シチリア島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
古来より様々の民族に支配され、文明の十字路とも呼ばれた地中海の島シチリアは長い間私にとって興味のつきない対象でありました。昨年11月に訪問予定していたものの、予期せぬ家人の発病とその看護、加えて私自身の病のため予定変更せざるをえなくなったのです。その後状況が好転し始め、複雑な法的手続き、医療関係の処理、家事等、何とか青息吐息で片付け、改めて2月も終わりの頃、現在の自分の置かれた状況に無理のない範囲で(1週間)行けるシチリア旅行のプランに変更しチケットを手配しました。気が付いたら雪の降る日がすくなくなってシカゴにもやっと遅い春が近づいていて。。。<br />斯様な事情で、今回の旅は4月後半出発、5月初め帰国という超コンパクトなものです。<br />因みにシチリアという名称は、紀元前241年にローマ帝国の属州と言う形で与えられました。これは鉄器時代に島の東部に住んでいたシケル人に由来します。さらに遡ると、古代ギリシャ時代にはその形状からこの島はトリナクリア(ギリシャ語でΤρινακρία「3つの岬を持つ」)という名で呼ばれていたことがわかります。<br />さて、シチリアはどんな顔を見せてくれるでしょうか?<br />ーーと期待にみちた7日間が終わり、この日は帰国前日のおまけの1日です。

初めてのシチリア、まさにホットな7日間+おまけの1日, 4/30:モンレアーレ、チェファル―)

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2025/04/23 - 2025/05/02

61位(同エリア1113件中)

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Nora

Noraさん

この旅行記のスケジュール

2025/04/30

この旅行記スケジュールを元に

古来より様々の民族に支配され、文明の十字路とも呼ばれた地中海の島シチリアは長い間私にとって興味のつきない対象でありました。昨年11月に訪問予定していたものの、予期せぬ家人の発病とその看護、加えて私自身の病のため予定変更せざるをえなくなったのです。その後状況が好転し始め、複雑な法的手続き、医療関係の処理、家事等、何とか青息吐息で片付け、改めて2月も終わりの頃、現在の自分の置かれた状況に無理のない範囲で(1週間)行けるシチリア旅行のプランに変更しチケットを手配しました。気が付いたら雪の降る日がすくなくなってシカゴにもやっと遅い春が近づいていて。。。
斯様な事情で、今回の旅は4月後半出発、5月初め帰国という超コンパクトなものです。
因みにシチリアという名称は、紀元前241年にローマ帝国の属州と言う形で与えられました。これは鉄器時代に島の東部に住んでいたシケル人に由来します。さらに遡ると、古代ギリシャ時代にはその形状からこの島はトリナクリア(ギリシャ語でΤρινακρία「3つの岬を持つ」)という名で呼ばれていたことがわかります。
さて、シチリアはどんな顔を見せてくれるでしょうか?
ーーと期待にみちた7日間が終わり、この日は帰国前日のおまけの1日です。

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス タクシー 徒歩
航空会社
ルフトハンザドイツ航空 スイスインターナショナルエアラインズ ユナイテッド航空
旅行の手配内容
個別手配
  • Hoel Addimoraから集合場所(AI 59の前)に向かいます。<br />迷わないように最もカンタンなローマ通り~カヴィール通りを選択します。これだと直線で途中90度右折すればいいだけなので安直なルートなのです。マッシモ劇場の北側のカヴィール通りには沢山の長距離バスの乗り場、タクシー乗り場があります。

    Hoel Addimoraから集合場所(AI 59の前)に向かいます。
    迷わないように最もカンタンなローマ通り~カヴィール通りを選択します。これだと直線で途中90度右折すればいいだけなので安直なルートなのです。マッシモ劇場の北側のカヴィール通りには沢山の長距離バスの乗り場、タクシー乗り場があります。

  • 出発予定の数十分前にGet Your Guideの外注旅行会社のミニバンや大型バスが行き先ごとに数台並びました。モンレアーレ、チェファル―組は18名くらいなので2台のミニバンに分乗して出発です。思ったよりもしっかりしていてドライバー氏はプリントアウトした名簿を見ながら参加者の点呼をとり, 2台のミニバンに振り分けます。何を基準にしているのでしょうか?体形、体重?<br />この列の一番後に立っているスイスから来たと言う小柄な女性のあとに並んで席も彼女の隣になりました。ジュネーブで一人暮らしをしていて気軽に一人旅に出るそうです。ただ、膝の関節が悪いので歩くのはあまり得意じゃないと言っていましたっけ。<br />とにかく1時間弱でモンレアーレに着きました。

    出発予定の数十分前にGet Your Guideの外注旅行会社のミニバンや大型バスが行き先ごとに数台並びました。モンレアーレ、チェファル―組は18名くらいなので2台のミニバンに分乗して出発です。思ったよりもしっかりしていてドライバー氏はプリントアウトした名簿を見ながら参加者の点呼をとり, 2台のミニバンに振り分けます。何を基準にしているのでしょうか?体形、体重?
    この列の一番後に立っているスイスから来たと言う小柄な女性のあとに並んで席も彼女の隣になりました。ジュネーブで一人暮らしをしていて気軽に一人旅に出るそうです。ただ、膝の関節が悪いので歩くのはあまり得意じゃないと言っていましたっけ。
    とにかく1時間弱でモンレアーレに着きました。

  • *モンレアーレの街はパレルモ市街の南西8キロのカプート山(標高310m)中腹に立地しています。<br />フォンターナ・デル・トリトーネ(トリトンの噴水)→グリエルモ広場 or ヴィットリオ・エマヌエーレ広場の噴水。<br />1881年に造られたこのバロックスタイルの噴水には、水面から現れた竜と格闘する青年(トリトン)の姿が描かれています。<br />*ポセイドンの息子であるトリトンは一般的に半魚人として描かれ、人間の上半身と魚の下半身を持っているはずですが、ここのトリトンは健脚をもつ人間の姿をしています。進化したのでしょうか?<br />**この広場はグリエルモ広場とも、ヴィットリオ・エマヌエーレ広場とも呼ばれていて旅行者を混乱に陥れています。

    *モンレアーレの街はパレルモ市街の南西8キロのカプート山(標高310m)中腹に立地しています。
    フォンターナ・デル・トリトーネ(トリトンの噴水)→グリエルモ広場 or ヴィットリオ・エマヌエーレ広場の噴水。
    1881年に造られたこのバロックスタイルの噴水には、水面から現れた竜と格闘する青年(トリトン)の姿が描かれています。
    *ポセイドンの息子であるトリトンは一般的に半魚人として描かれ、人間の上半身と魚の下半身を持っているはずですが、ここのトリトンは健脚をもつ人間の姿をしています。進化したのでしょうか?
    **この広場はグリエルモ広場とも、ヴィットリオ・エマヌエーレ広場とも呼ばれていて旅行者を混乱に陥れています。

  • 奥に見えるのは大司教館でこの奥にキオストロ(回廊)があります。で、その入り口はここから見えませんが、この大司教館建物の左端にあります。

    奥に見えるのは大司教館でこの奥にキオストロ(回廊)があります。で、その入り口はここから見えませんが、この大司教館建物の左端にあります。

  • グリエルモ2世広場に立つマリア様。

    グリエルモ2世広場に立つマリア様。

  • マリア様の後ろ、威風堂々と聳えているのはモンレアーレ大聖堂。これは西側ファサードです。2つの塔の中央部にはアラブノルマン様式の尖頭アーチの繰り返しパターンが見えます。その手前の白い大理石のポルティコ(柱廊=4本の柱と3つのアーチで構成された部分)は18世紀の追加でイグナツィオ・マラビッティ(Ignazio Marabitti)の作品です。<br />*しか~し、塔の形が左右異なるのが気になります。で、調べて分かったのは、もともとは同じ形で建設されたものが、歴史の中で災害や修復を経て姿を変えていったからだそうです。 <br />**南塔(画像左の塔)罹災履歴:1807年の落雷により一部が破壊され、その後修復工事が行われました。が、途中で建築が中断されたかのような形になっており、北側の塔とは高さや形状が大きく異なっています。普通は左右対称にするのでしょうが、やりかけ、未完成といったイメージが付きまといます。

    マリア様の後ろ、威風堂々と聳えているのはモンレアーレ大聖堂。これは西側ファサードです。2つの塔の中央部にはアラブノルマン様式の尖頭アーチの繰り返しパターンが見えます。その手前の白い大理石のポルティコ(柱廊=4本の柱と3つのアーチで構成された部分)は18世紀の追加でイグナツィオ・マラビッティ(Ignazio Marabitti)の作品です。
    *しか~し、塔の形が左右異なるのが気になります。で、調べて分かったのは、もともとは同じ形で建設されたものが、歴史の中で災害や修復を経て姿を変えていったからだそうです。
    **南塔(画像左の塔)罹災履歴:1807年の落雷により一部が破壊され、その後修復工事が行われました。が、途中で建築が中断されたかのような形になっており、北側の塔とは高さや形状が大きく異なっています。普通は左右対称にするのでしょうが、やりかけ、未完成といったイメージが付きまといます。

  • 黒いアイロンフェンスの隙間から見えるのは7重のロマネスク様式の豪華な縁取りに囲まれた緑のピサノのドアです。1186年にボナンノ・ピサーノ(ピーサの人の意味)が造ったイタリアで最も古い作例で、ドアは全部で42枚の旧約聖書を題材としたパネルで構成されているとのことです。<br />この扉は中世の青銅製の扉としては最大級であり、その重量のため開けるのは大変な作業でした(怪力テュポンがドアマンなら話は別です)。ので、主に重要な典礼や儀式のために使用され、日常的な入口としては使用されませんでした。

    黒いアイロンフェンスの隙間から見えるのは7重のロマネスク様式の豪華な縁取りに囲まれた緑のピサノのドアです。1186年にボナンノ・ピサーノ(ピーサの人の意味)が造ったイタリアで最も古い作例で、ドアは全部で42枚の旧約聖書を題材としたパネルで構成されているとのことです。
    この扉は中世の青銅製の扉としては最大級であり、その重量のため開けるのは大変な作業でした(怪力テュポンがドアマンなら話は別です)。ので、主に重要な典礼や儀式のために使用され、日常的な入口としては使用されませんでした。

  • 角を曲がると大聖堂正面です。<br />ポルティコ(柱廊)と市庁舎(Palazzo Municiplae)の奥に見えるのはアルチヴェスコヴァド通り (Via Arcivescovado)に抜けるトンネル(クーポラ付き?)。ここを抜けると後陣外壁の構造が見えます。後で行きましょう。<br />

    角を曲がると大聖堂正面です。
    ポルティコ(柱廊)と市庁舎(Palazzo Municiplae)の奥に見えるのはアルチヴェスコヴァド通り (Via Arcivescovado)に抜けるトンネル(クーポラ付き?)。ここを抜けると後陣外壁の構造が見えます。後で行きましょう。

  • モンレアーレ大聖堂(Cattedrale di Monreale)のポルティコ(柱廊)とナルテックス(拝廊)部分。真ん中に見えるのが正面入り口。<br />大聖堂はウィリアム2世(グリエルモ2世)によって1174~1182年に建てられた修道院、王宮*、回廊などを含む複合建築群の一つでした。1174年に創建された大聖堂内部の広範囲にわたるモザイク装飾は、1189年に彼が亡くなるまでにほぼ完成していました。<br />*教会財産没収法によって教会の資産が没収された時点で、かつての王宮は大司教館として改修統合されました。大司教館(宮殿)は一般公開されていません。

    モンレアーレ大聖堂(Cattedrale di Monreale)のポルティコ(柱廊)とナルテックス(拝廊)部分。真ん中に見えるのが正面入り口。
    大聖堂はウィリアム2世(グリエルモ2世)によって1174~1182年に建てられた修道院、王宮*、回廊などを含む複合建築群の一つでした。1174年に創建された大聖堂内部の広範囲にわたるモザイク装飾は、1189年に彼が亡くなるまでにほぼ完成していました。
    *教会財産没収法によって教会の資産が没収された時点で、かつての王宮は大司教館として改修統合されました。大司教館(宮殿)は一般公開されていません。

  • チケットオフィスの表示。

    チケットオフィスの表示。

  • モンレアーレ大聖堂を聖母マリアに捧げるウィリアム2世(グリエルモ2世)の像。なんだか重そうです。

    モンレアーレ大聖堂を聖母マリアに捧げるウィリアム2世(グリエルモ2世)の像。なんだか重そうです。

  • チケットオフィス。<br />チケット売りの体制ができたようです。入場して教会を見学するのみなら無料です。とりあえず大聖堂チケットセット13ユーロを購入しました。<br />遠くに見える銀髪のおばさま一人で購入者をさばきます。彼女の後ろに見えるドアから入場するのかと思っていたら。。。

    チケットオフィス。
    チケット売りの体制ができたようです。入場して教会を見学するのみなら無料です。とりあえず大聖堂チケットセット13ユーロを購入しました。
    遠くに見える銀髪のおばさま一人で購入者をさばきます。彼女の後ろに見えるドアから入場するのかと思っていたら。。。

  • 後戻りしてこちらの入り口からはいるのでした。

    後戻りしてこちらの入り口からはいるのでした。

  • 主祭壇とアプス東(後陣)<br />大聖堂なら州都パレルモに立派な大聖堂がありますが、なぜパレルモから8キロしか離れていないここモンレアーレに大聖堂が建てられたのでしょう。<br />背景を調べてみました。<br />一言でいえば王と教会の権力闘争(中世ヨーロッパにおける典型的な構図の反映)と。。。モンレアーレ大聖堂の建設はその権力誇示の手段として用いられたように思えます。また、ローマ教皇は両者の対立を利用することで、シチリアにおける教皇権の回復を図ったようです。<br />大聖堂建設競争:ウオルター大司教(Walter Ophamil)はパレルモに壮大な新大聖堂の建設を開始しました。これに対し、ウィリアム2世(グリエルモ2世)はパレルモの大聖堂を凌駕し、自らの王権を確固たるものにするという明確な意図のもと、首都郊外の村モンレアーレに、さらに豪華な大聖堂を建設したのです。<br />王家の埋葬権:ウィリアム2世とパレルモのウォルター大司教は王家の埋葬権で対立していました。ウィリアム2世はモンレアーレ大聖堂をノルマン王朝の公式王家の霊廟とし、父と兄弟の遺体をパレルモからこちらに移してしまいました。

    主祭壇とアプス東(後陣)
    大聖堂なら州都パレルモに立派な大聖堂がありますが、なぜパレルモから8キロしか離れていないここモンレアーレに大聖堂が建てられたのでしょう。
    背景を調べてみました。
    一言でいえば王と教会の権力闘争(中世ヨーロッパにおける典型的な構図の反映)と。。。モンレアーレ大聖堂の建設はその権力誇示の手段として用いられたように思えます。また、ローマ教皇は両者の対立を利用することで、シチリアにおける教皇権の回復を図ったようです。
    大聖堂建設競争:ウオルター大司教(Walter Ophamil)はパレルモに壮大な新大聖堂の建設を開始しました。これに対し、ウィリアム2世(グリエルモ2世)はパレルモの大聖堂を凌駕し、自らの王権を確固たるものにするという明確な意図のもと、首都郊外の村モンレアーレに、さらに豪華な大聖堂を建設したのです。
    王家の埋葬権:ウィリアム2世とパレルモのウォルター大司教は王家の埋葬権で対立していました。ウィリアム2世はモンレアーレ大聖堂をノルマン王朝の公式王家の霊廟とし、父と兄弟の遺体をパレルモからこちらに移してしまいました。

  • アプス:パントクラトール(全能のキリスト)

    アプス:パントクラトール(全能のキリスト)

  • その下には聖母子(玉座の聖母)を称える天使セラフィムやケルビム(中段)と共に十二使徒や聖人たちの姿(下段)も見えます。<br />

    その下には聖母子(玉座の聖母)を称える天使セラフィムやケルビム(中段)と共に十二使徒や聖人たちの姿(下段)も見えます。

  • 身廊部床モザイク。

    身廊部床モザイク。

  • コスマティ様式(Cosmati Style)の床モザイク、12世紀。<br />*コスマティ家はローマの一族で、主に教会の床などに使われる装飾的な幾何学模様のモザイクエキスパートとして知られています。4世代にわたり7人の人物が、この独特のモザイク細工のみでなく建築および彫刻の専門家として名を残しています。彼らの作品は単に「コスマティ」と呼ばれることもあります。特徴は色とりどりの小さな三角形や長方形の石やガラスモザイクを石の母型にセットしたり、石の表面に施したりして精巧に象嵌するカットワーク技法です。

    コスマティ様式(Cosmati Style)の床モザイク、12世紀。
    *コスマティ家はローマの一族で、主に教会の床などに使われる装飾的な幾何学模様のモザイクエキスパートとして知られています。4世代にわたり7人の人物が、この独特のモザイク細工のみでなく建築および彫刻の専門家として名を残しています。彼らの作品は単に「コスマティ」と呼ばれることもあります。特徴は色とりどりの小さな三角形や長方形の石やガラスモザイクを石の母型にセットしたり、石の表面に施したりして精巧に象嵌するカットワーク技法です。

  • 身廊部ドア内側のトップ、聖母子のビザンチンモザイク。

    身廊部ドア内側のトップ、聖母子のビザンチンモザイク。

  • 聖母子のビザンチンモザイク<br />モンレアーレ大聖堂のモザイク画群(この聖母子像のモザイク画を含む)は、1183年から1189年にかけて、シチリア王ウィリアム2世(グリエルモ2世)の治世中にほぼ完成しました。

    聖母子のビザンチンモザイク
    モンレアーレ大聖堂のモザイク画群(この聖母子像のモザイク画を含む)は、1183年から1189年にかけて、シチリア王ウィリアム2世(グリエルモ2世)の治世中にほぼ完成しました。

  • 主祭壇の左に王の玉座、右に司祭席があり(いずれも左右の翼廊に繋がる部分)、それらの柱の上部に下記のビザンチンモザイクがあります。→白丸の部分。<br />「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」と「聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世」。

    主祭壇の左に王の玉座、右に司祭席があり(いずれも左右の翼廊に繋がる部分)、それらの柱の上部に下記のビザンチンモザイクがあります。→白丸の部分。
    「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」と「聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世」。

  • 「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」のモザイクは、王の玉座の上部にあります。クロッシング部の北側の柱にあるため、反対側の翼廊南側からしか見えません。(主祭壇の中に入れれば別ですがロープが張ってあって入れないのです。)

    「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」のモザイクは、王の玉座の上部にあります。クロッシング部の北側の柱にあるため、反対側の翼廊南側からしか見えません。(主祭壇の中に入れれば別ですがロープが張ってあって入れないのです。)

  • これがその「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」モザイクです。<br />ウィリアム2世(グリエルモ2世)がキリストに直接戴冠される様子を描いたこのモザイク画は、おそらくこの国王の(絶対的な?)統治権を主張するパワフルなメッセージだったのだろうと思います。パレルモ大司教ウオルター・オファミル(Walter Ophamil、イタリア語ではグァルティエロ・オッファミリオGualtiero Offamilio、)の権威を真っ向から否定したものとも。。。

    これがその「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」モザイクです。
    ウィリアム2世(グリエルモ2世)がキリストに直接戴冠される様子を描いたこのモザイク画は、おそらくこの国王の(絶対的な?)統治権を主張するパワフルなメッセージだったのだろうと思います。パレルモ大司教ウオルター・オファミル(Walter Ophamil、イタリア語ではグァルティエロ・オッファミリオGualtiero Offamilio、)の権威を真っ向から否定したものとも。。。

  • 「聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世」は司祭席の上部にあります。つまり「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」と向き合うような位置なのです。このモザイクはクロッシング部の南側の柱にあるので、反対側の有料の翼廊北側からしか見えません。<br /><br />

    「聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世」は司祭席の上部にあります。つまり「キリストに王冠を授かるグリエルモ2世」と向き合うような位置なのです。このモザイクはクロッシング部の南側の柱にあるので、反対側の有料の翼廊北側からしか見えません。

  • これがその「聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世」モザイクです。<br />このモザイク画は、ライバルであるパレルモ大司教ウオルター・オファミル(Walter Ophamil)に対するヴィルヘルム2世(グリエルモ2世)の権威と優位性(直接聖母マリアに)を示すために作成されたのでしょう。グリエルモ2世とパレルモ大司教との世俗的な、政治的な対立をうかがわせる一点です。<br />

    これがその「聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世」モザイクです。
    このモザイク画は、ライバルであるパレルモ大司教ウオルター・オファミル(Walter Ophamil)に対するヴィルヘルム2世(グリエルモ2世)の権威と優位性(直接聖母マリアに)を示すために作成されたのでしょう。グリエルモ2世とパレルモ大司教との世俗的な、政治的な対立をうかがわせる一点です。

  • 中世の教会では、モザイク画、絵画、ステンドグラスが「貧しい人々のための聖書」あるいは「読み書きのできない人々のための本」として機能していました。一般の人々の識字率が低かったため、これらの視覚芸術作品は聖書の内容、キリスト教の教義、そして救済への道を教えるために非常に重要でした。

    中世の教会では、モザイク画、絵画、ステンドグラスが「貧しい人々のための聖書」あるいは「読み書きのできない人々のための本」として機能していました。一般の人々の識字率が低かったため、これらの視覚芸術作品は聖書の内容、キリスト教の教義、そして救済への道を教えるために非常に重要でした。

  • ノアの物語を描いたモザイク画は、身廊の向かって右壁(側廊南壁)にあります。この旧約聖書の一連は、ノアの箱舟、洪水、そしてその後の出来事を描いた5つの場面で構成されており、カインとアベルの物語がそれに続きます。<br />その上部には創世記の物語(天地創造、人類の創造、失楽園等)が展開します。

    ノアの物語を描いたモザイク画は、身廊の向かって右壁(側廊南壁)にあります。この旧約聖書の一連は、ノアの箱舟、洪水、そしてその後の出来事を描いた5つの場面で構成されており、カインとアベルの物語がそれに続きます。
    その上部には創世記の物語(天地創造、人類の創造、失楽園等)が展開します。

  • 側廊側にはキリストの奇跡を含む新約聖書の物語が描かれています。<br />キリストの公的生活(パンを増やす奇跡や病人の治癒など)の重要なエピソードとともに物語は受難へと続き、最後の晩餐から磔刑、復活までの出来事が展開します。

    側廊側にはキリストの奇跡を含む新約聖書の物語が描かれています。
    キリストの公的生活(パンを増やす奇跡や病人の治癒など)の重要なエピソードとともに物語は受難へと続き、最後の晩餐から磔刑、復活までの出来事が展開します。

  • 再利用されたローマ時代の石材.<br />身廊と側廊を隔てる柱は灰色の花崗岩で作られていますが、1本はチポリーノ大理石だったと言われています。これらの柱とその美しい柱頭は、シチリア島のノルマン人支配者との関係を強化するために、教皇ルキウス3世から贈られたと考えられており、古代ローマ神殿から回収されました。

    再利用されたローマ時代の石材.
    身廊と側廊を隔てる柱は灰色の花崗岩で作られていますが、1本はチポリーノ大理石だったと言われています。これらの柱とその美しい柱頭は、シチリア島のノルマン人支配者との関係を強化するために、教皇ルキウス3世から贈られたと考えられており、古代ローマ神殿から回収されました。

  • 天井部分#1。

    天井部分#1。

  • 天井部分#2。

    天井部分#2。

  • 告解室(Confessionale)

    告解室(Confessionale)

  • モンレアーレ大聖堂の城門を描いた大理石の床。大聖堂自体は壁で囲まれていたわけではありませんが隣接する大司教館と修道院の建物は境内壁で囲まれ間隔を置いてこのような塔と門があったようです。<br />

    モンレアーレ大聖堂の城門を描いた大理石の床。大聖堂自体は壁で囲まれていたわけではありませんが隣接する大司教館と修道院の建物は境内壁で囲まれ間隔を置いてこのような塔と門があったようです。

  • シチリア王ウィリアム1世(グリエルモ1世)の石棺(Sarcophagus of William I)-翼廊南側<br />赤色斑岩(red porphyry)で作られています。これは王権と権力を象徴する非常に貴重で希少な石材であり、ローマ帝政時代、そしてその後も他の王室の記念碑にも使用されました。<br />*ローマ起源:赤色斑岩はローマ時代にエジプトで採掘され、ノルマン人は君主の石棺作成のためにローマからこの素材でできた柱や石板を輸入しました。(一部の学者の分析では、この石棺石材はローマのカラカラ浴場またはディオクレティアヌス浴場にあったもので、そのうちの1本の柱を再利用してつくられたものとのことです。)

    シチリア王ウィリアム1世(グリエルモ1世)の石棺(Sarcophagus of William I)-翼廊南側
    赤色斑岩(red porphyry)で作られています。これは王権と権力を象徴する非常に貴重で希少な石材であり、ローマ帝政時代、そしてその後も他の王室の記念碑にも使用されました。
    *ローマ起源:赤色斑岩はローマ時代にエジプトで採掘され、ノルマン人は君主の石棺作成のためにローマからこの素材でできた柱や石板を輸入しました。(一部の学者の分析では、この石棺石材はローマのカラカラ浴場またはディオクレティアヌス浴場にあったもので、そのうちの1本の柱を再利用してつくられたものとのことです。)

  • シチリア王ウィリアム2世(グリエルモ2世)の石棺, Sarcophagus of William II)-翼廊南側

    シチリア王ウィリアム2世(グリエルモ2世)の石棺, Sarcophagus of William II)-翼廊南側

  • 一旦、大聖堂を出て広場側へ出て、左折すると大司教館の左端に回廊の入り口があります。

    一旦、大聖堂を出て広場側へ出て、左折すると大司教館の左端に回廊の入り口があります。

  • もともとこの回廊はベネディクト会クリュニー修道院(Benedictine Cluniac abbey)のものでした。修復の手が入ってはいるものの1182年の創建当時から残っている貴重な領域です。<br />*19世紀のイタリアでは、国家統一運動の高まりとともに、国家の財源確保や世俗化政策のために、カトリック教会の広大な財産を国が管理・国有化する「教会財産没収法(Leggi per l&#39;eversione dell&#39;asse ecclesiastico)」が制定されました。これにより修道院の建物と修道院の膨大な資産の多くが国有化されました。モンレアーレ大聖堂、ベネディクト会修道院も例外ではなく、その膨大な資産の多くが没収され、大聖堂と修道院の一部だけが教会の資産として残されました。また経済的基盤を失った修道院は解散されたため、修道士たちは世俗の生活に戻ったり、他の地域へ移住を余儀なくされたり、貧困のうちに余命を全うしたケースもあったようです。 <br />*建物の新たな用途:解散後、回廊と旧修道院施設は、国立美術研究所(State Art Institute)の管理下に入り、維持管理や改修が行われています。

    もともとこの回廊はベネディクト会クリュニー修道院(Benedictine Cluniac abbey)のものでした。修復の手が入ってはいるものの1182年の創建当時から残っている貴重な領域です。
    *19世紀のイタリアでは、国家統一運動の高まりとともに、国家の財源確保や世俗化政策のために、カトリック教会の広大な財産を国が管理・国有化する「教会財産没収法(Leggi per l'eversione dell'asse ecclesiastico)」が制定されました。これにより修道院の建物と修道院の膨大な資産の多くが国有化されました。モンレアーレ大聖堂、ベネディクト会修道院も例外ではなく、その膨大な資産の多くが没収され、大聖堂と修道院の一部だけが教会の資産として残されました。また経済的基盤を失った修道院は解散されたため、修道士たちは世俗の生活に戻ったり、他の地域へ移住を余儀なくされたり、貧困のうちに余命を全うしたケースもあったようです。
    *建物の新たな用途:解散後、回廊と旧修道院施設は、国立美術研究所(State Art Institute)の管理下に入り、維持管理や改修が行われています。

  • モザイク柱たちは非常に真新しく見えます。調べると2021年, 欧州地域開発基金(European Regional Development Fund)の資金援助を受けて、ベネディクト会回廊の大規模な補強・修復プロジェクトが開始されたようです。その修復結果なのでしょうが、これらのモザイク柱は出来たてホヤホヤのようにみえるのです。<br />

    モザイク柱たちは非常に真新しく見えます。調べると2021年, 欧州地域開発基金(European Regional Development Fund)の資金援助を受けて、ベネディクト会回廊の大規模な補強・修復プロジェクトが開始されたようです。その修復結果なのでしょうが、これらのモザイク柱は出来たてホヤホヤのようにみえるのです。

  • 12世紀のオリジナル:オリジナルの228本の二重柱は、ノルマン、ビザンチン、アラブの職人の手によって製作され、聖書の場面を描いた精巧な彫刻が施されたロマネスク様式の柱頭と、独特の象嵌モザイクが特徴とのことです。<br />2本ワンセットの柱は1セットおきにそれぞれ異なる幾何学モザイクで飾られています。

    12世紀のオリジナル:オリジナルの228本の二重柱は、ノルマン、ビザンチン、アラブの職人の手によって製作され、聖書の場面を描いた精巧な彫刻が施されたロマネスク様式の柱頭と、独特の象嵌モザイクが特徴とのことです。
    2本ワンセットの柱は1セットおきにそれぞれ異なる幾何学モザイクで飾られています。

  • 柱頭の独特な装飾は説明的、物語的な表現が展開するロマネスク様式です。そのような表現はロマネスク彫刻の特色であり、彫刻は単なる装飾だけでなく文字が読めない人々*にも聖書の物語を視覚的に伝え、信者への理解を促す教育的な役割をもつ必要がありました。<br />*因みに中世ヨーロッパの文盲率は非常に高く、初期(5~10世紀)では一般的に5%未満の識字率で、貴族でも読み書きができる人は少数でした。しかし、中世後期(11~15世紀)には商業の発展と共に都市の商人や職人の間で識字率が上昇しました。<br /><br />この柱頭彫刻はモンレアーレ大聖堂を聖母マリアに捧げるオートヴィル公グリエルモ2世(ウィリアム2世)を表しています。1177~1183年作。<br />もう少し詳しく言えば、グリエルモ2世(ウィリアム2世)が天使の助けを借りてモンレアーレ大聖堂の模型を聖母マリア(真の受益者は聖母マリアの膝に座るキリスト)に捧げている場面です。

    柱頭の独特な装飾は説明的、物語的な表現が展開するロマネスク様式です。そのような表現はロマネスク彫刻の特色であり、彫刻は単なる装飾だけでなく文字が読めない人々*にも聖書の物語を視覚的に伝え、信者への理解を促す教育的な役割をもつ必要がありました。
    *因みに中世ヨーロッパの文盲率は非常に高く、初期(5~10世紀)では一般的に5%未満の識字率で、貴族でも読み書きができる人は少数でした。しかし、中世後期(11~15世紀)には商業の発展と共に都市の商人や職人の間で識字率が上昇しました。

    この柱頭彫刻はモンレアーレ大聖堂を聖母マリアに捧げるオートヴィル公グリエルモ2世(ウィリアム2世)を表しています。1177~1183年作。
    もう少し詳しく言えば、グリエルモ2世(ウィリアム2世)が天使の助けを借りてモンレアーレ大聖堂の模型を聖母マリア(真の受益者は聖母マリアの膝に座るキリスト)に捧げている場面です。

  • 清めと衛生(Ablutions and Hygiene):<br />回廊の南西コーナーに設けられた噴水は、修道士たちが手と顔を清めるためにありました。これは一つの習慣的儀式で、食堂に入る前に行われていました。<br />*他の方の旅行記に’トイレットだ’と書いてあるのを見て驚いたのですが、 修道院のlatrine or toiletは別の場所にあり、この場所は食堂(refectory,僧侶の食事室)に入る前、手を洗うためにだけ使用されました。

    清めと衛生(Ablutions and Hygiene):
    回廊の南西コーナーに設けられた噴水は、修道士たちが手と顔を清めるためにありました。これは一つの習慣的儀式で、食堂に入る前に行われていました。
    *他の方の旅行記に’トイレットだ’と書いてあるのを見て驚いたのですが、 修道院のlatrine or toiletは別の場所にあり、この場所は食堂(refectory,僧侶の食事室)に入る前、手を洗うためにだけ使用されました。

  • 後陣を見るにはアルチヴェスコヴァド通り(Via Arcivescovado)に出ないといけないのでこのクーポラ付きのトンネルをくぐり抜けます。<br /><br />

    後陣を見るにはアルチヴェスコヴァド通り(Via Arcivescovado)に出ないといけないのでこのクーポラ付きのトンネルをくぐり抜けます。

  • 後陣外装<br />尖頭アーチのアーケードは、アラブ建築とビザンチン建築の影響を物語っています。<br />装飾モチーフ:<br />イスラム美術を彷彿とさせる装飾的な幾何学模様やメダリオンは「アラブ・ノルマン」様式の融合の産物でしょう。

    後陣外装
    尖頭アーチのアーケードは、アラブ建築とビザンチン建築の影響を物語っています。
    装飾モチーフ:
    イスラム美術を彷彿とさせる装飾的な幾何学模様やメダリオンは「アラブ・ノルマン」様式の融合の産物でしょう。

  • 広場に集合して他のメンバーが揃うのを待っていると、ポリスや近隣の人々が三々五々集まってきます。何かスピーチやお祈りらしものものも唱えられているようです。<br />近くにいたこの手前の若いカップルに聞くと3日前にこの場所で銃撃事件があり、3人の若者が死亡したとのこと。<br />あとで調べるとこの集会は3日前(3月27日)に起きた銃乱射事件に対する市民の哀悼と衝撃の表明だったと知りました。<br />モンレアーレ地域はシチリア・マフィア(コサ・ノストラなど)との昔からの繋がりで知られる地域ですが、この事件はマフィアとは関係なさそうでした。<br />その後、逃走していた犯人はすぐに捕まったようです。罪状は銃器の不法所持と殺人罪および建造物損壊罪でしょうか?<br /><br />

    広場に集合して他のメンバーが揃うのを待っていると、ポリスや近隣の人々が三々五々集まってきます。何かスピーチやお祈りらしものものも唱えられているようです。
    近くにいたこの手前の若いカップルに聞くと3日前にこの場所で銃撃事件があり、3人の若者が死亡したとのこと。
    あとで調べるとこの集会は3日前(3月27日)に起きた銃乱射事件に対する市民の哀悼と衝撃の表明だったと知りました。
    モンレアーレ地域はシチリア・マフィア(コサ・ノストラなど)との昔からの繋がりで知られる地域ですが、この事件はマフィアとは関係なさそうでした。
    その後、逃走していた犯人はすぐに捕まったようです。罪状は銃器の不法所持と殺人罪および建造物損壊罪でしょうか?

  • 他のメンバーが揃うまで時間があるので休憩します。バーイタリア。傍では傷んだ歩道の補修作業中。<br /><br />

    他のメンバーが揃うまで時間があるので休憩します。バーイタリア。傍では傷んだ歩道の補修作業中。

  • 途中風景(車窓から)。<br />

    途中風景(車窓から)。

  • チェファル―到着。2時間半の自由時間です。まずはチェファル―の海沿いの通り、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り(Via Vittorio Emanuele)と(ディシェーザ・パラムロ(Discesa Paramuro)通りが交差するところにあるこの地図でスポットを確認します。<br />あと大聖堂近くを南北にのびるルッジェーロ通り(Corso Ruggero)も頭に入れておきます。

    チェファル―到着。2時間半の自由時間です。まずはチェファル―の海沿いの通り、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り(Via Vittorio Emanuele)と(ディシェーザ・パラムロ(Discesa Paramuro)通りが交差するところにあるこの地図でスポットを確認します。
    あと大聖堂近くを南北にのびるルッジェーロ通り(Corso Ruggero)も頭に入れておきます。

  • 遠くにモロ ディ チェファルー(Molo di Cefalú)が見えます。

    遠くにモロ ディ チェファルー(Molo di Cefalú)が見えます。

  • 下層階は古い漁師の家でその上に2,3階を増築した建物が海岸沿いに並んでいます。

    下層階は古い漁師の家でその上に2,3階を増築した建物が海岸沿いに並んでいます。

  • 入り江の向こう側はルンゴマーレ・ディ・チェファルー・コーブ(Lungomare di Cefalú Cove)。ビーチ沿いに遊歩道が続いています。

    入り江の向こう側はルンゴマーレ・ディ・チェファルー・コーブ(Lungomare di Cefalú Cove)。ビーチ沿いに遊歩道が続いています。

  • la Rocca, 石灰岩の塊です。<br />地質学的には中生代と第三紀の間、約2億5000万年前から6500万年前に形成されたようです。この石灰岩の崖はマドニエ山脈の名残であり、先史時代から人が居住していたとのこと。この画像では見えませんが、ロッカの東側に洞窟があり、古代人の住居と祭壇のようなものが残っているそうです。が、現在は立ち入り禁止,一般公開されていません。<br />丘のトップにはチェファル要塞の遺構、中腹に見えるのはノルマン城砦跡です。

    la Rocca, 石灰岩の塊です。
    地質学的には中生代と第三紀の間、約2億5000万年前から6500万年前に形成されたようです。この石灰岩の崖はマドニエ山脈の名残であり、先史時代から人が居住していたとのこと。この画像では見えませんが、ロッカの東側に洞窟があり、古代人の住居と祭壇のようなものが残っているそうです。が、現在は立ち入り禁止,一般公開されていません。
    丘のトップにはチェファル要塞の遺構、中腹に見えるのはノルマン城砦跡です。

  • チェファル―大聖堂です。<br />山登りをするメンバーもいるようですが、ここ5,6日歩いてばかりいるので足にクランプが起きそうです。おとなしく難度低めの街歩き、海辺歩きにとどめておきます。

    チェファル―大聖堂です。
    山登りをするメンバーもいるようですが、ここ5,6日歩いてばかりいるので足にクランプが起きそうです。おとなしく難度低めの街歩き、海辺歩きにとどめておきます。

  • 、、、と、予期せぬ出来事、挙式後のカップルが階段を下りてきました。お幸せに!

    、、、と、予期せぬ出来事、挙式後のカップルが階段を下りてきました。お幸せに!

  • チェファル―大聖堂, タワー<br />チェファル大聖堂の巨大な鐘楼は、城のような防御的な役割を果たしていました。その重厚な外観と、要塞のような構造は、監視塔として、そして攻撃を受けた際の最後の防衛線としての役割があったようです。そびえ立つ壁と要塞化された建物全体は、エクレシア・ムニタ(ecclesia munita=要塞化された教会)として設計され、有事の際に避難所と防衛を提供する場でもありました。

    チェファル―大聖堂, タワー
    チェファル大聖堂の巨大な鐘楼は、城のような防御的な役割を果たしていました。その重厚な外観と、要塞のような構造は、監視塔として、そして攻撃を受けた際の最後の防衛線としての役割があったようです。そびえ立つ壁と要塞化された建物全体は、エクレシア・ムニタ(ecclesia munita=要塞化された教会)として設計され、有事の際に避難所と防衛を提供する場でもありました。

  • チェファル―大聖堂#2. 力強いノルマン様式の2つの塔がファサードを特徴づけています。

    チェファル―大聖堂#2. 力強いノルマン様式の2つの塔がファサードを特徴づけています。

  • 急な階段を登って、教会正面に到達です。<br />トップの部分:ロマネスク様式のファサード(盲アーケードと交差する犬歯アーチ)と側面の塔は、13 世紀半ばに完成しました。2 つの塔の間にある柱廊入口は、1472 年にアンブロージョ・ダ・コモ(Ambrogio da Como)によって増築された部分です。<br />拝廊(narthex)部入口に2つの紋章があります。向かって左はローマ法王であるフランシスコ教皇の紋章、右は古代の聖公会とそのモットーを表す紋章です。

    急な階段を登って、教会正面に到達です。
    トップの部分:ロマネスク様式のファサード(盲アーケードと交差する犬歯アーチ)と側面の塔は、13 世紀半ばに完成しました。2 つの塔の間にある柱廊入口は、1472 年にアンブロージョ・ダ・コモ(Ambrogio da Como)によって増築された部分です。
    拝廊(narthex)部入口に2つの紋章があります。向かって左はローマ法王であるフランシスコ教皇の紋章、右は古代の聖公会とそのモットーを表す紋章です。

  • 内陣方向の内部の画像。<br />モンレアーレの大聖堂とほぼ同じ時期に建設され、建物の構造も似ていますが、ここのモザイク壁画は正面の後陣部分だけしかありません(後述します)。<br />アプス部分のモザイクはバロック様式の装飾で覆われていますがこれは後世(17~18世紀)の改修結果によるものです。

    内陣方向の内部の画像。
    モンレアーレの大聖堂とほぼ同じ時期に建設され、建物の構造も似ていますが、ここのモザイク壁画は正面の後陣部分だけしかありません(後述します)。
    アプス部分のモザイクはバロック様式の装飾で覆われていますがこれは後世(17~18世紀)の改修結果によるものです。

  • アプス(後陣)部分のパントクラトール(全能のキリスト)のモザイク、1148年作。交差ボールトの部分には4人の智天使 (cherubim) と 4人の熾天使 (seraphim) がそれぞれ描かれています。 <br />これらのビザンティン・モザイクは1170年までに完成したものの内陣の下の部分と側壁は17世紀になるまで完成しませんでした。

    アプス(後陣)部分のパントクラトール(全能のキリスト)のモザイク、1148年作。交差ボールトの部分には4人の智天使 (cherubim) と 4人の熾天使 (seraphim) がそれぞれ描かれています。
    これらのビザンティン・モザイクは1170年までに完成したものの内陣の下の部分と側壁は17世紀になるまで完成しませんでした。

  • その下:<br />上段には聖母マリアを囲む 4 人の大天使 (archangel)。中段と下段には12使徒が並ぶモザイクがあります。

    その下:
    上段には聖母マリアを囲む 4 人の大天使 (archangel)。中段と下段には12使徒が並ぶモザイクがあります。

  • なぜ壁面のモザイクは完了しなかったのかという素朴な疑問がわいてきました。<br />帰ってからいろいろなサイトを検索すると、いくつかの理由が下記のようにリストされていました。<br />①宗教的政治的対立と優先順位の変更::1154年に崩御したシチリア王ルッジェーロ2世は、生存中にチェファル―大聖堂の完成を見ることはありませんでした。息子で後継者のウィリアム1世=グリエルモ1世(悪王)はチェファル大聖堂に埋葬されることを希望した父王の遺言を無視し、パレルモ大聖堂に埋葬しました。この決定の正確な理由は不明ですが、政治的および宗教的戦略に加え、シチリアの首都大聖堂に埋葬することでノルマン王朝の象徴性をアッピールする意図があったのかもしれません。都市としてのパレルモは、取るに足らないチェファルよりもはるかに大きく、格式が高く、重要でしたから。ともあれ、この決定によってチェファル―大聖堂の建設継続の優先順位は著しく低下しました。<br />しかし、チェファルの聖職者たちは長年にわたり、パレルモでの埋葬は一時的なもので、国王の遺体は結局チェファル大聖堂に安置されるだろうと考えていたようです。(ルッジェーロ2世が自身と妻の墓のために用意した空の石棺はすでに1145年に当大聖堂に設置されていましたし。)しかし、残念ながら彼らの考えは裏切られました。1215年、ルッジェーロ2世の孫であるフリードリヒ2世(フェデリーコ2世)は、これらの2つの空の石棺をチェファル大聖堂からパレルモ大聖堂に移してしまいました。この二つの石棺には現在、フリードリヒ2世自身と、ロジャー国王の死後に生まれた娘コンスタンツェのドイツ人の夫君である父ヘンリー6世(ハインリッヒ6世またはエンリコ6世)の遺骨が納められています。

    なぜ壁面のモザイクは完了しなかったのかという素朴な疑問がわいてきました。
    帰ってからいろいろなサイトを検索すると、いくつかの理由が下記のようにリストされていました。
    ①宗教的政治的対立と優先順位の変更::1154年に崩御したシチリア王ルッジェーロ2世は、生存中にチェファル―大聖堂の完成を見ることはありませんでした。息子で後継者のウィリアム1世=グリエルモ1世(悪王)はチェファル大聖堂に埋葬されることを希望した父王の遺言を無視し、パレルモ大聖堂に埋葬しました。この決定の正確な理由は不明ですが、政治的および宗教的戦略に加え、シチリアの首都大聖堂に埋葬することでノルマン王朝の象徴性をアッピールする意図があったのかもしれません。都市としてのパレルモは、取るに足らないチェファルよりもはるかに大きく、格式が高く、重要でしたから。ともあれ、この決定によってチェファル―大聖堂の建設継続の優先順位は著しく低下しました。
    しかし、チェファルの聖職者たちは長年にわたり、パレルモでの埋葬は一時的なもので、国王の遺体は結局チェファル大聖堂に安置されるだろうと考えていたようです。(ルッジェーロ2世が自身と妻の墓のために用意した空の石棺はすでに1145年に当大聖堂に設置されていましたし。)しかし、残念ながら彼らの考えは裏切られました。1215年、ルッジェーロ2世の孫であるフリードリヒ2世(フェデリーコ2世)は、これらの2つの空の石棺をチェファル大聖堂からパレルモ大聖堂に移してしまいました。この二つの石棺には現在、フリードリヒ2世自身と、ロジャー国王の死後に生まれた娘コンスタンツェのドイツ人の夫君である父ヘンリー6世(ハインリッヒ6世またはエンリコ6世)の遺骨が納められています。

  • ②チェファルのモザイクへの資金提供が中断?: ルッジェーロ2の後継者であるウィリアム1世と2世(グリエルモ1世と2世)を含むその後の王たちはパラティーナ礼拝堂やモンレアーレ大聖堂などの他のプロジェクトを優先したため、チェファルのモザイクへの資金提供が中断されたと推測できます。1172年以降、教会は衰退期を迎え壁面モザイクの完了も危ぶまれてきます。結果的に内陣の下の部分と側壁は17世紀になるまで完成していません。こうしてみるとチェファル大聖堂の建設計画の続行と未完の壁面モザイクの裏には諸々の世俗的な駆け引きや都合が絡まり合った事情があったようです。

    ②チェファルのモザイクへの資金提供が中断?: ルッジェーロ2の後継者であるウィリアム1世と2世(グリエルモ1世と2世)を含むその後の王たちはパラティーナ礼拝堂やモンレアーレ大聖堂などの他のプロジェクトを優先したため、チェファルのモザイクへの資金提供が中断されたと推測できます。1172年以降、教会は衰退期を迎え壁面モザイクの完了も危ぶまれてきます。結果的に内陣の下の部分と側壁は17世紀になるまで完成していません。こうしてみるとチェファル大聖堂の建設計画の続行と未完の壁面モザイクの裏には諸々の世俗的な駆け引きや都合が絡まり合った事情があったようです。

  • 側礼拝堂:大聖堂の一部、特に側礼拝堂にはバロック様式の装飾が施され、後期に重厚な大理石細工やその他の増築が行われました。<br />改修の背景:これらのバロック様式の改修は、中世の既存の建物をしばしば改変したため、一部の人々からは「残念な」芸術的改訂と見なされることもあります。

    側礼拝堂:大聖堂の一部、特に側礼拝堂にはバロック様式の装飾が施され、後期に重厚な大理石細工やその他の増築が行われました。
    改修の背景:これらのバロック様式の改修は、中世の既存の建物をしばしば改変したため、一部の人々からは「残念な」芸術的改訂と見なされることもあります。

  • 側礼拝堂のマドンナ。

    側礼拝堂のマドンナ。

  • 左側側廊の祭壇。

    左側側廊の祭壇。

  • チェファル―大聖堂を出て、マンドラリスカ通りを下っていくとMandralisca Sediciがありました。TripAdvisorのレビューもよかったカジュアルなイタリアン/地中海料理のビストロです。外のテーブルセッティングも気が利いていたし、ここで軽いランチにします。カルボナーラとレモネード。アメリカのレストランのようにてんこ盛りでなくてよかったです。

    チェファル―大聖堂を出て、マンドラリスカ通りを下っていくとMandralisca Sediciがありました。TripAdvisorのレビューもよかったカジュアルなイタリアン/地中海料理のビストロです。外のテーブルセッティングも気が利いていたし、ここで軽いランチにします。カルボナーラとレモネード。アメリカのレストランのようにてんこ盛りでなくてよかったです。

  • さらにマンドラリスカ通りを下っていくとマンドラリスカ美術館(Museo Mandralisca)があります。

    さらにマンドラリスカ通りを下っていくとマンドラリスカ美術館(Museo Mandralisca)があります。

  • 通りに面したマンドラリスカ美術館の一角がガラス張りになっていて古いピッザ窯のようなものが見えました。<br />あとで調べるとオリーブオイルの貯蔵容器(Old Olive Oil Containers)ということでした。<br />マンドラリスカ男爵が土地で生産されたオリーブ油を貯蔵していた地下室(半地下のような構造)ですって。博物館の建物の1階の通りから見えるようになっています。

    通りに面したマンドラリスカ美術館の一角がガラス張りになっていて古いピッザ窯のようなものが見えました。
    あとで調べるとオリーブオイルの貯蔵容器(Old Olive Oil Containers)ということでした。
    マンドラリスカ男爵が土地で生産されたオリーブ油を貯蔵していた地下室(半地下のような構造)ですって。博物館の建物の1階の通りから見えるようになっています。

  • 入館しました。エンリコ・ピライノ・ディ・マンドラリスカ男爵(Enrico Piraino di Mandralisca)が集めた数々のコレクションを展示しているのが、このマンドラリスカ博物館。19世紀のチェファル出身の男爵で、その収集品は彼の死後チェファル―市に寄付されました。

    入館しました。エンリコ・ピライノ・ディ・マンドラリスカ男爵(Enrico Piraino di Mandralisca)が集めた数々のコレクションを展示しているのが、このマンドラリスカ博物館。19世紀のチェファル出身の男爵で、その収集品は彼の死後チェファル―市に寄付されました。

  • 2階に上がります。

    2階に上がります。

  • マンドラリスカ男爵の図書室。

    マンドラリスカ男爵の図書室。

  • 18世紀の無名画家の「ドアに描かれた花と鳥」

    18世紀の無名画家の「ドアに描かれた花と鳥」

  • ムラノグラスのシャンデリア。18世紀。

    ムラノグラスのシャンデリア。18世紀。

  • 『マグロ売り』(Venditore di tonno)のクラテル(葡萄酒と水を混ぜる容器)。この美術館の目玉展示品のひとつなので、割と目立つところに展示してあります。<br />この赤絵式のクラテルはイタリアのリパリ島(Lipari)で紀元前 380~370 年頃、作成されています。

    『マグロ売り』(Venditore di tonno)のクラテル(葡萄酒と水を混ぜる容器)。この美術館の目玉展示品のひとつなので、割と目立つところに展示してあります。
    この赤絵式のクラテルはイタリアのリパリ島(Lipari)で紀元前 380~370 年頃、作成されています。

  • 『ある男の肖像』(Ritratto d’uomo)? アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina)作。モナリザの微笑に次いで世界で2番目に有名なスマイルなのだそうです。ちょっと気味が悪いのですが。。<br />

    『ある男の肖像』(Ritratto d’uomo)? アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina)作。モナリザの微笑に次いで世界で2番目に有名なスマイルなのだそうです。ちょっと気味が悪いのですが。。

  • ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(フィレンツェ、1490‐1544)の「洗礼者聖ジョヴァンニ」’San Giovanni Battista′ di Giovanni Antonio Soliani (Firenze, 1490-1544)

    ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(フィレンツェ、1490‐1544)の「洗礼者聖ジョヴァンニ」’San Giovanni Battista′ di Giovanni Antonio Soliani (Firenze, 1490-1544)

  • アテネ近郊(アッティカ)で作られた古代ギリシャのクラテル(葡萄酒と水を混ぜる容器)。紀元前480-470年頃。

    アテネ近郊(アッティカ)で作られた古代ギリシャのクラテル(葡萄酒と水を混ぜる容器)。紀元前480-470年頃。

  • アンジェロ・カロセッリ(ローマ、1585‐1652)の「ヴァニタス」<br />&#39;Vanitas&#39; di Angelo Caroselli (Roma, 1585-1652)

    アンジェロ・カロセッリ(ローマ、1585‐1652)の「ヴァニタス」
    'Vanitas' di Angelo Caroselli (Roma, 1585-1652)

  • 17世紀前半のフランドルの無名画家の「聖トッマーゾの不信」<br />「聖トッマーゾ(トマス)の不信(懐疑)」とは、復活したイエス・キリストの姿を他の弟子たちが見た際に、信じられなかった使徒トマスが、イエスの傷に自分の指を差し入れるまで信じないと言った逸話です。この話は、目に見えないものを信じることの難しさや、信仰の過程を表すものとして知られています。?<br />因みにカラヴァッジョにも同題の作品(1601-02年頃)があります。

    17世紀前半のフランドルの無名画家の「聖トッマーゾの不信」
    「聖トッマーゾ(トマス)の不信(懐疑)」とは、復活したイエス・キリストの姿を他の弟子たちが見た際に、信じられなかった使徒トマスが、イエスの傷に自分の指を差し入れるまで信じないと言った逸話です。この話は、目に見えないものを信じることの難しさや、信仰の過程を表すものとして知られています。?
    因みにカラヴァッジョにも同題の作品(1601-02年頃)があります。

  • ポルトラ-ノ地図帳(地中海用)(Portolan atlas=Nautical chart for the Mediterranean)作者不詳。<br />ポルトラ-ノ地図帳は、13~15世紀にかけてヨーロッパで航海に用いられた詳細な航海地図です。これらの海図は、特に地中海と黒海の海岸線を正確に描写していることで知られ、方位線(羅針盤の方向を示す線)と詳細な海岸線が特徴です。「ポルトラ-ノ」という用語は、イタリア語で「港に関連する」という意味の「portolani」に由来し、海上貿易における航海ツールとしての主要な機能を示しています。<br />ポルトガルは大航海時代に先駆け、1502年(16世紀初頭)にカンティーノ星座早見盤を作成しました。これは伝統的なポルトラ-ノ地図技法に、天文航法や新発見地域(アフリカ、ブラジル、インド)の緯度目盛りの使用といった新しい技術を融合させた、ルネサンス地図製作の傑出した例でした。<br />(注)カンティーノ星座早見盤の正式名称は「インディアスの諸地方で近年発見された島々への航海のための海図」というそうです。しかし、その原図は現在消失しており、北イタリアのモデナ市の図書館に所蔵されているその複写版(通称カンティーノ図と呼ばれる)のみが残っています。カンティーノというスパイに盗写されてポルトガルからイタリアに売られたものです。<br />なおこのポルトラ-ノ地図帳は余計な花や植物のイラストが付加されていますが、おそらくこれは実用性よりも王侯貴族用に装飾性を加味して作成したためであろうと思われます。

    ポルトラ-ノ地図帳(地中海用)(Portolan atlas=Nautical chart for the Mediterranean)作者不詳。
    ポルトラ-ノ地図帳は、13~15世紀にかけてヨーロッパで航海に用いられた詳細な航海地図です。これらの海図は、特に地中海と黒海の海岸線を正確に描写していることで知られ、方位線(羅針盤の方向を示す線)と詳細な海岸線が特徴です。「ポルトラ-ノ」という用語は、イタリア語で「港に関連する」という意味の「portolani」に由来し、海上貿易における航海ツールとしての主要な機能を示しています。
    ポルトガルは大航海時代に先駆け、1502年(16世紀初頭)にカンティーノ星座早見盤を作成しました。これは伝統的なポルトラ-ノ地図技法に、天文航法や新発見地域(アフリカ、ブラジル、インド)の緯度目盛りの使用といった新しい技術を融合させた、ルネサンス地図製作の傑出した例でした。
    (注)カンティーノ星座早見盤の正式名称は「インディアスの諸地方で近年発見された島々への航海のための海図」というそうです。しかし、その原図は現在消失しており、北イタリアのモデナ市の図書館に所蔵されているその複写版(通称カンティーノ図と呼ばれる)のみが残っています。カンティーノというスパイに盗写されてポルトガルからイタリアに売られたものです。
    なおこのポルトラ-ノ地図帳は余計な花や植物のイラストが付加されていますが、おそらくこれは実用性よりも王侯貴族用に装飾性を加味して作成したためであろうと思われます。

  • 海沿いのヴィットーリオ・エマヌエーレ通りに戻りました。中世の洗濯場(Lavatoio Medioevale)、16世紀の遺構です。<br />今でもチェファリーノ川から取り込んだ水が流れていて7~8人が同時に洗濯できるような構造になっています。面白いのは洗濯板のような楔形の石が20度くらいの傾斜をつけて洗濯場に固定されていて機能的にデザインされていることでした。

    海沿いのヴィットーリオ・エマヌエーレ通りに戻りました。中世の洗濯場(Lavatoio Medioevale)、16世紀の遺構です。
    今でもチェファリーノ川から取り込んだ水が流れていて7~8人が同時に洗濯できるような構造になっています。面白いのは洗濯板のような楔形の石が20度くらいの傾斜をつけて洗濯場に固定されていて機能的にデザインされていることでした。

  • このユニークな16世紀の遺構は20世紀に修復されています。こうした石造りの洗濯槽は、20世紀に入ってもなお、地元の女性たちによって活用されていました(これ以外にも複数の洗濯場がありました)。

    このユニークな16世紀の遺構は20世紀に修復されています。こうした石造りの洗濯槽は、20世紀に入ってもなお、地元の女性たちによって活用されていました(これ以外にも複数の洗濯場がありました)。

  • しかし水道の普及や家庭電化がすすみ、こうした石造りの洗濯場は使用されなくなりました。現在は公共の観光名所となっており、昔の女性たちの日常生活を垣間見ることができます。

    しかし水道の普及や家庭電化がすすみ、こうした石造りの洗濯場は使用されなくなりました。現在は公共の観光名所となっており、昔の女性たちの日常生活を垣間見ることができます。

  • プロシュートやソーセージを扱っているお店がありました。オリーブや乾物のパスタも置いています。ここでスナック用にプロシュートのパニーノを作ってもらいました。

    プロシュートやソーセージを扱っているお店がありました。オリーブや乾物のパスタも置いています。ここでスナック用にプロシュートのパニーノを作ってもらいました。

  • ラルゴ・エロイ・デル・マーレ(Largo Eroi Del Mare)<br />旧港の上にあるマリーナ広場(Piazza Marina)の石積みの壁(の復元されたもの)。<br />この復元された石積み壁は、かつて街全体を囲んでいた中世の防御壁の一部でした。現在は青い空と紺碧のティレニア海を撮るまたとないフレーミングを提供しています。<br />

    ラルゴ・エロイ・デル・マーレ(Largo Eroi Del Mare)
    旧港の上にあるマリーナ広場(Piazza Marina)の石積みの壁(の復元されたもの)。
    この復元された石積み壁は、かつて街全体を囲んでいた中世の防御壁の一部でした。現在は青い空と紺碧のティレニア海を撮るまたとないフレーミングを提供しています。

  • 運よく空いたベンチがありました。ティレニア海の海風に吹かれながらスナックタイムにします。

    運よく空いたベンチがありました。ティレニア海の海風に吹かれながらスナックタイムにします。

  • ペスカラ門(Porta Pescara) <br />ポルタ・ペスカーラは、かつてチェファルの城壁に並んでいた4つの門のうち、唯一現存する門です。その建設は、1200年から1300年にかけて、チェファルがヴェンティミリア家によって統治されていた時代に遡るとのことです。その名前, ポルタ・ペスカーラは、ペスカーラ侯爵フランチェスコ・フェルディナンド・ダヴァロスにちなんで名付けられました。彼は総督在任中、1570年に門の改修と拡張を監督しました。この門は、ポルタ・ピスカリアやポルタ・マリーナとも呼ばれています。これは、古代、漁を終えた船がここに停泊していたことに由来しています。

    ペスカラ門(Porta Pescara)
    ポルタ・ペスカーラは、かつてチェファルの城壁に並んでいた4つの門のうち、唯一現存する門です。その建設は、1200年から1300年にかけて、チェファルがヴェンティミリア家によって統治されていた時代に遡るとのことです。その名前, ポルタ・ペスカーラは、ペスカーラ侯爵フランチェスコ・フェルディナンド・ダヴァロスにちなんで名付けられました。彼は総督在任中、1570年に門の改修と拡張を監督しました。この門は、ポルタ・ピスカリアやポルタ・マリーナとも呼ばれています。これは、古代、漁を終えた船がここに停泊していたことに由来しています。

  • ポルタ・ペスカーラを出るとこういう光景が広がります。

    ポルタ・ペスカーラを出るとこういう光景が広がります。

  • 集合場所に来ましたがまだ全員揃っていません。

    集合場所に来ましたがまだ全員揃っていません。

  • ツアーメンバーと談笑するミニバンのドライバー氏。<br />そうこうしているうちメンバーが何となく揃って積み残し(?)がないか確認してパレルモに向かいます。

    ツアーメンバーと談笑するミニバンのドライバー氏。
    そうこうしているうちメンバーが何となく揃って積み残し(?)がないか確認してパレルモに向かいます。

  • 皆帰るころには打ち解けてドライバー氏の独唱会につきあってイタリアンフォークソングやレディ―ガガの曲とか大合唱です。<br />(レディ―ガガのファミリーはシチリア出身です。)歌いながらハイウェイを120キロくらいでとばします。

    皆帰るころには打ち解けてドライバー氏の独唱会につきあってイタリアンフォークソングやレディ―ガガの曲とか大合唱です。
    (レディ―ガガのファミリーはシチリア出身です。)歌いながらハイウェイを120キロくらいでとばします。

  • 丘や家や線路がビュンビュン後ろへ飛んでいきます。

    丘や家や線路がビュンビュン後ろへ飛んでいきます。

  • 予定より早くマッシモ劇場前につきました。<br />ホテルに帰る前にローマ通りにある il, Curinarioでウニのパスタを試すことにします。

    予定より早くマッシモ劇場前につきました。
    ホテルに帰る前にローマ通りにある il, Curinarioでウニのパスタを試すことにします。

  • メニューはこのQRコードの中です。iPhoneのカメラ機能を使うと、メニューが出てきます。

    メニューはこのQRコードの中です。iPhoneのカメラ機能を使うと、メニューが出てきます。

  • ウニのパスタでてきました。<br />ウ??? 味はまあまあだけど、このパスタ超、超アルデンテなんです。3分くらいで鍋から引き揚げてしまったのではないかと思えるくらい、固~い。咀嚼力テストをやってるみたいで。。。半分くらいでギブアップです。

    ウニのパスタでてきました。
    ウ??? 味はまあまあだけど、このパスタ超、超アルデンテなんです。3分くらいで鍋から引き揚げてしまったのではないかと思えるくらい、固~い。咀嚼力テストをやってるみたいで。。。半分くらいでギブアップです。

  • ティラミスとエスプレッソで締めます。このティラミス、まずくはないのですが、崩壊した形状がいただけません。レストランの評価はDマイナスです(ちょっと辛口評価かも)。。。<br />シチリア最後の夕食がこんな悲惨な結果に終わって残念です。気を取り直してホテルに帰ります。早朝のタクシーをパートタイムのレセプショニストに頼んでおいたのですがちゃんときてくれるかどうか。。<br />ホテルに着くと夕方シフト(?)のレセプショニストのおねーさんがいて1:30amにタクシーが下のスペツィオ通り(Via Dello Spezio)とローマ通り(Via Roma)の交差点にくるからとのことです。料金はドライバー氏にキャッシュでと言われました。さあ、自室に上がってパッキングです。朝早く出るのでスナックとかリンゴなど小袋に入れてプレゼントしてくれました。

    ティラミスとエスプレッソで締めます。このティラミス、まずくはないのですが、崩壊した形状がいただけません。レストランの評価はDマイナスです(ちょっと辛口評価かも)。。。
    シチリア最後の夕食がこんな悲惨な結果に終わって残念です。気を取り直してホテルに帰ります。早朝のタクシーをパートタイムのレセプショニストに頼んでおいたのですがちゃんときてくれるかどうか。。
    ホテルに着くと夕方シフト(?)のレセプショニストのおねーさんがいて1:30amにタクシーが下のスペツィオ通り(Via Dello Spezio)とローマ通り(Via Roma)の交差点にくるからとのことです。料金はドライバー氏にキャッシュでと言われました。さあ、自室に上がってパッキングです。朝早く出るのでスナックとかリンゴなど小袋に入れてプレゼントしてくれました。

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