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2023年4月7日(金)夕方5時、平和大通りの元安川に架かる平和大橋を渡る。平和大通りは、日本の道100選の一つであり、沿道の平和公園とともに都市景観100選に選ばれている。<br /><br />京橋川に架かる鶴見橋から太田川放水路に架かる新己斐橋まで広島市内を東西に横切る約4kmの道路。戦国時代後半から安土桃山時代の1500年代後半には、この通り付近が海岸線で、広島城が築かれて城下町が出来ると、埋め立てられて南に延びていった。<br /><br />戦前から防災道路として整備されていた道路で、戦後に本格的な整備が行われ、1965年に全通した。戦後に閣議決定された「戦災復興都市計画基本方針」で、計画された24路線の100m道路のうち、実現した3路線の一つ(他の2つは名古屋市の若宮大通と久屋大通)。<br /><br />中央部の基本片道2車線の外に、内側に歩道を持った緑地帯があり、その外側に副道があって、さらに歩道がある(下の写真1)。この全体の幅が100m。道路幅から100m道路と呼ばれる。私らもそう呼んでた。<br /><br />1951年に名称が公募され、平和大通りと命名された。ラテン(アルファベット)表記ではPeace Boulevard。フランス語語源で街路樹や側道などを備えた広い道路を表わすブールバールを使用しており、英語読み(ブールバード)はしてない。<br /><br />平和大橋は明治期から架けられていた新橋が原爆被災で落橋した後に、戦後の1952年に再架橋された橋で、この時に平和大通りに合わせて平和大橋となった。独特な形状をもつ欄干のデザインは、日系アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)によるもの(下の写真2)。北側に2019年に竣工した歩道橋がある。<br /><br />元安川は平和公園の北端で本川(旧太田川)から分流し、吉島新町と南千田西町の間で京橋川に合流する広島デルタの6河川のひとつ。3.3kmしかない。川の名は分岐点よりやや下流に架けられている、後ほど渡る元安橋に由来している。<br /><br />平和大橋を西に渡ると平和大通りから北の本川と元安川の間のデルタの先までは広島平和記念公園。普通は略して平和公園(平和記念公園とも)と呼ばれる。被爆前までは中島地区と呼ばれ、幕末から明治・大正にかけて市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街だった。<br /><br />戦後の1946年に中島公園として都市計画公園に指定され、1949年に制定された広島平和記念都市建設法に基づき行われた広島市主催のコンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」の約140件の応募案の中から1等に選ばれた丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳國の4名の案がベースとして採用された。1954年に広島平和記念公園として完成。公園としての範囲は12.21ha。<br /><br />市の中央を東西に走る予定の100m道路に垂直に交わる形で、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で結んでいる。日本の古社寺の伝統に由来する「個々の建築よりも、その配置がつくりだす環境の秩序」を重視したと云う。当初は現在の広島市中央公園や基町中層アパート群・市営基町高層アパートの周辺も平和公園として構想されていたが実現しなかった。<br /><br />毎年8月6日には平和記念式典が開催され、原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。私は参加したことないが、母や弟は合唱や演奏で行ってたような気がする。記念館前の平和大通りは毎年1月に開催される全国都道府県対抗男子駅伝のスタート・ゴール地点となっている。<br /><br />今回、ここに来たのは、長いこと広島に住んでて、この公園には何度も来てるし、もちろん記念館も行ってるが、観光と云う視点では一度も来たことがなかったので、そう云う観点で回ってみようと云うこと。一緒に回った友人は近所の生れで、ずっと広島にいるんだけど、彼も同じと云うことで、私の意図に賛同して一緒に回ることになった。誘った訳ではないんだけどね。<br /><br />まずは厳密には平和公園の範囲外になるようだが、まずは平和大通りの南側から。平和大橋の西詰の南側に広島市立高女原爆慰霊碑がある。この辺りの建物疎開作業に来ていて亡くなった、現在の舟入高校の前身の市立第一高等女学校(市女)の職員生徒551人の慰霊碑。当初は1946年に木碑の供養塔が建てられ、この碑は1948年に学内に建てられたが1957年に現在地に移された。<br /><br />そこから川沿いに少し下がると旧天神町南組慰霊碑。1973年に旧天神町南組の旧住民らが建設したもの。旧天神町は現在の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館辺りから平和大橋西詰を挟んで土谷総合病院辺りまでの元安川沿いの南北に長い町で、かつて現在の平和大橋の北側に架かっていた新橋付近を境に北組と南組に分かれていた。<br /><br />天神町の名は、広島築城の折に毛利氏が吉田から分霊して迎えた天神様を祀る天満宮を建立したことに由来し、江戸初期の寛永から承応年間(1624~1654年)頃までの間に天神町に改称されたと云われている。原爆の直撃を受け全壊全焼し、家にいた者や建物疎開作業などで外にいた者など全員が殺された。<br /><br />その近くには三角脚付形石灯籠。平和大通りには、平和の道しるべとなって平和の灯運動の輪を広げる機能を果たすことを期待して、広島信用金庫が1976年に広島市に33基の石灯籠を寄贈しているが、そのうちの1基で京都の桂離宮の三角雪見灯篭を模作している。<br /><br />西へ進むと平和公園の平和記念資料館本館の向かい側に平和の門(Les Portes de la Paix)が建つ。高さ9m、幅2.6m、奥行き1.6mのガラス製10基の門が75mに渡って並ぶ。ダンテの神曲の9つの地獄に因み、原子爆弾を10番目の地獄として、平和な未来への希望を表現している。<br /><br />鉄骨の枠組みを強化ガラスで覆った門で、足元の敷石には18種類の文字と49の言語で「平和」の文字が刻まれており、夜にはライトアップされ文字が白く浮かび上がる。フランス政府の後援により「平和の壁」プロジェクトを推進しているフランスの芸術家クララ・アルテール(Clara Halter)氏と建築家ジャン=ミシェル・ヴィルモット(Jean-Michel Wilmotte)氏が、被爆60周年となる2005年に世界平和を祈念して制作した。 <br /><br />平和の門のすぐ西にはハナミズキと「米国から日本の皆様への贈り物」の碑。「友好の木―ハナミズキ・イニシアチブ(The Friendship Blossoms - Dogwood Tree Initiative)」プロジェクトの一環として広島市へ送られた70本のハナミズキのうちの1本と、その記念碑。<br /><br />このプロジェクトは1912年(大正元年)に日本から米国に3000本の桜が寄贈されてから100周年を迎えたことを記念し、日米友好の象徴として2012年から2015年までに、米国から日本の主要な都市へ3000本のハナミズキが贈られた日米合同のプロジェクトで、植樹は2015年4月に当時のキャロライン・ケネディ(Caroline Kennedy)駐日米国大使と松井一實広島市長らにより行われた。<br /><br />その奥には春日形石灯籠。上述の33基の灯篭の一つで、奈良の春日大社の六角形の春日灯篭を模している。灯籠は平和公園前の交差点を西へ過ぎた先ももう1基ある。こちらは御室形石灯籠で、京都御室寺の六角形の灯篭を模したもの。春日灯篭と似ている。<br /><br />御室形石灯籠の西側に友好と平和の石燈籠があるが、これは別物で、米国オレゴン州ポートランド(Portland, Oregon)のポートランド日本庭園財団から寄贈されたもの。<br /><br />被爆75周年である2020年を記念して制作された「平和燈籠(友好と平和の石燈籠)」で、1954年に当時の横浜市長からポートランド市に贈られ、ポートランド日本庭園(Portland Japanese Garden)のシンボルとして長年にわたり多くの訪問者に親しまれている雪見燈籠のレプリカ。<br /><br />御室形石灯籠の東には友愛碑。日本損害保険協会慰霊碑で、日本損害保険協会加盟会社の原爆犠牲者89人の慰霊と平和への礎を祈念するため1965年に建立された。ブロンズ製の彫刻と万成石の台石からなり、彫刻の十字形は東西南北の人間が手をつないでいる姿を表し、平和を希求する全世界の人びとの愛と良心のつながりを表現している。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.29000882469555068&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />その先は西平和大橋。1952年に元安川に架かる平和大橋と対で架橋された橋で、こちらも欄干のデザインはイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)によるもの(下の写真3)。元々は1873年(明治6年)に架けられた新大橋という名の木橋が架けられた位置。この木橋は1919年(大正8年)の洪水で部分破損し、1922年(大正11年)に鉄筋コンクリート桁橋に架け替えられ、被爆にも耐えたが、その秋の増水で落橋した。<br /><br />橋が架かっているのは旧太田川(通称本川)。1965年に開削された太田川放水路が本流とされるまでは太田川の本流だった。現在は大芝水門から広島湾までの8kmの川。本川の通称は、元々は元安川分流点より下流の区間が古くは猫屋川と呼ばれていたのを、明治20年以降に太田川の本流の意から本川と称するようになった。旧太田川の全区間の通称として用いられるようになったのは太田川放水路の開削後。<br /><br /><br />平和大通りの北側、平和公園へ入るが、続く

広島 平和公園 平和大通り南(Hiroshima Peace Memorial Park,Hiroshima,Japan)

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2023/04/07 - 2023/04/07

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旅行記グループ 三原・広島

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月7日(金)夕方5時、平和大通りの元安川に架かる平和大橋を渡る。平和大通りは、日本の道100選の一つであり、沿道の平和公園とともに都市景観100選に選ばれている。

京橋川に架かる鶴見橋から太田川放水路に架かる新己斐橋まで広島市内を東西に横切る約4kmの道路。戦国時代後半から安土桃山時代の1500年代後半には、この通り付近が海岸線で、広島城が築かれて城下町が出来ると、埋め立てられて南に延びていった。

戦前から防災道路として整備されていた道路で、戦後に本格的な整備が行われ、1965年に全通した。戦後に閣議決定された「戦災復興都市計画基本方針」で、計画された24路線の100m道路のうち、実現した3路線の一つ(他の2つは名古屋市の若宮大通と久屋大通)。

中央部の基本片道2車線の外に、内側に歩道を持った緑地帯があり、その外側に副道があって、さらに歩道がある(下の写真1)。この全体の幅が100m。道路幅から100m道路と呼ばれる。私らもそう呼んでた。

1951年に名称が公募され、平和大通りと命名された。ラテン(アルファベット)表記ではPeace Boulevard。フランス語語源で街路樹や側道などを備えた広い道路を表わすブールバールを使用しており、英語読み(ブールバード)はしてない。

平和大橋は明治期から架けられていた新橋が原爆被災で落橋した後に、戦後の1952年に再架橋された橋で、この時に平和大通りに合わせて平和大橋となった。独特な形状をもつ欄干のデザインは、日系アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)によるもの(下の写真2)。北側に2019年に竣工した歩道橋がある。

元安川は平和公園の北端で本川(旧太田川)から分流し、吉島新町と南千田西町の間で京橋川に合流する広島デルタの6河川のひとつ。3.3kmしかない。川の名は分岐点よりやや下流に架けられている、後ほど渡る元安橋に由来している。

平和大橋を西に渡ると平和大通りから北の本川と元安川の間のデルタの先までは広島平和記念公園。普通は略して平和公園(平和記念公園とも)と呼ばれる。被爆前までは中島地区と呼ばれ、幕末から明治・大正にかけて市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街だった。

戦後の1946年に中島公園として都市計画公園に指定され、1949年に制定された広島平和記念都市建設法に基づき行われた広島市主催のコンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」の約140件の応募案の中から1等に選ばれた丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳國の4名の案がベースとして採用された。1954年に広島平和記念公園として完成。公園としての範囲は12.21ha。

市の中央を東西に走る予定の100m道路に垂直に交わる形で、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で結んでいる。日本の古社寺の伝統に由来する「個々の建築よりも、その配置がつくりだす環境の秩序」を重視したと云う。当初は現在の広島市中央公園や基町中層アパート群・市営基町高層アパートの周辺も平和公園として構想されていたが実現しなかった。

毎年8月6日には平和記念式典が開催され、原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。私は参加したことないが、母や弟は合唱や演奏で行ってたような気がする。記念館前の平和大通りは毎年1月に開催される全国都道府県対抗男子駅伝のスタート・ゴール地点となっている。

今回、ここに来たのは、長いこと広島に住んでて、この公園には何度も来てるし、もちろん記念館も行ってるが、観光と云う視点では一度も来たことがなかったので、そう云う観点で回ってみようと云うこと。一緒に回った友人は近所の生れで、ずっと広島にいるんだけど、彼も同じと云うことで、私の意図に賛同して一緒に回ることになった。誘った訳ではないんだけどね。

まずは厳密には平和公園の範囲外になるようだが、まずは平和大通りの南側から。平和大橋の西詰の南側に広島市立高女原爆慰霊碑がある。この辺りの建物疎開作業に来ていて亡くなった、現在の舟入高校の前身の市立第一高等女学校(市女)の職員生徒551人の慰霊碑。当初は1946年に木碑の供養塔が建てられ、この碑は1948年に学内に建てられたが1957年に現在地に移された。

そこから川沿いに少し下がると旧天神町南組慰霊碑。1973年に旧天神町南組の旧住民らが建設したもの。旧天神町は現在の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館辺りから平和大橋西詰を挟んで土谷総合病院辺りまでの元安川沿いの南北に長い町で、かつて現在の平和大橋の北側に架かっていた新橋付近を境に北組と南組に分かれていた。

天神町の名は、広島築城の折に毛利氏が吉田から分霊して迎えた天神様を祀る天満宮を建立したことに由来し、江戸初期の寛永から承応年間(1624~1654年)頃までの間に天神町に改称されたと云われている。原爆の直撃を受け全壊全焼し、家にいた者や建物疎開作業などで外にいた者など全員が殺された。

その近くには三角脚付形石灯籠。平和大通りには、平和の道しるべとなって平和の灯運動の輪を広げる機能を果たすことを期待して、広島信用金庫が1976年に広島市に33基の石灯籠を寄贈しているが、そのうちの1基で京都の桂離宮の三角雪見灯篭を模作している。

西へ進むと平和公園の平和記念資料館本館の向かい側に平和の門(Les Portes de la Paix)が建つ。高さ9m、幅2.6m、奥行き1.6mのガラス製10基の門が75mに渡って並ぶ。ダンテの神曲の9つの地獄に因み、原子爆弾を10番目の地獄として、平和な未来への希望を表現している。

鉄骨の枠組みを強化ガラスで覆った門で、足元の敷石には18種類の文字と49の言語で「平和」の文字が刻まれており、夜にはライトアップされ文字が白く浮かび上がる。フランス政府の後援により「平和の壁」プロジェクトを推進しているフランスの芸術家クララ・アルテール(Clara Halter)氏と建築家ジャン=ミシェル・ヴィルモット(Jean-Michel Wilmotte)氏が、被爆60周年となる2005年に世界平和を祈念して制作した。

平和の門のすぐ西にはハナミズキと「米国から日本の皆様への贈り物」の碑。「友好の木―ハナミズキ・イニシアチブ(The Friendship Blossoms - Dogwood Tree Initiative)」プロジェクトの一環として広島市へ送られた70本のハナミズキのうちの1本と、その記念碑。

このプロジェクトは1912年(大正元年)に日本から米国に3000本の桜が寄贈されてから100周年を迎えたことを記念し、日米友好の象徴として2012年から2015年までに、米国から日本の主要な都市へ3000本のハナミズキが贈られた日米合同のプロジェクトで、植樹は2015年4月に当時のキャロライン・ケネディ(Caroline Kennedy)駐日米国大使と松井一實広島市長らにより行われた。

その奥には春日形石灯籠。上述の33基の灯篭の一つで、奈良の春日大社の六角形の春日灯篭を模している。灯籠は平和公園前の交差点を西へ過ぎた先ももう1基ある。こちらは御室形石灯籠で、京都御室寺の六角形の灯篭を模したもの。春日灯篭と似ている。

御室形石灯籠の西側に友好と平和の石燈籠があるが、これは別物で、米国オレゴン州ポートランド(Portland, Oregon)のポートランド日本庭園財団から寄贈されたもの。

被爆75周年である2020年を記念して制作された「平和燈籠(友好と平和の石燈籠)」で、1954年に当時の横浜市長からポートランド市に贈られ、ポートランド日本庭園(Portland Japanese Garden)のシンボルとして長年にわたり多くの訪問者に親しまれている雪見燈籠のレプリカ。

御室形石灯籠の東には友愛碑。日本損害保険協会慰霊碑で、日本損害保険協会加盟会社の原爆犠牲者89人の慰霊と平和への礎を祈念するため1965年に建立された。ブロンズ製の彫刻と万成石の台石からなり、彫刻の十字形は東西南北の人間が手をつないでいる姿を表し、平和を希求する全世界の人びとの愛と良心のつながりを表現している。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.29000882469555068&type=1&l=223fe1adec

その先は西平和大橋。1952年に元安川に架かる平和大橋と対で架橋された橋で、こちらも欄干のデザインはイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)によるもの(下の写真3)。元々は1873年(明治6年)に架けられた新大橋という名の木橋が架けられた位置。この木橋は1919年(大正8年)の洪水で部分破損し、1922年(大正11年)に鉄筋コンクリート桁橋に架け替えられ、被爆にも耐えたが、その秋の増水で落橋した。

橋が架かっているのは旧太田川(通称本川)。1965年に開削された太田川放水路が本流とされるまでは太田川の本流だった。現在は大芝水門から広島湾までの8kmの川。本川の通称は、元々は元安川分流点より下流の区間が古くは猫屋川と呼ばれていたのを、明治20年以降に太田川の本流の意から本川と称するようになった。旧太田川の全区間の通称として用いられるようになったのは太田川放水路の開削後。


平和大通りの北側、平和公園へ入るが、続く

  • 写真1 平和大通り

    写真1 平和大通り

  • 写真2 平和大橋

    写真2 平和大橋

  • 写真3 西平和大橋

    写真3 西平和大橋

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