カンペール旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ブルターニュは、ラテン系のフランス人に対してゲルマン系のブルトン人が住む異質な土地です。レンヌ/ナントといった旧ブルターニュ公国の首都はオートブルターニュと呼ばれるのに対し、先端部分はバス(下)ブルターニュと呼ばれ、異国情緒に富みます。<br />最果てフィニステール県のカンペール市は、人口6万人のコンパクトな県庁所在地です。花と公園が美しく、歴史も詰まっています。カンペール焼など文化も味わえます。パンチのある内容ではありませんが、心地よい都市を満喫しました。

心地よい初夏のブルターニュで至福の時間:カンペール

26いいね!

2026/07/03 - 2026/07/03

2位(同エリア16件中)

1

127

gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

ブルターニュは、ラテン系のフランス人に対してゲルマン系のブルトン人が住む異質な土地です。レンヌ/ナントといった旧ブルターニュ公国の首都はオートブルターニュと呼ばれるのに対し、先端部分はバス(下)ブルターニュと呼ばれ、異国情緒に富みます。
最果てフィニステール県のカンペール市は、人口6万人のコンパクトな県庁所在地です。花と公園が美しく、歴史も詰まっています。カンペール焼など文化も味わえます。パンチのある内容ではありませんが、心地よい都市を満喫しました。

旅行の満足度
5.0
  • 旅のはじまりはカンペール駅<br />2017年以降、パリ・モンパルナス駅から直通のTGVが運行され、ちゃちゃっと行けるようになりました。

    旅のはじまりはカンペール駅
    2017年以降、パリ・モンパルナス駅から直通のTGVが運行され、ちゃちゃっと行けるようになりました。

  • カンペール焼のタイルの上に、市の紋章が描かれています。上は1547年まで独立国家だったブルターニュ公国の紋章、雄羊は公国9州の一つコルヌアイユの紋章という訳で、ブルターニュ公国コルヌアイユ州都であることを表します。1697年にルイ14世から下賜されました。

    カンペール焼のタイルの上に、市の紋章が描かれています。上は1547年まで独立国家だったブルターニュ公国の紋章、雄羊は公国9州の一つコルヌアイユの紋章という訳で、ブルターニュ公国コルヌアイユ州都であることを表します。1697年にルイ14世から下賜されました。

  • TGVは、現在inOuiというブランドで展開しています。格安系はOuigoです。<br />モンパルナス駅は不便で、都心から羽田まで行くような感覚なのが玉に瑕です。<br />LGV(高速路線)はル・マンまでですが、在来線も200km走行するので速いです。

    TGVは、現在inOuiというブランドで展開しています。格安系はOuigoです。
    モンパルナス駅は不便で、都心から羽田まで行くような感覚なのが玉に瑕です。
    LGV(高速路線)はル・マンまでですが、在来線も200km走行するので速いです。

  • カンペールはブルトン語で川の合流点を指すKemperが由来で、フランス語ではQuimperと綴ります。不思議な綴りに見えますが、フランス語表記の基本ルールを踏襲するオーソドックスな綴りです。<br />駅前を流れるのはオデ(Odet)川、全長63kmで地域の主要河川です。 写真、はフルー川が合流する地点です。

    カンペールはブルトン語で川の合流点を指すKemperが由来で、フランス語ではQuimperと綴ります。不思議な綴りに見えますが、フランス語表記の基本ルールを踏襲するオーソドックスな綴りです。
    駅前を流れるのはオデ(Odet)川、全長63kmで地域の主要河川です。 写真、はフルー川が合流する地点です。

    オデ川 滝・河川・湖

  • オデ川に架かる人道橋のプランターが本当にきれい!<br />癒されます。

    オデ川に架かる人道橋のプランターが本当にきれい!
    癒されます。

  • カンペールは、フィニステール県の県庁所在地です。英語のフィニッシュと同じ語源で、西の果ての県という意味です。レンヌ/ナントはブルターニュの東端に位置し、レンヌ~カンペールは200km/西端までは260kmも離れています。

    カンペールは、フィニステール県の県庁所在地です。英語のフィニッシュと同じ語源で、西の果ての県という意味です。レンヌ/ナントはブルターニュの東端に位置し、レンヌ~カンペールは200km/西端までは260kmも離れています。

  • 現在ブルターニュは5つの県に分割されていますが、歴史/文化の観点では旧9州で区分する必要があります。レンヌのブルターニュ博物館の展示を見ると、州毎の民族衣装や方言の違いが大きく、ブルトン人と一括りにするのがかなりナンセンスだと分かります。

    現在ブルターニュは5つの県に分割されていますが、歴史/文化の観点では旧9州で区分する必要があります。レンヌのブルターニュ博物館の展示を見ると、州毎の民族衣装や方言の違いが大きく、ブルトン人と一括りにするのがかなりナンセンスだと分かります。

  • 駅から大聖堂まで10分もかかりませんが、オデ川沿いの光景に心を完全に奪われ、かなり時間がかかりました。

    駅から大聖堂まで10分もかかりませんが、オデ川沿いの光景に心を完全に奪われ、かなり時間がかかりました。

  • フランス本土は、パリ42.8度を始め猛暑でしたが、ブルターニュの冷涼さには身体も癒されました。フランスはメートル法発祥の地のなので、度量衡に関わるストレスが一切ないのが嬉しいです。

    フランス本土は、パリ42.8度を始め猛暑でしたが、ブルターニュの冷涼さには身体も癒されました。フランスはメートル法発祥の地のなので、度量衡に関わるストレスが一切ないのが嬉しいです。

  • フランス人ツーリストも、カンペールまで来ると「最果てまで来た」という感覚を覚えるそうです。我々が道東/道北/八重山諸島で感じるような、あの感覚です。

    フランス人ツーリストも、カンペールまで来ると「最果てまで来た」という感覚を覚えるそうです。我々が道東/道北/八重山諸島で感じるような、あの感覚です。

  • カテドラルが見えてきました。<br />オデ川を挟んで左側が県庁、右側がカテドラルと、今も昔も県の中心地です。

    カテドラルが見えてきました。
    オデ川を挟んで左側が県庁、右側がカテドラルと、今も昔も県の中心地です。

  • 川沿いの解説板を見ると、鰻/鮭/鱒etc.魅力的な魚が生息します。<br />こうした人道橋は個人が架設した私有物で、今は公共物となり自由に通行できます。

    川沿いの解説板を見ると、鰻/鮭/鱒etc.魅力的な魚が生息します。
    こうした人道橋は個人が架設した私有物で、今は公共物となり自由に通行できます。

    旧市街 旧市街・古い町並み

  • 川の右岸には、コルヌアイユ州を司教区とするサンコンランタン大聖堂が。5世紀の聖人で、ブルターニュ七大建国聖人の一人です。初代コルヌアイユ司教で、トゥールの大司教区に従属しました。

    川の右岸には、コルヌアイユ州を司教区とするサンコンランタン大聖堂が。5世紀の聖人で、ブルターニュ七大建国聖人の一人です。初代コルヌアイユ司教で、トゥールの大司教区に従属しました。

    サン コランタン大聖堂 寺院・教会

  • カテドラルを中心とした旧市街の向かいは、1909年築ネオ・ルネサンス様式の県庁舎。元々は1680年築の聖カトリーヌホスピス(hopital)が鎮座し、フランス革命以降は県庁舎として接収され、第三共和政下で気品ある建物に改築されました。左隣は、映画館等が入る複合施設。

    カテドラルを中心とした旧市街の向かいは、1909年築ネオ・ルネサンス様式の県庁舎。元々は1680年築の聖カトリーヌホスピス(hopital)が鎮座し、フランス革命以降は県庁舎として接収され、第三共和政下で気品ある建物に改築されました。左隣は、映画館等が入る複合施設。

  • 大聖堂周辺の旧市街は、ゲルマン系地域にありがちな木造伝統家屋の宝庫。後で、周遊します。

    大聖堂周辺の旧市街は、ゲルマン系地域にありがちな木造伝統家屋の宝庫。後で、周遊します。

  • カンペールの3大支流の一つステル川は旧市街(右側)の境界線です。

    カンペールの3大支流の一つステル川は旧市街(右側)の境界線です。

  • ステル川がオデ川に合流します。数ある合流点(ブルトン語kemper)の中でも、街の名前の由来となった合流点です。

    ステル川がオデ川に合流します。数ある合流点(ブルトン語kemper)の中でも、街の名前の由来となった合流点です。

  • 幹線道路に架かる橋の周囲は旧カンペール港で、河口までは15kmです。写真の橋は、1983年に架設されました。ここからロクマリア地区に入ります。

    幹線道路に架かる橋の周囲は旧カンペール港で、河口までは15kmです。写真の橋は、1983年に架設されました。ここからロクマリア地区に入ります。

  • 港の解説板は、伝統工芸のカンペール焼で出来ています。左がフランス語、右がブルトン語です。フランス本土は多民族国家で、地方住民にフランス語が普及したのは第三共和政以降でした。

    港の解説板は、伝統工芸のカンペール焼で出来ています。左がフランス語、右がブルトン語です。フランス本土は多民族国家で、地方住民にフランス語が普及したのは第三共和政以降でした。

  • サンジャン波止場が存在し、新興住宅地と倉庫が併存する光景でした。1983年に現在の橋が架設されることで、物理的に航行できなくなりました。写真右には、1829年築の裁判所です。

    サンジャン波止場が存在し、新興住宅地と倉庫が併存する光景でした。1983年に現在の橋が架設されることで、物理的に航行できなくなりました。写真右には、1829年築の裁判所です。

  • 次の橋の周辺はロクマリア船着場で、左岸の駐車場になっているスティヴェル広場にはカンペール焼の磁器工場が並び、荷揚場も併設されていました。1967年以降の港湾機能は、河口付近のコルニゲル地区に移管されました。広場には墓地もありましたが、フランス革命中に窯用の薪置場となりました。

    次の橋の周辺はロクマリア船着場で、左岸の駐車場になっているスティヴェル広場にはカンペール焼の磁器工場が並び、荷揚場も併設されていました。1967年以降の港湾機能は、河口付近のコルニゲル地区に移管されました。広場には墓地もありましたが、フランス革命中に窯用の薪置場となりました。

  • 前の写真に架かる橋は、2006年に架替えられたものです。先代は1954年の回旋橋で、船の通行に合わせて橋の中心を軸に90度回転しました。

    前の写真に架かる橋は、2006年に架替えられたものです。先代は1954年の回旋橋で、船の通行に合わせて橋の中心を軸に90度回転しました。

  • 橋からの眺め<br />プロヴァンス生まれのピエール・ブスケが1699年にカンペールに定住して、1706年にスティヴェル広場に最初の工房を設立すると、ロクマリアで本格的な陶器生産が始まります。18世紀末にはカンペールに3つの窯元が存在していましたが、20世紀初頭には2つに減少しました。

    橋からの眺め
    プロヴァンス生まれのピエール・ブスケが1699年にカンペールに定住して、1706年にスティヴェル広場に最初の工房を設立すると、ロクマリアで本格的な陶器生産が始まります。18世紀末にはカンペールに3つの窯元が存在していましたが、20世紀初頭には2つに減少しました。

  • 回旋橋の様子は、1636年に旅人のデュビュイソン・オーベネが「木製の橋が回転しながら切り離され、船が通れるようになる亅と記述しました。1726年の洪水で流失して以来、228年ぶりに繋がりました。

    回旋橋の様子は、1636年に旅人のデュビュイソン・オーベネが「木製の橋が回転しながら切り離され、船が通れるようになる亅と記述しました。1726年の洪水で流失して以来、228年ぶりに繋がりました。

  • ロクマリア地区はカンペール発祥の地で、ローマ帝国の支配下でケルト人が都市を発展させました。5~10世紀にブルトン人(ゲルマン民族)が侵入/定着し、併せてキリスト教化され937年にブルターニュ公国が成立しました。<br />※ブルトンとブリテン(イングランド)は同義です。

    ロクマリア地区はカンペール発祥の地で、ローマ帝国の支配下でケルト人が都市を発展させました。5~10世紀にブルトン人(ゲルマン民族)が侵入/定着し、併せてキリスト教化され937年にブルターニュ公国が成立しました。
    ※ブルトンとブリテン(イングランド)は同義です。

  • 1968年に2つの工房が合併し、HB-アンリオとなりました。写真左が現在のブティック兼工場です。右奥がかつて工場で、1991年以来カンペール焼博物館として3世紀以上の歴史を伝えています。

    1968年に2つの工房が合併し、HB-アンリオとなりました。写真左が現在のブティック兼工場です。右奥がかつて工場で、1991年以来カンペール焼博物館として3世紀以上の歴史を伝えています。

    H. B. アンリオ陶器工房 博物館・美術館・ギャラリー

  • 当初はマルセイユ/ルーアン焼の模様に強く影響を受けていましたが、5つの基本色(青/黄/赤/緑/マンガン紫)を使用する唯一の様式を確立し、1860年代に登場した「伝統衣装を着たブルターニュ人」の描写によっても特徴づけられています。

    当初はマルセイユ/ルーアン焼の模様に強く影響を受けていましたが、5つの基本色(青/黄/赤/緑/マンガン紫)を使用する唯一の様式を確立し、1860年代に登場した「伝統衣装を着たブルターニュ人」の描写によっても特徴づけられています。

    陶器博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • ロクマリア地区は西暦1~4世紀にかけてケルトの地域にローマ都市が形成され、川沿いには職人/漁師/商店主が定住していました。その後1022年に、聖母マリアに捧げられた修道院が設立されました。これがブルトン語でロクマリア(マリアに捧げられた場所)と呼ばれる所以です。ノートルダム・デ・ロクマリア教会が修道院教会として建設されました。

    ロクマリア地区は西暦1~4世紀にかけてケルトの地域にローマ都市が形成され、川沿いには職人/漁師/商店主が定住していました。その後1022年に、聖母マリアに捧げられた修道院が設立されました。これがブルトン語でロクマリア(マリアに捧げられた場所)と呼ばれる所以です。ノートルダム・デ・ロクマリア教会が修道院教会として建設されました。

  • 寄進主はコルヌアイユ伯爵で、娘を修道院へ入れるためでした。教会の身廊は、その時の建築で最古の部分です。翼廊/後陣は、1124年に大手のベネディクト修道会傘下になったことをきっかけに増築されます。15世紀には、後陣の改築とファサードが追加されます。

    寄進主はコルヌアイユ伯爵で、娘を修道院へ入れるためでした。教会の身廊は、その時の建築で最古の部分です。翼廊/後陣は、1124年に大手のベネディクト修道会傘下になったことをきっかけに増築されます。15世紀には、後陣の改築とファサードが追加されます。

  • 祭器がカンペール焼というのが、乙です。

    祭器がカンペール焼というのが、乙です。

  • 木造船底天井は、ノルマンディ/ブルターニュらしさの表れです。

    木造船底天井は、ノルマンディ/ブルターニュらしさの表れです。

  • 教会の東壁は、修道院の回廊の一部でした。奥に見えるのは1646年に改築された修道院。

    教会の東壁は、修道院の回廊の一部でした。奥に見えるのは1646年に改築された修道院。

  • 中庭には、12世紀の回廊の一部が残っています。14世紀には男性不在となり、女子修道院となります。<br />

    中庭には、12世紀の回廊の一部が残っています。14世紀には男性不在となり、女子修道院となります。

  • 修道院は1646年から古典様式で建設され、現在の回廊は1669年に増築されました。

    修道院は1646年から古典様式で建設され、現在の回廊は1669年に増築されました。

  • 中へ入ります。18世紀には新たな修道院長館が完成し、建築群が完成しました。フランス革命中の1792年に軍に接収され回廊東側等が破壊されました。現在は、アパート等世俗的用途で使用されます。

    中へ入ります。18世紀には新たな修道院長館が完成し、建築群が完成しました。フランス革命中の1792年に軍に接収され回廊東側等が破壊されました。現在は、アパート等世俗的用途で使用されます。

  • 中世の修道院庭園<br />ブルターニュ公妃アンヌ(1477-1514)の時代の精神を再現しています。

    中世の修道院庭園
    ブルターニュ公妃アンヌ(1477-1514)の時代の精神を再現しています。

  • ジャガイモ/米といった他大陸からの植物が伝来する以前は、食料/薬/衣服といった基本的なニーズを満たすために、地元の植物に頼っていました。これは、中世の庭園を構成する3つの重要な要素です。<br />食料生産:栄養価の高い根/葉菜/果物/芳香植物、そして大麦/モモ豆/マスタードなどの園芸作物が、当時の基本的な食卓を彩っていました。

    ジャガイモ/米といった他大陸からの植物が伝来する以前は、食料/薬/衣服といった基本的なニーズを満たすために、地元の植物に頼っていました。これは、中世の庭園を構成する3つの重要な要素です。
    食料生産:栄養価の高い根/葉菜/果物/芳香植物、そして大麦/モモ豆/マスタードなどの園芸作物が、当時の基本的な食卓を彩っていました。

  • 薬草園<br />修道士たちは、周辺地域から採取した植物を使って薬を調合していました。 実際に栽培されていたのは、希少種や外来種(ボリジ、セントジョーンズワートなど)のみでした。写真はロバアザミで、葉の汁は皮膚潰瘍の治療、花穂は苞葉を取り除いて生食されました。ロバの大好物なのが、名前の由来です。

    薬草園
    修道士たちは、周辺地域から採取した植物を使って薬を調合していました。 実際に栽培されていたのは、希少種や外来種(ボリジ、セントジョーンズワートなど)のみでした。写真はロバアザミで、葉の汁は皮膚潰瘍の治療、花穂は苞葉を取り除いて生食されました。ロバの大好物なのが、名前の由来です。

  • 衣服用の染料<br />亜麻/麻/紅花(染料)等を栽培しました。

    衣服用の染料
    亜麻/麻/紅花(染料)等を栽培しました。

  • 中世の庭園は、ニーズを満たす以前に、地獄を象徴する外の世界とは対照的な楽園の象徴でした。井戸や中央の噴水は、エデンの園の四つの川の源流となる清らかな水源を象徴しています。それぞれの植物にも象徴的な意味があり、ユリのような白い花は聖母マリアを連想させます。

    中世の庭園は、ニーズを満たす以前に、地獄を象徴する外の世界とは対照的な楽園の象徴でした。井戸や中央の噴水は、エデンの園の四つの川の源流となる清らかな水源を象徴しています。それぞれの植物にも象徴的な意味があり、ユリのような白い花は聖母マリアを連想させます。

  • アンリオ陶器工房<br />伝統工芸としてのカンペール焼を継承する唯一の窯元です。

    アンリオ陶器工房
    伝統工芸としてのカンペール焼を継承する唯一の窯元です。

  • 成形が手製だったり、食器等の定型物も筆入れは手書きなので、かなりの価格ですが、それ以上の品質です。土産物店で売っているモドキとは別次元です。黄色のアクセントが絶妙です。実用品ですが、使うのはもったいないです。

    成形が手製だったり、食器等の定型物も筆入れは手書きなので、かなりの価格ですが、それ以上の品質です。土産物店で売っているモドキとは別次元です。黄色のアクセントが絶妙です。実用品ですが、使うのはもったいないです。

  • ここから15分歩くと、カルフールのショッピングセンター。食材仕入れに最適です。旧市街からのバスの連絡も良いです。

    ここから15分歩くと、カルフールのショッピングセンター。食材仕入れに最適です。旧市街からのバスの連絡も良いです。

  • 道路標識<br />上がフランス語、下がブルトン語です。<br />では、旧市街の中心へ移動します。

    道路標識
    上がフランス語、下がブルトン語です。
    では、旧市街の中心へ移動します。

  • 聖コランタン大聖堂<br />地元出身の聖人にして初代司教の聖コランタン(カンペールのコランタン)と結び付けられ、伝承が正しいならば5世紀前半の創立です。伝説の人物グラドロン王がコランタンの奇跡を見て、聖堂周辺を寄進したと言われています。<br />現在の建物は1239年に建造が始まり、戦争と資金難を経て1856年に完成します。<br />

    聖コランタン大聖堂
    地元出身の聖人にして初代司教の聖コランタン(カンペールのコランタン)と結び付けられ、伝承が正しいならば5世紀前半の創立です。伝説の人物グラドロン王がコランタンの奇跡を見て、聖堂周辺を寄進したと言われています。
    現在の建物は1239年に建造が始まり、戦争と資金難を経て1856年に完成します。

  • 尖塔の高さは75mで、装飾等もあっさり目です。ゴシック様式で統一されています。ナポレオンと教皇庁のコンコルダートで、コルヌアイユ司教区はカンペールと の2つに分割されます。ブルターニュはカトリックが強い保守的な地域ですが、大まかに教皇系の教会/領主寄進系の修道会勢力に大別されます。

    尖塔の高さは75mで、装飾等もあっさり目です。ゴシック様式で統一されています。ナポレオンと教皇庁のコンコルダートで、コルヌアイユ司教区はカンペールと の2つに分割されます。ブルターニュはカトリックが強い保守的な地域ですが、大まかに教皇系の教会/領主寄進系の修道会勢力に大別されます。

  • サンコンランタン広場<br />角の建物はギャラリー・アングラレで、カンペール初の百貨店です。1900年に建てられたこの建物は、鉄やコンクリートといった現代的な素材を用い、ガラス張りのキャノピーが通りに面した展示スペースを最大限に活用しています。<br />

    サンコンランタン広場
    角の建物はギャラリー・アングラレで、カンペール初の百貨店です。1900年に建てられたこの建物は、鉄やコンクリートといった現代的な素材を用い、ガラス張りのキャノピーが通りに面した展示スペースを最大限に活用しています。

    サン コランタン広場 広場・公園

  • 2軒隣の建物は旧オテル・デュ・リオン・ドールで、19世紀以前はオーベルジュ・ド・ラ・グランメゾンとひたすら宿屋として営業していた歴史的建造物です。1947年以降は商店主が所有し、カンペール焼や美術品を販売しています。2軒に見えて、実は1軒です。<br /><br />

    2軒隣の建物は旧オテル・デュ・リオン・ドールで、19世紀以前はオーベルジュ・ド・ラ・グランメゾンとひたすら宿屋として営業していた歴史的建造物です。1947年以降は商店主が所有し、カンペール焼や美術品を販売しています。2軒に見えて、実は1軒です。

  • グランメゾンやリオン・ドールは、アンシャンレジウム(封建時代)では何処にでもあるホテル名でした。遅くとも1594年には、オーベルジュ・ド・ラ・グランメゾンが此処で営業していました。リオン・ドール(黄金の獅子)は元々オデ川沿いで営業し、1686年にはヴェルサイユへ向かう途中のシャム大使が宿泊する等多くのVIPが利用しました。フランス革命中にグランメゾンは移転し、代わりにリオンドールが所有しました。19世紀のリオン・ドールは、馬車の中継地としても機能していました。

    グランメゾンやリオン・ドールは、アンシャンレジウム(封建時代)では何処にでもあるホテル名でした。遅くとも1594年には、オーベルジュ・ド・ラ・グランメゾンが此処で営業していました。リオン・ドール(黄金の獅子)は元々オデ川沿いで営業し、1686年にはヴェルサイユへ向かう途中のシャム大使が宿泊する等多くのVIPが利用しました。フランス革命中にグランメゾンは移転し、代わりにリオンドールが所有しました。19世紀のリオン・ドールは、馬車の中継地としても機能していました。

  • カンペールの名称は11世紀の文献に登場し、ロクマリア地区に代わって発展を始めます。世俗君主(領主)としての司教の影響下で、ブルターニュ公国と修道会勢力との軋轢を抱えて発展します。広場には、木靴/レース/鞍職人が入居しました。聖コランタン広場は町の中心として、市が毎週土曜日に開催されました。

    カンペールの名称は11世紀の文献に登場し、ロクマリア地区に代わって発展を始めます。世俗君主(領主)としての司教の影響下で、ブルターニュ公国と修道会勢力との軋轢を抱えて発展します。広場には、木靴/レース/鞍職人が入居しました。聖コランタン広場は町の中心として、市が毎週土曜日に開催されました。

  • 司教館<br />大聖堂とオデ川の間に位置するL字型の建物で、ファサードは1645-47年にかけて改築されました。上階には教会会議場があり、大聖堂と廊下で繋がっています。右側には、螺旋階段のある1507年築のロアン塔があり、ゴシック様式の装飾が施されています。現在は、県立博物館となっています。

    司教館
    大聖堂とオデ川の間に位置するL字型の建物で、ファサードは1645-47年にかけて改築されました。上階には教会会議場があり、大聖堂と廊下で繋がっています。右側には、螺旋階段のある1507年築のロアン塔があり、ゴシック様式の装飾が施されています。現在は、県立博物館となっています。

    県立ブルターニュ民族博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 入口を入ると中庭があります。正面が1507年築のロアン塔で、塔の左部分は1776年に建築されました。司教館はコルヌアイユ司教の主要な住居で、城壁で囲まれた都市の領主も兼ねていました。司教は大勢の使用人を抱えていました。中庭は、1864~66年にかけて建設された回廊(2面)と司教館(L字)で四方を囲まれています。<br />

    入口を入ると中庭があります。正面が1507年築のロアン塔で、塔の左部分は1776年に建築されました。司教館はコルヌアイユ司教の主要な住居で、城壁で囲まれた都市の領主も兼ねていました。司教は大勢の使用人を抱えていました。中庭は、1864~66年にかけて建設された回廊(2面)と司教館(L字)で四方を囲まれています。

  • ロアン塔の螺旋階段は、一見の価値ありです。

    ロアン塔の螺旋階段は、一見の価値ありです。

  • 回廊は、コルドリエ修道院(13世紀)を模して造られ、奥には司教の庭(現在は市民開放)が広がりました。司教館1階からは、回廊を伝って大聖堂内へアクセスします。司教は絶大な権力を持ちますが、聖職者は配偶者や子供を設けられないので、財産を遺すのではなく大聖堂や司教館に注ぎ込みました。

    回廊は、コルドリエ修道院(13世紀)を模して造られ、奥には司教の庭(現在は市民開放)が広がりました。司教館1階からは、回廊を伝って大聖堂内へアクセスします。司教は絶大な権力を持ちますが、聖職者は配偶者や子供を設けられないので、財産を遺すのではなく大聖堂や司教館に注ぎ込みました。

  • サンドニと思った方は玄人。<br />でも違います。<br />切断された頭部を担った聖トレメール像<br />6世紀に殉教したブルターニュ限定の聖人です。

    サンドニと思った方は玄人。
    でも違います。
    切断された頭部を担った聖トレメール像
    6世紀に殉教したブルターニュ限定の聖人です。

  • カルバリー(16世紀)<br />ピエタと同じく宗教描写の定番テーマで、キリストの磔シーンです。両脇に罪人の磔を伴うことも。

    カルバリー(16世紀)
    ピエタと同じく宗教描写の定番テーマで、キリストの磔シーンです。両脇に罪人の磔を伴うことも。

  • 聖ペテロ

    聖ペテロ

  • 裏面は使徒ヨハネ<br />双子像になっている不思議な作品。<br />ヨハネは愛嬌たっぷり。

    裏面は使徒ヨハネ
    双子像になっている不思議な作品。
    ヨハネは愛嬌たっぷり。

  • 城壁<br />カンペール旧市街は城壁に囲まれ、6つの門がありました。写真は、かつて聖カトリーヌ門があった場所。門は2つの塔に挟まれ、オデ川が天然の堀となり跳ね橋が架かります。政情が不安になると聖カトリーヌ門/メダル門の2つのみが開きました。反時計回りに城壁を一周します。

    城壁
    カンペール旧市街は城壁に囲まれ、6つの門がありました。写真は、かつて聖カトリーヌ門があった場所。門は2つの塔に挟まれ、オデ川が天然の堀となり跳ね橋が架かります。政情が不安になると聖カトリーヌ門/メダル門の2つのみが開きました。反時計回りに城壁を一周します。

  • 13世紀に築かれた全長1500m城壁は、そのうちの600m程が現存します。<br />司教館城壁側のアーケードは、ポン・ラベにあるカルメル会修道院(14世紀)の旧回廊に着想を得ています。1776年に城壁を取り壊して建設しました。

    13世紀に築かれた全長1500m城壁は、そのうちの600m程が現存します。
    司教館城壁側のアーケードは、ポン・ラベにあるカルメル会修道院(14世紀)の旧回廊に着想を得ています。1776年に城壁を取り壊して建設しました。

  • 南東角にはペナレン塔が存在し、周囲に睨みを利かせていました。塔は破棄されています。<br />城壁は北へ折れます。

    南東角にはペナレン塔が存在し、周囲に睨みを利かせていました。塔は破棄されています。
    城壁は北へ折れます。

  • デ・レゲール門<br />聖コランタン広場まで、フルー通りが通っていました。昔のフルー川の流路で、今は埋立てられています。フルー通りはデ・レゲール通りと名前を変えて東進します。<br />

    デ・レゲール門
    聖コランタン広場まで、フルー通りが通っていました。昔のフルー川の流路で、今は埋立てられています。フルー通りはデ・レゲール通りと名前を変えて東進します。

  • デ・レゲール門から先も城壁が残り、地形に沿って坂を上ります。城壁は教会領を囲みましたが、建設はブルターニュ公ジャン1世(1237-86)/ジャン2世(1286-1305年)の治世中に建てられました。

    デ・レゲール門から先も城壁が残り、地形に沿って坂を上ります。城壁は教会領を囲みましたが、建設はブルターニュ公ジャン1世(1237-86)/ジャン2世(1286-1305年)の治世中に建てられました。

  • 上の写真で右折して城壁から逸れると、ブレストへ通じる鉄道路線と交わります。<br />城壁へ戻ります。

    上の写真で右折して城壁から逸れると、ブレストへ通じる鉄道路線と交わります。
    城壁へ戻ります。

  • ネーヴ塔<br />カンペールに現存する唯一の塔で、14世紀に建てられました。15世紀には、兵器の進化に伴い砲門が設置されました。14世紀に州総督を務めたネーヴ男爵に由来します。

    ネーヴ塔
    カンペールに現存する唯一の塔で、14世紀に建てられました。15世紀には、兵器の進化に伴い砲門が設置されました。14世紀に州総督を務めたネーヴ男爵に由来します。

  • 城壁の上を歩ける貴重な区間。

    城壁の上を歩ける貴重な区間。

  • カンペール市は、美しい庭園の数々を売りにしています。住民だけでなくツーリストも恩恵にあずかれます。ネーヴ塔周辺の庭園は、もともと大聖堂の参事会員が所有する地所した。

    カンペール市は、美しい庭園の数々を売りにしています。住民だけでなくツーリストも恩恵にあずかれます。ネーヴ塔周辺の庭園は、もともと大聖堂の参事会員が所有する地所した。

  • 地中海の平和の庭<br />平和を象徴するオリーブの木をはじめ、地中海特有の植物が植えられています。南向きの斜面と石灰質の土壌が、植生を支えています。

    地中海の平和の庭
    平和を象徴するオリーブの木をはじめ、地中海特有の植物が植えられています。南向きの斜面と石灰質の土壌が、植生を支えています。

  • 1854年に、ユルシュリーヌ会(後述)の修道女たちがヴェルデレ通りに居を構え、裏手に庭園を造成しました。1911年以降は神学校を経て、1977年に市が土地を購入しました。

    1854年に、ユルシュリーヌ会(後述)の修道女たちがヴェルデレ通りに居を構え、裏手に庭園を造成しました。1911年以降は神学校を経て、1977年に市が土地を購入しました。

  • 庭園には市立公文書館と老人ホームが隣接します。老後に入居したいと思わせる環境です。

    庭園には市立公文書館と老人ホームが隣接します。老後に入居したいと思わせる環境です。

  • 西岸海洋性気候ということは留意すべきですが、北緯47度に位置しサハリンと同緯度とは思えない光景です。

    西岸海洋性気候ということは留意すべきですが、北緯47度に位置しサハリンと同緯度とは思えない光景です。

  • こんな感じで、ブルターニュの伝統様式をオマージュした日当たりの良い建物。

    こんな感じで、ブルターニュの伝統様式をオマージュした日当たりの良い建物。

  • 時間泥棒の心地よい空間でした。

    時間泥棒の心地よい空間でした。

  • 北端から東方向へ向きを変えると、トゥルビー門がありました。ブレストから通じる街道が城壁内を通って、司教館横の聖カトリーヌ門へ抜ける幹線道路です。

    北端から東方向へ向きを変えると、トゥルビー門がありました。ブレストから通じる街道が城壁内を通って、司教館横の聖カトリーヌ門へ抜ける幹線道路です。

  • 門を守るトゥルビー塔は、16世紀までコルヌアイユ総督の住居としても使用されました。城壁はラ・トゥール・ドーヴェルニュ大学のフェンスとして今も使われ、聖アントワーヌ門まで続きます。

    門を守るトゥルビー塔は、16世紀までコルヌアイユ総督の住居としても使用されました。城壁はラ・トゥール・ドーヴェルニュ大学のフェンスとして今も使われ、聖アントワーヌ門まで続きます。

  • 6つの門に赤丸を付けました。黄線は城壁の残存部分です。

    6つの門に赤丸を付けました。黄線は城壁の残存部分です。

  • 当時は、幅15mの堀と土塁がはだかり、跳ね橋を渡ってトゥルビー門を通過しました。アジサイと白い花が、とても映えます。

    当時は、幅15mの堀と土塁がはだかり、跳ね橋を渡ってトゥルビー門を通過しました。アジサイと白い花が、とても映えます。

  • 城壁の向かいは広場になっており、1748年~19世紀末まで土曜日に家畜市場が開かれました。元々は城壁内で行われていましたが、用地確保と衛生上の問題で移転しました。スイス連隊が城壁外の土塁を崩して造成しましたが、冬になると泥溜まりとなり豚が楽しそうに戯れたそうです。

    城壁の向かいは広場になっており、1748年~19世紀末まで土曜日に家畜市場が開かれました。元々は城壁内で行われていましたが、用地確保と衛生上の問題で移転しました。スイス連隊が城壁外の土塁を崩して造成しましたが、冬になると泥溜まりとなり豚が楽しそうに戯れたそうです。

  • 聖アントワーヌ門<br />この先、城壁跡は道路となっています。ここが最高地点で、ステル川が刻んだ谷に沿って城壁も下りました。

    聖アントワーヌ門
    この先、城壁跡は道路となっています。ここが最高地点で、ステル川が刻んだ谷に沿って城壁も下りました。

  • カンペールの歴史<br />先住民のケルト人は、ローマの支配/影響を受けたガロ・ロマン時代を築きます。5世紀以降の民族大移動でブルトン人が先住民を駆逐、メロヴィング朝クロヴィス王のキリスト教改宗に伴いキリスト教化され、カンペールではコルヌアイユ伯が領主として統治し、修道会へ土地を寄進します。

    カンペールの歴史
    先住民のケルト人は、ローマの支配/影響を受けたガロ・ロマン時代を築きます。5世紀以降の民族大移動でブルトン人が先住民を駆逐、メロヴィング朝クロヴィス王のキリスト教改宗に伴いキリスト教化され、カンペールではコルヌアイユ伯が領主として統治し、修道会へ土地を寄進します。

  • 938年にブルターニュ公国が建国されますが、コルヌアイユ伯は独立を保ちます。しかし、コルヌアイユ伯オエル2世がブルターニュ公(在1066-84)として即位/死去することで公国に併合され、直轄領となります。

    938年にブルターニュ公国が建国されますが、コルヌアイユ伯は独立を保ちます。しかし、コルヌアイユ伯オエル2世がブルターニュ公(在1066-84)として即位/死去することで公国に併合され、直轄領となります。

  • 百年戦争の局地戦であるブルターニュ継承戦争では、1344年の包囲戦で親仏派シャルル・ド・ブロワに占領され、1400人の住民が虐殺されます。1364年にシャルルが戦死したことで、ブルターニュ公ジャン4世が解放しました。

    百年戦争の局地戦であるブルターニュ継承戦争では、1344年の包囲戦で親仏派シャルル・ド・ブロワに占領され、1400人の住民が虐殺されます。1364年にシャルルが戦死したことで、ブルターニュ公ジャン4世が解放しました。

  • ステル川です。川沿いには、多くの水車小屋が建てられました。小麦は水車で粉挽きして初めて食材となるので、貧富の差に関係なく必須の工業分野でした。経済的/防火の観点から、パン焼き窯も共同でした。支配者は水車と窯を掌握することで、支配権と財源を掌握しました。<br /><br />

    ステル川です。川沿いには、多くの水車小屋が建てられました。小麦は水車で粉挽きして初めて食材となるので、貧富の差に関係なく必須の工業分野でした。経済的/防火の観点から、パン焼き窯も共同でした。支配者は水車と窯を掌握することで、支配権と財源を掌握しました。

  • 1547年に公国がフランス王国へ併合されても、地域総督/城壁内は司教という統治機構は継承されます。市内(城壁内)の行政は市民の代表が担当し、1704年以降は市長職が設置されます。フランス革命以降は封建領主は廃止され、王領/教会領の区別は無くなり、カンペール市が形成され、県知事/市長がトップとなります。<br />カンペールのコミューン面積は僅か1.9平方kmで、ロクマリア等は新しいコミューンとして独立します。

    1547年に公国がフランス王国へ併合されても、地域総督/城壁内は司教という統治機構は継承されます。市内(城壁内)の行政は市民の代表が担当し、1704年以降は市長職が設置されます。フランス革命以降は封建領主は廃止され、王領/教会領の区別は無くなり、カンペール市が形成され、県知事/市長がトップとなります。
    カンペールのコミューン面積は僅か1.9平方kmで、ロクマリア等は新しいコミューンとして独立します。

  • メダール橋の先にはメダール門が建ちました。現在はメダール広場となっています(写真右)。ステル川に架かる跳ね橋と2つの落格柵で守られていました。6つの門の中で、最も重要な門です。メダール広場では、乳製品の市が立ちました。

    メダール橋の先にはメダール門が建ちました。現在はメダール広場となっています(写真右)。ステル川に架かる跳ね橋と2つの落格柵で守られていました。6つの門の中で、最も重要な門です。メダール広場では、乳製品の市が立ちました。

  • 現在のメダール橋から南を眺めると、現在も優雅なコーベル式の見張り塔が残っています。絵になる光景です。<br />

    現在のメダール橋から南を眺めると、現在も優雅なコーベル式の見張り塔が残っています。絵になる光景です。

  • メダール橋のステル川右岸はテール・ド・デューク広場で、旧市街の2大繁華街の一つです。訳すと「ブルターニュ大公の土地」という意味で、司教が領主の城壁内と対峙する構造です。支配者同士の対立は庶民には関係なく、メダール門は2大繁華街に隣接したスポットとして、最も重要な場所でした。<br />城壁へ戻ります。

    メダール橋のステル川右岸はテール・ド・デューク広場で、旧市街の2大繁華街の一つです。訳すと「ブルターニュ大公の土地」という意味で、司教が領主の城壁内と対峙する構造です。支配者同士の対立は庶民には関係なく、メダール門は2大繁華街に隣接したスポットとして、最も重要な場所でした。
    城壁へ戻ります。

  • 城壁はステル川沿いに延び、コルドリエ修道院の2面を囲みました。城壁は院内の南西角を折れて、オデ川沿いに延びます。修道院は、現在市場となり、ステル川も市場付近は写真のように暗渠となっています。

    城壁はステル川沿いに延び、コルドリエ修道院の2面を囲みました。城壁は院内の南西角を折れて、オデ川沿いに延びます。修道院は、現在市場となり、ステル川も市場付近は写真のように暗渠となっています。

  • オデ川を遡ると、聖フランソワ橋が見えます。この橋の左側に聖フランソワ門が設置されました。これで6つの門を全て網羅しました。<br />では、城壁内を見てみます。

    オデ川を遡ると、聖フランソワ橋が見えます。この橋の左側に聖フランソワ門が設置されました。これで6つの門を全て網羅しました。
    では、城壁内を見てみます。

  • ケレオン通り<br />聖コランタン広場を挟んで大聖堂のファサードに面したケレオン(Kéréon)通りは、中世からカンペールのメインストリートであり続けます。名称は靴/ブーツ職人のギルドに由来しています。<br />

    ケレオン通り
    聖コランタン広場を挟んで大聖堂のファサードに面したケレオン(Kéréon)通りは、中世からカンペールのメインストリートであり続けます。名称は靴/ブーツ職人のギルドに由来しています。

  • ケレオン通りは、メダール門を経てテールドデューク広場へ通じ、2つの繁華街を結ぶ一大商業地域です。両者に共通するのは木骨造りの家々が並ぶことで、16-19世紀に建てられた73戸の大半が位置します。

    ケレオン通りは、メダール門を経てテールドデューク広場へ通じ、2つの繁華街を結ぶ一大商業地域です。両者に共通するのは木骨造りの家々が並ぶことで、16-19世紀に建てられた73戸の大半が位置します。

  • 木骨造りの家屋は、14~19世紀にかけての建築技術の生き証人です。間口が狭い商家として建設され、1階は店舗とキッチン、上階はリビングと寝室が占めており、屋根裏にも部屋があります。

    木骨造りの家屋は、14~19世紀にかけての建築技術の生き証人です。間口が狭い商家として建設され、1階は店舗とキッチン、上階はリビングと寝室が占めており、屋根裏にも部屋があります。

  • 10番地の住宅は、この通りで最古かつ文化的価値が大きな建築です。立地を活かして、今も昔も変わらずに現役店舗として利用されているのも大きな特徴です。

    10番地の住宅は、この通りで最古かつ文化的価値が大きな建築です。立地を活かして、今も昔も変わらずに現役店舗として利用されているのも大きな特徴です。

  • 壁に漆喰(石灰/粘土/石片/藁)を使用することで、毛細管作用によって木材を水しぶきや上昇水から保護し、断熱性/防音性にも優れます。柱は一本が複数階を跨ぐことはないので、短くて済むので環境負荷も小さいです。

    壁に漆喰(石灰/粘土/石片/藁)を使用することで、毛細管作用によって木材を水しぶきや上昇水から保護し、断熱性/防音性にも優れます。柱は一本が複数階を跨ぐことはないので、短くて済むので環境負荷も小さいです。

  • 持ち送り(コーベル)床<br />上の階へ行くほど床が張り出しているのが分かります。おかげで店舗入口に雨が掛かりにくく、床面積も増えます。一方で狭い通りの日差しが遮られ、火災時に延焼しやすいこともあり、市長は1762年の大火事で禁止します(フランス革命で撤廃)。

    持ち送り(コーベル)床
    上の階へ行くほど床が張り出しているのが分かります。おかげで店舗入口に雨が掛かりにくく、床面積も増えます。一方で狭い通りの日差しが遮られ、火災時に延焼しやすいこともあり、市長は1762年の大火事で禁止します(フランス革命で撤廃)。

  • モベール(Maubert)広場<br />道幅が広くなる程度で、植込みとベンチが設置されています。左折して、聖フランソワ門方向へ向かいます。

    モベール(Maubert)広場
    道幅が広くなる程度で、植込みとベンチが設置されています。左折して、聖フランソワ門方向へ向かいます。

  • 通りにはこんなかわいい伝統家屋も。聖フランソワ門で肉屋と家畜の市が開かれると、スペース不足のため聖フランソワ通りやモベール広場まで牛の血をぜた堆肥/屠殺時の残骸が積み重なり、耐え難い悪臭や疫病の原因となりました。そのためトュルビー門周辺を整備して1748年に市場を移動させました。

    通りにはこんなかわいい伝統家屋も。聖フランソワ門で肉屋と家畜の市が開かれると、スペース不足のため聖フランソワ通りやモベール広場まで牛の血をぜた堆肥/屠殺時の残骸が積み重なり、耐え難い悪臭や疫病の原因となりました。そのためトュルビー門周辺を整備して1748年に市場を移動させました。

  • 更に進むと、巨大な伝統建築が。実は、中に市場が入っています。斜め向かいにはカルフールも入っているので、完璧な買い物スポットです。

    更に進むと、巨大な伝統建築が。実は、中に市場が入っています。斜め向かいにはカルフールも入っているので、完璧な買い物スポットです。

  • 住宅地も含めて、元々はコルドリエ修道院の敷地でしたが、行政は1847年に更地にして市場用の建物を建設しました。1976年に焼失し、現在の建物は1979年に再建されたものです。

    住宅地も含めて、元々はコルドリエ修道院の敷地でしたが、行政は1847年に更地にして市場用の建物を建設しました。1976年に焼失し、現在の建物は1979年に再建されたものです。

  • 一方の端にはバター/卵/家禽、もう一方の端に魚/肉売り場、中央と両端3列にはベンチを設置、右側は穀物、左側には野菜売り場を配置しました。写真のように場外にも売り場が拡張します。<br />市場の西側はステル川に接岸しているので、市場へのアクセス路/屠殺場の下水路として利用されました。またステル川に橋を架けて、隣接するテールドデューク広場とも地続きになり、利便性が積み重なって現在に至るまで盛況です。<br />

    一方の端にはバター/卵/家禽、もう一方の端に魚/肉売り場、中央と両端3列にはベンチを設置、右側は穀物、左側には野菜売り場を配置しました。写真のように場外にも売り場が拡張します。
    市場の西側はステル川に接岸しているので、市場へのアクセス路/屠殺場の下水路として利用されました。またステル川に橋を架けて、隣接するテールドデューク広場とも地続きになり、利便性が積み重なって現在に至るまで盛況です。

  • 現在の市場<br />大地の恵みが多いです。あと、寿司屋とクレープ屋が入っていました。

    現在の市場
    大地の恵みが多いです。あと、寿司屋とクレープ屋が入っていました。

  • 魚屋は大盛況。

    魚屋は大盛況。

  • 自然光がたっぷり入る明るいスペース。木のぬくもりが心地よいです。

    自然光がたっぷり入る明るいスペース。木のぬくもりが心地よいです。

  • コルドリエ修道院<br />コルドリエはアッシジの聖フランチェスコの弟子で、1232年にライノー司教によって設立されました。ブルターニュ地方で最初のフランシスコ会修道院でした。敷地には、教会/臨終礼拝堂/回廊/庭園/墓地を伴いました。

    コルドリエ修道院
    コルドリエはアッシジの聖フランチェスコの弟子で、1232年にライノー司教によって設立されました。ブルターニュ地方で最初のフランシスコ会修道院でした。敷地には、教会/臨終礼拝堂/回廊/庭園/墓地を伴いました。

  • フランス革命中に荒廃した修道院は1845年に取り壊され、北半分が市場/南半分が住宅地として開発されました。2枚のスケッチは、取り壊しが決まった1845年の光景です。

    フランス革命中に荒廃した修道院は1845年に取り壊され、北半分が市場/南半分が住宅地として開発されました。2枚のスケッチは、取り壊しが決まった1845年の光景です。

  • コルドリエ修道院墓地の墓石<br />県立博物館に展示してあったものです。

    コルドリエ修道院墓地の墓石
    県立博物館に展示してあったものです。

  • ブール広場<br />フランス語でバターを意味するように、冬用のバターが陶器の壺に入れられて売られていた場所です。保存を良くするために塩をたっぷりと加えられていました。現在では、クレープ屋のテラス席が占めているために、クレープ広場と改名しては?という意見もあります。

    ブール広場
    フランス語でバターを意味するように、冬用のバターが陶器の壺に入れられて売られていた場所です。保存を良くするために塩をたっぷりと加えられていました。現在では、クレープ屋のテラス席が占めているために、クレープ広場と改名しては?という意見もあります。

  • 上の写真で真ん中に写っていた家のファサード。<br />コーニス床が突き出して、店舗部分の屋根のように機能しています。構造的に1mまで張り出せます。側面は、漆喰ではなく石材を使用しているのは、延焼防止のためです。広場拡張で家屋が取り壊されたために、目にできるようになりました。

    上の写真で真ん中に写っていた家のファサード。
    コーニス床が突き出して、店舗部分の屋根のように機能しています。構造的に1mまで張り出せます。側面は、漆喰ではなく石材を使用しているのは、延焼防止のためです。広場拡張で家屋が取り壊されたために、目にできるようになりました。

  • 2つ上の写真では左側、広場と通りの角に面したお宅。やはりファサードは漆喰ですが、側面は石材です。1762年の火事の記憶が、先人を動かしたためです。

    2つ上の写真では左側、広場と通りの角に面したお宅。やはりファサードは漆喰ですが、側面は石材です。1762年の火事の記憶が、先人を動かしたためです。

  • 広場の奥の道を進むと、旧イエズス会のノートルダム・ミセルコルド礼拝堂といった建物があります。礼拝堂は1768年、その他は1666年築です。現在は、トゥール・ドーベルニュ高校校舎となっています。

    広場の奥の道を進むと、旧イエズス会のノートルダム・ミセルコルド礼拝堂といった建物があります。礼拝堂は1768年、その他は1666年築です。現在は、トゥール・ドーベルニュ高校校舎となっています。

  • エリーフルロン通り<br />トゥルビー門から入って、聖コランタン広場が奥に見えます。

    エリーフルロン通り
    トゥルビー門から入って、聖コランタン広場が奥に見えます。

  • 観光案内所もあります。ツーリストマップは、大変役に立ちます。<br />城壁外のテールドデューク広場へ行きます。

    観光案内所もあります。ツーリストマップは、大変役に立ちます。
    城壁外のテールドデューク広場へ行きます。

  • こちらも伝統家屋が多いです。

    こちらも伝統家屋が多いです。

  • 19世紀の様子<br />テラス席用のパラソル以外、あまり変化していません。

    19世紀の様子
    テラス席用のパラソル以外、あまり変化していません。

  • 立ち飲みできる店等、ローカル感も強いです。

    立ち飲みできる店等、ローカル感も強いです。

  • 市場まで至近距離というのも大きいです。

    市場まで至近距離というのも大きいです。

  • ケレオン通りは、シャポールージュ通りと名前を変えます。

    ケレオン通りは、シャポールージュ通りと名前を変えます。

  • ファルキルク通りと交差すると、左にサン・マチュー教会/右には図書館が建ちます。教会前のサン・マチュー広場ではジャガイモ市場が立ちました。

    ファルキルク通りと交差すると、左にサン・マチュー教会/右には図書館が建ちます。教会前のサン・マチュー広場ではジャガイモ市場が立ちました。

  • サンマチュー教会<br />12使徒のひとり聖マタイの名前を冠した教会です。フランス革命で破壊されましたが、1856年にネオゴシック様式で再建されます。

    サンマチュー教会
    12使徒のひとり聖マタイの名前を冠した教会です。フランス革命で破壊されましたが、1856年にネオゴシック様式で再建されます。

  • ステンドグラスは16世紀のものが再利用されています。ブル・レ・ブルュ通りは馬市場の場所です。これらの祭りでは、馬は広場の周りに異なるカテゴリーに分けられていました。

    ステンドグラスは16世紀のものが再利用されています。ブル・レ・ブルュ通りは馬市場の場所です。これらの祭りでは、馬は広場の周りに異なるカテゴリーに分けられていました。

  • 図書館のファサードはモダンですが、裏から眺めると別の顔を見せます。<br />実は1621年に創設されたウルスュリーヌ修道院を利用しています。緑地部分は、かつての回廊です。貴族の寄進を重ねて寄宿学校と神学校も併設され、1623年に東翼/1760年には南翼が建築されます。東翼/南翼のみの姿です。

    図書館のファサードはモダンですが、裏から眺めると別の顔を見せます。
    実は1621年に創設されたウルスュリーヌ修道院を利用しています。緑地部分は、かつての回廊です。貴族の寄進を重ねて寄宿学校と神学校も併設され、1623年に東翼/1760年には南翼が建築されます。東翼/南翼のみの姿です。

  • 壁には、修道院時代の紋章が残ります。フランス革命で刑務所/兵舎として接収されました。1832年に裁判所が完成するまで、司法機関も入っていました。

    壁には、修道院時代の紋章が残ります。フランス革命で刑務所/兵舎として接収されました。1832年に裁判所が完成するまで、司法機関も入っていました。

  • 中庭には、アルジェリア戦争犠牲者の追悼モニュメントも。

    中庭には、アルジェリア戦争犠牲者の追悼モニュメントも。

  • 向かいには、国立劇場。その先では、馬の市が立ちました。ブルターニュ公国時代から立派な行政施設/教会/修道院等が建ち並び、城壁の教会領へ権威を示威していました。

    向かいには、国立劇場。その先では、馬の市が立ちました。ブルターニュ公国時代から立派な行政施設/教会/修道院等が建ち並び、城壁の教会領へ権威を示威していました。

  • カンペールは、居心地の良い町として全国で2位を獲った実績もあります。一泊してこそ、その良さが満喫できると思います。ホテルよりも、民泊の方が良い宿に出会えると思います。

    カンペールは、居心地の良い町として全国で2位を獲った実績もあります。一泊してこそ、その良さが満喫できると思います。ホテルよりも、民泊の方が良い宿に出会えると思います。

  • テレビを点けると、オランジュのローマ時代の劇場でのコンサートを放送していました。夏を感じる一コマです。

    テレビを点けると、オランジュのローマ時代の劇場でのコンサートを放送していました。夏を感じる一コマです。

  • おしまい<br />

    おしまい

26いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (1)

開く

閉じる

gianiさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フランスで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
フランス最安 318円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

フランスの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP