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2023年4月7日(金)午後の2時半過ぎ、三原駅に到着。1894年(明治27年)に山陽鉄道が旧三原駅だった糸崎から広島まで延伸された時に、2代目の三原駅として開業した駅。これに伴い旧三原駅は糸崎になった。<br /><br />1930年(昭和5年)に呉線が須波駅まで開通し分岐駅となる。1975年に山陽新幹線が博多まで延伸され、新幹線駅が開業。1987年の国鉄分割民営化により、JR西日本の駅となる。<br /><br />在来線は島式ホーム2面4線、新幹線は相対式ホーム2面2線を持つ高架駅。在来線が高架化されたのは1991年。改札口は1階にある在来線改札口1ヶ所のみで、新幹線専用の改札口は設置されておらず、新幹線を利用する際は乗換改札口を通る必要がある。<br /><br />三原市の中心駅で、三原市役所や三原郵便局や三原港フェリーターミナルにも近い。三原市は広島県の瀬戸内海沿岸の中東部に位置する市で、広島県東部の福山市を中心都市として岡山県西部から広島県東部、愛媛県の一部地域に及ぶ福山都市圏の一部。備後都市圏とも呼ばれるが、岡山県西部は旧備中国で、三原市西部は旧安芸国。<br /><br />人口は約8万5千人で、広島県の23市町中7番目に多い。面積470平方km強は9番目の広さ。東広島市の賀茂台地を源とする沼田川が西から東に流れ、その河口の埋立地が市の中心部になっている。<br /><br />この地域では縄文から古墳時代までの遺跡が発掘されており、古くから人々の生活が営まれていたと考えらる。平安時代には楽音寺など歴史的遺産が建造された他、穀倉地として荘園が数多く経営された。<br /><br />瀬戸内海のほぼ中央に位置する静穏な水域を有する良港を持ち、古来から近畿と九州を結び四国と連絡する海上交通の要衝として発展するとともに、旧山陽道沿いの宿場として繁栄するなど山陽道の要地としての役割を担って来た。<br /><br />鎌倉時代から戦国時代にかけては、毛利元就の三男の小早川氏が台頭し、三原城を築城。江戸時代には瀬戸内海の交通を掌握する軍港として、また広島藩の支城の城下町として繁栄した。<br /><br />明治以降は沿岸部に繊維や重工場などが立地され、近代工業都市として発展する一方、本郷町、久井町、大和町では米作が盛んになる。本郷町、久井町は旧山陽道沿いの宿場ともなり、各地を結ぶ交通の要所としても発展した。明治から大正にかけて鉄道などの整備が進み、人口も増加した。<br /><br />三原の名は、市街地の後背にそびえる桜山などの谷間から流れ出した湧原、駒ヶ原、小西原の3つの川の流れ出たところに出来た平地であることから呼ばれるようになったと云われる。<br /><br />1889年(明治22年)の町村制施行により三原町が発足し、1936年(昭和11年)に糸崎町、山中村、西野村、田野浦村、須波村と合併して三原市が誕生。戦後、1951年から1956年までの間に、周辺の深田村の一部、八幡村、長谷村、沼田東村、沼田西村、小泉村、高坂村、幸崎町、鷺浦村を編入する。<br /><br />2005年の平成の大合併で、旧・三原市と本郷町、久井町、大和町が対等合併し現在の三原市(2代目)が誕生。これにより旧本郷町の広島空港(開港時は新広島空港)は三原市内の空港となった。<br /><br />今回初めて三原城址を訪ねるが、さほど有名な観光地はなく、私も三原市の観光するのは多分初めて。三原駅は何度も乗換駅としては使っているが、駅を降りるのは初めて。<br /><br />三原に関連する著名人もさほど多くない。私が分かる人では、プロ野球のマサカリ投法で有名な村田兆治(49年生れ、22年没)は旧本郷町の南方小学校、本郷中学校の出身(高校は 福山電波工(現近大付属福山高校))。<br /><br />1972年ミュンヘン五輪100m平泳ぎ金メダリストの田口信教(51年生れ)は愛媛県西条市出身だが、中学校は三原第三中学校で、尾道高校に進んだ。青学の駅伝監督として有名な原晋(67年生れ)は糸崎小学校、三原第一中学校から世羅町の駅伝の強豪世羅高校に進んだ。1984年、高3の全国高校駅伝では4区(国際会館前折り返しから寺町丸太町の8km余り)を走り、6人抜きで区間2位と健闘し、総合2位に貢献した。<br /><br />野々村真の妻でタレントの鬼嫁のはしりの野々村(旧姓坂上)俊恵(64年早生れ)は須波小学校、三原第四中学校から緑ヶ丘女子商業高校(現如水館高校)に進んだが、在学中に上京し、堀越高校に編入した。<br /><br />「かもめの水兵さん」などを作詞した武内俊子(1905年生れ、45年病没)は市街地北西の浄念寺生れで、6歳で広島市に移った。駅の南口に生誕の地の説明板がある。<br /><br />改札口を出ると通路に三原城天守台跡の案内(下の写真1)。案内通り、改札口から右手奥に進むと天守台跡への階段(下の写真2)。福山城も福山駅のすぐ北にあり近いが、この三原駅は三原城本丸を横切っている。<br /><br />三原城は戦国時代の1567年頃に、毛利元就の三男の小早川隆景によって整備が始められたとされる。当初は沼田川河口に浮かぶ小島や中州をつないで砦を築き、水軍の拠点とした。三原城の原型を成したもので、三原要害とも呼ばれていたようだ。城としての完成は1582年頃。小島を繋ぐ海城が完成し、浮城とも呼ばれた。<br /><br />三原城の縄張りは梯郭式で、天主台を北側に頂いた本丸、その東・西・南の三方に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた台形状の城郭だった。ただし、天主台は江戸城天守台と同じくらい広かったが実際に天守が建築されたことはなかった。<br /><br />1894年(明治27年)に三原駅が建設された際に、城地は駅用地に使用され、また石垣も糸崎港建設の用材として大部分が撤去された。その後、東築出から馬ノ口の海側に国道2号が敷設されることになり、これにより海からも遠く離れることになった。1957年には天主台とその周りの内堀一帯が国の史跡に指定されている。<br /><br />1975年の山陽新幹線開業およびその後の三原駅高架化により、高架が本丸および天主台跡を貫いていることもあり、城地は寸断され、現在の姿になる。駅の北側の天守台とそれを取り巻く3方の濠とその周りは、2017年に三原城跡歴史公園として整備された。<br /><br />階段を上がってまずは天守台へ。落下盛んな桜がお迎えしてくれる(下の写真3)。3方向のお濠を見下ろす。なかなか高い。東側に建つ天拵園の碑は、明治に民間に払い下げられた時代があって、その時には料亭が作られて、その庭園が天拵園だったらしい。<br /><br />天守台を降りて、今度は濠の外を西からぐるっと回る。駅から西に歩くと濠を越えたところに隆景広場があり、中央に小早川隆景像、濠沿いに原爆死没者慰霊碑がある。隆景広場は1991年の在来線高架化完了に合わせて駅北口のロータリーとして整備された。<br /><br />小早川隆景像は尾道出身の彫刻家矢形勇の作で、1966年建立。原爆死没者慰霊碑は2003年に建立された。ちょうど黄梅が咲いていたが、小早川隆景の戒名の黄梅院に因んで植えられた。梅と云う字が入っているが、ジャスミンの仲間(下の写真4)。<br /><br />濠沿いには西国街道石列が並んでいる。土砂が濠に落ちるのを防ぐのと通行人の転落防止のために並べられたと考えられている。北西角に進むと武家屋敷の長屋門跡がある。2013年の発掘調査で見つかったもので、当時は西国街道沿いに建てられていたと思われる。西から東側に進むと後藤門石垣跡。街道に設けられていた門を推定復元したもの。<br /><br />天守台の石垣がよく見えるが、西側は小早川隆景の時代、東側は江戸初期の福島正則の時代に積まれたものと考えられている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.28763257189984265&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />三原城址観光を終えて、駅の正面とも云える南口へ出ると、やっさ踊り像(下の写真5)がある。やっさ踊りは小早川隆景により城が落成した際、城下の人が喜び踊り出したのが始まりとされ、「やっさ、やっさ」という囃子言葉からやっさ踊りと呼ばれるようになった。この像は1980年に造られたもので、元々は三原内港東公園に置かれていたのが2017年に駅前に移設された。<br /><br /><br />2時59分発の電車で広島に向かうが、続く

広島 三原城跡歴史公園(Mihara Castle Ruins Historical Park,Hiroshima,Japan)

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2023/04/07 - 2023/04/07

274位(同エリア338件中)

旅行記グループ 三原・広島

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月7日(金)午後の2時半過ぎ、三原駅に到着。1894年(明治27年)に山陽鉄道が旧三原駅だった糸崎から広島まで延伸された時に、2代目の三原駅として開業した駅。これに伴い旧三原駅は糸崎になった。

1930年(昭和5年)に呉線が須波駅まで開通し分岐駅となる。1975年に山陽新幹線が博多まで延伸され、新幹線駅が開業。1987年の国鉄分割民営化により、JR西日本の駅となる。

在来線は島式ホーム2面4線、新幹線は相対式ホーム2面2線を持つ高架駅。在来線が高架化されたのは1991年。改札口は1階にある在来線改札口1ヶ所のみで、新幹線専用の改札口は設置されておらず、新幹線を利用する際は乗換改札口を通る必要がある。

三原市の中心駅で、三原市役所や三原郵便局や三原港フェリーターミナルにも近い。三原市は広島県の瀬戸内海沿岸の中東部に位置する市で、広島県東部の福山市を中心都市として岡山県西部から広島県東部、愛媛県の一部地域に及ぶ福山都市圏の一部。備後都市圏とも呼ばれるが、岡山県西部は旧備中国で、三原市西部は旧安芸国。

人口は約8万5千人で、広島県の23市町中7番目に多い。面積470平方km強は9番目の広さ。東広島市の賀茂台地を源とする沼田川が西から東に流れ、その河口の埋立地が市の中心部になっている。

この地域では縄文から古墳時代までの遺跡が発掘されており、古くから人々の生活が営まれていたと考えらる。平安時代には楽音寺など歴史的遺産が建造された他、穀倉地として荘園が数多く経営された。

瀬戸内海のほぼ中央に位置する静穏な水域を有する良港を持ち、古来から近畿と九州を結び四国と連絡する海上交通の要衝として発展するとともに、旧山陽道沿いの宿場として繁栄するなど山陽道の要地としての役割を担って来た。

鎌倉時代から戦国時代にかけては、毛利元就の三男の小早川氏が台頭し、三原城を築城。江戸時代には瀬戸内海の交通を掌握する軍港として、また広島藩の支城の城下町として繁栄した。

明治以降は沿岸部に繊維や重工場などが立地され、近代工業都市として発展する一方、本郷町、久井町、大和町では米作が盛んになる。本郷町、久井町は旧山陽道沿いの宿場ともなり、各地を結ぶ交通の要所としても発展した。明治から大正にかけて鉄道などの整備が進み、人口も増加した。

三原の名は、市街地の後背にそびえる桜山などの谷間から流れ出した湧原、駒ヶ原、小西原の3つの川の流れ出たところに出来た平地であることから呼ばれるようになったと云われる。

1889年(明治22年)の町村制施行により三原町が発足し、1936年(昭和11年)に糸崎町、山中村、西野村、田野浦村、須波村と合併して三原市が誕生。戦後、1951年から1956年までの間に、周辺の深田村の一部、八幡村、長谷村、沼田東村、沼田西村、小泉村、高坂村、幸崎町、鷺浦村を編入する。

2005年の平成の大合併で、旧・三原市と本郷町、久井町、大和町が対等合併し現在の三原市(2代目)が誕生。これにより旧本郷町の広島空港(開港時は新広島空港)は三原市内の空港となった。

今回初めて三原城址を訪ねるが、さほど有名な観光地はなく、私も三原市の観光するのは多分初めて。三原駅は何度も乗換駅としては使っているが、駅を降りるのは初めて。

三原に関連する著名人もさほど多くない。私が分かる人では、プロ野球のマサカリ投法で有名な村田兆治(49年生れ、22年没)は旧本郷町の南方小学校、本郷中学校の出身(高校は 福山電波工(現近大付属福山高校))。

1972年ミュンヘン五輪100m平泳ぎ金メダリストの田口信教(51年生れ)は愛媛県西条市出身だが、中学校は三原第三中学校で、尾道高校に進んだ。青学の駅伝監督として有名な原晋(67年生れ)は糸崎小学校、三原第一中学校から世羅町の駅伝の強豪世羅高校に進んだ。1984年、高3の全国高校駅伝では4区(国際会館前折り返しから寺町丸太町の8km余り)を走り、6人抜きで区間2位と健闘し、総合2位に貢献した。

野々村真の妻でタレントの鬼嫁のはしりの野々村(旧姓坂上)俊恵(64年早生れ)は須波小学校、三原第四中学校から緑ヶ丘女子商業高校(現如水館高校)に進んだが、在学中に上京し、堀越高校に編入した。

「かもめの水兵さん」などを作詞した武内俊子(1905年生れ、45年病没)は市街地北西の浄念寺生れで、6歳で広島市に移った。駅の南口に生誕の地の説明板がある。

改札口を出ると通路に三原城天守台跡の案内(下の写真1)。案内通り、改札口から右手奥に進むと天守台跡への階段(下の写真2)。福山城も福山駅のすぐ北にあり近いが、この三原駅は三原城本丸を横切っている。

三原城は戦国時代の1567年頃に、毛利元就の三男の小早川隆景によって整備が始められたとされる。当初は沼田川河口に浮かぶ小島や中州をつないで砦を築き、水軍の拠点とした。三原城の原型を成したもので、三原要害とも呼ばれていたようだ。城としての完成は1582年頃。小島を繋ぐ海城が完成し、浮城とも呼ばれた。

三原城の縄張りは梯郭式で、天主台を北側に頂いた本丸、その東・西・南の三方に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた台形状の城郭だった。ただし、天主台は江戸城天守台と同じくらい広かったが実際に天守が建築されたことはなかった。

1894年(明治27年)に三原駅が建設された際に、城地は駅用地に使用され、また石垣も糸崎港建設の用材として大部分が撤去された。その後、東築出から馬ノ口の海側に国道2号が敷設されることになり、これにより海からも遠く離れることになった。1957年には天主台とその周りの内堀一帯が国の史跡に指定されている。

1975年の山陽新幹線開業およびその後の三原駅高架化により、高架が本丸および天主台跡を貫いていることもあり、城地は寸断され、現在の姿になる。駅の北側の天守台とそれを取り巻く3方の濠とその周りは、2017年に三原城跡歴史公園として整備された。

階段を上がってまずは天守台へ。落下盛んな桜がお迎えしてくれる(下の写真3)。3方向のお濠を見下ろす。なかなか高い。東側に建つ天拵園の碑は、明治に民間に払い下げられた時代があって、その時には料亭が作られて、その庭園が天拵園だったらしい。

天守台を降りて、今度は濠の外を西からぐるっと回る。駅から西に歩くと濠を越えたところに隆景広場があり、中央に小早川隆景像、濠沿いに原爆死没者慰霊碑がある。隆景広場は1991年の在来線高架化完了に合わせて駅北口のロータリーとして整備された。

小早川隆景像は尾道出身の彫刻家矢形勇の作で、1966年建立。原爆死没者慰霊碑は2003年に建立された。ちょうど黄梅が咲いていたが、小早川隆景の戒名の黄梅院に因んで植えられた。梅と云う字が入っているが、ジャスミンの仲間(下の写真4)。

濠沿いには西国街道石列が並んでいる。土砂が濠に落ちるのを防ぐのと通行人の転落防止のために並べられたと考えられている。北西角に進むと武家屋敷の長屋門跡がある。2013年の発掘調査で見つかったもので、当時は西国街道沿いに建てられていたと思われる。西から東側に進むと後藤門石垣跡。街道に設けられていた門を推定復元したもの。

天守台の石垣がよく見えるが、西側は小早川隆景の時代、東側は江戸初期の福島正則の時代に積まれたものと考えられている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.28763257189984265&type=1&l=223fe1adec

三原城址観光を終えて、駅の正面とも云える南口へ出ると、やっさ踊り像(下の写真5)がある。やっさ踊りは小早川隆景により城が落成した際、城下の人が喜び踊り出したのが始まりとされ、「やっさ、やっさ」という囃子言葉からやっさ踊りと呼ばれるようになった。この像は1980年に造られたもので、元々は三原内港東公園に置かれていたのが2017年に駅前に移設された。


2時59分発の電車で広島に向かうが、続く

  • 写真1 三原駅改札前通路

    写真1 三原駅改札前通路

  • 写真2 三原駅三原城天守台跡登り口

    写真2 三原駅三原城天守台跡登り口

  • 写真3 三原城址 天守台の桜

    写真3 三原城址 天守台の桜

  • 写真4 隆景広場の黄梅

    写真4 隆景広場の黄梅

  • 写真5 三原駅南口のやっさ踊り像

    写真5 三原駅南口のやっさ踊り像

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