2026/02/05 - 2026/02/14
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しにあの旅人さん
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雪のマルコ山古墳です。
川島皇子の陵と言われております。
奈良時代のいつのころか、川島皇子が大津皇子の反逆計画を菟野皇女に密告した、と言われていました。淡海三船はその風評を「懐風藻」に書いてしまいました。
それ以降、皇子は密告者という汚名を着せられました。
大津皇子事件の、もうひとつの悲劇です。
一書に曰く、
この時代のヒーローは、天智天皇、天武天皇、有馬皇子、大友皇子、大津皇子、草壁皇子、舎人親王、志貴皇子、、、。
綺羅星のごとく。
そういった人々からは、一段奥に、目立たないところにいらっしゃる皇子様です。
けれど、壬申の乱の功臣たちに、勝手に、天武チルドレンなんて名前まで付けて追いかけまわした我々には、見逃せない人物なのです。
その川島皇子の墓所。かな?たぶん。のマルコ山古墳です。
By妻
参考書は次の通り。
「現代語訳・懐風藻」江口孝夫訳/講談社学術文庫/2000年
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1988年
「口訳万葉集」折口信夫/中央公論社/昭和29年
「万葉集・全訳注・原文付」中西進/講談社文庫/1980年
「続日本紀・全現代語訳」宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1992P年
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2026/04/25
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- じゃらん
-
佐田の里めぐりを電チャリでしました。2人とも何回も転んで、膝小僧をすりむきました。電チャリを飛鳥駅前のレンタル屋さんに早めに返して、車でやってきました。
-
本来はここも電チャリの予定でした。
お若い方には全行程自転車をお勧めします。坂はありますが、たいしたことありません。電チャリならスイスイです。 -
お椀を伏せたようなきれいな古墳です。
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飛鳥駅から来てこの標識の手前に3台くらい車を止められるスペースがありました。
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あれだ!
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村の道路から古墳が見えてすぐわかります。
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7世紀後半から8世紀初めの築造で、わずかな遺物と30歳代の男性の人骨が発掘されました。六角墳で被葬者は皇族であることは確実だそうです。
川島皇子の陵と言われております。
皇子の没年は691年 享年34歳でした。
万葉集2-195の左注に、
★河島皇子を越智野に葬りし時に・・・★
とあります。
万葉集194の人麻呂の長歌、195の短歌にも「越智野」がでてくる。
「万葉百科 奈良県立万葉文化館」
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=195
によると、「越智野」は高取町大字越智を中心とする一帯だそうです。現在の越智はもっと狭く、マルコ山古墳から西に2㎞くらい離れています。越智野で皇族クラスの古墳なので、川島皇子の陵とするのは十分根拠があります。よく宮内庁が食いつかなかったものです。 -
一書に曰く、
壬申の乱とは、なんだったのでしょう?
単に、大友皇子に対するクーデターだったのでしょうか。
天智勢力×天武勢力だったのではないのですかね。
壬申の乱の後に、戦後処理として行われた、吉野の盟約というものがあります。
その吉野の盟約には、草壁、大津、高市、忍壁、という天武の息子たちと並んで、川島、志貴の名前があります、
この二人は、天智天皇の息子です。
天武天皇には、四人も皇子がいたのに、なんで、天智天皇の子供までいれるか。
吉野の盟約って、要するに、草壁をよろしくね。
あんたらには、地位を約束するからね。なんでしょ。
ということは、逆に言えば、こいつらは、誓約させなければ、草壁にとって代わる能力があって怖い怖いってことでしょ?
現に、大津皇子事件起きるしね。
持統が本当に怖かったのは、大津と高市だったのでしょうけれど。
天智の皇子二人を入れたのは、まだまだ天智側の、不穏な動きがあったのか?
この二人が、見逃せないほど有能だったのか。
とにかく川島皇子は、そういう人物だったのです。
ついでの豆知識ですが、現天皇家は、志貴皇子のご子孫にあたります。
万葉集8-1418
★いわばしる垂水の上の早蕨の、萌え出づる春になりにけるかも★
△岩の上を激して流れる、滝の邉りの蕨が、生え出す春になってことだ。その様に自分の運も、これからおひ々開けてくる。△
の皇子ですよ。
草壁皇子、大津皇子の面影を、現天皇陛下に求めるのは、無理ではないかと思いますね。
By妻 -
川島皇子は天智天皇の皇子でした。母親は忍海造小竜(おしみの・みやつこ・おたつ)の娘、色夫古娘(しこぶこの・いらつめ)といいました。皇族や大豪族出身ではなく、葛城の小豪族忍海造の娘で、後宮の宮人(みやびと)でした。本来は皇后の身の回りの世話が仕事でしたが、天智天皇の寵愛を受けることになりました。
忍海氏は150年ほど前雄略天皇に滅ぼされた葛城氏の支族です。
葛城氏はちりじりになりましたが、後年飯豊皇女のために忍海群が造られたとき、戻ってきた氏族のようです。小豪族になり果てたとはいえ、かつての葛城の王者の誇りはどこかにもっていたのではないかと、想像します。
なお大友皇子も母親は同じ宮人出身の伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)でした。
天智系で母親は小豪族出身ですから天武グループでは、皇位継承順位は低かった。
奥さんは泊瀬部(はつせべ)皇女。天武天皇の皇女ですが、母のカジ媛娘(かじひめの・いらつめ)は身分の低い宍戸氏の出身でした。忍壁(おさかべ)皇子など4人同母兄弟がいました。ひとりの妻に4人の子どもは珍しく、たぶん天武さんが女として一番愛していたのはこの人だったのでしょう。
天武グループとしては2人とも序列が低く、みそっかす同士のカップルでした。ほかに妻がいた記録はないようです。夫婦仲は良かったみたい。
一書に曰く、
出たー!葛城。
最近、葛城が面白くって仕方ない。
ま、その話は、後ほどですが、このころの葛城一族は、かつての力はなかったのでしょう。
それにしても、かつての栄光とプライドはあったでしょうね。
それにしても、高市皇子は、なぜ天皇にならなかったのでしょう。
高市皇子の母親は、宗像氏です。
大友皇子が伊賀氏だったのなら、宗像氏なら十分なバックだと思いますが。
ま、確かに、天智には天皇家出身の妃には子供がいなかった。
天智と天武の考え方の違いもあったのでしょうけれど。
高市皇子は、ずっとナンバー2のポジションでした。
有能な皇子だったのです。
白村江の戦い 663年。 壬申の乱672年。 吉野の盟約 679年。
数字を並べると、なるほどねえ。
白村江の戦いから、壬申の乱まで、10年ない!
10年なんて、ついこのあいだです。
みんな覚えている。
戦死者の家族も現役。戦傷者も溢れている。
これでは、海軍の責任者は、表に出られませんね。
宗像水軍は、責任者でしょう。
宗像一族は、白村江の戦いの戦犯だったのですね。
だから、高市皇子は、天皇になれなかったのだ。
軍人としても、政治家としても能力のある人だったのに。
さて、そういう情勢の中、有能な高市皇子でさえ無理なのに、川島皇子は、生き残っていけるのでしょうか。
と、その時代の人々(→宮廷人ね。)は思ったに違いない。
母さん、葛城だしって。どうにかして、栄光を再びって思っているに違いないって。
世間が、思った。
なんとなくね。意図的なうわさもあったかもしれない。
そして、その時、ライバルを消したい人がいる。
最大の権力者の天武亡きあと、継承者問題は、、、
油断したねえ。大津君。
で、大津は、うまくはめた。やったぜ!
うわさの川島さん。
うひひ
らっきー!これで、もう一人つぶせるって、持統さんは、ガッツポーズだったのではないか。
ああ、妄想は、はてしない。
By妻 -
「懐風藻」や人麻呂の歌では「河島皇子」となっていますので、引用ではそれに従います。「懐風藻」の著者はいろいろ説がありますが、通説である淡海三船(おうみの・みふね)といたします。
★河島皇子は天智天皇の第二皇子である。気持ちのおだやかな人で、太っぱらであり、典雅な方であった。はじめ大津皇子と意気投合して交際を結んでいた。大津皇子が反逆を計画したとき、河島皇子はそれを密告した。朝廷では河島皇子の忠誠を賞したが盟友たちは情誼の薄い者と見ている。論議はまだ河島皇子の行為の是非をはっきりさせていない。(忠臣としては当然の行為だと褒めてうえで)しかし、また友に忠告することもしないで友人の大津皇子を水火の苦しみに追い込んだことに対しては、わたしとしても疑いが残る。★
(P49-50) -
川島皇子密告説は淡海三船が言い出したことではなく、当時の風説として広がっていたことがわかります。
いつごろからその風説ができたかは不明ですが、川島皇子本人の死後、691年以降でしょうね。じゃあないと川島さんが気の毒です。
日本書紀の編纂準備は681年からはじまっていました。準備段階では川島皇子も加わっていましたが、本格的な編纂が始まったのはもっとあとのようです。
完成したのは720年です。大津皇子事件は686年ですから、編集スタッフはまさに同時代人でした。川島皇子がすこしでも関係していれば、書紀になにか書いてあってもいいはずです。
密告の風説は書紀の成立以降、かなりあとです。
奈良ブンシュンの仕業ですね。
このあたり淡海三船さんはあまりいただけません。
週刊誌の記事をもとに国会でスキャンダルを追求する国会議員レベル。
一書に曰く、
この淡海の三船といういう人だって、相当屈折しているのですよ。
弘文天皇の子孫だそうです。
弘文天皇って、大友の皇子のことですよ。
無茶苦茶秀才だったらしいけれど、この人の代で、臣籍降下したそうですから、人生の途中までは、皇族だったひとです。
そして、歴代の天皇に、漢風諡号を選定した人です。
つまり、歴代の天皇の実績をあーだのこーだの調べて、評価したってこと。神武だとか、仁徳だとか、通信簿なんですねー。武烈なんてつけられた日にゃ。
こしゃくな。どの立場で言うか!ってことにならなかったのは、それだけの学識が認められていたのですねえ。
そういう人物が、清廉潔白。赤子のように清らかなわけ あるわけない。
良きにつけ、悪しきにつけ、敵に回したくない人物ですわ。
ふぉふぉふぉ、おぬしも、、、やる人なのです。
By妻 -
当時の事情を多少でも知っていれば、そもそも大津皇子事件そのものが菟野皇女サイドのでっちあげであることはあまりに明白です。日本書紀だって、大津皇子に精一杯同情して書いています。書紀は天武持統朝の「よいしょ」を目的とした歴史書ですから、事件の否定はできないのです。
「後世の人よ、分かってくれよ」と言っているわけです。
川島皇子がこのあと特に優遇された記録はありません。
でっち上げ説は現代の歴史家では定説みたいです。
このあたり私たちも尻馬に乗ってさわいでいます。
「六国史の旅 飛鳥の姉弟2 大津皇子磐余の池」
https://4travel.jp/travelogue/11670966 -
「懐風藻」に川島皇子の漢詩が1首載っています。
★
山斎
塵外 年光満ち
林間 物候明かなり
風月 遊席に澄み
松桂 交情を期す
浮世を離れた山の中にも光は満ちみち
林の中は春の色どりが美しい
さわやかな風、澄んだ月の光が宴席に流れ込む
松や桂にあやかり変わらない交友をつづけたいものだ
★
(P51)
「松や桂にあやかり変わらない交友」というのは大津皇子のことを言うのではないか、と思いました。
懐風藻では、大友皇子、河島皇子、大津皇子の順で先品が取り上げられています。悲運の皇子2人に挟まれて、なにやら意味ありげです。
大津皇子は4首が載っています。その1首、
★
遊猟
朝に三能の士を択び、
暮に万騎の筵を開く
臠を喫してともに豁たり、
盞を傾けてともに陶然たり。
月弓 谷裏に輝き
雲旌 嶺前に張る
曦光 すでに山に隱る
壯士 しばらく留連す
朝に芸能の名士を択んで狩に出
暮には万騎の勇士と酒宴を開く
肉をほおばり心のびのびと朗らかに
盞を傾けてうっとりと酔うている
勇士の弓は谷間にきらりと光り
旗の幔幕は峯の前にひるがえる
日はすでに山の端にかくれたが
友はなお止まり気炎をあげている
★
(P57-58)
懐風藻は「はじめ大津皇子と意気投合して交際を結んでいた。」と言っています。
2人とも残した漢詩はこれだけではないでしょう。その中からあえてこの2首をほぼ連続して並べたのは、意味があるのではないか。
「松桂 交情を期す」に対応して「芸能の名士」「万騎の勇士」とは川島皇子にすると、平仄があうという感じ。 -
山上憶良の冤罪告発
▲▲▲▲▲▲▲▲▲
万葉集34は、持統4年(690年)の天皇紀州行幸のときに川島皇子が詠んだことになっています。でもはっきりと山上憶良が代作したと書いてある。
★
紀伊國に幸しし時に、川島皇子の作りませる御歌 或は云わく、山上憶良の作(詞書は折口にはなく中西より引用)
白良(しらら)の浜松が枝の手向草、幾代までにか歳の経ぬらむ
★
△白良(しらら)の浜に来ると、浜松の枝を結んで、道の神へ御供えとして奉ってある。(この近くの岩白では、わが友有馬ノ皇子もせられた。)いつの時代まで、なし伝えるつもりで、今まででも続いてきてゐるのだろうね。△
これはもちろん斉明天皇4年(658年)無実の罪で処刑された有間皇子の歌をもとにしています。下の141とともに折口の訳は逐語訳ではなくほぼ翻案です。でもたしかに歴史的事実をおさえるとこうなります。
万葉集141
★岩白の浜松が枝を引き結び、まさきくあらば復帰り見む★
△自分は今、此岩白の浜を通るが、とても再引き返して、ここを過ぎることはできまい。今、世の人がするやうに、浜の松の枝を結び合わせて、命や旅路の無難を祈って行くが、万一達者で居たならば、再此松を見よう。△
憶良(660-733)は、有間皇子は無実の罪で殺されたことを前提に、川島皇子にこう歌わせています。
何故こういうまだろっこしいことをしたのか。
733年までに、川島皇子密告説が流布していたからです。皇子没年691年で憶良は31歳です。当時最高レベルの知識人として、2人に交流があったはず。皇子の密告説を否定したかった。
川島さんは密告なんかする人ではない。有間皇子に同情するこんないい歌をつくっているじゃないか、というのが憶良の言い分。
川島皇子の人柄が偲ばれます。 -
でももっと根本的には有間皇子になぞらえることで、大津皇子の謀叛そのものを否定してしまえばいい。
この時代の知識人は、有間皇子といえば瞬間的に冤罪、同時に大津皇子を連想した。
憶良は有馬皇子のこの歌については実にしつこい。145、1716で再度蒸し返しています。
憶良は社会派歌人どころではなく、冤罪告発をやろうとしたみたい。
持統4年というと大津皇子の事件からまだ間もなく、そんなことできたかな。
持統天皇が読んだら、
「憶良はアタシにあてつけでこんな歌をよんだのね、かわいいわねえ」
憶良は無事ではすまない。腹黒の不比等も側近だったし。
しかし有馬皇子事件は中大兄皇子つまり天智天皇主導の陰謀でした。天武持統朝は、天智天皇の跡継ぎ大友皇子の近江朝をひっくり返したわけで、天智天皇下げをするなら、それでいいと思ったかも。
イメージ操作というやつ。
ただこの歌が知られるようになったのはずっとあとでしょう。
万葉集が成立したのは、早くても759年だそうです。しかも最終編纂者が反体制歌人大伴家持ならば、この歌を秘密の箱から引き出して万葉集にいれたのが充分理解できます。
憶良も家持も、1000年後に理解されればいいと、思っていたんじゃないかと。
大伴家持(718-785)は憶良と間違いなく面識がありました。父旅人が太宰帥として大宰府にいたのは728-730、家持10-12歳くらいで父とともに大宰府におりました。憶良は筑前守で九州におり、旅人のマブダチでした。
この時代12歳というともう大人にさしかかるころ。おませな家持少年は憶良から、川島皇子のことは聞いていたでしょう。あるいは父と憶良の話を耳ダンボで聞いていたかも。
おそらく大津皇子事件の真相も。
万葉集の、大来大津への思い入れ、川島皇子への同情が1本の糸でつながります。
一書に曰く、
有馬皇子は。天智天皇にはめられた、悲劇の貴公子でありました。
わたくしby妻は、高等学校に入ってすぐの授業で、この「まさきくあらば、またかえりみん」を習いました。
つい先日までは中学生のわたくしには、万葉集の歌は、解説されても、正直さっぱりでした。
ふ~んとしか思えなかったのです。
ふと、先生の声がつまったように思えて、お顔を見ると、先生は、我々生徒たちから目をそらして、窓の外を眺めていらっしゃいました。
その横顔の眼が、きらきら水分過多でございました。
こほん。軽くのどを整えて、
「有馬皇子は、自分が二度と帰ってくることはないと知ってたんだぞ。
それなのに、旅の無事を祈って、まじないをしたんだぞ。」
と、続けられたのです。
こっわい先生で、授業中、生徒は皆、机をなめんばかりにうつむいて、授業をひたすら拝聴したものですが、そのときの先生の泣き顔で、by妻の鈍い頭と心にも有馬皇子の名前と短歌は、刻みこまれたのでありました。
子供には、理解力はない。大人の心に共鳴して、学習するってことでしょうか。
ここまで書いて、読み直しました。
若い子向けの小説なら、ここで、可憐な女子高生が、教養溢れる青年教師と恋に陥るところではないですか?
あー、絶対に絶対に、ないないない。
第一、by妻ちゃんは、女子高生時代も、可憐ではなかった。
第二、先生は、無茶苦茶怖くて、以後by妻ちゃんは、机をなめ続けていた。
如何に、恋に飢えた青年教師であろうとも、机をなめ続ける女の子と恋ができるであろうか。
それに、先生は、すでにおっさんでしたし。
以上有間皇子の思い出でした。
By妻 -
柿本人麻呂と川島皇子の夫婦愛
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
万葉集194は柿本人麻呂が、河島皇子を殯宮に葬ったとき、妻の泊瀬部皇女に捧げた長歌です。切々たる夫婦の情愛が歌われています。びっくりしたのは、
△譬えて云いますれば、飛鳥川の上の瀬の方に生えてゐる美しい藻が、川下の瀬に流れあたる、其美しい藻のやうに、彼方へより此所へより、絡み合うて寝た夫(せ)の君の、其むつくりした柔らかい肌さえも、体に引きつけて、此頃はお寝みになりませんから、御寝床も殺風景なことでありませう。△
夫が絡み合って寝た妻の柔らかい肌を自分の体にひきつけて・・・。
万葉集はセックスの描写には寛容だとなっております。皇族の夫婦でもこんなに生々しく描写している。
このあと一転して夫を失った妻の悲しさと空しさが続きます。
△それで、(泊瀬部皇女は)お心の結ぼれが散らないので、ひょっとすれば、君が出逢って下さるかと思って、越智の野原を歩き回って、美しい袴は朝露にぐっしょりと濡れ、着物は夕霧にぼとぼとになって、宮に帰らずに、余所で寝ておしまいになることがありませう。どうしても逢ひにいらっしゃらないお方であるのに。その方の為に。△
人麻呂は自分の妻が死んだとき、秋の山に迷い込んで出てこられないのだと、歌いました。ここでは妻が夫を探して野原をさ迷い、どうして会いに来てくれないのかと嘆いております。
彼は壮大なオペラばかりではなく、恋情綿々、哀切なバラードも作るようです。中島みゆきだってこうはいかない。
反歌
万葉集195
★しきたえの袖交(か)えし君、たまだれの越智野に過ぎぬ。復あはめやも★
△そんなに尋ねてお歩きになっても、袖をさし交わされて寝られたお方は、越智の野原で、消えておしまいになった。二度とあはれませうか。△
万葉集ではこのあとの196も明日香皇女を偲ぶ挽歌です。同じシチュエーションですが、河島皇子夫婦ほど嫋嫋たるものではありません。夫の名前は「夫の君」だけ。
二人は人麻呂の同時代人です。個人的にもよく知っていたのでしょう。
川島皇子夫婦は、仲が良かったんだなあと、しんみり思います。
藻が絡み合う
▲▲▲▲▲▲
人麻呂は男女の情愛の表現として、藻が絡み合うというのが好きだったみたい。
万葉集131の長歌では、人麻呂が石見より都に上がるとき、別れた妻を歌います。
131
★・・・浪の共(むた)、かよりかくより、玉藻なすより寝し妹を・・・★
△・・・(いろいろな藻が)其浪と一處にうち上がる美しい藻が、絡み合うやうにして寝たいとしい人を・・・△
この長歌の反歌が人麻呂の代表作、
万葉集132
★笹の葉はみ山もさやにさやげども、我は妹思ふ。別れ来ぬれば★
△自分が越えて行く山一面生えた笹が、山もとよむ許りに、やかましく騒いで居るが、その音にも紛れないで、私はいとしい人のこと許り思うて居る。哀しい別れをして来たので。△
一書に曰く、
そうだよねえ。文学って、色っぽいですね。
古事記にも、国生みの話に、いやに具体的な描写があります。
男女の体の違いを、的確に表現しているのですが。
また、源氏物語なんて、逃げるお姫様を、逃がすまいと光源治が、なんと!姫の髪の毛を押さえつけて、、、とかありまして。
それを教室で、まじめな顔で講義されまして、せっせとノートしていた女学生たち。
講義する教授だって息も乱さずって。
教授だってわかってなかったんじゃないですかね。だって、やばい場面ですよ。
私、何ノートしてたんだろ?
四段活用だの、敬語だの、源氏物語の文章は主語がないんだから、敬語のつけ方でだれのセリフかわかる。とか。
ま。それにしても、恋も愛も人生も、なんにも分かっていない小娘らに、どうやって源氏を教えんのよね。
文法くらいしかないよね~~~。
と、いまだに、恋も愛も。人生も分かっていないby妻は思うのでありました。
By妻 -
続日本紀聖武天皇天平13年(741年)3月28日、
★三品の長谷部(泊瀬部)内親王が薨じた。内親王は天武天皇の皇女である。★
(上P411)
生年は分かりませんが、川島皇子が657年生まれですから、5年下としても享年62歳。この時代としては長生きでした。生涯再婚しなかったようです。 -
7世紀末の越智野
▲▲▲▲▲▲▲▲
689年の草壁皇子の薨御のとき殯宮は檀の丘に造られました。陵は殯宮のすぐ近くの佐田の岡。
2年後、川島皇子の殯宮も越智野でしょう。たぶん現在のマルコ山古墳の近く。
挽歌は殯宮に川島皇子の遺骸を据えたときにつくりました。
7世紀末の越智野って、どんなところだったのでしょうか。
「越智の野原を歩き回って、美しい袴は朝露にぐっしょりと濡れ、着物は夕霧にぼとぼとになって・・・」
一面茫々たる草原です。
人麻呂はその場にいました。犬養孝のような節をつけて、歌い上げたのかな。
泊瀬部皇女はこの挽歌をささげられた時、最初ぽっとほほをあからめて、その後亡き夫恋しさに泣き出しちゃったんじゃないかと思います。
一書に曰く、
川島皇子が大津皇子を裏切ったか、否か。
裏切ったかもしれない。
だって、栄光よ再び!かもしれないし。
でも、大津皇子ファンのわたくしby妻としましては、裏切らないでほしい。
大津皇子を泣かせるな!
という気持ちと、川島皇子のその後を見ると、いい人だなあ、と思えるのですよ。
いい人が裏切らないとは言えない。
確かに。
ですが、それはそれとして、大津の皇子のためにも、親友のままでいてほしい。
だって、このマルコ山古墳だって、ちっこくって、なだらかで日当たりがよくって地味で。
なんかね。川島の皇子って、こんな人だったかなって、思えるのです。
本当は、裏切ったとしても、しなくても、絶対に大津の皇子の親友であり続けたんですよ。
By妻 -
南の丘の向こうが佐田です。
草壁皇子の陵(束明神古墳)も遠くありません。北には斉明天皇の越智崗上陵(おちの・おかのえの・みささぎ)があります。牽牛子塚古墳のことです。 -
古墳の東、飛鳥です。
人麻呂は軽の里に妻がいました。
その妻が死んだとき、
万葉集208
★秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めぬ山道知らずも★
△秋の山に、紅葉の木が一杯に茂っている為に、道が分からないで、迷うて帰って来ぬいとしい人を、探し出したい。併し、其山路がわからないことだ。△
軽の里は遠くありません。現在の橿原市大軽町あたりだそうです。ここからは北東で、背後の丘の向こうです。この写真には写っていないでしょうね。
万葉の想像を掻き立てるマルコ山古墳でした。
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