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2023年4月7日(金)夕方の6時前、平和公園の本川と元安川に挟まれた部分の一番北側に。<br />本川と元安川の分岐部分には全国的にも珍しいT字型の橋の相生橋が架かる。上天満町から広島駅に至る相生通りに架かる道路・軌道併用橋で、中央部で分岐して平和公園に繋がっている。<br /><br />現在の橋は1983年に架け直されたものだが、その時取り壊された2代目の橋は原爆投下の目標にされたが、この橋自体は落橋せず1949年に全面復旧した。私が広島にいた頃に渡ってたのはこの橋だったんだ。この2代目の橋は1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)に掛けて架けられたもの。この時に道路・軌道併用橋となった。<br /><br />最初の橋は1878年(明治11年)に本川と元安川それぞれに分けて架橋された木橋。2つの橋が相合う様から相合橋との名が付いたのが、いつのまにか相生橋表記に変わった。経緯は不明。1912年(大正元年)に広島電気軌道(現広島電鉄本線)の開通に当たって現在の併用橋の位置に木橋の電車軌道専用橋が併設された。<br /><br />最初の木橋の時に使われていた親柱(1878年設置)はその木橋が完全撤去された1940年に建立された旧相生橋碑と共に原爆ドーム横の初代の木橋が架けられた場所にある(下の写真1)。<br /><br />私が住んでた頃に架かってた2代目の橋の親柱は相生橋が平和公園に繋がる慈仙寺鼻と呼ばれるところに置かれている。1963年に広島島根県人会発足10周年を記念して植えられた島根の夫婦松の裏側にある(下の写真2)。なお、慈仙寺鼻の名の由来は、原爆投下までこの辺りに慈仙寺と云う浄土宗の大きな寺があったことから来ている。<br /><br />また、使われていた橋名板は初代の親柱と相生橋碑の隣り、現在の相生橋の西詰南側(魚見台)に橋銘板碑として使われている(表紙の写真)。<br /><br />慈仙寺鼻の少し南には平和の時計塔。1967年に広島鯉城ライオンズクラブが原爆ドームの永久保存に呼応して建設した。毎朝午前8時15分には平和への願いを込めたチャイムが鳴るそうだ。聞いたことないけど。<br /><br />高さ20mあり、ひねりが特徴的なデザインの鉄柱の上に、3方向に時計が付いた直径2mの球体が設置されている。この球体は世界人類を象徴し、3本の鉄柱があらわす人々の深い祈りの手と苦難を超えて無限に伸びていく平和への希望によって支えられていることを表現している。<br /><br />この日、一緒に回ってた友人は小さい頃はこの近くに住んでおり、この塔に登って遊んでたとのこと。1960年代は気楽だったんだね~。私はその頃はかなり北の方に住んでたので、平和公園に来ることなんかなかったわ。原爆資料館は学校で行ったかも・・・<br /><br />さらにその南、元安川の対岸にある原爆ドームと向き合う位置には平和の鐘がある。1964年に原爆被災者広島悲願結晶の会により建立されたもので、鐘作りの人間国宝、香取正彦氏の作品。周りの池には蓮が植えられているが、これは被爆者が垂れた皮膚にハスの葉を包帯代わりにして巻き付けたことから来ている。鐘は誰でも撞けるが乱打は許されていない。<br /><br />平和の鐘の南西には原爆供養塔。1955年に広島戦災供養会が建立。1946年に広島戦災供養会を中心とした市民の寄付により仮設の供養塔、納骨堂、礼拝堂が建立されたが、老朽化に伴い建て直されたもの。市内に散らばっていた身元不明の遺骨はここに集められ供養されている。<br /><br />安土桃山時代の御陵をモデルとした直径16m高さ3.5mの円形の土盛りの頂点に、石造の相輪の塔が据えられており、土盛の内には、身元不明の遺骨約7万柱および氏名のみ判明している遺骨(2010年現在で817柱)が納められた遺骨箱、聖観音像、死没者名を刻んだ象牙の塔が納められている。<br /><br />その奥には遭難横死者慰霊供養塔。1957年に真言宗宗徒の方々が建立したもので、原爆で不慮の死を遂げた方々を慰霊している。原爆供養塔と広場を挟んだ南側に建っているのは韓国人原爆犠牲者慰霊碑。1970年に本川橋西詰めに韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会が強制労働等により広島で被爆した同胞の慰霊で建立したもので、1999年に現在地へ移設された。<br /><br />韓国人原爆犠牲者慰霊碑のさらに南には平和乃観音像。1956年に中島本町会が建立したもので、彫刻家の荒井秀山氏による銅製の観音像。平和公園の北側一帯は幕末から昭和初期にかけて市内有数の繁華街だった中島本町だったが、原爆により消滅した。<br /><br />平和乃観音像の南側には平和公園内を横切る道があるが、この道は江戸時代に整備された西国街道で、相生通りが出来る前は国道2号線でもあった。西国街道は本通りから続いていた。<br /><br />西側の本川に架かる本川橋は1949年に架橋されたものだが、橋脚は1897年(明治30年)に作られたものを補修しながら現在まで使っており、被爆建造物でもある。1897年に架けられた橋は広島初竣工の鋼橋で、観光名所でもあった。原爆で一部の桁が橋台から外れ、通行不能となり、その年の秋の台風で落橋した。<br /><br />この橋の歴史は古く、安土桃山時代の天正年間(1573年から1592年)に架橋された。猫屋九郎右衛門兼鎮という豪商が自費で木橋を建設したのが始まりと伝えられ、猫屋橋と呼ばれていた。当時の地図表記から、本川橋に改名されたのは1877年(明治10年)から1894年(明治27年)の間のようだ。<br /><br />本川橋から西国街道を元安橋の手前まで進むと、左手に平和の泉。1960年に広島青年会議所が創立10周年記念事業の一環として建設したもの。高さ1m、幅4mの大谷石の壁に付けられた陶製のライオンの口から飲料水が流れ出る。、旅行中の子どもたちの水筒の便を図って造られた。<br /><br />その少し先には原爆の子の像。1958年に広島平和をきずく児童・生徒の会が原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるために建立したもの。高さ9mの三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右に少年少女の像がある。当時東京芸大教授だった菊池一雄氏の作品。<br /><br />塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘が吊られ、その下に金色の鶴が吊るされ、風鈴式に音が出るようになっている。現在のこの鐘と鶴は2003年に複製されたもので、オリジナルは平和資料館に収蔵されている。<br /><br />後に並ぶのは折り鶴ブースで、 この像に捧げられる数多く(年間約1千万羽、重さ約10トン)の折り鶴を雨露から守るため、2002年に整備されたもの。 <br /><br />さらに先には平和の石塚。1972年に広島青年会議所が設置したもので、広島に流れる7つの川のデルタを広島産の花こう岩で表したデザインで、そこに碑文の彫られた2つの石板がはめ込まれている。<br /><br />この石板はイギリスのフォート・ウィリアム市(Fort William)とダットレイ市(Dudley)から寄贈されたもので、1945年の第2次大戦終結日にイギリスの青年がイギリス最高峰(1344m)のベン・ネビス山(Ben Nevis)に平和記念塚を造ったことに対して1968年に広島青年会議所が「ヒロシマの悲劇を世界平和のいしずえに」という銘板を贈ったことに対する返礼。<br /><br />元安橋西詰南側のレストハウスは1929年(昭和4年)に大正屋呉服店として建てられ、県燃料配給統制組合に買収された後被爆したが、戦後改修され燃料会館となり、広島市東部復興事務所が置かれ、都市の復興の拠点として貢献した。2020年に建築当時の外観に近い形に復元されている。<br /><br />元安橋は前述したように元安川の名前の由来となった橋で、元々は安土桃山時代に毛利輝元が広島城下を整備した時に架橋され、その名は輝元の叔父で架橋工事を指揮した毛利元康に由来している。江戸初期の地図ではすでに元安川となっているので、橋名も変わっていたものと推測される。<br /><br />1920年(大正9年)に鋼ゲルバー鈑桁橋が架けられたが、1926年(大正15年)に架け替えられ、この橋が被爆したが落橋を免れ、補修しながら1989年まで使われた。現在の橋の竣工は1992年。旧元安橋親柱は東詰下流側にモニュメントとして置かれている。また、そのモニュメントの先には「広島リバークルーズ」と「世界遺産航路」の元安桟橋がある(下の写真3)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.29032275149749133&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />平和公園の最後に原爆ドームだが、続く

広島 平和公園 相生橋(Aioi Bridge,Hiroshima Peace Memorial Park,Hiroshima,Japan)

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2023/04/07 - 2023/04/07

1853位(同エリア2989件中)

旅行記グループ 三原・広島

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月7日(金)夕方の6時前、平和公園の本川と元安川に挟まれた部分の一番北側に。
本川と元安川の分岐部分には全国的にも珍しいT字型の橋の相生橋が架かる。上天満町から広島駅に至る相生通りに架かる道路・軌道併用橋で、中央部で分岐して平和公園に繋がっている。

現在の橋は1983年に架け直されたものだが、その時取り壊された2代目の橋は原爆投下の目標にされたが、この橋自体は落橋せず1949年に全面復旧した。私が広島にいた頃に渡ってたのはこの橋だったんだ。この2代目の橋は1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)に掛けて架けられたもの。この時に道路・軌道併用橋となった。

最初の橋は1878年(明治11年)に本川と元安川それぞれに分けて架橋された木橋。2つの橋が相合う様から相合橋との名が付いたのが、いつのまにか相生橋表記に変わった。経緯は不明。1912年(大正元年)に広島電気軌道(現広島電鉄本線)の開通に当たって現在の併用橋の位置に木橋の電車軌道専用橋が併設された。

最初の木橋の時に使われていた親柱(1878年設置)はその木橋が完全撤去された1940年に建立された旧相生橋碑と共に原爆ドーム横の初代の木橋が架けられた場所にある(下の写真1)。

私が住んでた頃に架かってた2代目の橋の親柱は相生橋が平和公園に繋がる慈仙寺鼻と呼ばれるところに置かれている。1963年に広島島根県人会発足10周年を記念して植えられた島根の夫婦松の裏側にある(下の写真2)。なお、慈仙寺鼻の名の由来は、原爆投下までこの辺りに慈仙寺と云う浄土宗の大きな寺があったことから来ている。

また、使われていた橋名板は初代の親柱と相生橋碑の隣り、現在の相生橋の西詰南側(魚見台)に橋銘板碑として使われている(表紙の写真)。

慈仙寺鼻の少し南には平和の時計塔。1967年に広島鯉城ライオンズクラブが原爆ドームの永久保存に呼応して建設した。毎朝午前8時15分には平和への願いを込めたチャイムが鳴るそうだ。聞いたことないけど。

高さ20mあり、ひねりが特徴的なデザインの鉄柱の上に、3方向に時計が付いた直径2mの球体が設置されている。この球体は世界人類を象徴し、3本の鉄柱があらわす人々の深い祈りの手と苦難を超えて無限に伸びていく平和への希望によって支えられていることを表現している。

この日、一緒に回ってた友人は小さい頃はこの近くに住んでおり、この塔に登って遊んでたとのこと。1960年代は気楽だったんだね~。私はその頃はかなり北の方に住んでたので、平和公園に来ることなんかなかったわ。原爆資料館は学校で行ったかも・・・

さらにその南、元安川の対岸にある原爆ドームと向き合う位置には平和の鐘がある。1964年に原爆被災者広島悲願結晶の会により建立されたもので、鐘作りの人間国宝、香取正彦氏の作品。周りの池には蓮が植えられているが、これは被爆者が垂れた皮膚にハスの葉を包帯代わりにして巻き付けたことから来ている。鐘は誰でも撞けるが乱打は許されていない。

平和の鐘の南西には原爆供養塔。1955年に広島戦災供養会が建立。1946年に広島戦災供養会を中心とした市民の寄付により仮設の供養塔、納骨堂、礼拝堂が建立されたが、老朽化に伴い建て直されたもの。市内に散らばっていた身元不明の遺骨はここに集められ供養されている。

安土桃山時代の御陵をモデルとした直径16m高さ3.5mの円形の土盛りの頂点に、石造の相輪の塔が据えられており、土盛の内には、身元不明の遺骨約7万柱および氏名のみ判明している遺骨(2010年現在で817柱)が納められた遺骨箱、聖観音像、死没者名を刻んだ象牙の塔が納められている。

その奥には遭難横死者慰霊供養塔。1957年に真言宗宗徒の方々が建立したもので、原爆で不慮の死を遂げた方々を慰霊している。原爆供養塔と広場を挟んだ南側に建っているのは韓国人原爆犠牲者慰霊碑。1970年に本川橋西詰めに韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会が強制労働等により広島で被爆した同胞の慰霊で建立したもので、1999年に現在地へ移設された。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑のさらに南には平和乃観音像。1956年に中島本町会が建立したもので、彫刻家の荒井秀山氏による銅製の観音像。平和公園の北側一帯は幕末から昭和初期にかけて市内有数の繁華街だった中島本町だったが、原爆により消滅した。

平和乃観音像の南側には平和公園内を横切る道があるが、この道は江戸時代に整備された西国街道で、相生通りが出来る前は国道2号線でもあった。西国街道は本通りから続いていた。

西側の本川に架かる本川橋は1949年に架橋されたものだが、橋脚は1897年(明治30年)に作られたものを補修しながら現在まで使っており、被爆建造物でもある。1897年に架けられた橋は広島初竣工の鋼橋で、観光名所でもあった。原爆で一部の桁が橋台から外れ、通行不能となり、その年の秋の台風で落橋した。

この橋の歴史は古く、安土桃山時代の天正年間(1573年から1592年)に架橋された。猫屋九郎右衛門兼鎮という豪商が自費で木橋を建設したのが始まりと伝えられ、猫屋橋と呼ばれていた。当時の地図表記から、本川橋に改名されたのは1877年(明治10年)から1894年(明治27年)の間のようだ。

本川橋から西国街道を元安橋の手前まで進むと、左手に平和の泉。1960年に広島青年会議所が創立10周年記念事業の一環として建設したもの。高さ1m、幅4mの大谷石の壁に付けられた陶製のライオンの口から飲料水が流れ出る。、旅行中の子どもたちの水筒の便を図って造られた。

その少し先には原爆の子の像。1958年に広島平和をきずく児童・生徒の会が原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるために建立したもの。高さ9mの三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右に少年少女の像がある。当時東京芸大教授だった菊池一雄氏の作品。

塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘が吊られ、その下に金色の鶴が吊るされ、風鈴式に音が出るようになっている。現在のこの鐘と鶴は2003年に複製されたもので、オリジナルは平和資料館に収蔵されている。

後に並ぶのは折り鶴ブースで、 この像に捧げられる数多く(年間約1千万羽、重さ約10トン)の折り鶴を雨露から守るため、2002年に整備されたもの。

さらに先には平和の石塚。1972年に広島青年会議所が設置したもので、広島に流れる7つの川のデルタを広島産の花こう岩で表したデザインで、そこに碑文の彫られた2つの石板がはめ込まれている。

この石板はイギリスのフォート・ウィリアム市(Fort William)とダットレイ市(Dudley)から寄贈されたもので、1945年の第2次大戦終結日にイギリスの青年がイギリス最高峰(1344m)のベン・ネビス山(Ben Nevis)に平和記念塚を造ったことに対して1968年に広島青年会議所が「ヒロシマの悲劇を世界平和のいしずえに」という銘板を贈ったことに対する返礼。

元安橋西詰南側のレストハウスは1929年(昭和4年)に大正屋呉服店として建てられ、県燃料配給統制組合に買収された後被爆したが、戦後改修され燃料会館となり、広島市東部復興事務所が置かれ、都市の復興の拠点として貢献した。2020年に建築当時の外観に近い形に復元されている。

元安橋は前述したように元安川の名前の由来となった橋で、元々は安土桃山時代に毛利輝元が広島城下を整備した時に架橋され、その名は輝元の叔父で架橋工事を指揮した毛利元康に由来している。江戸初期の地図ではすでに元安川となっているので、橋名も変わっていたものと推測される。

1920年(大正9年)に鋼ゲルバー鈑桁橋が架けられたが、1926年(大正15年)に架け替えられ、この橋が被爆したが落橋を免れ、補修しながら1989年まで使われた。現在の橋の竣工は1992年。旧元安橋親柱は東詰下流側にモニュメントとして置かれている。また、そのモニュメントの先には「広島リバークルーズ」と「世界遺産航路」の元安桟橋がある(下の写真3)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.29032275149749133&type=1&l=223fe1adec


平和公園の最後に原爆ドームだが、続く

  • 写真1 初代相生橋親柱と旧相生橋碑

    写真1 初代相生橋親柱と旧相生橋碑

  • 写真2 2代目相生橋親柱と島根の夫婦松

    写真2 2代目相生橋親柱と島根の夫婦松

  • 写真3 元安桟橋

    写真3 元安桟橋

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