2025/03/11 - 2025/03/15
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しにあの旅人さん
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道鏡の宇佐神宮神託事件で有名な和気清麻呂の神社です。
事件の舞台宇佐神宮、大隅に配流された先という霧島市和気神社、生まれ故郷のこの神社、これで清麻呂コンプリートです。
私はこの事件は、孤独な姫帝称徳天皇の自作自演ではないか、という邪念をもっております。
孝謙天皇は重祚して称徳天皇、同じ天皇です。
11世紀初め編纂の「薬師寺縁起」では、元正天皇を「姫帝」と書いています。「きてい」と読みます。美人で独身だった氷高さまにふさわしい。「ひめのみかど」と読んじゃう。
孝謙天皇も独身でしたから「姫帝」でいいかと。
9世紀初めの「日本霊異記」でも孝謙天皇を「帝姫」と書いています。この時代女帝をこのように表記するのは普通だったみたいです。未婚の女帝を意味するかどうかは、調べていません。
このあと「続日本紀」を続紀(しょっき)「日本後紀」を後紀と書きます。なんとなくプロっぽくて、やってみたかった。
今回の参考書は以下の通り。
現代語訳続日本紀上・中・下/宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1992年
現代語訳日本後紀上・中・下/森田悌訳/講談社学術文庫/2006年
現代語訳日本霊異記上・中・下/中田祝夫訳/講談社学術文庫/1978年
引用のページ番号は上記現代語訳です。
投稿日:2025/05/04
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
一の鳥居前、石柱に左「精義」右「至誠」と書いてあります。
尊皇で有名な清麻呂らしさがいっぱいの神社だろう、と予感。和気神社、駐車問題なし。 by しにあの旅人さん和気神社 寺・神社・教会
-
川をわたります。
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「日笠川」だそうです。
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橋の左側。
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右側。
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宇佐神宮の西参道から神社に入るにはこの呉橋をわたります。
昭和初期までは西参道が表参道でした。 -
14世紀初めには現在のような屋根付きの橋が架けられていたようです。
-
清麻呂が宇佐神宮に乗り込んだ神護景雲3年(769年)に呉橋があったかは、分かりません。。地形から寄藻川を渡ったのは確実なので、このあたりのどこかに橋はあったはずです。
和気神社でも、この橋を渡る雰囲気を出したかったのでしょう。 -
清麻呂の銅像。
昭和16年(1941年)朝倉文夫の作です。高さ4.63m。
和気清麻呂(733-799)
清麻呂って、すごい人物だったんだなあと思いました。
和気神社のある、現在の和気町藤野の生まれです。
奈良時代は僻地。
藤野は和気町の北の奥です。ここから津山に国道374で抜けようとしましたが、山の中の見たこともない細い道路。怖くて引き返しました。
三桁国道が酷道なのは知っていましたが、あれは非道でした。悲道ともいう。
現在でも十分山の中です。
無名の小地方豪族の出身で、現役で従三位に昇りつめています。三位というと、三世か四世の皇族の位です。臣下出身ではめったになれない。平安京の造営を成し遂げたとはいえ、すごい出世です。
かの不比等が現役正二位でしたが、お手盛りでした。
若いころは位も低かった。下級役人からのたたき上げです。苦労人。現場出身で実務ができる。何か難しいことがあると引っ張り出される、仕事人という感じ。
平安京建設以外でも、土木治水事業が得意だったようです。
民部大輔、民部卿を歴任しています。内政畑一筋でした。
こうしてみると、道鏡事件に介入したのはアルバイトか。
★清麻呂は庶務に熟達して過去に通暁し、「民部省例」二十巻を編集した。★
延暦17年(798年)辞表を出しました。65才です。当時としては大変な高齢です。くたびれたんでしょう。
★優詔(ゆうしょう)により許されず、天皇は功田二十町を賜い、子孫に伝えさせることにした。★
「優詔により許されず」ですから、桓武天皇自身が辞職を認めなかった。
「え~~!清麻呂が辞表出してきたぜ。ダメに決まってるじゃん。じいじ、もうちょっと頑張ってよ」
それどころか従三位に昇進させました。位があがると基本給も増えます。
ちょっと前の奈良時代では四位だと年収4120万円、三位は7490万円です。役職手当別。
(出典:奈良平城京跡「いざない館」パネル、現代円への換算単位不明)
加えて「功田二十町を賜い」
「頼むから辞めないでね、お給料4割アップで、ボーナスもだすから」と天皇が言ったわけです。
あまりに有能なので、辞められたら困るのでしょう。
以上概ね後紀 桓武天皇延暦18年(799年)2月21日より。天皇のセリフは創作です、念のため。
(後紀上P198)
古来こういうケースは珍しいでしょう。
逆は山ほどあります。
古代でも実際に政治を運営していくには、こういう人物が必要なのです。一昔前の大伴旅人もそうでした。 -
一書に曰く、
ビックリですわ!
和気清麻呂という、全国区かつ日本の歴史上、指折り数えて何本かの秀才かつ能吏がですね。
こんな田舎から出たとは!
やっぱり、お勉強ができる子ってのは、家庭環境ではないですか。
と思うからこその、お受験ですわ。ホホホ
教養あふれる両親のもと、然るべき学校に入ってですね、優秀な学友と切磋琢磨してできあがると。
清麻呂さんの場合、家庭は、良かったのではないかと思うのです。お姉さんも宮中に出仕してますからね。
でも、清麻呂さんの場合、桁が違いますもんね。秀才具合が。
昔だから家庭教師だったとしても、いたのか?
そんな人材が、この田舎に。
と、そこで思い出したことがございます。
現存したら102才になる私の母が幼い頃、毎日毎日、夕方になると、家の前を通る青年がいたそうです。
この青年は、フランス語の勉強に通っていたとか。
彼は、その他複数の外国語を勉強していたそうです。
大正末期から昭和初期の、山口県の瀬戸内海側の小さな村の話です。
残念なことに、彼は結核で亡くなってしまったそうですが、向学心あふれる青年は、日本の津々浦々に潜んでいたのですね。
あ、そう言えば、大村益次郎も、山口の片田舎の鋳銭司村出身でしたね。 -
銅像にするとなると、美しくなければならないのでしょうか。
この像も、堂々たる美丈夫です。
イエジのフェデリコ二世像も、堂々でした。
私には、フェデリコ二世も、和気清麻呂も、堂々とした大男という感じがしないのですよ。
大男は、頭が良くないと言いたいわけではないのですが、小柄なキビキビした男だったように思えるのです。
決意がみなぎる感じです。
ギラギラはしなかったと思う。
出番がなかったら、ただの官吏で終わった人。
時代が、彼を必要としたから出てきた。
日露戦争に決着をつけた、児玉源太郎みたいな人だった?
そういうイメージです。
By妻 -
橋をわたると狛猪がまっています。
-
右はお口を開いて、ちゃんと阿形です。
-
狛猪は鹿児島県霧島市の和気神社にもいました。
ウサギ(埼玉県浦和市調《つき》神社)、羊(群馬県安中市羊神社)、ブタ(埼玉県御嶽神社の皇御孫命《すめみまの・みこと》社)などの変わり狛の一種です。
日吉神社の神猿以外の変わり狛が作られたのは新しくて、たぶん戦後でしょう。
この和気神社は、道鏡事件の後、左遷された清麻呂が流された土地に建てられたということになっています。
鹿児島藩主島津斉彬が嘉永6年(1853年)に、このあたりに清麻呂は流されたはずだと決めました。理由ははっきり分かりません。とにかく斉彬さんがそう決めたのです。
神社が建てられたのは昭和21年(1946年)です。きわめて新しい。 -
出典:絵で見る和気清麻呂公一代記(宇佐神宮/2018年、P15)
清麻呂ゆかりの神社には必ず狛猪がいるようです。
後紀によると、道鏡事件の後、宇佐神宮に輿でお礼参りに行きました。このとき足が不自由でした。神社の近くまで来ると300頭ばかりの「野猪」が輿を先導しました。
(後紀上P197)
野猪ってなんだろう。イノシシはそもそも野生でしょう。
清麻呂を大隅國に配流する途中で、道鏡が送った刺客が襲おうとしました。それを猪の群が防いだというお話しがあります。
続紀には刺客のエピソードはなし。後紀では刺客は送られましたが、この場面にイノシシは出てきません。(同196)
道鏡事件は称徳天皇の時代ですから、続紀に記事があります。しかし840年に編纂された後紀のほうがはるかに詳しいのです。
たびたび引用した後紀(桓武天皇延暦18年2月21日)の記事は、清麻呂が死んだときの評伝です。ここに清麻呂自身と姉の広虫(法名法均)の詳しい経歴が書いてあります。
8世紀末の道鏡事件が当時の政府に与えた影響の大きさが想像できます。それを阻止した清麻呂は偉いやつだ、ということです。 -
苦手な階段を登りますと、予想通り出てきました。
道鏡事件のいきさつです。
道鏡は称徳天皇の寵臣であった。
神護景雲3年(769年)太宰府の主神(かんづかさ)習宣阿曽麻呂(すげの・あそまろ)が道鏡に「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」という宇佐八幡宮大神の経命を告げた。
称徳天皇は確認のため清麻呂を宇佐八幡に派遣。
清麻呂は習宣阿曽麻呂の教命を否定する宇佐八幡大神の託宣を復命。
激怒した道鏡は清麻呂と姉の法均を配流。
続紀、後記も、習宣阿曽麻呂が託宣を持ち込んだのは道鏡だとしております。
2人を配流したのも道鏡。
悪者は道鏡一人。これは全部道鏡の陰謀だ!
称徳天皇の名は出しません。
これは怪しい。
続紀神護景雲3年(769年)9月25日の詔で、称徳天皇は清麻呂の名を「穢麻呂」きたなまろ、姉の法均を還俗させ元の広虫売(ひろむしめ)に変えると宣言しています。後記ではもっとひどくて「狭虫」さむし。
(続紀下P16、後記上P196)
称徳天皇は気にいらない臣下を罰するときに汚い名前に改名させるという、いけずな趣味があります。
神護景雲3年(769年)5月、呪詛事件で、
不破内親王→厨真人厨女(くりやの・まひと・くりやめ)
厨女とは、料理する下女。不破内親王とは母違いの姉妹です。ひどい話。
(続紀中P450)
天平宝字元年(757年)7月、橘仲麻呂の乱で、
黄文王(きぶみ・おう)→多夫礼(たぶれ=たぶらかす者)
道祖王(ふなど・おう)→麻度比(まどひ=惑者)
(続紀中P159)
前例から言って、清麻呂と法均の改名も称徳天皇の指示です。
天皇は全部知っていたはず。 -
習宣阿曽麻呂が道鏡に託宣を持ち込んだときの描写が、続紀、後記ともに異様に生々しい。
続紀
★初め、太宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気にいられようと媚び仕えた。そこで、宇佐八幡の神のお告げであると偽って「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」といった。道鏡はこれを聞いて深く喜ぶとともに自信をもった。★
天皇が清麻呂を宇佐に派遣することになって、
★清麻呂が出発するに臨んで道鏡は「大神が使者の派遣を請うのは、おそらくわたしの即位のことを告げるためであろう」と語り、吉報をもたらせば、官職位階を重く上げてやる、ともちかけた。★
後記もほぼ同じです。こっちのほうが気前いい。
★(首尾よく大神の教命をもたらせば)大臣の位を与えると約束した。★
ここでは道鏡自身が出てきます。しかも一人称で語っています。いままでは一族のだれかが要職に就いたという記事はあっても、それを道鏡が天皇に推薦したなどという具体的な記事はありません。道鏡個人は出てこないのです。
清麻呂は道鏡即位NOという神託を持ち帰りました。道鏡の怒りはものすごく、
続紀
★道鏡はおおいに怒り、清麻呂の官職を解いて因幡員外介に左遷した。清麻呂がまだ任地に就かないうちに続いて詔があり、官位を剥奪し籍を削って、大隅国に配流した。★
(続紀下P17)
後記
★清麻呂が京へ戻り、神の教命どおり奏上すると、天皇は意に反する思いがしたが、清麻呂を処刑する気持ちにはならず、因幡員外介に左遷した。(中略)道鏡は配流途次に清麻呂を追って殺害しようとした。しかし雷雨であたりが暗くなり、殺害に着手する前に(大隅配流)の勅使が遣わされ、殺されずに済んだ。★
(後紀上P196)
これをそのまま読めば、道鏡は悪党ということになります。プロレスの悪役、ヒールです
天皇は悪玉道鏡にだまされていたのだ!
だまされた天皇はかわいそう。
続紀、後記の思うつぼです。
でもここでの道鏡の悪玉っぷりは、やり過ぎではないですかね。
異様に生々し過ぎるのです。
脂ぎった坊主のテカテカ頭が、眼に見えるように書いてある。
映画ならこういう場面。
「おれと組め、清麻呂、悪いようにはせんぞ」By道鏡。
さらっと書いておけば「ふむふむ、道鏡はよくない」と読み過ごしますが、ここまでリキが入っていると、なんでそんなにこだわるんだよ、と思いたくなります。
本当は道鏡への天皇位禅譲は称徳天皇の発案だった。清麻呂の捨て身の反抗で計画がぽっしゃったあとで、天皇を護るために道鏡を悪玉に仕立て上げた。こういういけず読みができます。 -
さらに階段を上がると、本殿左に和気広虫の石像があります。
清麻呂のお姉さんです。
清麻呂の一足前に都にあがり、孝謙天皇に仕えました。
地方出身で、五位程度のさえない貴族の妻でしたから、下々の事情にも通じていた。頭の回転の速い気の利いた人物だったのでしょう。
宮中の女官は、都の名門貴族の出でも、ぼーとした世間知らずだったはず。孝謙天皇には広虫は新鮮に見えたのではないでしょうか。
女には女にしか話せないこともある。
側近というより、腹心という感じでしょう。
元明元正天皇に仕えた橘三千代みたい。
でも三千代さんと違って政治的な野心は持っていなかったようです。
ある日の会話。
「おいしいもの食べたいなあ~~~」
「そうですね、備の国のママカリとか、ばら寿司とか」
「食べた~い」
「天皇様、よだれが・・・」
孝謙天皇がこれらを食べたという記録は、続紀後記にあったかな~~~? -
境内の和気町歴史民俗資料館の入り口に、こんなのがありました。
私たちもご時世に迎合して、2人の会話を少女マンガ風にしてみました。
年寄りの冷や水と御笑被下度候。
道鏡事件のあと、広虫もとばっちりで備後に流されました。
称徳天皇としては手放したくなかったけれど、道鏡の手前処罰せざるをえません。
配所は備後のどこだか分かりませんが、もともと備前の人です。故郷の近く。
後記には、このとき備後には姉弟のシンパ藤原百川の領地があって、百川は20戸分の収益を配所に送ったと書いてあります。
「わるいけど備後に行ってね。百川によく言っておくから不自由はさせない。ほとぼりが冷めたら呼び戻すわ。内緒で実家に寄ってもいいのよ」By称徳天皇。
称徳天皇お得意の名前を汚くするのも、法均という法名を広虫売に戻しただけ。手加減ミエミエです。
最後の「売」がよく分かりませんが「売」は万葉仮名で「め」と読みます。決して蔑称ではない。姫は「比売」と書きます。
櫛名田比売(くしなだ・ひめ)はスサノオの愛妻です。
清麻呂→穢麻呂とはえらい違う。
一書に曰く、
この天皇さんは、こどもなんですよね~
わ~い、わ~い。って、はやす声が聞こえてくるみたいでしょ。
今の子は、どうだか知りませんが、昔は、
みっちゃん、みちみち、、、なんてけんかしていました。
まるっきり、あれ。
馬鹿なの、いい加減にしなさい!!
って、普通なら、ママに叱られるところですが、なんたって天皇さんだから、叱る人がいない。
あ~あ、やりきれないなあ。と、げっそりされるばかり。
叱ってくれるって、愛情なのね。
By妻
家族葬の元祖
▲▼▲▼▲▼ -
後記では、広虫はベタ褒めです。
天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱では、孝謙天皇は連座した375人の首を切ると怒り狂いましたが、法均が強く諫めて減刑させました。
この乱で孤児になった83人を引き取って日本最初の孤児院を作りました。
人の悪口を言わない人でした。後年桓武天皇は「法均が他人のあやまちを口にするのを聞いたことがない」と言いました。
生前弟と、自分たちの葬式を簡単にしようと約束しました。
★初七から七七に至る七日ごとの仏事や年々の忌日に追善の供養をする必要はない。二、三人からなる少人数の僧侶と遺族が静かな部屋で礼仏と懺悔の仏事をすれば十分である。★
日本最初の家族葬、小さなお葬式です。
★後世子孫の者たちは私たち二人を手本とすることになろう。★
コロナ騒ぎで日本のお葬式も随分質素になったそうです。
法均は延暦17年(798年)に亡くなりました。私たちは1227年たってやっと法均に追いついたようです。
以上後紀桓武天皇延暦18年12月21日より。(後紀上P194-197)
一書に曰く、
立派な神社でした。
お姉さんの銅像もありました。
お姉さんのお顔を、しげしげ拝見に足下までいきまして、戻ってくるとき、こけました。
私、なにかした?
えっ根性をたたきなおす?
ざーんねん。もう、この年になったら、無理無理。
By舌切り雀のおばあさん
この時By妻はカメラを落として壊しました。
バチがあたった。 -
階段を上り詰めると拝殿です。
-
神社由緒によると元々和気一族の氏神を祀る神社でした。現在は清麻呂、広虫も祀っていますが、祭神となったのは明治42年(1909年)だそうです。有名な2人を前面に押し出さない。好感が持てます。
2人の謙虚なところを引き継いだのでしょうかね。 -
拝殿の一部が真新しく修復されておりました。建物本体は明治18年(1885年)の造営だそうです。あと数十年で本体となじむでしょう。
称徳天皇と道鏡のお話しは、高校の日本古代史でもっとも生徒が食いついてくるところだそうです。
なんたって、天皇の恋です。
場合によっては日本史を根本からひっくり返したかもしれない。それが本当に恋だったのか、称徳天皇の政治的思惑だったのか、専門の学者も議論しているようです。
瀬戸内寂聴は、なんでもそっちに話をもっていく作家だと、By妻は嫌いです。私はこの件ではやはり、そっちに話を持って行きたい。
次回に続きます。
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この旅行記へのコメント (5)
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- 横浜臨海公園さん 2025/05/06 15:05:08
- 称徳天皇
- しにあの旅人さま、こんにちは。
旅行記を篤と拝見させて頂きました。
孝謙天皇は淳仁天皇に譲位後は道鏡と昵懇の関係となり、淳仁天皇を廃位にして淡路島に流罪にして自身が重祚する露骨な行為で権勢を振った人物とされ、道鏡は称徳女帝の袞竜の袖に隠れ好き勝手した人物だったのは間違いない様で、江戸期に於ける本居宣長翁は、皇室への崇敬の念が極めて強い人物ですら、称徳、陽成、後醍醐の3天皇をして暗愚の君としてバッサリと切り捨てております。
小生、瀬戸内寂聴氏は生前にお目にかかり話をさせて頂いた事がございますが、内容にやたらと牽強付会が多く違和感ばかりが耳につき、当然ながら小生には全く納得出来ぬ内容で、小生の恩師も、有吉佐和子、三浦綾子をして同類だと嫌悪しておりました。
小生、事実を捻じ曲げ、さも此れが史実なのだと偽り尊大な態度で発表するのは犯罪に均しい行為と思っております。
横浜臨海公園
- しにあの旅人さん からの返信 2025/05/06 18:57:50
- Re: 称徳天皇
- お叱りをいただいて、恐縮です。続紀後紀の記述をねじ曲げる意図はまったくありません。
この旅行記を書こうと思ったキッカケは、栃木県下野市上大領村の孝謙天皇神社に伝わる伝説です。
これによると、道鏡追放後、哀れんだ孝謙天皇(称徳天皇)が下野にやって来て、大領村で崩御したことになっています。
道鏡追放は天皇崩御のあとですから、史実にあいません。
これをたわいない伝説と笑えないのは、伝説発祥の根っこが元禄9年(1969年)以前と古く、以降大領村村民は孝謙天皇御陵とされる史跡を現代まで守り続けています。
これを聞いた明治天皇が明治14年に侍従を送って代拝させているのです。代拝記念碑が神社境内に残っております。
続紀後紀の記述は歴史的事実です。元禄9年以降の大領村村民の伝承努力も歴史的事実です。このふたつをどうやったら合理的に解釈できるか。
蚤の頭程度の脳みそで楽しくやってみました。
次回は道鏡配流の下野薬師寺、道鏡塚が残る龍興寺です。龍興寺には「道鏡を守る会」というのがあって、道鏡を高僧だとしております。それを裏付ける地元資料がありそうですが、今回はそこまで手が回りません。
所変われば品変わると申します。地方には、中央とは違う歴史観があるみたいです。それをほじくり出してみるのも、また楽しい旅です。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2025/05/07 01:04:39
- 拝復
- しにあの旅人さま、こんばんは。
小生が史実を歪め捩じ曲げていると批判しましたのは、瀬戸内、三浦、有吉各氏の著書発言を指摘しているでありまして、しにあの旅人さまを指摘批判しているのでは毛頭ございません。
何卒、ご理解を下さいませ。
称徳天皇崩御後に、藤原氏に依り天智系の桓武天皇が樹立践祚され、相前後して道鏡は下野国分寺別当に放逐されましたが、小生も、小金井界隈を散策中に孝謙天皇神社が存在していることを知り、少なからず驚くと共に、何故?と言う疑問を抱いたのも事実です。
仰せの通り、称徳天皇崩御後に道鏡は放逐されている史実から、道鏡を追いかけるなど物理的にも有り得ない事ですが、仮に称徳天皇が存命していて、はるばる関東北部まで江戸期の東海道中仙道整備以前の獣道に均しい道中危険な旅をしたなど、何らかの記述記録が残っていて当然ながら、その類の文献は一切無く、突然栃木県の一角に、称徳天皇ならぬ重祚以前の天皇名の孝謙天皇神社が存在する事に更に素朴に違和感を抱きました。
足利時代中期より安土桃山期末期に至る時代は皇室が最も衰退し世情も荒れた時代で、当該期に道鏡を哀れんだ村人たちが伝承を基に神社を興したのではと小生考えるのですが、如何でしょうか?
横浜臨海公園
-
- kummingさん 2025/05/05 16:31:41
- むかーしむかし、やはり食い付いた女子高生♪
- しにあさん、by妻さん、久々に高揚させていただきました♪
浅草界隈や狛犬案件も、興味深く拝見させて頂きましたが、やはり本家本元、元祖日本史を深掘り(大いに勘ぐる?)なさる、いつものお2人の絶妙なコンビネーション、奏でるハーモニーに酔いしれる、珠玉の一品♪ (←ちょっと持ち上げすぎ?)
宇佐神宮は未だ未踏の地、近いのに⁉︎ 落ち着いたら(←何が?)、ぜひ行ってみたいと思います。清麻呂の銅像とFDllのイエージの像の比較が出てきて、あー、イエージにも行きたいな♪ コロナ禍で俄かに「日本史ファン」のふりをしていましたが、やはり付け焼き刃だった、とは自覚しております。そして、そーゆー世界へ導いて下さった事を、今にして思い出し、ありがたく思います。
続編、期待してお待ちしております^o^ その前に、も一回、読み直そ!
- しにあの旅人さん からの返信 2025/05/05 17:20:50
- Re: むかーしむかし、やはり食い付いた女子高生♪
- 3年がかりの孝謙天皇、道鏡のお話し、満を持してのブログ、とは大げさですが、やっと書けるようになりました。あと2回あります。
このあとはな、なんと、奈良から宇都宮近くまで話は飛びます。
前日光さんの縄張りです。
孝謙天皇と道鏡のお話し、女子高生を引きつけてやまなかった歴史の先生は、まさか肝心かなめの部分を引用してはいないと思います。あれは学校の授業では無理です。
次の次、直接引用しちゃいます。漢文訓み下しにしようと思ったのですが、現代語訳にしちゃう。
6月の末にはUPできると思います。
8世紀から現代まで、いろいろ毀誉褒貶のある二人の物語ですが、私は孝謙天皇の純情であったという結論にいたりました。
そのへん、うまく書けるといいな。
宇佐神宮は超お勧めです。是非西参道からどうぞ。呉橋から百体神社まで行って、また戻ってきても、その価値あります。
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