2025/04/23 - 2025/05/02
59位(同エリア1104件中)
Noraさん
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
古来より様々の民族に支配され、文明の十字路とも呼ばれた地中海の島シチリアは長い間私にとって興味のつきない対象でありました。昨年11月に訪問予定していたものの、予期せぬ家人の発病とその看護、加えて私自身の病のため予定変更せざるをえなくなったのです。その後状況が好転し始め、複雑な法的手続き、医療関係の処理、家事等、何とか青息吐息で片付け、改めて2月も終わりの頃、現在の自分の置かれた状況に無理のない範囲で(1週間)行けるシチリア旅行のプランに変更しチケットを手配しました。気が付いたら雪の降る日がすくなくなってシカゴにもやっと遅い春が近づいていて。。。
斯様な事情で、今回の旅は4月後半出発、5月初め帰国という超コンパクトなものです。
因みにシチリアという名称は、紀元前241年にローマ帝国の属州と言う形で与えられました。これは鉄器時代に島の東部に住んでいたシケル人に由来します。さらに遡ると、古代ギリシャ時代にはその形状からこの島はトリナクリア(ギリシャ語でΤρινακρία「3つの岬を持つ」)という名で呼ばれていたことがわかります。
さて、シチリアはどんな顔を見せてくれるでしょうか?
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ユナイテッド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
一夜明けて朝食会場風景。
カプチーノはOK。でもアプリコットジャムのはいったコルネット、とてつもなく甘く途中ギブアップしました。味覚障害の人が作っているのかもしれません。今日はパレルモ市内を沢山回らなければならないので、早めにホテルを出ます。 -
ヴィットリオエマヌエーレ通りから横に入る道。少々暗め!!
-
シチリアの心情! 同感、シチリアはイタリアではないです。今でこそイタリア共和国の一部になっていますが、古くは地中海における先進国として独自の文化と歴史に彩られた地域でした。実際、シチリアとしての独立運動も数回起きています。
-
プレトリア噴水(Fontana di Pretoria)。
クァットロ・カンティ(Quattro Canti)の一角に位置するプレトリオ宮(Palazzo Pretorio)の前庭にあります。 左の建物がそのプレトリオ宮(パレルモ市庁舎)です。
正面奥にはサン・ジュゼッペ・ディ・テアティーニ教会 (Chiesa di San Giuseppe dei Teatini)のマヨルカ焼き(多分カルタジローネ製?)で覆われたクーポラが見えます。 -
この噴水は、16世紀後半にトスカーナの彫刻家、フランチェスコ・カミリアーニ(Francesco Camilliani)が作成したものです。
背景:もともとコジモ・デ・メディチの義理の弟であり、ナポリ総督ドン・ペドロ・デ・トレド(Don Pedro de Toledo) のフィレンツェにあった庭園のために建設予定されていたものです。彼の死後、息子であるルイージ・デ・トレド(Luigi de Toledo)がそれを継承しますが、噴水購入費、あるいは維持費を捻出できなかったようで(注)、1573年にパレルモ元老院に噴水を売却しました。で、噴水の完成品はシチリア島へ輸送されるために644個の部品?に解体され、フィレンツェからパレルモまで海上輸送後に再度組立られました(1574~1575年)。
彫像群:現在は防カビ・防汚コーティングが施されている白いカッラーラ大理石の像は、オリンポスの神々を中心にしています。その様式は典型的なルネサンス期フィレンツェ様式です。
(注)ルイージ・デ・トレドの父、ナポリ総督ドン・ペドロ・デ・トレドについて:16世紀初頭、ナポリは貧困、飢餓、そして疫病(ペスト)といった深刻な問題に悩まされていました。また、凶暴な海賊が海からやって来て周辺地域を略奪してもいました。
この困難な状況に対処するため、カール5世は凄腕のドン・ペドロを副王としてナポリに派遣しました。彼は特権をむさぼる地元男爵(スペイン統治に反感をもつ親フランス派もいました)に断固として対抗したため、すぐに彼等の反感を買いましたが、それをものともせず数年のうちにインフラや道路の整備を始め、都市の変革に成功しました(思ったことは絶対にやり通す’意志の人’)。彼の名を冠するトレド街道(Via Toledo)自体が、この革新的都市計画の一例です。それと同時にドン・ペドロは女好き、賭け事好きでもあったようです。これら公私の事情が絡まりあって多大な負債に陥り、それは遺産を相続した息子のルイージの両肩にのしかかっていたと思われます。
参考:http://www.bestofsicily.com/mag/art119.htm
https://movery.it/en/don-pedro-de-toledo-luomo-che-ha-cambiato-il-volto-di-napoli/
では、この奥にあるベッリーニ広場に向かいます。 -
ベッリーニ広場(Piazza Bellini).
広場を囲むように3つの教会が建っています。サンカタルド教会(Chiesa di San Cataldo)、マルトラーナ教会(Chiesa della Martorana)、サンタ カタリーナ ダレッサンドラ教会(Chiesa di Santa Catarina d'Alessandra)です。ベッリーニ広場 広場・公園
-
ベッリーニ広場のオープンカフェで寛ぐ旅人。筆者もその一人。アイスカプチーノを頂きました。後ろはマルトラーナ教会(Chiesa della Martorana)。
-
まず サンカタルド教会(Chiesa di San Cataldo)、12世紀。
赤いアランチーニのような3つの赤いドームは、三位一体を象徴しているそうですが、非常にアラビックな形状でノルマン統治下で出現したアラブとノルマンのハイブリッドな建築様式を例示しているように見えます。ドームは教会の身廊と側廊の上に位置しています。
*現在この教会は教会としてはすでにリタイアし観光資源として活躍中です。 -
世界遺産のマークと内部。
アプスのキリスト像、アラブスタイルのアーチ形状と透かし彫りの窓。 -
教会内部からドームを見上げるとこういう風になっています。
-
ビザンチン様式の柱に支えられた身廊と両側廊。
装飾はいたって控えめ、むしろ非常にシンプルです。様々な柱頭を持つ6本の柱によって身廊と側廊に分けられています。 -
次はこのマルトラーナ教会(Chiesa della Martorana).
この教会は、12世紀前半にシチリア王ルッジェーロ2世の提督であったジョルジョ・ディ・アンティオキア(Giorgio di Antiochia)によってアラブ.ノルマン様式で創建されました。提督(Ammiraglio)によって建てられたため、正式には提督の聖母マリア教会(Chiesa Santa Maria dell’Ammiraglio)と聊か長めの名前です。
その後、1434年にマルトラーナ修道院(monastero della Martorana)に併合(寄贈?)されたため、マルトラーナ教会と呼ばれるようになりました。 -
マルトラーナ教会の入り口は鐘楼の下(16世紀の改築によるもの)です。
増築されたバロック調のファサードはあくまで広場に対する装飾的なもので、入口としての機能は持っていませんでした。
ファサードの左側に見えるのが元々の教会の部分です。 -
鐘楼部拡大しました。尖頭アーチ、黒い溶岩(多分エトナ山から)で幾何学模様を象嵌してあるところは非常にアラビックです。
下2段が12世紀のオリジナルで上の2つは14世紀に加えられた部分です。 -
入口。
12世紀創建のこの教会は1433年~1434年にかけて隣接するベネディクト会修道院に寄贈されました。取得後、修道女たちは15世紀~18世紀にかけて教会に大規模な改築/改修を加えました。
主な改修と変更:元々のノルマン様式の後陣の取り壊しとバロック様式の装飾の追加が挙げられます。この改築により、貴重な12世紀のモザイク画の一部が失われました。
拡張:修道院の規模拡大に伴い、元々のファサードも取り壊され、バロック様式のファサードに建て替えられました。とりわけ17世紀には、修道女たちによって新しい礼拝堂や大玄関など、バロック様式の増築が実施されました。 -
三廊式のプランです。
まず主祭壇と聖櫃部分。
改築部分:アプス(後陣)にあったオリジナルのビザンチン様式のモザイクの一部は、17世紀に取り壊されました。で、現在見られるような華やかな(いささかゴテついた)バロック様式の祭壇に変貌しました。中央の大きな聖櫃はラピスラズリでできています。その上のフレスコ画はヴィンチェンツォ・ダ・パヴィア(Vincenzo da Pavia, 本名はヴィンチェンツォ・デリ・アザーニ?)の’(キリストの)昇天(The Ascension)、1533年作です。
https://it.wikipedia.org/wiki/Vincenzo_degli_Azani -
後陣の天井部分。18世紀に描かれた華麗なフレスコ画で覆われています。
-
身廊部の天井:
この部分も変更の手が加わっています。17 世紀、オリジナルのモザイクの一部が取り除かれ、バロック様式のフレスコ画に置き換えられました。
フロアプラン:元々はギリシャ正教式の正十字形だったものが、15~18世紀に現在のラテン十字形に増改築されました。増築された部分は当時のバロック様式で装飾されています。フレスコ画とモザイク画がよく言えば折衷、混在した感じになっています。 -
側廊部:ここも非常に折衷的な装飾になっています。多様な大理石柱が使われていますが、どこかのギリシャ寺院から転用したものでしょうか?
-
ドーム:
この教会で最も最初に(12世紀)作成されたビザンチン様式モザイクです。4大天使に囲まれた’祝福のキリスト’が黄金の金箔を挟んだテッセラや色ガラス等で描かれています。(4大天使は仕事疲れで寝そべっているように描かれています(あるいは飛翔しながら休憩している?)。キリストは慈悲深いお方なので神の威厳にかけてドヤしたりされません。見て見ぬふりをしているようです。)
これらのモザイクはコンスタンティノープルから招かれた一群のモザイクエキスパートの手によって仕上げられたものです。 -
ナルテックス(拝廊)北側にある ’聖母マリアの足元にひれ伏すアンティオキアのゲオルギオス’を描いたモザイクです。12世紀。
*ゲオルギオス(ジョルジョオ)ディ・アンティオキアはこの教会の創建者です。マリア様はスクロール状のもの(表彰状?Scroll of Honor?)を彼の前に掲げ、ゲオルギオスに謝意を表しているように見えます。 -
反対側にあるのは、マルトラーナの最も貴重な宝物とも言える、’ルッジェーロ2世がキリストによって戴冠される様子’を描いたモザイクです。12世紀。
考察:ヨーロッパの王は通常、教皇や神聖ローマ皇帝から戴冠を受けることでその正当性を認められていました。しかし、ルッジェーロ2世は、このモザイクで自らの王権が教皇からではなくキリストから直接授けられた神聖なものであると主張しています。これは教会権力から独立したより絶対的な王権の確立を目指した政治的メッセージとも思えます。 -
コスマティ様式(Cosmati Style)の床モザイク、12世紀。
-
サンタ カタリーナ ダレッサンドラ教会(Chiesa di Santa Catarina d'Alessandra)を覗いてみます。14C.の創建です。
知恵と強さで知られる殉教者(壊れた車輪が彼女の象徴です)、アレクサンドリアの聖カタリナに献堂されました。ドミニコ会修道院の一部として建てられたこの教会は、外見は地味目なのですが、内部は打って変わって絢爛豪華です。精巧なフレスコ画やスタッコ装飾、鮮やかな大理石の象嵌細工を誇り、バロック様式の傑作と呼ばれているくらいです。 -
主祭壇。
-
身廊部、天井フレスコ画。
-
クーポラ部分。
-
この広場をでてバッラーロ市場を目指します。昼下がり、客と談笑するレモネード売りのオジサン。レモンを大量に積んでいます。
-
右折するとバッラーロ市場です。
-
バッラーロ市場(Mercato Ballarò)
あらゆる食材とその加工品が並んでいます。こういう光景はシカゴでは見られません。 -
このタコのディスプレイはかなり芸術的です。
-
フラガリア・ベスカ(野生イチゴまたは高山イチゴ)-Fragaria Vesca (Wild or Alpine Strawberries)
一軒の果物屋さんで偶然みつけましたが、ここ以外ほかのお店はどこも売っていませんでした。
フラガリア・ベスカは小さく丸みのある原種に近いイチゴです。収穫時期になると、非常に芳香が強くなり、熟した実1つで周囲の空気が芳香に包まれるといいます。一度オンラインショップで苗を販売しているのを見たことがあります。生のままでももちろんですが、イタリアン料理のアクセントに使ってもOKです。筆者はクッキングチャンネルで、ある料理専門家(多分、ベアフットコンテッサ)が紹介しているのを見たことがあります。1パックお店の人に入れてもらって食べながら歩きました。期待に違わず素晴らしい味のイチゴでした。でもデリケートですぐにつぶれますからハンドリングは要注意です。 -
トラットリアの1軒でランチです。右上の魚介類のフリットは斜め前の家族がオーダーしてたものでおいしそうだったので筆者もムール貝と一緒にオーダーしたのですが、待てど暮らせどフリットの方が出てきません。30分ほどiPhoneで次の目的地の情報を検索して暇つぶししてサーバーの人に聞くと’オーダー入っているよ。’とメモをみせるだけ。でついにしびれを切らし入口近くのキャッシャースタンドで事情を説明してフリットはキャンセルしてもらいました。多分こういうケースはよくあるのでしょう。伝票処理も大声で叫びながら手慣れた感じでやってくれました。
-
市場の近くにあるバー・カスティリオーネ(Bar castiglione)でピスタチオピッコロー、ピスタチオのコルネット。
オーナーはカスティリオーネ出身なのでしょうか? -
ジェズ教会(Chiesa del Gesù)。
バッラーロ市場の至近距離、旧市街地にある1564年創建のシチリア最初のイエズス会教会です。1549年、シチリアに上陸したイエズス会の修道士たちは、当時の副王の庇護の元、現在の教会があるエリアを拠点に多くの信徒数を獲得し、1564年~1578年にかけて教会建築に着手しました。
紆余曲折を経て、1636年には完成したものの、内部装飾は改修も含めてその後、200年ほど続いたと言われています。
外観は抑制のきいた簡素なシシリアンバロック様式です。
*因みにいつ行ってもドアが閉まっているとか、オープンの時間なのに施錠されていたとかオンラインの書き込みにあったのですが、この教会は午前中+午後少し過ぎまでしか開いていません。なのでよく確認して出向く必要があります。
開場時間:9:30~13:30 (8月は~18:30)
休日:日・祝
入場料:2ユーロジェズ教会 寺院・教会
-
シシリアンバロック様式のファサード下部には3つのポータルがあり、聖母子像を中心にしてイエズス会の創設者である聖イグナチオ・デ・ロヨラ像が左のニッチに、フランシスコ・ザビエルの像が右のニッチに配置されています。
-
一歩中に入ると。。豪華な大理石の床、そして上を見ると天井も柱も隙間がないくらいの漆喰装飾とフレスコ画でカバーされています。息をのむような絢爛豪華な内装です。
-
主祭壇とアプス(後陣)
コーニス上部にイエスの教会であることを示す、ステンドグラス製の’祝福のキリスト’ が燦然と輝いています。
この美しい教会は第二次大戦の戦禍により破壊されるも、その後の見事な修復作業により美しく甦ったそうです。 -
内部はラテン十字型のフロアプランで、3つの身廊、大きな司祭席、そして精巧な側礼拝堂(Lateral chapel)が左右に各4堂配置されています。
-
壁と柱はすべて、彫刻、多色象嵌、大理石、スタッコ、フレスコ画などで豪華に装飾されています。ルネットと側窓を備えた樽型ヴォールト天井には、聖書の物語が華麗に展開します。このため、ジェズ教会はシチリアバロックの傑作と評されています。
-
天井のフレスコ画。
-
ドーム。
-
主祭壇にむかって左の側礼拝堂の2番目はイエスの聖心礼拝堂(Cappella del Sacro Cuore di Gesù)です。以前はここに聖なる日本殉教者礼拝堂(Cappella dei SS.Martiri giapponesi )があったようです。
調べてみると、現在、右側礼拝堂の2番目が聖証聖者礼拝堂(Cappella dei Santi Confessori)となっており、その中央に 1629 年に制作された「日本の聖なる三人の殉教者(パレルモの共同守護者)に捧げられた:Santi martiri Giapponesi 」という祭壇画が掲げられてます。今はこれだけのようです。
参考:https://www.vacanzesiciliane.net/palermo-chiesa-casa-professa/
聖証聖者礼拝堂(Cappella dei Santi Confessori)の画像はhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Casa_Professa_(Palermo)_14_07_2019_15.jpg
なお、パレルモの共同守護聖人に列せられた3人の日本人イエズス会殉教者はパオロ・ミキ(パウロ三木)、ジョヴァンニ・ソアン・ディ・ゴト(五島のヨハネ草庵)、ジャコモ・キサイ(ヤコボ喜斎)です。 -
美しいオルガンは作動していないようです。
-
説教壇(pulpit)
-
翼廊(Transept)。天井画とそれを取り囲む美しいスタッコ装飾。
-
ジェズ教会を出たらちょうど客待ち状態のトゥクトゥクがとまっていたのでEremiti 教会までの値段をきくと20ユ-ロと言います。OK!!
でこのオニイサンがドライバーです。教会前のベネデッティーニ通りに着いたところ。 -
15分位で現地到着したのはいいのですが、教会前のベネデッティーニ通りはこのようにブルドーザーでゴリゴリ土を掘っているのです。埃っぽく、通りを横切ることはできません。大きく迂回してエレミティ教会に向かいます。
さて、これから行くサン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ(聖ヨハネ隠者教会)は、かつてべネディクト派の修道院だった古い教会(今は使われていません)です。
この場所には6世紀以前からビザンチン教会とベネディクト会修道院が存在していました。その後9世紀にシチリアの統治者となったアラブ人たちはこの修道院や教会を破壊し、モスクを建設しました。そしてノルマン征服後の1136年頃、シチリア王ルッジェーロ2世は、もともとの所有主、ベネディクト会修道士にこの場所を返還し6世紀のベネディクト会礼拝堂の上にアラブノルマン様式の教会を建てたのです。教会は聖ヨハネに献堂されました。-wiki
*12世紀に同時に回廊も建設されました。また、立方体の塔の上に建てられた5つの赤いドームはこのアラブノルマン時代に築かれたものです(先のアラブ時代のモスクにはなかった)。ただし、ドームのオリジナルの塗装色は今と違って灰色がかったピンク色(色褪せも含む)だったようです。現在の赤いドームについては19 世紀の修復を担当した建築家の色の解釈に対し本来の中世の色ではないと批判があるそうです。
*19 世紀に、シチリア王立建造物保存局の指導の下,本来の中世の外観を再現すべく大規模な建造物の修復が実施されました。
*この教会の名, エレミティの由来:もともとこの場所にあった6世紀のベネディクト会修道院は聖エルメート( St. Ermete)に捧げられたものでした。なので、この聖人の名に由来すると考えられます。 -
サン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会(Chiesa di S.Giovanni degli Eremiti 聖ヨハネ隠者教会)鉄柵で囲まれた南国の植物が生い茂る教会に入ります。
なんだか普通の民家の玄関のようなところがチケットオフィスでした。販売する人もリタイアしたシニアがボランティアでやっているような感じで。。。6ユーロ。 -
他の史跡との位置関係の説明。
-
奥行きを感じさせるように90度の角度に設計、配置された二つの尖頭アーチ。
-
ノルマン時代の教会入り口から奥をみたところ。奥を右にずっと進むと9世紀に造られたアラブホールです。
-
上の画像の部分を直進しドーム部分をみあげたところです。
後述しますが、12世紀建築の教会の右翼廊はモスクホールの北端と重なっています。(下のフロアプランをご覧ください。) -
説明版:ムスリム(アラブ)時代に建設されたモスクが12世紀のノルマン時代にどのように教会に改修されたかを説明しています。
ラテン十字の教会はかつてアラブホールと呼ばれた部分の先端を教会の翼廊の中に取り込む形(右側)で作られています。翼廊の左側はベルタワーです。非常にシンプルな単廊式の教会だったことがわかります。 -
上記のボード、フロアプランの部分のみ拡大しました。検証したのは以下のサイトです。
https://islamicart.museumwnf.org/database_item.php?id=monument;ISL;it;Mon01;6;en
で、黒線で囲まれた部分(アラブホール)はムスリム(アラブ)時代、斜線のそれが12世紀のノルマン時代のフロアプラン(ラテン十字形)になります。
*アラブホールは北向き(メッカの方向)に造られていました。 -
かつての9世紀のモスク、所謂アラブホールが残る部屋。
12世紀建築のノルマン様式教会の右翼廊から続いています。天井部分は16世紀にクロスボールトに改修されました。ここはネディクト会修道士の食堂でした。 -
壁にはかつてのフレスコ画がほんのわずか残っています。これらは1136年頃の修道院建設当時のもので、玉座に座る聖母マリア(中央)、祝福のしぐさをする聖ジョヴァンニ(ヨハネ)が右に、そして消え入りそうに聖ジャコモ(ヤコブ)の顔が左に描かれています。
-
教会の建物を出て、回廊に向かいます。19世紀の改修後、ベネディクト会修道院の遺構で現存するのは回廊部分のみです。
-
ベネディクト会修道士たちは修道院内で祈りと瞑想に多くの時間を費やしていました(特にこの回廊で)。なぜなら、これらの実践は修道生活の中心的要素だからです。彼らの日々の生活を律する「ベネディクト会規則」は、祈りと労働のバランスを重視しており、その精神は「Ora et labora(祈りなさい、そして働きなさい)」というラテン語の格言に表されています。
-
長方形の中庭を囲む尖頭アーチは双柱の連なりで支えられており、教会の塔の上に建てられた5つの赤いドームとともにアラブノルマン様式を例示しています。
-
アーチの向こうに見える棕櫚の木と塔の一つ。
-
ベルタワー。
-
ベルタワー#2.
-
2つのドーム。
-
回廊からはせいぜい3つのドームを見るのが精いっぱいです。
-
お隣のサン ジュゼッペ カファッソ教会のバロックスタイルの鐘楼。回廊の上にニョッキリ頭を出してこの教会のもう一つの鐘楼のふりをしているのです(偏見)。(グーグルマップで見るとよくわかります)。
-
このニッチは教会時代に聖像を置いていた空間であったろうと思われます。
-
手前に見えるのはアラブスタイルの貯水槽。庭園内の植物を維持管理するために不可欠でした。
-
独自の給水システム。
サン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会には、井戸と貯水槽(貯水タンク)を含む独自の給水システムがあり、修道院の緑豊かな庭園と日常的な水源として利用されていました。もともとこの修道院が創建された6世紀頃から存在したと考えられます。モスクに転向されたアラブ時代(831年頃~1072年)には、高度な灌漑システムが導入され、この庭園を維持するための水回りシステムが完成したようです。後のノルマン人もこの伝統を継承しました。自給自足の水源の存在は、美しい回廊庭園を維持するために不可欠だったでしょう。 -
給水システムに関して。。。
回廊庭園:井戸と貯水槽は、ヤシ、柑橘類、その他の地中海植物で満たされた修道院の静かな庭園を維持するために’マスト’でした。
建築要素:庭園と水景もまたイスラム建築とノルマン建築の顕著な特徴であり、シチリアの文化の融合を反映しています。 -
サン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会から徒歩でヌォーヴァ門にやってきました。ここからヴィットリオエマヌエーレ通りを降りて行くとすぐに大聖堂です。
ヌォーヴァ門 建造物
-
ヴィットリオエマヌエーレ通り、左右の風景です。
ヴィットリオ エマヌエーレ通り 散歩・街歩き
-
パレルモ大聖堂と大司教宮殿を結ぶアーチ。
パレルモ大聖堂 寺院・教会
-
パレルモ大聖堂(司教座教会)とその前の広場。
正式名称は聖母マリア被昇天大聖堂です。
この場所にはかつてローマ神殿があり、その後にビザンチン教会が建てられ、9世紀にアラブ人によってモスクに改築されました。
http://www.bestofsicily.com/mag/art417.htm#:~:text
12世紀にモスクをノルマン様式の教会に改築し、後にゴシック、バロック、新古典主義など様々な様式が追加・混在、山盛りになった建築物です。 -
大聖堂のバック(後陣の外壁)。幾何学模様やブラインドアーケードがアラビックなテイストです。
もし世界で建築的に最も多様性に富み、「多文化」な礼拝所と言える建物があるとすれば、それはこの大聖堂でしょう。もともとのローマ神殿の跡地にビザンチン様式のバシリカ、モスクへの改築、ノルマン・アラブ様式の教会として再生。さらには中世からルネサンス、バロック、新古典様式時代と様々な様式をプラス。非常に忙しい目に遭ってきた教会だと思います。
現在は世界遺産「パレルモのアラブ・ノルマン様の建造物群」の一部として登録されており、シチリア王国の王族の石棺が安置されていることでも有名です。 -
正面玄関のすぐ上にビザンチン様式のモザイク(聖母子像)-13世紀(?) が掲げられています。多分この教会に残る唯一のモザイクと思われます。
-
アントニノ・ボヴァ(Antonino Bova)作:1760年制作の聖堂外観の版画。
-
大聖堂3次元モデル。
-
身廊部。床は大理石象嵌です。
-
内部の設計も時代と共に変わり続け、最近では1781年-1801年にかけ新古典様式に改装されました。創建当時の面影は全く残っていないそうです。
一応、フロアプランはラテン十字の3廊式です。 -
新古典様式の側廊部天井ドーム。
-
身廊部から側廊部を見たところです。
-
中央身廊。
上部の丸天井には、マリアーノ・ロッシ(Mariano Rossi)が1802年から1803年にかけて描いた2つのフレスコ画、「ノルマン人によるサラセン人の追放」と「聖母被昇天と四つの枢機卿美徳」が飾られています。中央の祭壇の上に納められているのは復活したキリスト像です。 -
アプス天井フレスコ画。
-
聖ロザリア礼拝堂 Chapel of S. Rosalia[22]。右手の側廊の突き当たりに、この真鍮の門(Brass Gate)で守られた聖ロザリア礼拝堂があります。聖ロザリアはパレルモの守護聖人です。銀の祭壇の奥には、マリアーノ・スミリグリオ(Mariano Smiriglio) (1631年)が設計した銀の壺(この聖人の聖遺物が納められている)が安置されています。
-
大聖堂は誰でも自由に入れます。が、宝物庫、クリプタ、ルーフトップへよじ登る等は要チケットです。
-
宝物館とクリプタはこちらの表示。
聖ロザリア礼拝堂の横からはいります。 -
宝物庫(Tesoro)入口です。ドメニコ・ガジーニ(Domenico Gagini) (1568年)作のこの大理石の門から入ります。
*宝物庫は13世紀~20世紀にかけて作られた貴重な品々、15世紀の彩飾祈祷書、13世紀の象牙の箱、聖体顕示台、聖骨箱、祭服、そしてコスタンツァ・ダ・アラゴーナ皇后の石棺から指輪と共に発見された王冠など、王家の墓所で発見された様々な品々が収蔵されています。 -
宝物庫
ミトラ(Mitra).
司教、大司教や特定の修道院長の儀式用の帽子。通常、貴金属や刺繍で装飾されています。 -
宝物庫
歴代の大司教、司教のポートレート、玉座の上部につけるキャノピーなど。 -
宝物庫
祭服関係その他。 -
この部屋の奥の壁龕には、アントネッロ・ガジーニが大聖堂のために制作した最初の作品「スカラ座の聖母」The Madonna della Scala(1503年)が安置されています。
-
宝物庫-王室の遺物などのコレクションを展示しているセクションです。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フレデリックII)の妻であり皇后であったコスタンツァ・ダラゴナ(=コンスタンサ・デ・アラゴン, 1179~1222)の王冠。真珠、宝石、エナメルで飾られた金箔を施した銀の冠は、ビザンチン様式のカメラウキオン-スタイル(kamelaukion-style)の王冠です。が、コンスタンツァ皇后が生前に着用したことはなく、王室の埋葬の際に石棺に納められたと考えられています。
*フリードリヒ2世とコスタンツァ・ダラゴナの息子、ハインリヒは嫡男として生まれ父王の後継者とされながらも父王との確執から反乱を起こし、シチリア王となること敵わずに自ら命を絶ちました。よって彼女の後継者は王権を全うすることなく世を去ったことになります。 -
宝物庫風景#3-補足。
コスタンツァ・ダラゴナの王冠と石棺。
大聖堂の入口から入ってすぐ左の第1・第2礼拝堂は王家の霊廟になっており、この方の石棺(壁側の白大理石)は壁際に埋め込まれています。1781年にパレルモ大聖堂で彼女の石棺が開かれた際に他の貴金属とともに発見されたのがここにディスプレイされている王冠です。
https://www.cattedrale.palermo.it/visitavirtualemobile2018/20%20navata%20meridionale%20tomba%20enrico%20VI.htm -
クリプタ(地下室)に移動します。この部分の壁はアラブノルマン時代のものです。
-
こんな狭い階段を降りて行きます。
-
そしてひんやりとしたクリプタ(地下室)。
ローマ時代、ビザンチン時代、ノルマン時代の大司教を含む聖職者が永眠する場です。大聖堂内の別の礼拝堂には王家の記念碑的な墓があります。
では地下から1階に戻ります。 -
マリア・サン・アスンタ礼拝堂(Chapel of Maria SS. Assunta)
祭壇の上には、ジュゼッペ・ベラスケス(Giuseppe Velasquez) 作の「聖母被昇天」(1801年)のキャンバスが飾られています。 -
パイプオルガン?
-
アントネッロ・ガギーニとその息子たちによる彫刻(Antonello Gagini & son) 作。16世紀。
-
十字架の祭壇(altar of the cross)。
14世紀の木製十字架像。その足元には、ガスパレ・セルポッタ(Gaspare Serpotta)とガスパレ・グエルチョ(Gaspare Guerchio)が制作した大理石製の哀悼者像が置かれています。 -
聖クリスティーナ礼拝堂。
祭壇の上のキャンバスには聖人の栄光(Glorification of the Saint)が描かれており、パレルモの画家ジュゼッペ・ベラスケス(Giuseppe Velasquez)の手になるものです。 -
王家の霊廟。
大聖堂の入口から入ってすぐの左側にあります。ここは側廊部の一部が第1・第2礼拝堂となっていて、皇帝と王の霊廟があります。この図のように4つの赤色斑岩(Red Porphyry)の石棺がキャノピー付きの台座に、また2つの白大理石の石棺が壁に埋め込まれています。
フロアプラン参考:https://www.excursionssicily.com/palermo-cathedral-all-you-need-to-know/
*ローマ起源:赤色斑岩はローマ時代にエジプトで採掘され、ノルマン人は君主の石棺作成のためにローマからこの素材でできた柱や石板を輸入しました。一部の学者の分析では、4つの石棺材料はローマのカラカラ浴場またはディオクレティアヌス浴場の1本の柱を再利用してつくられたものとのことです。 -
ボードのダイアグラムを拡大し名前を入れ込みました。
①エンリコ6世(=ハインリヒ6世またはヘンリー6世、神聖ローマ皇帝)。フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)の父。1165~1197。
②コスタンツァ・ダラゴナ(=コスタンツァ・デ・アラゴン), 神聖ローマ皇帝フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)の最初の妃。1184~1222?調べた限り、出生年は1179となっているのですが。。
③コスタンツァ・ダルタヴィッラ。 フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)の生母であり、その父である神聖ローマ皇帝エンリコ6世の妃。 1154~1198。
④ルッジェーロ2世(=フェデリーコ2世の母方祖父),1095~1154。
⑤グリエルモ.アテネ公爵(=アテネ公ウィリアム, アラゴン王フリードリヒ2世の息子)。1318->1312~1338年没が正。
⑥フェデリーコ2世(=神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世), 1194~1250。母コスタンツァ・ダルタヴィッラは、初代シチリア王ルッジェーロ2世の娘。
しかし、③コスタンツァ・ダルタヴィッラと④ルッジェーロ2世の石棺は下の画像で見えるようにプライウッドで塞がれており、立ち入り禁止。写真は撮れませんでした。 -
ダイアグラムの文字部分を拡大しました。
以前、ほかの方の旅行記(2019年)で②コスタンツァ・ダラゴナと⑤グリエルモ.アテネ公爵が入れ替わっていると書いてあったのを見たような気がします。が、4/29/'25現在は上図とこの図のとおりに配置されていますよ。 -
①エンリコ6世(=ハインリヒ6世またはヘンリー6世、神聖ローマ皇帝)、1165~1197 の石棺です。右に白大理石の石棺が壁に埋め込むように安置されているのが見えますが、これは②コスタンツァ・ダラゴナ(=コスタンツァ・デ・アラゴン。フェデリーコ2世の最初の妃)のものです。この石棺から1781年に王冠が発見されました。
*コスタンツァ・ダラゴナの石棺は狩猟のシーンが浮き彫りになっています。
画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Cathedral_%28Palermo%29_-_Tomb_of_Constance_of_Aragon#/media/File:Tomb_of_Constantia_of_Aragon_at_Palermo.jpg -
②コスタンツァ・ダラゴナ(=コスタンツァ・デ・アラゴン、フェデリーコ2世の最初の妃)、1179~1222の石棺。
前面に掘られた碑文(ラテン語)にはこう記されています。'Sicanie regina fui Constantia coniux augusta hic habito nunc Federice tua'(=I was Sicily's queen, Constantia, your wedded empress, now I rest here, Friedrich, yours=私はシチリアの女王、コンスタンティア、あなたの皇后であり、今はここに眠っています、フリードリヒ、(私は)あなたのものです)’
参考:
https://www.smarteducationunescosicilia.it/en/palermo/the-chapel-of-the-kings/
https://www.findagrave.com/memorial/15100132/constance-of_aragon -
①エンリコ6世(=ハインリヒ6世またはヘンリー6世、神聖ローマ皇帝)の石棺
サイドビュー。 -
⑥フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)の石棺。
目印はライオンの台座、緑大理石のキャノピーです。
フェデリーコ2世参考:https://www.asahi-net.or.jp/~rb5h-ikd/puglia/federico.htm
左に見える壁に埋め込まれた石棺は⑤グリエルモ:アテネ公爵=アテネ公ウィリアム(William II, Duke of Athens,1318->1312~1338年没が正)です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:William_II,_Duke_of_Athens
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:William_Duke_of_Athens%27_tomb.jpg
*この方の石棺は、ドミニコ会の衣装をまとったグリエルモ(ウィリアム)自身が、2つのアラゴン家の紋章の間に彫刻されていてそれが目印です。 -
ドメニコ・ガジーニ(Domenico Gagini)作の聖水盤, 15世紀。
-
マグエダ通りをマッシモ劇場にむかっています。
あすの現地ツアー(モンレアーレ&チェファル)はこの劇場ちかくのレストラン&カフェになっているので下調べです。
途中、面白い名前のカフェがあったので水分と若干の糖分の補給をします。ストアカフェ???ラップトップフレンドリーだそうです。ネット検索するとストア&カフェでした。$#%^ -
マッシモ劇場
外観は新古典主義で19世紀に完成。資材はほぼシチリア産でインテリアはリヴァティ様式のようです。
フランシス・フォード・コッポラの映画『ゴッドファーザー PART3』(1990年)の最後のシーンはこの劇場で撮影されています。アントン・コッポラ(フランシスの叔父であり作曲家兼指揮者)がオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』を指揮するシーンがでてきます。メアリー・コルレオーネ役のソフィア・コッポラはこの正面階段で銃弾に倒れるシーンを最高にド素人っぽく演じて、同年度のゴールデンラズベリー賞の最低助演女優賞・最低新人賞を受賞しました。:)%$^ -
映画では壮麗な劇場内部が紹介されると同時にアンソニー・コルレオーネ役(父親の跡を継ぐのを嫌ってオペラ歌手の道を選んだ息子)のフランク・ダンブロシオ(Franc D'Ambrosio)が『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲を美しく歌唱する(特別に歌詞を作成?)シーンがでてきます。シチリアの風土が色濃く反映されている『カヴァレリア・ルスティカーナ』を『ゴッドファーザー PART3』のテーマミュージックにしたことは大正解だったと思います。
-
ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りに来ました。昨日、ベッカフィーコやドルチェを買ったI.Cucciでカプレーゼやフリットの晩御飯にします。
-
ノー・マフィア・メモリアル:
ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りで見つけたユニークな建物。実は「ノーマフィア・メモリアル」というミュージアム。後で調べるとシチリア島においてマフィアがもたらした壊滅的な影響、組織犯罪との闘いの終焉、そして失われた命への弔いのための記念館でした。中には入らなかったのですが、マフィアと闘った人々について学べるチャンスではなかったかと思います。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
Noraさんの関連旅行記
この旅行で行ったスポット
もっと見る
シチリア島(イタリア) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
115