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2023年4月7日(金)夕方の6時15分頃、元安橋の上流左岸にある原爆ドームへ。平和公園は本川と元安川に挟まれた部分がほとんどだが、この原爆ドームの周りだけは元安川を挟んだ対岸にある。原爆ドームから元安川を経て真南に原爆死没者慰霊碑と平和資料館が意図的に並べられている。<br /><br />Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)として1996年にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、広島市への原子爆弾投下による惨状、平和を訴える記念碑として、負の世界遺産の一つとされている。<br /><br />元々は広島県の様々な物産を展示するための広島県物産陳列館として1915年(大正4年)に開館されたが、1944年(昭和19年)にその業務を停止し、複数の行政機関・統制組合の事務所として被爆の日を迎えた。<br /><br />設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル(Jan Letzel)。ドームの先端までの高さは約25mあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物だった。<br /><br />原爆は原爆ドームの東150m、現在島内科医院が建っている辺りの上空約600mで炸裂した。この建物は瞬時に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。ただし、その後炎上したため、レンガや鉄骨などを残すだけとなった。建物内で勤務していた内務省職員ら約30名は、爆発にともなう大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されている・・・<br /><br />戦後、平和公園の設置が決まり、一旦は廃墟の除去は見送られたが、1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じ、取り壊される可能性が高まった。しかし、1965年に急性白血病のため16歳で亡くなった被爆者の楮山ヒロ子さんの日記がきっかけで保存運動が高まり、1966年に広島市議会が永久保存を決議した。以後継続的に補修が行われている。<br /><br />正面かどうかは分からないが、電車通り側の世界遺産登録碑の右手には中国・四国土木出張所職員殉職碑がある。原爆ドームに勤務されていて原爆で殺された職員を慰霊して、1947年に木製で建立されたものを、1954年に高さ1.2m、横1.5mの自然石の歌碑に置き換えたもの。その右手には1979年に設置された殉職者52人の名前を刻んだ石がある。<br /><br />東側に回ると広島県地方木材有志建立慰霊碑。1967年に原爆ドームに事務所があった広島県地方木材統制株式会社の被爆殉職された役職員の冥福を祈って建立されたもの。<br /><br />原爆ドームの南側には広島県産業奨励館噴水跡も残る。建物の南側は洋風庭園になっていて、そこにあった噴水の跡。噴水の吐水口の彫刻は平和資料館に収納されている。<br /><br />噴水跡の東側にある原民喜詩碑は、幟町の生家で被爆した詩人・小説家の原民喜(05年生れ、51年自死)を偲んで、親交のあった作家や文学者たちが1951年に建立したもの。当初は広島城跡の石垣を背にして建てられていたが、1967年にこの地に修復移設された。その後、一帯の歩道工事に伴い2005年に約4m南に移され、陶板は黒御影石に替えられた。 <br /><br />原爆ドームと元安橋の間には動員学徒慰霊塔がある。労働力の不足を補うため勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため、1967年に建立されたもの。平和の女神像と8羽の鳩を配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついている。<br /><br />元安橋東詰めの北側にある花時計は1973年に平和への願いを込めて公会堂(現在は国際会議場になっている)の南側緑地に設置されたもので、時計の文字盤直径6m、時針2m、分針2.8m、秒針2.9m。この地に移されたのは1992年。<br /><br />原爆ドームの北西、相生橋西詰の下流側は現在は魚見台と命名されているが、ここには相生橋の話で前述した初代の親柱と相生橋碑と、2代目の橋の橋名板を使った橋銘板碑の他にも赤い鳥文学碑がある。この地で生まれた鈴木三重吉の29回忌の1964年に建てられたもの。<br /><br />鈴木三重吉は。1882年(明治15年)生れの小説家・児童文学者。ここら近い現在はエディオン広島本店本館がある辺りの猿楽町に生まれる。本川小学校から第一高等小学校、広島尋常中学校(現国泰寺高校)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に進んだ。<br /><br />左側の碑には三重吉の胸像が置かれ、台座には雑誌「赤い鳥」の表紙の字型をそのまま取って刻まれている。右側の碑の台座には三重吉自筆の「私は永久に夢を持つただ年少時のごとくために悩むこと浅きのみ三重吉」の一文が刻まれている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.29098114966498484&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />ここで、もう一人の友人と合流し、3人で元は広島市民球場があったひろしまゲートパークに進むが、続く

広島 平和公園 原爆ドーム(Atomic Bomb Dome,Hiroshima Peace Memorial Park,Japan)

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2023/04/07 - 2023/04/07

2917位(同エリア2990件中)

旅行記グループ 三原・広島

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月7日(金)夕方の6時15分頃、元安橋の上流左岸にある原爆ドームへ。平和公園は本川と元安川に挟まれた部分がほとんどだが、この原爆ドームの周りだけは元安川を挟んだ対岸にある。原爆ドームから元安川を経て真南に原爆死没者慰霊碑と平和資料館が意図的に並べられている。

Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)として1996年にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産(文化遺産)に登録されており、広島市への原子爆弾投下による惨状、平和を訴える記念碑として、負の世界遺産の一つとされている。

元々は広島県の様々な物産を展示するための広島県物産陳列館として1915年(大正4年)に開館されたが、1944年(昭和19年)にその業務を停止し、複数の行政機関・統制組合の事務所として被爆の日を迎えた。

設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル(Jan Letzel)。ドームの先端までの高さは約25mあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物だった。

原爆は原爆ドームの東150m、現在島内科医院が建っている辺りの上空約600mで炸裂した。この建物は瞬時に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。ただし、その後炎上したため、レンガや鉄骨などを残すだけとなった。建物内で勤務していた内務省職員ら約30名は、爆発にともなう大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されている・・・

戦後、平和公園の設置が決まり、一旦は廃墟の除去は見送られたが、1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じ、取り壊される可能性が高まった。しかし、1965年に急性白血病のため16歳で亡くなった被爆者の楮山ヒロ子さんの日記がきっかけで保存運動が高まり、1966年に広島市議会が永久保存を決議した。以後継続的に補修が行われている。

正面かどうかは分からないが、電車通り側の世界遺産登録碑の右手には中国・四国土木出張所職員殉職碑がある。原爆ドームに勤務されていて原爆で殺された職員を慰霊して、1947年に木製で建立されたものを、1954年に高さ1.2m、横1.5mの自然石の歌碑に置き換えたもの。その右手には1979年に設置された殉職者52人の名前を刻んだ石がある。

東側に回ると広島県地方木材有志建立慰霊碑。1967年に原爆ドームに事務所があった広島県地方木材統制株式会社の被爆殉職された役職員の冥福を祈って建立されたもの。

原爆ドームの南側には広島県産業奨励館噴水跡も残る。建物の南側は洋風庭園になっていて、そこにあった噴水の跡。噴水の吐水口の彫刻は平和資料館に収納されている。

噴水跡の東側にある原民喜詩碑は、幟町の生家で被爆した詩人・小説家の原民喜(05年生れ、51年自死)を偲んで、親交のあった作家や文学者たちが1951年に建立したもの。当初は広島城跡の石垣を背にして建てられていたが、1967年にこの地に修復移設された。その後、一帯の歩道工事に伴い2005年に約4m南に移され、陶板は黒御影石に替えられた。

原爆ドームと元安橋の間には動員学徒慰霊塔がある。労働力の不足を補うため勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため、1967年に建立されたもの。平和の女神像と8羽の鳩を配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついている。

元安橋東詰めの北側にある花時計は1973年に平和への願いを込めて公会堂(現在は国際会議場になっている)の南側緑地に設置されたもので、時計の文字盤直径6m、時針2m、分針2.8m、秒針2.9m。この地に移されたのは1992年。

原爆ドームの北西、相生橋西詰の下流側は現在は魚見台と命名されているが、ここには相生橋の話で前述した初代の親柱と相生橋碑と、2代目の橋の橋名板を使った橋銘板碑の他にも赤い鳥文学碑がある。この地で生まれた鈴木三重吉の29回忌の1964年に建てられたもの。

鈴木三重吉は。1882年(明治15年)生れの小説家・児童文学者。ここら近い現在はエディオン広島本店本館がある辺りの猿楽町に生まれる。本川小学校から第一高等小学校、広島尋常中学校(現国泰寺高校)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に進んだ。

左側の碑には三重吉の胸像が置かれ、台座には雑誌「赤い鳥」の表紙の字型をそのまま取って刻まれている。右側の碑の台座には三重吉自筆の「私は永久に夢を持つただ年少時のごとくために悩むこと浅きのみ三重吉」の一文が刻まれている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.29098114966498484&type=1&l=223fe1adec


ここで、もう一人の友人と合流し、3人で元は広島市民球場があったひろしまゲートパークに進むが、続く

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