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2023年4月7日(金)夕方の4時半、広島駅前から広電の路面電車に乗って友人との待ち合わせ場所に向かう。広電こと広島電鉄は広島県を主たる事業対象地域として鉄道・軌道事業、バス事業、不動産事業を行っている会社。<br /><br />1912年(大正元年)に広島電気軌道として広島駅・御幸橋(紙屋町経由)と、八丁堀・白島間が運行開始。1917年(大正6年)に広島瓦斯(現在の広島ガス)と合併して広島瓦斯電軌となる。1929年(昭和4年)にはバス事業開始。広島電鉄としての設立は1942年(昭和17年)。不動産部門の設立は戦後の1961年。<br /><br />鉄道・軌道事業は軌道線6路線19.0kmと、鉄道線1路線16.1 kmの総延長35.1kmの路線を持ち、年間輸送人員は約5500万人。軌道線と鉄道線は相互直通運転しており、全線の輸送人員と路線延長は、路面電車としては日本一。どちらも軌間1435mm、直流600V電化。広島市には市営の交通局がないので、市電ではないが、普通に市電と呼んでいた。ただ、私の生活範囲ではほとんど乗ることがなかった。<br /><br />青バスとも呼ばれるバス事業は広島市を中心に広島県西部や呉市で一般路線バスを運行しているほか、広島空港や山陰地方各地への高速バスも運行している。総営業キロは1404.6km。系列会社にエイチ・ディー西広島、備北交通、芸陽バスがある。中国地方最大のバス事業者。私が広島に住んでた頃のメインの市内への移動はこの青バスだった。<br /><br />不動産事業では、佐伯区の観音台や月見台、廿日市市陽光台、安佐北区の翠光台団地、安佐南区の毘沙門台などの開発や楽々園マンション、ビューハイツ己斐上、グランソシエ五日市などのマンション開発も行った。2012年には紙屋町に広島トランヴェールビルディングを開業した。<br /><br />路面電車は本線、宇品線、江波線、横川線、皆実線、白島線の6本のほぼ併用軌道の軌道線と、専用鉄道線の宮島線があり、通常8系統が相互運転で走っている。現在は市内線・宮島線共に大人240円・小児120円の均一制。<br /><br />2020年から広島駅の南口高架駅から比治山下までを結ぶ駅前大橋線の建設が開始され、2025年夏に開通予定。これにより現行の広島駅前から的場町までの路線は廃止され、新たな環状線などが運行開始の予定。<br /><br />種々様々な車両が走っていることでも有名で、動く電車の博物館とも呼ばれる。最新鋭の低床車から国内の京都市電、神戸市電、大阪市電、西鉄福岡市内線、西鉄北九州線だけでなくドイツのドルトムント電車やハノーバー電車が走り、また自社の被爆電車も走っている。<br /><br />広電の駅に行くと止まっていたのは6系統江波行の1983年に導入された2代目800形(下の写真1)。待ってると次にやって来たのは2系統宮島線直通の超低床電車5000形。1999年に導入されたドイツシーメンス製で、GREEN MOVERと呼ばれる(下の写真2)。<br /><br />その次にやって来た1系統紙屋町経由広島港行のGreen mover max5100形に乗車。2004年に国産初の100%超低床電車として開発された。長谷工不動産「BRANCHERA」広告ラッピングが施されていた。<br /><br />駅前から南下し、荒神橋で猿猴川を渡り、的場町の分岐を直進して、稲荷大橋で京橋川を渡ると南区から中区に入る。<br /><br />中区は広島市を構成する8つの行政区の一つで、1980年の広島市の政令指定都市移行と同時に設置された。広島県庁及び広島市役所の所在地。1889年の広島市制施行時からの中心地区で、行政的に広島市のみならず広島県、中国地方全体の中枢部でもある。区名は前述したが、旧広島市域の真ん中と云うことから来ている。<br /><br />人口は14.5万人足らずで、8つの区で安佐南区、西区に次いで3番目に多いが、南区、佐伯区、安佐北区とはあまり変わらない。2000年頃には12.5万人程度まで減ったが、それ以降は増加している。通勤・通学者が多く、昼間人口が夜間人口を上回っている。私も高校時代は東区から中区に通学していた(その頃は区はまだなかったが)。<br /><br />面積は15平方km強で、8区の中で一番小さい。牛田本町の太田川から京橋川が分岐して出来た三角州から下流で、京橋川と3本西の天満川に挟まれた地域で、東は京橋川を境に東区・南区と、西は天満川を境に西区と接し、南は広島湾となる。区域全域が三角州上にあり、他の区との陸地上における境界線を持たない。<br /><br />戦国時代の1589年に毛利輝元により広島城が築城され、その周辺の埋め立て・治水工事も盛んに行われ城下町が成立。以来、現在の中区一帯は広島のみならず、中国地方における中心業務地区(CBD)として機能している。<br /><br />広島城周辺には国の合同庁舎・県庁・県警本部・裁判所など広域を管轄する行政・司法機能が集積する。その南側の紙屋町・八丁堀エリアは中四国地方最大の繁華街で、都市銀行・地方銀行・証券会社などの金融機関、企業の支店も多くある。バスセンターも置かれている。隣接する流川は中四国随一の歓楽街。<br /><br />さらに南に進むと、世界遺産の原爆ドームがある平和記念公園や広島市役所などがある。国道2号線より南の舟入、江波、吉島、千田町辺りは概ね住宅地とで、江波や吉島の湾岸地区は工業地区・準工業地区として工場が多くある。<br /><br />中区に関連する著名人を一部挙げる。バレリーナの森下洋子(48年生れ)は江波小学校に入学し3年生から袋町小学校に転校したが、6年生で東京に転校した。カナダ日系人タレントのロバート・ボールドウィン(Robert Baldwin、65年生れ)も江波出身で、中学の時にカナダに移った。昨年(2024年)末に亡くなってたんだ。びっくり。<br /><br />現在のカープのオーナー、松田元(51年生れ)は上幟町出身で南区の広大附属高校卒業。先代の松田耕平(22年生れ、02年没)は旧制修道中学卒業。アナウンサーの福井謙二(53年生れ)とその5学年下の山中秀樹(58年生れ)は共に幟町小学校から修道中・高に進む。ミュージシャンの原田真二(58年生れ)は本川小学校、大手町中学(現在は移転して吉島中学)、舟入高校卒業で、私の姉の小学校の後輩なんや。<br /><br />西区の崇徳高校で1976年の春の選抜で優勝したメンバーだった元カープの山崎隆造(58年生れ)は小町出身で国泰寺中学卒業。現カープ監督の新井貴浩(77年生れ)は佐伯区五月が丘出身と前述したが、小学校4年までは天満小学校だった。現ドラゴンズの中田翔(89年生れ)は竹屋小学校、国泰寺中学から大阪桐蔭高校に進んだ。<br /><br />カープ3連覇の監督だった緒方孝市(68年生れ、鳥栖出身)の妻の元グラドルの緒方(中條)かな子(73年早生れ)は幟町中学校から東区の広島第一女子商(現広島桜が丘高校)に進んだが中退した(後に東京の堀越高校卒業)。<br /><br />1980年にサッカーの日本代表監督を務めた渡辺正(まさし)(36年早生れ)は千田小学校、国泰寺中学校、崇徳高校を経て基町高校へ転入学した。その5学年下の宮本輝紀(40年生れ)は渡辺の小中の後輩で西区の山陽高校に進んだ。<br /><br />お笑いB&amp;Bの島田洋七(50年早生れ)は基町生れで幟町小学校に入学したが、1年の時に佐賀の祖母に預けられ(「佐賀のがばいばあちゃん」で有名)、その後、安佐南区の広陵高校に進学、佐伯区の広島工大に進んだが中退。タレントの山口良一(55年早生れ)は袋町小学校、国泰寺中学から南区の市工を卒業。<br /><br />区内には私がいた当時は入試が総合選抜だった市内の高校5校のうち3校が中区にある他、私立高校も多い。私が卒業した旧制市中だった基町(もとまち)高校は上述の渡辺正の他、「ズッコケ三人組」シリーズらを書いた作家の那須正幹(42年生れ、21年没、西区己斐出身)、児童文学作家の朽木祥(57年生れ)、トランペット奏者の栗栖健一(72年生れ、南区宇品出身)、アナウンサーの三宅正治(62年生れ、東区二葉出身)に桑原しおり(72年早生れ、東区牛田出身)ら。朽木さんは同時期に学校にいたんだ。三宅アナは私の弟が3年の時の1年。桑原アナは中学も一緒なので同窓会でお話したことあるわ。<br /><br />旧制一中国泰寺高校の卒業生には1928年アムステルダム五輪三段跳金メダリストの織田幹雄(05年早生れ、98年没、海田町出身)、デザイナーの三宅一生(38年生れ、22年没、東区東蟹屋出身)ら。<br /><br />高校野球の名門広島商業(県商)卒業生は、前述した東区牛田出身の達川光男、岩本貴裕、安佐南区大塚出身の柳田悠岐の他、鶴岡一人(16年生れ、00年没、呉市出身)、山本一義(38年生れ、16年没、西区天満出身)、大下剛史(44年生れ、海田町出身)、三村敏之(48年生れ、09年没、海田町出身)、山本和行(49年生れ、呉市吉浦出身)ら蒼々たる野球選手がゾロリ。<br /><br />私立の名門修道中・高卒業生には脚本家の遊川和彦(55年生れ、タメなんや、大竹市出身)、モーリー・ロバートソン(Morley Robertson、63年早生れ、佐伯区五日市南小学校卒業)らも。吉川晃司(65年生れ、府中町出身)は2年の時に中退し上京してデビュー。<br /><br />八丁堀の白島線分岐を過ぎ、紙屋町の分岐を鯉城通り南に曲がり、本通りを過ぎて駅から15分ほどで袋町電停に到着(下の写真3)。1912年(大正元年)の広島電気軌道開業時に設置された停留所。<br /><br />鯉城通りの中央に交差点を挟んで、北に御幸橋方面行ホームが、南に紙屋町方面行ホームが作られている。なお、この鯉城通りは江戸時代までは広島城外堀から広島湾に通じる運河の西堂川だった。<br /><br />袋町は江戸初期の1657年の大火の後にできた街で、その名は女性向けの袋を製作していたことに因んでいる。現在は電停の北東、並木通りまでの数ブロックの町名だが、昔はこの辺り一帯を指していた。高2の頃、袋町小学校のそばにあった見真講堂と云うホールで、野音唄の市と云うコンサートを見た。泉谷しげるや海援隊、古井戸、ケメなどが出ていた。<br /><br />夕方の5時ちょっと前、NHK広島放送センターの前で高校時代からの友人と合流。彼とは放送部で一緒だった仲間で、このNHK広島は高校放送コンテストの苦い思い出がある場所。3年の時かな、番組制作で確か2位まで予選通過できるのに3位だった。でも表彰状をもらったのは覚えてる。テレビのニュースで何故かその場面の写真が流されてて、悔しかったわ~<br /><br />ただし、現在のNHK広島放送センタービルは1994年に竣工したビルで、その当時のものとは違う。21階建てで、10階までをNHKが使用し、11階から上はテナントが入るオフィスビル。ビルの南側平和大通りに面して3つのモニュメントが建っている(下の写真4)。<br /><br />右側の原爆之碑は1966年に原爆で亡くなられた職員の方86人を合祀している。広島放送局は原爆投下当時は現在の幟町小学校辺りにあり、壊滅的な被害を受け、在籍職員260人中34人がその日のうちに亡くなったが、生き残った職員らが懸命に復旧作業を続け、翌日の午前9時には放送を再開した。<br /><br />真ん中の「平和への誓い-被爆放送局の碑-」は2005年に造られたもので、移転後も1997年まで福屋百貨店幟町別館として利用された被爆した旧局舎の縁石の一部を保存しており、2つの石で原爆投下時間の8時15分を示している。<br /><br />左側の「ヒロシマの火 平和への灯」は2007年に設置されたもので、平和記念公園の平和の灯と福岡県星野村の平和の火から分火された2つの火が灯されている。星野村の平和の火は、星野村出身の山本達雄さんが、原爆で亡くなった親戚の形見として、廃墟となった広島の街から持ち帰った火で、自らも被爆した山本さんは、自宅で絶やすことなく火を守り続けた。その後、1968年に星野村に引き継がれ、広島から遠く離れた地で、今も燃え続けている。<br /><br />平和大通りを渡って、平和大橋の手前、南側にある被爆動員学徒慰霊慈母観音像にお参り。1966年建立。広島市内の旧制中学校・女学校21校の生徒の慰霊碑で、それら学校の生徒約4000人の名前がネームプレートに刻まれ築山に納められている(下の写真5)。 <br /><br /><br />平和大橋を渡って、平和公園に進むが、続く

広島 広島駅前から袋町へ(To Fukuromachi,Hiroshima,Hiroshima,Japan)

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2023/04/07 - 2023/04/07

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旅行記グループ 三原・広島

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月7日(金)夕方の4時半、広島駅前から広電の路面電車に乗って友人との待ち合わせ場所に向かう。広電こと広島電鉄は広島県を主たる事業対象地域として鉄道・軌道事業、バス事業、不動産事業を行っている会社。

1912年(大正元年)に広島電気軌道として広島駅・御幸橋(紙屋町経由)と、八丁堀・白島間が運行開始。1917年(大正6年)に広島瓦斯(現在の広島ガス)と合併して広島瓦斯電軌となる。1929年(昭和4年)にはバス事業開始。広島電鉄としての設立は1942年(昭和17年)。不動産部門の設立は戦後の1961年。

鉄道・軌道事業は軌道線6路線19.0kmと、鉄道線1路線16.1 kmの総延長35.1kmの路線を持ち、年間輸送人員は約5500万人。軌道線と鉄道線は相互直通運転しており、全線の輸送人員と路線延長は、路面電車としては日本一。どちらも軌間1435mm、直流600V電化。広島市には市営の交通局がないので、市電ではないが、普通に市電と呼んでいた。ただ、私の生活範囲ではほとんど乗ることがなかった。

青バスとも呼ばれるバス事業は広島市を中心に広島県西部や呉市で一般路線バスを運行しているほか、広島空港や山陰地方各地への高速バスも運行している。総営業キロは1404.6km。系列会社にエイチ・ディー西広島、備北交通、芸陽バスがある。中国地方最大のバス事業者。私が広島に住んでた頃のメインの市内への移動はこの青バスだった。

不動産事業では、佐伯区の観音台や月見台、廿日市市陽光台、安佐北区の翠光台団地、安佐南区の毘沙門台などの開発や楽々園マンション、ビューハイツ己斐上、グランソシエ五日市などのマンション開発も行った。2012年には紙屋町に広島トランヴェールビルディングを開業した。

路面電車は本線、宇品線、江波線、横川線、皆実線、白島線の6本のほぼ併用軌道の軌道線と、専用鉄道線の宮島線があり、通常8系統が相互運転で走っている。現在は市内線・宮島線共に大人240円・小児120円の均一制。

2020年から広島駅の南口高架駅から比治山下までを結ぶ駅前大橋線の建設が開始され、2025年夏に開通予定。これにより現行の広島駅前から的場町までの路線は廃止され、新たな環状線などが運行開始の予定。

種々様々な車両が走っていることでも有名で、動く電車の博物館とも呼ばれる。最新鋭の低床車から国内の京都市電、神戸市電、大阪市電、西鉄福岡市内線、西鉄北九州線だけでなくドイツのドルトムント電車やハノーバー電車が走り、また自社の被爆電車も走っている。

広電の駅に行くと止まっていたのは6系統江波行の1983年に導入された2代目800形(下の写真1)。待ってると次にやって来たのは2系統宮島線直通の超低床電車5000形。1999年に導入されたドイツシーメンス製で、GREEN MOVERと呼ばれる(下の写真2)。

その次にやって来た1系統紙屋町経由広島港行のGreen mover max5100形に乗車。2004年に国産初の100%超低床電車として開発された。長谷工不動産「BRANCHERA」広告ラッピングが施されていた。

駅前から南下し、荒神橋で猿猴川を渡り、的場町の分岐を直進して、稲荷大橋で京橋川を渡ると南区から中区に入る。

中区は広島市を構成する8つの行政区の一つで、1980年の広島市の政令指定都市移行と同時に設置された。広島県庁及び広島市役所の所在地。1889年の広島市制施行時からの中心地区で、行政的に広島市のみならず広島県、中国地方全体の中枢部でもある。区名は前述したが、旧広島市域の真ん中と云うことから来ている。

人口は14.5万人足らずで、8つの区で安佐南区、西区に次いで3番目に多いが、南区、佐伯区、安佐北区とはあまり変わらない。2000年頃には12.5万人程度まで減ったが、それ以降は増加している。通勤・通学者が多く、昼間人口が夜間人口を上回っている。私も高校時代は東区から中区に通学していた(その頃は区はまだなかったが)。

面積は15平方km強で、8区の中で一番小さい。牛田本町の太田川から京橋川が分岐して出来た三角州から下流で、京橋川と3本西の天満川に挟まれた地域で、東は京橋川を境に東区・南区と、西は天満川を境に西区と接し、南は広島湾となる。区域全域が三角州上にあり、他の区との陸地上における境界線を持たない。

戦国時代の1589年に毛利輝元により広島城が築城され、その周辺の埋め立て・治水工事も盛んに行われ城下町が成立。以来、現在の中区一帯は広島のみならず、中国地方における中心業務地区(CBD)として機能している。

広島城周辺には国の合同庁舎・県庁・県警本部・裁判所など広域を管轄する行政・司法機能が集積する。その南側の紙屋町・八丁堀エリアは中四国地方最大の繁華街で、都市銀行・地方銀行・証券会社などの金融機関、企業の支店も多くある。バスセンターも置かれている。隣接する流川は中四国随一の歓楽街。

さらに南に進むと、世界遺産の原爆ドームがある平和記念公園や広島市役所などがある。国道2号線より南の舟入、江波、吉島、千田町辺りは概ね住宅地とで、江波や吉島の湾岸地区は工業地区・準工業地区として工場が多くある。

中区に関連する著名人を一部挙げる。バレリーナの森下洋子(48年生れ)は江波小学校に入学し3年生から袋町小学校に転校したが、6年生で東京に転校した。カナダ日系人タレントのロバート・ボールドウィン(Robert Baldwin、65年生れ)も江波出身で、中学の時にカナダに移った。昨年(2024年)末に亡くなってたんだ。びっくり。

現在のカープのオーナー、松田元(51年生れ)は上幟町出身で南区の広大附属高校卒業。先代の松田耕平(22年生れ、02年没)は旧制修道中学卒業。アナウンサーの福井謙二(53年生れ)とその5学年下の山中秀樹(58年生れ)は共に幟町小学校から修道中・高に進む。ミュージシャンの原田真二(58年生れ)は本川小学校、大手町中学(現在は移転して吉島中学)、舟入高校卒業で、私の姉の小学校の後輩なんや。

西区の崇徳高校で1976年の春の選抜で優勝したメンバーだった元カープの山崎隆造(58年生れ)は小町出身で国泰寺中学卒業。現カープ監督の新井貴浩(77年生れ)は佐伯区五月が丘出身と前述したが、小学校4年までは天満小学校だった。現ドラゴンズの中田翔(89年生れ)は竹屋小学校、国泰寺中学から大阪桐蔭高校に進んだ。

カープ3連覇の監督だった緒方孝市(68年生れ、鳥栖出身)の妻の元グラドルの緒方(中條)かな子(73年早生れ)は幟町中学校から東区の広島第一女子商(現広島桜が丘高校)に進んだが中退した(後に東京の堀越高校卒業)。

1980年にサッカーの日本代表監督を務めた渡辺正(まさし)(36年早生れ)は千田小学校、国泰寺中学校、崇徳高校を経て基町高校へ転入学した。その5学年下の宮本輝紀(40年生れ)は渡辺の小中の後輩で西区の山陽高校に進んだ。

お笑いB&Bの島田洋七(50年早生れ)は基町生れで幟町小学校に入学したが、1年の時に佐賀の祖母に預けられ(「佐賀のがばいばあちゃん」で有名)、その後、安佐南区の広陵高校に進学、佐伯区の広島工大に進んだが中退。タレントの山口良一(55年早生れ)は袋町小学校、国泰寺中学から南区の市工を卒業。

区内には私がいた当時は入試が総合選抜だった市内の高校5校のうち3校が中区にある他、私立高校も多い。私が卒業した旧制市中だった基町(もとまち)高校は上述の渡辺正の他、「ズッコケ三人組」シリーズらを書いた作家の那須正幹(42年生れ、21年没、西区己斐出身)、児童文学作家の朽木祥(57年生れ)、トランペット奏者の栗栖健一(72年生れ、南区宇品出身)、アナウンサーの三宅正治(62年生れ、東区二葉出身)に桑原しおり(72年早生れ、東区牛田出身)ら。朽木さんは同時期に学校にいたんだ。三宅アナは私の弟が3年の時の1年。桑原アナは中学も一緒なので同窓会でお話したことあるわ。

旧制一中国泰寺高校の卒業生には1928年アムステルダム五輪三段跳金メダリストの織田幹雄(05年早生れ、98年没、海田町出身)、デザイナーの三宅一生(38年生れ、22年没、東区東蟹屋出身)ら。

高校野球の名門広島商業(県商)卒業生は、前述した東区牛田出身の達川光男、岩本貴裕、安佐南区大塚出身の柳田悠岐の他、鶴岡一人(16年生れ、00年没、呉市出身)、山本一義(38年生れ、16年没、西区天満出身)、大下剛史(44年生れ、海田町出身)、三村敏之(48年生れ、09年没、海田町出身)、山本和行(49年生れ、呉市吉浦出身)ら蒼々たる野球選手がゾロリ。

私立の名門修道中・高卒業生には脚本家の遊川和彦(55年生れ、タメなんや、大竹市出身)、モーリー・ロバートソン(Morley Robertson、63年早生れ、佐伯区五日市南小学校卒業)らも。吉川晃司(65年生れ、府中町出身)は2年の時に中退し上京してデビュー。

八丁堀の白島線分岐を過ぎ、紙屋町の分岐を鯉城通り南に曲がり、本通りを過ぎて駅から15分ほどで袋町電停に到着(下の写真3)。1912年(大正元年)の広島電気軌道開業時に設置された停留所。

鯉城通りの中央に交差点を挟んで、北に御幸橋方面行ホームが、南に紙屋町方面行ホームが作られている。なお、この鯉城通りは江戸時代までは広島城外堀から広島湾に通じる運河の西堂川だった。

袋町は江戸初期の1657年の大火の後にできた街で、その名は女性向けの袋を製作していたことに因んでいる。現在は電停の北東、並木通りまでの数ブロックの町名だが、昔はこの辺り一帯を指していた。高2の頃、袋町小学校のそばにあった見真講堂と云うホールで、野音唄の市と云うコンサートを見た。泉谷しげるや海援隊、古井戸、ケメなどが出ていた。

夕方の5時ちょっと前、NHK広島放送センターの前で高校時代からの友人と合流。彼とは放送部で一緒だった仲間で、このNHK広島は高校放送コンテストの苦い思い出がある場所。3年の時かな、番組制作で確か2位まで予選通過できるのに3位だった。でも表彰状をもらったのは覚えてる。テレビのニュースで何故かその場面の写真が流されてて、悔しかったわ~

ただし、現在のNHK広島放送センタービルは1994年に竣工したビルで、その当時のものとは違う。21階建てで、10階までをNHKが使用し、11階から上はテナントが入るオフィスビル。ビルの南側平和大通りに面して3つのモニュメントが建っている(下の写真4)。

右側の原爆之碑は1966年に原爆で亡くなられた職員の方86人を合祀している。広島放送局は原爆投下当時は現在の幟町小学校辺りにあり、壊滅的な被害を受け、在籍職員260人中34人がその日のうちに亡くなったが、生き残った職員らが懸命に復旧作業を続け、翌日の午前9時には放送を再開した。

真ん中の「平和への誓い-被爆放送局の碑-」は2005年に造られたもので、移転後も1997年まで福屋百貨店幟町別館として利用された被爆した旧局舎の縁石の一部を保存しており、2つの石で原爆投下時間の8時15分を示している。

左側の「ヒロシマの火 平和への灯」は2007年に設置されたもので、平和記念公園の平和の灯と福岡県星野村の平和の火から分火された2つの火が灯されている。星野村の平和の火は、星野村出身の山本達雄さんが、原爆で亡くなった親戚の形見として、廃墟となった広島の街から持ち帰った火で、自らも被爆した山本さんは、自宅で絶やすことなく火を守り続けた。その後、1968年に星野村に引き継がれ、広島から遠く離れた地で、今も燃え続けている。

平和大通りを渡って、平和大橋の手前、南側にある被爆動員学徒慰霊慈母観音像にお参り。1966年建立。広島市内の旧制中学校・女学校21校の生徒の慰霊碑で、それら学校の生徒約4000人の名前がネームプレートに刻まれ築山に納められている(下の写真5)。


平和大橋を渡って、平和公園に進むが、続く

  • 写真1 広電広島駅

    写真1 広電広島駅

  • 写真2 超低床電車5000形

    写真2 超低床電車5000形

  • 写真3 袋町電停に着いたGreen mover max

    写真3 袋町電停に着いたGreen mover max

  • 写真4 NHK広島放送センタービル

    写真4 NHK広島放送センタービル

  • 写真5 被爆動員学徒慰霊慈母観音像

    写真5 被爆動員学徒慰霊慈母観音像

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