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2023年4月8日(土)、今回の旅の2日目に入る。昨夜は遅くまでみんなで飲んでいたが、6時過ぎには起きて、7時過ぎに最寄り駅まで送ってもらう。<br /><br />JR芸備線の下深川駅(表紙の写真)。芸備線は広島と岡山の新見を結ぶローカル線。線名は旧安芸国から旧備後国を経由して旧備中国を結ぶことに由来している。起終点駅含む44駅、159.1kmを全線1067mmの狭軌、全線単線非電化で結ぶ。<br /><br />1915年(大正4年)に私鉄だった芸備鉄道が東広島(1937年廃止)・志和地間で開業したのが始まり。1936年(昭和11年)の小奴可・備後落合間延伸開業で全線開通。翌年全線国有化され芸備線となる。<br /><br />かつては急行列車のちどり、たいしゃく、みよしなどが走っていたが、現在は普通と快速のみの運転で、全線を通して運転される列車はない。三次と備後落合で運転系統が分かれ、完全に分断されている。広島・三次間は運行本数が多く、混雑率も70%以上と高い。<br /><br />1971年春のダイヤ改正までは蒸気機関車が走っていた。私が住んでた広島市戸坂(へさか)町も通っており、町内でも駅は遠かったのであまり乗ることはなかったが、それでも蒸気機関車で戸坂と矢賀の間の中山トンネルを蒸気機関車で抜ける辛さは覚えてる。SLと云うとなんか懐かしくて復活して欲しいと云うイメージが強いが、現実は厳しかったぜ。<br /><br />芸備線のSL運行は1971年の春で終わったが、終わると知って写真撮りに行ったわね。70年の9月に撮った写真が残るが(下の写真1)、C58だったんだ(下の写真2)。C58形蒸気機関車は1938年(昭和13年)から戦後の1947年にかけて431両が製造された機関車。1973年まで運用されていた。<br /><br />現在は岩手盛岡と秩父鉄道に動態保存されている車両がある他、数多くの車両が静態保存されている。京都の鉄道博物館の扇形車庫には1938年に製造された1号機が静態保存されている。<br /><br />下深川駅は1915年の芸備鉄道開業時に開業した駅。1937年に国有鉄道芸備線の駅となり、1987年の国鉄分割民営化によりJR西の駅となる。掘割の底に島式ホーム1面2線を持つ行違い可能な地上駅で、現在の駅舎は1983年に建てらえたもの。<br /><br />掘割の底に島式ホーム1面2線を持つ行き違い可能な地上駅。側線があり、SLみよし号運転時に折り返しの列車が入線したことがある。1番・2番のりばとも両方向の入線・発車に対応しているが、基本的に三次方面は1番のりば、広島行きは2番のりばを使用している。<br /><br />駅名はかつてはこの辺りが下深川村だったことから来ている。芸備線には広島に近い方から下深川、中深川、上深川の3駅が並んでおり、1889年(明治22年)の町村制施行まではそれぞれ下深川村、中深川村、上深川村だった。<br /><br />下深川村と中深川村は合併して深川村となり、上深川村は狩留家村、小河原村と合併して旧村名を継承した狩小川村となる。その後、1955年にこの両村と落合村、口田村が合併し、高陽町となった。<br /><br />深川と云う名の由来ははっきりとはしていないが、高陽町史によると平安時代の1085年に三田郷として諸木村・深洲村・小田村の名があり、この深洲村が深川村に通じるとしている。<br /><br />さらに1060年に三田郷深波村表の表記があり、1070年にも三田郷深波村字深波の表記があり、これはおそらく「ふかわ」と呼んだと推測されている。さらにその後に安芸国北庄深河と云う地名もあり、「深波」や「深河」が時代の変遷で、「深川」と変わったと思われる。<br /><br />現在は広島市安佐北区だが、1973年に広島市に編入されるまでは高陽町だった。編入された時点で住所からは「高陽」の名前は消えてしまったが、高陽ニュータウンなどの大規模団地の名前や高陽高校や高陽東高校など、高陽〇〇(もしくは〇〇高陽)と名が付く施設も多く、その時代に住んでた私らだけでなく今の一帯は高陽町と呼ばれることが多い。<br /><br />1955年に安佐郡落合村・狩小川村・口田村・深川村が対等合併して成立。1973年の広島市編入直前の人口は約1.3万人、面積は約51.5平方kmだった。<br /><br />町名決定の経緯は不明だが、めでたい意味の言葉をそのまま使ったり、良い意味の言葉から創作されたりした瑞祥地名で、歴史的な裏付けはない。高陽氏は上古中国神話上の帝王の名前。<br /><br />安佐北区は1980年の広島市の政令指定都市移行と同時に設置された区。旧安佐郡北部の安佐町、可部町、高陽町と旧高田郡の白木町から成る。旧安佐郡北部と云うことで安佐北区と命名された。<br /><br />ちなみに安佐だが、1898年(明治31年)の郡制の施行により、高宮郡・沼田郡の区域をもって発足したのだが、高宮郡がもともと安北郡、沼田郡がもともと佐東郡と呼ばれたことに由来している。さらに云えば安北郡は安芸の北部(現在の府中町広島市温品・中山・戸坂が安南郡でそれ以北が安北郡)を意味し、佐東郡は佐伯部の東部を意味する(現西区己斐以西が佐西郡で以東が佐東郡)。<br /><br />人口は13万人強で、広島市の8区で3番目に多い。2000年には15.5万人を越えたが、その後は広島市の中でも高齢化が進む地域となり、近年は人口が微減している。<br /><br />面積は約355平方kmで、8区の中で一番広く、広島市の総面積の約40%を占める。2005年に湯来町が佐伯区に編入される前までは、広島市の総面積の約半分を占めていた。また、全国の政令指定都市の行政区としても静岡市葵区、浜松市天竜区、札幌市南区、岡山市北区に次いで5番目に広い。<br /><br />俳優の戸田菜穂(74年生れ)は可部小学校、可部中学校、安古市高校卒業。Perfumeのあ~ちゃん(89年早生れ)は鈴張小学校、清和中学校を卒業。<br /><br />サッカー元日本代表の森重真人(87年生れ)は小4の時に三篠から口田に移り、口田小学校、口田中学校を卒業して皆実高校に進んだ。昨年(2024年)サンフレッチェに戻った川辺駿(95年生れ)は落合中学校卒業でサンフレッチェユース。<br /><br />下深川7時19分発の各駅停車で広島へ。7時42分着。<br /><br /><br />7時52分発の岩国行に乗り換え(下の写真3)、小倉へ向かうが続く

広島 芸備線(JR Geibi Line,Hiroshima,Japan)

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2023/04/08 - 2023/04/08

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旅行記グループ 三原・広島

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月8日(土)、今回の旅の2日目に入る。昨夜は遅くまでみんなで飲んでいたが、6時過ぎには起きて、7時過ぎに最寄り駅まで送ってもらう。

JR芸備線の下深川駅(表紙の写真)。芸備線は広島と岡山の新見を結ぶローカル線。線名は旧安芸国から旧備後国を経由して旧備中国を結ぶことに由来している。起終点駅含む44駅、159.1kmを全線1067mmの狭軌、全線単線非電化で結ぶ。

1915年(大正4年)に私鉄だった芸備鉄道が東広島(1937年廃止)・志和地間で開業したのが始まり。1936年(昭和11年)の小奴可・備後落合間延伸開業で全線開通。翌年全線国有化され芸備線となる。

かつては急行列車のちどり、たいしゃく、みよしなどが走っていたが、現在は普通と快速のみの運転で、全線を通して運転される列車はない。三次と備後落合で運転系統が分かれ、完全に分断されている。広島・三次間は運行本数が多く、混雑率も70%以上と高い。

1971年春のダイヤ改正までは蒸気機関車が走っていた。私が住んでた広島市戸坂(へさか)町も通っており、町内でも駅は遠かったのであまり乗ることはなかったが、それでも蒸気機関車で戸坂と矢賀の間の中山トンネルを蒸気機関車で抜ける辛さは覚えてる。SLと云うとなんか懐かしくて復活して欲しいと云うイメージが強いが、現実は厳しかったぜ。

芸備線のSL運行は1971年の春で終わったが、終わると知って写真撮りに行ったわね。70年の9月に撮った写真が残るが(下の写真1)、C58だったんだ(下の写真2)。C58形蒸気機関車は1938年(昭和13年)から戦後の1947年にかけて431両が製造された機関車。1973年まで運用されていた。

現在は岩手盛岡と秩父鉄道に動態保存されている車両がある他、数多くの車両が静態保存されている。京都の鉄道博物館の扇形車庫には1938年に製造された1号機が静態保存されている。

下深川駅は1915年の芸備鉄道開業時に開業した駅。1937年に国有鉄道芸備線の駅となり、1987年の国鉄分割民営化によりJR西の駅となる。掘割の底に島式ホーム1面2線を持つ行違い可能な地上駅で、現在の駅舎は1983年に建てらえたもの。

掘割の底に島式ホーム1面2線を持つ行き違い可能な地上駅。側線があり、SLみよし号運転時に折り返しの列車が入線したことがある。1番・2番のりばとも両方向の入線・発車に対応しているが、基本的に三次方面は1番のりば、広島行きは2番のりばを使用している。

駅名はかつてはこの辺りが下深川村だったことから来ている。芸備線には広島に近い方から下深川、中深川、上深川の3駅が並んでおり、1889年(明治22年)の町村制施行まではそれぞれ下深川村、中深川村、上深川村だった。

下深川村と中深川村は合併して深川村となり、上深川村は狩留家村、小河原村と合併して旧村名を継承した狩小川村となる。その後、1955年にこの両村と落合村、口田村が合併し、高陽町となった。

深川と云う名の由来ははっきりとはしていないが、高陽町史によると平安時代の1085年に三田郷として諸木村・深洲村・小田村の名があり、この深洲村が深川村に通じるとしている。

さらに1060年に三田郷深波村表の表記があり、1070年にも三田郷深波村字深波の表記があり、これはおそらく「ふかわ」と呼んだと推測されている。さらにその後に安芸国北庄深河と云う地名もあり、「深波」や「深河」が時代の変遷で、「深川」と変わったと思われる。

現在は広島市安佐北区だが、1973年に広島市に編入されるまでは高陽町だった。編入された時点で住所からは「高陽」の名前は消えてしまったが、高陽ニュータウンなどの大規模団地の名前や高陽高校や高陽東高校など、高陽〇〇(もしくは〇〇高陽)と名が付く施設も多く、その時代に住んでた私らだけでなく今の一帯は高陽町と呼ばれることが多い。

1955年に安佐郡落合村・狩小川村・口田村・深川村が対等合併して成立。1973年の広島市編入直前の人口は約1.3万人、面積は約51.5平方kmだった。

町名決定の経緯は不明だが、めでたい意味の言葉をそのまま使ったり、良い意味の言葉から創作されたりした瑞祥地名で、歴史的な裏付けはない。高陽氏は上古中国神話上の帝王の名前。

安佐北区は1980年の広島市の政令指定都市移行と同時に設置された区。旧安佐郡北部の安佐町、可部町、高陽町と旧高田郡の白木町から成る。旧安佐郡北部と云うことで安佐北区と命名された。

ちなみに安佐だが、1898年(明治31年)の郡制の施行により、高宮郡・沼田郡の区域をもって発足したのだが、高宮郡がもともと安北郡、沼田郡がもともと佐東郡と呼ばれたことに由来している。さらに云えば安北郡は安芸の北部(現在の府中町広島市温品・中山・戸坂が安南郡でそれ以北が安北郡)を意味し、佐東郡は佐伯部の東部を意味する(現西区己斐以西が佐西郡で以東が佐東郡)。

人口は13万人強で、広島市の8区で3番目に多い。2000年には15.5万人を越えたが、その後は広島市の中でも高齢化が進む地域となり、近年は人口が微減している。

面積は約355平方kmで、8区の中で一番広く、広島市の総面積の約40%を占める。2005年に湯来町が佐伯区に編入される前までは、広島市の総面積の約半分を占めていた。また、全国の政令指定都市の行政区としても静岡市葵区、浜松市天竜区、札幌市南区、岡山市北区に次いで5番目に広い。

俳優の戸田菜穂(74年生れ)は可部小学校、可部中学校、安古市高校卒業。Perfumeのあ~ちゃん(89年早生れ)は鈴張小学校、清和中学校を卒業。

サッカー元日本代表の森重真人(87年生れ)は小4の時に三篠から口田に移り、口田小学校、口田中学校を卒業して皆実高校に進んだ。昨年(2024年)サンフレッチェに戻った川辺駿(95年生れ)は落合中学校卒業でサンフレッチェユース。

下深川7時19分発の各駅停車で広島へ。7時42分着。


7時52分発の岩国行に乗り換え(下の写真3)、小倉へ向かうが続く

  • 写真1 芸備線を走るSL(1970年9月)

    写真1 芸備線を走るSL(1970年9月)

  • 写真2 芸備線を走るC58 313(1970年9月)

    写真2 芸備線を走るC58 313(1970年9月)

  • 写真3 広島駅7時52分発岩国行電車

    写真3 広島駅7時52分発岩国行電車

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