2025/03/11 - 2025/03/15
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しにあの旅人さん
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更新記録
2025/05/26:エリア変更、誤字訂正
2025/05/27:終わりから3番目和気神社写真の上。「霊異記」の時代の噂追加。
孝謙天皇神社。
地元には下野薬師寺に配流された道鏡を追って、孝謙天皇がこの地を訪れ、この地で没したという伝説があります。
この神社が村の文献で確認できるのは、元禄9年(1696年)が最初だそうです。
(後述「孝謙天皇神社の由来」P111)
仮に本当に天皇が下野まで来たとすると、それは重祚した称徳天皇ですが、この由緒では孝謙天皇と言っていますので、ここでは孝謙天皇とします。
孝謙天皇が崩御したのは宝亀元年(770年)8月4日、道鏡が追放されたのは8月21日です。史実ではありえない伝説なのですが、当時の下野国下都賀郡大領(だいりょう)村では古くからこのように言い伝えられておりました。
どうしてかな。
道鏡が配流された下野薬師寺、道鏡が葬られた龍興寺はすぐ近くです。
参考書
現代語訳日本書紀下/宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1988年
現代語訳続日本紀上・中・下/宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1992年
現代語訳日本後紀上・中・下/森田悌訳/講談社学術文庫/2006年
現代語訳日本霊異記上・中・下/中田祝夫訳/講談社学術文庫/1978年
引用のページ番号は上記現代語訳です。
「孝謙天皇神社の由来を語る明治14年具状書と境内「御代拝之碑」-明治天皇の東北巡幸と陵墓伝承をめぐる一事例」義江明子(元帝京大学文学部教授、現名誉教授)/帝京大学2005文学部帝京史学第28号/2013年。
引用では「孝謙天皇神社の由来」とします。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2025/05/25
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
位置関係。目印は宇都宮市。
-
〒329-0517 栃木県下野市上大領161
-
鳥居左の神社由来。
全文書き起こします。数字は一部算用数字に書き換えました。
★
孝謙天皇神社由来
今から約1200余年の昔、下野国薬師寺の別当に弓削の道鏡が配流された。かつて道鏡は法主として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。
女帝は配流された道鏡をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫・笹姫も配流されてきた。
二人は奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。
その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、8月4日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。
なお二人の女官の墓は、ここより南500メートル位の所に、篠塚・笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません。
氏子
一、 祭日 九月四日(月遅れで実施)
★
これだけですと、日本各地にある「貴種流離譚」の一種です。しかしこのお墓の存在は明治天皇の耳にまで達し、明治14年(1881年)の「山形秋田及北海道御巡幸」のおり、8月2日に侍従西四辻公業が代拝しております。
どうしてこの神社がこのように高く評価され、天皇の代拝にまで至ったかを研究したのが、義江明子(元帝京大学文学部教授、現名誉教授)による「孝謙天皇神社の由来」です。 -
出典:前日光さんの「天平の風 下野国」
https://4travel.jp/travelogue/11674775
2022年4月にこの神社にお参りしたのですが「御代拝之碑」の写真だけ撮り忘れました。前日光さんのブログより転載しました。前日光さんの了解戴いております。
この写真があるとないとでは、このブログのしまり具合が違います。
前日光さんに感謝。
明治天皇の代拝を記念して、昭和3年11月10日昭和天皇即位の日に建立されたものです。
「孝謙天皇神社の由来」によれば、
表面、縦書き、
★御代拝之碑★
裏面
★
(碑上部中央に横書き、右書き起こしで)御即位記念
(以下縦書き、各行の上部空白省略)
明治天皇
明治十四年八月二日北海道御巡幸之際
石橋宿ヨリ侍従四位西四辻業公ヲ御代拝トシテ派遣セラル
昭和三年十一月十日建之
上大領氏子一同
謹刻秋山清志郎
★ -
現在の拝殿と本殿です。
この背後に -
明治13年まではこの図のような木製の玉垣がありました。
後述する「明治14年具状書」に付属したイラスト、というか絵図です。 -
玉垣の工事中に、現在の仏塔あたりの地下から、真鍮製の舎利塔が発見されました。
具状書の絵図です。
(P119)
「黄金質舎利塔壱個」
「縦弐寸五分」
「横壱寸七分」
縦約7.5cm、横5cmの小さな物です。 -
失礼ながら拝殿内部を撮影させていただきました。奥が御霊屋で、祭礼の時にはここに舎利塔が安置されるそうです。
(P140) -
この年、木製の玉垣に代わり石の玉垣を巡らしました。それが現在の玉垣です。
-
絵図の左の石像と思われるもの。
-
右の石塔のようなもの。
村民はこれを「孝謙天皇御陵」とよんでおりました。 -
現在は玉垣内中央に「孝謙天皇」と彫られた石碑が立っております。
-
いつ石碑が立てられたか不明ですが、玉垣以降、おそらく玉垣建立と同時でしょう。
-
石碑に比べて石像の摩耗が激しく、大領村で「孝謙天皇御陵」と呼ばれ始めた時期は相当古いことが想像できます。
義江によると、大領村氏子総代保坂芳次郎より明治14年(1881年)に当時の宮内省に提出された神社の由来書が、神社を奉斎する「五人衆」子孫の一人前原範三氏宅から発見されました。平成5年(1993年)のことです。(P111)
その文書は、元禄9年(1696年)に代官あてに提出した「壬生領上大領村寺社帳」から、明治14年(1881年)の「孝謙天皇陵由緒具状書」まで、8通60ページだそうです。
文書には「其筋々時々奉呈致シ置候所・・・」とあるので200年以上にわたって大領村民は神社を守り続けたことが分かります。
当時でも続紀と矛盾することはすぐ分かるでしょうから、それにも関わらず孝謙天皇の御陵であると、「其筋々時々」に主張し続けていたのです。
原文書は残念ながら現在所在不明ですが、最後の「孝謙天皇陵由緒具状書」は現存しております。
「具状書」とは現状報告書のような意味です。
文書中孝謙天皇を「天皇様」と書いています。
具状書によれば、「天皇様御墓」に3本の檜がありました。2本は枯れ1本残った。
★是ハ元禄九年(1696年)子ノ八月松平右京様へ書上ニ相成候★
この書き上げが前述の「壬生領上大領村寺社帳」に該当するようです。
もともと檜は3本あって、2本が枯れて1本残った、とわざわざ領主に報告しております。いきなりこういう報告書がきたら、松平さんは何のことか分からない。
つまりこの話は前に何か重要な話があって、その後日談なのです。
残っていた文書は元禄9年がもっとも古いけれど、もっと古いのがあったことが分かります。
義江の注によれば、松平右京は松平輝貞。当時壬生領主でした。室は柳沢吉保の養女で、吉保と密接な関係にあったそうです。五代将軍綱吉の側近、あの柳沢吉保です。
吉保は尊皇思想の強い人で、京都、奈良の天皇陵の整備などに熱心でした。
この地域の、こういう当時の時代の雰囲気を変数に入れると、孝謙天皇神社の方程式の解が、ガラッと変わってきます。
なんとなく司馬遼太郎ぽい言い方で、われながら気にいっています。
元禄9年は、もうすぐ忠臣蔵。
浅野内匠頭の刃傷は天皇勅使を接待中の出来事で、将軍綱吉は頭にきて、よく考えもせずに一方的に内匠頭に切腹を命じたと言われております。
この時代、それほど綱吉は天皇を大事にしていた。
そういう尊皇的ムードがここ下野の田舎まで充満していたと解釈もできます。
いや、下野のみなさんに失礼、すぐ近くの下野薬師寺は8世紀の日本に3カ所しかない戒壇をもったお寺でした。東日本の最先端文化拠点ということです。
その残り香が元禄まで濃く漂っていたと考えてもいい。
大領村民が、天皇ゆかりの伝説の継承に熱心だった理由にもなります。
明治14年、明治天皇が侍従を代拝に送った根っこは、このあたりにあるのではないか。 -
鳥居右奥後方に、かつて御陵伝承墓があったそうです。
-
今は石の祠のようなものが点在するだけです。
-
それらしきものはありません。
-
具状書によれば、
★天皇様御召之白馬葬候墓御座候★
(P116)
天皇様お召しの白馬を葬り候墓ござ候。
「天皇様」が乗ってきた白馬のお墓が村内にあったそうです。この白馬のお墓は「壬生領史略」(1850年)にも同様の記述があり、大領村に伝わってきた伝説であることが確実です。
(P130)
★篠塚ト申塚貳ケ所是有之是者御召任ナル於篠ノ前於笹ノ前申御墓之由★
(P115)
しの塚と申す塚二カ所これあり、これはお召し使えなるお篠の前お笹の前と申すお墓のよし。
「御召仕」(めしつかえ)なる「於篠ノ前」「於笹ノ前」のお墓も南2町(200mくらい)にあったと伝えられています。
これを合理的とやらに解釈すると、
元禄を遡ることかなり前、白馬にのった貴婦人が亡夫のお墓を訪ねてきて、この村で客死した。2人の侍女篠、笹はこの地に留まって女主人の菩提を弔ったが、やはりこの地でなくなった。
こんな出来事がこの村にあって、それを悼んだ村人が墓を守った。
近くに道鏡のお墓があった。
それが孝謙天皇と道鏡のラブロマンスに置き換えられて、のちのちの世に伝えられた。
こんな仮説は成り立つでしょう。
一書に曰く、
こういうお話は、日本各地にあります。
房総半島には、ヤマトタケルと弟橘姫が有名ですが、壬申の乱で負けた大友皇子の話もあります。
房総半島と大友皇子。何かご縁があるのでしょうか。
それに比べると、道鏡を、孝謙天皇が追いかけてきた話は、推理が簡単ですわね。
頭ボサボサの、ふけだらけの探偵じゃ無くても解決できますわよ。
「可哀想な道鏡さま」から始まったのですよ。→お慰めしたい。→孝謙様→二人をくっつけよう。→天皇来させちゃえばいい。
北関東人は、ロマンチストなんです。
By妻 -
ここでBy妻より問題提起。
「道鏡は天皇位を狙った日本三大悪人ということになっているわよ。それをどうやって天皇とのラブロマンスにするんだろう」
それが問題なんです。
続紀後紀をそのまま読むと、道鏡はまことにいやらしい悪人となります。
しかし読み方によってはそうとも言えない。正史はある種の化学変化を読み手に促すような書き方をしているのです。←司馬遼太郎気取り。
孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の間に生まれました。阿倍内親王です。親王がいなかったので、天平10年(738年)皇太子になりました。日本で最初で最後の女性皇太子です。古代の6人の女帝で、皇太子から天皇という、正式な手続きで天皇になったのは阿倍内親王だけ。
皇太子になったのは20才。未婚でした。この段階で結婚は諦めたでしょうね。
天皇の夫になってくれる男はいません。
いたら道鏡。
孝謙天皇は孤独な天皇でした。
男の天皇ならば、後宮のおんなたち、つまり「女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに」一人くらいは本当に愛してくれる人はいたでしょう。
しかし女帝にはそういう伴侶はいないのです。
続紀光仁天皇宝亀3年(772年)4月7日、道鏡死後の評伝、
★天平宝字5年、孝謙天皇が保良宮に行幸して病気であった時、(道鏡は)その看病に当たって、次第に寵愛されるようになった。★
(下P90)
孝謙天皇は変わった性格で、部下に落ち度があると変な名前に改名させて、島流しです。
悪くすると物理的に首を切る。
周りの廷臣はおっかなくて近づかない。
身内ならなんとかしてくれるでしょうが、その身内がいないのです。母違いの姉妹の不破内親王だって、島流しです。
それなのに道鏡が親身に世話してくれた。
深夜真っ暗な宮殿で、一人高熱でうなっていてもだれも助けてくれない。そこに道鏡がきて「具合はどうですか」とか言いながら、おでこの上の手ぬぐいを冷たいのに代えてくれた。
とは続紀には書いてありませんが、おそらくあたらずとも遠からず。
しかも道鏡は当代きってのインテリです。
ころっと心を開いたのは理解できます。
ここから天皇は道鏡に心酔していきます。 -
一書に曰く、
道鏡さんは、この頃、60才くらいだって。
そこで、調べてみました。
唐沢寿明、阿部寛、高橋克典、佐藤浩市、椎名桔平、本木雅弘、稲葉浩志、真田広之、堤真一、田原俊彦。
60代イケメン俳優で調べましたら、ベストテンだって。
ええっーこの人イケメン?
とか思った人もいましたが、まあいいや、私の好みの話じゃないんだし。
いかがですか。
こういう年の人が、道鏡。
カメハメハーの亀仙人かと思ってたよ。
でね。孝謙天皇は、40才代。同じくベストテン。
綾瀬はるか、深田恭子、上戸彩、広末涼子、真木よう子、宮崎あおい、柴咲コウ、松たか子、麻生久美子、満島ひかり。
へええ。
唐沢寿明×綾瀬はるか。又は、阿部寛×深田恭子
いいんじゃないですか。全然問題ない。
違和感ないカップルじゃないですか。
、、、
あ、そうか、問題ないカップルだから、問題なんだ。
あんまりしっくり、うまくいっちゃって、夫を立てるとか、天皇の位
を譲るとかいうと、これは、問題ですねー。
という事件だったわけね。
そうかそうか。道鏡さんてイケメンさんだったってことなんだね。
わかった!孝謙天皇ちゃんの気持ちは、よーくわかった!
しかし、しかし、道鏡さんは、どうだったの?
そこが問題よね。
60才代にもなって、道を踏み外しそうな人、この中にいる?
禁じられた恋をしそうな人。
人生100年時代の60才と、あの頃は、いくつだったのか、織田信長が人生50年と。
孝謙天皇ちゃんの時代も、一緒と考えて、
えっ!そしたら、もう、人生終わってんじゃないですか。
ありゃりゃ。
踏み外すかな。
「無理。」
か、
「人生、最後じゃ、やっちまえ!」
か?
どっちでしょうね。
ま、お断りする道は、最初からなかったとは、思いますが。
だって、な~に言われるか。
「このはげぼうず!」とか、、、
By妻
天皇と道鏡は男女の関係にあったと伝えられています。しかし797年成立の続紀、840年の後紀にはそういうことは書かれていません。
文献初出は光仁13年(822年)ごろ書かれたという「日本霊異記下巻第38」
★女帝(原文では帝姫)称徳天皇御代、天平神護元年の初めに、弓削氏の道鏡法師が、女帝と同じ枕に寝て情を交わし、政治の実権を執って天下を治めた。★
(現代語訳霊異記下P261)
霊異記は説話集であり、歴史書ではありません。しかし奈良末平安初期の世相を反映したものだそうです。770年の称徳天皇崩御、797年成立の続紀からそれほど時がたっていないので、同時代にこのような風説があったのは事実でしょう。
続紀後紀の読み方によっては、道鏡は天皇位を狙ったわけではなく、むしろ孝謙天皇が道鏡に天皇位をプレゼントしたいと思った、という解釈もできます。
これは私の新説でもなんでもありません。すでに「霊異記」の時代でもそう思った人は珍しくなかったようです。
続紀の作者はそれを覆い隠すのに苦労している。でも下手ですね。霊異記がそのほころびに簡単に気づいたくらいです。
あることないこと書き立てております。いわば奈良平安ブンシュンでした。
霊異記のこの部分には、当時はやったという猥雑な戯れ歌が書かれています。さすがにこれは4トラでは引用できません。
孝謙と道鏡は、すでに同時代に都のゴシップ好きな連中にカモにされていました。
続紀後紀から800年、元禄。
最高権力者でありながら孤独で、だれも助けてくれない、哀しいひとりの女の人生を、霊異記の雰囲気を加味して、正史の行間に読み取った人物が下野国大領村にいたとします。
追放された愛する道鏡を追って、孝謙天皇が下野まできたという物語を作る余地があります。
元禄ってそういう時代だったのではないか。
男女の愛の物語をおおっぴらに語り始めました。
近松の「曽根崎心中」(元禄16年/1703年)までもうすぐです。
孝謙天皇道鏡下野の道行きであります -
もとにもどって和気神社。
By妻さん、寒くなってきたから、そろそろ帰ろ。 -
最近年のせいで足腰が弱り、階段が苦手です。
つべこべ言わずにありがたく女坂を下りることにします。
椿がきれいでした。 -
神護景雲3年(767年)清麻呂が宇佐神宮の道鏡即位NOという報告をしたとき、称徳天皇、道鏡、清麻呂、は近い距離にいたはずです。
天皇と清麻呂間はどのくらいかな、5mくらいか。
同じ室内に広虫も秘書のような立場でいたでしょう。
その後清麻呂には全国に立派な神社が建てられ、広虫も家族葬の元祖となっております。道鏡も「伝」とはいえお墓があります。
孝謙天皇は、そのお墓もどこだか分かりません。
まさに「祇園精舎の鐘の声・・・」であります。
一書に曰く、
この文章に、by夫の限界が現れておりますねえ。
後期高齢者となった現在ではさすがに、三畳一間の小さな下宿ではなくなりましたが、ウサギ小屋暮らしの典型的日本人ですからね。
by夫には、御殿の生活が想像できない。
はるーか彼方まで人がいるという生活が、わからないんでございますよ。
一方、わたくしは、紫式部だって持っていない魔法のアイテムをがゲットしていますからね。
ウソだって八百だって。
何が言いたいかというと、宇佐神宮のご神託を、この少数で聞くわきゃないだろうってこと。
ここは、もちろん、宮仕えの者たち、文武百官うちそろって、
ぴや~。ドドン!って、鳴り物入りで皆のもの~しずまれ~。
で、天皇、うきうき、わくわく。
みなのもの心してうけたまわれ~ご神託なるぞ~。
って始まったんですよ!
そこで、NOですからね。
天皇は、大ショック。
よくもよくも、朕に恥をかかせたなぁ!
おまえなんて、おまえなんて、清麻呂なんかじゃない。きたなまろじゃあ!
となるわけですよ。
なにしろ、孝謙さんって、権謀術数の不比等と、犬飼三千代の孫、そしてかの女傑、光明皇后の娘なんですよね~。
もう、強いのなんのって。
強くないはずがないじゃないですか。
恐ろし恐ろし。
でも、その分単純だった。
頭から攻めたら、イチコロだったってことね。
道鏡、その間、なにしていたのよ。ぼーっと、ただ立ってたのかしらね。
ここまで来ても、道鏡さんの貌がわからない。
言われているギラギラ男の顔が浮かばない。
60才代俳優ベスト10見ても、天皇になりたがってる顔ありますか?
佐藤浩市とか野心的だったけど、最近は脂抜けちゃったよね。
人生100年の現代でこうなのに、ましてや、あの時代なら。
どう考えても、この事件は、孝謙さんの独り相撲だったような。
だって、深キョンと笠智衆の恋って。
無理!
じゃないかなあ。
By妻
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この旅行記へのコメント (3)
-
- 前日光さん 2025/05/26 23:22:29
- 御代拝之碑、西日当たりまくりで。。。
- 何のお役にも立っていませんね。
こんばんは、しにあさん&by妻さん!
すみませんね(+o+)
やはりカメラのセンスがないのです。
こんな下手くそな写真をご使用いただきまして、ありがとうございます<m(__)m>
なぜ下野に「孝謙天皇神社」があるのか?
真面目に考えていたら、時代考証はメチャクチャだし、瀬戸内寂聴さんだって、呆れるかも。
でも、そういうメチャクチャでも、孝謙さんと道鏡ちゃんをくっつけちゃおうと思った北関東人を、ロマンがあると言っていただいて、うれしゅうございます。
一緒についてきた篠姫と笹姫の伝説が、なんともいえず、切なくて美しいなと。
下野薬師寺も、お正月に行ってきましたが、ますます立派になりました。
あの回廊、もう少し延長の予定はないのかな?
日光連山は、近くに星宮神社というのがあるのですが、そこの駐車場からはよく見えましたよ。
下野国分寺跡からの方が、山は見えますね。
それにしてもあの辺りは、北関東の果て、ここで平野はおしまいというところです。
もう少し北に行くと、日光や那須の山々ですが、あの辺は確かに平地ですよね。
このブログの前に二つもブログがあったのですね。
実は、この五月と六月初めまで、娘のところが忙しくて、けっこう上京が続いています。
ゆっくりコメントもできず申し訳ありません。
明日は高校のクラス会があります。
みんな?歳のばぁばなのですが、会えば高校時代に戻ってしまいます。
それから腰痛を何とかしようと、ついにジム通いも始まりました。
そういったスケジュールが落ち着きましたら、もう少しじっくりとコメントしたいと思います。
ということで、本日は失礼いたします(^O^)/
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2025/05/27 15:59:57
- Re: 御代拝之碑、西日当たりまくりで。。。
- 現場の神社由緒や明治14年の具状書だと、孝謙天皇の2人の侍女にもずいぶん同情が深いのです。本来はこの2人がメインで、それに付随して孝謙天皇と道鏡に結びつけたような感じもします。
しかしそれ以上の資料はないし、このブログのテーマからははずれますので、深追いはしませんでした。
とにかく元禄まで遡れる伝説らしいので、さすが下野です。
孝謙天皇神社、道鏡塚、下野薬師寺はいつかブログにしようと思っていたのですが、岡山と結びつけることになろうとは思いませんでした。
「諸国寺社旧跡巡り備前国」に強引に入れちゃいましたが、かなり無理がありました。
続日本紀、日本後紀をじっくり読みました。道鏡は被害者だという印象がますます強くなりました。道鏡事件はやはり孝謙さんの妄想が原因だったと思います。
このあたり前2ブログでしつこくやりました。
続紀の作者はそれを覆い隠すのに苦労している。でも下手ですね。ほぼ同時代の霊異記がそのほころびに簡単に気づいたくらいです。
あることないこと書き立てております。いわば奈良平安ブンシュンでした。
霊異記のこの部分には、当時はやったという猥雑な戯れ歌が書かれています。さすがにこれは4トラでは引用できません。
孝謙と道鏡は、すでに同時代に都のゴシップ好きな連中にカモにされていました。
可哀想なことです。
ジム通いを始めたのですか。私も同じことを考えています。
体力の衰えがはげしくて、つぎのお医者の診察の時に、ジムがいいか、整形外科のリハビリがいいか、相談してみようと思っています。
腰が痛くて、かがんで靴が履けないのですよ。
あ~~~やだやだ。
- しにあの旅人さん からの返信 2025/05/27 17:12:16
- Re: 御代拝之碑、西日当たりまくりで。。。
- ↑のコメ返事の一部分を本文に追加しました。前日光さんとのコメのやり取りで、ピカっと浮かぶことがよくあります。
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