2025/03/11 - 2025/03/15
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しにあの旅人さん
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2025/05/26:エリア変更
♪人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死ねばいい♪
江戸時代の都々逸だそうです。
続紀だと、孝謙さんは道鏡に惚れていたみたいです。
曰く、
「結婚したいけれど、大臣どもが反対するの。そこで思いついた。あたしが天皇やめて道鏡に位を譲る。一人の女に戻って、晴れてあの人と一緒になる。我ながらグッド・アイディア!ところが清麻呂とかいう無粋な男が邪魔をした。肉のコリー犬だわ。憎らしい」
栃木県宇都宮市の南12kmほどに、孝謙天皇のお墓があります。
地元には下野薬師寺に配流された道鏡を慕って、孝謙天皇がここを訪れ、ここで死んだという伝説があります。
一書に曰く、
by夫が申しました。
「by妻ちゃん、君はゴシップ好きだから、このお話すきでしょう?」
まあね~ゴシップ好きじゃなかったら、文学部なんかにゃ進みません。
でも、ゴシップでいいのかな。
道鏡事件は。
By妻
写真は相変わらず和気神社。
備前の旅から下野にワープするのはおかしな話しですが、ほかに入れるところがありません。
和気神社外伝とします。
清麻呂さんは嫌がるかもしれませんが、お姉さんの広虫さんは優しいから「いいわよ」と言ってくれると思います。
肉のコリー犬、肉ラッシー、憎らしい。昭和テレビの古い知識を必要とします。通じるかな。座布団の雨を期待します。
参考書
現代語訳日本書紀下/宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1988年
現代語訳続日本紀上・中・下/宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1992年
現代語訳日本後紀上・中・下/森田悌訳/講談社学術文庫/2006年
現代語訳日本霊異記上・中・下/中田祝夫訳/講談社学術文庫/1978年
引用のページ番号は上記現代語訳です。
「孝謙天皇神社の由来を語る明治14年具状書と境内「御代拝之碑」-明治天皇の東北巡幸と陵墓伝承をめぐる一事例」義江明子(元帝京大学文学部教授、現名誉教授)/帝京大学2005文学部帝京史学第28号/2013年。
引用では「孝謙天皇神社の由来」とします。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2025/05/13
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
備前から下野へ。途中下車して奈良市の称徳天皇陵。
-
考古学上は「佐紀高塚古墳」というそうです。宮内庁によれば高野陵。例によって宮内庁がテキトーに称徳天皇陵ときめただけで、本当の被葬者は分かりません。
4世紀代の古墳だそうです。770年崩御の称徳天皇とは全く時代があいません。 -
高野陵は文久3年-元治元年(1864-1865年)宇都宮藩が修復しました。440両という大金をかけて109カ所の修補を行ったそうです。その時に現在のような形になったらしい。
孝謙天皇の伝説がある下野国下都賀郡大領(だいりょう)村は、宇都宮藩領にありました。
宇都宮藩は、奈良の高野陵だけではなく、藩内の天皇陵墓関連伝承の把握に熱心でした。
(孝謙天皇神社の由来P127-128)
大領村の伝説は、単なる村の言い伝えのレベルではなかったようです。
宇都宮藩の尊皇思想が背後にあるのではないかという感じです。
このお話しは次のブログのサビとなります。期待しないでお待ちください。
一書に曰く、
この天皇さんは、崩御なさるときは、称徳天皇だったのですよね。
なのになぜ、称徳天皇陵とは言わないのだろう。
在位期間は、孝謙天皇749年から758年。称徳天皇764年から770年6年。9年と6年。
なるほど。在位期間の差かな。
それにしても、こうやって在位期間を見ると、明らかに隙間埋め、よく言ってピンチヒッター。
なんか、良いように使われた感ありあり。
誰に使われたのかは、わかりませんが、便利に使われたのねえ。
人生を政治だかなんだかに良いように使われた、一人の女性の心を思うと、ウソだって法螺だって、夢だって、良いじゃないですか。
って思える。それが人情というモノですよ。
いや、待て。うん、本当にあったかもしれないぞ。
一人の人間として、女性として生きたくなった孝謙さんは、死んだということにして、二回目の人生を生きようとした。
ところが、その束の間に道鏡は失脚して、下野に流罪。それで、死んでいるはずの孝謙が追いかけてきた。
いやいや、もっと言えば、流罪というのも、実は出来レース。
愛し合う二人を、世俗から解放するための、世をあざむく方便。
むひひ。
これで、ひとつ小説書けるんじゃな~い。
By妻 -
道鏡失脚
▲▼▲▼
道鏡失脚はきわめてあっけない。
★天皇はさきに由義(ゆげ)宮に行幸してからすぐに身体に不調を覚え、そこでただちに平城京に還った。この日より百日余りを経るまで、自ら政務を執ることはなかった。★
崩御が8月4日ですから、逆算すると病気になったのは宝亀元年(770年)4月後半ということになります。
急な発作、脳梗塞のようなものではないか。由義宮つまり大阪府八尾市から奈良まで現代の道路で27kmくらい、これを輿で病人を運んだら、助かるモノも助かりません。
100日間、
★群臣らもその間謁見できた者はいなかった。★
道鏡も会えない。
意識不明だったということです。
★ただ典藏従三位の吉備朝臣由利のみ寝所に出入りして、奏すべきことを申し上げた。★
(以上後紀下P45)
由利は吉備真備の娘です。
つまり吉備真備を中心とする反道教派が、意識不明の天皇を取り込んでしまったのです。
「天皇はどなたにも会いたくないとおっしゃっています」と由利が言えば、道鏡も会えません。
★8月4日、天皇が西宮の正殿で崩御された。53才であった。★
(同P41)
崩御直後、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備などが中心となって、諱王を皇太子に立てました。のちの光仁天皇です。このときの政府閣僚、葬儀の責任者には、10人もいた弓削の某、つまり道鏡の一族出身の高官の名はありません。
これは実質的に反道鏡派のクーデターです。
道鏡はなにもできません。
一族の高官どもも、ぼーっとしていただけのようです。称徳天皇の後ろ盾だけが頼りの田舎のおっさんでした。政治的手腕も、朝廷の内部情報ももっておりません。
反道鏡派も一枚岩ではなく、永手と真備の間には確執もあったらしい。そこになんとかつけ込めるほどの策士は、道鏡周辺にはいなかった。
反道鏡派としては、天皇の支持を失った彼らの排除など、朝飯前、その前のラジオ体操前のたやすい仕事でした。
8月17日朝廷は天皇を高野陵に葬りました。
★道鏡法師は御陵に仕え、そのまま山稜の辺りに庵して留まった。★
(同P44)
道鏡はなにをしていたのか。
続紀光仁天皇宝亀3年4月7日の道鏡死去の記事の後に評伝があります。
★称徳天皇が崩御されても道鏡はなお権威は衰えることはないとして、密かに僥倖をたのみ、葬礼が終わっても称徳天皇の山陵を守っていた。★
(同P90)
孝謙天皇の真墓は、現在の高野陵ではないにしても、その近く、現在の西大寺のあたりだったそうです。秋篠寺に行く県道52号の西側あたりか。平城宮よりかなり離れた郊外でした。
平城宮では反道鏡の手が着々と打たれていくなか、そんな遠いところに閉じこもっているなど、政治的にはダメでしょう。
宗教家としては優秀だったかもしれませんが、結局道鏡は政治家ではなかった。政治的には、道鏡もただのおっさんだった、と続紀は言いたいのでしょう。
日付不明。崩御直後。称徳天皇は寛大な方であったが、道鏡が権力を握ってからは無駄な伽藍建設で国力を浪費し、刑罰が厳しく、殺戮がみだりにおこなわれるようになったと、続紀は罵っております。
手のひら返しとはこのことです。
★8月21日、皇太子が次のように令旨を下した。
聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を窺う心を抱いて、久しく日を経ていたという。しかし、山陵の土がまだ乾かぬうちに、悪賢い陰謀は発覚した。これはひとえに天神地祇が守られ、土地と五穀の神がお助けくださったからである。しかし、いま先聖の厚い恩を顧みると、法によって刑罰を加えるのは忍びない。そこで、道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ、派遣することにする。(中略)
その日のうちに促して(道鏡を)出発させた。★
即日追放です。道鏡は身ひとつで都を追われました。
むごいいこと。
★8月22日
道鏡の弟の弓削浄人(きよひと)と、浄人の息子の広方・広田・広津を土佐国に流した。★
道鏡禅師、法主→道鏡法師、呼び捨てで道鏡。
(以上続紀P44-45)
一書に曰く、
道鏡は政治的には、無能だった。
有能な医師では、あった。ふむ。
立派な宗教家でも、いや、こっちが本業ですが。
だが、政治家としては、だめだった?
こう聞くと、道鏡さんって、善良ないい人っぽい。
笠智衆か。
だけど、その時代の最高権力者に取り入った。色気使ってね。
となると、
なんか脂ギトギトの目玉ギョロギョロのくっちゃい男を想像しちゃいますねえ。
笠智衆か、ギトギト男か。
顔が決まりません。
By妻
逆「あづまはや」
▲▼▲▼▲▼▲▼
宝亀元年8月21日は西暦770年9月14日です。
まだ残暑厳しい頃か、台風がやってくる季節です。奈良から下野へは東山道を通ったはず。このとき道鏡71才です。
信濃坂を越えました。今の神坂峠です。標高1569m、東山道最大の難所。峠越え42kmの間、宿はありません。71才が1日で峠を越えられたかな。できなければ野宿です。 -
神坂峠付近から信濃側。道鏡の見た風景と変わりません。下りきると木曽谷。正面が中央アルプス、
木曽路を北上、浅間根腰から碓氷坂つまり碓氷峠です。
一書に曰く、
この険しい山道を、とぼとぼと、、、
笠智衆がすると、泣けます。
お労しや。
ギトギト男なら、
さすが!かな。
さすが、最高の女の心をつかんだだけのことはある。
男は筋肉よ!ってなもんでしょうかね。
By妻 -
碓氷峠付近。山のつきるところが関東平野。
道鏡は当時の最高級の知識人です。日本書紀は読んでいたでしょう。ヤマトタケルが東征を終えて、都へ帰る道筋を逆にたどっていることは知っていたはず。
関東など見たことはありません。広大な大地を前に「とんでもないところへ行くんだな」と思ったでありましょう。
逆「あづまはや」であります。 -
このあたりでは古代東山道は江戸時代の中仙道と同じ道筋です。碓氷坂より下れば関東平野です。
ここから当時上野国国府のあった現前橋市、下野国府のあった現栃木市を経て、北関東を下野薬師寺まで歩いたことになります。
古代官道は江戸時代の五街道などよりはるかに立派なものでした。原則道幅12m、都→国府その逆の駅馬が巡航最高時速16kmですれ違える道路が、ほぼ直線に各国の国府を結んでおりました。
総延長6000km。昭和30年代、初期の高速道路も北海道別で6000kmくらい、コースもよく似ているそうです。首都と地方拠点都市を最短距離で結ぶという目的が同じだからと言われております。
ほぼ16kmごとに駅がありました。現代の高速道路も平均16kmごとにインターチェンジがあるそうです。馬も自動車も乗っているのは人間ですから、人間には16kmまたはその整数倍くらいの距離で止まりたいという生理があるのかもしれません。
上野国、下野国は古代ヤマト朝廷には重要な地方拠点でした。それを結ぶ東山道はよく整備されていました。しかし真っ直ぐで、民衆の生活拠点を結ぶという発想ではありません。沿線にはなにもない。馬をとばすにはいいかもしれませんが、歩くには向いていなかった。
道鏡は馬が来れば道ばたによけ、日が照ればカンカン照り、赤城山の麓では有名な赤城おろしに吹きまくられながら、とぼとぼと東に歩いたのであります。
「講釈師、見てきたようなことを言い」By妻。
この時代官道の駅はある身分以上の、公務の役人しか泊めてくれません。
後述のように「駅家を順送りして下向させた」とありますから、駅に泊めてはくれたようです。護送の役人だけは宿舎、罪人同様の道鏡は中庭。 -
これは宇佐神宮発行の「絵で見る和気清麻呂公一代記」P13
道鏡放逐のイラストです。
こんなものだったかもしれません。
背景の山は赤城山かな。
一書に曰く、
そうねえ。道鏡さんは、八尾の生まれですからね。風土の違いに驚いたかも。赤城おろしも吹くしね。寒かったでしょうし。
筋骨隆々なら、うわっはっは。風よふけ~、雨よふれ~。我に七難八苦をあたえたまえ~
だろうけど、笠智衆なら、熱出して寝込んだわね。
By妻
宝亀3年9月6日、おそらく道鏡はまだ下野薬師寺への旅の途中です。
★和気清麻呂と広虫を備後国と大隅国より召し出して京に入らせた。★
(P47)
8月4日の天皇の崩御からわずか1ヶ月ちょっとです。 -
写真は下野薬師寺跡。復元された回廊の一部です。
失脚した道鏡が配流されたのがここでした。 -
これは5mの棒の先につけたアクションカメラで撮りました。
回廊。ほぼ真北です。 -
やや東にふりました。
復元戒壇堂。 -
薬師寺跡境内。
-
真南
関東平野でも一番広い方向です。この方向だと150kmくらい山はありません。 -
南西。
そろそろ赤城山か日光連山の端っこでも出てこないものか。 -
西なのですが、山らしきものは見えません。
地図ではこのあたりに日光連山が見えるはず。 -
一周しました。
ごらんのようにこの日はいい天気で、見通しはよかった。
高さ5mの目線でも、とにかく山らしきものがないのです。
真っ平らでした。
日本にもこんなペッタンコなところがあるんだ!
道鏡曰く、
とんでもないところへ流されたものだ。こりゃ、カムバックはもうダメだな。
そういう嘆きが聞こえてくるようでした。
配流されたときは、名目だけにしても薬師寺別当という官職をもっておりました。
死んだときは後述のように「庶人としての待遇で葬った。」と続紀は語っております。
官職も剥奪されたということです。
ちょっと脱線します。
▲▼▲▼▲▼▲▼▲
孝謙天皇は道鏡事件のせいで、昔から評判が悪いそうです。
実はいいこともやっています。
古代の官道、駅路は地方の税を都に運ぶのに使われました。運ぶのは税を納める農民自身です。税をお納めさせてやる。都まで持ってこい。
行きはまだ駅路の駅を使えましたが、帰りは勝手に帰れ。食料も自分で調達しろ。
これで農民は非常に困りました。
「路頭の家」駅路に面する家の住民は、旅人を助けるどころか、むしり取ることしか考えない。
行き倒れた人の始末を旅の同僚に要求する。川で溺死した兄の弟に「なぜ死体を見せた」とお祓いを要求する。
炊事道具を貸して、ちょっとでも壊したら「弁償しろ」
当時貨幣はないので、もっていた旅の食料を取り上げたのではないか。
上もひどいですが、下もえぐかったようです。
以上日本書紀大化2年(646年)3月22日(現代語訳日本書紀下P177)
「路頭に迷う」という言葉があります。駅路に面する家の前で行き倒れて、それでも助けてもらえなかった古代の旅人のことを言ったのではないですかね。
そこで、
続紀天平宝字元年(757年)冬10月6日、孝謙天皇の勅として、
★聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつないでいる、と。どちらの場合も旅の道中に苦しみ、ついに横死してしまう、と。朕はこのことを思いやって、哀れみの心を禁じ得ない。そこで、京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を与え、よく調べて無事に郷里に着けるようにせよ。★
(続紀中P176)
「勅」ですから、孝謙天皇はこの文書を読んで署名しました。
仁徳天皇の民の煙がどうのという、煙のようなお話しではありません。
天皇が民政に直接介入するというのは、続紀ではあまり見たことがありません。
一書に曰く、
どういう人が都に荷物を運ぶ人夫に選ばれたんだろう?
これは、もう、死刑宣告だわ。
こういうことを見逃していた、この時代の歴代の政治家って、なんなのよ。
孝謙さんて、まともな人だったのですよね。
By妻 -
道鏡のお墓がある龍興寺です。
-
本堂。
-
手水屋。
-
中門。
龍興寺全景です。 -
写真中央に道鏡のお墓があります。
-
道鏡についての説明板がありました。
-
全文書き起こします。一部算用数字に書き換えました。
★
道鏡禅師の墓所
奈良時代の高僧、道鏡禅師の墓所(道鏡塚)が当所です。
道鏡は若くして出家し、葛城山で厳しい修行をし、義淵、良弁から法相を学び、梵文と写経に通じ、如意輪法、宿曜法、併せて薬法や医術にも精通された高徳の僧です。
天平勝宝年間、宮中内道場の看病禅師となりました。そして、孝謙上皇の病を治療した功績により、天平宝字七年(763)、少僧都に任ぜられました。
次の年に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任ぜられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となりました。新しい政治を進めようとする天皇により、天平神護元年(765)、道鏡は太政大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に準ずる待遇の法主に任命されました。
禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を上げましたが、宝亀元年(770)8月4日、称徳天皇が崩御されますと、同年八月二十一日、造下野国薬師寺別当職(長官)に任ぜられ、奈良の都から遣東されました。
禅師は下野薬師寺に着任後も、各地で積極的に巡錫、親教をし、多くの人々を教化されましたが、宝亀3年(772)四月七日、日本三戒壇の一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と、すべての人々の幸せを祈りながら、静かに遷化されました。
人々は、これを深く哀しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。
私たちは、真実の歴史を探究してこられた先達に敬意を表し、その意志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざします。
平成二十九年(2017)四月七日
龍興寺
道鏡を守る会
★
続紀、後紀の記述とは異なりますが、地元の道鏡をひいきする熱意が伝わる文章です。正史が絶対に正しいという保証はありませんので、こうした道鏡への評価もまたあっていいと思います。
道鏡死去についての続紀バージョンは以下の通り。
光仁天皇宝亀3年(772年)4月
★
4月7日 下野国から言上した。「薬師寺別当の道鏡が死去しました」と。
道鏡は俗姓弓削連で、河内国の人であった。梵文(訳注、サンスクリット語)に大略通じており、禅の修行を積んでいることで知られていた。このため内道場(訳注、宮中に設けられた仏殿)に入り、禅師の一人に列せられた。天平宝宇五年、孝謙天皇が保良宮に行幸して病気であった時、その看病に当たって、次第に寵愛されるようになった。廃帝(訳注、淳仁天皇)は常にこれに異を唱え、孝謙天皇と共に事をなすことができなかった。孝謙天皇は平城宮の別宮(訳注、法華寺)に帰って居を構えた。
天平宝字8年、大師(太政大臣)の恵美仲麻呂が謀反を起こして誅伐せられたのち、道鏡を太政大臣禅師に任じた。しばらくして、上皇は道鏡を崇敬する余り法主となし、天子の用いる輿の使用を許した。衣服や飲食も天皇と全く同じようにさせ、
政務についても、大小すべてに決を下させた。その弟の弓削連浄人は、庶人の身分から八年の間に従二位・大納言に昇進した。弓削連一門で、五位以上の者は男女合わせて十人にものぼった。
その時、太宰府の主神の習宣阿曽麻呂が偽って、宇佐八幡宮の神の教示であると道鏡を誑かし、道鏡はこれを信じて、皇位をうかがう志を抱いた。このいきさつは高野天皇(重祚。称徳天皇)紀に記されている。称徳天皇が崩御されても道鏡はなお権威は衰えることはないとして、密かに僥倖をたのみ、葬礼が終わっても称徳天皇の山稜を守っていた。
先帝の寵愛されていたところでもあり、法によって道鏡を処断するに忍びず、そこで造下野国の薬師寺別に任じて、駅家を順送りして下向させた。死去したときは、庶人としての待遇で葬った。
★
(続紀下P90-91) -
「史跡 道鏡塚」
この奥に、 -
仏塔がありました。
-
卒塔婆に「弓削道鏡禅師」とあります。
これが墓石ということでありましょう。 -
この奥に茂みにはいる小径がありました。
円墳があるということですが、確認できませんでした。
一書に曰く、
龍興寺は、素晴らしいお寺でした。
このお寺にお参りしたら、道鏡は色気で権力を得た、野望の持ち主とは、とてもとても、大事なのでもう一回、とっても思えません。
ほんとーに、きよらかな、静かなお寺でございました。
道鏡さまは、こころ清らかな、つつましい、御仏に身も心も捧げた人のように思えました。
だから、孝謙天皇が、追いかけてきたってことにしたい。
それぐらいの幸せが、あったって良いじゃない。
ふたりに、幸せになってほしかったのね。
下野の人は、優しいのです。
By妻
孝謙天皇神社に続きます。
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