
アーカイブには暗号化された歴史的背景の切迫感を映し出すことがあり、16世紀の宗教戦争の布片のように、時に異様な様相を呈することもあります。秘密保持に留まらず、時短と効率化のために多くの略語や暗号体系が考案され、内部関係者のみが使いこなしていました。
32 S28s q52 32 82 C2ss2r13 31613s d2 t1362r = あなたへの愛は決して消えることはないでしょう(1785年頃)
父親の警戒を欺くために秘密裏に書かれたもので、バイヨンヌ出身の若い女性が、1786年にパリでの決闘で亡くなった王立海兵隊の将校カニュと恋に落ちた気持ちを伝えています。この恋を秘密にするため、母音や特定の子音は数字に置き換えられ、不適切な固有名詞はイニシャルに短縮されています。 -
オルレアンに投獄されていたフランス海軍提督でユグノー派の指導者ガスパール・ド・コリニーは、1562年9月25日カトリック軍に包囲されたルーアンの同盟軍に指示を送ります。メッセージは、使者のダブレットの裏地に縫い込まれたリネンに、襟ぐりの輪郭に沿って書き込まれていました。
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印刷物の機械化と複製
印刷技術の発明により、アーカイブは著しく増加しました。そのため、法律/規則/ポスター/文書が手書きのものと混在するようになりました。19世紀には電信によって情報が遠隔地から伝送されるようになり、タイプライターによって筆記作業は機械化/標準化され、複製技術によって文書の複製が可能になりました。一方で手書きも存続し、万年筆やボールペンの発明によって、より容易に書けるようになりました。
ルイ14世の崩御を告げるポスター(1715年)ヴルジュ市の町触れ役に託された。印刷ポスター -
パリのオテル・デュー病院における大免罪符のポスター紙 複製
病院の院長と修道士たちは、病人が病院への寄付と引き換えに罪を告白し、完全に赦される日を定めた。これは一種の宣伝ポスターであり、免罪符をめぐるスキャンダルは宗教改革の一因となった。 -
裁判証拠
法廷で真実を立証する際に、検察側または弁護側が提出する証拠、法的手続きに沿って収集された証拠は、管轄裁判所に提出されて正式に記録され、裁判手続きの一部となります。
アンリ事件(1846年)アンリから押収された2丁のポケットピストル
1846年7月29日、ジョゼフ・アンリは、ルイ・フィリップ国王が宮殿のバルコニーに姿を現した際、国王に向けて2発の銃弾を発射した。アンリは直ちに逮捕され、暗殺罪で終身刑を宣告された。 -
タフ事件、1764年
債務不履行で訴えられてコンシェルジュリー監獄に投獄されたタフ卿が、脱獄に使用した9段の縄梯子。 -
フィエスキによる地獄の兵器
ジュゼッペ・フィエスキ(1790-1836)の裁判に添付された証拠品。
1835年7月28日、ルイ・フィリップ国王が閲兵中に、ジェノヴァ出身のコルシカ人ジュゼッペ・フィエスキが自作の装置で国王を襲撃した。フレームに水平に取り付けられた25本のライフル銃身から構成される必殺の凶器だった。国王は無傷で難を逃れたが、19人が死亡22人が負傷した。 -
画像
国家行政機関は、権力の象徴、土地や人々の管理・統制、出来事の視覚的記録、そして行動の正当化やプロパガンダによる宣伝のために、古くから画像も活用してきました。当館は数百万点に及ぶ膨大な画像コレクションを有します。
シャルル5世が弟のベリー公ジャンに、パリのサント・シャペルの聖十字架断片を贈呈した証書(1372年)羊皮紙 複製
華麗な頭文字K(Karolus=シャルル)は、国王が弟に聖十字架を手渡す場面を描いていいます。中世の図像表現は、権力の記録文書(13世紀以降のヨーロッパ君主の勅許状)にも見られる。華麗なイニシャルは、印章や荘厳な書体と同様に、王権の力強いイメージを伝えてきました。 -
アンジュー公領に属するラ・エ=ジュラン男爵領を所有するジャン・ド・サント=モールが、ルネ王に忠誠を誓う証書(1469年)羊皮紙 複製。
この細密画にはジャン・ド・サント=モールが跪き、頭を覆わず主君であるルネ王の手に自分の手を重ねる様子が描かれています。これは封建領主の慣習(相互の忠誠と保護の絆を象徴する行為)に倣ったものです。 -
トルデーヌ地図帳よりパリ市街地図帳(18世紀)
全62巻の道路地図帳は、他に類を見ない均質なコレクションです。3,000点を超える精緻な手彩色版画は、18世紀の景観/道路網/構造物(橋/水道橋等)の歴史を知る上で貴重な資料です。橋梁道路局長シャルル・ダニエル・トルデーヌの依頼により1745~80年にかけて制作されたこの地図帳には、パリの22の市街に建設済み/計画中の道路が収録されています。 -
N.サンソン作、フランス王国とその周辺地域を網羅した総合地図(1658年)
ルイ14世の治世で拡大していく国土が表されます。サンソン図法(正積法)でお馴染みニコラス・サンソンの作品です。
続いて2階の常設室へ。フランス史のVIPや重大事件に関する公文書です。 -
ユーグ・カペーによるメゾン=アフォール荘園の寄進(988年)複製
ユーグ・カペー※は、パリ伯領マンシオヌに位置する荘園を、サン=モール=デ=フォッセ修道院に寄進します。この寄進は、クリュニー修道院長マユイに対して行われ、系列のサン=モール修道院の運営を支援するためのものでした。これは、国立公文書館に保存されているユーグ唯一の文書です。
※カペー朝の創始者、ヴァロア朝/ブルボン朝はカペー朝の傍系。 -
シモン・ド・モンフォールからフィリップ・オーギュストへの臣従の誓約書(1216年)羊皮紙 複製
南フランスでカタリ派に対する十字軍を率いた後、教皇インノケンティウス3世は異端の疑いのあるトゥールーズ伯レーモン6世の封土を没収し、十字軍を率いたシモン・ド・モンフォールに与えます。モンフォールは宗主であるフランス王フィリップ2世に忠誠と臣従の誓いを立てます。
※これを機に事実上の治外法権だった南西部で、王権が確立されます。 -
赤と緑の絹紐で吊るされた緑色の蝋印には、威厳ある国王の肖像が描かれています。
※フィリップ2世はフィリップ=オーギュスト(尊厳王)と呼ばれ、国土を2倍に拡張しつつそのほとんどを王領とします。この時期に王権が強化されたおかげで、孫のルイ9世は十字軍で何年も国を留守にすることができました。 -
パリ高等法院議事録(1428~36年)複製
百年戦争中のイングランド統治末期の8年間に行われたパリ高等法院の議事録が収められています。書記官クレマン・ド・フォカンベルグによって書かれたもので、彼は記録の合間にジャンヌダルクによるオルレアン市の奇襲攻略について詳細に記述しています。余白には彼自身が創作した、剣を携えてIHSと書かれた旗を持っているジャンヌの姿が描かれています。
※当時パリはイングランド統治下でした。ジャンヌの容姿は、既にステレオタイプ化が始まっていたようです。 -
ジャンヌ・ダルクからランスの住民への手紙(1429年)複製
ジャンヌは2月にシャルル王太子にシノン城で彼に謁見し、5月には兵を率いてオルレアンを解放し、7月には王太子をランスへ連れて戴冠(シャルル7世)させました。しかし国王はパリを奪還する試みを放棄し、シノン城に撤退します。これは、ランスを含む国王を支持する町の意気を消沈させます。8月にジャンヌは再び従軍するに際し、ランスの住民に手紙を書き、決して彼らを見捨てないことを約束し「王の良き都を警戒し、守り続けてほしい」と懇願します。
※この後ジャンヌは敵に捕まり、魔女裁判で有罪となり、ルーアンで火刑に処されます。 -
ヴィレール=コトレ条例(1539年)複製:手続きの簡略化と、法的文書のフランス語表記を規定。
王国全土の司法制度の再編を目的として、司法行政におけるラテン語の使用をフランス語に置き換えるためのものです。特に第110/111条が有名で、ラテン語の使用を禁止し、法的文書の作成においてフランス語(母語)の使用を義務付けています。
第111条の抜粋:そして、上記法令に含まれるラテン語の誤解により、しばしばこのような事態が生じてきたため、今後は、すべての法令、および主権裁判所、その他の下級裁判所のすべての訴訟手続(登記簿/検死記録/契約書/委任状/判決書/遺言書/その他あらゆる司法行為および文書、またはこれらに付随する文書を含む)は、平易なフランス語で宣告され、当事者に交付されるものとし、それ以外の方法では宣告されないものとする。 -
ナントの勅令(1598年)羊皮紙ノート。複製。
アンリ4世による宗教的不安の鎮圧に関する勅令。カトリックvsプロテスタント間の宗教戦争(内戦)調停の総仕上げとして発布された勅令で、プロテスタントに信仰の自由を認めます。但し、パリ市および周囲5リュー(20km)圏内では引き続き禁止されました。
1行目と2行目の抜粋:神の恩寵によりフランスとナバラの王となったアンリより、現在および未来のすべての人々に挨拶を。
※この争いは市民間のみならず、支配層の間でもテロが発生する等の分断をもたらします。アンリはプロテスタントを信仰していましたが、王位を継承するにあたり「フランス国王はカトリック信徒でなければならない」という法に則り、カトリックへ改宗してブルボン王朝を創設します。 -
ピレネー条約(1659年)複製
マザラン枢機卿とルイス・メンデス・デ・ハロは、フランスとスペインを隔てるビダソア川沿いのフェザント島でピレネー条約に署名しました。この条約により、1635年以来続いていたフランスとスペイン・ハプスブルク家との西仏戦争は終結しました。最終ページには、マザラン枢機卿とドン・ルイス・メンデス・デ・ハロの署名があります。
※ピレネーより北の村は全てフランス領という文言のせいで、町と認識されたリビアはスペインの飛び地となり、現在に至ります。フェリペ4世が賠償金を支払えなかったために、1668年以降、ルイ14世はネーデルランド継承戦争/スペイン継承戦争を引き起こします。 -
ルイ14世の自筆遺言書および補足(1714年8月2日作成、1715年4月13日/8月23日補足)紙製ノート/複製。
遺言書の中で、曾孫にあたる将来のルイ15世のため摂政を置くのではなく、14名からなる摂政評議会設立を指示します。この評議会には、嫡出子であるメーヌ公とトゥールーズ伯の2人が参加し、甥(と同時に義息)のオルレアン公が議長を務めることになりました。8か月後国王はさらに規定を設け、評議員ヴィルロワ公の権限を拡大します。 1715年8月10日、フルーリー神父とル・テリエ神父を王太子の家庭教師と告解師に指名します。国王は9月1日に崩御しました。
※メーヌ公/トゥールーズ伯の両者は愛妾ヴァリエールとの間の庶子なので国政の中枢へは参加できませんでしたが、特例で嫡出子としたため、世間では嫌われ者でした。オルレアン公はルイ14世が冷遇した諸勢力の間で人気があり、彼が高等法院等の権威を回復させたので、絶対王政は弱まります。フルーリー神父は後に枢機卿になり、王太子の養育係として良い働きをします。 -
人権宣言。国民議会(1789年)複製
国民議会議長および書記が国王への提出のために作成した17条からなる原案からの抜粋。 アンシャンレジウムを否定し、個々の自由(権利)を保障し、その一環として国民主権を宣言。 -
ルイ16世の自筆遺言書(1792年12月25日)複製
ルイ16世は、クリスマス当日タンプル塔で遺言書を執筆します。死刑宣告を受けた国王は、敵対者たちを赦免し、告発された罪状に対して弁明を行います。彼は家族に語りかけ、息子に「もし不幸にも王位に就くことになったら」、復讐の念を捨て国民の幸福のために尽力するようにと懇願します。 -
マリー・アントワネットの最後の書簡(1793年10月16日)複製。
ルイ16世の処刑後、マリー・アントワネットは革命裁判所に召喚され、10月16日に有罪判決を受け同日処刑された。コンシェルジュリー監獄で書かれ、子供たちの世話をエリザベート夫人に託す内容。 -
ナポレオン1世の遺言書第一付則(1821年4月16日)複製。
この第一付則は、遺言書作成の翌日に作成され、英国で保管されましたが、1853年にフランスに返還されます。これらの文書が真正であると認められるためには、公的機関による認証が必要であったため、セーヌ県裁判所と公証人のイニシャルが記され、登記所への手数料が支払われました。 -
最期は、ティプス・レリギリス(宗教的典礼図/寓意画)で、1762年のイエズス会に対する裁判の際にパリ高等法院によって押収された裁判の重要証拠です。
イエズス会は多くの学校を設立することで教育界に大きな影響を与え、修道会という教皇直属の組織と強硬な姿勢から世俗君主との関係が悪化します。教皇も圧力に屈して、1773年にイエズス会を解散させます。 -
パリ高等法院は、まず財政不正流用を非難して解散判決を下します。続いて、その教義が社会に有害で王権に対する反逆を企てているとして、この絵を証拠品として押収します。この絵には、プロテスタントのアンリ4世と、彼に王権を継承させたアンリ3世が異端として海へ投げ込まれ、溺死する場面が描かれていると解釈されました。
1.中央には、イエズス会創設者タデウス・デ・ロヨラが船長を務める真の宗教を象徴する船が描かれ、罪人たちは海に投げ込まれます。 -
この船は、傲慢と欲望の岸辺を出港しました(3)。
真の宗教に曳航される二艘の小艘には、教皇/枢機卿/フランス国王/司教/王子などがぎっしりと詰め込まれています(2)。 -
異端者でいっぱいの船の周りで、数人の人物が溺れている。そのうちの一人、頭を後ろに反らし、髪を下ろし、髭を逆立てている人物は、アンリ4世であると言われています(7)。
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網の中の魚は、修道士が救済した人たちを表しています(4)。キリストは福音を網で魚を手繰り寄せる投網に例えました(福音書)。
網の下では、背教者たちが溺れている。イエズス会裁判を画策した全国の議会の役人たち、カルヴァン、ルター、アンリ3世もいます。 -
悪魔たちが網を引っ張り、修道士たちが魂を救うのを阻止しようとしている。それぞれの悪魔は特定の悪徳(中傷/背教など)を象徴している(5)。
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選ばれし者たちに加わりたいと願う者たちの梯子(7)
背教者たちに毅然と立ち向かった人たち…アンリ3世暗殺犯ジャック・クレマン(1589年)、アンリ4世暗殺犯フランソワ・ラヴァイヤック(1610年)、アンリ4世暗殺未遂で1593年に車裂きの刑に処されたピエール・バリエールらが救済されます。 -
船は救済の港へ航海を続けます(7)。
次の旅行記では、フィリップ2世が築いたパリの城壁を中心に市内を探検します↓
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